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第九章・不可侵の領域
魂を売った女
しおりを挟むネレイナがどれだけの魔法の使い手であろうと、ジュードたちだって何もしないでのほほんと過ごしてきたわけじゃない。ネレイナを「敵」と判断したシルヴァは真っ先に書斎の中に飛び込み、彼女に斬りかかる。
「ネレイナ様、魔族と通じていただけでなく神まで愚弄する気か!」
「あなたは知らないのよ、十年前の魔族の襲撃の際、この世界の創造主たる蒼竜ヴァリトラは死んだ! もし生きているのなら、どうして神は今の世に姿を見せないというのかしら!? 今のこの世界には新しい神が必要よ!」
烈風の騎士の二つ名を持つ彼女の剣撃は、これまでとは比較にもならないほどに速度と精度を増していた。矢継ぎ早に繰り出される攻撃の数々は致命傷にこそ触れないものの、ほぼ確実にネレイナの身を捉える。彼女が身に纏う黒のマーメイドドレスは瞬く間にボロボロになっていった。
「その新しい神があなただと? ふざけるにも程がある!」
「わたくしにはそれだけの力も、知識もあるわ! あなたたちとは違うのよ!」
しかしながら、ネレイナが張り上げた声とその言葉にジュードは複雑そうに眉根を寄せる。
「(神さまが……十年前に、死んだ……?)」
蒼き竜の神ヴァリトラは、文字通りこの世界そのものを生み出した「神」である。
その神が十年前の魔族襲来の際に命を落としてしまったというのは初耳だし、俄かには信じ難い話だ。だが、ネレイナの言うように神が生きているのなら、魔族が世界に広がりを見せている今、なぜ姿を現さないのか――確かに疑問ではある。
だが、今はそのようなことを気にしていられる状況ではないわけで。とにもかくにも、まずは目の前の敵だ。
ちら、と視線のみでルルーナを見遣ると、彼女の中にもう迷いはないようだった。紅色の双眸に憤りと敵意をありありと乗せ、マナと共に魔法の詠唱を始めている。これまで耳にしたことのないその詠唱は、恐らくグラナータ博士の魔法書から学んだものだろう。
ほとんど無詠唱で魔法を放ってくるネレイナを前に、シルヴァは一歩も退かずそれらの魔法を剣で弾いていく。ジェントとの手合わせやこの屋敷で繰り返してきた訓練は、元々高かった彼女の能力を更に高めたようだ。
「おのれ、小賢しい! フラムバール!」
けれど、ネレイナとて単身で乗り込んでくるくらいだ。当然、一筋縄でいくような相手ではない。ガーネットロッドを振りかざすと、その周囲には無数の火の玉が出現し、四方八方に飛翔した。
それは、マナも扱う火属性の初級攻撃魔法だ。だが、ネレイナの魔力が高いのか、はたまた杖の効果か、火の球は火矢となり書斎のあちらこちらに衝突したが、まるで大型の爆弾でも爆ぜたような衝撃を屋敷全体にもたらした。その破壊力は到底「初級」とは呼べず、中級――むしろ上級クラスの威力だ。
辛うじて直撃だけは避けたシルヴァだったが、その破壊力を見ればさしもの彼女も迂闊に飛び込めないようだった。それをいいことに、ネレイナは再び杖を振るうと共に大きく後方に飛び退く。
「うふふ、受けてみなさい! 今度は外さないわよ!」
すると、ネレイナの杖からは再び無数の火矢――フラムバールが放たれた。だが、リンファが一気に飛び出すと、シルヴァの前に踊り出る。彼女の身を離れない水の神器アゾットのふたつの珠が宙で融合し、シルヴァに向けて放たれた火矢を全て水の渦で呑み込んでしまった。それにはネレイナも驚いたように瞠目したが、体勢を立て直すだけの時間を与える気はリンファにはない。床を蹴って一息に距離を詰めた。
「また、お前かッ!」
「あなただけは――! あなただけは許しません!」
「黙れ! このわたくしが、火魔法しか使えぬと思うのかしら!?」
再び魔法を放つような暇を与えることなく、リンファは両手に携えるアゾットを素早くネレイナの身に叩きつけた。けれど、寸前で微かに身を退かれたことで致命傷を与えるには至らず、その二撃は彼女の上腕を掠めるだけに終わる。
直後、ネレイナはリンファの眼前に杖を突きつけた。ニィ、と口角を吊り上げて彼女が魔法を放つのと、ジェントがリンファの手を掴んで思いきり引き寄せるのはほぼ同時――辛うじて後者の方が早い。
「勇者様!」
がくん、と大きく身体が後ろに引っ張られる感覚にリンファは息を詰めたが、次の瞬間に放たれた風魔法――ヴァンブルトを代わりに受けるジェントの姿に思わず声を上げた。ヴァンブルトは、凝縮した風の塊をぶつけることで甚大なダメージを与える魔法だ。初めてヴィネアと戦った時に彼女が扱ったものでもある。
ネレイナはその様を目の当たりにして笑みを滲ませたが、それも一瞬のこと。風の塊の衝突に意識が向いていたせいで、両脇から叩き込まれるジュードとシルヴァの攻撃に対して反応が遅れた。ほぼ同時に叩き込まれた剣撃はそれぞれネレイナの両腕を的確に捉え、深い裂傷を刻む。
「くぅッ!? よくも――!」
「ジュード君、退くぞ!」
ネレイナは忌々しそうにジュードとシルヴァを睨みつけたが、シルヴァはそれ以上の追撃をすることなく声を上げると、強く床を蹴って大きく後方に跳んだ。一拍ほど遅れてジュードも同じように大きく跳び退るのを見てネレイナは怪訝そうに眉を顰めたものの、その理由はすぐにわかった。
彼女たちの後方、書斎の出入口近くで詠唱していたマナとルルーナはジュードとシルヴァが離れたのを確認するなり、ネレイナに向けて神器を突き出した。
「吹っ飛んじゃえ!!」
「初めてだもの、加減なんてできないわよ! ――ヘイルプレシオン!」
レーヴァテインとガンバンテインが共鳴するように力強く輝いた次の瞬間、ネレイナの足元には白い魔法陣が展開した。彼女の身を円柱型の光が包み込み、押し潰すべく強い重力波を発生させる。ネレイナは抵抗もできず床に叩きつけられ、重力波に耐え切れず抜け落ちた床と共に階下へと転落した。
「……やったか?」
「いや、これで終わるとはあまり……」
シルヴァは身構えたまま床に空いた大きな穴を見つめていたが、彼女の隣で同じように聖剣を構えるジュードは小さく頭を横に振った。今の重力波魔法は確かに威力はあるのだろうが、ネレイナがそれで簡単に終わってくれるとはあまり思えない。
ちら、と後方のジェントを見遣ると、考えは同じらしくその秀麗な顔にも警戒の色が滲んでいた。リンファを庇って風魔法の直撃を受けたが、そこは魔力を受け付けない身、傷らしい傷のひとつもついていない。
「うふふふ……随分と反抗的ね。いいわ、わたくしが手に入れた力、あなたたちに見せてあげる。こちらも加減なんてできないでしょうから、せいぜい頑張って抗ってちょうだいね……」
「なにッ!? あれは……!?」
床に空いた穴から聞こえてきた声に、シルヴァとジュードは慌ててそちらに駆け寄った。すると、階下には確かにネレイナの姿が見える。だが――今の衝撃で破れたドレスの下の胸元には、見覚えのある不気味な文字列。
それは、間違いなく死霊文字。
ネレイナは、自らの肉体そのものを死霊文字に力を与える「贄」としているようだった。
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