34 / 118
【8】-1
しおりを挟む
清正に彼女ができたと、初めてそんな噂を聞いたのは、高校一年の時だった。五月の連休が明けて何日が経った頃、教室の隅を流れる会話で耳にした。
その日は清正がいないのを承知で上沢の家に行き、青いベンチに座ってぼんやりしていた。
何も考えないように慎重に心を殺して、アンジェラの花びらが散るのをいつまでも見ていた。
花の色は薄紅よりも銀色に見えて、世界には案外色が少ないのだと思って寂しくなった。
光に気が付いた聡子がテラス窓を開けて、黄色い琵琶の実をいくつかくれた。
その時から、光はなんとなく琵琶が好きではなくなった。聡子のせいではないし、琵琶にも罪はない。
甘く黄色い果実を食べなくなった自分を、今もどこかで申し訳なく思っている。
薔薇企画を出た光は、コインパーキングに停めたクルマに乗ると、運転席でしばらくぼんやりしていた。
それからふと、時間はまだかなり早いけれど汀を迎えに行こうと思った。
汀の保育所は薔薇企画の本社からわりと近い。上沢に帰ってまた迎えに来るよりも、今日はこのまま汀と帰ってしまおうと思った。
駅に隣接するビルの地下駐車場にクルマを入れ、地上に出て広い通りの向こうに並ぶビルを眺めた。
ペデストリアンデッキを囲むのは幹線道路や商業施設ばかりで、近くに公園や緑地などはない。葉を落とした街路樹の銀杏だけが季節の移り変わりを教えていた。
排気ガスの混じる冷たい空気を吸い込みながら、高い場所にある窓を見上げた。
汀の保育所があるのは四階で、高所にある窓は安全のために全て嵌め殺しになっている。
エレベーターを降りて、ホールの先にある強化硝子の扉を開ける。正面の椅子に腰かけていた女性職員が、唇の前に指を一本立てた。
昼寝の時間なのだ。
半透明のポリカーボネートで仕切られたスペースに、カーテン越しの鈍い光が差している。いくつも連なる小さな山が健やかな寝息を立てていた。
薄明りに包まれた室内は、水の底のように青く静かだった。
マスクと眼鏡を外して会釈をすると、職員は怪訝な顔をした。だが、すぐに合点したように頷き、口元をほころばせた。
席を立って、仕切りの向こうの毛布の山の一つにそっと近付いて優しく触れる。
抱き起された汀が、半分眠りかけた目をこすってこちらを見た。光の顔を確認すると、嬉しそうに両手を伸ばした。
職員に何か聞かれて大きく頷いている。
ほかの子どもを起こさないように、職員はゆっくりと抱き上げた汀を運んできた。静寂が支配する室内で、無言のまま頭を下げて小さな塊を受け取った。
半分眠ったような汀は少し重かった。
硝子の扉を出てエレベーターを待ちながら、ふわふわした髪に囁いた。
「眠いか」
返事をする前に汀はことんと光の肩に頭を預け、寝息を立て始める。額にかかる髪が湿っていて、甘い匂いが鼻孔をくすぐった。
リュックごとコートの中に抱いて、冷たい空気の中を駅まで戻った。
クルマに乗せ、チャイルドシートの上から毛布を掛けると、汀は一度目を開けかけたが、すぐにまた寝息を立て始めた。
三十分ほど走って上沢の家に着いた。
ぐっすり眠ったからか、汀は機嫌よく目を覚ました。
その日は清正がいないのを承知で上沢の家に行き、青いベンチに座ってぼんやりしていた。
何も考えないように慎重に心を殺して、アンジェラの花びらが散るのをいつまでも見ていた。
花の色は薄紅よりも銀色に見えて、世界には案外色が少ないのだと思って寂しくなった。
光に気が付いた聡子がテラス窓を開けて、黄色い琵琶の実をいくつかくれた。
その時から、光はなんとなく琵琶が好きではなくなった。聡子のせいではないし、琵琶にも罪はない。
甘く黄色い果実を食べなくなった自分を、今もどこかで申し訳なく思っている。
薔薇企画を出た光は、コインパーキングに停めたクルマに乗ると、運転席でしばらくぼんやりしていた。
それからふと、時間はまだかなり早いけれど汀を迎えに行こうと思った。
汀の保育所は薔薇企画の本社からわりと近い。上沢に帰ってまた迎えに来るよりも、今日はこのまま汀と帰ってしまおうと思った。
駅に隣接するビルの地下駐車場にクルマを入れ、地上に出て広い通りの向こうに並ぶビルを眺めた。
ペデストリアンデッキを囲むのは幹線道路や商業施設ばかりで、近くに公園や緑地などはない。葉を落とした街路樹の銀杏だけが季節の移り変わりを教えていた。
排気ガスの混じる冷たい空気を吸い込みながら、高い場所にある窓を見上げた。
汀の保育所があるのは四階で、高所にある窓は安全のために全て嵌め殺しになっている。
エレベーターを降りて、ホールの先にある強化硝子の扉を開ける。正面の椅子に腰かけていた女性職員が、唇の前に指を一本立てた。
昼寝の時間なのだ。
半透明のポリカーボネートで仕切られたスペースに、カーテン越しの鈍い光が差している。いくつも連なる小さな山が健やかな寝息を立てていた。
薄明りに包まれた室内は、水の底のように青く静かだった。
マスクと眼鏡を外して会釈をすると、職員は怪訝な顔をした。だが、すぐに合点したように頷き、口元をほころばせた。
席を立って、仕切りの向こうの毛布の山の一つにそっと近付いて優しく触れる。
抱き起された汀が、半分眠りかけた目をこすってこちらを見た。光の顔を確認すると、嬉しそうに両手を伸ばした。
職員に何か聞かれて大きく頷いている。
ほかの子どもを起こさないように、職員はゆっくりと抱き上げた汀を運んできた。静寂が支配する室内で、無言のまま頭を下げて小さな塊を受け取った。
半分眠ったような汀は少し重かった。
硝子の扉を出てエレベーターを待ちながら、ふわふわした髪に囁いた。
「眠いか」
返事をする前に汀はことんと光の肩に頭を預け、寝息を立て始める。額にかかる髪が湿っていて、甘い匂いが鼻孔をくすぐった。
リュックごとコートの中に抱いて、冷たい空気の中を駅まで戻った。
クルマに乗せ、チャイルドシートの上から毛布を掛けると、汀は一度目を開けかけたが、すぐにまた寝息を立て始めた。
三十分ほど走って上沢の家に着いた。
ぐっすり眠ったからか、汀は機嫌よく目を覚ました。
0
あなたにおすすめの小説
流れる星は海に還る
藤間留彦
BL
若頭兄×現組長の実子の弟の血の繋がらない兄弟BL。
組長の命で弟・流星をカタギとして育てた兄・一海。組長が倒れ、跡目争いが勃発。実子の存在が知れ、流星がその渦中に巻き込まれることになり──。
<登場人物>
辻倉一海(つじくらかずみ) 37歳。身長188cm。
若い頃は垂れ目で優しい印象を持たれがちだったため、長年サングラスを掛けている。 組内では硬派で厳しいが、弟の流星には甘々のブラコン。
中村流星(なかむらりゅうせい) 23歳。身長177cm。
ストリートロックファッション、両耳ピアス。育ててくれた兄には甘えん坊だが、兄以外の前では──。
表紙イラストは座頭狂様に描いて頂きました✨ ありがとうございます☺️
優しい檻に囚われて ―俺のことを好きすぎる彼らから逃げられません―
無玄々
BL
「俺たちから、逃げられると思う?」
卑屈な少年・織理は、三人の男から同時に告白されてしまう。
一人は必死で熱く重い男、一人は常に包んでくれる優しい先輩、一人は「嫌い」と言いながら離れない奇妙な奴。
選べない織理に押し付けられる彼らの恋情――それは優しくも逃げられない檻のようで。
本作は織理と三人の関係性を描いた短編集です。
愛か、束縛か――その境界線の上で揺れる、執着ハーレムBL。
※この作品は『記憶を失うほどに【https://www.alphapolis.co.jp/novel/364672311/155993505】』のハーレムパロディです。本編未読でも雰囲気は伝わりますが、キャラクターの背景は本編を読むとさらに楽しめます。
※本作は織理受けのハーレム形式です。
※一部描写にてそれ以外のカプとも取れるような関係性・心理描写がありますが、明確なカップリング意図はありません。が、ご注意ください
平凡ワンコ系が憧れの幼なじみにめちゃくちゃにされちゃう話(小説版)
優狗レエス
BL
Ultra∞maniacの続きです。短編連作になっています。
本編とちがってキャラクターそれぞれ一人称の小説です。
女子にモテる極上のイケメンな幼馴染(男)は、ずっと俺に片思いしてたらしいです。
山法師
BL
南野奏夜(みなみの そうや)、総合大学の一年生。彼には同じ大学に通う同い年の幼馴染がいる。橘圭介(たちばな けいすけ)というイケメンの権化のような幼馴染は、イケメンの権化ゆえに女子にモテ、いつも彼女がいる……が、なぜか彼女と長続きしない男だった。
彼女ができて、付き合って、数ヶ月しないで彼女と別れて泣く圭介を、奏夜が慰める。そして、モテる幼馴染である圭介なので、彼にはまた彼女ができる。
そんな日々の中で、今日もまた「別れた」と連絡を寄越してきた圭介に会いに行くと、こう言われた。
「そーちゃん、キスさせて」
その日を境に、奏夜と圭介の関係は変化していく。
ハイスペックED~元凶の貧乏大学生と同居生活~
みきち@書籍発売中!
BL
イケメン投資家(24)が、学生時代に初恋拗らせてEDになり、元凶の貧乏大学生(19)と同居する話。
成り行きで添い寝してたらとんでも関係になっちゃう、コメディ風+お料理要素あり♪
イケメン投資家(高見)×貧乏大学生(主人公:凛)
地味メガネだと思ってた同僚が、眼鏡を外したら国宝級でした~無愛想な美人と、チャラ営業のすれ違い恋愛
中岡 始
BL
誰にも気づかれたくない。
誰の心にも触れたくない。
無表情と無関心を盾に、オフィスの隅で静かに生きる天王寺悠(てんのうじ・ゆう)。
その存在に、誰も興味を持たなかった――彼を除いて。
明るく人懐こい営業マン・梅田隼人(うめだ・はやと)は、
偶然見た「眼鏡を外した天王寺」の姿に、衝撃を受ける。
無機質な顔の奥に隠れていたのは、
誰よりも美しく、誰よりも脆い、ひとりの青年だった。
気づいてしまったから、もう目を逸らせない。
知りたくなったから、もう引き返せない。
すれ違いと無関心、
優しさと孤独、
微かな笑顔と、隠された心。
これは、
触れれば壊れそうな彼に、
それでも手を伸ばしてしまった、
不器用な男たちの恋のはなし。
愛しの妻は黒の魔王!?
ごいち
BL
「グレウスよ、我が弟を妻として娶るがいい」
――ある日、平民出身の近衛騎士グレウスは皇帝に呼び出されて、皇弟オルガを妻とするよう命じられる。
皇弟オルガはゾッとするような美貌の持ち主で、貴族の間では『黒の魔王』と怖れられている人物だ。
身分違いの政略結婚に絶望したグレウスだが、いざ結婚してみるとオルガは見事なデレ寄りのツンデレで、しかもその正体は…。
魔法の国アスファロスで、熊のようなマッチョ騎士とツンデレな『魔王』がイチャイチャしたり無双したりするお話です。
表紙は豚子さん(https://twitter.com/M_buibui)に描いていただきました。ありがとうございます!
11/28番外編2本と、終話『なべて世は事もなし』に挿絵をいただいております! ありがとうございます!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる