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ギルバートの話
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いつからか、おれは走って帰路に着くようになっていた。
そうして息も切れ切れに家に帰ってまずすることは、制服の襟元を緩める事でもテレビを付けることでもなく、眠る兄の安否を確かめるだけ。
最近の兄は、帰るといつもソファーの上で眠っている。おれにとっての医務室がそうであるように、兄の定位置はここと化していた。
そしてその姿は、今朝の出勤前に見た光景となんら変わっていない。
…今日、彼は目を覚ましたのだろうか?
おれの不安はここだ。
おれの血だけでは到底足りていない兄は確実に飢えている。そうして食事もままならないまま衰弱する兄の身体が生存本能のまま体力を温存しようと、まるで冬眠のように兄を深い眠りに誘うのだ。
寝顔こそ穏やかであるけれど、おれの近づく気配はおろか足音にすら気付けない程に一度眠れば不気味なほどに動かなくなってしまう。
そんな姿を見ているとおれは、もう一生兄が起きないような気さえしてすごく怖い。
だから毎度毎度帰って早々、兄の肩が緩やかに上下しているのを確認する。
ああ、今日も兄は生きているのだ、と。
「兄ちゃん、ただいま。おれ帰ったよ」
内心安堵しながら、おれは兄をそっと叩く。わざわざ起こすのは、身体じゃなくて、魂としての兄に会いたかったから。
兄の身体は相変わらず死体のように冷たくてひんやりとしていた。でもおれを驚かせるのはその感触だ。
服で隠れて気づけなかったが、兄の肩は痩せて筋肉がそげ落ち、骨が浮き上がっていた。
これも、おれが満足に血を与えられていないせい。
兄を説き伏せ人を襲わないよう約束までこじつけたのに、おれ自身は満足な食事量を彼に与えられていない。
…兄が好きで人を襲っていないこと、おれが1番分かっているのに。
「そりゃ腹、空いてるよなぁ…」
……でもおれさ、これでも結構頑張ってんだよ。
それでも報われない事があるなんて。
他人に迷惑をかけないよう最善を尽くしたつもりだ。事実、兄だって我慢して家にいる。なのに、その結末は飢えた先の死だというのか。なら他にどうすればよかったんだよ。
それ程までにおれ達は救いを与えられない存在なのか?
無力な自分に歯痒くて仕方なかった。でも今は、悔しさに浸るよりも先にやるべき事がある。
無力なおれが唯一出来ることは結局ひとつしかないのだ。
一瞬、脳裏に過った心配そうなルドルフの顔をすぐに追いやって、テーブルに置きっぱなしのコップを手元に引き寄せる。
そうして警察官の証として帯刀している短刀を腰から引き抜き、腕に当てがった。後は刃先を真っ直ぐに走らせれば一字の傷口が赤く色づいてき簡単に血が溢れて滴り落ちていくから、腕を傾けコップを順調に満たさせていく。
我ながら慣れたものだ。
昔は自分の腕を切るなんて怖くて何度も怖気付いていたっけ。いざ震える手で切った所で傷は浅すぎて血が全然出ない。なのにとても痛いものだから、おれはその度にたくさん泣いていた。
それを見かねた兄が最初は代わりに腕を切ってくれて、でももっと小さな傷で痛みが少ない様に、いつからか歯を立てて自分で飲んでくれるようになったのだ。
あの優しさが、今や同期のエマが言う恋人同士の流行りで、かつ街に広まる吸血鬼の噂の核へと変貌した。
正直悔しかった。
こっちの気も知らないで、と腹が立った。
何でもかんでも面白おかしく楽しめる連中が心底ムカつくし、でもそれと同時に羨望もまた抱いていた。
だってそれが"普通"なんだから。
おれも、ただ普通に兄と巷の流行りを笑いたかった。
ニュースを見ても何を見ても、罪悪感や焦燥感を感じないまま暮らしたかった。
家を出てから帰ってくるまで死への恐怖に怯えるんじゃなくて、もっと。もっと……
…いつからおれは、普遍的な社会の一員から外れてしまったのだろう。
いつからか、おれは走って帰路に着くようになっていた。
そうして息も切れ切れに家に帰ってまずすることは、制服の襟元を緩める事でもテレビを付けることでもなく、眠る兄の安否を確かめるだけ。
最近の兄は、帰るといつもソファーの上で眠っている。おれにとっての医務室がそうであるように、兄の定位置はここと化していた。
そしてその姿は、今朝の出勤前に見た光景となんら変わっていない。
…今日、彼は目を覚ましたのだろうか?
おれの不安はここだ。
おれの血だけでは到底足りていない兄は確実に飢えている。そうして食事もままならないまま衰弱する兄の身体が生存本能のまま体力を温存しようと、まるで冬眠のように兄を深い眠りに誘うのだ。
寝顔こそ穏やかであるけれど、おれの近づく気配はおろか足音にすら気付けない程に一度眠れば不気味なほどに動かなくなってしまう。
そんな姿を見ているとおれは、もう一生兄が起きないような気さえしてすごく怖い。
だから毎度毎度帰って早々、兄の肩が緩やかに上下しているのを確認する。
ああ、今日も兄は生きているのだ、と。
「兄ちゃん、ただいま。おれ帰ったよ」
内心安堵しながら、おれは兄をそっと叩く。わざわざ起こすのは、身体じゃなくて、魂としての兄に会いたかったから。
兄の身体は相変わらず死体のように冷たくてひんやりとしていた。でもおれを驚かせるのはその感触だ。
服で隠れて気づけなかったが、兄の肩は痩せて筋肉がそげ落ち、骨が浮き上がっていた。
これも、おれが満足に血を与えられていないせい。
兄を説き伏せ人を襲わないよう約束までこじつけたのに、おれ自身は満足な食事量を彼に与えられていない。
…兄が好きで人を襲っていないこと、おれが1番分かっているのに。
「そりゃ腹、空いてるよなぁ…」
……でもおれさ、これでも結構頑張ってんだよ。
それでも報われない事があるなんて。
他人に迷惑をかけないよう最善を尽くしたつもりだ。事実、兄だって我慢して家にいる。なのに、その結末は飢えた先の死だというのか。なら他にどうすればよかったんだよ。
それ程までにおれ達は救いを与えられない存在なのか?
無力な自分に歯痒くて仕方なかった。でも今は、悔しさに浸るよりも先にやるべき事がある。
無力なおれが唯一出来ることは結局ひとつしかないのだ。
一瞬、脳裏に過った心配そうなルドルフの顔をすぐに追いやって、テーブルに置きっぱなしのコップを手元に引き寄せる。
そうして警察官の証として帯刀している短刀を腰から引き抜き、腕に当てがった。後は刃先を真っ直ぐに走らせれば一字の傷口が赤く色づいてき簡単に血が溢れて滴り落ちていくから、腕を傾けコップを順調に満たさせていく。
我ながら慣れたものだ。
昔は自分の腕を切るなんて怖くて何度も怖気付いていたっけ。いざ震える手で切った所で傷は浅すぎて血が全然出ない。なのにとても痛いものだから、おれはその度にたくさん泣いていた。
それを見かねた兄が最初は代わりに腕を切ってくれて、でももっと小さな傷で痛みが少ない様に、いつからか歯を立てて自分で飲んでくれるようになったのだ。
あの優しさが、今や同期のエマが言う恋人同士の流行りで、かつ街に広まる吸血鬼の噂の核へと変貌した。
正直悔しかった。
こっちの気も知らないで、と腹が立った。
何でもかんでも面白おかしく楽しめる連中が心底ムカつくし、でもそれと同時に羨望もまた抱いていた。
だってそれが"普通"なんだから。
おれも、ただ普通に兄と巷の流行りを笑いたかった。
ニュースを見ても何を見ても、罪悪感や焦燥感を感じないまま暮らしたかった。
家を出てから帰ってくるまで死への恐怖に怯えるんじゃなくて、もっと。もっと……
…いつからおれは、普遍的な社会の一員から外れてしまったのだろう。
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