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禍の書
見える者5
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入院している祖父を見舞う時は、いつも花と甘いお菓子を持参していた。
花の香りで家の庭を思い出したり、甘い香りで好物の菓子が食べたくなったりして、目が覚めるのではないかと期待してだ。
けれど今日は何も持ってくる余裕がなかった。
扇田屋のたい焼き、食わせてやりたいな……。
病院のエレベーターの中で、久しぶりに食べたたい焼きの甘さを思い出していると、悠山が「会長さん、かなり悪いのかい」と、重くも軽くもない口調で聞いてきた。
「そうですね……。たまに目を開くこともあるんですけど、ぼんやりしているだけで、会話はできないしこっちの声が聴こえているのかもわかりません。あとはほとんど眠ってます」
「そうかい……」
それは長くないだろうなと、悠山は感じたことだろう。
家族もそう思っているから、余計にあの書を手放したがっている。
どうせ処分しても、祖父にはわからないだろう、と。
回復して家に戻ってくることを信じているのは、いまや伊知郎だけだった。
エレベーターを降りると、ナースステーションはすぐ傍にある。
患者と見舞い客との応接スペースにもなっているロビーには人の姿が多く、派手な和服姿の悠山はここでも目立っていた。
たとえ着物ではなく、ごく普通のTシャツにデニムという格好だったとしても、この美丈夫は人目を集めるのだろうが。
「あら、福永さん! おじいさまのお見舞いですか?」
「いつもえらいですねぇ」
「今日はおじいさま、まだ目が覚めた様子はないですよ」
「あ、はい。どうも……」
普段あまり声をかけてくることのない看護師たちが、我先にと競うように声をかけてくる。
少しでも悠山の気を引こうとしているのはあきらかで、内心苦笑いしながら短く返した。
一方の悠山はというと、見られている自覚がないのか「ほら、さっさと行きますよ」と伊知郎の制服の袖を引いてくる。
看護師たちは悠山のことを聞きたそうにしていたが「急いでいるので」と振り切って祖父の病室に向かった。
「ここが祖父の病室です」
角部屋の個室のドアに手をかける。
悠山が来ることで、祖父にもなにか変化があるかもしれない。
そんな期待をこめてドアを開き、中からふわりと漂ってきた空気に一瞬あれと固まる。
なんだかいつもと、中の空気がちがう。
誰かいるのだろうかとドアを開ききり、伊知郎は目を見開いた。
呼吸器をつけられベッドで眠っている祖父の傍らに、人がいた。
白い着物に金の帯をしめて、髪を緩く結い上げた妙齢の女性だった。
しっとりとした雰囲気の美女で、白い肌と赤い唇が、まるで雪に落ちた椿を連想させる。
どこか神秘的な空気をまとう美女は、悲し気に目を伏せ祖父の手に触れている。
見たことのない人だ。祖父の知り合いだろうか。
挨拶しようと口を開きかけた時、女性がこちらを見て静かに頭を下げた。
慌てて伊知郎も頭を下げる。
女性は一度眠る祖父を見下ろすと、ベッドを離れこちらに歩いてくる。
きらきらとした粒子が彼女の後ろに舞い落ちていくのを見て、あっと声をあげそうになった。
女性は伊知郎たちの目の前まで来ると、またひとつ頭を下げて、そのまま病室を出ていく。
ひとこともなく、音もなく、ただ光を振りまいて。
「え……あの」
慌てて伸ばした手もむなしく、女性はドアの向こうへ消えてしまった。
それを呆然と見送り、戸惑う。
結局いまの美女は誰だったのか。
祖父の仕事関係の人なのか、それともプライベートで付き合いのある人なのか。
まさかお妾さんだなんてことは……。
美女は多くみつもっても三十代半ばといったところ。
祖父とは娘以上に年が離れている。
ありえないとは思いつつも、祖父はお金持ちだし若い頃はかなりモテたようだしと伊知郎が考えこんでいると、後ろにいた悠山が小さく「まずいですね」と呟いた。
「先生? まずいって、何が……」
その時、祖父に繋がれた心電図のモニターが異常を知らせる音を鳴らしはじめた。
振り返ると、モニターの波形が乱れ点滅している。
「え……じ、じいちゃんっ!?」
「伊知郎くん! ナースコール!」
「あっ! そ、そうか!」
動揺してベッドに駆け寄る知生に、悠山が厳しい声で指示を飛ばした。
焦りながらナースコールのボタンを押す。
直後その手を悠山に握られ、ハッと顔を上げれば、深いところで光る真剣な瞳とぶつかった。
「戻りますよ、伊知郎くん」
「はあ!? 戻るって、何言ってんだ⁉ じいちゃんがこんな状態になってるのに!」
「弟さんがどうなってもいいんですか?」
脅しというよりは、大切なことを思い出させるような言い方だった。
弟の伊足が意識不明であることが頭から抜けかけていたことに、伊知郎は気づかされ動揺する。
「い、伊足がどうなるっていうんだよ」
「どうかなってしまう前に、行こうと言ってるんです」
「でも、じいちゃんが……」
戸惑う伊知郎の目の前で突然、断続的だった音や波形が、どちらも平坦なものに切り替わった。
それは祖父の心臓が動きを止めたことを、命の終わりを示している。
「じいちゃん!」
「早くしなさい! いますぐどうにかしないと、まずいことになる!」
声を荒げた悠山の剣幕に、伊知郎の頭が真っ白になる。
次に浮かんだのは、倒れる弟の姿だった。
そのまま強く手を引かれ、ベッドから離される。
眠っている時と変わらないままの祖父を振り返りながら、伊知郎は病室の外へと連れ出された。
いつまでも続く電子音が、病院を出ても頭から離れなかった。
入院している祖父を見舞う時は、いつも花と甘いお菓子を持参していた。
花の香りで家の庭を思い出したり、甘い香りで好物の菓子が食べたくなったりして、目が覚めるのではないかと期待してだ。
けれど今日は何も持ってくる余裕がなかった。
扇田屋のたい焼き、食わせてやりたいな……。
病院のエレベーターの中で、久しぶりに食べたたい焼きの甘さを思い出していると、悠山が「会長さん、かなり悪いのかい」と、重くも軽くもない口調で聞いてきた。
「そうですね……。たまに目を開くこともあるんですけど、ぼんやりしているだけで、会話はできないしこっちの声が聴こえているのかもわかりません。あとはほとんど眠ってます」
「そうかい……」
それは長くないだろうなと、悠山は感じたことだろう。
家族もそう思っているから、余計にあの書を手放したがっている。
どうせ処分しても、祖父にはわからないだろう、と。
回復して家に戻ってくることを信じているのは、いまや伊知郎だけだった。
エレベーターを降りると、ナースステーションはすぐ傍にある。
患者と見舞い客との応接スペースにもなっているロビーには人の姿が多く、派手な和服姿の悠山はここでも目立っていた。
たとえ着物ではなく、ごく普通のTシャツにデニムという格好だったとしても、この美丈夫は人目を集めるのだろうが。
「あら、福永さん! おじいさまのお見舞いですか?」
「いつもえらいですねぇ」
「今日はおじいさま、まだ目が覚めた様子はないですよ」
「あ、はい。どうも……」
普段あまり声をかけてくることのない看護師たちが、我先にと競うように声をかけてくる。
少しでも悠山の気を引こうとしているのはあきらかで、内心苦笑いしながら短く返した。
一方の悠山はというと、見られている自覚がないのか「ほら、さっさと行きますよ」と伊知郎の制服の袖を引いてくる。
看護師たちは悠山のことを聞きたそうにしていたが「急いでいるので」と振り切って祖父の病室に向かった。
「ここが祖父の病室です」
角部屋の個室のドアに手をかける。
悠山が来ることで、祖父にもなにか変化があるかもしれない。
そんな期待をこめてドアを開き、中からふわりと漂ってきた空気に一瞬あれと固まる。
なんだかいつもと、中の空気がちがう。
誰かいるのだろうかとドアを開ききり、伊知郎は目を見開いた。
呼吸器をつけられベッドで眠っている祖父の傍らに、人がいた。
白い着物に金の帯をしめて、髪を緩く結い上げた妙齢の女性だった。
しっとりとした雰囲気の美女で、白い肌と赤い唇が、まるで雪に落ちた椿を連想させる。
どこか神秘的な空気をまとう美女は、悲し気に目を伏せ祖父の手に触れている。
見たことのない人だ。祖父の知り合いだろうか。
挨拶しようと口を開きかけた時、女性がこちらを見て静かに頭を下げた。
慌てて伊知郎も頭を下げる。
女性は一度眠る祖父を見下ろすと、ベッドを離れこちらに歩いてくる。
きらきらとした粒子が彼女の後ろに舞い落ちていくのを見て、あっと声をあげそうになった。
女性は伊知郎たちの目の前まで来ると、またひとつ頭を下げて、そのまま病室を出ていく。
ひとこともなく、音もなく、ただ光を振りまいて。
「え……あの」
慌てて伸ばした手もむなしく、女性はドアの向こうへ消えてしまった。
それを呆然と見送り、戸惑う。
結局いまの美女は誰だったのか。
祖父の仕事関係の人なのか、それともプライベートで付き合いのある人なのか。
まさかお妾さんだなんてことは……。
美女は多くみつもっても三十代半ばといったところ。
祖父とは娘以上に年が離れている。
ありえないとは思いつつも、祖父はお金持ちだし若い頃はかなりモテたようだしと伊知郎が考えこんでいると、後ろにいた悠山が小さく「まずいですね」と呟いた。
「先生? まずいって、何が……」
その時、祖父に繋がれた心電図のモニターが異常を知らせる音を鳴らしはじめた。
振り返ると、モニターの波形が乱れ点滅している。
「え……じ、じいちゃんっ!?」
「伊知郎くん! ナースコール!」
「あっ! そ、そうか!」
動揺してベッドに駆け寄る知生に、悠山が厳しい声で指示を飛ばした。
焦りながらナースコールのボタンを押す。
直後その手を悠山に握られ、ハッと顔を上げれば、深いところで光る真剣な瞳とぶつかった。
「戻りますよ、伊知郎くん」
「はあ!? 戻るって、何言ってんだ⁉ じいちゃんがこんな状態になってるのに!」
「弟さんがどうなってもいいんですか?」
脅しというよりは、大切なことを思い出させるような言い方だった。
弟の伊足が意識不明であることが頭から抜けかけていたことに、伊知郎は気づかされ動揺する。
「い、伊足がどうなるっていうんだよ」
「どうかなってしまう前に、行こうと言ってるんです」
「でも、じいちゃんが……」
戸惑う伊知郎の目の前で突然、断続的だった音や波形が、どちらも平坦なものに切り替わった。
それは祖父の心臓が動きを止めたことを、命の終わりを示している。
「じいちゃん!」
「早くしなさい! いますぐどうにかしないと、まずいことになる!」
声を荒げた悠山の剣幕に、伊知郎の頭が真っ白になる。
次に浮かんだのは、倒れる弟の姿だった。
そのまま強く手を引かれ、ベッドから離される。
眠っている時と変わらないままの祖父を振り返りながら、伊知郎は病室の外へと連れ出された。
いつまでも続く電子音が、病院を出ても頭から離れなかった。
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