月誓歌

有須

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修道女、星に祈る

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 地震だと思った。
 ドゴンと足元が揺れ、とっさにティーナを抱きしめる手に力がこもった。
 窓ガラスがビリビリと音を立てて振動している。
 揺れ続ける室内で、安定しない軽いもの……ティーセットや陛下から頂いた花々などが動いたり、倒れたりしたが、この程度ならたいした被害にはなるまいと誰もが思っていた。
 ハーデス地方は地震が多い。
 小さな揺れはしょっちゅうだし、棚の飾りが倒れる程度のものも年に数度はあるので、この地に長く住んでいると慣れてくる。
 しかし、いつまでたっても収まらない振動に、普段から慣れているからこそ、何かがおかしいとすぐにわかった。
 バリン!! と大きな音がして、窓ガラスが割れた。
「御方さま!」
 そこから先の事は、時系列順に思い出すのも難しい。
 テトラが飛び散るガラスの破片からメイラを守ろうと手を広げる。
 吹き込む冬の寒風。
 ぽっかりと開いた窓の外には、真夜中の漆黒の闇。
 そこに何かが居た。
 人間ではない。赤い目をした巨大な生き物だ。
 ピリッと頬が痛んだ。
 すぐに痛みは去ったが、同時に目を開けていられないほどの突風が部屋中を襲った。
「テトラ!」
 男性騎士としては小柄な彼の身体が壁際まで吹き飛んだが、成すすべもなかった。
 グワンッと、破壊音なのか唸り声なのか分からない音と共に、巨大な顔が窓から侵入してきた。
 とっさに、腕の中で凍り付いているティーナを脇に突き飛ばした。
 至近距離にまで迫る猛々しい牙。
 生臭い息を感じて、今更ながらにソレが、翼竜よりもはるかに巨大な竜種だと知った。
 ああ、死ぬのか。
 どうしてこんなことになっているのか、明確な理解などしていなかったが、メイラは確実に訪れるであろう死を垣間見た。
 大きく開いた口の中は、赤黒くデコボコしている。そこからダラリと涎が垂れ絨毯に落ちるのが、妙にゆっくりと見てとれた。
―――陛下
 今にもあの禍々しく巨大な牙に噛み裂かれ、痛みを感じる間もなくこの世を去るのだろう。
 そう悟った瞬間、すがるように思い浮かべたのは、朱金色の髪をした夫の事だった。
―――ああ、陛下。お約束を守れず、申し訳ございません。
 必ず無事に戻ると誓った。すぐにまた会えるとも言った。それなのに……
「下がれ蜥蜴!」
 不意に、視界の端から銀色の何かが駆け寄ってきた。
 ぐいっと肩を引かれて、覚えのあるやわらかいものに背中が当たった。
 抱き込まれたのは、マローの腕の中。
 長い剣を振りかぶっているのは、ドレス姿の銀髪のルシエラだ。
 巨大竜にはつまようじ程度の大きさにすぎないだろうその剣は、しかし躊躇なくそのもっとも柔らかであろう眼球部分につきたてられた。
 グオオオオオオオオン!!
 地鳴りのような、絶叫のような大音声にぎゅっと耳を塞ぐ。
 青い魔法陣が絨毯の上に展開され、暴れようとした竜の首をその場で拘束した。
 いったい誰がと目を巡らせると、真っ青な顔をしたリオネル卿だ。
 その傍らでは父が、魔道具と思われるものを片手に孫の肩に手を置いている。
「退却!」
 マローの端的な命令にあわせ、真っ先にその場から下げられたのはメイラだった。
 さすがの彼女たちも、巨大な竜種を相手にするのは避けるようだ。
 ルシエラを含め全員がその部屋から退去するまで、リオネル卿の魔法陣はなんとかもった。
 しかしそれも長い間ではなく、廊下をそれほど進まぬうちに、バキバキと城壁が壊れる音が聞こえはじめた。
 暴れまわる竜の巨躯が、頑強なはずの城を破壊しているのだ。
 マローの肩越しに壊れていく様子が見てとれるほど、竜種の破壊力は圧倒的だった。
 メイラはマローの腕に抱きかかえられ、ものすごいスピードで階下に向かっていた。
 寸前までは、部屋で休もうと思っていたのに。
 長い一日にうんざりし、早くベッドに入りたいと考えていたのに。
 ……どうしてこんなことになっているのだろう。
「舌を噛まないでください!」
 マローの、珍しく焦った口調と同時に、ひゅっと鳩尾が縮み、落下する。下っていた階段が落ちたのだ。
 しかし幸いにも半壊状態で、マローたちは問題なく落下に耐える。
 彼女が再び走り出したので細めに目を開けると、びゅうと冷たい風が頬を打ち、ぼっかりと目前の壁がなくなっているのがわかった。
 かなり階段を降りた気でいたが、それでもまだ城下町が遥か眼下に見てとれる。
 あまりにも非現実的なその情景に愕然としていると、普通の使用人の服装をした見慣れない何者かが進行方向に現れた。
 敵ではないとわかったのは、彼らが抜身の剣を手にこちらに背中を向けているからだ。
 彼らの剣戟の音が聞こえてきて初めて、人間の襲撃者もいることに気づいた。
 顔の下半分を黒い布で隠したその集団は、崩れた廊下の唯一進める方角を塞いでいた。
 行く手を遮られたので、マローたちはその場で足を止めた。
 幾重にもメイラを取り囲み、油断なく剣を構える後宮近衛たち。
 リゼルの郊外で敵に囲まれた時も思ったが、こんなに危うい状況に陥っているにもかかわらず、彼女たちはものすごく冷静だった。
 目前には襲撃者、背後から迫る、巨大な竜。
 焦りが生じて当然なのに、その場にあるのは冷たい沈黙と落ち着き払った緊迫感だけだ。
 メイラは自身の荒い呼吸が空気を乱すのを怖れ、無意識のうちに呼吸を止めていた。
 そっと、メイラを抱き上げたマローの腕が、安心させるように背中を撫でる。
 冷たい冬の風が薄いドレスの裾をはためかせ、そのパタパタという音にようやく呼吸を再開させた。
 息を吸い込むと、冷気で肺まで凍り付きそうだった。
 吐く息は真っ白で、気温がかなり下がっていることがわかる。
 頭上で、ギュオオウ! ギュオオウ!と竜の叫ぶ声が聞こえた。
 それは、先ほどまでより少し遠くなっているような気がした。
 襲撃者の頭目と思われる男が、半壊状態の天井に視線を向けて、チッと舌打ちする。
 そしてその直後、双方は再び正面からぶつかった。
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