月誓歌

有須

文字の大きさ
162 / 207
修道女、運命を選択する

6

しおりを挟む
 のしかかってくる重みが、どんどん増えてきている気がする。
 近くを通り過ぎた足音が聞こえなくなってしまうと、折り重なるように身を潜めているユリウスの体温の低さが気になり始めた。
 とても静かだが、呼吸している音は聞こえる。しかし、メイラの口を塞ぐ彼の手は氷のように冷たい。出血の量が多すぎて、失神しているのではあるまいか。
 心配になって目だけを動かしてみるが、周囲の闇が深くて至近距離にいてさえ相手の輪郭程度しかわからなかった。
「……ユリウス?」
 吐息程度の小声で名前を呼ぶと、はっと息を飲む音がした。
「止血しないと」
 やはり、意識が遠かったのかもしれない。
「……」
 彼は軽く首を振って、もう一度「シ―ッ」と息を吐いた。
 しばらくそのままでいたが、やがて無言で顔だけ起こし、周囲の気配を探るようなそぶりを見せる。
 メイラにはただ深夜の静けさしか聞き取れないが、ユリウスには何か察知するものがあったらしい。
 もう一度メイラの上に身を伏せて、左手でマントを頭から被った。
 呼吸数回分ほどの後、カツカツカツと、石畳みを歩く硬い踵の靴の音がする。
 果たしてそれがあの黒衣の神職だったのか、その配下の者たちだったのか、はたして単なる通行人だったのかはわからない。
 しかし、狭くも血なまぐさい暗闇で小さくなっていると、恐怖は耐えがたいほどに膨らんでいく。
 いつ見つかるかと心底怯えていたので、最初、細かく震えているのが自分ではなく、己の顔に触れているユリウスの手だとは思いもしなかった。
「……ユ」
 名前を呼ぼうとした口を、もう一度強く塞がれる。
 やはりその手は氷のように冷たくて、カタカタと震えていた。
 メイラは出来るだけ音を立てないように身体の向きを変えて、同じマントにくるまっているユリウスに顔を近づけた。
  暗くてよく分からなかったが、素手で触れるとやはり出血がひどく、顔の半分以上をぬるりとしたものが覆っている。
 どこに怪我をしているのか分からなかったので、できるだけそっと、目があると思われる場所に触れてみた。
 びくびくと震える瞼は閉ざされていて、眼球自体は無事のようだが、はっはっと吐き出される息が細く小さい。
 メイラは己の口を塞いでいた手を握り、そっと揺すった。
「ユリウス、ねぇ、ユリウス……」
 可能な限りの小声で呼んでみるが、返事はない。
 失神どころか、死んでしまうのではないかと気が気ではなくて、身を潜めていなくてはいけないのは判っていたが、思いっきり強くその肩を押した。
 細身だが成人男性なのでそれなりの重量のある彼を、身体の上から退かせるには力が要った。
 なんとかその下から這い出ることはできたのだが、身を隠していた台車がガタリと大きな音を立てて動いてしまう。
 さすがに背筋に氷が落とされたように肝が冷えた。
 裏通りに面している引き戸は開けっ放しのままなので、覗き込まれるとすぐに見つかってしまうだろう。
 ドクドクドクと、周囲に聞こえるのではないかと思う程に鼓動が大きくなる。
 メイラは一度目を閉じて、深呼吸した。
 今何をするべきか、その優先順位を考えて、パニックに陥りそうな心を落ち着かせようとする。
 ここでメイラが恐怖に泣き叫んでも、追手を呼び寄せるだけだろう。そうなればきっと、ユリウスは助からない。
 まずは、目の前の今にも死んでしまいそうな男をなんとかしなければと、それだけを考えることにした。とても心が落ち着いたなどと言える状態ではなかったが、けが人の手当てならできる、と自身に言い聞かせる
 死んだようにぐったりと横たわるユリウスの様子をよく見ようと、四つん這いになって彼の顔を覗き込んだ。
 闇に慣れてきた目が、朧に彼の顔を浮き上がらせる。
 見れば見るほどに血まみれだった。医者でも治癒師でもないので本格的な治療はできないが、とりあえず出血を止めなければ。
 メイラは夜着の裾を両手で握った。
 ビリリと布が裂ける大きな音がして、一瞬ひやりと手が止まったが、耳を澄ませても誰かが近づいてくる様子はなかった。
 薄手の夜着の切れ端は、大量の血を吸えるものではない。しかし他よりは比較的清潔そうなので、問題の傷口を確かめるために、おおまかに顔の血を拭うのに使った。
 こぷこぷと未だ出血し続けているのは、髪の生え際からこめかみにかけて。かなり深い切り傷のように見える。
 子供が頭部や顔に怪我をした場合、まず最初にするのは圧迫止血だ。
 ユリウスの傷は、ちょっとした子供の怪我とは比較にならないほど範囲も広いし出血も多いが、今の彼女にできることはそれだけだった。
 とまれ、とまれと口の中で唱えながら必死で傷口を押さえる。
 あっという間に夜着の切れ端はぬるぬると濡れそぼってしまったので、その上からマローの軍用のマントを丸めて押し当てた。それでもなお両手は血まみれになり、ついには床に血だまりが広がり始める。
 どれぐらいそうしていただろう。
 焦りながらも必死に押さえた甲斐あって、徐々に出血量が減り始め、やがてメイラの肘から鮮血が滴り落ちなくなった。
「ユリウス?」
 もしかして、心臓が止まってしまったのではないか。
 出血がおさまったのはそれが理由かと青ざめたが、よくよく見ると、胸がかすかに上下している。
 メイラはほっと安堵の息を吐き、なおしばらく傷口の圧迫を続けた。
「そんなところに隠れていらしたのですね」
 心構えをする間もなく、唐突に投げかけられた言葉にひゅっと喉が鳴った。
 出血がおさまったことで緩みかけていた気持ちが、目に見えない何かで縫い付けられたかのようにその場で凍り付く。
「……ひどい血の臭いだ」
 コツ、コツ、コツと靴の音がした。
 近づいて来るのがわかっているのに、恐ろしくて顔を上げることが出来ない。
「贄に相応しい血まみれのお姿ですねぇ」
 そういってあざ笑うように鼻を鳴らしたのは、確かめるまでもなく、あの黒衣の神職だった。
 恐怖の中で考えるのは、意識のないユリウスからどうやって相手の気を逸らせるかだ。
 今のままだと、彼は死んでしまう。相手がユリウスを助けるほど親切だとは到底思えない。
 メイラはハッハッと深くは吸えない息を吐きながら、精一杯の勇気を振り絞った。それでも直視はできなかったが、真夜中の裏通りに面した入り口に、闇よりなお黒々とした人影が立っているのはわかった。
「そろそろお遊びも終わりにしましょうか」
 それはまるで、死神の宣告のように聞こえた。
「猊下も心配なさっておいでですよ」
 耳当たりの良い穏やかな声色。見えなくても伝わってくる、聖職者らしい笑顔。
 有無を言わせぬその雰囲気から、メイラの意思など聞くつもりもないのだとわかる。
 ゆっくりと、その顔があると思われるところまで視線を上げた。
 顔の細部がわかるほどの明るさはないが、彼の持つ底なしの闇が可視出来る状態でそこにあった。
 今、メイラになにができるのか。
 痺れたように恐怖で思考が凍りつく中、空回りしそうになる心の中で再びそのことを考える。
 確か彼はポーションを持っていると言っていなかったか?
「無駄な抵抗はなさらないほうがいい。貴女様に怪我をされると、猊下からお叱りを受けてしまう」
 刃物でも探していると思われたのだろう。その行動を止められる前に、手探りしていた指先に硬いものが触れた。
しおりを挟む
感想 94

あなたにおすすめの小説

【完結】ずっと、ずっとあなたを愛していました 〜後悔も、懺悔も今更いりません〜

高瀬船
恋愛
リスティアナ・メイブルムには二歳年上の婚約者が居る。 婚約者は、国の王太子で穏やかで優しく、婚約は王命ではあったが仲睦まじく関係を築けていた。 それなのに、突然ある日婚約者である王太子からは土下座をされ、婚約を解消して欲しいと願われる。 何故、そんな事に。 優しく微笑むその笑顔を向ける先は確かに自分に向けられていたのに。 婚約者として確かに大切にされていたのに何故こうなってしまったのか。 リスティアナの思いとは裏腹に、ある時期からリスティアナに悪い噂が立ち始める。 悪い噂が立つ事など何もしていないのにも関わらず、リスティアナは次第に学園で、夜会で、孤立していく。

【完結】20年後の真実

ゴールデンフィッシュメダル
恋愛
公爵令息のマリウスがが婚約者タチアナに婚約破棄を言い渡した。 マリウスは子爵令嬢のゾフィーとの恋に溺れ、婚約者を蔑ろにしていた。 それから20年。 マリウスはゾフィーと結婚し、タチアナは伯爵夫人となっていた。 そして、娘の恋愛を機にマリウスは婚約破棄騒動の真実を知る。 おじさんが昔を思い出しながらもだもだするだけのお話です。 全4話書き上げ済み。

愛された側妃と、愛されなかった正妃

編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。 夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。 連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。 正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。 ※カクヨムさんにも掲載中 ※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります ※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。

裏切りの先にあるもの

マツユキ
恋愛
侯爵令嬢のセシルには幼い頃に王家が決めた婚約者がいた。 結婚式の日取りも決まり数か月後の挙式を楽しみにしていたセシル。ある日姉の部屋を訪ねると婚約者であるはずの人が姉と口づけをかわしている所に遭遇する。傷つくセシルだったが新たな出会いがセシルを幸せへと導いていく。

完結 辺境伯様に嫁いで半年、完全に忘れられているようです   

ヴァンドール
恋愛
実家でも忘れられた存在で 嫁いだ辺境伯様にも離れに追いやられ、それすら 忘れ去られて早、半年が過ぎました。

断る――――前にもそう言ったはずだ

鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」  結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。  周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。  けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。  他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。 (わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)  そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。  ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。  そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?

もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?

冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。 オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。 だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。 その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・ 「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」 「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」

【完結】王妃を廃した、その後は……

かずきりり
恋愛
私にはもう何もない。何もかもなくなってしまった。 地位や名誉……権力でさえ。 否、最初からそんなものを欲していたわけではないのに……。 望んだものは、ただ一つ。 ――あの人からの愛。 ただ、それだけだったというのに……。 「ラウラ! お前を廃妃とする!」 国王陛下であるホセに、いきなり告げられた言葉。 隣には妹のパウラ。 お腹には子どもが居ると言う。 何一つ持たず王城から追い出された私は…… 静かな海へと身を沈める。 唯一愛したパウラを王妃の座に座らせたホセは…… そしてパウラは…… 最期に笑うのは……? それとも……救いは誰の手にもないのか *************************** こちらの作品はカクヨムにも掲載しています。

処理中です...