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34話 夏の夕暮れにきみと

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 神保町には地下鉄の出口がたくさんある。
 オフィスビルに一番近い出口からは、地上に出てすぐ正面にビルのエントランスを見ることが出来る。
 つまりビルのエントランスからも、地下鉄出口が丸見えだということだ。普段ならばありがたいけれど、会社の人に見られたくない待ち合わせには向かない。

 というわけで、私は今、オフィスから遠く、会社の人が利用することも少ない出口に立ち尽くしている。
 ゲリラ豪雨がつい先程まで降っていた。激しい雨のあとに雨雲は去り、日差しが降り注ぐ。未練を残さない空模様はまさに夏と言った感じだ。
 オフィスビルからは地下道を駆使してきた。そのため雨を浴びるということにはならなかったが、地下鉄構内の湿気はひどいものだった。
 湿気を避け、地上出口にたどり着いた私は、短い屋根から雨だれが落ちていくのを眺めて立ち尽くしている。
 何をしているのかというと、ことりさんを待っている。

 短編賞の受賞作を十月発売の冬号で発表するにあたり、編集部内も忙しい。終業時間にかなり余裕をもって伝えたため、待ち合わせ場所に四十分も早くついてしまった。

 大粒の雨だれが、不規則に落ちていく。
 その先に広がる空は、白い月を浮かべているものの、薄ら明るくて、まだまだ涼しい空気を運んできそうな気配はない。
 
 社用スマホで時刻を確認して、ついでに新着のメールも開いていく。
 待つ間に喫茶店に入るのは、違う気がした。最近のことりさんとのやり取りで、忙しいアピールをしまくっているから、時間つぶしをするのは恥ずかしい。
 メールをすべてチェックし終えてしまうと、また軒先から空を眺めるしかなくなった。
 横を通る地下鉄利用者は、みんなせわしなく階段を上り下りしている。
 
「めっちゃ忙しいです! なんて言ったのに、かっこ悪いな」

「なんでですか?」

「ぅわあ!」
 
 独り言のつもりが、急に疑問を挟まれて、私は小さく飛ぶくらい驚いた。
 振り向くと、そこには久々に会うことりさん――田原小鳩が立っていたのだった。

「メッセージ送ったんですけど、見てませんでした?」

 そう言われて慌てて、プライベートの方のスマートフォンをチェックする。
 確かに、『早めですが、もう付きそうです』という連絡が五分前に来ていた。

「すみません、会社のメールチェックしてて、気付きませんでした!」

「あ、良いすよ。鹿ノ子さんのリアクションが良すぎて、凸のお返しをしたような気分になれましたし」

 そう言ってことりさんは、雨だれをくぐって私の先を歩きだした。
 
 *

 ことの発端は、ことりさんが送ってきてくれた一言のメッセージだった。

『読みました』

 その五文字だけで、私の過去の投稿作品を読んでくれたのだという意味だと分かる。
 分かると同時に、緊張した。
 なんと返していいか分からないし、向こうも次の言葉に迷っているらしく、メッセージ欄にずっと入力中の表示が出ている。
 
 その後、メッセージ作成をあきらめたらしいことりさんから、電話がかかってきた。作品の進捗や、仕事が互いに繁忙だということ、夏バテ気味ですね、なんて世間話も挟んで、いよいよ沈黙が訪れた。
 私の作品への感想をたずねなければいけないような沈黙だ。

「どう……でしたかね? 下を見て自信になりました? なんて」

「そういう考えは、僕、ないですね」

 びしりと言われて、私はごまかしの笑いを引っ込める。
 
「今ここで、顔の見えないままどんな感想を言っても、奔馬さんは受け止めてくれない気がするんですよね」

 ことりさんのその言葉で、私たちは再び、対面で会うことにした。打ち合わせも出来るし、私がいま忙しいのを気遣って、オフィスの近くまで出ていくとも言ってくれた。
 休みが不定のことりさんは、今週はちょうど、翌日(つまり今日だ)が休みだという。
 
「ことりさん、せっかくのお休みなのに良いんですか?」

「特に予定もないですし。それより、ことりさん、ってなんですか?」

「え、だってことり先生はイヤだって仰ってたから、そしたらことりさんじゃないですか」

「そんな童話みたいな……」

 そう絶句されてしまったけれど、私のなかではことりさん呼びに固まりつつあった。

「じゃあ、私のことも鹿ノ子さんでいいですよ」

「論点が違うんですよねえ」

 と困った声を出しながらも、最終的にはその話を飲んでくれた。
 そういうわけで、今はことりさん、と堂々と呼べるのだ。
 鹿ノ子さん、とさっき初めて声で呼ばれたときは、ちょっとドキッとした。嫌いなはずの名前が、なんだかとてもきれいな響きを持っているような気がしてくる。
 


「チェーン店でいいですよね」
 
 とことりさんが、スマートフォンで地図を表示させながら訊ねてくる。
 
「はい、なんでも」

 後ろから眺めることりさんの背中が新鮮で、本当にお店なんてなんでもいいなあと思う。ちょっと右肩が上がっているのは、姿勢の癖なのだろうか。
 昼に床屋にでも言ったのかもしれない、襟足がきれいに整えられているし。
 嗅ぎなれない床屋さんの匂いが、湿度の高い空気のなかでじわりと香ってくるのが、なんとなく気まずい。
 雨上がりの匂いと床屋さんの匂い。
 それから夏の夜の入り口の匂い。
 活気づき始める飲食店。

 のんきな空気のなか、私たちは、歩いていた。
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