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第十章・蒼竜ヴァリトラ
これまでの異変の正体
しおりを挟む全身が竦み上がるような威圧感と気配に、ヴィネアは瞬きさえ忘れたようにその姿を眺めるしかなかった。この気配には、確かに覚えがある。初めてジュードたちと遭遇した時に感じた――あの感覚だ。
アグレアスが赤子のような扱いで、当時のヴィネアに使える最大の術だって雄叫びひとつでかき消された――あの。忘れようはずがない。
「な……なんだって言うのかしら? ふん、あの頃のままだとは思わないことね! そんなの――」
ジュードたちが力をつけたように、ヴィネアだって当然ながらあの頃のままではない。人間、それも子供相手に後れを取ったことは彼女の魔族としてのプライドをこれでもかと言うほどに刺激した。だからこそ、より高度な魔術だって覚えたし、次は自分が見下してやれるように綿密な計画だって立てたのだ。あの雪辱を晴らすために。
だが、ヴィネアは自分でも気づかないうちに自分の身が大きく吹き飛ばされていることに一拍ほど遅れて気付いた。背中が壁に思い切り叩きつけられて、脳が揺れる。視界が大きくぐらつくようだった。
何をされたのかさえ、よくわからない。大きく距離の空いたジュードは、特に動いたようにも見えないのに。けれど、まるで刃物のような鋭さを持つその黄金色の双眸を見るだけで、心臓を握り潰されてしまいそうだった。
「な……なんだ、ジュード……!? いったい、どうしたのだ……!?」
「お、同じだわ、吸血鬼や、初めてヴィネアたちと戦った時と……!」
「いや、あの時よりもずっと……」
ウィルたちの目にも、ジュードが何かをしたようには見えなかった。ただ軽くひと睨みしただけで、ヴィネアの身は真正面から体当たりでも受けたように大きく吹き飛ばされてしまったのだ。ウィルやマナ、ルルーナにリンファはジュードのこの状態を知っているが、シルヴァやグラムをはじめとした面々は今回が初だ。当然ながら、何が起きたのかわかるはずもない。
「ちょっと、モチ男! あれ、どういうことなの!? あんたにもわからないの!? あれも……交信なの!?」
「にょにょッ! は、離すにぃ! 苦しいにいいぃ!」
マナは近くにいたライオットの身を両手で鷲掴みにして、そのまま前後に揺さぶった。ノームはそんな様子を見上げてハラハラと小さな手を動かし、当のライオットは解放を求めて両手をバタつかせる。
そんな騒ぎをよそに、ジュードは静かに足を進めると既に事切れたちびの傍へと歩み寄った。その場に片膝をついて首元に触れても、身体は既に冷たくなっていて固くなり始めている。ふわふわだった毛は、血でごわついていた。
「ちび……ごめんな」
今なら――今なら無防備だ、術を放てば直撃する。
そうは思うのに、ヴィネアはまるで金縛りにでも遭ったかの如く指先ひとつ動かせなかった。全力で走った後のように呼吸が浅く、満足に息も吸えない。絶え間なく押し寄せる威圧感に気がふれてしまいそうだ。
その直後、ちびの全身から灰色の煙のようなものが立ち上り、瞬く間に形を失い、上空で渦を巻く。それらは次にヴィネアの前に集束し、色が灰色から白へと変化を始めた。何が起きるのかと、ヴィネアはハッ、ハッと浅い呼吸を繰り返しながらただただ目の前で集束していく白の煙を見つめるしかできない。
程なくしてそれは、一匹の大きなオオカミのような姿になった。それはまるで――
「ち、ちび!? どうして……!?」
「あれはリンカーネイションだナマァ、亡くなったちびさんの魂を魔物から聖獣へと転生させたんだナマァ」
「転生……!? わたくしたち精霊族には、そのような力もあるのですか……!?」
後方にいたエクレールも、ジュードの突然の変貌に困惑しながら駆け寄ってきた。その顔には不安の色がありありと滲んでいる。
『……いや、あれは精霊族の力ではないだろう。ライオット、ノーム……今まで気づかなかったが、まさか……』
「ど……どういう、ことです?」
ジュードの方を眺めながら呟いたジェントに、シルヴァは怪訝そうな色を乗せてそっと声をかけた。けれど、その疑問に答えてくれたのは、今にもマナに握り潰されそうになっているライオットだ。
「うにに、そうだに。リンカーネイションの力を持つのは、創造主だけだに。十年前……聖王都が陥落した日から、マスターの中にはこの世界の神である蒼竜ヴァリトラが棲んでるんだによ」
「な……」
――ネレイナは、蒼竜ヴァリトラは死んだと言っていた。
けれど、水の大精霊フォルネウスの言葉通りならば、ライオットたち精霊が生きているということは、彼らを創造した神もまた、どこかで生きているということ。
ならば、その神はどこへ行ったのか――そんな疑問を抱いたことは、未だ記憶に真新しい。
「そ……そうよ。吸血鬼と戦った時も、初めてアグレアスたちと戦った時も……まだ、精霊とのコンタクトなんてなかった……ジュードが、自分の中にいる神さまと交信してたのなら……」
「……ああ。辻褄は、合う……」
ジュードが意図的に精霊と交信するようになったのは、火の王都ガルディオンが魔族の襲撃を受けた時からだ。あの時は、シヴァの力を借りてイヴリースを撃退するに至った。それ以前には――ルルーナが言うように、精霊とのコンタクトもなければ、ジュードにそんな力があるなどと誰も思っていなかった。
彼らの話に、ヴィネアはずりずりと尻で更に後退する。背中は壁にぶつかっていてそれ以上は後退できないのに、それでも本能が怯えて止まれなかった。顔からはすっかり血の気が引いて、ただでさえ血色の悪い顔が真っ青になっている。冷や汗がひっきりなしにあふれ、次々に頬を伝い落ちた。
「か、神と……交信してるですって……!? そんな……じゃ、じゃあ、これは……この押し潰されそうな威圧感と気配は――!」
「グルルル……」
「ひっ、い、やぁッ! こ、ごないでッ! ごないでよぉ! 死にたくない、まだっ死にたくな……ッアルシエル様ぁ! ぃぎゃああああああぁ――ッ!」
ヴィネアは、煌々と目を輝かせる白い獣に向けて必死に怒鳴るが、獣――転生したちびは、牙をむき出しに低く唸る。
だが、ジュードが止めないと悟るなり、片方の前足を振り上げて、大きく薙ぎ払った。光を纏う爪による攻撃はヴィネアの身を容易く斬り裂き、恐怖一色に染まったヴィネアの口からは言葉にならない悲鳴が洩れる。その悲痛な叫びはフロア全体に響き渡り、木霊した。
壁際に追い詰められたヴィネアの小さな身は、ちびの攻撃を受けたところから黒い砂となり、そのまま浄化でもされたかのように完全に消えてしまった。後には、彼女を形成していた核も何も、残らなかった。
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