42 / 118
【10】-1
しおりを挟む
翌日も作業時間は夜に回すことにして、昼寝の時間の前に汀を迎えに行った。
前の日と同じ公園に行き、顔に笑みを張り付けて母親たちに会釈し、汀が遊ぶのを見守った。
型抜きという特技が自信を与えているのか、最初のように不安そうな様子を見せることもなく、汀は元気に動き回っている。
夕方になると、仲良くなった子どもたちに手を振って家路についた。
たっぷり遊んだ満足感と疲労とで、夕食を終えて風呂から出ると汀は早々に舟をこぎ始めた。
「汀、もう寝るか?」
「ん……。ひかゆちゃんも、ねんね……」
しがみついてくる身体を抱き上げて、清正と汀の寝室に運ぶ。
「なあ汀、新しいリュック、作ってやろうか」
「……りゅく?」
「うん。保育所に行くときの、かばん。いる?」
「おかばん……」
セミダブルのベッドの壁際に汀を下ろすと、「おかばん、いゆ」と、半分寝言のような答えが返った。
その返事に満足し、汀が寝息を立てるまでゆっくり背中を叩いていた。
横になっているうちに光の瞼も重くなる。二日も続けて慣れない気配りをしたせいか、なんだかひどく疲れていた。
息を吸うと清正の匂いがした。
幸福な気持ちと切なさとが混じったような、甘い痛みが胸の奥で疼いた。
瞼の裏にきらきらと眩しい初夏の日差しが瞬く。
明るい光の中で淡いピンク色の花びらが舞っていた。
アンジェラ。五月の庭は楽園のようで……。
――十五の春。
もしも、あれが夢でなかったのなら……。閉じていた心の扉がゆっくりと開いてゆく。
眠ったままだったのか、眠ったふりをしていたのか自分でもわからない。
だから、夢なのか現実なのかもわからなかった。温かい手に頬を包まれて、それが清正の手だとわかって嬉しくなった。
それから……。
キスをした。
ふいに触れた唇の意味を理解できず、動くことができなかった。
心臓は壊れそうなほど大きく鳴っていたのに、身体はまるで痺れたようで、目を開けることさえできず……。
ゆっくりと清正の気配が離れていった。
明るい日差しの下で目を開け時、光は一人だった。
静かな午後が横たわるだけ。むせ返るほどの薔薇の香りと五月の日差しが、青いベンチの上に零れ落ちていた。
音もなく花びらが散っていた。
夢を見たのだと思った。
甘い胸の痛みから目を逸らし、心の奥の深い場所に隠して鍵をかけた。
かすかな息遣いとともに汀が寝返りを打った。体温の高い小さな身体から汗と石鹸の香りが立ち、目を閉じたまま汀の柔らかい頬に鼻先を触れさせた。
清正に……。
彼女ができたと聞いたのは、あの夢を見た直後だ。
だから、あれはやはり夢だったのだと光は思った。
清正は女の子と付き合う。当たり前のことだ。心の中で何度もそう繰り返した。
しょっちゅう誰かに告白されていても、清正が誰かと付き合う日がくるとは、なぜか考えていなかった。
清正は女の子に興味がないのだと、勝手にずっと思っていたのだ。高校生にもなればみんな変わるのだと、そんなごく普通のことに気付かずにいた。
光は変わらなかったから。
いつまで経っても、黙々と何かを作り続けるだけだったから。
最初の彼女とはあっという間に別れ、清正はいつの間にか別の誰かと付き合い始めていた。その後も、すぐにまた違う名前の誰かが隣を歩いていた。
清正は女の子にモテるし、次々といろんな子と付き合う。でも、すぐに別れる。
少しずつ、光はそれに慣れていった。
一度清正の彼女になった人たちは、別れた後は清正から遠いところに行ってしまった。友だちでもクラスメイトでもなく、見知らぬ他人になってしまったのだ。
あの人たちはそれでよかったのだろうかと、光は時々考えた。
一時的な歓びと引き換えに永遠に清正を失うことになっても、彼女たちは耐えられるのだろうかと。
光には無理だ。
男の光が清正を手に入れることはないだろうけれど、たとえあったとしても、いつかもっと遠くへ離れていくのなら、手に入れたくないと思った。
清正を失ったら生きられない。
清正に何人彼女ができても、友だちのままそばにいると決めた。
胸の痛みに名前は付けず、心の扉に鍵をかけて。
朱里との結婚を知った時、光の心は麻痺していた。
胸の痛みを感じた記憶もない。
それなのに、昨日、松井と一緒にいる清正の姿を目にした時、忘れていた痛みが錐のように胸を貫いた。
前の日と同じ公園に行き、顔に笑みを張り付けて母親たちに会釈し、汀が遊ぶのを見守った。
型抜きという特技が自信を与えているのか、最初のように不安そうな様子を見せることもなく、汀は元気に動き回っている。
夕方になると、仲良くなった子どもたちに手を振って家路についた。
たっぷり遊んだ満足感と疲労とで、夕食を終えて風呂から出ると汀は早々に舟をこぎ始めた。
「汀、もう寝るか?」
「ん……。ひかゆちゃんも、ねんね……」
しがみついてくる身体を抱き上げて、清正と汀の寝室に運ぶ。
「なあ汀、新しいリュック、作ってやろうか」
「……りゅく?」
「うん。保育所に行くときの、かばん。いる?」
「おかばん……」
セミダブルのベッドの壁際に汀を下ろすと、「おかばん、いゆ」と、半分寝言のような答えが返った。
その返事に満足し、汀が寝息を立てるまでゆっくり背中を叩いていた。
横になっているうちに光の瞼も重くなる。二日も続けて慣れない気配りをしたせいか、なんだかひどく疲れていた。
息を吸うと清正の匂いがした。
幸福な気持ちと切なさとが混じったような、甘い痛みが胸の奥で疼いた。
瞼の裏にきらきらと眩しい初夏の日差しが瞬く。
明るい光の中で淡いピンク色の花びらが舞っていた。
アンジェラ。五月の庭は楽園のようで……。
――十五の春。
もしも、あれが夢でなかったのなら……。閉じていた心の扉がゆっくりと開いてゆく。
眠ったままだったのか、眠ったふりをしていたのか自分でもわからない。
だから、夢なのか現実なのかもわからなかった。温かい手に頬を包まれて、それが清正の手だとわかって嬉しくなった。
それから……。
キスをした。
ふいに触れた唇の意味を理解できず、動くことができなかった。
心臓は壊れそうなほど大きく鳴っていたのに、身体はまるで痺れたようで、目を開けることさえできず……。
ゆっくりと清正の気配が離れていった。
明るい日差しの下で目を開け時、光は一人だった。
静かな午後が横たわるだけ。むせ返るほどの薔薇の香りと五月の日差しが、青いベンチの上に零れ落ちていた。
音もなく花びらが散っていた。
夢を見たのだと思った。
甘い胸の痛みから目を逸らし、心の奥の深い場所に隠して鍵をかけた。
かすかな息遣いとともに汀が寝返りを打った。体温の高い小さな身体から汗と石鹸の香りが立ち、目を閉じたまま汀の柔らかい頬に鼻先を触れさせた。
清正に……。
彼女ができたと聞いたのは、あの夢を見た直後だ。
だから、あれはやはり夢だったのだと光は思った。
清正は女の子と付き合う。当たり前のことだ。心の中で何度もそう繰り返した。
しょっちゅう誰かに告白されていても、清正が誰かと付き合う日がくるとは、なぜか考えていなかった。
清正は女の子に興味がないのだと、勝手にずっと思っていたのだ。高校生にもなればみんな変わるのだと、そんなごく普通のことに気付かずにいた。
光は変わらなかったから。
いつまで経っても、黙々と何かを作り続けるだけだったから。
最初の彼女とはあっという間に別れ、清正はいつの間にか別の誰かと付き合い始めていた。その後も、すぐにまた違う名前の誰かが隣を歩いていた。
清正は女の子にモテるし、次々といろんな子と付き合う。でも、すぐに別れる。
少しずつ、光はそれに慣れていった。
一度清正の彼女になった人たちは、別れた後は清正から遠いところに行ってしまった。友だちでもクラスメイトでもなく、見知らぬ他人になってしまったのだ。
あの人たちはそれでよかったのだろうかと、光は時々考えた。
一時的な歓びと引き換えに永遠に清正を失うことになっても、彼女たちは耐えられるのだろうかと。
光には無理だ。
男の光が清正を手に入れることはないだろうけれど、たとえあったとしても、いつかもっと遠くへ離れていくのなら、手に入れたくないと思った。
清正を失ったら生きられない。
清正に何人彼女ができても、友だちのままそばにいると決めた。
胸の痛みに名前は付けず、心の扉に鍵をかけて。
朱里との結婚を知った時、光の心は麻痺していた。
胸の痛みを感じた記憶もない。
それなのに、昨日、松井と一緒にいる清正の姿を目にした時、忘れていた痛みが錐のように胸を貫いた。
1
あなたにおすすめの小説
鎖に繋がれた騎士は、敵国で皇帝の愛に囚われる
結衣可
BL
戦場で捕らえられた若き騎士エリアスは、牢に繋がれながらも誇りを折らず、帝国の皇帝オルフェンの瞳を惹きつける。
冷酷と畏怖で人を遠ざけてきた皇帝は、彼を望み、夜ごと逢瀬を重ねていく。
憎しみと抗いのはずが、いつしか芽生える心の揺らぎ。
誇り高き騎士が囚われたのは、冷徹な皇帝の愛。
鎖に繋がれた誇りと、独占欲に満ちた溺愛の行方は――。
希少なΩだと隠して生きてきた薬師は、視察に来た冷徹なα騎士団長に一瞬で見抜かれ「お前は俺の番だ」と帝都に連れ去られてしまう
水凪しおん
BL
「君は、今日から俺のものだ」
辺境の村で薬師として静かに暮らす青年カイリ。彼には誰にも言えない秘密があった。それは希少なΩ(オメガ)でありながら、その性を偽りβ(ベータ)として生きていること。
ある日、村を訪れたのは『帝国の氷盾』と畏れられる冷徹な騎士団総長、リアム。彼は最上級のα(アルファ)であり、カイリが必死に隠してきたΩの資質をいとも簡単に見抜いてしまう。
「お前のその特異な力を、帝国のために使え」
強引に帝都へ連れ去られ、リアムの屋敷で“偽りの主従関係”を結ぶことになったカイリ。冷たい命令とは裏腹に、リアムが時折見せる不器用な優しさと孤独を秘めた瞳に、カイリの心は次第に揺らいでいく。
しかし、カイリの持つ特別なフェロモンは帝国の覇権を揺るがす甘美な毒。やがて二人は、宮廷を渦巻く巨大な陰謀に巻き込まれていく――。
運命の番(つがい)に抗う不遇のΩと、愛を知らない最強α騎士。
偽りの関係から始まる、甘く切ない身分差ファンタジー・ラブ!
【完結】愛されたかった僕の人生
Kanade
BL
✯オメガバース
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
お見合いから一年半の交際を経て、結婚(番婚)をして3年。
今日も《夫》は帰らない。
《夫》には僕以外の『番』がいる。
ねぇ、どうしてなの?
一目惚れだって言ったじゃない。
愛してるって言ってくれたじゃないか。
ねぇ、僕はもう要らないの…?
独りで過ごす『発情期』は辛いよ…。
優しい檻に囚われて ―俺のことを好きすぎる彼らから逃げられません―
無玄々
BL
「俺たちから、逃げられると思う?」
卑屈な少年・織理は、三人の男から同時に告白されてしまう。
一人は必死で熱く重い男、一人は常に包んでくれる優しい先輩、一人は「嫌い」と言いながら離れない奇妙な奴。
選べない織理に押し付けられる彼らの恋情――それは優しくも逃げられない檻のようで。
本作は織理と三人の関係性を描いた短編集です。
愛か、束縛か――その境界線の上で揺れる、執着ハーレムBL。
※この作品は『記憶を失うほどに【https://www.alphapolis.co.jp/novel/364672311/155993505】』のハーレムパロディです。本編未読でも雰囲気は伝わりますが、キャラクターの背景は本編を読むとさらに楽しめます。
※本作は織理受けのハーレム形式です。
※一部描写にてそれ以外のカプとも取れるような関係性・心理描写がありますが、明確なカップリング意図はありません。が、ご注意ください
ブラコンすぎて面倒な男を演じていた平凡兄、やめたら押し倒されました
あと
BL
「お兄ちゃん!人肌脱ぎます!」
完璧公爵跡取り息子許嫁攻め×ブラコン兄鈍感受け
可愛い弟と攻めの幸せのために、平凡なのに面倒な男を演じることにした受け。毎日の告白、束縛発言などを繰り広げ、上手くいきそうになったため、やめたら、なんと…?
攻め:ヴィクター・ローレンツ
受け:リアム・グレイソン
弟:リチャード・グレイソン
pixivにも投稿しています。
ひよったら消します。
誤字脱字はサイレント修正します。
また、内容もサイレント修正する時もあります。
定期的にタグも整理します。
批判・中傷コメントはお控えください。
見つけ次第削除いたします。
イケメン後輩のスマホを拾ったらロック画が俺でした
天埜鳩愛
BL
☆本編番外編 完結済✨ 感想嬉しいです!
元バスケ部の俺が拾ったスマホのロック画は、ユニフォーム姿の“俺”。
持ち主は、顔面国宝の一年生。
なんで俺の写真? なんでロック画?
問い詰める間もなく「この人が最優先なんで」って宣言されて、女子の悲鳴の中、肩を掴まれて連行された。……俺、ただスマホ届けに来ただけなんだけど。
頼られたら嫌とは言えない南澤燈真は高校二年生。クールなイケメン後輩、北門唯が置き忘れたスマホを手に取ってみると、ロック画が何故か中学時代の燈真だった! 北門はモテ男ゆえに女子からしつこくされ、燈真が助けることに。その日から学年を越え急激に仲良くなる二人。燈真は誰にも言えなかった悩みを北門にだけ打ち明けて……。一途なメロ後輩 × 絆され男前先輩の、救いすくわれ・持ちつ持たれつラブ!
☆ノベマ!の青春BLコンテスト最終選考作品に加筆&新エピソードを加えたアルファポリス版です。
異世界にやってきたら氷の宰相様が毎日お手製の弁当を持たせてくれる
七瀬京
BL
異世界に召喚された大学生ルイは、この世界を救う「巫覡」として、力を失った宝珠を癒やす役目を与えられる。
だが、異界の食べ物を受けつけない身体に苦しみ、倒れてしまう。
そんな彼を救ったのは、“氷の宰相”と呼ばれる美貌の男・ルースア。
唯一ルイが食べられるのは、彼の手で作られた料理だけ――。
優しさに触れるたび、ルイの胸に芽生える感情は“感謝”か、それとも“恋”か。
穏やかな日々の中で、ふたりの距離は静かに溶け合っていく。
――心と身体を癒やす、年の差主従ファンタジーBL。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる