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馳せる
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「なあ、龍ちゃん」
「ああ?」
軽やかに地面を蹴りながら、並んで走る檜山は俺の名を呼ぶ。認めてもいない俺の愛称を、白い息と共に吐き出した。
滑らかな足の動きに反して、俺と檜山の呼吸は乱れている。随分と長い間、走ってきたものだ。
「綺麗やね」
「は?何言ってッーー」
不規則ながらに規則的だった俺の呼吸が、檜山の言葉によって完全に不完全な呼吸になった。肺が一瞬詰まったかのように、俺は咳き込む。
「あ、ごめん龍ちゃん。大丈夫?」
お前が訳わからんこと言ってなかったらな、と思いながら、咳き込み俯く俺を覗き込もうとする檜山を右手で制す。檜山の呼吸は、それでも尚完全に調和を保っていた。人の心配が出来るほどに、こいつは余裕なのだ。俺と違って。
「……うるせえ」
俺はそう呟いた。
そして、こみ上がってくる何かに苛立ちと苦しさを感じながら、俺は足の回転速度を上げた。体一つ分だけ、俺は檜山の前に出た。
「雪、綺麗だなと思って。龍ちゃんあんま興味ないかもしれんけど」
ご名答だ。興味ねえわ。そもそもランニング中に景色を見るような余裕を俺は持ち合わせていない。
「こうして一緒に景色見れるのも、あと数回しかないんだって思うと、余計に綺麗に見えちゃってさ。なんか馬鹿みたいやけどね」
あぁ、馬鹿みたいだな、とは言わなかった。
「僕も、龍ちゃんに負けてられないな」
そう言ったかと思うと、俺のほんの後ろにいたはずの檜山の声が、流れるようにして一気に前方へと動いた。檜山は俺よりも速く、そして大きく足を動かしていた。いつもと同じ整ったフォームで、規則的に、完成していた。
俺は、一度呼吸のペースを乱したからでもなく、スピードを突然上げたせいでもなく、全身に残る酸素を全て失ったかのように、一瞬脱力した。せざるを得なかった。
このえも言われぬ感覚に、今すぐ立ち止まりたくなってしまっていた。
俺の前を、先ほどよりも速く、先ほどよりも正しく走り続ける檜山項太を、その視界に見据えていた。
いつから、こいつはこんなに速くなったのか。こんなに正しくなったのか。
ただでさえ、全身が絶え間なく酸素を求め、脳にそのリソースを割いている場合ではないのに、俺の思考は深みを増す。
俺の方が、俺は優れていると、そう思っていたのは、いつのことだったのか。
止まらない思考に、視界が霞む。いや、霞んでいるのではない。白んでいた。
「さ、ラストスパート、だよ、龍ちゃん」
先ほどまでとは少し違った、単語で切るような檜山の声。それでもそこに速さがある。正しさがある。
俺とは違った、優れた何かがあった。
「うるせえ喋んな」
限界ギリギリの酸素を使って、最大限に平静を装って、俺は言葉を返した。そのせいで、檜山の前に出るどころか並ぶことすらできなかった。
そんな俺の言葉に、檜山は無言でコクリと頷く。
そして、檜山は振り向いて、俺に微笑みかける。嘲笑や愉悦ではない、あの日から変わらない屈託のない親愛なる笑み。
笑ってんじゃねえよ、とは言えなかった。言う酸素が、残っていなかった。
その瞬間だけ、この時間だけ、靴が地面と跳ね合う音と、二人の高校生の呼吸と、吹き抜ける風が俺の世界の全てになった。
俺は体が悲鳴を上げる中、足りない速さを、足りない正しさを求めて、必死に足を前に出した。檜山との差は一向に縮まりはしなかったが。
「ーーッ」
もう限界だと思って、俺は足を止めそうになる。正しすぎる檜山を見て、もうその背中を負えないと思った。
その時だった。
「龍ちゃん、大丈夫だから」
檜山の声が、俺の世界に入ってくる。喋るなと言ったのに。
「僕がいるから。大丈夫」
もはや思考も、言葉も出てこなかった。俺はただその言葉を飲み込んで、止まりそうな足をなんとか回し続けることしかできなかった。
「しっかり前見て、腕振って」
その語調に一切の狂いも見せず、檜山は告げる。今にも倒れてしまいそうな俺は、ただそれに従う。
「ーーあ」
思わず、声が漏れた。
「ね、綺麗でしょ」
俺の前を走る檜山、その向こうに、それはあった。
苦しさの中に、葛藤の中に、絶望の中に、それはあった。
何よりも白く、何よりも淡く、何よりも美しかった。
強さも弱さも、優しさも厳しさも、美しさも醜さも、ありとあらゆる矛盾が無に帰すように感じられた。
少なくともこの白銀の世界で、それらの無粋な感情は相応しくないと思わされた。
俺たちは今、ただここに居る。
何もなくて良い。何も思わなくて良い。
ただ、ここに居るんだ。
それが、それだけが、全てだ。
「ーーたしかに、きれい、だ、な」
「ね? 言ったでしょ」
「いちいちこっち見んな。とっとと走れ。遅い」
「はは、ごめんごめん。じゃあちょっと上げるね」
「望むところだ」
白銀の世界に、居た。
白銀の世界を、駆けていた。
二人の吐く息は、それぞれの思いを載せて、儚くも空に消えていく。
「ああ?」
軽やかに地面を蹴りながら、並んで走る檜山は俺の名を呼ぶ。認めてもいない俺の愛称を、白い息と共に吐き出した。
滑らかな足の動きに反して、俺と檜山の呼吸は乱れている。随分と長い間、走ってきたものだ。
「綺麗やね」
「は?何言ってッーー」
不規則ながらに規則的だった俺の呼吸が、檜山の言葉によって完全に不完全な呼吸になった。肺が一瞬詰まったかのように、俺は咳き込む。
「あ、ごめん龍ちゃん。大丈夫?」
お前が訳わからんこと言ってなかったらな、と思いながら、咳き込み俯く俺を覗き込もうとする檜山を右手で制す。檜山の呼吸は、それでも尚完全に調和を保っていた。人の心配が出来るほどに、こいつは余裕なのだ。俺と違って。
「……うるせえ」
俺はそう呟いた。
そして、こみ上がってくる何かに苛立ちと苦しさを感じながら、俺は足の回転速度を上げた。体一つ分だけ、俺は檜山の前に出た。
「雪、綺麗だなと思って。龍ちゃんあんま興味ないかもしれんけど」
ご名答だ。興味ねえわ。そもそもランニング中に景色を見るような余裕を俺は持ち合わせていない。
「こうして一緒に景色見れるのも、あと数回しかないんだって思うと、余計に綺麗に見えちゃってさ。なんか馬鹿みたいやけどね」
あぁ、馬鹿みたいだな、とは言わなかった。
「僕も、龍ちゃんに負けてられないな」
そう言ったかと思うと、俺のほんの後ろにいたはずの檜山の声が、流れるようにして一気に前方へと動いた。檜山は俺よりも速く、そして大きく足を動かしていた。いつもと同じ整ったフォームで、規則的に、完成していた。
俺は、一度呼吸のペースを乱したからでもなく、スピードを突然上げたせいでもなく、全身に残る酸素を全て失ったかのように、一瞬脱力した。せざるを得なかった。
このえも言われぬ感覚に、今すぐ立ち止まりたくなってしまっていた。
俺の前を、先ほどよりも速く、先ほどよりも正しく走り続ける檜山項太を、その視界に見据えていた。
いつから、こいつはこんなに速くなったのか。こんなに正しくなったのか。
ただでさえ、全身が絶え間なく酸素を求め、脳にそのリソースを割いている場合ではないのに、俺の思考は深みを増す。
俺の方が、俺は優れていると、そう思っていたのは、いつのことだったのか。
止まらない思考に、視界が霞む。いや、霞んでいるのではない。白んでいた。
「さ、ラストスパート、だよ、龍ちゃん」
先ほどまでとは少し違った、単語で切るような檜山の声。それでもそこに速さがある。正しさがある。
俺とは違った、優れた何かがあった。
「うるせえ喋んな」
限界ギリギリの酸素を使って、最大限に平静を装って、俺は言葉を返した。そのせいで、檜山の前に出るどころか並ぶことすらできなかった。
そんな俺の言葉に、檜山は無言でコクリと頷く。
そして、檜山は振り向いて、俺に微笑みかける。嘲笑や愉悦ではない、あの日から変わらない屈託のない親愛なる笑み。
笑ってんじゃねえよ、とは言えなかった。言う酸素が、残っていなかった。
その瞬間だけ、この時間だけ、靴が地面と跳ね合う音と、二人の高校生の呼吸と、吹き抜ける風が俺の世界の全てになった。
俺は体が悲鳴を上げる中、足りない速さを、足りない正しさを求めて、必死に足を前に出した。檜山との差は一向に縮まりはしなかったが。
「ーーッ」
もう限界だと思って、俺は足を止めそうになる。正しすぎる檜山を見て、もうその背中を負えないと思った。
その時だった。
「龍ちゃん、大丈夫だから」
檜山の声が、俺の世界に入ってくる。喋るなと言ったのに。
「僕がいるから。大丈夫」
もはや思考も、言葉も出てこなかった。俺はただその言葉を飲み込んで、止まりそうな足をなんとか回し続けることしかできなかった。
「しっかり前見て、腕振って」
その語調に一切の狂いも見せず、檜山は告げる。今にも倒れてしまいそうな俺は、ただそれに従う。
「ーーあ」
思わず、声が漏れた。
「ね、綺麗でしょ」
俺の前を走る檜山、その向こうに、それはあった。
苦しさの中に、葛藤の中に、絶望の中に、それはあった。
何よりも白く、何よりも淡く、何よりも美しかった。
強さも弱さも、優しさも厳しさも、美しさも醜さも、ありとあらゆる矛盾が無に帰すように感じられた。
少なくともこの白銀の世界で、それらの無粋な感情は相応しくないと思わされた。
俺たちは今、ただここに居る。
何もなくて良い。何も思わなくて良い。
ただ、ここに居るんだ。
それが、それだけが、全てだ。
「ーーたしかに、きれい、だ、な」
「ね? 言ったでしょ」
「いちいちこっち見んな。とっとと走れ。遅い」
「はは、ごめんごめん。じゃあちょっと上げるね」
「望むところだ」
白銀の世界に、居た。
白銀の世界を、駆けていた。
二人の吐く息は、それぞれの思いを載せて、儚くも空に消えていく。
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