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ギルバートの話
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しおりを挟む「バッティ…帰ってたのかよ」
掠れた声がしたのは、切った右腕の止血を終わらせた頃だった。
コップいっぱいに注いだ血の匂いに充てられたのか、深い眠りからやっと目覚めた兄がむくりと起き上がる。
「あ、ただいま」
「ん。おかえり」
その身体は細くなったというのに、動作一つ一つがとても重たくそれでいてだるそう。容態がかなり悪いんだと嫌でも理解させられた。
だったら尚更。
気怠げな兄におれはすぐコップを差し出した。
「兄ちゃん腹空いたでしょ。はい」
だがタトゥーの手はそれをいくら待っても受け取ってはくれなくて、代わりに含みのある視線が投げかけられるだけだった。
…この人を見透かす様な目が何を意味しているのかおれには分からない。
ただ、この無言の兄が作り出す間からいい展開を迎えた経験は記憶にない。苦手な空気感に雲行きの怪しさを感じていた。
「…兄ちゃん?」
呼んでみるも返事は無い。返事はないが寝起きの悪さが理由では無いはずだ。
困り果てていると、なにかを諦めたかのように目を伏せた兄は乱雑に髪をかきあげる。
「……いい加減うんざりなんだよ」
「え?」
小さい声で思わず聞き逃すところだった。いや、聞こえた所で意図が分からなくておれは結局聞き返すのだが。
なにが?
止まった思考に突如突きつけられた答えは、言葉でなく拳。
ゴツと頬骨を抉られるような音が身体に響いて、おれは痛みなんて感じる間もなく気づけば床に倒れ込んでいた。
「っなにすんだよ!!」
視界の隅では割れたコップから血が零れて床の溝を伝っていく。
意味が分からない。おれ、なにかした?
兄の為に血まで用意したのに。何が気に入らないんだよ。
怒鳴ったのは久しぶりだった。
湧き上がる怒りのままに吠えて兄を睨めつけるのだが、きっと兄にとっておれの睨みなんて恐怖の対象になり得ないのだろう。顔色が少しも変わることはなかった。
それどころか倒れたおれの身体を挟むように仁王立ちした兄は、おれの怒りすらへし折らんばかりに威圧的に顔を近づける。
そうして片眉を上げて言うには、
「なあ、お前はいつまでこのおままごとに俺を付き合わせる気だ?」
「…おままごとってなんだよ。おれはただ、兄ちゃんの為にって思って頑張って…」
「また、それか。兄ちゃんの為に?」
「そうだよ」
そうだ、全部兄の為だ。
兄の為でなければこんなことしない。
だというのにおれの本心を嘲笑うかのように兄は鼻で笑った。そうしてコップを受け取らなかった手はおれの包帯を巻いた右腕に伸びてきて、何故かぐいと引き寄せられる。止血はしようと今の今まで血を流していた傷だ、無闇に動かされればズキンと刺されたような痛みが走る。うっ、と小さく呻いたのも束の間、
「い"っっ!!!!」
電気が走ったかのように悪寒が一瞬で身体を駆け巡った。後から感覚を満たすのは腕にかけて痺れる程の激痛。…兄だ。
包帯の上から傷口を探し当てた兄の親指が爪を立て食い込ませているのだ。意地の悪い指に力がかけられる度に悲鳴がもれておれの視界は溢れる涙で掠れる。
「っ離せよ!やめて!!」
とうとう脂汗まで滲み出てきた。
逃れようにも、兄は片手でしっかりおれの右手を握って離してくれそうにない。この細くなった腕のどこから力が出ているというのか、もがく度に兄の兄の指が傷口を抉って更なる激痛を呼び寄せる。
「兄ちゃんってば!!」
「聞こえてるよ。俺のせいでこんな傷こしらえましたって言うんだろ」
「せいなんて言ってねーだろ!おれは!兄ちゃんが死んじゃわない様にと思って!!」
「あは。死なねぇようにねぇ」
乾いた笑いを零す兄は、眉を顰めると、
「てめぇも女々しい男だな、バッティ。
こんななんの足しにもならねぇ量ばっか絞り出して、無駄でしかねぇって分かんねぇかな」
「それは…」
「お前は他人の役にたった気になりてぇんだろ?それか、俺を殺す責任背負いたくねぇってだけか」
「……」
兄の紡ぐ言葉はどうしてこうも人を傷つけるんだろう。パッと飽きたかのようにやっと腕が開放されたが、おれの心はまだ痛い。
「なあ、バッティ。正直に言ってみろよ」
おれを頭ごなしに否定して拒絶する彼に言いたいことは山ほどあったけど、結局全てが喉に引っ掛かって出てこようとしない。
「…分かってるよ、おれだって。兄ちゃんがおれの血で足りてねーのとか、分かってる」
やっと絞り出せたのは、反論にもならないなんとも弱気な言い分だった。
でもどんなに身を削って血を与えても弱っていく兄に、おれだって色々考えたに決まっている。
兄もおれも、もう限界に近い事は薄々悟っていた。
血が足りず衰弱する兄、血を与えすぎて貧血で日常生活もままならなくなっているおれ。もうどちらかが死ななければ生きられない程、この生活が破綻しているなんて嫌でも気づいていた。
最初こそ上手くやれていたのに、きっとおれ達の常識を覆した代償は行き着く所まで行ってしまったのだ。
そんな状態だからこそ、飢える兄にとっておれが与えられるわずかな食事は、返って残酷であることも薄々分かっていた。
だってそれは、生き地獄のような苦しく辛い時間を無闇に伸ばしているだけなのだろうから。
でもそんな事をしたのは兄の考える偽善とか義務感じゃない。もっと根本的な話しだ。
弱る兄を見て何もしないなんて出来ないに決まってるじゃないか。何とかしても助けてあげたいって思わずにはいられない。
例えこの先更に辛い思いをしてしまうかもしれなくても、一瞬でいいから少しでも辛さを和らげてあげたいって、普通思うだろ。
「ただ、おれは兄ちゃんに少しでも楽になって欲しかっただけ。だっておれ達、家族じゃんかよ……」
それ以外に理由がいるだろうか。
兄の言うような打算的な目的がないといけないのかよ。
兄は何も言わない。ただ一瞬だけ、いつも顔色一つ変えない兄が僅かに目を見張ったようだった。
そんなに驚く必要があるだろうか。
おれは初めて血を与えた時からずっと変わっていない。ただ、兄に死んで欲しくないだけでしかないのだから。
おれは昔から、兄と一緒に居るこの生活を守りたかっただけだ。なんでこんな当たり前のことすら、分かってくれないんだろう。
「ねえ、兄ちゃん。おれ、兄ちゃんにはずっと生きてて欲しいんだよ。その為ならおれ、なんだってする」
少しの間、おれ達は見つめ合っていた。兄はまた真意を探る為におれを見つめていたのかもしれないが、おれだって本心でしかないから視線を逸らす必要もない。
こんなにも兄の目を真正面から見つめたのは随分と久しぶりな気さえした。鏡の中で見ている自分の目と同じ色がじぃっとおれを捉えている。
先に視線を逸らしたのは兄の方だった。てっきりおれはやっと理解してくれたのだとばかり思っていたのだが、押し黙っていた兄はただ一言、吐き捨てる。
「……ふざけんな」と。
肩を震わせる兄は、殺意すら感じる程におれを睨みつけた。そこに滲んでいたのは、あきらかな拒絶だ。
「なんで……」
「黙って聞いてりゃ俺の為俺の為って恩着せがましいんだよ!!」
本当に怒鳴る兄をおれは久しぶりに見たのかもしれない。こんな感情的な兄は初めて…
「教えてくれよバッティ、俺がいつこんなこと頼んだ!いつ俺が望んだって言うんだよ!!」
兄はいつもおれに罵声を浴びせ暴力をふるうときも笑っていて、それが彼の怒りの表情だとすら思っていた。
でも目の前の兄は違う、そこには敵意しかなく正に怒りそのものだった。それこそ……昔の記憶が甦りそうになった時にはおれは押し倒され、馬乗りにされていた。
悲しい感情ばかりが溢れる中で、ああ、またこうなってしまうんだなと、どこかで冷静な自分がいる。
どんなに言葉を重ねても兄とはすれ違って、空回ってばかりだ。
…いつから兄とおれはこんなにも違えるようになってしまったのだろう。
兄の瞳を間近で見上げながら、兄の柔らかい髪が垂れ下がって頬を擽る。
昔はこの距離で笑いあっていた。でも今おれに向けられるのは憎しみだけだ。
どうしてこうなってしまったのだろう。
おれ達はどこで間違えたのだろう。
どうして兄と暮らすただ少しの事がこんなにも難しいのだろう。
痛みとは違う涙が情けなく流れ落ちる。
悔しいし、なにより悲しかった。
この瞬間に、おれは思ってしまったのだ。
別に今日が最後の日でもいい、と。
「…兄ちゃん、おれいいよ」
「なにが」
「おれの血全部、あげる」
「……」
おれ達はやはり、行き着くところまで行ってしまったのだ。
血が足りなくて兄が飢えて死ぬか、
大量出血でおれが死ぬか、
そのどちらかの選択肢しか残されていないのなら、おれは迷わず後者を選ぶ。
気を失う前におれはまた、身体に響く鈍痛の音を聞いた。
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