月誓歌

有須

文字の大きさ
161 / 207
修道女、運命を選択する

5

しおりを挟む
 向き合っていたのはほんの数十秒だったと思う。
 しかし心臓は喉から飛び出してきそうだし、足元が恐怖で崩れ落ちそうだし、とにかくメイラにとっては永遠にも感じられる時間だった。
 その緊張が遮られたのは、ひんやりとした手が顎から離れ、黒衣の神職の視線が脇へとそれたからだ。
 彼が何に反応したのか分からなかったし、とっさに何が起こったのかも不明だった。
 気づいた時には、ぐいと足元から攫われて、錆びた匂いのする何かにその場所から遠ざけられていた。
「……思っていたより早いね」
 黒衣の神職の視線が再びメイラに戻ってきたが、先ほどよりずっと距離が遠く、そう感じた瞬間にもなおその距離は開いていく。
「それはどうも」
 メイラは、背後から聞こえてくる聞き覚えのある男の声に、強張っていた身体から力を抜いた。
 視界の端で見えている限りだが、今回のユリウスは冒険者風の服装をしていた。旅人用のマントを羽織っていて、そこから鼻が曲がりそうな血の臭いが漂ってくる。
 怪我をしているのか? 心配は心配だったが、今それを正せる雰囲気ではない。
 大柄な男が、一段高い歩道から飛び降りてきて、黒衣の神職に切りかかった。
 さらりとそれを避けた神職は、やはり聖職者というよりも戦うことを知っている人間なのだろう。寸鉄帯びている風ではないが、さして身構える様子もなく冷静に攻撃をかわしていく。
 ざっざっと聞こえるのは、飛び降りてきた男が地面を蹴る音だ。
 その男は黒髪で、こちらもメイラには見覚えがあった。サッハートの街で、マローとともに行動を共にしたひとだ。
「ダ、ダン!?」
 目を凝らして確かめようとしたのだが、ユリウスはその場から離れようとしていて、すぐに顔の判別ができない距離になった。
 明らかに、メイラたちから気を逸らせるための陽動であり、逃亡の時間を稼ぐためにあの恐ろしい神職の相手を引き受けてくれたのだろう。
「大丈夫、隊長は強いから心配しないでいいですよ」
 運ばれながら、メイラは改めてユリウスの顔を見上げた。
「……っ」
 生臭のはマントだけではなく、ユリウスの顔面を斜めに切り裂いた刃物傷から滴る鮮血の臭いだった。額の上の方から切られているらしく、顔面は血まみれで目は半分しか見えなかったが、ちらりとメイラを見下ろす表情はこちらを安心させるためか笑っている。
「ちょーっと失敗しました。大丈夫、ポーションあるので落ち着いたら飲みます」
 気づけば、音もなくユリウスに伴走する十数人の男たち。特徴のあまりない彼らは、かつてマローが犬と呼んでいた影者たちだろう。
 メイラは、己の為に誰かが傷ついていることに足元が崩れていくほどの恐怖を覚えたが、意地でそれを飲み込んだ。
 この恐怖は、実際に命をかけてくれている彼らの前で見せてはいけないものだ。
「お迎えが遅くなってすいません。もう少しご辛抱くださいね」
 血まみれなのに、ユリウスが浮かべる表情は笑顔だ。少し揶揄うような、目じりを垂れさせる独特の笑み。メイラを不安がらせないように、あえて浮かべているに違いない。
 しばらく走っていると、途中で何人かの脱落者が出た。
 素人のメイラには感知できないことだが、おそらくは追手を退ける為だろう。
 運ばれる揺れに舌を噛まないよう奥歯を噛み締め、彼らの無事を祈る。
―――どうか、神よ。ご覧になって居るのなら、あなた様の使徒から彼らをお救い下さい。
 そうすることしかできない自身の不甲斐なさに、忸怩たる思いをしながらも、改めてこんなことになってしまった元凶に怒りが抑えきれない。
 祖父だと名乗っておきながら。さも親身な顔をしておきながら。
 教皇猊下が直属の異端審議官の行動を制御できないはずはなく、つまりこの一連のことはあの方も承知しているのだろう。
 裏切られたと感じるのは、少なからず信じる気持ちがあったからだ。
 父に、気を許すなと忠告されていたのに。
 祖父などと、何か思惑があっての虚言に違いないと、最初に思ったはずなのに。
 メイラがきちんと対応していれば、避けられたかもしれない状況だった。
 素直に従い中央神殿に行くと言っていれば。あるいは行けないと即答していれば。
 中途半端に迷っていたから、神殿側はメイラの身を確保できると判断したのだろうし、護衛はその対処に後手に回ってしまったのだろう。
 ユリウスの出血はひどく、みるみる間にメイラのマントを汚していく。
 周囲の影者たちも、ひとりまたひとりと数を減らしていく。
 目を逸らしてはならない。怯えてもならない。
 これはまさしく、メイラの罪だ。
 しばらくして、走る速度はそのままに、ユリウスは裏路地の角を曲がり、大きく引き戸を開かれた古びた家屋の中に飛び込んだ。
 メイラの目には、ユリウスと全く同じ背格好の男が、大きな荷物を抱えてその先の角を曲がっていくのが見えた。
 一瞬後には真っ暗闇の納屋の片隅に押しやられ、上から覆いかぶさられる。
 更に近くなった血の臭いが生々しくて、暗くて見えないだろうと泣きそうに顔をゆがめてしまった。
「しー」
 ひくり、と嗚咽が零れてしまった口を、手でふさがれる。
「大丈夫、ほんの少しの間だけですから我慢してください」
 耳元で囁かれる声は、ありえないほどに近い。
 思い出すのは、誘拐された先の地下での出来事。あの時も、メイラをこうやって押し倒したのはこの男だ。
 掛かっているのが己の命だけではないことが、その時以上に恐ろしかった。
 ぼたりぼたりと、滴る血が石床の上に落ちる音がやけに大きく聞こえる。
 頭部の怪我は出血が多いと聞くが、こんなに血が出ていて大丈夫なのだろうか。
 出血を止めるために傷口をおさえるにしても、メイラの両手はがっしりとユリウスの腕に阻まれて動かせないし、ユリウスもぴくりとも動こうとしない。
 沈黙の中に、風の音のような、足音のようなものが聞こえてくる。
 メイラはきゅっと目を閉じて、乱れそうになる呼気を内心で数字を数えながら抑えた。
しおりを挟む
感想 94

あなたにおすすめの小説

【完結】ずっと、ずっとあなたを愛していました 〜後悔も、懺悔も今更いりません〜

高瀬船
恋愛
リスティアナ・メイブルムには二歳年上の婚約者が居る。 婚約者は、国の王太子で穏やかで優しく、婚約は王命ではあったが仲睦まじく関係を築けていた。 それなのに、突然ある日婚約者である王太子からは土下座をされ、婚約を解消して欲しいと願われる。 何故、そんな事に。 優しく微笑むその笑顔を向ける先は確かに自分に向けられていたのに。 婚約者として確かに大切にされていたのに何故こうなってしまったのか。 リスティアナの思いとは裏腹に、ある時期からリスティアナに悪い噂が立ち始める。 悪い噂が立つ事など何もしていないのにも関わらず、リスティアナは次第に学園で、夜会で、孤立していく。

裏切りの先にあるもの

マツユキ
恋愛
侯爵令嬢のセシルには幼い頃に王家が決めた婚約者がいた。 結婚式の日取りも決まり数か月後の挙式を楽しみにしていたセシル。ある日姉の部屋を訪ねると婚約者であるはずの人が姉と口づけをかわしている所に遭遇する。傷つくセシルだったが新たな出会いがセシルを幸せへと導いていく。

【完結】20年後の真実

ゴールデンフィッシュメダル
恋愛
公爵令息のマリウスがが婚約者タチアナに婚約破棄を言い渡した。 マリウスは子爵令嬢のゾフィーとの恋に溺れ、婚約者を蔑ろにしていた。 それから20年。 マリウスはゾフィーと結婚し、タチアナは伯爵夫人となっていた。 そして、娘の恋愛を機にマリウスは婚約破棄騒動の真実を知る。 おじさんが昔を思い出しながらもだもだするだけのお話です。 全4話書き上げ済み。

愛された側妃と、愛されなかった正妃

編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。 夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。 連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。 正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。 ※カクヨムさんにも掲載中 ※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります ※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。

完結 辺境伯様に嫁いで半年、完全に忘れられているようです   

ヴァンドール
恋愛
実家でも忘れられた存在で 嫁いだ辺境伯様にも離れに追いやられ、それすら 忘れ去られて早、半年が過ぎました。

【完結】王妃を廃した、その後は……

かずきりり
恋愛
私にはもう何もない。何もかもなくなってしまった。 地位や名誉……権力でさえ。 否、最初からそんなものを欲していたわけではないのに……。 望んだものは、ただ一つ。 ――あの人からの愛。 ただ、それだけだったというのに……。 「ラウラ! お前を廃妃とする!」 国王陛下であるホセに、いきなり告げられた言葉。 隣には妹のパウラ。 お腹には子どもが居ると言う。 何一つ持たず王城から追い出された私は…… 静かな海へと身を沈める。 唯一愛したパウラを王妃の座に座らせたホセは…… そしてパウラは…… 最期に笑うのは……? それとも……救いは誰の手にもないのか *************************** こちらの作品はカクヨムにも掲載しています。

断る――――前にもそう言ったはずだ

鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」  結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。  周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。  けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。  他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。 (わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)  そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。  ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。  そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?

お嬢様はお亡くなりになりました。

豆狸
恋愛
「お嬢様は……十日前にお亡くなりになりました」 「な……なにを言っている?」

処理中です...