月誓歌

有須

文字の大きさ
163 / 207
修道女、運命を選択する

7

しおりを挟む
 触れた硬いものがアンプル瓶なのか、いやそもそもそれが回復ポーションなのかさえ確かめることはできなかった。
 視線は縫いついたように固定されていて、逸らせば襲い掛かられるのではと、肉食獣を前にした小動物のような恐怖に縛られていたのだ。
 顔の判別もできない暗がりだからこそ、よけいに恐ろしさが募った。
 メイラには、彼に対抗できるだけ力はない。しかも目の前には意識のないユリウスがいて、下手なことをすれば彼の命にもかかわりかねない。
 探り当てた小さな瓶を、可能な限りそっと、掌の内側に隠し持った。
 ユリウスに飲ませるにしても、傷口にかけるにしても、今は無理だ。
「……さあ、参りましょう」
 暗がりだが、スマートな仕草で手が差し出されたのがわかった。
「その男のことはご心配なく。丁重に扱わせていただきますよ」
 それは、人質という意味か?
 無言で顔を顰めると、「この寒空の下で放っておくと、死んでしまいますよ」と、メイラがもっとも恐れる台詞をさらりと落とす。
「こちらには腕の良い治癒師が何名か随行しておりますから、息さえあれば命を救い後遺症も残さず回復させることが出来ます」
 それは、明確にメイラに向けての圧力だった。
 つまり、いう事を聞くなら治癒師を手配するが、聞かないならユリウスを含め怪我人の回復に手は貸さないという意味なのだろう。
「……信用できません」
 メイラは努めて冷静な口調を心がけつつ、震える両手をぎゅっと胸の前で組んだ。
 頼みの綱は掌の間に隠し持った小さな瓶で、たったそれにしか縋れない、他にはどうすることもできない自身の不甲斐なさに涙が出そうになる。
 しかし、泣き伏してしまうわけにはいかないのだ。
「神の慈悲深き御心にそぐわぬことをなさっている方を、信用できるはずもありません」
 メイラはその場で背筋を伸ばし、ぴしゃりと言った。
「何と酷いことをおっしゃる」
 黒衣の神職は、大げさにのけ反って首を振った。
「罪深い行いを止めたいという、我らの切なる願いがご理解いただけないとは」
 表情が見えないだけに、その上っ面だけ真摯な彼の内心が透けて見える気がした。
 確かにこの男は神職なのかもしれない。しかし、人の命を軽く扱うその姿勢は、メイラとは到底相いれないものだ。
「戯言は結構です」
 できるならルシエラの、マローの、メイラを守ってくれていた者たちの無事を知りたい。
 彼女たちはどうしているだろう。この死神の手を持つ男により、帰らぬ者になってはいないだろうか。
「すべてを救えとは、わたくしも申しません。必要であるならば、犠牲もまた神の定めたもうた運命なのかもしれない。……ですが、あなたがそれを決める立場にあるとは思わない」
 大勢の命の為に少数を犠牲にすることは、時として必要なことなのかもしれない。しかし、望む道を作るために血を流すやり方は、神の使徒が取るべき手段ではない。
「あなたは真摯に頼めばよかったのです。わたくしの祈りが必要であるなら、ダリウス神にこの身を捧げよというなら、正直にすべてを話すべきだったのです」
 本当は、彼女が思っているよりも事態は切迫しているのかもしれない。メイラの知らない何かがあって、説明している暇もなかったのかもしれない。
 しかし、たとえそうだったとしても、彼らのやり方は間違っている。
「幾万の人々を救うためならば、わたくしは迷いながらも頷いたでしょう。夫との別離を受け入れ、この命を神の御前に捧げる事すら厭わなかったでしょう」
 メイラは神に祈る姿勢を取って、しっかりと黒衣の神職に視線を据えた。
 そうだ。御神はきっとメイラを見守ってくださっている。守るべき者を決してあきらめはしない。
「こんなふうに、容易く血を流す道を選択するあなた方を、今はもう信じることはできません」
 恐怖で委縮していた身体から、震えが消えた。外側は冬の冷気で氷のように冷たいが、心の芯に炎が灯る。
「わたくしの為に立ちふさがってくれた者たちを、あなたの正義の犠牲にするつもりはない」
 メイラは、中央神殿の権威の行使者に対して、明確に拒絶の意思を示した。
 それは、決別の言葉だった。
 彼女は自らの道が、彼らと共にあるものではないと決めたのだ。
「……それがお答えですか? 神の御意思の背き、われら中央神殿と敵対すると?」
 メイラのそんな決意を、黒衣の神職は鼻で笑った。
 もはや、侮蔑を隠そうともしていなかった。
「あなたごとき小娘に、神敵になる度胸があるとは思いませんでしたよ」
「神敵? わたくしが?」
 メイラは静かな目で黒衣の神職を見上げた。
「わたくしはあなた方についていくつもりはないと申し上げただけです。中央神殿に行かなくとも、御神にこの声を届けることはできます」
「……ほう?」
「ダン!!」
 確信があったわけではない。
 しかし、黒衣の神職のマントの留め具に反射する、ちかちかとかすかな光にすべてを託した。
 一定間隔で瞬くそのリズムは、かつて港町ハッサートで、短いながらも行動を共にした男たちが使っていた合図だ。
 ざっと音もなく複数の人間がその場に降ってわいた。
 メイラの目にそう映っただけで、実際はどこからか屋内に侵入していたのだろうが、瞬き一回分もしない間に彼女と黒衣の神職の間には複数の男たちが立ちふさがっていた。
 狭い物置小屋の人口密度が一気に増し、さすがに黒衣の神職も数歩後ずさる。
「……おやおや」
 その首筋に背後から短刀を突きつけたのは、彼よりもなお深い闇色を身にまとった男。
 スカーは容赦なく刃を振り抜こうとしたが、どうやってか、まるで手品のように黒衣の神職はその腕から逃れていた。
「私としたことが、魅力的な女性との会話に夢中になってしまいました」
 欠片もそんなことは思っていないだろうに、意味深に含み笑う。
「少々分が悪そうですね?」
「そう思うなら、お引き取りください」
 メイラは張り付いたように合わさった両手を解き、素早くアンプル瓶を薄明かりの中にかざした。緊急時暗闇でも判別できるように張られたラベルの色は、ぼんやりと青い。間違いなく回復ポーションだ。これで彼の命を救うことが出来る。
 周囲をマロー曰くの犬たちに囲まれた安堵もあったのだろう。メイラの双眸からほろりと大粒の涙が溢れ、頬を濡らした。
「これをユリウスに」
 一番近くに膝をついた男性に渡すと、何故かひどく驚いた表情をみせてからコクコクと首を上下させて受け取ってくれた。
 ユリウスの容態は気がかりだったが、まだここが安全ではないという事はわかっている。
 こちらをじっと見ている神職との距離は開いたが、彼が今の状況を畏れる様子などまるでなく、まだ何か手段を持っているのではないかと警戒するに十分だった。
 メイラは冷たい石の上に長時間ついていた膝を伸ばしながら、ゆっくりと立ち上がった。
 広がった血だまりは、跨ぐには広すぎて、今更ながらにユリウスの怪我の大きさに胸が痛む。
「あなたが、傍付きたちの命を楯に、思うがままにしようとしたことは忘れません」
 いつの間にか、メイラを取り囲む影者たちが数を増やし、十人以上が開け放たれた引き戸の向こうで剣を抜いているのが見えた。
 双方がぶつかればまた怪我人が出る事は確実で、そうなる前にお引き取り願おうと、強引に別れの挨拶を口にする。
「猊下に、御心に沿えず申し訳ございませんとお伝えください」
 できれば二度と、この男の顔は見たくない。
 しかし、ずぐにまた会うことになるのだろう。
 メイラは、慇懃無礼な礼をとり去っていく後姿を見送りながら、そうなる前に行動を起こさなければと強く思った。
しおりを挟む
感想 94

あなたにおすすめの小説

【完結】ずっと、ずっとあなたを愛していました 〜後悔も、懺悔も今更いりません〜

高瀬船
恋愛
リスティアナ・メイブルムには二歳年上の婚約者が居る。 婚約者は、国の王太子で穏やかで優しく、婚約は王命ではあったが仲睦まじく関係を築けていた。 それなのに、突然ある日婚約者である王太子からは土下座をされ、婚約を解消して欲しいと願われる。 何故、そんな事に。 優しく微笑むその笑顔を向ける先は確かに自分に向けられていたのに。 婚約者として確かに大切にされていたのに何故こうなってしまったのか。 リスティアナの思いとは裏腹に、ある時期からリスティアナに悪い噂が立ち始める。 悪い噂が立つ事など何もしていないのにも関わらず、リスティアナは次第に学園で、夜会で、孤立していく。

【完結】20年後の真実

ゴールデンフィッシュメダル
恋愛
公爵令息のマリウスがが婚約者タチアナに婚約破棄を言い渡した。 マリウスは子爵令嬢のゾフィーとの恋に溺れ、婚約者を蔑ろにしていた。 それから20年。 マリウスはゾフィーと結婚し、タチアナは伯爵夫人となっていた。 そして、娘の恋愛を機にマリウスは婚約破棄騒動の真実を知る。 おじさんが昔を思い出しながらもだもだするだけのお話です。 全4話書き上げ済み。

完結 辺境伯様に嫁いで半年、完全に忘れられているようです   

ヴァンドール
恋愛
実家でも忘れられた存在で 嫁いだ辺境伯様にも離れに追いやられ、それすら 忘れ去られて早、半年が過ぎました。

お嬢様はお亡くなりになりました。

豆狸
恋愛
「お嬢様は……十日前にお亡くなりになりました」 「な……なにを言っている?」

愛された側妃と、愛されなかった正妃

編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。 夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。 連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。 正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。 ※カクヨムさんにも掲載中 ※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります ※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。

冷徹公爵の誤解された花嫁

柴田はつみ
恋愛
片思いしていた冷徹公爵から求婚された令嬢。幸せの絶頂にあった彼女を打ち砕いたのは、舞踏会で耳にした「地味女…」という言葉だった。望まれぬ花嫁としての結婚に、彼女は一年だけ妻を務めた後、離縁する決意を固める。 冷たくも美しい公爵。誤解とすれ違いを繰り返す日々の中、令嬢は揺れる心を抑え込もうとするが――。 一年後、彼女が選ぶのは別れか、それとも永遠の契約か。

【完結】王妃を廃した、その後は……

かずきりり
恋愛
私にはもう何もない。何もかもなくなってしまった。 地位や名誉……権力でさえ。 否、最初からそんなものを欲していたわけではないのに……。 望んだものは、ただ一つ。 ――あの人からの愛。 ただ、それだけだったというのに……。 「ラウラ! お前を廃妃とする!」 国王陛下であるホセに、いきなり告げられた言葉。 隣には妹のパウラ。 お腹には子どもが居ると言う。 何一つ持たず王城から追い出された私は…… 静かな海へと身を沈める。 唯一愛したパウラを王妃の座に座らせたホセは…… そしてパウラは…… 最期に笑うのは……? それとも……救いは誰の手にもないのか *************************** こちらの作品はカクヨムにも掲載しています。

踏み台(王女)にも事情はある

mios
恋愛
戒律の厳しい修道院に王女が送られた。 聖女ビアンカに魔物をけしかけた罪で投獄され、処刑を免れた結果のことだ。 王女が居なくなって平和になった筈、なのだがそれから何故か原因不明の不調が蔓延し始めて……原因究明の為、王女の元婚約者が調査に乗り出した。

処理中です...