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第八章・水の神器アゾット
黒い雨と氷壁
しおりを挟む木箱をヨタヨタと押し退けて立ち上がったメルディーヌと真正面から睨み合うシヴァだったが、その意識は不意に逸れる。それというのも、足や胴体にしがみついてきた何者かのせいだ。
「……!」
「アハァ、驚きましたァ? 以前のものよりず~っと早いでショウ? 以前の術をもっともっと改良してみたんデスヨ♡」
それは、先ほどの雨を喰らった水の都の住民たちだった。皮膚はそのほとんどが溶け、肉や骨がむき出しになっている。目は焦点が合っておらず、何も見えていないようだった。
――メルディーヌが降らせた雨は、死の雨と呼ばれる何よりも恐ろしいもの。生き物をゾンビ系の魔物へと変える死の魔術である。どれだけ弱っていようと大精霊であるシヴァの身には効かないが、人間があの雨を浴びればたちまちこうなってしまう。以前は雨を受けてからゾンビ化するまで多少の時間はあったが、今回はその時間がほとんどない。
元住民たちはメルディーヌの援護をするかの如くシヴァの身にしがみつき、その場に縫い留めてしまった。それを見てメルディーヌは浮かべる笑みを深いものに変えると、宙から黒い片手剣を取り出す。それは禍々しい黒いオーラを纏っていて、見るだけでも不快感を与えてくるほどだった。
「ほらほらァ、その剣で叩き斬らないとォ、ワタクシの剣で八つ裂きにされちゃいますよォ~?」
「下衆なやつめ……!」
「アッハアァ! 下衆! 下衆って言いましたァ!? アァア、イイ響きッ! なんてステキな褒め言葉……♡」
当然、褒めているわけがないのだが――メルディーヌにしてみれば、これ以上ないほどの褒め言葉らしい。自分の身を抱くように両手を二の腕に添え、クネクネと身を捩らせてから手にする刃を口元まで引き上げてベロリと舌を這わせた。
「ンフフっ、この地を守護するアナタが民に手を出せるワケがありませんネェ。んふふんふんふ、わかってて言ってるんですヨォ!」
メルディーヌは高らかに笑いながら黒い刃を振るった。その一撃はシヴァの胸部を抉り、同時に背中から首元に腕を回してきた住民ひとりの腕も叩き斬った。まだ完全にゾンビ化できていないらしく、その口からは喉が引き攣るような悲鳴が洩れる。間近でその声を聞いて、シヴァは奥歯を固く噛み締めた。
負の感情を練り込んで造られたメルディーヌの剣は、大精霊の身にさえ深い傷を負わせてくる。このままではマズいとわかってはいても――それでも、シヴァには水の民を傷つけられなかった。
「あれ、あそこ! シヴァさん!!」
「メ、メルディーヌだナマァ!」
そこへ、王城の客間から見ているだけでは我慢できなかっただろうウィルたちが駆け付けた。訓練場で鍛錬していたシルヴァも途中で合流したらしく、剣を引き抜いて真っ先に飛び出してくる。それを視界の端に捉えたシヴァは咄嗟に声を上げた。
「――来るな! お前たちでは……!」
「アレレェ? おやおやァ、あの者たちが今回の神器の所有者ですネェ? 少ォし遊んであげまショウか♡」
メルディーヌが逆手を振り上げて殴りつけるように拳を振るうと、こちらに駆けてくるシルヴァやウィル、リンファの目の前に衝撃波が走る。敢えて直撃しないように外したその一撃は大地を深く抉り、巨大な亀裂を走らせた。もし直撃していたら即死か、よくても瀕死の重傷を負っていたことだろう。一拍ほど遅れてそれを理解したウィルとリンファは、まだ刃を交えてもいないのに背筋が凍りつくような錯覚に陥った。様々な戦場を潜り抜けてきたシルヴァにさえ、恐怖の感情を与える。
「ンフフっ、これでもまだやりますゥ? 元気なニンゲンは嫌いではありませんがねェ♡」
「な、なんなのよ、あいつ……シヴァさんはどうして反撃しないの……!? 大精霊が本気になれば、あんなやつ……!」
後方でルルーナと共に神器を構えるマナは、自分でもわからないまま身体が震えるのを感じていた。現在視界に映るメルディーヌという魔族は、見た目はひどく間抜けな装いなのにこれまで対峙してきた誰よりも恐ろしかった。そんなマナの肩の上に乗っていたノームはふるりと身を震わせる。
「反撃しないんじゃなくてできないんだナマァ、メルディーヌの死の雨を浴びてゾンビ化した生き物は普通に倒したらその魂は成仏できずに永遠に現世を彷徨うことになるんだナマァ……」
「なによそれ!? じゃあ、シヴァさんはゾンビ化した人たちの魂を守ろうとして反撃できないってこと!?」
「せ、聖剣か神器の力なら成仏させられるナマァ! シヴァさんに取りついてる人たちを――」
攻撃しろ――とは、ノームには言えなかった。シヴァの身を取り押さえているのは、ついさっきまでは普通の人間だったこの都の住民たち。ウィルもマナもルルーナも、軍人でも何でもない。まだ子供で、人の命を奪ったことなど当然ない。そんな彼らに「ゾンビ化した者たちを討て」とは言えなかった。
それをいいことにメルディーヌは高笑いを上げると先ほど同様に再びぴょんぴょんと、踊るように跳びはね始めた。その矢先、王都上空にはもくもくと雨雲が集まっていく。
「ンッフフフ! 神器があってもワタクシの雨は効くのですかねェ? それそれ、降れ降れ、どんどん降ゥれェ~~!」
「きゃあああぁ!!」
先ほどよりもずっと多く濃い雨雲が空を覆い尽くしたのを見て、マナやルルーナは悲鳴を上げた。神器は持っているものの、果たしてあの死の雨から逃れることはできるのか否か――それにシルヴァとリンファは神器を持っていないのだ、直撃すれば間違いなく他の者たちと同じくゾンビ化してしまう。
シヴァは雨雲を睨み据えると、奥歯を噛み締める。刹那、辺り一帯が眩い閃光に包まれた。
「……! あれは……!?」
「――!」
プラージュの街からイスキアの魔法によって王都まで帰り着いたジュードたちは、上空から見える王都の様子に怪訝そうな表情を滲ませた。
王都の上空に不気味な雨雲がかかっているのも気になるが、その王都を包み守るように青白い氷の壁が形成されていたのである。雲から大量に降る雨粒は、その氷壁によって完全に防がれているようだった。どれだけ降り注いでも結界のように展開するドームを破ることは敵わず、それどころか凍てつく冷気を醸し出して雨雲を飛散させ
ていく。
それを目の当たりにしてイスキアやフォルネウス、ライオットなどの精霊たちは瞠目した。何が起こったのか、彼らには容易にわかる。
ただ事ではないことを悟って同行を申し出たヘルメスは、そんな精霊たちの様子に不可解そうに目を細めた。
「あの中にいるのは魔族よ、それも絶対に会いたくない相手。以前ジュードちゃんたちには話したわね」
「うにに……メルディーヌだに、王都を襲撃してくるなんて最悪な展開だに……」
かつて伝説の勇者を最も苦しめた男――それが、死霊使いメルディーヌだと以前確かに聞いた。どのような敵なのかまったく想像がつかない。
だが、胸がざわざわと嫌にざわめく。早く早く、と気持ちばかりが急いた。
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