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1巻 1章 クリス
第一話
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「お嬢様、本日のご予定は、神殿にて『職業スキル』の神託を受けるということになっております」
「そう……。とうとうこの日が来たのね」
朝。とある侯爵家の館。広大な面積を誇るクラシックな屋敷の中央にある、庭師によって形よく整えられた庭。そこから聴こえる小鳥のさえずりが、今日もクリスの少し大きめな耳を潤した。
クリス。本名、クリスティーナ・ミルカナ。職業、今年で十歳を迎えた侯爵家令嬢の専属護衛メイド。侯爵家に雇われている数十人のメイドの中、幼いころからメロディア令嬢のお世話係を任されている、見目麗しく非常に評判の良い、二十二歳の優れたメイドである。
一方でメロディア令嬢はというと、こちらもまた可愛らしい外見の少女であった。黒目勝ちな大きな瞳は見るものを魅了し、彼女の世界に吸い込んでいくことだろう。だが残念ながら今、彼女の瞳は潤んでおり、その上で引きつった頬はとても緊張していることが誰にでもわかりやすく伺える。
彼女たちは屋敷の廊下を歩いていた。装飾に派手さはないものの、十分にしっとりと深みのある赤い絨毯のこともあってか、クリスには余計に彼女が浮足立っているように思えた。
無理もない、と頭の中でため息を吐く。
クリスは深呼吸をして、優しく微笑んで彼女を諭した。
「はい。とはいえ、全ての民が受ける神聖なる儀式といえども、お嬢様は貴族。ですから、必ず授かった職業スキルに関連するお仕事へと従事する必要はございません。抜け道はあります。ですからそんなに緊張されなくても……、右手と右足が同時に動いていますよ?」
けれども、こわばったメロディアの表情を解きほぐそうとした努力は空振りに終わる。依然として、最近発明されたばかりの最先端技術の結晶である携帯型ゼンマイ式懐中時計が止まりかけているようなぎこちない動きを、十歳の少女は繰り返しているのだ。
実は、彼女のこの状態はたった今だけのことではなく、神殿で神託を受ける日が近づくにつれてカチカチに固まってきていた。さかのぼればもうかれこれ2週間は超える。しかし誰もが彼女のゼンマイを巻こうにも、いっこうに滑らかに動く気配は皆無であった。
「ええ、そそそ、そうね。でもクリス。お父様のこともあるし、あなたみたいなケースもあるんだし……」
「私の場合は……、その、特殊ですから」
特殊。その通り、クリスは『特殊』であった。そして彼女の緊張の原因はそこにあることも、クリスは痛いほど理解していた。だからこそ困ったように微笑みながら言いよどむ。
クリス。旧名、クリストファー・ミルカナ。貴族の端くれである騎士の出にも関わらず、職業スキル『護衛メイド』を得たことによって侯爵家のメイドとなった男性である。
そう、男性。白と黒を基調にした、長い丈のスカートのメイド服を着て侯爵家の廊下を歩くクリスは、男性なのだ。百七十cm半ばと男性としても平均より少し高めの高身長。すらりとした肢体。すっと通った綺麗な高めの鼻。均整に整った切れ長の瞳。血色の良い艶やかで魅力的な唇。そして、きめ細やかな肌に、後ろでまとめられている艶やかな黒髪。男性と言われれば首を傾げながらも「そ、そうなんだね……」と多少引かれてしまう外見ではあるのだけれども。女性にしては少し低い声にも思えるが、それが凛とした雰囲気との相乗効果をもたらし、より煽情的に男性を刺激しているとしても。彼女は彼である。
全ては王国の方針と、クリスが十歳のときに得た職業スキルのせいだ。
王国の方針は簡単だ。王家や貴族以外のほぼすべての国民は、神によって導かれし『職業スキル』に関する職業に従事するというものだ。大雑把な例をあげれば、戦闘職は警備を担当し、商人系は店を経営するといったように。単純明快でわかりやすく、大義名分も神に由来する素晴らしいものだ。
けれどもどうやら神はイタズラ好きのようで、ごくたまに男性に『踊り子』の職業スキルを与えたり、女性に『鍛冶師』の職業スキルを与えたりもする。困ったものだとほとんどの関係のないものは笑い飛ばす。なんとお茶目な神なのだろうと。が、ごく少数の当事者たちは簡単に笑い飛ばすことはできない。……できなかった。
クリスが得た職業スキルは『護衛メイド』だ。ただのメイドでもない。滅多にない上級職の、戦える近衛兵メイドだったのだ。これにはスキル保守派の両親も複雑な心境を抱いた。
騎士とは貴族である。騎士の家系のクリスは、隣を歩く侯爵家令嬢のように本来ならば職業スキルに生涯を縛られることは基本的にはない。が、全ての物事には例外があるように、当然、この制度にも例外が存在する。「メイド」はその中の一つだ。
不思議なことなど何もない。侯爵家のような由緒正しい家柄のお世話をする場合、出自が明らかであるものでなければならないからだ。詰まるところ、執事や女中、すなわち『バトラー』や『ハウス・スチュワード』、『メイド』に『ハウス・キーパー』などは貴族の方が望ましいのだ。その点に置いて騎士の家系というのは申し分ない。申し分ないのだが……、神のいたずらか、クリスは男性が務める『バトラー』でも『ハウス・スチュワード』でもなかった。『護衛メイド』であった。
また、別方面からの事情もある。
近年、神による『職業スキル』が下されたとしても、関係のない業種に就業できる職業選択の自由を認めた帝国のような制度の国が新しく出てきていた。『親である神から人が自立する権利』、すなわち『人権』という思想の波である。そうした思想の激流にさらされている現代であるが、それは王国も例外ではなかった。しかしながら。クリスが連なる王国貴族のミルカナ家は、スキルを神聖なものとして捉える派閥、スキル保守派に属していたのだ。
その上で彼は次男だった。
ゆえにミルカナ家は悩みに悩んだ末、クリスの名前をクリストファーからクリスティーナに変えた。そして侯爵家が上級職であり見た目も良いクリスティーナに目を付けた。羞恥をかき消すかのように一生懸命働いたクリスは多大な信頼をつかみ取り、神託を得てから2年後には産まれたばかりのメロディアの専属侍女の地位を得た。それだけの、論理的にはごくごく簡単で、しかし倫理的には非常に簡単でない話だ。
「特殊……。クリスは神託を受けたとき、どうだったの?」
「そうですね……、参考になるかどうかわかりませんけれど、びっくりして何も考えられませんでした。父が騎士ですから、子供心に私もそうなるのだろうと漠然と考えていましたから。今思えば私には兄がいるので、騎士になるとは限らないのですけれどね」
王国において貴族は職業スキルによる従事制度の例外とされているが、それは跡継ぎに関してのみである。そうしなければ貴族が増え続けてしまうためだ。
そのため、クリスが騎士となれる可能性はかなり低い状況にあった。だけれど十歳になったばかりの子どもがそれを理解しているとは限らない。そして、反対に、理解している場合もある。実のところ聡明なクリスは理解していた。理解はしていたが……、望む未来を期待してしまうのもまた素直な子どもとして当然のことであった。
「クリスは……、メイド、嫌?」
少女の怯えた表情。
クリスは安心させるように穏やかな笑みを浮かべて、ゆっくりと否定する。
「そんなことはありませんよ。こうしてお嬢様と出会えたのですから。神に感謝こそすれ、どうしてメイドが嫌になりましょうか」
「そうよね、それもそうよね!」
途端に彼女の顔に花が咲く。よかった、よかったと、小さくこぼしている家族のぬくもりをほとんど知らない彼女の儚げな様子に悲しく安堵しつつ、しかしながら当時の様々な感情を思い出したクリスは自身の手のひらを見つめた。
幼いながらに剣だこによって節くれだっていた手のひら。それが今ではすっかりメイドの手だ。いいや、違う。護衛メイドとして最初に覚えた常時発動型パッシブスキル≪乙女のきめ細やかな肌≫の効果によって、この手には水仕事などでのあかぎれや火を焚く際の火傷のあとなどが全くない。メイドの手のひらですらないのだ。
刻んできた歴史の見えない肌。周囲から神秘的だと、貴族の令嬢のようだと褒めたたえられるクリスではあったが、一抹の寂しさとともに自身への恐怖を感じた。
「お嬢様の方こそ、私のようなメイドでよろしかったのでしょうか。御屋形様のご意向とはいえ、護衛メイドという職業スキルとはいえ、私は……、私は結局……、その……」
女装した男。
女装した男だ。
こんなことになるなんて夢にも思わなかった。
だって、とクリスは憂鬱になる。騎士としての父の姿を見ていた。騎士になるんだと稽古に励む兄を見ていた。一緒に剣の稽古をだってしていた。外には魔物がいる。さらに山賊もいるのだ。世の中、戦闘職には事欠かないし、その系統の職業スキルは多種多様だ。剣士、槍士、弓士、魔法士……。割合だって多いのだ。
それに、例えば職業スキルが剣士だからといって、必ず兵士にならなければならないということでもない。傭兵になる選択肢もあれば、畑を荒らしたり人に害をなすモンスターを討伐するハンターになることだって可能であるし、そもそも、剣を教えるための道場を開いたり、教師になることだって、剣士だからこそと鍛冶師になることだってできる。やろうと思えばそうした抜け道もたくさんある制度なのだ。
クリスの場合は護衛メイドだ。拡大解釈するなら、ちょっと、いやかなり厳しいかもしれないが、依頼があれば護衛業務もあるハンターになることだってできた可能性だってあったとクリスは考えている。本末転倒だけれど、家や周囲から無理だと断られても。護衛……、をするメイドの格好をしたハンターなら……。ギリギリ行けなくもない、かも、などとも。
以前、「メイドになってなかったら私は剣一つをもって物語のようにゴブリンやオーク、山賊たちをやっつけてたかもしれない」などの発言をクリスは同僚、部下にあたるメイドのアマンダにしたことがある。すると「エロいことになる未来しか想像できない」、さらには「餓えた野獣の前に差し出される艶やかな肉体。ヤバイ、妄想がはかどる」やら「クリスは神に感謝するべき。それにクリスが騎士なんて、男の楽園に女は邪魔」とか好き勝手言われてしまったけれども。
確かに指摘されるのが恐ろしくて毎日美容の努力はしている。おかしなことに、スキルすらも美容を手伝ってくれている。≪乙女のきめ細やかな肌≫の副作用なのか、他のスキルの副作用なのかはわからないが、なぜかふんわりと胸も育っている。だがそうではない。そういうことではないのだ。ついているという決定的な証拠が……
「そんなことない! 私はね、クリスに会えてとっても良かったと思ってる! 私はお母さまとほとんど会うことはないから、私の中でのお母さまはクリスなの!」
否定の言葉にドキリとしたクリス。けれども思考を読みとっての言葉ではなく、会話の流れの否定であったことに内心ホッとする。が、すぐさまハッと気が付いた。
「えっ……、お、お母さま……? お母さま……」
彼女は女装した気持ち悪い男と見ているわけではないようで、それが気休めだったとしても少し嬉しくなるクリス。だが一方で、さすがに母はおかしいと思った。
おしめだって替えた。そのときにおしりとかも拭いたりしたし、夜泣きのお世話やトイレトレーニングなどもきちんとやり遂げた。様々なことを他のメイドに教わりながらではあるけれども、それでも一つ一つ、日々お嬢様と一緒に成長してきたと自負している。十年。長いようで、短い年月のように感じる、大切な記憶。
でもそこはせめてお父さまじゃないかなぁ……・
「そんな涙をこらえるかのように天井を仰ぎ見ないで! そんなに嬉しかったの? でも本当のことだから! みんなが噂するぐらいとっても綺麗で、なんでもできて、自慢の!」
と、笑顔でまくしたてるも、何かに気が付いたかのように少女は大きな瞳をさらに大きくさせた。
「あっ! そっか。お姉さまの方が良かったかな? 私に付きっきりで、クリスってばまだ殿方と結婚できてないしね! 行き遅れなんて言わせないわ!」
「お母さまでお願いします……」
クリス。メロディア令嬢の専属メイドをしている二十二歳の男性。職業スキルに翻弄される彼女のような彼の人生の行方は、誰にもわからない
「そう……。とうとうこの日が来たのね」
朝。とある侯爵家の館。広大な面積を誇るクラシックな屋敷の中央にある、庭師によって形よく整えられた庭。そこから聴こえる小鳥のさえずりが、今日もクリスの少し大きめな耳を潤した。
クリス。本名、クリスティーナ・ミルカナ。職業、今年で十歳を迎えた侯爵家令嬢の専属護衛メイド。侯爵家に雇われている数十人のメイドの中、幼いころからメロディア令嬢のお世話係を任されている、見目麗しく非常に評判の良い、二十二歳の優れたメイドである。
一方でメロディア令嬢はというと、こちらもまた可愛らしい外見の少女であった。黒目勝ちな大きな瞳は見るものを魅了し、彼女の世界に吸い込んでいくことだろう。だが残念ながら今、彼女の瞳は潤んでおり、その上で引きつった頬はとても緊張していることが誰にでもわかりやすく伺える。
彼女たちは屋敷の廊下を歩いていた。装飾に派手さはないものの、十分にしっとりと深みのある赤い絨毯のこともあってか、クリスには余計に彼女が浮足立っているように思えた。
無理もない、と頭の中でため息を吐く。
クリスは深呼吸をして、優しく微笑んで彼女を諭した。
「はい。とはいえ、全ての民が受ける神聖なる儀式といえども、お嬢様は貴族。ですから、必ず授かった職業スキルに関連するお仕事へと従事する必要はございません。抜け道はあります。ですからそんなに緊張されなくても……、右手と右足が同時に動いていますよ?」
けれども、こわばったメロディアの表情を解きほぐそうとした努力は空振りに終わる。依然として、最近発明されたばかりの最先端技術の結晶である携帯型ゼンマイ式懐中時計が止まりかけているようなぎこちない動きを、十歳の少女は繰り返しているのだ。
実は、彼女のこの状態はたった今だけのことではなく、神殿で神託を受ける日が近づくにつれてカチカチに固まってきていた。さかのぼればもうかれこれ2週間は超える。しかし誰もが彼女のゼンマイを巻こうにも、いっこうに滑らかに動く気配は皆無であった。
「ええ、そそそ、そうね。でもクリス。お父様のこともあるし、あなたみたいなケースもあるんだし……」
「私の場合は……、その、特殊ですから」
特殊。その通り、クリスは『特殊』であった。そして彼女の緊張の原因はそこにあることも、クリスは痛いほど理解していた。だからこそ困ったように微笑みながら言いよどむ。
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そう、男性。白と黒を基調にした、長い丈のスカートのメイド服を着て侯爵家の廊下を歩くクリスは、男性なのだ。百七十cm半ばと男性としても平均より少し高めの高身長。すらりとした肢体。すっと通った綺麗な高めの鼻。均整に整った切れ長の瞳。血色の良い艶やかで魅力的な唇。そして、きめ細やかな肌に、後ろでまとめられている艶やかな黒髪。男性と言われれば首を傾げながらも「そ、そうなんだね……」と多少引かれてしまう外見ではあるのだけれども。女性にしては少し低い声にも思えるが、それが凛とした雰囲気との相乗効果をもたらし、より煽情的に男性を刺激しているとしても。彼女は彼である。
全ては王国の方針と、クリスが十歳のときに得た職業スキルのせいだ。
王国の方針は簡単だ。王家や貴族以外のほぼすべての国民は、神によって導かれし『職業スキル』に関する職業に従事するというものだ。大雑把な例をあげれば、戦闘職は警備を担当し、商人系は店を経営するといったように。単純明快でわかりやすく、大義名分も神に由来する素晴らしいものだ。
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クリスが得た職業スキルは『護衛メイド』だ。ただのメイドでもない。滅多にない上級職の、戦える近衛兵メイドだったのだ。これにはスキル保守派の両親も複雑な心境を抱いた。
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また、別方面からの事情もある。
近年、神による『職業スキル』が下されたとしても、関係のない業種に就業できる職業選択の自由を認めた帝国のような制度の国が新しく出てきていた。『親である神から人が自立する権利』、すなわち『人権』という思想の波である。そうした思想の激流にさらされている現代であるが、それは王国も例外ではなかった。しかしながら。クリスが連なる王国貴族のミルカナ家は、スキルを神聖なものとして捉える派閥、スキル保守派に属していたのだ。
その上で彼は次男だった。
ゆえにミルカナ家は悩みに悩んだ末、クリスの名前をクリストファーからクリスティーナに変えた。そして侯爵家が上級職であり見た目も良いクリスティーナに目を付けた。羞恥をかき消すかのように一生懸命働いたクリスは多大な信頼をつかみ取り、神託を得てから2年後には産まれたばかりのメロディアの専属侍女の地位を得た。それだけの、論理的にはごくごく簡単で、しかし倫理的には非常に簡単でない話だ。
「特殊……。クリスは神託を受けたとき、どうだったの?」
「そうですね……、参考になるかどうかわかりませんけれど、びっくりして何も考えられませんでした。父が騎士ですから、子供心に私もそうなるのだろうと漠然と考えていましたから。今思えば私には兄がいるので、騎士になるとは限らないのですけれどね」
王国において貴族は職業スキルによる従事制度の例外とされているが、それは跡継ぎに関してのみである。そうしなければ貴族が増え続けてしまうためだ。
そのため、クリスが騎士となれる可能性はかなり低い状況にあった。だけれど十歳になったばかりの子どもがそれを理解しているとは限らない。そして、反対に、理解している場合もある。実のところ聡明なクリスは理解していた。理解はしていたが……、望む未来を期待してしまうのもまた素直な子どもとして当然のことであった。
「クリスは……、メイド、嫌?」
少女の怯えた表情。
クリスは安心させるように穏やかな笑みを浮かべて、ゆっくりと否定する。
「そんなことはありませんよ。こうしてお嬢様と出会えたのですから。神に感謝こそすれ、どうしてメイドが嫌になりましょうか」
「そうよね、それもそうよね!」
途端に彼女の顔に花が咲く。よかった、よかったと、小さくこぼしている家族のぬくもりをほとんど知らない彼女の儚げな様子に悲しく安堵しつつ、しかしながら当時の様々な感情を思い出したクリスは自身の手のひらを見つめた。
幼いながらに剣だこによって節くれだっていた手のひら。それが今ではすっかりメイドの手だ。いいや、違う。護衛メイドとして最初に覚えた常時発動型パッシブスキル≪乙女のきめ細やかな肌≫の効果によって、この手には水仕事などでのあかぎれや火を焚く際の火傷のあとなどが全くない。メイドの手のひらですらないのだ。
刻んできた歴史の見えない肌。周囲から神秘的だと、貴族の令嬢のようだと褒めたたえられるクリスではあったが、一抹の寂しさとともに自身への恐怖を感じた。
「お嬢様の方こそ、私のようなメイドでよろしかったのでしょうか。御屋形様のご意向とはいえ、護衛メイドという職業スキルとはいえ、私は……、私は結局……、その……」
女装した男。
女装した男だ。
こんなことになるなんて夢にも思わなかった。
だって、とクリスは憂鬱になる。騎士としての父の姿を見ていた。騎士になるんだと稽古に励む兄を見ていた。一緒に剣の稽古をだってしていた。外には魔物がいる。さらに山賊もいるのだ。世の中、戦闘職には事欠かないし、その系統の職業スキルは多種多様だ。剣士、槍士、弓士、魔法士……。割合だって多いのだ。
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クリスの場合は護衛メイドだ。拡大解釈するなら、ちょっと、いやかなり厳しいかもしれないが、依頼があれば護衛業務もあるハンターになることだってできた可能性だってあったとクリスは考えている。本末転倒だけれど、家や周囲から無理だと断られても。護衛……、をするメイドの格好をしたハンターなら……。ギリギリ行けなくもない、かも、などとも。
以前、「メイドになってなかったら私は剣一つをもって物語のようにゴブリンやオーク、山賊たちをやっつけてたかもしれない」などの発言をクリスは同僚、部下にあたるメイドのアマンダにしたことがある。すると「エロいことになる未来しか想像できない」、さらには「餓えた野獣の前に差し出される艶やかな肉体。ヤバイ、妄想がはかどる」やら「クリスは神に感謝するべき。それにクリスが騎士なんて、男の楽園に女は邪魔」とか好き勝手言われてしまったけれども。
確かに指摘されるのが恐ろしくて毎日美容の努力はしている。おかしなことに、スキルすらも美容を手伝ってくれている。≪乙女のきめ細やかな肌≫の副作用なのか、他のスキルの副作用なのかはわからないが、なぜかふんわりと胸も育っている。だがそうではない。そういうことではないのだ。ついているという決定的な証拠が……
「そんなことない! 私はね、クリスに会えてとっても良かったと思ってる! 私はお母さまとほとんど会うことはないから、私の中でのお母さまはクリスなの!」
否定の言葉にドキリとしたクリス。けれども思考を読みとっての言葉ではなく、会話の流れの否定であったことに内心ホッとする。が、すぐさまハッと気が付いた。
「えっ……、お、お母さま……? お母さま……」
彼女は女装した気持ち悪い男と見ているわけではないようで、それが気休めだったとしても少し嬉しくなるクリス。だが一方で、さすがに母はおかしいと思った。
おしめだって替えた。そのときにおしりとかも拭いたりしたし、夜泣きのお世話やトイレトレーニングなどもきちんとやり遂げた。様々なことを他のメイドに教わりながらではあるけれども、それでも一つ一つ、日々お嬢様と一緒に成長してきたと自負している。十年。長いようで、短い年月のように感じる、大切な記憶。
でもそこはせめてお父さまじゃないかなぁ……・
「そんな涙をこらえるかのように天井を仰ぎ見ないで! そんなに嬉しかったの? でも本当のことだから! みんなが噂するぐらいとっても綺麗で、なんでもできて、自慢の!」
と、笑顔でまくしたてるも、何かに気が付いたかのように少女は大きな瞳をさらに大きくさせた。
「あっ! そっか。お姉さまの方が良かったかな? 私に付きっきりで、クリスってばまだ殿方と結婚できてないしね! 行き遅れなんて言わせないわ!」
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