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第9話
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病院の職員用の部屋には誰もいなくて、人に助けを求めることはできなかった。
変質者になら罵声を浴びせられるが、指導医の中川さんに対して、同じような対処をしてよいものか、私はまだ迷っていた。
「注意してもいいか」
唐突に中川さんに聞かれ、説教をするために連れてこられたのかと思った。
考えてみれば、協調性に欠けているところ、積極的に目上の先生方と交流しようとしないこと、いくらでも説教を受ける素質があった。
覚悟を決めて「はい」と言うと、中川さんは私の肩をつかまえてキスをした。頭の中で、注意してもいいかではなくて、チューしてもいいかと言っていたのかと理解した時には、すでに押し倒されていた。
大変なことになったと思い、無我夢中で抵抗した。押さえつける手に爪を立て、悔しくて泣きながら、なぜかは知らないけど「嘘だ」と何度も口走っていた。
急に押さえつけていた手が緩んで、「おい、大丈夫か」と中川さんの声が聞こえた。
私は急いで立ち上がろうとしたが、力が入らずに座り込んだ。両手で耳をふさぎながら何も考えられずに、ため息ばかりが出た。
放心状態の私の耳には「お前がそういうやつだとは知らなかった」とか、白々しい言い訳ばかりが小さく聞こえていた。
家に帰ってからようやく安心し、とりあえず寝ることにした。
いくら考えてもわからない時は、寝るに限る。
私は昼過ぎまで寝ていた。起きてからシャワーを浴び、万里子に話そうと思った。今回は、藤木君の時と違って一人で抱えられるような話ではなかった。
万里子に連絡すると、すぐに家まで来てくれた。
「せっかくの休日にごめんね」
万里子が楽しく過ごせるはずの時間を奪い、嫌な話に付き合わせてしまうことが申し訳なかった。
謝る私の背中を優しくさすりながら万里子は言った。
「そんなことより早く何があったのかを話して」
あった出来事を順序立てて話していくうちに、注意とチューの聞き間違いについても言わざるをえなくなった。
私が恥ずかしさをこらえて話すと、万里子は一瞬呆れたような顔をしたが、笑いはしなかった。
さて、これからどうするかとなった時、一つ大きな問題があった。中川さんは既婚者だった。
自分から誘惑したわけではないと断言はできるが、こういうことになったのは何かしら自分にも隙のようなものがあるのだろうと思った。
「萌ちゃんは悪くないよ。警察に言うべきなんじゃないかな」
万里子が語気を強めた。
「そうなのかな」
でも、警察に話した時に、あの聞き間違いがどのように判断されるかは考えるまでもないような気がした。二人で考え込んでいたが、考えていることはおそらく同じだった。
「なんで肝心なところで聞き間違えたりするんだろう。自分が嫌になるよ」
「仕方ないよ。今どきチューなんていう人いないから」
「確かにそうだけど。それにしても、痛恨のミスだ」
「いや、それ人生で一番恐ろしい凡ミスですから」
万里子の的確な形容に私が思わずふきだすと、万里子は「笑い事じゃないから」と叱りながら、少しほっとしたような顔をしていた。
「藤木には話したの?」
「話してない。藤木君には頼りたくないから」
「藤木は頼りにならないか。まあ指導医が相手だと太刀打ちできないよね」
私は結論を出した。
「わいせつ行為には該当すると思うけど、途中ですぐに止めたから妊娠の可能性もないし、今後の教訓にするよ」
騒ぎ立てたとしても、誰にとっても良いことはないだろう。今後、自分さえ気を付ければ済む話だと思った。
中川さんだって酒で酔っていて覚えていないかもしれない。できれば忘れていてほしい。
万里子と顔を見合わせて、力なくふふふと笑った。
「犬にかまれたと思って忘れちゃえ」
「それは駄目。犬は可愛い生き物だから」
それからしばらく普段通りに生活しようと心がけたが、時々、自分自身について考えることがあった。
圧倒的な恋愛経験不足。これがこれまでの私のトラブルの一因だということは明らかだった。
男女の暗黙のルールを知らないことは、この年齢ではありえないことなのかもしれない。知らなかったではすまされない。
でも、中学生や高校生の時は、将来の夢を実現させようと考えるので精いっぱいで、恋愛などしようとも思わなかった。
私の将来の夢は、医療で人類に貢献することだった。もともと生き物が好きだった私は、初めて資料集で「細胞のつくり」の図を見た時、衝撃に近いものを感じた。
生きている自分を構成する最小単位である細胞。その細胞をつつむ細胞膜の中には、核を中心に、ミトコンドリアやゴルジ体など形の異なる様々な器官があり、エネルギーを作り出したり、タンパク質を合成したりしている。
私には核が、地球の姿そのものに見えた。細胞膜にあたるものは、大気圏の果てにあるのだろうか。もしかしたら、大気圏の果てにあるのは核膜で、細胞膜はより遠い宇宙の果てにあるのかもしれない。
こういったことを考えると、胸がわくわくしてたまらなかった。もっと生き物についてよく知りたいと思い、いつしか生命の根本が何なのか突き止めたいと考えるようになっていた。
純粋に夢を追ってきたつもりだったけど、その生き方が間違っていたのだろうか。
でも、あの時はそういう生き方しかできなかった。それでよかったはずだ。
自分に言い聞かせながら、目の前に立ちはだかる人間関係によって築かれた大きな壁を見つめた。
相手の表情などを見ていれば、人の気持ちはわかるはずなのに、男たちのつく嘘になぜこうも簡単に引っかかってしまうのだろうか。
そもそも、なぜ彼らは嘘をつくのだろう。
「自分の思い通りに事を動かしたいからだ」
当然ともいえる答えを導き出した後、私は絶対に嘘をつくような不誠実な人とは恋愛したくないと思った。
変質者になら罵声を浴びせられるが、指導医の中川さんに対して、同じような対処をしてよいものか、私はまだ迷っていた。
「注意してもいいか」
唐突に中川さんに聞かれ、説教をするために連れてこられたのかと思った。
考えてみれば、協調性に欠けているところ、積極的に目上の先生方と交流しようとしないこと、いくらでも説教を受ける素質があった。
覚悟を決めて「はい」と言うと、中川さんは私の肩をつかまえてキスをした。頭の中で、注意してもいいかではなくて、チューしてもいいかと言っていたのかと理解した時には、すでに押し倒されていた。
大変なことになったと思い、無我夢中で抵抗した。押さえつける手に爪を立て、悔しくて泣きながら、なぜかは知らないけど「嘘だ」と何度も口走っていた。
急に押さえつけていた手が緩んで、「おい、大丈夫か」と中川さんの声が聞こえた。
私は急いで立ち上がろうとしたが、力が入らずに座り込んだ。両手で耳をふさぎながら何も考えられずに、ため息ばかりが出た。
放心状態の私の耳には「お前がそういうやつだとは知らなかった」とか、白々しい言い訳ばかりが小さく聞こえていた。
家に帰ってからようやく安心し、とりあえず寝ることにした。
いくら考えてもわからない時は、寝るに限る。
私は昼過ぎまで寝ていた。起きてからシャワーを浴び、万里子に話そうと思った。今回は、藤木君の時と違って一人で抱えられるような話ではなかった。
万里子に連絡すると、すぐに家まで来てくれた。
「せっかくの休日にごめんね」
万里子が楽しく過ごせるはずの時間を奪い、嫌な話に付き合わせてしまうことが申し訳なかった。
謝る私の背中を優しくさすりながら万里子は言った。
「そんなことより早く何があったのかを話して」
あった出来事を順序立てて話していくうちに、注意とチューの聞き間違いについても言わざるをえなくなった。
私が恥ずかしさをこらえて話すと、万里子は一瞬呆れたような顔をしたが、笑いはしなかった。
さて、これからどうするかとなった時、一つ大きな問題があった。中川さんは既婚者だった。
自分から誘惑したわけではないと断言はできるが、こういうことになったのは何かしら自分にも隙のようなものがあるのだろうと思った。
「萌ちゃんは悪くないよ。警察に言うべきなんじゃないかな」
万里子が語気を強めた。
「そうなのかな」
でも、警察に話した時に、あの聞き間違いがどのように判断されるかは考えるまでもないような気がした。二人で考え込んでいたが、考えていることはおそらく同じだった。
「なんで肝心なところで聞き間違えたりするんだろう。自分が嫌になるよ」
「仕方ないよ。今どきチューなんていう人いないから」
「確かにそうだけど。それにしても、痛恨のミスだ」
「いや、それ人生で一番恐ろしい凡ミスですから」
万里子の的確な形容に私が思わずふきだすと、万里子は「笑い事じゃないから」と叱りながら、少しほっとしたような顔をしていた。
「藤木には話したの?」
「話してない。藤木君には頼りたくないから」
「藤木は頼りにならないか。まあ指導医が相手だと太刀打ちできないよね」
私は結論を出した。
「わいせつ行為には該当すると思うけど、途中ですぐに止めたから妊娠の可能性もないし、今後の教訓にするよ」
騒ぎ立てたとしても、誰にとっても良いことはないだろう。今後、自分さえ気を付ければ済む話だと思った。
中川さんだって酒で酔っていて覚えていないかもしれない。できれば忘れていてほしい。
万里子と顔を見合わせて、力なくふふふと笑った。
「犬にかまれたと思って忘れちゃえ」
「それは駄目。犬は可愛い生き物だから」
それからしばらく普段通りに生活しようと心がけたが、時々、自分自身について考えることがあった。
圧倒的な恋愛経験不足。これがこれまでの私のトラブルの一因だということは明らかだった。
男女の暗黙のルールを知らないことは、この年齢ではありえないことなのかもしれない。知らなかったではすまされない。
でも、中学生や高校生の時は、将来の夢を実現させようと考えるので精いっぱいで、恋愛などしようとも思わなかった。
私の将来の夢は、医療で人類に貢献することだった。もともと生き物が好きだった私は、初めて資料集で「細胞のつくり」の図を見た時、衝撃に近いものを感じた。
生きている自分を構成する最小単位である細胞。その細胞をつつむ細胞膜の中には、核を中心に、ミトコンドリアやゴルジ体など形の異なる様々な器官があり、エネルギーを作り出したり、タンパク質を合成したりしている。
私には核が、地球の姿そのものに見えた。細胞膜にあたるものは、大気圏の果てにあるのだろうか。もしかしたら、大気圏の果てにあるのは核膜で、細胞膜はより遠い宇宙の果てにあるのかもしれない。
こういったことを考えると、胸がわくわくしてたまらなかった。もっと生き物についてよく知りたいと思い、いつしか生命の根本が何なのか突き止めたいと考えるようになっていた。
純粋に夢を追ってきたつもりだったけど、その生き方が間違っていたのだろうか。
でも、あの時はそういう生き方しかできなかった。それでよかったはずだ。
自分に言い聞かせながら、目の前に立ちはだかる人間関係によって築かれた大きな壁を見つめた。
相手の表情などを見ていれば、人の気持ちはわかるはずなのに、男たちのつく嘘になぜこうも簡単に引っかかってしまうのだろうか。
そもそも、なぜ彼らは嘘をつくのだろう。
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