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修道女、悪夢に酔い現実に焦燥する
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船室に戻り、一息ついたところで、足元がゆっくりと傾いていくのに気づいた。
海軍の巨大軍艦ほどではないが、この船も商船として図体が大きい。船底に大量の商品を積めるようになっていて、もちろん悪い人たちにとっては垂涎の的なので、武装もかなりしっかりしている。
特徴的なのは、ぼってりとふくらんだ腹の部分だ。荷物を多く積むだけに、シャープな軍艦と比べれば見た目少し愚鈍な印象がする。
実際速度はそれほど出ないようだが、多少の荒波であれば小風が吹いた程度にしか感じない。つまりは船に乗っているのを忘れてしまう程揺れが少ないということなのだが、今メイラの足元はぐぐぐっと斜めに傾いできており、巨大商船が進路を変えようとしているのがわかる。
予定では、海流に乗ってまっすぐ南へ下りるという話だった。素人のメイラが口を挟んでも仕方ないのだが……
「……テトラ」
「はい、御方さま」
オレンジ色のワンピース姿のテトラが、念入りに出入り口にカギをかけさらにはドアの上と下の補助鍵も下ろす。
「いったい何が」
ドォォォン!!
ベッドに座った状態だったので、倒れずに済んだ。
それでも身体が浮くほどの衝撃で、壁に強く腕をぶつけてしまった。
ドォォォン!!
「……っ!!」
再び同じ衝撃があって、メイラはベッドにうつぶせになるようにしがみ付いた。
この、腹に響くような爆音は大砲の音だ。まさか攻撃を受けているのか?
「威嚇射撃でしょう。ご心配には及びません」
砲撃をしているのが商船側なのか、襲撃側なのか、それによって事態は全く違う。
メイラは全身からざあっと血の気が下がるのを感じた。
もしかして、追手なのかもしれない。メイラを捕まえるために、威嚇射撃をしてきているのかもしれない。
視界が真っ赤に染まった。あの悪夢が蘇ってきて、ぎゅっと喉が詰まる感覚に見舞われる。
ドォォォン!!
びくりと身体を震わせたメイラの背後から、すらりとした手が伸びてきた。
水仕事の為多少荒れてはいるが、きちんと手入れされた美しい手指だ。
細い指は形よく華奢に見えていたが、メイラの耳を塞ぐと意外と大きいのだとわかる。
なおも数回砲撃は続き、どれぐらいの時間がかかっただろう、やがて止んだ。
メイラを掛布ごと抱き込むようにしていたテトラが、身体を起こした。
その手はまだメイラの耳を塞いでおり、彼が油断していないのだとわかる。
「や、止んだわ」
「そうですね。撃退できたのでしょう」
本当に? 本当にそうなのだろうか。
たとえば船体に穴が開き、今にも浸水してくるかもしれない。追手がこの船に乗り込んできて、メイラを拘束するためにまた多数の人間を手に掛けるかもしれない。
「スカー、様子を」
テトラが声を掛けたのは、当たり前のようにメイラの足元にうずくまっている黒い男だ。
服装はそうでもないのに、ただ目と髪が黒いだけなのに、メイラだけではなく船員たちからも『あの黒い奴隷の男』と呼ばれている。
スカーの存在感はものすごく希薄で、時にいるのを忘れてしまう程だ。
今も、すっと立ち上がった彼に、そんなところに居たかと驚いてしまった。
じっと見下ろされて、必然的に視線が合って、その真っ黒の目がひどく気遣わし気だということに気づいた。
影のようにそばに居て、気にかけてくれる男の存在に、不安な面持ちを見せてはいけないと思いつつ、小さく頷いて返す。
「……スカーって魔法士なの?」
そう思ってしまったのは、瞬き一回しただけで、彼の姿がその場からかき消すようになくなったからだ。
「ああいう技量については、秘匿されるものが多くてよくわかりません。敵ならばと考えると恐ろしいですね」
メイラは耳から手を離したテトラを見上げた。
「正直な所、ルシエラの方針には疑問でしたが……伝説の暗殺者とて誓約にしばられればなにも出来ますまい」
メイラはぎょっとした。
その言葉の意味に慄くべきか、聞いた瞬間に感じた笑いを受け入れるべきか。
「で、でんせつの?」
横隔膜がひくりと痙攣する。
「はい。伝説の暗殺者なんだそうですよ」
テトラはフンと鼻を鳴らし、乾いた声で笑った。
「わ、笑い話では」
「笑ってやっていいと思います。自分で名乗っているわけではないようですが、かなり恥ずかしいですよね。業界での二つ名は『深淵の死神』というらしいです。爆笑です」
しんえんのしにがみ。
いや、笑ってはいけない。笑っては……
すっと、メイラの視界の外に黒い人影が『湧いた』。
二人からの視線を浴びて、スカーがその黒い頭をコテリと傾けた。
ぶっと、噴き出してしまった。
慌てて掛布で口周りを覆ったが、隠せていなかったし、その笑いはなおもしばらく収めることができなかった。
それを苦しげだとでも思ったのか、とたんにスカーの表情が焦りをにじませたものになって、メイラとテトラの間を往復する。
「……で、どうだった?」
掛布越しにメイラの背中をさすりながら、テトラは何事もなかったかのように尋ねた。
真顔だった。
それがまたおかしくて、メイラは掛布に顔をうずめるようにしてひとしきり笑いの発作に耐えた。
「そう、海賊。追い払ったならとりあえずは丈夫でしょう」
二人の会話を聞くともなしに聞きながら、もはや笑っているのか、横隔膜の痙攣に苦しんでいるのかわからなくなってきた。
掛布の下で目に滲んだ涙を拭い、なんとか息を整える。
「この海域は商船を狙う海賊が多いのですよ。ですが大丈夫です。グレイスはやり手の商船船長ですから。積み荷を守ることに関しては、他に追随を許しません」
ベッドから起き上がり、顔を隠していた掛布を外す。
テトラがそっと、柔らかい布で顔を拭ってくれた。
メイラは、二人が凄く心配そうな顔をしている事に気づいた。
「ごめんなさい。ありがとう」
笑ったことで、いくらか気分が向上していた。胸を締め上げていた息苦しさも薄れ、呼吸が楽になっている。
微笑みかけると、テトラはニコリと笑顔を返してくれた。
スカーが目に見えてわかるほどに狼狽したのがまた可笑しかった。視線を左右に彷徨わせ、手をそわそわと上下させている。
『伝説の暗殺者』が。『深淵の死神』が。
また噴き出してしまったのは、仕方がないことだ。
そうやって笑えるのは、メイラが生きているというなによりの証だった。
ここは死者の国ではない。
メイラの大切な人々は、まだ大勢生きて今を戦っている。
こんなところで、心を壊している場合ではなかった。
海軍の巨大軍艦ほどではないが、この船も商船として図体が大きい。船底に大量の商品を積めるようになっていて、もちろん悪い人たちにとっては垂涎の的なので、武装もかなりしっかりしている。
特徴的なのは、ぼってりとふくらんだ腹の部分だ。荷物を多く積むだけに、シャープな軍艦と比べれば見た目少し愚鈍な印象がする。
実際速度はそれほど出ないようだが、多少の荒波であれば小風が吹いた程度にしか感じない。つまりは船に乗っているのを忘れてしまう程揺れが少ないということなのだが、今メイラの足元はぐぐぐっと斜めに傾いできており、巨大商船が進路を変えようとしているのがわかる。
予定では、海流に乗ってまっすぐ南へ下りるという話だった。素人のメイラが口を挟んでも仕方ないのだが……
「……テトラ」
「はい、御方さま」
オレンジ色のワンピース姿のテトラが、念入りに出入り口にカギをかけさらにはドアの上と下の補助鍵も下ろす。
「いったい何が」
ドォォォン!!
ベッドに座った状態だったので、倒れずに済んだ。
それでも身体が浮くほどの衝撃で、壁に強く腕をぶつけてしまった。
ドォォォン!!
「……っ!!」
再び同じ衝撃があって、メイラはベッドにうつぶせになるようにしがみ付いた。
この、腹に響くような爆音は大砲の音だ。まさか攻撃を受けているのか?
「威嚇射撃でしょう。ご心配には及びません」
砲撃をしているのが商船側なのか、襲撃側なのか、それによって事態は全く違う。
メイラは全身からざあっと血の気が下がるのを感じた。
もしかして、追手なのかもしれない。メイラを捕まえるために、威嚇射撃をしてきているのかもしれない。
視界が真っ赤に染まった。あの悪夢が蘇ってきて、ぎゅっと喉が詰まる感覚に見舞われる。
ドォォォン!!
びくりと身体を震わせたメイラの背後から、すらりとした手が伸びてきた。
水仕事の為多少荒れてはいるが、きちんと手入れされた美しい手指だ。
細い指は形よく華奢に見えていたが、メイラの耳を塞ぐと意外と大きいのだとわかる。
なおも数回砲撃は続き、どれぐらいの時間がかかっただろう、やがて止んだ。
メイラを掛布ごと抱き込むようにしていたテトラが、身体を起こした。
その手はまだメイラの耳を塞いでおり、彼が油断していないのだとわかる。
「や、止んだわ」
「そうですね。撃退できたのでしょう」
本当に? 本当にそうなのだろうか。
たとえば船体に穴が開き、今にも浸水してくるかもしれない。追手がこの船に乗り込んできて、メイラを拘束するためにまた多数の人間を手に掛けるかもしれない。
「スカー、様子を」
テトラが声を掛けたのは、当たり前のようにメイラの足元にうずくまっている黒い男だ。
服装はそうでもないのに、ただ目と髪が黒いだけなのに、メイラだけではなく船員たちからも『あの黒い奴隷の男』と呼ばれている。
スカーの存在感はものすごく希薄で、時にいるのを忘れてしまう程だ。
今も、すっと立ち上がった彼に、そんなところに居たかと驚いてしまった。
じっと見下ろされて、必然的に視線が合って、その真っ黒の目がひどく気遣わし気だということに気づいた。
影のようにそばに居て、気にかけてくれる男の存在に、不安な面持ちを見せてはいけないと思いつつ、小さく頷いて返す。
「……スカーって魔法士なの?」
そう思ってしまったのは、瞬き一回しただけで、彼の姿がその場からかき消すようになくなったからだ。
「ああいう技量については、秘匿されるものが多くてよくわかりません。敵ならばと考えると恐ろしいですね」
メイラは耳から手を離したテトラを見上げた。
「正直な所、ルシエラの方針には疑問でしたが……伝説の暗殺者とて誓約にしばられればなにも出来ますまい」
メイラはぎょっとした。
その言葉の意味に慄くべきか、聞いた瞬間に感じた笑いを受け入れるべきか。
「で、でんせつの?」
横隔膜がひくりと痙攣する。
「はい。伝説の暗殺者なんだそうですよ」
テトラはフンと鼻を鳴らし、乾いた声で笑った。
「わ、笑い話では」
「笑ってやっていいと思います。自分で名乗っているわけではないようですが、かなり恥ずかしいですよね。業界での二つ名は『深淵の死神』というらしいです。爆笑です」
しんえんのしにがみ。
いや、笑ってはいけない。笑っては……
すっと、メイラの視界の外に黒い人影が『湧いた』。
二人からの視線を浴びて、スカーがその黒い頭をコテリと傾けた。
ぶっと、噴き出してしまった。
慌てて掛布で口周りを覆ったが、隠せていなかったし、その笑いはなおもしばらく収めることができなかった。
それを苦しげだとでも思ったのか、とたんにスカーの表情が焦りをにじませたものになって、メイラとテトラの間を往復する。
「……で、どうだった?」
掛布越しにメイラの背中をさすりながら、テトラは何事もなかったかのように尋ねた。
真顔だった。
それがまたおかしくて、メイラは掛布に顔をうずめるようにしてひとしきり笑いの発作に耐えた。
「そう、海賊。追い払ったならとりあえずは丈夫でしょう」
二人の会話を聞くともなしに聞きながら、もはや笑っているのか、横隔膜の痙攣に苦しんでいるのかわからなくなってきた。
掛布の下で目に滲んだ涙を拭い、なんとか息を整える。
「この海域は商船を狙う海賊が多いのですよ。ですが大丈夫です。グレイスはやり手の商船船長ですから。積み荷を守ることに関しては、他に追随を許しません」
ベッドから起き上がり、顔を隠していた掛布を外す。
テトラがそっと、柔らかい布で顔を拭ってくれた。
メイラは、二人が凄く心配そうな顔をしている事に気づいた。
「ごめんなさい。ありがとう」
笑ったことで、いくらか気分が向上していた。胸を締め上げていた息苦しさも薄れ、呼吸が楽になっている。
微笑みかけると、テトラはニコリと笑顔を返してくれた。
スカーが目に見えてわかるほどに狼狽したのがまた可笑しかった。視線を左右に彷徨わせ、手をそわそわと上下させている。
『伝説の暗殺者』が。『深淵の死神』が。
また噴き出してしまったのは、仕方がないことだ。
そうやって笑えるのは、メイラが生きているというなによりの証だった。
ここは死者の国ではない。
メイラの大切な人々は、まだ大勢生きて今を戦っている。
こんなところで、心を壊している場合ではなかった。
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