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修道女、悪夢に酔い現実に焦燥する
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夜明けの海はどんよりと沈んだ色をしていた。
対照的に雲一つない空を見上げながら、メイラは小さくため息をついた。
一日そこにいてもいいと提供されたカウチは甲板後方にあって、上には日よけの布が張ってある。真冬とはいえ海上は日差しが強いからだというが、水平線の上に来たばかりの太陽の光は遮れていない。
ほのかな熱が頬を温める。世の女性たちはこぞって日焼けを厭うが、末端冷え性なメイラにはむしろその日差しが恋しい。
「少しだけでもお食べ下さい。体力がもちません」
刻一刻と色を変えていく景色をぼんやりと見ていると、耳元でテトラがそっと囁いた。
いつも思うのだが、外見も喋り方もその声も、女性にしか見えない。
「また御痩せになられました」
テトラが心配するのも無理はない。メイラ自身がそう思う程、船に乗ってから食事が喉を通らなくなった。
すでにもう三日目。船酔いに効くとグレイスから提供されたオレンジのジュースがなければ、餓死はせずともベッドの住人になっていたに違いない。
「……言葉遣い」
「大丈夫です。周囲には誰もおりません」
「そんなことをしていたら、いざというときに出てこないのよ」
「……はい。気を付けま……気を付けるわ」
メイラは苦笑しながら、まだほのかに温かい穀物粥に目を落とした。戯れにそっとかき回してみる。ふわりと甘い匂いがする。塩味ではなくミルクで煮込まれていて、修道女であった時なら御馳走だと感じただろう。
しかしそれを見ても食べたいとは思わない。むしろ、むかむかと腹からせり上がってくるものがある。
再びため息をついてから、木製のスプーンを口に運んだ。
「そんなに食べたくないなら食べなくていいじゃないか」
柔らかく煮込まれているが、なかなか飲み込めない。悪戦苦闘しているうちに、背後からグレイスに声をかけられた。
「船酔いしているのに無理して食べさすもんじゃないよ」
「もう三日も固形物を受け付けないのに、よくもそんなことが言えるわね。あんたと違ってメルベルは身体が弱いの。これ以上体力がなくなるのは良くないわ」
「どうせ吐くんだから、もったいないだろ」
「麦もミルクも私が持ち込んだものじゃないの!」
「海の上ではそれが誰の物資かなんて関係ないさ」
「あるわよ!」
「そろそろミルクが悪くなるだろう? こっちにも分けてくれないか?」
「保存庫においてあるからまだまだ大丈夫よ。希少なホエー牛の乳だからって、こっそり狙ってるんじゃないわ!」
最初の頃は、顔を突き合せれば喧嘩になるふたりを止めようとしてみたのだ。しかしそう思う体力すらなくしてしまったようで、苦笑しか零れない。
「……早く船から降りたほうがいいかもしれないねぇ。可哀想に、痩せちまって」
「今日中にドートスに着くんでしょう?」
「そうだね、急げば明るいうちには」
ドートス島はリッチェラン諸島のほぼ中央部分にあり、東西の大陸の中継地だ。
そこから目的地までは更に半日ほどかかるらしいが、大型船で行くには少し難しい海域だという。潮と風の調整の為にも、数日そこに滞在するかもしれないとあらかじめ告げられていた。
追手がかかる可能性が高いので、ずっとこの船の中にいるつもりでいたのだが、確かに、硬い地面に足をつければ気分も良くなるかもしれない。
しかしそもそも船酔いではなく、おそらくは精神性のものなのだ。
再び手元に視線を戻し、眉を垂れさせた。
流動食のような柔らかい粥ですら喉を通らないなんて。
しかし無理をして食べると即座に吐いてしまうのはわかっているので、だましだまし時間をかけるしかなかった。
「ほら、かしなよ。残ったの食べてあげる」
どすん、とカウチの隣に座ったグレイスが、日焼けした骨太の腕をこちらに差し出してきた。
「代わりにあとでオレンジしぼってくるから、それは頑張って飲むんだよ」
「ちょっと!!」
「吐くのは体力つかうから、無理してまで食べないほうがいいんだよ」
生粋の船乗りであるグレイスの、逞しくがっしりとした身体がうらやましい。上着の袖をまくり上げても寒くないのは、代謝がいいからだろう。
手袋をしたいほど指先を凍えさせたメイラとはえらい違いだ。
あんなにも量を減らすのに苦労していた粥を、グレイスはたった数回の嚥下でほとんど全て胃袋に納めてしまった
メイラは、陽光を背中にしたグレイスを見上げ、目を細めた。
なんて綺麗な人なんだろう。生命力という輝きに満ち溢れ、眩しいほどだ。
メイラの手からミルク粥を取り上げた腕は太く、逞しい。
ああ……この腕はきっと、守るべきものを取りこぼさない。
「……っ、なんだい!?」
ひどく情けない気分でいたメイラを見下ろして、あっという間に完食してしまったグレイスがひどく焦った様子で腰を浮かせた。
「ああっメルベル泣かせた!!」
「そっ、そんな……そんなにミルク粥食べたかった?」
「違うわよ。泣いてません」
メイラは滲んでしまった涙を瞬きで散らした。
「少し髪が目に入っただけ」
今日の海はこの季節にしては穏やかだ。真向かいから吹いて来る風は冷たいが、ハーデス領にいた時ほどではない。
「今日もいい天気ですね。それに……随分風が優しい気がする」
「そうだね、南方海域に入ったからね」
メイラは努めて笑顔を保ちながら、長身の女船長を見上げた。
がっしりと上背のある体格は男性と遜色なく、むき出しになった腕にはしっかりとした筋肉がついている。
ああ、こんな女性になりたかった。
誰にも寄り掛からず一人で立つことができる。回りの大切な人をその手で守ることができる。
対して己はどうだろう。食べる事すらまともにできず、やせ細ったこの手に握れる武器はナイフぐらいだ。
「メルベル」
後方甲板のほうからダンが大股に近づいてきた。
やはり泣きそうに見えたのか、スプーンとお椀を手にしたグレイスに眉を寄せ、ちらりとテトラを見てまた面を険しくした。
「おはよう、おとうさん」
大根役者のダンが不自然な言動をするより先に、メイラは朗らかに聞こえるよう声を張った。
「今日中にドートス島に着くみたいね?」
「おはよう、メルベル。少しでも食べれたか?」
「グレイスさんが、無理して食べないほうがいいって」
「……グレイス、ちょっと」
こっそり苦情でも言うのではないかと危ぶんだが、ダンの表情はもっと厳しいものだった。
グレイスもそれに気づいたのだろう、手にスプーンと椀を持ったままカウチから立ち上がる。
「メルベルは部屋に戻っていなさい」
「……おとうさん?」
「さ、身体を冷やすといけないわ。戻りましょ」
テトラが促すように腕に手を添える。
船室に続くハッチをくぐりながら振り返ると、難しい顔をして話し合うダンとグレイスの後姿が見えた。
対照的に雲一つない空を見上げながら、メイラは小さくため息をついた。
一日そこにいてもいいと提供されたカウチは甲板後方にあって、上には日よけの布が張ってある。真冬とはいえ海上は日差しが強いからだというが、水平線の上に来たばかりの太陽の光は遮れていない。
ほのかな熱が頬を温める。世の女性たちはこぞって日焼けを厭うが、末端冷え性なメイラにはむしろその日差しが恋しい。
「少しだけでもお食べ下さい。体力がもちません」
刻一刻と色を変えていく景色をぼんやりと見ていると、耳元でテトラがそっと囁いた。
いつも思うのだが、外見も喋り方もその声も、女性にしか見えない。
「また御痩せになられました」
テトラが心配するのも無理はない。メイラ自身がそう思う程、船に乗ってから食事が喉を通らなくなった。
すでにもう三日目。船酔いに効くとグレイスから提供されたオレンジのジュースがなければ、餓死はせずともベッドの住人になっていたに違いない。
「……言葉遣い」
「大丈夫です。周囲には誰もおりません」
「そんなことをしていたら、いざというときに出てこないのよ」
「……はい。気を付けま……気を付けるわ」
メイラは苦笑しながら、まだほのかに温かい穀物粥に目を落とした。戯れにそっとかき回してみる。ふわりと甘い匂いがする。塩味ではなくミルクで煮込まれていて、修道女であった時なら御馳走だと感じただろう。
しかしそれを見ても食べたいとは思わない。むしろ、むかむかと腹からせり上がってくるものがある。
再びため息をついてから、木製のスプーンを口に運んだ。
「そんなに食べたくないなら食べなくていいじゃないか」
柔らかく煮込まれているが、なかなか飲み込めない。悪戦苦闘しているうちに、背後からグレイスに声をかけられた。
「船酔いしているのに無理して食べさすもんじゃないよ」
「もう三日も固形物を受け付けないのに、よくもそんなことが言えるわね。あんたと違ってメルベルは身体が弱いの。これ以上体力がなくなるのは良くないわ」
「どうせ吐くんだから、もったいないだろ」
「麦もミルクも私が持ち込んだものじゃないの!」
「海の上ではそれが誰の物資かなんて関係ないさ」
「あるわよ!」
「そろそろミルクが悪くなるだろう? こっちにも分けてくれないか?」
「保存庫においてあるからまだまだ大丈夫よ。希少なホエー牛の乳だからって、こっそり狙ってるんじゃないわ!」
最初の頃は、顔を突き合せれば喧嘩になるふたりを止めようとしてみたのだ。しかしそう思う体力すらなくしてしまったようで、苦笑しか零れない。
「……早く船から降りたほうがいいかもしれないねぇ。可哀想に、痩せちまって」
「今日中にドートスに着くんでしょう?」
「そうだね、急げば明るいうちには」
ドートス島はリッチェラン諸島のほぼ中央部分にあり、東西の大陸の中継地だ。
そこから目的地までは更に半日ほどかかるらしいが、大型船で行くには少し難しい海域だという。潮と風の調整の為にも、数日そこに滞在するかもしれないとあらかじめ告げられていた。
追手がかかる可能性が高いので、ずっとこの船の中にいるつもりでいたのだが、確かに、硬い地面に足をつければ気分も良くなるかもしれない。
しかしそもそも船酔いではなく、おそらくは精神性のものなのだ。
再び手元に視線を戻し、眉を垂れさせた。
流動食のような柔らかい粥ですら喉を通らないなんて。
しかし無理をして食べると即座に吐いてしまうのはわかっているので、だましだまし時間をかけるしかなかった。
「ほら、かしなよ。残ったの食べてあげる」
どすん、とカウチの隣に座ったグレイスが、日焼けした骨太の腕をこちらに差し出してきた。
「代わりにあとでオレンジしぼってくるから、それは頑張って飲むんだよ」
「ちょっと!!」
「吐くのは体力つかうから、無理してまで食べないほうがいいんだよ」
生粋の船乗りであるグレイスの、逞しくがっしりとした身体がうらやましい。上着の袖をまくり上げても寒くないのは、代謝がいいからだろう。
手袋をしたいほど指先を凍えさせたメイラとはえらい違いだ。
あんなにも量を減らすのに苦労していた粥を、グレイスはたった数回の嚥下でほとんど全て胃袋に納めてしまった
メイラは、陽光を背中にしたグレイスを見上げ、目を細めた。
なんて綺麗な人なんだろう。生命力という輝きに満ち溢れ、眩しいほどだ。
メイラの手からミルク粥を取り上げた腕は太く、逞しい。
ああ……この腕はきっと、守るべきものを取りこぼさない。
「……っ、なんだい!?」
ひどく情けない気分でいたメイラを見下ろして、あっという間に完食してしまったグレイスがひどく焦った様子で腰を浮かせた。
「ああっメルベル泣かせた!!」
「そっ、そんな……そんなにミルク粥食べたかった?」
「違うわよ。泣いてません」
メイラは滲んでしまった涙を瞬きで散らした。
「少し髪が目に入っただけ」
今日の海はこの季節にしては穏やかだ。真向かいから吹いて来る風は冷たいが、ハーデス領にいた時ほどではない。
「今日もいい天気ですね。それに……随分風が優しい気がする」
「そうだね、南方海域に入ったからね」
メイラは努めて笑顔を保ちながら、長身の女船長を見上げた。
がっしりと上背のある体格は男性と遜色なく、むき出しになった腕にはしっかりとした筋肉がついている。
ああ、こんな女性になりたかった。
誰にも寄り掛からず一人で立つことができる。回りの大切な人をその手で守ることができる。
対して己はどうだろう。食べる事すらまともにできず、やせ細ったこの手に握れる武器はナイフぐらいだ。
「メルベル」
後方甲板のほうからダンが大股に近づいてきた。
やはり泣きそうに見えたのか、スプーンとお椀を手にしたグレイスに眉を寄せ、ちらりとテトラを見てまた面を険しくした。
「おはよう、おとうさん」
大根役者のダンが不自然な言動をするより先に、メイラは朗らかに聞こえるよう声を張った。
「今日中にドートス島に着くみたいね?」
「おはよう、メルベル。少しでも食べれたか?」
「グレイスさんが、無理して食べないほうがいいって」
「……グレイス、ちょっと」
こっそり苦情でも言うのではないかと危ぶんだが、ダンの表情はもっと厳しいものだった。
グレイスもそれに気づいたのだろう、手にスプーンと椀を持ったままカウチから立ち上がる。
「メルベルは部屋に戻っていなさい」
「……おとうさん?」
「さ、身体を冷やすといけないわ。戻りましょ」
テトラが促すように腕に手を添える。
船室に続くハッチをくぐりながら振り返ると、難しい顔をして話し合うダンとグレイスの後姿が見えた。
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