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禍の書

出会い2

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顧問の話を最後まで聞かずに、伊知郎は剣道場を飛び出した。

さっき渡り廊下から見かけたあの人だ。
あの長い髪を輝かせていたあの人が、不動心の書の作者なのだ。

逸る気持ちのまま渡り廊下から外へ出て、あの人が歩いていった方に向かう。
だがそれほど早い足取りでもなかったはずなのに、あの目立つ和装姿は見当たらない。


「もう帰っちまったかな……」


このあと授業もあるし、もどった方がいいのはわかっている。
だがどうしてもあきらめきれず、校門までと自分に言い訳をして走った。

するといままさに校門を出ようとしている、和装の後ろ姿を見つけた。
興奮した伊知郎は勢いのまま「紫倉先生!」と叫ぶように呼び止めてしまう。


その人は足を止めてから、ゆっくりと振り返った。

現れたその美貌に、顧問が“べっぴんさん”だとにやついていたのも納得だ。
白く滑らかな肌も、長いまつげに縁どられた宝石のような瞳も、うっすら色づく唇も、すべてが発光して見えるほど美しい人だった。

あまりに美しすぎる相手には、ときめきというものは感じないらしい。

代わりに生まれたのは涙したくなるような感動と、神様を前にしたときのような畏怖だ。
その美貌に本気で拝みそうになる。

バカなことを考えながら駆け寄る伊知郎を見て、そのとんでもない美人はすっと目を細めた。


「あの、し、紫倉先生で、合ってます、よね……?」


この人にちがいない、と声をかけたが、急に自信がなくなり確認すると、相手は唇を微笑ませ小さくうなずいた。
所作のひとつひとつまで美しい人だ。


「ええ」


……あれ?

声に違和感を覚え首を傾げる。
女優も裸足で逃げ出す美貌にしては、少々声が低いような――。


「紫倉先生、というのが紫倉悠山しくらゆうざんのことでしたら、あたしで間違いありません」

「声ひくっ! えっ? 男!?」


いや、でもいま“あたし”って言わなかったか? やっぱり女の人? あっ。でも喉仏ある。
じゃあ、男なのか。こんなにも美しい男がこの世に存在していいのか。

混乱して固まる伊知郎に、紫倉悠山という美人……いや、美青年は笑顔を引きつらせた。


「悪いけど、初対面相手にいきなり性別を訊ねるような無粋な人間の話なんざ、聞く気にはならないね」


ぴしゃりと言うと、悠山は踵を返し校門を出て行ってしまった。
一瞬何を言われたのかわからなかったが、怒らせたことに気づき慌てて追いかける。


「すみません! あんまり綺麗な人だったんで、つい!」

「……あのねぇ」

「女神さまかとばかり思って、男性だって考えが頭からすっぽ抜けちゃって。気を悪くさせてしまって、本当にすみませんでした!」


悠山の前に回って、膝にぶつける勢いで頭を下げる。

しばらく沈黙が続いたが、やがてあきれをたっぷり含んだため息が振ってきた。


「……それで? あたしに、何かご用で?」

「許してくれるんですか? ありがとうございます!」

「話しは聞くって意味ですよ。さっさと言わないと、午後の授業が始まっちまうんじゃないのかい」


そうだった。ここはすでに学校の外。教師に見つかる前に話をしなければ。

知行は姿勢を正し、頭を整理しきれないまま話し出した。


「用というか、お願いがあって」

「お願い? 仕事のご依頼ですか」

「ええと……そう、なるのか? 簡単に言うと、家にある掛け軸を引き取っていただけないかというお願いで」


悠山の整った眉がぴくりと動いた。


「お前さんの家にある掛け軸を、あたしに?」

「は、はい。正確には、祖父の家なんですけど。祖父が若い頃から大切にしている書の掛け軸があって。それがちょっと変わった掛け軸で」

「変わった掛け軸。いったいどう変わってるんです?」

「それが――」


言いかけたとき、校舎からキーンコーンと予鈴が鳴り響いた。

どうする。まだ肝心なことを話してないぞ。

授業をサボるしかないかと思ったとき、悠山が袖口から何かを取り出し、有無を言わさず伊知郎に握らせた。
あんまり白くて細い手だから、またそこで伊知郎は相手の性別を疑ってしまう。


「学校終わったら、裏にある番号に連絡しなさい」

「え……」

「学生さんの本文は勉強だろ。あたしと話すのはいつでもできます」


それじゃ失礼、と美貌の書道家はやはり音もなく去っていった。

揺れる長い髪から、きらきらと光の粒子をまき散らしながら。



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