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第九章・不可侵の領域
避けられない戦い
しおりを挟むネレイナの身は瞬く間に巨大化し、とてもではないが人間とは思えない造形の生き物へと変貌してしまった。
白磁のように綺麗だった肌は赤黒い鱗に包まれ、娘に受け継がれた美貌は怪物としか言えないものになっていく。全身を赤黒い鱗に覆われ巨大化したそれは、屋敷よりもずっと大きい一頭のドラゴンへと変化を遂げた。頭髪はなくなり、美しいボディラインは名残さえ残さず、獣の如く。鋭利なトゲが生えた尾は、周囲の木々を問答無用に薙ぎ払う。
その想像を超えたあまりの変貌具合にジュードやシルヴァはもちろんのこと、娘であるルルーナはただただ唖然とするしかなかった。これは本当に母なのかと、彼女が一番目の前のその光景を信じられなかった。
ネレイナは両腕を問答無用にジュードたちに目掛けて叩き振るう。辛うじて直撃こそ免れたものの、その破壊力は尋常なものではない。跳び上がることで避けたジュードたちだったが、ネレイナの一撃はそれまで彼らが立っていた床を枯れ木か何かのように叩き割ってしまったのである。柱もろともへし折れてしまったことで二階のみならず、その上の三階部分までもが崩れ落ちてきた。
「あはは、あはははは! ごめんなさぁい、ちょっと力加減が難しくってねえぇ」
「ジュ、ジュード! みんな!」
後方にいたマナとルルーナは、イスキアに抱えられてウィルと共に一足先に階下に飛び降りた。だが、ジュードたちは三階と二階の崩落に巻き込まれて、どうなったか。マナは背筋がゾッとするのを感じた。
「ガウウゥッ!」
「ご、ごめん、ありがと、ちび……」
だが、ジュードは自分の腹に体当たりをぶち当ててきたちびに強制的に背中に乗せられ、無事のようだ。ちびは持ち前の動物的なバランス感覚と俊敏さを活かし、ジュードを背に乗せたままひょいひょいと軽やかな足取りで一階に降りると、そこで「ワウッ!」と吠える。
『リンファ、シルヴァ殿、二人とも大丈夫か?』
「は、はい、ですが……」
「勇者様、そのお姿は……」
リンファとシルヴァは、傍にいたジェントの腕にそれぞれ抱えられていた。軽鎧を着込んだ成人女性と少女一人をそれぞれの腕に抱くなど普通は考えられないが、それよりも彼女たちが気になったのはジェントの背にあるモノだった。
光で形成された大きな翼がゆったりと羽ばたくことで、彼女たちを崩落から助けてくれたようだ。だが、いくら魂の状態と言えど人の身に翼が生えるなど普通では考えられない。その疑問には、ジェントの頭に乗るノームが代わりに応えてくれた。
「四神柱の力をひとつに纏めることで発現する力なんだナマァ。でも、聖剣を持たない状態でその力を使うのは負担が大きすぎるナマァ」
『わかっている、状況が状況だ、今回ばかりは仕方ない』
一階に降り立ったところで、ジェントの背に出現していた光の翼は空気に溶けるようにして消えた。屋敷の玄関から二階、三階ほどはメチャクチャになってしまったが、取り敢えず致命傷を負った者は誰もいないようだ。
「まさか……死霊文字を自分の身体に刻むだなんて、彼女は死ぬのが怖くないの……!?」
「と、とんでもない女だに……」
しかし、ネレイナのその変化は永らく生きている精霊たちも初めて見るものだったのだろう。元はネレイナだった巨大なドラゴンを見上げて、さしものイスキアやライオットも驚きを隠せないようだった。そんな彼らを前に、ネレイナは高笑いを上げる。
「アハハハハ! この姿、どうかしら!? ただの人間では死霊文字が持つ力に耐え切れずに自我が崩壊するでしょうけれど、わたくしはそれを乗り越えたのよ! 魔族などに、死霊文字などに支配されたりはしないわ! この力でわたくしがこの世界の新たな神となるのよ!」
ネレイナがそう声を張り上げると、彼女の周囲には無数の黒い靄が発生した。死霊文字は、文字そのものが力を持つ忌まわしきもの――力を発揮すれば次から次へと周囲に魔族を生み出し続けるのだ。その効果は、肉体に刻まれたものでも同じらしい。
「ぐわっははははは!」
「暴れるぞ、暴れてやるぞぉ!」
それだけではなく、ネレイナが自分の身に刻んだ死霊文字はこれまで見たこともない魔族を次々に生み出した。周囲に発生したいくつもの黒い靄は、次第に大きな躯体を持つ魔族の姿となり、勢い勇んでこちらを包囲してくる。真っ黒な皮膚と鋭い爪がついた翼を持つそれは、ディオースと呼ばれる上級クラスの魔族だった。
メンフィス邸で初めて死霊文字騒動に巻き込まれた時、ヒーリッヒの技術では最弱魔族のグレムリンしか喚べなかったが、こうして上級クラスの魔族を生み出せるということは――
『とんでもない女だ、ディオースたちを喚び出すとは……それだけ強い力を持ち得ているということか……』
「あいつら、やっぱり強いんですか?」
『攻守ともに長けた厄介な生き物だ、普通は一匹だけでも手を焼くというのに……』
ジェントが吐き捨てるように呟くと、その前で身構えるジュードが視線はネレイナに向けたまま小さく声をかけた。ディオースと呼ばれた黒い魔族たちは、軽く見ただけで三十は超える。一匹でも厄介な敵がそれだけいるという事実に眩暈がするようだった。
「うふふ、これだけの魔族に囲まれたらいくら聖剣や神器を持っていたって難しいんじゃない? 今なら、わたくしに協力することを誓えば許してあげるわよ」
「……はは。どうする、ジュードくん、リンファちゃん。冗談ではない話だが、突破口がまったく見えないな」
シルヴァはネレイナを見上げたまま、その顔に薄らと笑みを滲ませる。
周囲には見たこともない黒く大きな魔族の群れ、真正面には屋敷よりも巨大な赤黒いドラゴン――深く考えなくても状況が最悪なのはよくわかる。ネレイナに協力など冗談ではないが、かと言ってこの状況をどう打破すべきか。ちびは毛を逆立ててディオースたちの動向を窺う。
「……オレ、頭使うのは苦手だし難しいことはよくわからないんですけど、協力なんて冗談じゃないから――とにかく全力で暴れます」
「はい、私も同じ気持ちです」
リンファは傍らから聞こえた至極単純な返答に思わず横目にジュードを見遣ったものの、彼女とてネレイナに協力など冗談ではない。即座に同意するように、ジュードの隣で身構えた。
『そうだな、俺もあれこれ考えるよりそっちの方が好ましい。ここ最近はずっと書斎に籠りきりだったから久しぶりに身体を動かしたい』
「ノームも援護頑張るナマァ!」
策も何もあったものではないその様子にシルヴァは一度こそ呆気にとられたような表情を浮かべたが、ジェントやノームにまで賛同されてしまうともう何も言えなかった。恐らく、後方に控えるウィルたちだって同じだろう。
「本当に命知らずな子たちね、わかったわ。反抗するというのなら、わたくしだって容赦しないわよ。――さあ、ディオースたち、思う存分に暴れてあげなさい!」
ネレイナはそんなジュードたちを見下ろすと、一度大きく天を仰ぐ。そうして、大地を揺るがさんばかりの咆哮を上げた。
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