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幼馴染domと偽りのsub

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 光に、流星からさんずいを借りて、光汰。
 母から紹介された子どもはひとつ年上の男の子だった。樫井光汰。隣の家に引っ越してきた、母の友人の息子。
「弥生、仲良くしてもらうのよ。光汰お兄ちゃんはこれからウチにちょくちょく来るから」
 当時の幼い自分にはわからなかったが、彼の家庭環境はあまり良いものでは無かった。育児に無関心でろくに帰ってこない父親に、キャリアが命の母親。そんな家の子を昔のよしみなのか、それとも別の目的があったのか。暫く経つと母は数カ月ほど、彼をウチに置いた。
 最初は嫌いだった。大人や周りの人間に気に入られようと常に頑張っていたから。優秀で、欠点もなく、礼儀正しく、常に正解を行く人間でありなさい。そんな彼は言葉の節々に弥生を下に見ることがあった。大人は気が付いていなかっただろう。でも弥生にはわかった。
「弥生の面倒は任せてください。オレの方が年上ですから」
「弥生は出来ることとやりたいことにこだわりがあるので、他はオレがサポートします」
 頼んでいない。他人の感情に敏感だった弥生にはわかった、彼が弥生を見下しているのを。今思えば、都合が良かったのかもしれない。自分の世界があって、自ら人と関わりたがらない弥生、自分がいなければ人とコミュニケーションを取ろうとしない。だから面倒を見てやらなきゃと。そんな態度をとる光汰をうっとうしいと思っていた。小学生の時の話だ。
 礼儀正しい良い子。その仮面が剥がれたのは家に長期的に泊まりに来ることになって数日経った時のこと。様子を見に来た、と彼の母親が夜中、我が家を訪れた時。弥生はリビングの音で目を覚ましたのだけど、隣で寝ていた光汰が見当たらなかった。「彼はトイレか」と思った。だが、いつまでたっても帰ってこない。ペーパーでもなくなったか? 仕方がないから迎えに行くかと自分もそちらに向かった時だった。
「産まなきゃよかったって思ったの」
 リビングの声に足を止める。少し開いた扉から漏れる光がやけにまぶしかった。
「かまってやれない。こうやって貴方達夫婦に押し付ける結果になって……。光汰のことは好きよ、好きだけど、仕事も大事で……」
「大丈夫よ、ウチも協力するから……」
 大人たちが何かを話している。その会話の中心である光汰は隠れるようにしてドア伝いの廊下から扉の先の話を聞いていた。
 子どもながらに「聞かせてはいけない」そう思った。
 彼の腕を無理矢理引いて、自分たちの寝室に連れて行く。光汰は明らかに戸惑っていたが、近くに両親がいたこともあり声は出さなかった。どこか暗い表情の彼をベッドの上に座らせる。
「光汰」
「……何」
 涙声の彼に胸が痛んだ。
 愛されて育った自覚はある。だから「産まなきゃよかった」と言われた彼の求めている言葉なんて、正解なんてわからない。でも、これだけは言いたかった。
「誰が何と言おうと、僕はずっと光汰と一緒にいるよ」
 同情かと言われれば、わからない。その答えは今でも空欄だ。
 でも、それが本心だったというのは紛れもない本当だった。
 この子を、泣かせたくない。この子に笑っていてほしい。
「僕が光汰の家族だよ。僕は絶対離れないから」
 反応は今では思い出せない。ただ、事実としてあった。藤が咲く春のことだった。
 それが、はじまり。
 恋かはわからない。だけど彼に笑っていてほしいと言う想いは本物で、それができれば、自分の隣であってほしい、と言うのも本物なのだ。
 それからずっと、弥生は光汰の傍にいる。
 
「光汰、朝だよ。朝」
「うーん……」
「会社遅刻するよ」
 時刻は朝六時。会社員は喜ぶ金曜日。弥生はダブルベッドの端に沈んでいる光汰を揺り起こす。ベッドにふわふわの茶髪が沈んでいる。枕に顔をこすりつけていやいやする姿はまるで子どものようだ。可愛いけれど彼は遅刻厳禁の会社員。彼は昔から朝が弱いので光汰を起こすのは弥生の仕事だ。
「おはよ……」
 寝起きの低い声で掛布団がそう喋りだす。
「だから僕の仕事が終わるまで起きてなくていいって言ったじゃん……。ほら、ご飯もできてる、布団から出て」
「はーい……」
 やっと起きだした彼は今日も見惚れるほど格好良かった。本人はセットが面倒と嫌がっているゆるふわな茶色の天然パーマは彼の第一印象を柔らかくするし、大きな垂れ目も優しげで好きだ。身長も高く、弥生の頭ひとつ分は大きい。つまるところ、彼はイケメンの部類に入る人種だった。対して弥生は染めたことも無い黒髪に、鏡を見て笑ってしまうくらい疲れている目、身長も平均的だ。今の今まで共学で告白されたことのひとつもないので顔面レベルはお察しだ。別に光汰がいれば何も問題はないが。
「弥生、忘れてる」
「ごめん。はい、おはようのキス」
「ん」
 そんな正反対の自分たちは同棲して三年目になる。身体の関係はあるが、付き合ってはいない。だから今の自分たちの関係は所謂ルームシェアとも言っていいかもしれない。
 弥生は光汰の額に言われたとおりにキスをする。これは光汰がやれと昔「命令」したことだ。
「今日のご飯は?」
「和食」
 そうして一緒に朝ご飯を食べ、彼の支度の手伝いをし、彼のネクタイを結び、弁当を持たせ、玄関まで見送る。
「じゃあ行ってくるね。今日もいい子にしてるんだよ」
「うん、行ってらっしゃい」
 手を振って彼を送り、目の前で鍵がかけられる。
 弥生の分の合鍵はない。必要がないから。
 食べ物や日用品は通販や宅配で頼むし、仕事は在宅だ。
 弥生の「明山」姓は表札にない。
 知り合いとは関係を断った。彼と一緒にいるために。弥生がここにいることは家族しか知らない。
 首元にリボン結びにされた「カラー」のネクタイに触れる。
 弥生は、光汰に全てを管理されている。
 自ら選んだ道だ。高校生の時から弥生はDomである光汰の臨時パートナーだ。交際関係ではないが定期的に「命令」をしてもらうために一緒にいる。けれど、Subではない。光汰に十五の時から二十一の今まで、嘘をついて数年間過ごしてきた。
 ——明山弥生は、Switchだ。
 
 この世界には第二の性別と言うものが存在する。それはダイナミクスと呼ばれ、十五歳、四月の高校入学前に検査が行われる。
 Normal、ダイナミクスがない人間。人口の半分がNormalで占められている。
 Dom、Subを支配する側の人間。基礎スペックが高く、社会でも成功しやすい。
 Sub、Domに支配される側の人間。Domに命令されないと度々ストレス性の発作を起こしてしまう。世間的には見下されやすい。ただ、SubだけはDomと同性間でもパートナー関係、実質的な婚姻関係を結ぶことができる。
 そして人口の一割にも満たないSwitch。Dom、Sub両方の資質を持つ、珍しい人間。
 十四歳、中学二年生の弥生は自分がSubだと疑わなかった。
 光汰がDomだったから。
『おばさん、オレ、今日の検査Domだった~』
『あら、じゃあ弥生がSubだったら貰ってもらおうかしら』
 光汰の検査日、そんな会話がされるくらいだった。その時の光汰はほぼ一人暮らしで、それを見かねた母親がウチで過ごしなさいと無理矢理呼び、家族のように過ごしていた。これが続くと思っていた。疑わなかった。だって自分が、なんの特徴もなく、なにもいいところのない、平々凡々の自分がDomなわけがない。なら、NormalかSubだろう。Normalなら彼にパートナーができるまでは傍にいれる。Subならパートナーになれる。光汰はきっと拒まないだろう。光汰は弥生がDomなら劣等感を抱くから、お互いに一緒にいてメリットが無くなるDomでさえなければいいのだ。弥生の両親はお互いNormal。ダイナミクスは血統に左右されることが多いので、少なくとも彼にパートナーが出来るまでは一緒に居られることは確実だ。
そう思っていた。
『……は? Switch?』
 十五歳、明山弥生のダイナミクス検査結果はSwitch。
 血の気が引いた。Domの性質を持つ?
 ふざけるな。そんな性質を持っているなんて光汰にバレたら。
『……弥生、光汰くんには』
『母さん』
 病院の帰り道、明らかに憔悴している弥生に母は声をかけた。未だに弥生は自分の声帯から出た、震えた、頼りない声が耳に残っている。
『——僕はSub、それでいいよね?』
 
「……犬の首輪もくたびれるものだな」
 手入れは定期的にしているとはいえ、褪せた色の古くなったカラーの端をつまんで、少しだけ笑い声が出た。光汰の中学卒業時に強奪まがいの理由をつけてネクタイを貰ったのだ。あの時は自分がSubだと疑っていなかったから何の不安もなかった。
 なにもSwitchが悪いわけではない。人によっては得だとか言う人もいる。
 だが、弥生にとってはマイナスでしかなかった。
Switchは自分でダイナミクスを調節できるため、Domとのパートナー関係は結べない。扱いはNormalと同等だ。だが、社会的に成功がしやすいとも言われている。
 弥生にとってはそれがいけなかった。光汰にとって弥生は「庇護するべき何もできないどうしようもない子」で「自分がいなければ何もできないしょうがない人間」だから。
 元々見下されていることは感じ取っていたけれど、明確に本人の口からそう言われたのは中学生の時だった。当時弥生は中学一年生で、光汰は二年生。学年が違う自分たちが昼休み廊下ですれ違ったのだ。彼は友達に囲まれていて、入学当初のことだったものだから自分が知らない大人びた彼を見てしまったようで声をかけ辛かった。
『弥生!』
 だけど彼にとってはそんな躊躇はなかったようで。
『……光汰』
 駆け寄ってくる光汰に同級生の女子が黄色い声を上げる。周りの取り巻き達は弥生の出現に興味があるようだった。
『何? 友達?』
 ずいと顔を向ける取り巻きから弥生を守るように光汰はかばってくれる。それが嬉しくて、進路を同じにしてよかったと心の中でガッツポーズをした。
『友達じゃないよ』
 そうだよね、家族だもんね、一緒にいるって約束したもんね。
『隣の家の子。対人恐怖症でオレがいないと。今もビビってるからあんまり近づかないでやって』
 ——は?
『なに? 弟分的な?』
『あーそうかも。昔から面倒見てるし。あんまり人付き合い得意な子じゃないから』
 ——え、ちょっと待ってよ。
『オレが傍にいないと心配だし。弥生だって守ってほしくて傍にいるんだもんなー』
 ——僕、そんなつもりで一緒にいるわけじゃ。
『というわけで、オレが守んなきゃいけない子だから、手出さないでね』
 その時、彼と自分の考えが剥離していることを知った。
 弥生にとって光汰は傍にいたい大切な人。歳の差はあれど、少しくらいは同じように思われていると思いたかった
 だけど実際は、噛み合っていなかった。ただの庇護対象。見下す対象。
 それから二年ほど、そういう扱いをされていた。根暗で人付き合いが苦手な後輩をかまう優しい先輩。光汰は周りから褒められて立場に満足そうだった。承認欲求を満たすための道具になっていることはわかっていた。でも傍にいれれば、彼が安心して過ごせる環境の一部に慣れていればそれでよかった。見下されていてもよかった。少なくとも、幼少期のような思いを彼がしなければ、なんでもよかった。彼の高校入学時にDomだと分かった時はこれから彼の犬になるんだなと思ったくらいだ。
 だけど、Domの性質を持っているSwitchだとしたらどうだろう。
 彼は弥生を見下せなくなる。希少な性別であり、家庭にも恵まれ、Domの性質を持つ人間として成功も約束されている。自分より下の存在ではない。
 怖かった。期待に応えられなくなるのが。
 怖かった。対等になりたかったくせに、いざステージを用意されたら捨てられる可能性を考えてしまった。
 怖かった。Subでなければ、彼より下でなければ、捨てられてしまう!
 誰かに立場を挿げ替えられてしまう!
 だから弥生はSubに「なった」。このネクタイは、中学二年当時、卒業生の光汰に未来のカラーとして彼から貰ったものだ。卒業する日「僕はSubだと思うから今からカラーが欲しい」と。
「まだわかんないでしょ」と言う彼に「自分のネクタイはもう捨てたからくれないと明日から困る」なんて嘘をついてまで強奪した。嘘偽りなく彼のSubであったのは後にも先にもその未確定な一年間だけだ。
「……ずっとこうでいられるのかな」
 変わらなければいい。
このままずっと彼が死ぬまで罪悪感に苛まれながらだまし続ける事。
 それが弥生に与えられた罰だ。
 
 主人が帰ってくるのを喜ばない犬はいない。
「おかえり光汰」
「ただいま」
 今日は定時で帰ってきてくれた。料理も風呂も沸かしている。タイミングはばっちりだ。
「今日は何かあった?」
「何も無いよ」
 光汰は毎日必ず連絡してくれる。今日は定時だよ、遅くなるよ、ご飯はちゃんと食べてる? 少々過保護かもしれないが、光汰がいいならそれでいい。
「はい、スマホ出して。今日のチェック」
「うん」
 弥生は光汰に言われるがままにスマートフォンを渡す。光汰は慣れた手つきでパスコードを開け、メールボックス、着信履歴、SNSを確認した。あらかたチェックが終わると弥生にそれを手渡す。
「仕事の連絡があったの、報告になかったよ」
「あ……ごめん……」
 今日は担当編集から記事原稿の進捗確認があった。一往復だけだったから報告を忘れてしまっていた。
「……本当は仕事もしてほしくないけど……人気作家だもんね。ファンの人がいるんだから投げ出せないよね」
「ごめん……」
「いいよ、弥生の頑張ってるところ好きだし。ご飯食べよっか」
——好き!
「~~うん!」
「好き」って言ってくれた。それだけで胸が高鳴る。
 食卓に着き、手料理を食べてくれる光汰を眺めた。手を尽くした料理を「おいしい」と言ってくれる至福の時間。綺麗に箸を使い自分の作ったものを体内に入れてくれる。自分はこんなに幸せでいいのだろうか。
「原稿は今日上がるの?」
「昼に終わったから、寝る前に最終チェックして送るよ。締め切りには余裕あるから今日は一緒に寝ようね」
 高校卒業直前に、ネットに放流していた趣味のホラー小説が出版社の目に留まり弥生はホラー小説家としてデビューした。大学に行く気はなかったから仕事の方から来てくれたのは助かった。なぜなら大学生になった光汰を追いかけて同じ大学を志望しようとしたら「いい加減にしなさい」と両親から反対されたからだ。
 
『いい加減光汰くんに引っ付くのはやめなさい』
『いつまで光汰くんを騙すつもり?』
『もう大人なんだから』
 
 そんな時、光汰が倒れた。
 栄養失調。家事が壊滅的にできない光汰の栄養状態は最悪で、点滴を打たれた彼を見て血の気が引いた。元々彼はひとりが苦手で、誰かと一緒じゃないと食事も取ろうとしない。そこに付け込んだ。
『大学行かない。作家に学歴関係ないし。光汰の所で仕事する』
 親の反対を押し切って県外にキャリーケースひとつでやってきた。それから光汰は甲斐甲斐しい弥生の世話もあり、今は健康に大手企業の営業マンとして働いている。
「……明日、休み?」
「休みだよ。どうした? 行きたいところでもある?」
 弥生は言いにくそうに口を開いた。
「前倒しで仕事して、今日原稿送ったら時間あるの。だからその」
「ああ、play?」
 その言葉に顔が赤くなる。自分から命令されるのをねだるなんてはしたないが、発作が起きにくいSwitchだ。偽装として求めないと怪しまれるから。そう言い訳する。
 ——本当は、光汰に甘やかしてほしいだけなのにね。
「お風呂入ってる間に仕事終わらせて。そしたらご褒美あげる」
「……うん」
 弥生は光汰の犬だ。主人のことが大好きだし、ご褒美のためなら何でもするし、喜ばせたいし、死ぬまで一緒にいたい。
 光汰が好きなのだ。家族でいるよ、そう言ったあの日から。
 
 何とか先方に原稿を送り、仕事が終わった。
「弥生。もういい?」
「うん、待たせてごめんね」
 寝室で弥生は「いつも通り」光汰の前でバスローブの紐を解く。中には何も履いておらず、これからすることの期待からか少し中心が上を向き始めていた。こうすることは所謂「準備」ができたことの合図で、こうしろと言ってきたのは光汰だった。「弥生にその気があるのを見るのが良い」とかなんとか言っていた気がするが、別にやることは同じなのでどうも思わない。
「おいで」
 言う通り、ダブルベッドに近づき、ふたりでじゃれ合う。
 弥生はこうして光汰とくっついている時間が一等好きだ。きっと自分は恍惚そうな顔をしていることだろう。猫なで声に近い甘えた声が喉から出る。
こうして物理的に傍に置いてもらえることに安心する。少なくとも隣に置いてもいいほどには想われているということだから。
「……今日も好きにして……」
 そう甘えてみると、光汰はよしよしと肩に寄りかかった弥生の頭を優しくなでる。弥生は自ら頭を手にこすりつけるとその甘美な幸福を享受した。きもちいい。だいすき。そんな言葉ばかりが頭を埋め尽くす。
「弥生、言うこと聞ける?」
「うん……」
「じゃあ何してほしいか、『say』」
 そのコマンドに脳へ甘い、しびれるような電流が走る。弥生はSwitchだが、普段はSubとして過ごしている弥生は、自ら切り替えない限りコマンドにも反応してしまう。
「……こ、光汰の好きなやり方で、めちゃくちゃにして……!」
「りょーかい」
 そう撫でていた頭に彼はそっとキスをすると、弥生を優しくベッドに押し倒す。
「足、開いて、見せて」
「……ッ」
「返事」
「……はい」
 弥生は言うとおりに足を大きく開き、目の前の男に自分の反応した屹立を見せる。
「勃ってる。期待してるの?」
「だ、だって、今週はお互い仕事で全然playも……」
「じゃあ一週間分ちゃんと発散させないと。じゃあまずはひとりで弄ってみて。好きなように」
 光汰がそう命令するなら、と弥生は自分の熱い中心に触れる。自分ですることは禁止されているから、この一週間自分で慰めもしなかった。熱を発散することも許されなかった身体は軽く触るだけで反応する。
「あ……」
 ぴくりと身体が跳ねた。生娘でもないのに、たった数日禁欲しただけの肉体は少女のように初心な反応を返す。ただ、少女と違うのは、どうすれば自分が快感を拾えるのか知っているということ。
「……あっ、っ……」
 電流が走ったような痺れが全身に走る。先走りがてらてらとルームランプの光に照らされ、弥生の中心をさらに卑猥に見せた。
「ふ……、っ……」
 恥ずかしいところなんて見せたくないのに、見られているということと、「命令されているから」という免罪符が弥生の腕を止めてくれない。自分の体液で濡れた滑りを帯びたそれを欲望のまま上下に擦っているとすぐだった。あっという間に身体に力が入り反射的に目をつむる。
「こーら『stay』だよ」
 快感の波にさらわれそうな弥生を止めたのは主人だった。
 Subとしての機能が快感を上回る。出したいのに出せない。興奮で荒い息を吐く弥生に光汰は「挿れてないのにイッちゃだめでしょ?」と薄い、意地悪そうな笑顔を浮かべた。
「射精したかったらオレが挿入れられるようにして?」
「う…ん……」
 うつ伏せに態勢を変え、腰を上げる。獣の交尾のような姿に心がどくどくと波打つ。弥生はそのまま自分の欲望の印の先、今も期待している蕾に手を伸ばした。
「っ……」
 風呂で事前に準備していたおかげか指はすぐに入った。中に仕込んだローションがまるで女のそれのようにほぐれて、蜜を垂らす。
「はは、必死。そんなに欲しいの?」
「ん……」
 こくりと首で頷くと、光汰は弥生に覆いかぶさった。ふたつの影が混ざった絵が白い壁に映る。彼は弥生の指を支えるように自らの指を添えると綻んだ蕾に一緒に入りこむ。彼の一部が自分に触れている、それを意識しただけで体温が急に上がった感覚がする。
「こう、た」
「オレも手伝ってあげる」
「ゃ……!」
 自分のものでは無い指が、腹の中で自分の意思ではない動きをする。
 それを意識するたびに奥がきゅんきゅんと疼き、もっと熱く、太いものを欲しがる。
「……っ、……っ……!」
 内側の感じる場所に指の腹が触れる。それだけでもうたまらなかった。
「も……、いれて……ッ!」
 脳ではなく本能が求めてしまう。弥生は雄を待つ雌のように足を開くと光汰の昂りを求める。もう羞恥は無かった。今、頭の中にあるものと言えば「欲しい」と「出したい」だけ。
 ベルトの金属音、そして衣擦れの音が外界から隔たれた自分たちの檻の中に響く。
 溶けてしまいそうなほど熱い屹立が、そこに当てられる。弥生の身体は驚くほど従順にそれを受け入れた。
「あ……!」
 焼けた鉄のように熱を持ったものが同じくらいの温度の内側に入ってくる。少しの抵抗のあと、ある一点を過ぎたらスムーズに肉棒を包み込んでゆく。それはとても湧き出るような幸福に包まれる行為で、弥生は力すら入らなかった。
 ただの肉筒になった自分を使われる、そこに愛はあるのだろうか。
 そんな事すら、どうでもよくなるくらい位に。
「ゃ……! い、あ……っ!」
「痛い? 嫌になった?」
「そ、んな……わけっ……!」
「だよね。なら、もう我慢しなくていいよ」
「ひ、あ、あぁ……ッ!」
 抜き差しする速度が速くなり、彼の下生えが身体に擦れるくらいに奥深くを暴かれる。腸どころか胃まで届くくらい深い突き上げに、主人の許しを得た弥生の身体は、とろとろと白濁の快感の証を漏らした。
 それから何度イッたかは覚えていない。ただ、この日のために買ったゴムの大半がゴミ箱に落ちた。
 
「おやすみ、弥生」
 おやすみのキスをして光汰は布団に潜りこむ。
 ——また付き合わせてしまったな。
 罪悪感が湧き出てくる。発散のために、とまた嘘をついて繋がる理由をつけた。こんなの自分だって嫌だ。でも、こうでもしないとパートナーとして一緒にいられない。Subのふりをしないと、し続けないと。
 こんな関係、健全じゃないのはわかっている。それでも、一緒にいたい。傍にいたい。そのためなら罪悪感に苛まれても嘘をつき続けよう。
「……外の空気吸おう」
 ベッドから出て、ベランダに向かう。そこで一息ついた。
 光汰は弥生のことを愛していない。
 行為は出来ているけれど、それはDom特有の「尽くしてあげたい」という本能のおかげでなんとか成り立っているものだと思う。でなければこんな薄っぺらい身体に欲情なんてしない。
 同情と善意で付き合ってくれている。自分がDomだからSubに尽くすのは当たり前だと、多分そんな理由でplayをしてくれている。告白はしたこともされたこともない。関係が壊れるのが怖いから。もしかしたら奇跡が起きて、尽くして言うことを聞いていたら絆されてくれるだろうかと、同居当時は期待したりもしたが、そんなことは無かった。犬なのは変わりない。
「……犬の幸せが貰えるだけましか」
 笑ってしまう。
 
 休日の二日間は二人でゆっくり過ごした。今日からまた一週間が始まる。
「よし、今日のノルマ終わり」
 朝は家事、昼は仕事。夜は光汰と過ごす。一日の終わりに彼の喜ぶ顔が見られるなら原稿も、完璧を求められる家事も苦ではない。
「あ……そろそろか」
 弥生は外に出ることが許されていない。光汰曰く「オレが見てないところでトラブルを起こしたら大変だから」だそうだ。別にそこには何も思わない。弥生は光汰さえいればそれでいいから。
 インターホンが鳴らされる。やっぱり時間通り来た。
「はーい」
 急いで玄関に足を進める。オートロックを開け、しばらく待つと若い青年が荷物を持ってこちらに来た。
「こんにちは! 宅配です!」
「いつもどうも」
 一週間に一度来る、食材宅配のエリア担当のお兄さんだ。名前は三橋と言うらしい。弥生が唯一、直接話せる外界の人間だ。人懐っこく、我が家が最後の順番なので、ということで世間話に花を咲かせることもある。
「いつもすみません、重いでしょう」
「いえ! 弥生さんにお会いできるのが楽しみなので全然苦じゃありません!」
「あはは、ありがとうございます」
 三橋は何故か自分に懐いてくれていて、度々こんなことを言ってくれる。宅配スーパーを使う同世代の男と言うことで親近感がわくのだろうか。光汰がいない平日に配達があるので、彼は三橋と仲が良いことを知らない。知ったら怒るだろう。彼は弥生が誰かと関わるのを嫌うから。
「それではこれが今週の分です。それでも、宅配使うくらいお忙しいのに弥生さんはお綺麗ですよね」
「え?」
 どこがだよ。と脳内でツッコミを入れてしまう。
 弥生の顔面レベルはいたって普通だ。綺麗だとか言われたことは一度だってない。光汰にだって言われたことがないのだ。十中八九お世辞だろう。
「弥生さんって……」
「はい?」
「……いや、お客様の個人情報を詮索するのはよくありませんね。では、また来週も来ますね!」
「……? はい、よろしくお願いします……?」
 三橋は何か言いたそうにしていたが、頭を下げてエレベーターに向かっていった。いったい何だったんだろう。少し気になったが、まあ、自分と光汰には外界の人間なんて関係ないだろう。弥生は光汰さえ、この家の中の世界さえ守れればいい。弥生はドアに鍵をかけリビングに戻る。
「今日は何作ろう……。あ、連絡入れなきゃ」
 スマートフォンのロックを外すと不在着信が入っていた。時刻は十二時すぎ。光汰は昼休みに入ったのだろう。三橋と話し込みすぎて定期連絡を忘れていた。叱られるな、と思いながらリダイヤルする。待っていてくれたのかワンコールで電話に出てくれた。
『——もしもし』
「光汰! ごめんね、連絡気づかなくて」
『なんで?』
「宅配の人の対応してて……」
 嘘は言っていない。
 ただ、その詳細を言ったら光汰は眉を顰めるだろうから言わないだけで。
『これからはすぐ出てね』
「うん、ごめんね……。今日はお詫びに光汰の好きなもの作るよ」
 そう言うと光汰は明らかに声を明るくした。
『本当⁉』
 その声にクスリと笑いが漏れてしまう。かわいい。
「そんなに嬉しそうな声、人に聞かれたら変に思われるよ? 期待してて」
 そう言って通話を切る。
「~~っ、かわいい……」
 かわいい! 今日の夜ご飯の希望聞いただけであんな可愛い声出しちゃうなんて、脇が甘すぎる。周りに隠してるって言うのにあんな声で電話していたら相手がいるってバレてしまうじゃないか。
 光汰は、周りに弥生、というか誰かと一緒に住んでいることは誰にも言っていない。別に扶養されていないし、世帯も別なので特に法的に支障はないのだ。ちなみにここのマンションの名義は光汰になっている。弥生は居候と言う形だ。
 光汰が周りに弥生のことを隠している理由は、聞いたことは無いが、恐らく周りに格好がつかないからだと思う。今の同僚はボロボロだった光汰を勿論知らない。弁当を持参、身の回りもキチンとしているのだから恐らく完璧な人間だと思われているんだろうが。本人はそのキャラクターを崩したくないようだった。独り身という設定にしているから指輪は買わないとは言われている。
「……いっそ、バレてくれないかな……」
 別に今の暮らしに不満はない。外に出られないのは命令だから仕方がないし、自分も外に興味がないので良いが、誰かひとりくらいには正式にパートナーです、と紹介してほしい。でも無理だ。光汰がパートナーだと周りに言わないのも、自分たちが正式にパートナー契約をしていないからだろう。弥生は正式に光汰のものになりたいが、Switchであることを隠している以上無理だ。それに法的にもパートナー契約はできない。
パートナー契約の際の書類でダイナミクスはバレてしまうので、自分からパートナー契約を言いだすことは絶対に出来ない。光汰なんて弥生の性的欲求をしょうがなく処理してやっているとしか思っていないだろう。
 このまま一緒にいても何の身にもならないことはわかっている。
 光汰が誰か別のパートナーか、お嫁さん候補でも連れてきてくれれば弥生も諦めがつくが、視野が狭い光汰は弥生がいる限り誰の所にもいかないだろう。弥生だけを見て、弥生の所へ帰ってきてくれる。
 弥生は光汰のそういうところも大好きなのだ。
「家のこと終わらせて仕事しようかな」
 あの声の調子なら光汰は意地でも残業せずに帰ってくるだろう。その為に今日も頑張らなくては。弥生は三橋から渡されたコンテナを両手で持つとそれをキッチンへ運んだ。
 
「え……なにそれ」
「おみやげ」
 少し予定よりも遅い帰宅をした光汰が弥生に差し出したのは袋に入ったくまのぬいぐるみだった。パーカーを着ている。最近のぬいぐるみは服を着るのか。
「貰いもの? かわいいね」
「買った。嬉しくないの」
「え?」
「テンション高くないから」
 嬉しい。嬉しいが。ぬいぐるみで喜ぶと思われるのが少し、少しだけ心外だったのだ。別に弥生は昔から乙女趣味、というわけではない。普通に男子らしいおもちゃが好きだったし、こういうものが好きなのはどちらかと言えば光汰の方だった。恐らく、光汰は「自分が気に入ったから弥生も気にいるだろう」のような感覚で購入したのだと思うが。
「嬉しいよ。嬉しいけど今日は何の日でもないのに……って思って」
 そう言うと光汰は首を傾げた。
「覚えてないの?」
「え?」
「今日は弥生がウチに来てくれた日じゃん。今年で三年目」
「……え」
 六月二十日。確かに乗り込んだのは、このあたりだった気がする。梅雨だったのは覚えている。でも、正確な日付までは意識していなかった。それに、今までの数年間、光汰だって特別なお祝いなんてしなかったはずだ。いったい何のために? そう訝しむ弥生を光汰は引っ張って抱きしめる。
「な、な、なに⁉」
 突然のことにあたふたしてしまう。そんな弥生に光汰は告げた。
「……うちの会社の部長がさ」
「うん……?」
「離婚したって話聞いて。理由はコミュニケーション不足だって。当たり前に一緒にいてくれるなんて無いんだぞって昼休憩の時言われて、そう言えば口に出したことなかったなって思った」
 そのまま彼は弥生にキスをした。触れるだけのキス。それから頭を撫でて「いつもありがとう」と。
「弥生がいてくれるから頑張れるよ。これからもよろしくね」
 完全に不意打ちだった。まさか光汰からそんなこと言われるとは思わず、心の準備も出来ていなかった弥生は完全にKO。負けだ。光汰相手に勝ったことなんて一度もないが。
「……一生大切にする」
「あはは、泣くほど?」
 気が付いたら涙がボロボロ溢れてきていて、止まらなかった。ぬいぐるみをぎゅっと、つぶれるくらい強く抱きしめる。一生大切にする。ぬいぐるみも、その言葉も。
 嬉しかった。どうしようもなく、心の中がその気持ちに満たされていて、それ以外の表現が思いつかない。光汰が自分のために、と何かを損得無しでしてくれたこと。弥生がいないときも弥生のことを考えてくれたこと。弥生が来た日をわざわざ覚えてくれていた事。それら全部が、弥生を喜ばせた。人生のピークかもしれない。墓まで一緒にいよう。例え光汰が隣からいなくなっても、このぬいぐるみとだけは一緒にいよう。
「よしよし、ほんと、弥生はオレのこと大好きだね」
「うん」
「あはは、即答。……これからもそのままでいてね」
「僕は変わらないから大丈夫」
 変わるとしたら、きっと光汰だ。
 自分は現状維持を望んでいる。傍にいるだけで、彼のサポートに人生を費やす覚悟だ。
 でも光汰は? 彼はいつだって選べる立場にいる。新しい正式なパートナーを作ることも出来るし、弥生から離れることも出来る。それを、その未来を見ることがいつも怖かった。でも、大丈夫だろう。少なくともしばらくは。数年後、十数年後はわからないけれど、近い未来は大丈夫。
 ——そうだよね?
「連絡も無く遅くなってごめんね。ご飯冷めちゃった?」
「ううん! 今温めるから大丈夫。ちょっと待っててね、すぐ用意するから」
 ぬいぐるみをリビングのソファに置き、キッチンへ向かう。
 とても元気が出た。しばらくこの思い出で生きていけそうな気分だ。きっと死ぬ寸前まで覚えているかもしれない。いや、多分覚えているだろうな。
 ぴかぴかに磨いてあるシンクに映る自分の輪郭の詳細が想像できて少し笑う。きっと、幸せな顔をしているだろうな、なんて。
 
『いや、それってモラハラですよね?』
「え?」
『いつもDVされてるけどたまに優しくされてやっぱり好き……ってなってる奴ですよね』
「えー……」
 マイク越しの彼女の一言に弥生は思わず声を上げた。今は新作小説の打ち合わせ中。リモートでも打ち合わせができるのはとてもいいことだと思う。彼女の名前は小野と言う。前任の担当が育休に入った為、新しく弥生の担当になった編集者だ。
『明山さんが嬉しいのはわかるんですけど家から出さない、私生活管理、家事丸投げって典型的なやばい男じゃないですか。外に出さないとか携帯チェックとかもうDVですよ』
「そ、そんなわけ……」
『じゃあちょっと今からモラハラチェックするんで、はいかいいいえで答えてください』
 小野は目の前のパソコンをカタカタと打つと口を開いた。それから数問の質問をされる。「行動を支配しようとする」「スマホのチェックをする」「配偶者を外に出さない」……などなど、さまざまな質問をされた。
「……セーフ、十問中七個しか合ってなかったです」
『なかなかアウトです』
 モラハラだとかいうから怖かったが全然大丈夫じゃないか。
『明山さんが良いならいいですけどね……。こちらとしては原稿さえ滞りなく貰えればいいわけですし。でも』
 小野は落ち着いた声で言う。
『健全な関係を築けない関係は終わるのも早いですよ』
 ——そんなの言われなくともわかっている。
 
 その日は電話がかかってこなかった。
 こちらから電話をかけてみようと思ったが、やめた。弥生には普通の社会人のスケジュールや過ごし方がわからないし、何かトラブルで電話がかけられない状況なら迷惑になると思ったから。
 とりあえず夕飯の準備だけして彼を待つ。定時になっても連絡も、帰ってくる気配もない。流石に心配になってきたとそわそわしていると、スマートフォンの画面にライトが付いた。メッセージアプリが何か受信したらしい。
 光汰かと思い急いでロックを外す。焦りすぎて何回もパスワードを間違えて、やっとのことで開けたメッセージには『飲み会で遅くなる』というたったの八文字。
「よ、よかった~……」
 とりあえず何か起きたわけじゃなくてよかった。その事実にほっとする。夕飯が必要なくなってしまうが、まあこれはラップをかけて冷蔵庫に入れて、明日の昼に弥生が食べればいいだろう。何の問題もない。ただ……。
「……いつもならこんな時間に連絡よこさないのにな……」
 普段なら、定時を過ぎた時間に連絡が来ることなどない。今日はよっぽど忙しかったのだろうか。光汰の健康が心配だ。
「次の日に響かないように味噌汁だけでも別に作り直そう……」
 冷蔵庫からしじみエキス入りの味噌を取り出し、慣れた手つきで味噌汁を作る。本当は帰ってくるのを待っていたいんだけど、明日は午前中から引き続き小野との打ち合わせがあるから夜更かしして寝坊するわけにはいかない。
「……先に寝ちゃおうかな……」
 そこまで考えて、いや、でも待て。と考える。
 弥生は光汰から酒も禁止されているから酔った事はないが、よくあるじゃないか。酔いつぶれて家の鍵が見つからないとか、玄関の前で寝てしまうだとか。そうなったら光汰が可哀想だ。やっぱり帰ってくるまで起きていよう。
 ……と、仕事の前倒しをして、ホラー小説のネタになるような映画を見ていたらあっという間に深夜になってしまった。時刻は一時。飲み会の日は毎回一次会で帰ってくるからもっと早いのだけど、今日はどうも遅い。どうしたんだろう。
 ——まさか事故、とか……?
 こういう時、正式なパートナーでは無い事が悔やまれる。自分は配偶者ではないから光汰に何かあった時、何の連絡も来ないし、何も責任が取れない。ハラハラしながら何もありませんように、と願っていると玄関のチャイムが鳴った。
「~~光汰⁉」
 エントランスへ繋がる画面を確認すると、そこには知らない男がいた。
「——え、ど、どちら様ですか……?」
 久しぶりの知らない人間への登場に恐る恐る声を出すと、彼はあっけらかんと答えた。
「あ、こんばんは。弥生さん、で、あってますかー?」
「は、はい……」
「すみません、先輩つぶれちゃって。家近かったからタクシーで返しに来たんですけど……。鍵どこですかって言ったら『弥生に開けてもらって』って言うからその、彼女さんかと……」
「すみません! 今迎えに行きますね」
「ありがとうございます~」
 慌てて玄関の鍵もかけず、久しぶりにエントランスに向かう。そこにはぐったりした光汰と後輩であろう男がいた。
「光汰! すみません、お世話になっちゃって。タクシー代出しますね」
「それは先輩が万札くれたんで大丈夫です! お釣り貰っていいって言ってたのでむしろラッキーっす!」
「そ、そうですか……」
 今まで関わらなかったタイプに少し怯む。こういう子もいるのか、小説の参考にしてもいいかもしれない。支えてくれているのはありがたいしわかるんだけども、光汰に触れているのがムカつくから被害者役で。
「いや~それにしても、樫井先輩、同居してる方って言うか婚約者さん? いらっしゃったんですね!」
「いや僕は……」
「ウチのモテモテエースがいきなり会社に指輪着けてくるからもう課全体大騒ぎで今日急遽飲み会ですよ! あ~あ! 俺Subだから先輩とワンチャンないかと思ってたんですけどね~。こんな美人さん相手じゃ勝てねえ~! わはは」
 ——指輪?
 ふと、光汰の左手の薬指を見るとそこには真新しい銀色が照明を反射してキラキラと輝いていた。朝、見送った時はそんなものつけていなかったはずだ。ならどうして、何のために。
「じゃあ俺は退散しますね! よい週末を~」
 男はそう言うとホールから出ていく。自動ドアの先を行く彼を見送って光汰と同じ目線になってしゃがみ込む。
「光汰、大丈夫? 部屋まで行ける?」
「……へーき……」
「気持ちわるくない?」
「それはへーき……でもふわふわする……」
「部屋戻ったら水飲もうね」
 ふらふらの光汰を支え、エレベーターで自分たちが住んでいる部屋まで向かう。鍵を開けリビングのソファに彼を座らせ、常温のミネラルウォーターを飲み口を開けて彼に手渡す。光汰は両手でそれを飲んでいて「可愛い……!」といつものように思ってしまったが、今はそんな状況ではないことを思い出す。指輪の件、問い詰めなければ。
「光汰、あの、その指輪……」
「んー……」
「だ、誰から貰ったの……」
 自分で買ったとは考えにくい。何の理由で自らそんな明らかに高そうな指輪を買う必要がある? だったら誰かから貰ったと考えるのが自然だろう。ただ、一緒に暮らしている弥生が今の今まで光汰につく虫を察知できないわけがない。
「貰いものじゃないよー。好きな子とお揃いー」
 ——は? 好きな子?
 弥生はそんな指輪なんて貰っていない。指輪は買わないから、と言ったのは光汰の方だ。
「まあ、渡したのすら気づいてもらえなかったけどー」
 ——渡されてないですけど。
 確定した。光汰には弥生以外に好意を寄せる人がいる。いつ、そんな時間があったのかはわからないけれど、普通の会社員なら社内恋愛とか、よく漫画であるし、難しくないのかも。
 ——待って、そしたら僕、光汰と離れないといけないの?
 絶対にそこら辺の女やSubよりは弥生の方が光汰にふさわしい。普通なら光汰の管理癖に付き合えないし、こんなに光汰に尽くせない。でも。
 ——光汰が選んだのはその人なんだよね……。
 その事実に胸がきゅっとなる。
 大人しく身を引くべきなんだろう。でも、あきらめたくない。彼から相手を正式に紹介されるまでは一緒にいたい。
「……今日そっちで寝る?」
「そうするー」
「毛布持ってくるね」
 その日、同居して初めて別々の部屋で寝た。
 
 次の日、起きたら予定時刻を過ぎていた。
「ね、寝坊した……!」
 仕事は——、うん、大丈夫。まだ急いで支度すれば間に合う。
 ただ光汰の朝ご飯を用意することができなかった。ここ数年で一番のやらかしに青ざめる。なんで目覚ましが鳴らなかったのだろう、と責任転嫁をしてみるが、そもそもいつもはあんなに遅くまで起きないので、夜更かししたらその分起きる時間がズレるのは当然だ。
 急いでリビングに向かう。誰もいない。今日は土曜日、光汰からは特に予定があるなどは言われていないが……。
「……あ」
 リビングのテーブル。そこにメモと合鍵が置いてあった。
 内容は『外でご飯食べてくる』。
 初めてだ。こんなことは。光汰はいつだって自分との時間を優先してくれていたのに。外食より弥生の作るご飯が良いから興味ないと言ってくれていたのに。
 ——まさか、僕の事もういらな……。
 いや、と頭を振る。違う。これは今日の仕事のためだ。前にも当日は鍵を置いていくからと言っていたじゃないか。一瞬記憶が飛んでいた。
 フラフラのまま、とりあえず仕事の支度をしようと洗面所に向かう。
「……酷い顔」
 真っ白な顔がそこにあった。血の気が引いた酷い顔。
 依存関係にあるのは、わかっている。光汰は弥生に依存している。そうなるようにした。弥生がいなければ彼が求める完璧な「樫井光汰」は作れない。そうすれば光汰は弥生から離れないだろうと、そう思ったから。でも実際はどうだ。外で相手を作られ、その紹介すらされていない。きちんと話し合うべき問題だ、きっと小野ならそう言う。でも知ったら弥生は正気ではいられない。相手を刺し殺してしまうかもしれない。比喩ではあるし、実際はそんな勇気もないのだが、そのくらい追い詰められてしまうだろう。
「とりあえず仕事……。あと光汰にも一応連絡しなきゃ……」
 今日は仕事都合で外に出る。小野と共に大御所作家との対談だ。リモートでいいだろうと思うが、先方がそういうものを嫌う人だから来い、と言われている。光汰にはその話はだいぶ前にしている。
『それ、オレも一緒に行くのは……』
『だめ。一応仕事だから』
 ……色々揉めたが。
 外でいきなり食事を済ませると言い始めたのも、今日は弥生が忙しいからと気を使ってくれたのかもしれない。弥生としては朝から光汰の顔が見られないだけでだいぶ精神にダメージを食らうが、「好き」とも言っていない関係だ。仕方がない。こればっかりは嘘をつき続けている弥生が悪い。
「……頑張ろう。えいえいおー」
 なんて言ったって、元気なんて出るわけないけれど。
 
 対談は有意義なものだった。弥生は外界に興味がないが、やはり作家として二十年もやっている方とお話しできるというのは貴重な機会なんだと改めて思う。乗り気ではなかったが、得るものはたくさんあった。先方は弥生と違い、歴史を大切にして、その歴史から怪異とそれに巻き込まれる人間を書くスタイル。対して弥生は何から何までいちから作る。そんな対するふたりが盛り上がらないわけがなく、予定を押してしまった。だが、昨日から朝にかけての憂鬱を吹き飛ばせるほど気分はいい。自分は作家としてまだまだだが、伸ばすべきところはたくさんあると理解できた。光汰の世話の次に大切にしているものが仕事だ。これからも頑張っていこう。
 駅から徒歩十五分。最寄り駅から自宅までにひとつ、公園がある。弥生は鞄から袋を出し中に入っているマカロンの包装を開けた。対談相手の作家からいただいたものだ。弥生と同い年くらいの娘さんは最近マカロンが好きで、よく食べているから明山先生も喜ぶかと、と渡され、一応手土産はこちらも準備していたとはいえそんな輝かしいおしゃれなものを……とあわあわしてしまった。ありがたくいただいたが、光汰に食べている所を見られたら「オレ以外から貰ったものを……」と言うのは見なくてもわかるので公園で食べてしまおう。自販機でコーヒーを買ってベンチで一息つく。遊んでいる子どもたちを見ながら次は児童向けのシリーズが書けないか小野に打診してみようか、なんて考えていた時だった。
「——ちゃん……。おにいちゃんー……」
 目の前の少し先、ショートカットの小学校低学年くらいの女の子がきょろきょろと周りを見回している。どうしたんだろうと、最後のひとつのマカロンを口に押し込んでコーヒーで流し込んだ。
「おにいちゃんどこー?」
 かくれんぼだろうか。ほほえましいことだ。
 ……と思っていたが、どうやらそれは違うようだ。少女は今にも泣きそうだし、手にはスーパーの袋を持っている。公園に遊びに来たスタイルではない。買い物帰りに兄とはぐれたとかその辺だろうか。
 今のご時世、女児に話しかけたりしたら即通報だが……ああ、ついに泣き出してしまった。見ていられなくなり、弥生はハンカチで口元を拭い、少女の元に向かい話しかける。
「大丈夫? 迷子?」
「……お兄さんだれ?」
 まあそうなるか。弥生はしゃがみ込んで少女の目を見ながら話す。
「あきやま、っていいます。なんか泣いてる子がいたからどうしたのかなって思って。なんか困ったことでもある?」
 なんかナンパみたいだな。心の中でそう思いながらも笑顔は崩さず対応する。
「おにいちゃんがね、いなくて」
「うん」
「あたしが風船追いかけたのがいけないんだけど、後ろむいたらおにいちゃんがいなくて……うう……」
「泣かないで。一緒に探そう。もし見つからなくてもおまわりさんに言えば見つけてくれるから大丈夫だよ」
 いつも安心させるために光汰がやってくれるように、彼女の頭を撫でようとしたが、そこまでやったら本気で不審者だなと思ってやめる。自分みたいな明らかに暗い男と少女が一緒にいたらただでさえ職質を受けそうなのに。今、警察が来てくれるととてもありがたいのだけど。明日の回覧板に不審者情報として載りたくないし。
「おにいちゃんどんな見た目してる?」
「えっとね、背が高くて、髪の毛が茶色で」
「うんうん」
「なんか頼りなさそう!」
「うーん」
 ——この人探し、かなり難航しそうだ。
 どうやら少女の話を聞くに、彼は槙雄という大学生くらいの人物らしく明るい性格のようだ。はぐれたのは公園の前の道路に行く前で、彼女が飛んでいる風船を追いかけて走って公園に行ったところ、いなくなってしまったらしい。一瞬目を離した隙に、ってやつだ。
「おにいちゃーん」
「まきおさーん、いらっしゃいますかー」
 とりあえず近辺を彼女と一緒にうろついてみる、がそれらしき人物は見当たらない。少女の高さからは見えないだろうか、と仕方なく抱き上げて、周りを見てもらっているが、やっぱりいないようだ。
「うーん、おにいちゃん、おまわりさんの所行ってるかもね。僕たちも行ってみようか」
 焼き芋屋のように声をかけ続けながら道を歩く。そうすると「ゆうこ!」と声が後ろから聞こえた。
「おにいちゃん!」
 少女が腕から降りたそうにしているのでおろしてやると、彼女は槙雄だろう、彼に駆け寄って抱き着いた。槙雄はほっとした表情をした後、きっとこちらを睨みつける。
「この誘拐犯! 夕子に触りやがって! 警察に……」
 そこまで言って槙雄は目を丸くした。
「って弥生さん⁉」
「……?」
 はて、見覚えがないが誰だろう。弥生は作家として顔出ししていないし、光汰の元に来てから交友関係などない。店にもいかないので馴染みの店員などでもないはずだ。
「ああ、えっと、宅配の三橋です!」
「え、すごい奇跡だな……」
 普段の制服でないからわからなかったが、確かに顔が馴染みの三橋だ。
「すみません、弥生さんが誘拐なんかするわけないですよね、失礼なことを……。夕子のこと助けてくれたんですよね、ありがとうございます」
「ああ、普通に不審者扱いされると思ってたから大丈夫。おにいちゃんと会えてよかったね」
 さて、だいぶ時間を食ってしまった。光汰が帰っているかもしれないし、自分も早く帰らなければ。
「じゃあ、僕はこれで」
「あ、あの!」
「はい?」
「や、弥生さんってDomですよね……?」
 一瞬、時が止まった感覚がした。今なんて?
「お、俺Subなんでわかるんです。一目見た時からわかりました! だから……」
「『stop』」
 弥生がそう命令すると三橋は何かが喉に詰まった様に黙る。あまり切り替えたくなかったけれど、仕方ない。
「この話は誰にもしないで、三橋くん。これは『命令』だよ」
 DomにはGlareというSubを強制的に従わせる能力が備わっている。弥生は体験したことがないのでどんなものかはわからないが、それはとても怖いものらしい。両方の性質を持つ弥生にとって、Glareは武器にも恐怖にもなりうるものだった。
 ——Switchは、好きなタイミングでダイナミクスを変えることができる。普段、弥生はDomの光汰と暮らしているからSubの性質に寄っているけれどスイッチを切り替えればこのようにGlareを出して無理矢理Subを従わせることだってできてしまう。だがSubのふりをしていても真正のSubにはわかってしまうのか。やはり外に出るのは危険だ。
「その子の前でそんな顔しちゃだめだよ。じゃあ、また来週よろしくね」
 弥生はそうして公園を出る。少し歩いて、周りに誰もいないことを確認すると、大きくため息をついてしゃがみ込んだ。
「~~疲れたぁ……」
 Domに切り替えるなんて何年ぶりだろう。振り返ってみるがもしかしたら学生以来かもしれない。進路は全て光汰に合わせてきたが、悲しきかな、あんなに目立つDomに目をかけられていると他のSubから嫉妬を向けられる。光汰が卒業してからの高校一年間とかはよく絡まれた。その時にGlareを使うくらいじゃなかったか。
「早く帰って光汰の顔見よう……」
 精神的な疲労にはそれが一番効く。弥生はだるい足をどうにか動かして帰宅するために歩を進めた。
 
「あれ」
 帰宅すると玄関の電気もリビングの電気も付いていなかった。
 玄関に光汰の靴はあるから帰ってきているはずだ。時刻は六時。曇りの今日は電気をつけなければ暗くて作業も出来ないだろう。暗い部屋ですること——映画でも見ているのかと思い、なんともなしにリビングの扉を開ける。
「光汰、ただいま……」
 集中している所を邪魔したら悪いな、と思い小さく声をかけた。光汰は映画なんて見ていなかった。薄暗い部屋でスマートフォンを見つめている。その電光が彼の無表情を浮かばせていて、少しどきりとした。
「……光汰?」
「…………報告」
 彼はスマートフォンを見たまま言う。弥生は簡単に今日の出来事を話した。
「えっと、今日は前から言ってたけど、大御所先生と対談があったよ。ちょっと時間押しちゃったけど、有意義なものだったと思う。それから帰る途中に迷子の女の子に出会って……一緒に連れの人を探した。その連れの人はみつかったからトラブルは解決したかな。……以上、今日の報告でした」
「嘘つき」
 その冷たい声に身がひるんだ。嘘なんかついていない、今日の出来事は本当にこれだけで。
「……いつから騙してたの」
「な、何の話……」
 光汰がこちらにスマートフォンを向ける。そこには三橋と弥生が話している場面が切り取られていた。
「……この相手の反応、Glareだよね」
「……ぁ」
 見られていた。よりによって光汰に!
 どうしよう、どう言い訳しよう、そればっかりが頭を駆け巡る。
「……否定しないんだ」
「ちが」
「何が違うの」
 何が違うのって。何も違くない。弥生は光汰のことをずっと騙していて、Subとして過ごしてきた。それは事実で、言い訳のしようがない。
 何も言わずにいると光汰は大きくため息をついた。
「騙して、何がしたかったの。弥生はDomなんでしょ? Subのふりしてたのは何? そういうごっこ遊び?」
「……じゃない」
「え?」
「Domじゃない。僕のダイナミクスは、Switchだ……」
 観念したように弥生は呟いた。それに光汰はこらえきれないように笑った。
「あはは! 弥生がSwitch?」
「だから、Subの方に切り替えれば欲求も少しはあって、全部が嘘じゃ……」
「嘘じゃん」
 暗い声に肩が跳ねる。
「Switchってなんだっけ、一割くらいしかいないんだっけ? 弥生、楽しかったでしょ? 人のこと見下すのは」
「え……」
「ずーっと、弥生はずるいなあって思ってた。優しい、愛してくれる家族がいて、オレのあとついてこれるくらい勉強も出来て、それで小説の才能があって、その上人気作家で? 極めつけはSwitch? あーおかしい。ふざけんなよ」
 スマートフォンが床に投げつけられる。
「——っ」
「隠れてオレのことばかにしてたんだろ」
「ちが……」
「じゃあなんでオレのこと騙したの。何年も、何年も。大学行けばよかったじゃん、進路蹴って家に来て、オレの我儘にも応えて。結局何がしたかったんだよお前は!」
 身体ががたがたと震える。
 ——怖い。
 自分が悪いのに、何を被害者面してるんだか。こんな状況でも変に冷静な自分が顔を出す。
 悪いのは自分だ。だから、何か言わなきゃ。でも、何を言っていいのかわからない。
「なんか言えよッ!」
 机を殴る音に肩がすくむ。そして咄嗟に「言わなくてもいいこと」が口に出た。
「——だってSubじゃなかったら傍に置いてくれなかったでしょ⁉ キミは僕を見下さないと、管理してないと安心できないくせに!」
 言ってから口を両手で塞ぐ。こんな、言うつもりなんてなかったのに。
 —— Glareだ。
 心臓の鼓動が耳のすぐ横から聞こえる。頭の中は真っ白みたいなキャンバスから、徐々に色が戻り、自分がとんでもないことを話してしまったと自覚せざるをえなくなる。
 光汰はそれを聞いて力なく笑った。
「……弥生、『Look』」
 そう「命令」されて視線が逸らせなくなる。
彼の瞳に映る弥生は、自分から見てもかわいそうになるほど怯えていた。
「……こんなんに、そんなこと思われてたんだ」
「ちが、あの……」
 何が違う? 事実だろう?
 血の気が引く弥生を一瞥して、光汰は席を立った。
 それからすれ違いざまに弥生に告げた。
「……少し距離置こう」
 パタン、とリビングの扉が閉まり、玄関から外に続く扉があいた音がする。
 へたり込んでしまう。怖かった、そうバクバク言う心臓。でもそれよりも問題なのは光汰を傷つけたという事実。どうしよう、と涙が出る。
 どうしよう。ずっと一緒にいるのに、喧嘩の仕方も、本音の伝え方もわからない。
 ずっと一緒にいたのに。
 ずっと一緒にいたのに、これから先のビジョンが浮かばない。
 その日も光汰はベッドに来なかった。
 
 日曜、朝六時。
 普段なら光汰は寝ている時間なのに、ベッドにも、ソファにもいなかった。
玄関を見に行くと靴がなかった。
絶望で吐き気がして、そのままトイレに駆け込んで嘔吐した。
 ——嫌われた、嫌われた、嫌われた!
 当然だろう。ずっと騙していたのだから。バレるなんて考えもしなかった。光汰のことを軽んじていたのかもしれない。光汰は、無条件で自分を信じてくれると。光汰は自分がいなければ、ちゃんとした暮らしができないのだから、精神的にも生活的にも依存しているんだから、自分のことを新しいパートナーが出来るまで手放すはずがないと。そう、思い込んでいた。傲慢だ。光汰にはもう新しい好きな人がいるのに。生活面なんてその人が何とかしてくれる。管理癖だって理解してくれる子かもしれない。この部屋にいるのが弥生でなければならない理由なんてどこにもない。
「やだぁ……」
 やだ。いやだ。光汰の隣は自分じゃなければ嫌だ。
 なんであの時Subだって嘘をついてしまったんだろう。もし、ダイナミクスが分かったあの日に嘘をつかなければ何か変えられた?
 
『ずーっと、弥生はずるいなあって思ってた。優しい、愛してくれる家族がいて、オレのあとついてこれるくらい勉強も出来て、それで小説の才能があって、その上人気作家で? 極めつけはSwitch? あーおかしい。ふざけんなよ』
 
 ——いや、多分どちらにしろこうなっていた。
「樫井光汰」と「明山弥生」があの日出会って、彼の母親の言葉をふたりで聞いた時点で、もう駄目だった。光汰はあの時点で弥生を羨んでいたし、弥生はあの時点で光汰のことを「守らなければ」と思っていた。その掛け違いが起きていた時点で駄目だった。光汰が本当に欲しいものは手に入らないし、弥生は光汰のことを守る必要はない。正直に、家族として素のままで寄り添っていればよかったのだ。
 今更気づいたところで、もう遅いけれど。
 光汰は今どうしてるだろう、どこにいるんだろう。好きな人の所にいるのだろうか。このマンションは光汰の親の名義で買ったものだ。光汰が自分のことを嫌って、必要ないと判断したなら、出来るだけ早めに新しいパートナーに引き継いで出ていかなければ。
「とりあえずお風呂入ってご飯作らなくちゃ……」
 もしかしたら昼には、少なくとも夜には帰ってきてくれるかもしれない。それに希望を持ってルーティンだけはいつも通りこなそう。
 ——その時、ちゃんと謝らなくちゃ、騙したこと。
 まだ一言も「ごめん」と言っていない。光汰が弥生のことをいらないというのならばそれでいい。それでも、一言傷つけたことは謝りたい。
 帰ってきてくれますように。仕事は手につかず、玄関と家事の往復でその日は過ぎていった。
 昼も夜も光汰は帰ってこなかった。
「……メッセージの既読もつかない……」
 誰かと一緒にいるのは分かった。もう嫌われていることも分かった。だけどお願いだから一目顔を見せてほしい。
 弥生はベッドにもぐりこみ、にじみ出る涙を拭う。いつまでも待っていたいけれど、明日は月曜日。お弁当も必要だし、朝ご飯には帰ってきてくれるかもしれない。
 ろくに眠れる気がしなくて、その日はよく眠れると光汰が常飲しているハーブティに頼った。初めて飲んだそれは自分の口には合わなくて、こんな情報すら今は共有出来ない。
 共有できないその味のおかげか、眠ることは出来た。
 
「……?」
 ベッドのスプリングが軋む音で目が覚めた。
 まさか光汰が帰ってきてくれたのだろうか、飛び起きようと思ったけれど出来なかった。
 自分が誰かに頭を撫でられていることに気が付いたから。光汰が帰ってきてくれたのに、触れてくれたのに、謝ろうと思ったのに。口からは何も出ず、身体は固まるばかりで。
「……弥生」
 どきりと胸が鳴る。まさか起きているのがバレたのか? 何を話していいのかわからない。何から話せばいいのかも。弥生はぎゅっと目をつむり、寝ているふりをし続けた。
「弥生」
 優しい声。そんな声で自分の名前を呼ばないでほしい。そんな資格は弥生にはない。
「……大好きだったよ」
 光汰はそう言って弥生の頬に軽くキスをして、恐らく出て行ったのだろう、扉が閉まる音がした。
 ——大好きだった、って何。
 まだ許される余地があると、期待してていいの? それとも過去形ってことは見限られたの?
 わからない。何も。
 今から追いかければ何か変わるだろうか。いや、そんな勇気があるわけない。そんなものがあったら何年も真実を隠していない。
 結局、怖かったのだ。光汰が弥生を手放す瞬間が。
 本当に犬ならよかった。この部屋と言う檻の中で、ただ主人を待って、帰ってきたらかわいがってもらう。そんな存在になれたら。そんな存在になりたかった。
 でも弥生は犬にはなれない。主人の手を噛んでしまったなら捨てられても仕方がない。
 
 朝、リビングに光汰はいなかった。
 それでも、無意味だとわかっていても弥生は食事と弁当を作ることを辞めなかった。
 光汰がいつ帰ってきてもいいように。でも、ソファーに座っているのは、くまのぬいぐるみと、弥生のふたりだけだった。
 そんな生活が一週間続いた。その一週間、光汰はあれ以降一度も家に帰ってこなかった。弥生は外に出ないから、すれ違うはずがない。本当に帰ってきていないのだ。
 新しいパートナーの所は自分の所より居心地がいいのだろうか、そこまで考えて笑う。
 ——そりゃ、嘘つきよりはみんなマシか。
『酷い顔じゃないですか、ちゃんと食べてます?』
 ビデオ通話で小野と打ち合わせをしていると、彼女がおずおずとそんなことを言いだした。
「……食欲がなくて」
 どうも何も食べる気がしなかった。光汰に作った弁当や食事はそのまま弥生の食事へとシフトするのだが、どうも食が進まない。食材には悪いが残してしまうのが大半で、そんな食生活を送っているものだから仕事もいまいち進みが悪い。
『ま、パートナー間の喧嘩なんてよくあることだと思いますし、明山さんが勇気出せば聞く限り解決しそうではありますが。それより聞きたいんですけど、その男と暮らすことによって明山さんに何のメリットがあるんです?』
「え……、メリット……?」
『例えば、そのパートナーさんのメリットは、明山さんが身の回りのお世話をしてくれることですよね? すごく尽くしてくれるし、Switchとは言えSubになれるので性関係も上手くいく』
「ち、ちょ……。性関係とか女性が言うものじゃ……」
 あたふたする弥生を無視して小野は続ける。
『でも、明山さんは彼から何を貰っているんですか? 聞く限りだと、尽くして、言うこと聞いて、ご機嫌取りしてって、一緒にいる意味が分からないのですが』
 確かに、言われてみれば、他人から見た自分たちの関係は不可解かもしれない。小野の言う通り弥生には一見何の得もない関係だろう。
 でも、弥生にとっては違う。
「……僕にとっては、彼と一緒にいられることがこの上ないメリットなんです。……彼のことが好きだから」
『好きって、どこが?』
「それは……」
 最初は、この子を守ってあげなきゃという同情に似た想いだったかもしれない。もう二度と、光汰を泣かせないように、愛情と家族に恵まれなかった彼に自分が与えようと。
 それが、どんどん変化していった。彼が幸せならそれでいいと。何をされても、隣に置いてくれるならばそれでいいと変わっていった。彼の笑った顔を隣で見ていたい。そのためならば何でもするし何でも捨てる。
 そこから間違っていたのかもしれない。
 光汰を自分に依存させようとしていた。そうすれば傍にいてくれるから。でも。それは本当に光汰のためと言えるのか?
 本当は、適切な距離を取りつつ、お互いの道を歩むべきじゃないか。
 でも、やっぱり嫌だ。
「……わからないです」
『なら、離れた方がいいですよ。お互いのためにならない』
 そう、かもしれない。
『お金はあるんですからひとり暮らしでもしたらどうですか』
「……考えておきます」
 それから簡単な打ち合わせを終えて、今はそんな精神状態じゃないだろうし、ということで、また数日後に新連載の話を詰めることになった。
 弥生はパソコンの電源を落とすと、チェアの背もたれに寄りかかり詰まったままの息を吐く。
「離れる……」
 そうだよな、と独り言ちる。今の状況はお互いにメリットがない。
 弥生がいる以上、光汰が自宅に帰ってきて普通に過ごすことは無い。弥生より遅く寝るか外に泊まって、弥生より先に起きて……おそらくどこかで時間をつぶしているんだろう。そんな負担ばかりかけさせて、何が光汰を守りたいだ。
「……実家に帰るか……」
 実家には光汰の家に居候することにしてから帰っていない。どうやら光汰は個人的に弥生の両親と連絡を取っているらしいが、弥生は彼ら彼女らがどんな話をしているのか知らない。
 弥生はスマートフォンのロックを解除すると、電話帳から母親の連絡先を出す。気は進まないが一日も早く家を出るためだ。意を決して電話をかける。数コールで母親は通話に出た。
「……もしもし」
『あら、久しぶり弥生』
「……久しぶり」
 少し記憶より落ち着いた声。それだけ歳を取ったということなのだろう。三年間、何の連絡もしなかったのだ。記憶と違っていても何の不思議もない。
『光汰くんは元気? 迷惑かけてない?』
「……それなんだけど、実家に帰ろうと思って」
『あら、やっと別れるの』
「付き合ってないし」
 光汰と付き合えたらどんなに幸せだろう。今となっては天地がひっくり返っても無理なことだけど。
『なら、光汰くんお見合い行けるのね~。心配してたけどお相手は社長のご令嬢でしょう? 弥生が邪魔してるんじゃないかって心配してたのよ』
「え、……何、それ」
 お見合い? そんなの聞いていないが。
『あら、聞いてないの、光汰くん縁談来てたのよ。勤めてる社長のご令嬢ですって。弥生がいるから~って私には言ってて、説得したけどなかなか首を縦に振らなくて。でもどうにかなったならよかったわ』
 じゃあ今はその女のところにいるのか。だから帰ってこないのか。その女の方が弥生よりもいいのか。
 ——いいんだろうな、その子は嘘つかないだろうし。
『ま、いつでも帰ってきなさい』
 そう突き放され母に話を切られた。弥生は通話画面が閉じたスマートフォンを眺めて笑う。
「……ははっ、……もう、いいや」
 どちらにしても潮時だったのだろう。光汰は人に認められたい人だから、社長令嬢の配偶者になれるならばそれはすごくいい話だろう。弥生とは違い、女性が相手なら光汰が欲していた家庭も手に入れることができる。弥生は光汰のこれからの人生に邪魔なのだ。
 クローゼットからキャリーケースを出し、その中に雑に衣類や荷物を投げ込む。元々、このキャリーケースとノートパソコンだけを持ってこちらに来たから、荷物なんてほど大きいものは持っていない。身軽なのが掬いであり、悲しかった。自分は三年も彼と一緒にいて、これだけしか、キャリーケースに入る分しか持ちえなかったのだと。
「……そうだ、ぬいぐるみ……」
 あれだけは持っていこう。光汰が弥生に、とくれたものだ。置いていけない。
 リビングに向かい、くまのぬいぐるみを抱き上げる。これだけは大切に、そうぎゅっと抱きしめると、違和感に気が付いた。貰った時はテンションが上がっていたせいで気付かなかったが、なにか首に硬いものがかかっている。パーカーの中か? ぬいぐるみの服の中に手を入れ「それ」を取り出すと、弥生はあまりのことにへなへなと座り込んでしまった。
「……なに、それ」
 首にかかっていたのはチェーン。それをくぐっていたのは、光汰が着けていたものとそっくりなデザインの銀色の指輪だった。
「まさか……」
 ——お揃いの指輪? でも、なんで。
 頭の中がぐるぐる回り、視界もぐらぐら揺れる。
 そんな時にインターホンが鳴った。
 ——宅配の三橋さんだ、出なきゃ。
 弥生は無言でエントランスのロックを開け、玄関によろよろと歩を進める。そのまま倒れこむように玄関の鍵を開けた。めまいがする。呼吸ができない。なんで、光汰、どういうこと?
 ——きみの本当の気持ちって何。
 どのくらいの時間が経ったのだろう。目の前はぼやけて、耳も聞こえ辛くて、なんだか真っ暗の中にいるみたいだ。
「——さん、——いさん!」
 光が差す。こんなまぶしい場所は自分には似合わない。
 誰かの体温に違和感を感じて、でも、もう慣れたあの温かさに触れられることは無いのだと思うと、なんだか全てがどうでもよく思えて、呼びかける声を無視して目を閉じた。
 
「明日から弥生はひとりで登下校するんだね」
 高校の卒業式の帰り道だったと思う。夕方まで告白ラッシュを受けてへとへとの光汰の横にいたのも弥生だった。夕暮れの坂道。落ちる日を背に光汰がため息をついてそう言ったのを覚えている。
「何も無いよ」
 ただ、県外に行く光汰には簡単に会えなくなるのかと寂しいだけ。
 光汰は就職するのかと思っていたから、大学に行くと言ったのは意外だった。
「早く親から離れたい」「ひとり立ちしたい」が口癖だったから、てっきり寮付きの会社に就職するか一人暮らしするのかと。親から援助を受けて、その上、母が望んだ大学に行くなんて選択肢にあったのかと聞いた時は驚いたものだ。
「……光汰がいない世界になるだけだ」
 寂しかった。不安だった。ダイナミクス性が光汰にバレる心配をこの一年間危惧する心配はない。でもその安心以上に負の感情が上回っていた。
 彼の顔が見れない弥生に光汰は笑う。
「——あのね、オレさ、夢があるんだ」
「夢?」
 そう言えば昔はサッカー選手になりたいとか言っていた気がする。それを出すと「もっと叶いそうもない夢だよ」と光汰は笑った。
「好きな人と正式に家族になること。オレにはわかんないけど、オレとその好きな人と、子ども——養子になるのかな。とにかく三人で……、あ、兄弟がいてもいいかも。とにかくそんな絵本の中みたいな家族を作って、お互いに本音を言い合えるような関係になること」
 その好きな人は自分ではないことくらいわかっている。
「……叶うといいね」
 いじわるなセリフだと自覚しながらそう言った。光汰は弥生をずっと見てくれていた。でもこれからは進路が違う。弥生と離れて、違う世界を見る。その広い海を見て、その上で弥生を見てくれる確率なんて、うぬぼれていたとしてもない。
「……うん。だから大学行くんだ。母さんが好きな人を養いたいならいい大学行っておいて損はないからって。あと勉強は貴方の視界を広げるって。最後くらいは親らしい事させてって言われたのもあるけど、まああの人たちをどう思っているのかは置いといても利用しない手はないなって思ったから」
「ふーん」
「興味無さそ~。ねえ弥生」
「ん?」
「オレがさ」
 彼の表情は眩しいくらいのオレンジが邪魔して見えなかった。
「オレがいらなくなったら、そんなカラーなんて捨てちゃっていいんだからね」
 
「だから弥生さんをここまで追い詰めたのは貴方でしょう⁉ パートナーとして恥ずかしくないんですか⁉」
「きみには関係ない」
「病院ではお静かに!」という女性の声が聞こえる。それでも男たちの声は止まなかった。
「パートナーを解消するべきです! お医者さんもそう思うでしょう⁉」
「……そうですね」
「ほら!」
 何を言い合っているんだろう。ここは玄関だろうか。見覚えのない天井、白い部屋。ここはどこだろう。
「……ここまで衰弱していると……。しばらくは入院をお勧めします。栄養状態にも難がありますし、何よりもカウンセリングが必要な状態です。Switchのカウンセリングは当院では難しいので、都内の大病院に移ってもらう必要があります」
 電子音。ピ、ピ、ピ、と同じリズムで刻まれている。
「……それでも」
「こうた……? どこ……」
 耳障りの良い彼の声だけはすぐに分かった。
「弥生……?」
 そんな悲しい声を出さないでほしい。弥生はこんな声をさせたくて一緒にいたわけじゃない。自分は彼の笑顔が見たくて傍に居続けたのに。
 その結果がこれか。
 泣きそうな表情。まるで、ひとり置いて行かれた子供の様な不安げな瞳。
 どんな体たらくだ。好きな子のひとり笑顔に出来なくて、何がパートナーだ。
 ——悔しい。
「弥生さん! 起きたんですね! 玄関で倒れられて救急車呼んで……でも無事でよかったです」
 助けてくれたのだろう三橋が胸を撫でおろしたように、ほっとした表情を浮かべる。
「ありがとうね、槙雄くん」
「いえ!」
 三橋はどこか誇らしそうに元気に返事をした。
 それから弥生は起き上がり医師の方を向く。
「……すみません、もう帰っていいですか? 光汰のご飯を作らなきゃいけないので」
「ごめん、もういいんだよ……」
「僕は彼のパートナーなので」
「弥生……」
 光汰が拳を握り締める。医師が苦々しい顔をした。
「明山さん、樫井さんとはパートナー契約を正式に結んでいませんよね」
「はい。何か問題が?」
「これは医師の見解ですが、樫井さんと一緒にいることは精神的に負担がかかっています。……精神的な健康のためにも離れる事をお勧めします」
 ハナレルコトヲオススメシマス。
 なにそれ。
 なんでそんなことを他人から言われなくちゃいけないんだ。
「……光汰」
「…………っ」
「……なんで何も言わないの」
 光汰はそれでいいのか。光汰が良いなら良い。でも。
「先生、ですよね。それは強制ではないですか?」
「え、ええ。明山さんには定期的なカウンセリングが必要な状態なのは変わりませんが」
 なら、答えは。
「……わかってます。今、彼の実家に連絡したのでもうすぐ迎えが来るかと。そうしたらオレは金輪際彼に会いません」
「え?」
 弥生の答えを遮ったのは他の誰でもない光汰だった。
「……光汰、僕、もういらないの?」
 離れようかと思った。でも、光汰の好きな相手は、指輪の相手は弥生だ、それを知った今、離れる理由なんてない。
 自分の覚悟の上で離れるのと、一方的に決められるのではダメージが違う。じわりと視界がゆがむ。点滴の打っていない腕で拭うと光汰は医者に重い声色でお願いした。
「……少しふたりにさせてください。彼に説明したいことがあるので」
 婚約話が持ち上がっているならそっちの方がいいかも? 幸せな家庭を築きたいから弥生はもういらない? パートナーにはなれない? 外野にどう思われようがかまわない。弥生は光汰以外の全員から石を投げられても耐えられる。だから光汰がそうしたいなら従う。
 ——だけど、肝心の光汰からは直接何も言われていないじゃないか。
 光汰から「いらない」と言われなければ納得できない。怖い。一度は光汰から離れようとした身だ。直接言われるのは死ぬほど勇気がいるし、何ならこのまま死んでしまいたいと思う。
 でも、他人に勝手に離れろと言われてハイそうですか、なんて納得したくない。
 自分たちが紡いできた十何年をそんな外野の言葉で片づけたくない。
「……わかりました。お話が終わりましたらナースコールで看護師を呼んでください」
 医者と、連れられて三橋が病室から出ていく。
 個室には弥生と光汰だけが残った。
「……ごめん」
 ベッドの脇のパイプ椅子に座って、光汰が弥生の腕を強く掴む。顔は下を向いて見えないが、声の様子からかなり憔悴しているのは確かだ。彼が発した一言目がそれ。弥生にはわからなかった。光汰は何も悪くない。
「なんで謝るの? 悪いのは隠してた僕だよ」
「そういう所だよ!」
 慟哭が響く。ぎゅっと腕を握られる。その力は弱々しかった。
「そういう態度にずっと甘えてた! 弥生ならどんな扱いしても離れることは無いって! 今回だって大人げなく意地張って、弥生が弱ったらしょうがないなって許すつもりだった! それが、ここまで……。こんなボロボロになってるなんて……」
光汰は「毎日顔は見てたのに」と呟いた。あの日だけじゃなかったんだ。
「……光汰のせいじゃないよ」
「オレのせいだよ!」
「違うよ」
「違くない。……これ以上自分を嫌いにさせないでくれ……!」
 光汰に怖がらずに聞けばよかった。電話をかけるなり、会社の前まで勇気を出して行ってもいい。メッセージでもよかった。弥生が真実を知るのを怖がって、思いつめた結果がこれだ。光汰は悪くないのに。
 ——笑顔が見たくて傍に居たのに、なんで泣かしてるんだよ。
 掴まれた腕に涙が落ちる。それが全ての覚悟を決めてくれた。
「……光汰のこと、わかんないよ」
 彼の頭に額をこつんとつける。
「母さんからお見合いの話が出てたって聞いたり、僕の知らないところで指輪着けてたり、もしかしたら新しいパートナーにしたい人が見つかって、僕はもういらなくなったのかなって思って、でも僕の分の指輪見つけて、いろいろわけわかんなくなっちゃってこれ。勿論、全部僕の自業自得。Switchだって隠してたの僕だもん。でも、それでも自分が悪いって光汰が思うとしたら大事な事を言わずに僕から逃げたことだよ」
 握られていない方の片手を彼の冷たい手に重ねる。
「僕は純正のSubじゃないから、光汰は僕といる限りパートナー契約が結べない。だから、いらないならいらないって言って。そしたら諦められる。でも、諦める前に光汰の本音を聞きたいよ。ちゃんと納得した上で諦めたい」
 自分の意見をはっきり言ったのは初めてかもしれない。変な刺激をして捨てられるのが怖かったから。でも、その状況になって、納得してから終わりたいと思った。この恋は一生引きずるだろう。だから、きちんと終幕したい。人生に再演なんて無いんだから。
「……いらないとかじゃない。一緒にいる理由が無いんだよ」
「なんで?」
 そう聞くと、光汰は言いづらそうに答えた。
「……弥生のことを見下してたんだ」
「うん」
 知ってる。そう言うと彼は力なく笑った。
「穴が開いてるんだ。小さい穴が胸にぽっかり空いてて、何を買っても何をしても埋まらない。やれることは全部試した。たくさん努力した。でも埋まらない。これを治すにはもう死んじゃうしかないんだってわかった。……これが、弥生の家に来た時の話」
「え……」
 見下されていたのは知っている。だけど、そこまで追い詰められていたなんて何も気づかなかった。
「でも、弥生と一緒にいると大丈夫なんだ。死にたくなくなる。それで、どんどん大人になって分かった。オレは誰かの傍に居ることで、人と話すことで気を紛らわせていれば普通になれるんだって。誰かを見下して、誰かの為にしょうがないなって何かしてる時だけが、穴が気にならない。見下せれば誰でもよかった。……弥生じゃなくてもよかった。だから弥生がオレより上の存在なのが耐えられない。なら見下せる適当な相手を探したほうがいいのに」
 光汰の頬に一筋、雫が落ちた。
「……それでも、傍に置くのは弥生がよかったんだ……」
「……そっか」
「弥生はオレがいなきゃ何もできないって。実際はオレの方が何もできないのに。でもそんな現実は見ないようにしてた。例え実際は弥生がいないとまともに生活が送れなくても、弥生はSubだからDomのオレが必要不可欠だろうって、そう思うことでなんとか自尊心を保ってた。でもSwitchだって知って、オレじゃなくていいじゃんって。……いなくてもいいじゃんって。それを知ったら帰るのが嫌になった」
 涙声が混じる。
「……弥生がひとりでも生きていけるのが嫌だ……。家族って一緒に居なきゃいけないものじゃないの……。幸せになるにはずっと一緒じゃなきゃダメなのに、ずっと心の中では気づいてたんだ、多分、オレ、弥生の人生に邪魔だって」
 そうして光汰は顔を上げる。彼は涙に濡れた痛々しい笑顔で、明るく装って告げた。
「先生の言う通り、もう二度と会わないようにしようか。オレたち」
 考えるより先に声が出ていた。
「……光汰のこと好きだよ。放っておけない。笑ってほしいし、それをずっと見ていたい。好きだからずっと嘘ついて、一緒にいて、いつか僕より良い人がいたらその時は身を引こうと思ったよ、今でも思ってる。だから今すぐ僕と離れたいなら僕より良い人連れてきて。僕が完敗したと思えるくらい光汰のこと大事にしてくれる人」
「そんな人」
「いるわけないでしょ。それともお見合いの人がそれだったりする?」
 声は小さく消えるように、掠れていく。
「教えてよ、光汰のこと、こんなに一緒にいるのに僕、何も知らないんだよ……!」
 何も知らない。何も理解できない。
 だから理解したい。最後なら、後悔なんかしたくない。
「……好きだよ、弥生に教えられるのはこれだけ。これだけが見栄で飾った自分じゃなくて本当のこと。お見合いは断ったよ。そのために指輪着けてた。もう相手がいるんですって察してもらえるように」
 震えた声で彼は言った。
「昔から弥生が好きだった。絶対家族になるんだって、ずっと思ってたけど、どうやったらいいのかわかんなかった。知らない世界に行ってほしくなかった。大学行かなかった時みたいに選ばなかっただけで、弥生はどんな世界でも生きていけるのを知ってたから、あの部屋でずっとオレに飼われて欲しかった。でもそんなの健全な関係じゃないよな」
 光汰は頭を下げる。
「好きになってごめん、大切に出来なくて、ちゃんと正しく愛せなくてごめん」
「……わかってるよ、わかってたよ。まともな関係じゃないのも理解してたよ。でも、謝らないでよ。光汰が僕を好きになってくれることが悪いことなわけないじゃん……」
 わかっていた。だから異常な管理を甘んじて受けていた。
 一緒にいるべきじゃないって、健全じゃないって、みんな言う。みんなの言う通りだと思う自分もいる。
 でも、正しいことが全部正解なの?
 正解を選ばなきゃいけないの?
 そうじゃないでしょ。好きな子が、自分のことを好きになってくれた。それだけのものをもらったなら、だったら、自分も通すもの通せよ。
「……わかった。離れよう」
「…………うん」
「それでその間、お互いにカウンセリング受けよう」
「え……?」
 これしかなかった。周りを、光汰を納得させる方法。
「僕らだけじゃ変われないよ。だから、第三者を挟もう。それでさ、光汰がもう大丈夫って安心できるようになったらまた一緒に暮らそう」
 カウンセリングを受けても全てが変わるわけじゃない。根本は同じだ。人間の思考回路が簡単に、正しく型抜きで抜かれたジンジャーマンみたいに同じように矯正できるなら、人は喧嘩も反発もしない。そんなものに期待はしていない。光汰はずっとこうだし、弥生なんか考え方を改めもしないだろう。人の話を素直に聞けたらこんな性格はしていない。
 だけど今の光汰には時間が必要なのだ。自分が正しいのかわからない、正解がわからない。彼はそれが原因で弥生と一緒にいることを悩んでいる。勿論、弥生が「自分が好きなように」矯正することも出来る。マリオネットの糸を手繰るように操ることも出来る。でもそれは、光汰が弥生にやってきたことと同じだ。自分の思い通りに動かすことは相手の思考回路を奪う。光汰にはそんな風になってほしくなかった。
「光汰、あのね。多分きみの夢みたいに絵にかいたような素敵な家族が作れるかはわからないけど、でも世界で一番光汰のことを想っている自信はあるよ。だからさ」
 彼の手をぎゅっと握る。
「僕の隣にいることを選んで。一緒に家族になろう」
 ぼろぼろと涙を落とす彼が愛おしかった。
 
「もしもし? 元気? 新刊出たけど読んでくれた?」
『まだ。ごめん、仕事が忙しくて』
「そっか、あんまり無理しないでね。ちゃんと食べてる?」
『うん。でもやっぱり弥生が作ったご飯が一番美味しいからもっと味わって食べておけばよかったと思ってる』
「あと数日でしょ? 初日は好きなものたくさんつくるね」
 あれから、医者の勧めもあり一年別々に暮らすようになった。
 光汰はあのマンションで、弥生は実家で暮らしている。
 ふたりは週に一度、電話を通して近況報告をするくらいに距離を置いた。医者の勧めだ。毎日と譲らなかった弥生をたしなめたのは光汰だ。
「言う通りにしよう」
 弥生は心配だった。何が、と言葉にするのは難しい。
 勿論、一旦離れると言ったのは自分で、カウンセリングを受けようと言ったのも自分だ。光汰が心変わりする、なんてことも思っていない。
 ただ、毎日状態確認ができないことに漠然とした不安があった。言葉にするのは難しい。例えるなら、家の鍵をかけ忘れて旅行に行ってしまった時のような「なにかあったら」という心配に近い感情かもしれない。
 だが、もうすぐ期限の一年になる。この一年、弥生は仕事に打ち込み年間五冊も出すことができた。過去作は映像化もされ、光汰といた時よりキャリアは順調だ。映画化された際は光汰に試写会の関係者としてチケットを送ったのだが、彼は仕事が入ったとかで来ることは無かった。
 一年の間、会わなかった。
 弥生にとって、とてつもなく長い一年。それがもうすぐ終わる。Switch専門のカウンセラーからも「精神的にも健康的にも大丈夫」とのお墨付きだ。六月二十日。それが同棲を再開する日程だ。
「ああ、じゃあ住所変更手続きしなきゃですね」
 部屋から出られるようになって小野とも対面で会えることになった。今日は軽く打ち合わせ兼ご飯でもという形で席を用意してくれた。
「締切の心配はしなくていいですよ。いつも通りで」
「それに関しては元々不安はありません。心配なのは——」
 彼女はそこまで口に出すと言いにくそうに口を閉ざし「やっぱりやめます」と口を噤んだ。
「なんですか。なんかあるなら言ってくださいよ」
「いや……、先生はメンタル強いから大丈夫でしょうけど、相手はどうなんでしょうねって」
「え——?」
 相手、光汰のことだ。
 光汰のことなら心配ない。毎週元気な声を聞かせてくれているし、仕事も順調、家事は代行を頼んでいるらしいから、栄養状態も生活も大丈夫だと聞いている。
「だ、大丈夫ですよ。だって彼は優秀だし」
「ころころって、なること。先生は無いですか?」
 小野は指で坂から転がるように落ちるジェスチャーをする。
「ひとりでいる時、ふと思うんです。『あれ? もうだめかもしれない』って。それは仕事だったり、恋愛だったり、生きること自体だったり、いろいろあります。そうやってメンタルの坂をころころ転がっていくと、いつのまにか何もできなくなるんです」
「小野さん、大丈夫ですか?」
 彼女のそれはどう咀嚼しても実体験に基づくものだった。彼女は失礼、と灰皿を自分の方に引き寄せると、鞄からタバコを出して火をつけた。
「私はもう乗り越えましたから。あ、先生たばこ大丈夫ですか?」
「大丈夫じゃなかったら居酒屋になんかいませんよ」
「よかった。令和は喫煙者に厳しい社会で辛いですね。……続きいいですか?」
「はい」
 彼女は白い煙を吐き出して語る。
「普通は家族とか、友達とかが止めてくれるからまた坂を登れるんですけどね、転がった坂に誰もいないと悲惨ですよ。もう死ぬことしか考えられなくなる。先生の同居人、話を聞いている限りかなり外面が良くて、プライドが高くて、それで他人に弱みを見せないタイプじゃないですか? そういう人って誰が支えてくれるんでしょうね」
「そりゃ僕が」
「電話越しにわかることって何ですか?」
 彼女の桜色に塗られた爪に挟まれた煙草の寿命が減っていく。弥生はその返答に何も答えられなかった。毎週電話はしていた。「最近どう?」そんな切り口で始める会話は、いつから弥生の近況ばかりになった? まるであの檻にいた頃の逆。外の話を弥生がして、光汰がそれを聞いている。光汰が前に自分の話をしたのは、はたしていつだったか。
「なんで電話やメールで済ませられる打ち合わせをテレビ電話でやってたかわかります? 前に追い詰められて自殺した作家さんがいたんです。先生くらいお若い人でした。でも、連絡付かなくなって家に行ってみたら首吊ってました。それ経験してから『あ、顔見るのって重要なんだ』って上司に無理言って担当作家は顔見て打ち合わせしてます」
 頭の中が真っ暗になる。まさか、光汰に限って。
 だって光汰はDomだぞ? 社会的に成功しやすい立場で、能力もある。身の回りのことは代行がやっているし、メンタルに関してはカウンセラーが付いている。精神を病む要素が全くないのだ。
 ——本当に?
「……ごめんなさい、今日は帰っていいですか?」
「いいですよ。あ、原稿は滞りなくお願いしますね」
 振り返って会釈すると、彼女は手を振りながらまだ長い煙草をもみ消していた。
 ——今日は六月十八日。月曜日。毎週月曜日の二十時は電話の時間。現在時刻、十八時。
 事実だけを頭の中で並べる。余計なことは考えられなかった。小野が脅してきたせいで心配になってしまったじゃないか。まさか、光汰に限って。
 そんなことを考えながら、メッセージアプリを開く。電話をしようと思った。
「…………は?」
 駅の真ん中で立ち止まり、固まる。迷惑そうにぶつかってきた中年の男が舌打ちをしてきたが、弥生は「すみません」の一言も言えなかった。
 ——「メンバーがいません」って、なに。
 慌てて電話帳を開く。なんでアプリのアカウントを消したんだ、確かに昨日まではあったはずだ。毎日寝る前にトークを見直すから間違いない。
『おかけになった番号は現在使われておりません』
 スマートフォンが手から滑り落ちた。すぐに目の前の女性が駆け寄ってくれ、拾い渡してくれる。弥生はすぐに気を持ち直して受け取ると頭を整理するために歩き出す。
 ——おばさんに連絡しよう。流石に親なら何か知っているだろう。
 彼の母親は今は夫と離婚して、明山家とそう遠くない場所のタワーマンションで暮らしている。家出する際、光汰をよろしくと連絡先を交換した。今から行ってもいいですか? とメッセージを送信すると、すぐに返信が返ってくる。
『光汰のこと? 弥生くん宛ての手紙ならお母さんに渡したよ』
 
「母さんッ! 光汰から手紙って何⁉」
 タクシーを呼び出し、家まで送ってもらう。万札を乱暴に運転手に釣りごと渡し、玄関で出迎えてくれた母に向かって叫んだ。
「ああ、なんか光汰ママにメッセージが来て、ポスト開けたら入ってたんですって。光汰ママもなんだろうって言ってたわ? 開けてみれば?」
 靴箱の上に置いてあったペーパーナイフで雑に手紙の封を開ける。中に入っていた便せんに目を通すと、弥生はそのまま力が抜けて膝から崩れ落ちた。
「弥生⁉」
 母が駆けつけてくれる。ああ、一年前もこんなことがあったなと頭は冷静だった。だけど本当に絶望した時、本当に八方ふさがりの状態になった時、人は過呼吸なんか起こさないらしい。
 
『弥生へ
事後報告でごめん。一緒に暮らしてた家は引き払いました。もうオレはあそこにはいません。鍵は管理人さんが変えるそうなのでもう使えません』
 ——走る。走れ。
『家に残ってた食器とかは捨てちゃいました。お気に入りもあったのに勝手にごめんね。でも、オレにはもういらなかったから』
 ——息を忘れるな。呼吸をしろ。
『多分届いたのは同居再開の前日だよね? 母親の所に届く日付指定間違えてなければ多分そう。楽しみにしてたのにごめんね。でも、なんかもう疲れちゃって』
「もしもし⁉ 樫井光汰の身内ですけど樫井は、——は⁉ 先日退職⁉」
『弥生には迷惑かけたくないんだけど、かかったらごめん』
 ——考えろ、考えろ。
『いろいろ考えたけど、やっぱり弥生の隣にいるのは無理でした。でも無理ってわかっていても、自分が幸せになるには弥生の隣にいる未来しか考えられなくて、そしたらもう、こうするしかないなって思って』
 ——今、僕が考えなきゃどうなる!
『大好きでした。生まれ変わってちゃんとした人間になれたら、また出会ってください』
 ——僕はあの子の家族だろ!
 海浜公園だ。居場所はわかっている。もし、これが遺書なら、悲しいけれどそれで間違いないなら、彼が自分の愛した「樫井光汰」であるならば、恐らくそこにいる。
 
 ——昔のこと、覚えてる?
 光に、流星からさんずいを借りて、光汰。
 それが幼いながらに妙に耳に残ってたんだ。
 だって、いい名前だって思ったから。自分の名前は「明山弥生」三月生まれだからってだけで、つけられた名前だから、流れ星が名前に入ってるんだって思って、それってすごくかっこいいって。
 だから、光汰を預かってた時、母さんにお願いしたんだ。
「流れ星見たい」って。
 そして見に行ったよね、丁度流星群が近かったから、よく星が見えるって話題だった海浜公園に。あそこは真っ暗で周りに大した建物もないから、普段混んでないくせにあの日は人が多かったのを覚えてる。
 でも期待してた流れ星は曇ってて見えなかった。何時間も粘ったけどダメで、まだ小さかったから眠くて帰ることになって。
 ねえ、覚えてる?
 車の後部座席で約束したよね。
「おじいちゃんになる前に一緒に見れたらいいね」って。
 同棲再開の日付を決めたの、光汰だよね。
 ——ねえ、いつから決めてたの。
 今日はあの日と同じ日付だよ。
 
「ひとりで見に来たら意味ないでしょ」
 誰もいない立ち入り禁止の深夜の海。彼は波の中で夜空を見上げていた。夜空は明るく、雲はまばら。でも流星群の予報は無い。夏の大三角形や他の星々が輝くだけの、どこでも見られる空。その空を、彼はここで観る選択をした。
「……なんでわかっちゃうかなあ。未来予知? はは」
「光汰、手紙の指定日一日間違えてた。きみは肝心なところでドジするよね」
「あー、やっちゃった」
 膝から下は海の中。もう少し進めば、きっとどこかに攫われてしまう。
「帰ろう、光汰」
 彼はあいまいに笑うだけだった。こんな笑い方をする男だっただろうか。一年、顔を見てなかっただけだった。なのに、彼の昔の笑い方を思い出せない。もっと、元気だったはずなのに、いつ、いったい何が。何が光汰をここまで。
「……穴がね」
「え?」
「塞がらないんだ。医者が病気だから治んないって。性格って言ってくれたらまだ救いがあったのに病気だって。笑える」
 彼の声は震えていた。
「会社ですごい営業成績叩きだす後輩が入ってきて、その子すごい良い子なんだ。オレに懐いてくれるいい子。でもSubなの。でもそれがどうしたんですか? ってすごい強くて、社会的立場が弱いSubにもこんな子いるんだって思ったらだめになっちゃった。その子に出会ってからどんどん穴が広がって」
 泣きそうになりながら、顔をゆがめながら笑う彼はそれでも伝えようとする。恐らく、口に出したら「本当」になってしまう自分の本心を。
「誰かを馬鹿にしないと、誰かを見下してないと、安心できないんだ。こんなのが幸せな家族なんて、作れないね……」
 気が付いたら、身体が勝手に動いていた。
 駆け出し、跳ねる水しぶきの中を進み、夜空と海に溶けてしまいそうな淡い彼を抱きしめる。どこかに飛ばされないように、強く、強く。
「僕も探すから! ちゃんと塞がる方法! 絶対見つかるから!」
「見つからないよ、治んないってプロが言ってるんだもん」
 弱弱しい彼の言葉に歯噛みする。悔しい。どうしてあの時、傍に居るって決めていたのに。どうして離れるなんて選択をした。あの時、ちゃんと光汰はSOSのサインを出していた。なのに、教科書通りの方法で解決しようとした。それがここまで大好きな人を傷つけるなんて思いもしなかったから。
「プロだって人間だもん、間違える事だってある! 絶対僕が見つけ」
「……それを言い切れるのは弥生が最も特別側の人だから?」
「は……?」
 波の音がさざめいた。一瞬、周りの音はそれしかなかった。
 呼吸の音さえも聞こえなかった。
「Domってね、社会で成功しやすいんだよ。だからオレ、Subのことをばかにしてて。こいつらは可愛そう側だからなって見下してた。でも実際は努力次第でどうにでもなるし、ずっと安定剤だった弥生は特別なSwitchで成功してる。それもオレから離れたらまるで別人みたいに生き生きした声になって」
 湿った肩の部分がぬるい海風に触れた。
 ああ、もう限界なんだと思った。
「もうね、弥生といっしょにいられないんだ。これ以上、オレはオレに失望したくない。弥生が好きだった『樫井光汰のまま』どっかに消えちゃいたい」
「だから、ばいばいしよう」震えた声で光汰は言った。
 自分と向かい合うことが正しいことだって教科書は言う。
 聖人でありなさい。正しい人でありなさい。
 そんなの無理だってわかんないのかよ。自分の胸に聞いてみろ。
 何冊も人の汚い感情を描いてきた。だからわかる。
「光汰は病気じゃない。普通だよ、みんなそうだよ、隠してるだけだよ」
 人は誰だって、いびつな心を抱えて生きている。
 聖人君子なんて存在しない。光汰のなりたい「樫井光汰」には人間である以上どうやってもなれない。だけど、それがどうした。
「好きだよ。どんなに壊れてても、汚れてても、きみ自身が納得できる自分じゃなくても、僕は光汰が好き。変わらなくていい。もう病院も行かなくていい」
 弥生は、どんな光汰でも傍にいたい。
 歪んでようが、病気だろうが、消えたいとか死にたいとか、どうでもいい。光汰が「彼の自己採点通り」でないことなんて昔から知っている。
 ただ、笑ってほしいのだ。幸せでいてほしい。欲しいものは与えてあげたい、彼が望むならなんだって差し出したかった。
 だから家族でいようとした。損得無しで愛し愛される家族に。与え与えられることが当たり前の家族に。
 でもこれはあげられない。
「光汰がいらないなら、光汰の人生を僕に頂戴。死ぬとき、絶対後悔させない。笑って、ああいい人生だったって思えるようにしてみせる」
「弥生……」
「うんって言うまで離さない」
 光汰は「うん」とは答えなかった。その代わりこう言った。
「完璧で、優秀な良い子でいられれば誰かに愛してもらえると思ってたんだ。他人より上でいることが愛されるための理由で、そうやって生きてきたら周りに恵まれたよ。父親は、ほとんど会ってないから知らないけど、母親はあれでも誇らしい息子だと思ってたっぽいし」
 でもね、と続ける。
「そういう、完璧じゃなくていいって、それでもいいって言ってくれるの、多分世界で弥生だけだよ。オレ、弥生に捨てられたらきっと殺すよ」
 背中に手が回される。その力は弱弱しかったけれど、でも消えてしまいそうなほど柔くはなかった。生きようとためらいがちながら助けに手を伸ばすような、そんな希望を持ったもの。
「いいよ、その時は殺して。でもその時は誰にもバレずに上手くやって。世界中の誰にもきみを裁かせないで。だってこれは僕ときみの約束で、破った僕が悪い。きみは何も悪くないんだから。……そんな未来、絶対来ないけど」
「……うん」
 弥生の肩に頭をうずめる光汰の髪を撫で、顔を上げると夜空に何か光るものが飛んだ。
 もしかしたら流れ星かもしれない。死んでいった星の亡骸。もし、そのまま焼かれて消ええてしまうなら、これも一緒に焼いてほしい。
 光汰の死にたい気持ち。
 弥生が光汰を残してしまう「もしも」の未来。
 それからふたりのこれからの障害、全て、
 それらすべてを遠いどこかにもっていってほしい。
 ああ、それからこれも。
 弥生は光汰の髪を優しくなでながら微笑む。
 ——ねえ、光汰。僕、きみに言ってないことがあるんだ。
 光汰のさんずいは、流星からとるものでは無い。いくら親がそう願いを込めてつけても、成り立ちとしては水の流れなどを意味する。
 だから、最期にここに来た光汰は無意識だとしても正しい。彼に適した運命の死に方があるのなら水死だ。
 だけど、正しくなくていい。
 その時、やっとわかった。運命の夜、幼い彼の泣きそうで、不安げな表情。その後の弥生の言葉を聞いた時の救われたような表情に 、弥生は自分の存在意義を見出したのだ。同情でもない、これは光汰が弥生に抱いていたものと同じ依存心と、それ以上に強い、独占欲。
 ——この子は、もう僕のものだ。僕の家族だ。
 運命なんかにくれてやるものか。

 家財のほとんどを処分し、仕事も辞めたので、光汰はしばらく明山家に住むことになった。
 医者から物理的に離れられたのは不幸中の幸いだった。光汰に何を吹き込むかわからない。弥生の担当医も眉をひそめていた。確かに病名をつけようと思えばつけられるが、極論それがまかり通るなら全国の九割が精神病だと。酷い希死念慮さえなければ認知療法などで対応できるのではないかとも言っていた。弥生と光汰を離れ離れにさせたあの医者。逆恨みも甚だしいが、恩はあるが、光汰を追い詰めたならあまりいい感情は抱かない。
「うん、あとは引っ越しだけだね。家電類は現地で引き取るよ。日程は引っ越しの翌日に詰めたから光汰は就職決まるまでしばらく休んでて」
「休むって具体的に何やるの?」
「なんでもいいよ。今までが仕事人間過ぎたし、友達と遊んでも趣味を楽しんでも」
「じゃあおばさんに家事教えてもらう」
「え、僕やるよ。役目でしょ」
「計画に必要だから」
 真面目な顔でそう言う光汰に首を傾げたが、少し教えてもらえば何でもできてしまう光汰は数日でテキパキと明山家専業主婦のタスクを奪っていった。引っ越さないで二世帯住宅にしてくれと冗談めかして言われるくらいには。
 光汰が「やる」と言ったのだ。弥生にばっかり頼っていられない、頑張ってみたい、と。
 光汰も同じ病院に転院させた。医者から「定期的なカウンセリングは変わらず必要だが、もう大丈夫だろう」の言葉を貰ってようやくマンションに入ることが出来るようになった時、光汰は先に荷物の受け取りがあるマンションに行った。その後、意気揚々とゴミ袋を持参して部屋に入ると、そこには見たことない家電類が配置されていたのだった。
「これ光汰が買ったの⁉」
「うん。必要だから」
 知らない物もたくさん増えていた。食洗器に乾燥機能が付いた洗濯機、自動掃除機にスチームアイロン。
「金で解決してる……」
「弥生も使うし導入してもいいかなって。子育てのことも考えたら自動化できるとこ自動化できるならそれ使わない手はないし」
「子育て?」
「——やっと言える」
 光汰は革製の鞄からクリアファイルを取り出すとテーブルに中身を取り出して置いた。
「これ……」
「パートナー証明書。効力は無いけど、書いてくれる?」
 届は残るは弥生の名前を書くだけの状態になっていた。証明人は弥生の両親と光汰の両親。
「将来は養子を取ろうと思ってる。……こういうパートナーってあやふやにしか考えてなかった。そりゃ弥生のことが好きだから、弥生とパートナーになれればいいなとは思ってたし、勿論カラーも渡してるくらいだからそのつもりだったけど、どこかで思ってたんだ。別にオレの理想の家族のビジョンにいるのは弥生じゃなくてもいいんじゃないかって。弥生に監禁まがいのことして、管理して、このままずっとこうなら理想が叶わないなって」
「でもね」と光汰は続ける。
「離れて、やっぱり理想を捨ててもいいから弥生が良いって思った。昔の約束、覚えてる?」
 彼の表情は、いつもの思いつめた表情ではなく。花のような笑顔だった。
「オレと、ずっと一緒にいてください」
 
『僕はずっと光汰と一緒にいるよ』
 
「覚えてたの……?」
 そんな昔のこと、光汰は忘れていると思っていた。
「覚えてるよ、だってそれをずっと支えにして生きてきたんだもん。でも言う勇気がなくて、指輪も隠して。……ずっと、限界が来ると思ってた。弥生と一緒にいるビジョンが見えなくて、閉じ込めてた。外の世界を知っちゃったら捨てられると思ってたから。でも、信じるよ。オレ達は大丈夫だって、信じたい」
 手を握られる。お互いの両手には銀色の指輪がはめられている。
「弥生、改めて言うね。……オレの家族になってください」
「……うん」
 なんだか泣いてしまいそうだった、と思ったら本当に涙が出てきていたのだった。
「幸せにする」
「そこは男らしくオレが言いたかったんだけど。……幸せにして。不安なんかどっか行っちゃうくらい」
 触れるだけのキスをした。
 それから、もっと深いキスも。
「ふ……、は……ぇ、こ、ここでするの……?」
「すぐしたい。……弥生、だめ?」
「う……!」
 絶対に断れないことをわかっていてこういうことを言うからたちが悪い。
 だが、ここは譲れない。
「ゆくゆくは子どももウチに来るんでしょ。リビングの床でセックスするとかなんか嫌」
「あはは、それもそうか」
 彼は楽しそうに笑うと、弥生に向けて手を差し出す。
「ベッド、行こうか」
「……うん」
 弥生はこくりと頷いて差し出された手を取った。真新しい寝具を汚すのは少しためらいがあったけれど、それ以上に光汰と身体を重ねたかった。
 寝室はカーテンをつけたまま、薄暗かった。まだ小物類を揃えておらず、ベッドサイドに置くライトなども買っていない。そんな部屋だから、明かりなんてものは外から差しこむ隙間からの日光だけでなんだかそれがいけないことをしているみたいで恥ずかしかった。
「一年ぶりじゃない?」
「実家じゃ流石に出来なかったからね……」
 光汰は客間に寝かされていたし、弥生の部屋と親の寝室は隣だからそんな気分にはなれなかった。弥生はピアノをやっていたから部屋には防音が効いていたし、親も関係はだいぶ昔から察していたと思うが、気持ち的にどうにも。
 多分、光汰も丁度同じようなことを考えていたのだろう、顔を見合わせてふたりで笑う。
「……一緒のこと考えてる」
「違うかもよ?」
「え?」
「早くくっつきたいなって思ってたから」
「……もう」
 弥生は王子様のご希望通り前からぎゅっと光汰を抱きしめる。胸に耳を押し付けるととくとくと彼の心臓が音を立てていた。
「……よかった、生きてる」
「生きてるよ」
 ずっと目を離せなかった。光汰はひとりで悩んでまた消えてしまうのではないかと思って。でも、もう大丈夫なのかもしれない。弥生のことを、信じてくれたなら。
「弥生がいるから生きてるよ。まだ、穴は塞がらないけど一緒にいれば死ぬまでには見つかるかなって。そうだと良いなって、思うから」
「……ありがとう」
 そうしてどちらからともなくキスをした。ふたりで服を脱がし合って、上半身裸になる。その時、ふと光汰の手が弥生のカラーであるネクタイに伸びた。手入れがされたそれに触れられる。
「これ、捨てていい?」
「——え?」
 さっと血の気が引いた。どうしていきなり。何を間違えた?
 彼から身体を離す。考える可能性全てを潰すが答えは見当たらない。そんな思考が表情から漏れていたのか、光汰は笑って「弥生が思ってるようなことじゃないよ」と微笑む。
「もう対等でいよう。家族に上も下も無いでしょ。……って言っても、オレには正しい家族像とかわかんないから、想像でしかないけど」
 一瞬、耳を疑った。
「え……でも、それじゃ光汰は」
「自分のパートナーを見下して生きていくのなんかおかしいじゃん。……ねえ、オレに解かせて?」
 それはとても甘美で、とても耳触りが良く耳に残った。多分これも一生忘れない思い出のひとつになるだろう。弥生は胸の鼓動をおさえながら、首を光汰の方に向けた。カーテンに遮られ、一本の線になった光が弥生と光汰を分断する。光汰はそれを遮ってこちら側に来ると、首元に手を伸ばした。
「ん……」
 しゅるり、とラッピングのように結ばれたリボンは元の所有者の手によって簡単に解けた。それを光汰はベッドの下に落とす。
「大切にしてくれてたのは嬉しいけど、今度からはこっちにして」
 そうして渡されたのはベッドサイドに置かれた、くまのぬいぐるみ。光汰はぬいぐるみの首からチェーンを外すと、チェーンから指輪を取り、弥生の左手を取る。
「直接渡せなくてごめん。一生大事にするから」
「うん、僕も光汰のこと大事にする」
 そうして光汰は弥生の左手の薬指にカラーではない銀の約束をつけると、そのままベッドに押し倒し、弥生に唇にキスを落とした。
「ん……」
 一年ぶりの男の重みが弥生を安心させる。ああ、目の前の男は幽霊でも何でもなく、生きて自分の前にいるのだと実感することができるから。
「は……ぁ……、っ」
 落とされるキスが段階を踏み口内を乱すキスに代わる。それでも弥生は抵抗しなかった。この雄に翻弄されたいと思ってしまう。めちゃくちゃにされたい。そればかりが白もやがかかり鈍くなる頭を埋め尽くす。
「……コマンドは?」
「もういらないでしょ。それともやっぱり命令されると気持ちいいの?」
「気持ちいいのはそうだけど……」
 Subに切り替えれば底知れない快感を得ることができる。気持ちいいばかりが頭の中を埋め尽くして、服従することしか考えられなくなるセックス。でもそれをねだろうとして止めた。もう、弥生と光汰の間に嘘は必要ない。それがなくとも繋がれると、証明したい。
「……やっぱりいらない。三歩後ろを歩く配偶者じゃなくて、隣を歩くパートナーでありたいから」
「なにその例え」
 小さく光汰が笑う。
「でも、そうだね。ごめんね。もう無理しなくていいから」
 ぎゅっと抱きしめられる。その温かさに安心したと同時に、胸のとがりに触れられびく、と身体が跳ねた。乳頭に触れられたのだと理解するのに時間はかからなかった。
「ちょっと今いい話してたじゃん!」
「我慢できなくて」
 ちっとも悪気がある顔をしない光汰に「もう」と呆れてしまう。それでもやっぱり好きなので、弥生は手を伸ばし自分の胸に光汰の頭を抱くように近づけた。
「手は自分でやって飽きたから口でして……」
「会えない間そういうことしてたんだ」
「そりゃ男だし」
「頭の中の彼氏がオレなら嬉しいんだけど」
「それ以外だれが……あっ!」
 反論しようとすると乳首を強く噛まれる。自慰で敏感になっているそこはその刺激に快感を身体中に流した。片方は捏ね、もう片方は舐られ、下肢にも手が伸びる。愛液を溢す幹と連動するように、息に湿度が混ざるのに時間はかからなかった。
「は……ぅ……」
 身体に変に力が入る。Domの命令が無いセックスはとろとろと融解するセックスではなく、頭のどこかが冷静だ。でも、そのおかげで実感できる。
「指、挿入れるよ」
「ん……」
 ああ、セックスするんだと。自我を保ったまま、嘘偽りない心のまま繋がることが出来るのだと。弥生にはそれがとても嬉しかった。今までのセックスが嫌だったわけではない。だけどそれにはいつも罪悪感があって、心のどこかで虚しさが拭えなかった。
 でも、もう満たされている。
「あっ!」
 浅くて一番いいところを指で強く押される。そこを刺激されると腰が勝手に浮き、快感を逃す術がわからなくなるからどうしていいかわからない。だから両手をシーツに縫い付けて快感を外に逃がそうとした。だけど上手くできなくて「気持ちいい」は身体に水で満たした入れ物のように貯まるばかり。
「あ、……だ……め……い、く……」
 ギリギリの所で耐えているが限界が近い。ピリピリと刺激された箇所が痺れ、気を抜いたら出してしまいそうだ。従順にしつけられた犬の習慣は今もまだ消えず了承の言葉がないと我慢してしまう。自慰の時は頭の中で反芻した「いいよ」は今日は貰えるのだろうか。
「とろとろになった弥生のナカぐちゃぐちゃにしたいな、だから、出していいよ。力抜いて」
 期待していた言葉を貰えたことにほっとして、気を抜いていた時だった。
「~~ひっ!」
 ぐり、といいところをいっとう強く刺激されたのが引き金になり、頭が白くなるような痙攣の後、自分の下腹部が濡れていることに気が付く。ああ、射精したのかとぼんやりした頭が思った。
「んっ」
 そのまま出した精液を掬われ、解れた蕾にのばされる。新居にローションなんかないから仕方がないが、潤滑剤とは違う感触に少しだけ緊張した。
「挿入れるよ」
「うん、きて……」
 興奮の形がそこに当てられた。精液で滑りを帯びた場所は押すように身を進めると久しぶりということを忘れたのかと思うくらい当然のようにそれを受け入れる。
「ああ……!」
「——っ、きつ……」
 光汰に気持ちいいだけになってほしいのに、弥生の身体はそうではなくて。きついくらいに彼を締め付けてしまう。悦んでいるのだと自覚すると恥ずかしさで顔に血が上った。光汰を受け入れることで、これ以上無いくらい満足している。離れないで、ずっと傍にいて。それを伝えるようにナカがうねった気がした。
「動く、から。気持ちよくなって」
「うん、うん……!」
 何も考えられないくらい激しい動きに、弥生は背中に腕を回して耐えることしかできなかった。過ぎた快感は彼の背中に傷跡として残した。もっと、もっと、とねだるように足は開き、いつの間に彼に内ももを掴まれていた。
 ああ、気持ちよくなってくれている。と胸がきゅうとせつなく疼いた。
「光汰……すき、すき……!」
 返事はキスで塞がれた。不安材料はなかった。甘く蕩けるような温度のそれが何よりの答えだと思ったから。
 奇跡だと思う。
 好きな人と繋がれること。両想いになること。キスが出来ること。「好き」が言えること。
「弥生、ごめ……、一回出す……」
「うん、きて。出して」
 リズムが速くなり、光汰の動きから余裕みたいなものが無くなる。それからすぐに彼の小さい息とともに胎内の屹立がびくびくと痙攣し、熱い液体を注ぎ込んだ。彼の汗が頬に垂れて嬉しくなる。涙と共にその汗はシーツに溶けた。
 奇跡だと思う。
 でも、これは神さまが采配した結果ではない。
 弥生と光汰、ふたりで選んだ道だ。
 ——大好き。
 ぎゅっと彼の身体を抱きしめる。
 一番欲しいものがここにある。
 これからずっと、この腕の中にある。
 
「弥生―! 行くよ!」
「ごめんまって!」
 急いで必要なものだけ鞄に詰めて玄関の靴をひっかける。
 養護施設にいる女の子に会いに行く。もうこれで五回目になるだろうか。彼女は四歳という若さを全力で使って主に光汰を振り回している。今日は一緒に動物園に行く予定だ。彼女の希望だが、弥生は光汰が生き物全般が苦手なのを知っているのでリクエストに苦笑いしてしまった。それでも頑張ると言う光汰は。この先子煩悩になりそうな片鱗を見せつつある。
 あのトラブルから五年後、光汰のマンションがある区で同性婚が認められた。これが認められたことにより、DomとSubの間柄じゃなくともパートナーになることができるようになった。発表されてすぐに、自分たちは届を出し、正式に婚姻関係を結んだ。
 このままいくと養護施設の彼女はウチに養子に来ることになる。色々手続きはあるからいつになるかは正式な日時はまだ、未定だけれど、小学校の入学式には一緒に写真を撮れるだろう。
 カウンセリングはもう行かなくてもいいようになった。あれから「もう大丈夫、来なくていいですよ」の言葉にどれだけの重荷が取れたか。
「オレ先に車いるから鍵閉めてね」
「はいはい」
 光汰は弥生を残して駐車場に向かう。こんなこと昔は考えられなかった。信頼されていると思う。もう弥生は管理をされていないし、自由に外にも出れる。
「行ってきます」
 誰もいない、電気の消えた檻だった場所に鍵をかける。太陽の光が左手の薬指の指輪を煌めかせた。踊り場から見える空は快晴。今日は流星群が見られるらしい。
このまま晴れていたらいつか約束を果たせるかもしれない。だけど、どうしても今日がいいわけでもない。
人生は多分思ったより長くて、流星群を見るタイミングなんてそれこそ頻繁にある。その内観られればいい。これからずっと一緒の家族になるんだから。部屋の中では感じられない春風が、弥生の頬をかすめた。
 ——気持ちいい風だ。
(了)
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みんなの感想(1件)

アル
2024.03.13 アル

とても素敵な作品を読ませていただきありがとうございます。誰もがふとした瞬間に心の落とし穴に落ちる可能性がある現社会で作中の顔と顔を見て話す大切さや何気ない一言の重みなど考えさせられこちらの作品に出会えてよかったです。

解除
1 / 5

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