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単発短編集

牢にて候、郎得て翻弄

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「私がナターシャよ。ナターシャ・ウィンザー、よろしくね」

彼女はそう言って、手を差し伸べてきた。



*


当時をあまり覚えていない。水滴の音がポツン、忘れた頃にまたポツンと耐えず続いていた。そこは暗い地下の階、鉄格子で三方を囲まれた冷たい獄、背にするのはボロのベッド、もしくはゴツゴツとした岩肌の壁。
手首についた手錠が常にうるさい音を立てて、それ以上にうるさい看守に起されるまま何時でも起きて、問われて、首を降って殴られる。この繰り返しがずっと続いていたのだ。今日が何日なのかも、あの忌まわしき事件から何日経ったのかも、もう考えても分からなかった。

「ねえ」

促すような声に顔を上げる。
まだ子供じみた顔の彼女は、子供に似合わず俺を睨みつけていた。
浮きっぱなしの片手。握手しろ、と言わんばかり。
やれやれと思いながら、彼女の手を取った。

小さい。これで生活安全課の長を務めているのだからちゃんちゃらおかしい話だ。まあ、署長の妹らしい彼女はどうせがコネ。

「名前」
「アレン」
「具合は?」
「普通」
「その手」

矢継ぎ早な質問の末に彼女に手首を指さされた。今の今まで手錠がされていたこの手は、擦れて爛れて血が出て抉られ。解放されてもなお傷が手錠のようにぐるりと巡らされていた。

「痛い?」
「別に…っ!」
「ウソついたわね。アンタは私と取引したのよ。この私にウソをつくって事は私の信頼を損なうものだって知る事ね」

そりゃ、誰だって傷口に爪を立てられれば痛いだろう。睨みつけたが、彼女にはどこ吹く風。というかこちらすら見ていない。
傷をじいっと眺めてチッと舌打ちすると、牢の外の看守に命じて救急箱を取ってこさせた。そして俺に向き直る。

「他は」
「何が」
「怪我よ。あるの?」
「いえ」
「ふぅん。優しい刑事が担当だったとは思えないけど」

それ以上に、もう怪我が残らない身体になってしまったのだけど。
首のは?と聞かれて首を振る。

「これは別ので」
「そう」

看守から救急箱を受け取った彼女は、箱を開け中身と少し睨み合う。扱いを知らないのか、手をさ迷わせながら薬と包帯とを取り出すと、やはりぎこちない手つきで、手首に出来た傷の手錠をクルクルと巻いていく。

「初めてこんなことするんだもの、許して頂戴ね」

幾分か不格好な出来栄えに、彼女は苦い顔をした。どうせ手錠でできた傷も、手錠が外れたのだから明日になれば消えているはずだが、敢えて言うのはなんだか憚られた。

「早くこんな所から出ましょ」と彼女は言う。

牢屋以上に自由を感じさせないのは何故だろう。腰を上げればなんとも不思議な話、しばらく立って居なかったせいか足の裏は違和感ばかりを訴えた。

彼女の後に続いて牢を出て、地下を出る。
階段を登り地上階に出ると、久しぶりに見た窓の景色は既に季節が変わっていた。
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