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「まったく、どうなっとるんだね、彼は」
「すみません薮田さん。自分の教育不足です」
「いやなに、君が謝るべきことではないんだがね。なにせ佐竹の勤務を咎めることが出来るほど勤勉な人間は、我が署では東堂くんくらいのものなんだ。その君が教育しても治らないというのなら、彼の更生はもう不可能だと言わざる得まい」
署内の喫煙室で、大量の煙を吐き出しながら副署長の薮田は私にそう言った。
内心、1ミリも申し訳ないとは思っていない。部下の佐竹が会議中に勝手に抜け出し、しかも上司を侮辱するような発言をしたことは署内でもほとんどの人に知れ渡り、佐竹の処遇を検討する会議まで開かれる予定だそうだ。
私はタバコを吸わないが、副署長の話を聞くためだけに、嫌いな臭いの染み付いた喫煙室に居た。真白だったであろう壁はどこか茶色く染まっているし、むせるような臭いが至る所から湧いている。どうして自らの寿命を縮めてまでタバコを吸おうと思うのか、私には甚だ疑問だった。
「ところで、東堂くん」
またひとつ大きな煙の塊を吐き出しながら、薮田が問う。
「君の昇進についてなんだがね」
これだ。
私は街に待っていた言葉を聞いた途端唾をごくりと飲み込んだ。私にとっての、全て。この仕事における昇進、そして組織の掌握。それこそが私の野望そのもの。以前からこの薮田という小太りの男に、逐一媚びを売り、なんとか昇進するための策を講じてきた。仕事もろくに出来ない癖に副署長に成り上がった薄汚い男に、嫌々贈り物、支援金、ありとあらゆる媚びを売った。その効果を期待した。
「私の方で色々上に掛け合ってみたんだがね。もう少しのところで、やはり佐竹の存在がネックになってしまったよ」
「・・・佐竹、ですか?」
一瞬、自分が思ったより低い声が出てしまった。呆れのような怒りのような声だった。なぜ、俺の昇進に佐竹が?
「あぁ、東堂くんの仕事ぶりからすれば昇進は上の者からしても全くの異論はなかった。しかし、あの佐竹が部下についてしまっているという点で、彼のような人間をこれ以上野放しにするわけにもいかず、彼のような人材を模倣する人間が出てこられても困るのでね。その直属の上司である君を昇進させることは、佐竹のような人間を賞賛することにならないかと不安なんだよ」
「私の昇進を、佐竹が邪魔していると?」
「まあ、あながち間違いではないな」
「そうですか」
「東堂くんには良くしてもらっているし、佐竹のことなど気にする必要ないと言ったんだがね」
随分と他人事のようにこの豚は喋るな、と思った。そして同時に、この薮田という豚が利用価値のない無能だと私の中で判断された。
私が撒いたのは昇進への種ではなく、豚への餌だったということか。
「ん? どうした、東堂くん。もう戻るのかね?」
まだ半分ほどタバコが残っている豚を背に、私はお辞儀もせず部屋を出ようとする。
「すみません、急用ができまして」
「お、そうかそうか、また昇進について何かわかったらーー」
豚が鳴き終わる前に私は喫煙室を出た。電話がかかってきたかのように装ったが、誰からも電話はかかっていない。
喫煙室の外は少し開けたロビーになっていて、ちらほら同僚たちが歩く姿が見える。午後1番の仕事に気合の入った新人たちの姿が見える。
どこか、私は彼らに自分の姿を重ねる。そして忌まわしい佐竹の姿を重ねる。
タバコの臭いが染み付いてしまっていないかと不安になって、スーツをジャケットを軽く叩いた。そして、私は自らの仕事に戻ることにした。
時間はそう多くはない。私は私のためにやるべきことをやるのだ。
そう思った矢先、ロビーが少しざわついた。何か、起きている。
どこからか走り込んできた若手の刑事がハアハア言いながら、少し大きな声で同僚に話すのが聞こえてきた。
「おい! 佐竹さんが退職願出すのを見たって須藤が!」
その言葉に驚く若手たちを見て、私も心のどこかでざわめきを感じていた。
悲哀か嬉々か。
「すみません薮田さん。自分の教育不足です」
「いやなに、君が謝るべきことではないんだがね。なにせ佐竹の勤務を咎めることが出来るほど勤勉な人間は、我が署では東堂くんくらいのものなんだ。その君が教育しても治らないというのなら、彼の更生はもう不可能だと言わざる得まい」
署内の喫煙室で、大量の煙を吐き出しながら副署長の薮田は私にそう言った。
内心、1ミリも申し訳ないとは思っていない。部下の佐竹が会議中に勝手に抜け出し、しかも上司を侮辱するような発言をしたことは署内でもほとんどの人に知れ渡り、佐竹の処遇を検討する会議まで開かれる予定だそうだ。
私はタバコを吸わないが、副署長の話を聞くためだけに、嫌いな臭いの染み付いた喫煙室に居た。真白だったであろう壁はどこか茶色く染まっているし、むせるような臭いが至る所から湧いている。どうして自らの寿命を縮めてまでタバコを吸おうと思うのか、私には甚だ疑問だった。
「ところで、東堂くん」
またひとつ大きな煙の塊を吐き出しながら、薮田が問う。
「君の昇進についてなんだがね」
これだ。
私は街に待っていた言葉を聞いた途端唾をごくりと飲み込んだ。私にとっての、全て。この仕事における昇進、そして組織の掌握。それこそが私の野望そのもの。以前からこの薮田という小太りの男に、逐一媚びを売り、なんとか昇進するための策を講じてきた。仕事もろくに出来ない癖に副署長に成り上がった薄汚い男に、嫌々贈り物、支援金、ありとあらゆる媚びを売った。その効果を期待した。
「私の方で色々上に掛け合ってみたんだがね。もう少しのところで、やはり佐竹の存在がネックになってしまったよ」
「・・・佐竹、ですか?」
一瞬、自分が思ったより低い声が出てしまった。呆れのような怒りのような声だった。なぜ、俺の昇進に佐竹が?
「あぁ、東堂くんの仕事ぶりからすれば昇進は上の者からしても全くの異論はなかった。しかし、あの佐竹が部下についてしまっているという点で、彼のような人間をこれ以上野放しにするわけにもいかず、彼のような人材を模倣する人間が出てこられても困るのでね。その直属の上司である君を昇進させることは、佐竹のような人間を賞賛することにならないかと不安なんだよ」
「私の昇進を、佐竹が邪魔していると?」
「まあ、あながち間違いではないな」
「そうですか」
「東堂くんには良くしてもらっているし、佐竹のことなど気にする必要ないと言ったんだがね」
随分と他人事のようにこの豚は喋るな、と思った。そして同時に、この薮田という豚が利用価値のない無能だと私の中で判断された。
私が撒いたのは昇進への種ではなく、豚への餌だったということか。
「ん? どうした、東堂くん。もう戻るのかね?」
まだ半分ほどタバコが残っている豚を背に、私はお辞儀もせず部屋を出ようとする。
「すみません、急用ができまして」
「お、そうかそうか、また昇進について何かわかったらーー」
豚が鳴き終わる前に私は喫煙室を出た。電話がかかってきたかのように装ったが、誰からも電話はかかっていない。
喫煙室の外は少し開けたロビーになっていて、ちらほら同僚たちが歩く姿が見える。午後1番の仕事に気合の入った新人たちの姿が見える。
どこか、私は彼らに自分の姿を重ねる。そして忌まわしい佐竹の姿を重ねる。
タバコの臭いが染み付いてしまっていないかと不安になって、スーツをジャケットを軽く叩いた。そして、私は自らの仕事に戻ることにした。
時間はそう多くはない。私は私のためにやるべきことをやるのだ。
そう思った矢先、ロビーが少しざわついた。何か、起きている。
どこからか走り込んできた若手の刑事がハアハア言いながら、少し大きな声で同僚に話すのが聞こえてきた。
「おい! 佐竹さんが退職願出すのを見たって須藤が!」
その言葉に驚く若手たちを見て、私も心のどこかでざわめきを感じていた。
悲哀か嬉々か。
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