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禍の書

たい焼き

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放課後、伊知郎は家とは反対方向へと、スマホの地図アプリを頼りに歩いていた。

伊知郎の住む高天町は、東京の下町の中でも特に古き良き時代の風情を残した町だ。
それでも駅周辺は開発が進んできたが、駅から離れれば離れるほど、時代を感じさせる建築物は増え、道幅が狭まり、住む人の雰囲気も変わる。

伊知郎の家は比較的駅に近く、下町風情は薄い。
だが祖父の住む高天の東側はかなり下町らしさが残っている。

紫倉悠山の家も、そんな祖父の住む地域に近い場所にあるようだ。


別れ際、悠山に渡されたのは名刺だった。

【紫倉書道教室 講師・紫倉悠山】

それがあの美貌の書道家の肩書らしい。

書道教室の住所は開発の進む駅前になっていた。
だがそれとは別に、裏に走り書きのような字で教室とは別の番号が書かれていたのだ。

逸る気持ちを抑え電話をかけると、あの顔に似合わない艶のある低い美声が聞こえてきた。


『いまから言う住所に、三十分以内に来なさい。手土産は扇田屋のたい焼きで』


というわけで、焼きたてのたい焼きが入った紙袋をぶら下げて歩いている。

あの顔でたい焼きを食べるのか。
いや、顔とたい焼きはまるで関係ないのだが、あまりにも人間離れした美貌なので、なんというか、食事をすること自体イメージしにくいのだ。

生きている人間なら誰だって食事はする。
アイドルだって当然食べるし、排泄もする。

美貌の書道家も当然、たい焼きを食べる。
伊知郎はたい焼きは頭からがぶっといく派だが、あの先生なら小さくちぎってお上品に食べるんだろう。


「扇田屋のたい焼きをチョイスするあたり、通っぽいよな。よく食うのかな」


高天町にはたくさんの菓子店があり、雑誌で特集されることも度々ある。
和菓子が多いが、駅周辺なら洋菓子店も増えてきた。
どっちもちがって、どっちもいい。

高天の菓子の中でも、扇田屋は高級店に入るのだが、裏メニューとしてたい焼きを販売している。
裏メニューというか、本当に裏で売っているのだ。

立派な店構えの正面とは別に、店の裏口付近にたい焼き専用の窓口がある。
値段も高級店なのにたい焼きだけはいたって庶民的で、伊知郎のような金のない学生にも優しい。

いま入院中の祖父も、扇田屋のたい焼きが好きだった。
元気になったら差し入れてやりたい。


「ここ、か……?」


地図アプリにも載っていない、住宅街の細道を奥へ奥へと進み、ようやく目的地らしき家にたどり着いた。

渋い色の木製の表札には、まちがいなく【紫倉】と彫られている。

だが目の前に建つその家は、なんというか、随分と歴史を感じさせる佇まいで。
オブラートを取っ払って言うと、ものすごく古い。いや、ぼろい。

あの美しい書道家先生が住むには、少々おんぼろが過ぎるんじゃないだろうか。

一応門前やここから見える小さな庭はきれいに手入れされているようだ。
紫陽花やタチアオイが咲き、石に長い古材を置いた棚には小さな盆栽がいくつも並んでいる。

少し、青ひげ部屋から見える庭の雰囲気に似ている気がした。


「ごめんくださーい!」


インターホンのボタンがなかったので、曇りガラスの向こうに届くよう声を張った。


「先ほどお電話した、福永ですけどー! 紫倉先生はいらっしゃいますかー!」

「聞こえてますよ、うるさいね」


低い美声がどこかから返ってきた。
だが曇りガラスの向こうには人影は見えない。


「こっちです。庭を通っておいでなさい」


言われた通り、手入れの行き届いた露路を進む。

門の外からは見えなかった辺りまで、青い紫陽花が押し合うように見事に咲いていた。

庭の隅に錆びたポンプ井戸と水鉢があり、なみなみ満ちた水が陽を浴びて白く輝いている。
そこに小鳥が一羽二羽と飛んできて、羽を休め始めた。

ピチチ、ピチチと涼やかな鳴き声。
ここは本当に現代日本だろうか。

大正や昭和の時代にタイムスリップしたように感じていると、縁側からひょっこりとあの美貌が現れた。

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