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ハッピーバースデー
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実質的な安楽死が気軽にできる時代になった。
昨日の記憶を強制的に失くす薬、それを開発した人はなんらかの賞を取ったが、薬の悪用が多発して自責の念から自殺したらしい。トラウマを消す、アフターピルのような役目をするその薬は飲めば飲むほど記憶が消える。夢の中の自分はその処方箋を見た時、力なく笑うことしか出来なかった。
場面が切り替わる。早朝、まだ日が昇りきっていない時間のベランダ。
自分の隣に男が立っている。
その男は言った。
彼は誰なのかはっきりわからなくなる夜明けの時間のことをかわたれ時と言うんだよ、そう言ったのはいったいどの男だっただろう。自分にそんな学はないから、誰かの受け売りに違いない。男は大の苦手だし、それは思い込みで、女の子だったか、いや、もっと仲の良い相手だったような気がする。ベッドの中で過ごす夜明けではなく小さなアパートのベランダで煙草を吸うこの時間が自分はいっとう好きだった。隣にはそれよりも好きな人がいて、辞められない煙草を呆れて、それで口寂しいなら、とキスをしてくれた。それが好きだった。もう、遠い昔のことのような気がするし、そもそも現実ではないかもしれない。だって自分はその人の顔すら思い出せないのだから。
そんな断片的なシーンが続いた夢を見た気がする。ぼうっとする頭の中、淡い記憶を反芻素ながら橙色の眩しい光で藤野慎は目覚めた。
朝だ。それも、一日の始まりの早い時間の。
ぼんやりとした記憶。昨日は何をしていたんだっけ、と窓から見える燃える橙を見ながら思い出す。
「……あさ、か」
昨日、自分は何をしていたんだっけ。
それさえ思い出せない。
「まこと?」
声の主は見覚えのない男だった。つやのある黒髪に黒曜石のような瞳が印象的な、とても綺麗な顔の同い年くらい——おそらく二十代前半だろう男はこちらに寄ってきてベッドの前にしゃがみ込む。綺麗な顔。まるで作り物みたいだ。大きくはっきりとした二重の中にはきらきらと澄んだ瞳がはめ込まれていて、肌はビスクドールのよう。身長もおそらく高い部類に入るだろう。家具との比較から見て、藤野より大きそうだったからかなりスタイルのいい部類に入るはずだ。
「大丈夫?」
見覚えがないのは男だけではない。部屋も、家具の配置も。何もかも自分の部屋とは違う。モノトーンを基調とした部屋に見覚えは無い。藤野の部屋は好きなものを詰め込んでもっとごちゃついているので、ここが藤野の部屋ではないのはよく考えずとも明らかだ。そこまで理解して血の気が引く。そうして男がこちらに手を伸ばした時、藤野はあまりの怖さに身体を知事ませながら叫んだ。
「や……! お、お前、誰……⁉」
見知らぬ男に藤野は言う。男は「大丈夫だよ」と優しい声で言い、その声色と同じくらい優しい手で恐怖で泣きそうな藤野の頭を撫でてくれた。安心する。なんでだろう、利害関係もない、慣れない男の人は怖くて、こんなことされたら泣いてしまうのに、この人には何も感じない。むしろこうされて安心する。
「大丈夫だから、怖がらなくていいよ。僕は慎の敵じゃないから。……東條七生。覚えてない?」
とうじょうなお。記憶の中にはそんな男は居ない。藤野の友人関係は広い。だがそれは女性のみで、男性恐怖症の藤野は親友を介してか、酒が入っていないと男と対面で話すことすらできない。そんな狭い男性の交友関係、どれだけ記憶を辿ってもこの男の姿は無い。
「覚えてない……」
覚えてないのは彼のことだけではない、昨日のことも何一つ覚えていない。
「俺は忘却剤でも飲んだの?」
忘却剤。数年前に合法化された文字通りの「忘れる」薬だ。近年、うつ病患者などの精神病患者が増え、医療はパンク状態。だったら、と開発されたのが「忘却剤」だ。トラウマや悩みの原因である「記憶」を消すことにより、病気の根自体を消す。勿論、そんな何の解決にもならないものが世間に受け入れられるわけがない。
だがそれは大多数の「世間様」での話だ。本当にトラウマで困っている人間にはそれは救いだった。飲んだ直前の記憶を忘れるこの薬は、レイプなどの性被害のトラウマを薄めることを主に使われ認められつつある。薬剤師見習いである藤野は、結局は問題解決にならないし悪用の危険性もある「忘却剤」はよく思っていないが、実際薬剤師はほとんど医師の指示で薬を出すことしか出来ないので、あまり深い事は考えないようにしている。
「忘却剤は飲んでないよ」
男——東條はベッドに座る藤野の傍に寄る。
「ただ、飲み会で泥酔してスマホも失くして家の鍵も失くしてこれは捨て置くしかないなって話になったから僕が預かっただけ」
「え、マジ……? そんな、男についていくわけ」
きょろきょろと部屋を見渡すが1Kの部屋に藤野の荷物らしきものは無い。東條は補足して説明する。
「道で鞄ごと失くしてたよ。残ったのはアウターのポケットに入ってた財布だけ」
「嘘だろ……」
ベッドから起き上がりカーテンレールにハンガーでぶら下がっていたアウターのポケットに手を入れる。そこには確かに二つ折りの財布が入っていたが、逆に言うとそれ以外何も入っていなかった。
「……東條、だっけ? 迷惑かけてごめん、すぐに帰るから——……」
「帰れないよ」
東條はきっぱりとそう言い放った。
「これ見て」
スマートフォンの画面を向けられる。そこには「○○区アパートで無差別殺傷事件。犯人未だ捕まらず」の文字が映されていた。
「は?」
「昨日が飲み会でよかったね。なんかピンポン押して開けた人片っ端から刺したみたい。慎も危なかったよ。普段家の鍵閉めないし」
「……マジ?」
「家にテレビ無くてごめんね」
情報源はこのスマートフォンのみ。だが、藤野はそれを疑わなかった。だってこの記事に映っている写真は、まぎれもなく藤野が住んでいるアパートで間違いなかったので。
「すまん、スマホ貸してくれ。部屋に帰れない、スマホも無い、鍵も無いってなると遠いけど実家に帰るしか……。親なら合鍵持ってるし、危ないなら犯人捕まるまで実家で」
「その必要はないよ」
東條は藤野の言葉を遮って無表情に言う。
「昨日のうちに電話で話してある。慎は今日から犯人が捕まるまで僕の実家に住んでもらう」
耳を疑った。どうしてそんなことになっているんだ。実家に住んでもらう? 今日(正確には昨日か)知り合ったばかりの人間の家に? 何ばかな事言っているんだ。大体、どうして藤野の親の連絡先を東條が知っている?
その答えは阿呆としか言えないものだった。
「タクシーでこの家に向かう途中でお母様から電話がかかってきて、ニュース大丈夫なの? って。そしたら慎が『うるせえババア!』って言ってタクシーの窓からスマホ投げ捨ててそのまま……」
「なにやってんの⁉」
「酔ってたけどなんとか実家の番号聞き出してお母様に危ないからウチで預かりますって伝えた。だから慎はウチにいなきゃいけない」
我ながらなんてばかな事を。スマートフォンも家の鍵も道路に投げ捨てて爆睡なんて。今からでも回収できないだろうか。警察は? そう聞くと「投げた先は川だったよ」と言われた。
「……俺、お前のことなにも知らないんだけど。っていうか、ごめんだけど男嫌いだから一緒にいたくない。厄介になるなら別の友達の所行くわ」
幼馴染なら事情を話せばほとぼりが冷めるまで家に置いてくれるだろう。荷物は——。不動産屋が合鍵を持っているだろうから事情を話して借りるか。幸い身分証明書は財布の中にある。それで合鍵を借りれるかは知らないけれど。そう思いベッドから立ち上がると腕を東條に掴まれ引き留められる。
「だめだよ。お母様から慎のこと預かってるのは僕だもん。——改めて初めまして。医学部四年の東條七生です」
男と目が合う。黒々とした澄んだ瞳が脳に焼きついた。この瞳を知っているような。でも、記憶のどこを探してもこの容姿とこの名前は見当たらない。キラキラとした水晶のような瞳。手を振り払うことが優先順位が先だと言うのに、藤野の脳はそれより先に橙が反射してきらめく彼の瞳を、綺麗だと思った。少しの怖さはあるけれど、男だというのに触れられても嫌じゃない。そんな人間がいれば少なからず覚えているはずなのに。
知らない名前。とうじょうなお。やっぱり覚えがない。
「ストレートだから二浪してた慎よりは年下だけど、偉ぶるつもりはないです。昨日の合コンで隣の席だったけど覚えてない?」
「……全く」
「じゃあこれから知ってくれればいいよ。実家は千葉県です」
「……千葉のどこ」
「上の方」
「……まあ都内まではすぐ行け」
「夢の国とは反対側」
「田舎じゃん!」
めちゃくちゃ乗り換えめんどくさいどうせ住宅街しかない田舎だろ? 買い物はマゼンタピンクのショッピングセンターで全部済ませろって感じの土地だろ? なんでこんな詳細知ってるんだ行ったことねえよ千葉なんて。
「でも不自由はさせないよ。衣食住は保証するし、欲しいものがあれば何でも買ってあげる。通販で次の日には届くように手配するよ。今すぐに必要、ってものだったら僕が車走らせて買いに行くし」
「……なにが目的?」
会って数日の人間にそこまでする意味が分からない。単純に人を疑うことを知らないばかなのか、尽くすことが生きがいなんですって言う自己満の塊タイプの人間か。藤野には理解できない。親には人を疑えなんて教えられて育っていないけれど、そこそこの年齢を生きていると人間に善意なんてものは無いのがわかってくる。
だが、東條は首を傾げる。
「『僕が慎を守ります』ってお母様に言ったから。それ以外ないよ」
「……理解できない。お前の親は? いきなり知らん奴が長期で泊まりに来て迷惑じゃないのかよ」
「……うーん」
明らかに困った表情をする東條に、藤野は目の前のコイツが後者の人間だと確信した。偽善者。自己満足の塊。自分が一番嫌いなタイプの人間だ。
「ほらな、かーちゃんには俺が話しておく。とりあえず家帰るわ」
そう言うと掴まれた腕に力が入った。
「違う、そういう意味じゃない」
「は?」
「多分、親はびっくりする。それだけ」
東條はそう言うと藤野の腕を掴んだまま黙り込んでしまった。さて、どうしたものか。
藤野は回らない頭を働かせて「わかった」と提案した。
「俺が欲しいものはお前の財布から出す」
「え?」
「俺はめちゃくちゃわがままだからお前にメリットをもたらさない。何ならお前に年上風吹かせて顎で使う。それでも引き取りたいのか?」
「うん」
即答だった。これだけデメリットを並べたのに頷くなんて訳が分からない。
「なに? お前にとってのメリットがわかんないんだけど。もしかして俺のこと好きなの? 俺狙いで合コンきた系?」
そう茶化してやると、掴まれていた腕が離れた。そして、自分がなにかとてもひどいことを言ってしまったような、そんな傷ついたような表情で東條は答えたのだ。
「……そうだよ」
そうだよ、ね。
窓ガラス越しに自分の姿を見る。東條より身長は小さいが女の子受けしそうなぱっちり二重のアイドル顔に、パーマのかかったブラウンの髪は少し長めのショートボブだ。理解は出来ないが、こういう顔が好きな男もいるかもしれない。生憎、藤野は女の子にしか興味が無いので、どれだけ東條が尽くしてくれても靡くことは無いのだが。
「慎、まだ朝早いよ。ここはもう大丈夫な場所だから、時間が来るまで寝ていいよ」
時計は朝の四時をさしている。確かにまだ寝ていてもいい時間かもしれない。そう言われると生あくびが出てきて急に眠気が顔を出す。自分の部屋じゃないのに、男の部屋なのに。身体の方はだいぶリラックスしているみたいだ。
「出かける前に起こすね」
そう、東條は言った。藤野はまあ、テコでも動かなさそうだししょうがないかと流れに身を任せることにしてベッドに潜る。寝具からは安心できる香りがした。
危ないから実家に連れてく? 意味が分からん。信用していい人かもわからないし、正直親が関係してなければついていきたくない。
……もう、裏切られたくないし。
藤野には父親がいない。
だから母に育てられてきた。母は社長業。そんな特殊な仕事をしている人だけれど気丈で、藤野をとても愛してくれる人だった。だけど働き詰めだったことにより、一度身体を壊したことがある。その時助けてくれたのが、祖父だった。
十歳の藤野は確かその時、祖父と言う存在が自分にあるのを初めて知った。父親が誰かわからない、そんな藤野を産んだ母は家から勘当されていてその時まで一度も会ったことがなかったのだ。しかし、母は倒れ、藤野はひとりで生きられない。そこで祖父が手を挙げた。自分が世話を引き受ける、と。
最初は良かった。だが、日をめくるごとに態度は変わっていった。
のちに母から聞くことになるが、祖母は子供が、と言うよりどこの馬の骨かわからない父に似た顔が嫌いらしい。
『慎は顔が良いから、ちやほやされるあんた見て自分の華々しいころ思い出して嫉妬してんのよ』
そう教えてくれたが、そんな裏事情を藤野が知るはずもなく。外では娘の子どもを預かるいい祖父。家では藤野の容姿に嫉妬し、体罰や暴言を吐くひとりの男。三ヶ月、子どもにとっては長い時間を振り回された藤野は母の所に帰された時、人間不信に陥っていた。人の善意の裏側に敏感になったのはそれからだ。信用できない偽善者が嫌い。祖父のような自己満足で物事を引き受ける人種が嫌い。一時期は母しか信用できなかったが、その母に教えられた言葉で今まで世渡りをしてきた。
『慎、お金と愛想はあればあるだけいいわ』
結果、藤野慎と言う人間は愛想だけが良い人間になった。人付き合いが表面上は大好きで、そのくせ、自分の稼いだ金しか信用できない。だから大学の費用を貯める為に二浪もしたし、その間身の回りの世話を手伝ってくれた母親には未だに頭が上がらない。いつか親孝行をするのが夢だった。藤野にとっては、たったひとりの家族で世界で唯一信用できる人間だったので。
……そう言えば、母はどんな顔で、どんな声をしていただろうか。
大学に入学してから二年経って、なかなか実家に顔を出せなかったけれど、それでも年に数回、顔を見に行っていたはずだ。それなのに、顔が思い出せない。どうしてだろう。母とは仲が良く、心配性の母は何度も電話をくれたはずだ。今はスマートフォンが無いからわからないが履歴も残っているはず。それなのに、顔も、姿も、声も、何も思い出せない。
——どうしてだろう。
記憶力は、いやなほどよかったはずなのに。
「……ろ、おき……」
「……ぅ、」
「起きないと単位出さないぞ!」
「すみませんでした!」
反射的に起き上がると、そこは講義室ではなく、声の主は教授ではなく東條だった。
「あはは、ようやく起きた。昼過ぎだよ」
「テメェ……単位の話は無しだろ……」
「真面目な学生なら反射的に飛び起きたりしない。まず寝ないから」
「反論させろ!」
「ご飯できてるよ」
そう言って彼は部屋を出て行く。残されたのは藤野だけ。ベッドサイドにはレモンとミントが浮かぶ水の入ったグラスが置かれている。飲めということか。そんなレモン水を朝から飲むようなオシャレな習慣ないぞ。デートで行くような小洒落たレストランにあるようなレモン水を流し込むと意外に喉に馴染んだ。
「おはよう、慎」
いい匂いが食卓へ迎えてくれる。卓には朝ごはんらしい品が並んでいた。東條は向かいでウェブニュースを読んでいる。
「それ面白いの」
「ニュース?」
「そう」
藤野は世界情勢に興味がない。自分が何をしたって起こったことは変えられないし、無意味だと思うから。なんなら今日が何日かもわからないけれど、新聞を見る気にもなれない。ニュースは難しいから読みたくない。薬学部がそんなんでいいのかと思うが。卓につき、いただきますと手を合わせて目の前の食事を見る。昼には軽いが、カリカリのベーコンに半熟っぽい目玉焼き。モチモチの厚切りトースト二枚。それに色とりどりの野菜が入ったボウルにはクルトンが入っていた。クルトンって小学校の給食ぶりに見たわ。
「慎が見ない分、僕が世界のこと把握してないと」
「そりゃどーも。酒とかないの。朝飯より酒飲みたいわ」
「あはは、慎、そんな無理にキャラ作らなくていいって。別に強いだけでアル中じゃないの、僕知ってるよ」
「なに、そんなことまで話したの」
「うん」
藤野は大学ではアル中として通している。
別に酒が好きなわけではないけど、酒がないと男性恐怖症が露骨に出てしまうので常に持っている。教授には大学で酒を飲むなとか言われるが、無いとコミュニケーションすら危ういのでしょうがない。カウンセリングは受けているが治らない。教授や大学職員は金という信じられるものが間にあるので大丈夫なのだが、どうも利害関係なしだとだめなのだ。でも、こいつの前では素を出していいと自分は昨日判断したのか。
なら、それを信じてみよう。
酒は諦め、トーストを無造作に口に入れると、口の中にジュワッとしたバターの甘みが広がる。シュガーバタートーストは藤野の密かな好物だ。母からは糖尿病になるわよ、なんて言われるからあまり食卓には出されなかったけれど東條には言っているのか。
「……千葉で何すんの」
「田舎だから。のんびりしていけばいいよ。好きなものだって約束通り何でも買うし」
「メリットがデメリットに釣り合ってねーよ」
藤野は都内で友達と遊びたいし、映える新作ドリンクを飲むためのカフェや女の子をナンパするバーにだって行きたい。田舎にはそんなものはないだろうから最悪だ。
「いつ帰れんの、東京」
「とりあえず長引いても夏休みまるまるあっちにいるからしばらくは……」
「最悪……」
思った事をそのまま口に出すと、東條は嬉しそうに微笑んだ。
「……何」
「いや、なんでもない」
「……変なの」
東條は何が嬉しいんだろう。どうやら藤野に好意を持っている事は分かるのだが、早朝聞いた時は微妙な反応をしていた。考えている事がわからない。藤野の思い出せる限りでの対人関係のなかでは見ないタイプの人間で扱いに困る。
「……絶対後悔させてやるからな」
「クーリングオフ期間はとっくに過ぎてるよ」
「お前の中では昨日から今日の時間が一週間になってるの?」
そんな経緯があり、現在は東條の車の助手席。
流れている東京で聴き慣れた音楽とは違い、車の外は非日常。本物の田舎みたいだ。畑ばかりで、辺りには家もない。
「ガチ田舎じゃん。ショッピングセンターも無さそう」
「そうだよ。だから上京したんだ、不便だから」
「ふーん。あ、そうだ。親御さんってどんな人なんだよ。菓子折りとかも用意してないんだけど大丈夫か?」
今日から長々とお世話になるのに手ぶらなんて非常識だと今更気づく。東條はそんな姿に声だけ笑わせて答えた。
「大丈夫だよ。ふたりとも慎を知ってる」
「お前なんか話したのか」
「ちょっとね。楽しみに待ってるよ」
自分だったら知らない奴をワンシーズン丸々預かるなんて無理だ。親戚でもちょっと危うい。
「変わってるかな? どうだろう。僕の知り合いは良い人だねって言ってたよ」
「そりゃ知り合いの親御さん悪く言えねーだろ」
「そうじゃなくて、慎の他にひとりだけ長期間泊まらせたことあって。人を」
「お前んちたまり場なの?」
「普通の家だけど。その人口悪いし忖度とかしないタイプの人だから、まあ良くない人たちではないと思う。少なくとも慎にとっては」
冗談は受け止めてもらえなかった。
「へ、へえ~。普通って言っても色々あるけど。普通の定義は人それぞれだし? これからお世話になるんだからどんな家か聞いておきたいなあ~!」
少しの沈黙の後、東條は「えっと」と返答する。
「畑がある」
「へ?」
「母が知り合いに勧められて家庭菜園をやってる。丁度夏野菜の収穫時期」
「お、おう」
そして沈黙。
「ほ、他には……?」
今のところ夏野菜がある事しか情報がない。着けばわかると言われればそれまでだが、いきなり知らないところに拉致されるこちらとしては不安しかないのだ。少しくらい情報を集めておきたいと思うのは普通のことだろう。普通のことだよな?
「他……」
また東條がフリーズしてしまった。お前の実家だろ。なんでお前がフリーズすんだよ。
「……近くにコンビニがない」
「初手でデメリット言うのはどうなの。メリットとかないの?」
「夏野菜が」
「夏野菜はいいから」
どんだけ夏野菜推し? 野菜は嫌いじゃないけれどガッチガチの農園に連れて行かれたら都会っ子はどう反応していいかわからんぞ。家庭菜園って言ってもレベルがあるし。庭レベルなら「わ~立派ですね~(朗らか)」で終われるけどビニールハウスレベルなら「わ~立派ですね(震え声)」になる。もし後者だったら話を合わせられるように事前に調べておきたい。ポケットを探るがスマートフォンがない事に気がついてがっくりと頭を垂れた。失くしてるんだった。スマホ社会、こういう所ダメ。
「あとは……星が綺麗だと言われた」
「星?」
「街灯が全くないから、星が良く見えるって。僕にとっては当たり前のことだったけど、その人にとっては珍しい事で、喜んでくれて。それが印象に残ってる」
その声色はとても優しく、何かを懐かしんでいるように見えた。
「その人って一回泊まったって言うお客さん?」
「……エスパー?」
「そんくらいわかるわ」
「……そうなんだ……」
何故か難しい顔をする東條に首を傾げる。
数時間ほどのドライブの後、ビルの森を通り抜けて田んぼ道を経由して到着した東條の実家は目を見開くような大きさだった。
「着いた」
「デッカ……」
車を停めた先は、この土地にいくつ家が立つのだろうと思うような広いお屋敷だった。古き良き瓦屋根の日本家屋で、きちんと定期的に手入れされているようだ。不気味さや汚らしさなどは一切感じられない。これが実家ということは、土地の値段や色々考えても、東條はお金持ちの家に生まれたのだろう。自分もそこそこの家に生まれた自覚はあるが、ここに住むとなると少したじろいでしまう。うちが一代で栄えた家だとすれば、東條家は由緒正しきお家柄という感じ。ちょっと帰りたくなった。
「ただいま帰りました」
東條が玄関を開ける。藤野はその後を恐々しながら着いていく。すぐに誰かの足音がして、顔を上げてみると、そこには気の良さそうな七十代前半くらいの女性と男性が藤野の事を嬉しそうに見ていた。
「あらあら、慎さんこんにちは、七生の母の真紀子です。名前で呼んでね! それにしても聞いてたより随分可愛らしいわね~!」
「可愛らしいは失礼だろう母さん。慎くんは男性なんだから」
「あ……そうねえ、ごめんなさい、気を悪くしちゃったかしら……」
真紀子が旦那であろう男性に注意され、犬が叱られたようにしょんぼりとする。それを見た藤野は男性を見て反射的に東條の後ろに隠れた。
「あら? どうしたの?」
「あ……えと……」
まずい、これからお世話になると言うのに発作が出てしまった。だって仕方ないのだ。東條の父らしき男性は祖父と年代がまる被りの見た目だし、どうしても怖い。酒を持ってくればよかったのだけど、自分に父親がいないためか実家=男がいるに全く結びついていなくて失念していた。
「す……、すみません! 失礼なのはわかってるんですけど!」
「慎は男の人だめなんだって言わなかったっけ」
「ああ、そうか。すまなかった、久しぶりに他人を家に呼ぶからそういう事情を失念していた。大丈夫だよ、慎くん。ここに怖い人は誰もいないから」
「……すみません」
ふがいない。初手からこんな失礼な行動をする羽目になるなんて。
「慎、大丈夫だよ、僕がついてるから。ね?」
「……うん」
東條が笑い、藤野の手を握る。冷たい温度の手に落ち着いた。
「よかった~。慎さん、これからよろしくね」
「よろしく……お願いします……」
その様子を見て真紀子はホッとしたのか纏っていた空気が明るくなる。こんな醜態をさらしても受け入れてくれるなんて。第一印象的にはどうやら東條夫妻はとても良い人らしい、と感じた。それからやっぱり菓子折り持ってくればよかったと後悔した。
こんなところじゃなんだから、と夫妻に通されたのはこれまた広い和室だった。すぐにお茶を用意するわ、と真紀子は出て行き、部屋には藤野、東條、東條父の男三人になる。
「慎くん」
「は、はいっ!」
東條の父は身体が大きくそれなりに威圧感がある。厳格そうな見た目もありなおさらだ。先程は真紀子の朗らかさで隠れていたが、どうも改めて向き合うとやっぱり怖い。東條の握ったままの手をぎゅっと握る。
「七生の父の豊です。これから……、一か月くらいかな。一緒に暮らすことになります。何か困ったことがあれば遠慮なく言ってほしい。私じゃなくて、七生に言ってもいいから」
「あの……ご迷惑じゃないでしょうか。いきなり長期間他人と暮らすなんて」
恐る恐る手を挙げると、豊は微笑む。
「これは七生の為でもあるから」
「……父さん」
「わかってる。……慎くん、七生は少し疲れているけれど、きみにとってマイナスになるようなことは絶対しない。だから、七生の事をどうかよろしく頼む。仲良くしてくれるだけでいいから」
「父さん」
東條が冷たい声でそう呟く。今まで接してきた優しい東條と同じ声帯から出たものとは思えないその声に、驚いて肩を跳ねさせた藤野を見て、豊は「すまない」とこちらに向けて呟いた。
「大人の関係に口を挟むべきじゃなかったな」
そう眉を下げたのと同時に、真紀子が襖をあげて入ってくる。その姿は旅館の女将の如く洗練されていて、こちらまで背筋を伸ばしてしまう。きっと彼女はいい育ち方をしてきたのだろう。
「七生さん、またなにかあったの?」
お茶を出し終わった真紀子が首を傾げる。東條は否定するようにふるふると頭を振った。
「なにもありません」
「……七生さんが言うならそうなんでしょうね。慎さん、冷たいお茶でよかったかしら? 今日は暑いから」
「あ、はい、ありがとうございます」
暑いのは確かだったので遠慮なくお茶をいただく。そこら辺のペットボトルとはまた違う深みのある味で、やっぱりいい家なのだと感じた。そんな家柄の子どもが自分と同じ大学とは。不思議な事もあるものだ。ここまで良い家ならばもっとレベルの高い私大にでも、と思うけれど。藤野と東條が通う大学は、偏差値的にはそこそこの国立だ。ちょっと過去に忘却剤とかいうものを出しただけの特殊な研究室があるだけの普通の大学。薬学部である藤野はその大学病院のコネが欲しくて——……もっと言えばワンチャンそこで働けないかな、と思って二浪もして入学したわけだが、人生はそんなにうまくいかず、就職は普通の薬局にしようかなと考えている。東條は医学部だと言っていたか。だったら院とか、まあ色々考えてるのかな。と予想してみる。まあ別に藤野の人生に彼の進路なりなんなりは全く関係ないのでいくら考えても無駄でしかないが。
「あの、東條くんからどこまで聞いてらっしゃいますか? 俺も突然のことで混乱しているんですけど、豊さんと真紀子さんの方が昨日の今日で混乱しているかと思うんですが……」
沈黙に耐えられず恐る恐る聞いてみる。真紀子は朗らかに答えた。
「えっと、お家に帰れなくなったのよね」
「はい」
「……」
「……」
真紀子も豊もそれから黙ってしまう。その後顔を合わせると、こちらに向けて困ったように微笑んだ。
「えっ、それだけ⁉」
「まあ……」
「東條⁉」
「あはは……」
つまりこの空気はアレだ。
東條は自分の親に全くと言っていいほど状況説明をしていない。
「東條~? お前これはお前~! 契約違反だ! 早く東京に俺を帰せ!」
「まあまあ」
「いやあなた達の迷惑になるからって話ですよ!」
この子にしてこの親あり。ふたりともおっとりしていて(しすぎている)東條の胸倉を掴む藤野を宥めている。藤野は東條夫妻の迷惑になるから帰る、と言いたいだけなのだがまるで藤野がわがままを言っているような構図になってきた。どうなってんの?
「あの! 息子さんになに言われたのか俺は存じませんが、本当に長い間お世話になるなんて迷惑になるので無理です! 東京に帰ります! お邪魔しました!」
藤野は部屋を出ようと立ち上がる。「待って」と東條は藤野を止めたが元はと言えばちゃんと説明をしない東條が悪い。例え他人を近くに置いたとして、最初は良いのだ。だけど、他人だからこそ言えない生活の不満はどんどんたまっていって、いつか爆発する。藤野はその怖さを実際に体験したことがあるからこそ、警戒する。
もう二度と、受け入れられてから捨てられる、あんな傷つき方はしたくない。
「……迷惑じゃなければいいのよね?」
引き留めたのは真紀子の声だった。
「確かに、わたしたちは七生さんから『藤野慎さんという男の人がしばらくの間泊まりに来る』としか聞いていません。でも、男性ひとり、いいえ、七生さんも家に居ることになるからふたりかしら? そんな人数を老人が養うのは大変な事です。だから、もともと慎さんが来たら言うつもりだったことを言いますね」
真面目な声色にごくり、と生唾を飲んで次の言葉を待つ。
だが、続いたのは変わって初めて会った時と同じおっとりとした声だった。
「泊まる代わりに家事やってくれないかしら~?」
「は?」
「何言って」
「七生」
立ち上がりかけた東條を豊が声で制する。真紀子は続けていった。
「わたし実は腰を悪くしちゃってね~。家事がちょっと難しいの。でも、おうちは掃除やお手入れをしないと元気が無くなっちゃうし、みんなのご飯も作らなきゃだし、お洗濯も、お野菜のお世話もしなきゃでしょ? 泊まる代わりっていうか、住み込みで夏の間だけ家政夫としてバイトしてくれないかしら~! 勿論お給金は出すから~!」
「おねがい~」と両手を合わせて頼みこまれると何も言えなくなってしまう。確かに、その条件だとお互いにウィンウィンで利害の一致としてサービスの提供ができるだろう。部屋を見渡す。これほど広く、大きな家だ。これを腰を悪くしたご婦人がひとりで、と言うのは確かに思うところがある。東條の様に自分は善意の人間では無いが、もし彼女が本当に困っているならば……一度は受け入れようとしてくれた人なのだ。どうにかしてやりたいという気持ちは無くはない。
藤野は少し悩んだ後「あの……」と絞り出した。
「あら、なあに?」
「本当に嫌になったら言ってください。出て行くので」
そう言うと、真紀子と豊は顔を見合わせて笑った。
「貴方が慎さんである限りは大丈夫よ!」
その意味は分からなかったが、この会話の原因である藤野の隣の東條は、胸を撫でおろしていた。
「ここが慎さんのお部屋ね、あんまり物がなくてごめんなさいね」
「それよりも広すぎて逆に怖いんですけど」
藤野にあてられた部屋は普段客間に使っているという和室だった。高そうな掛け軸が飾ってある下には真紀子の作品なのだろうかどこの流派かは分からないが活けた花が飾られている。押し入れに布団があると言うことで触ってみるとふっかふかだった。自室のベッドよりふかふか。高そうだ。
「大丈夫、出ても座敷童よ」
「全然大丈夫じゃないです」
「母さん、慎は幽霊とかそういうのあんまり」
「あらそうなの」
確かに幽霊の類は苦手だが昨日そこまでこの男に自分は話したのか。記憶が無いのでどこまで自分のことをばらしたのかがわからない。変な事を口にしてなければいいけれど。だが、幽霊よりなにより一番怖くて厄介なのは同じ人間だと思っている事。それさえこの男と家族にバレていなければそれでいい。
「僕の部屋は遠いから何かあったときに不便だね。布団こっちに持ってこようか」
「それって一緒に寝るってこと?」
「うん」
誰が男となんて一緒に寝るか、むさくるしい。いや、東條は太ってないから幅取らないし、部屋は広くて綺麗だし、イメージ的にむさくるしいという感じではないんだけども相手が例え女の子だとしても他人に力の入っていない部分を晒すのはに若干の抵抗感がある。
「一緒に暮らしてる上に部屋まで一緒はちょっと」
「対策はしてるけど虫出るかも。ムカデとか」
「やっぱ頼むわ」
藤野の嫌いなものは主にみっつある。ひとつは偽善者。ふたつは幽霊。そして最後に虫、特に多足類の類であった。もう出られたら固まってどうしようもできない。それが出ると言うのならもうしょうがない。背に腹は代えられない。
「あいかわらずねえ」
にこにこと真紀子が笑う。藤野はげんなりしながら「都会っ子なんで」と口に出すが、すぐにそれが失言だったと気づき、慌てて訂正する。
「いや、田舎が悪いとかではなく! あっちには虫とかあんま出なくて慣れてなくて無理って言うか」
「大丈夫よ、前にここにいた子も虫は嫌い~! って泣きついてきたもの」
「それって夏野菜の?」
「あら、七生さんそこまで話したの? そうよ、都内に住む七生さんの大事な人でね、慎さんの滞在予定の一ヶ月よりちょっと長くウチにいたかしら? よくお手伝いしてくれるいい子でね、そこにお花があるでしょう?」
「ああはい」
掛け軸の下に活けられた花のことだろう。
「あれもその子が考えたデザインなのよ」
「華道が出来たんですか」
「ええ、私が華道の仕事してて……今は趣味なんだけどね。お花を活けてるところを見て自分もやってみたいって」
「へえ~」
お花に興味持っているということは多分女の子だろう。大切な人と言っていたし東條の彼女……。いや、合コンに来ていたということはもう別れているのか。元カノ(暫定)とはどうして別れたのか知らないけれど、実家に連れてくるほどだ。きっと仲が良かったに違いない。
「その子と会えなくなってもう一年経ったのだけど、一緒にいた時が楽しくて。たまに思い出すとあの子が活けたのと同じものを作ってしまうの」
「いい子だったんですね」
「ええ」
少し悲しそうに言った真紀子の反応からかなり気に入っていたのだろうと言うことが察せられた。反応に困る質問しちゃったなあと反省しているとタイミングよく電話のベルが鳴る。
「あらあら、ごめんなさいね、ちょっと待ってて」
真紀子はそう言うと急いで部屋を出て廊下へ駆けて行った。
「元カノいい子そうじゃん、東條そんな子と別れるとか何したんだよー」
えいえいとふざけて肘で小突くと東條は困った顔をする。それから言いにくそうに答えた。
「別れたつもりはないんだけどね」
「え」
「消えちゃったの、僕の前から」
「……あ」
そんな話だとは思わなかった。
自分の失言を正当化しようとして思いつく。確か、東條は藤野のことが好きだと言っていた(昔の話だと言っていたから、多分どこかで株を落としたのだろうけれど)だから、その元カノにはもう未練はないのかもしれない。
「えっと、東條は俺のことちょっといいなくらいは思ってたんだろ? ってことはもう乗り越えたのか?」
「うーん、どうだろ」
東條は首を傾げる。
「もうどこが好きだったか忘れちゃったから。好きだったことだけは覚えてるんだけど」
「……そっか」
藤野は大事な人を周りからなくした記憶が無い。だから東條の気持ちは分からない。こんな時、どういう反応をすれば正解なのだろう。無言の時間だけが、ふたりの間に流れ、それを壊すようにぱたぱたと真紀子が戻ってくる。
「七生さん、慎さん、ごめんなさい。頼みたいことがあるのだけど……」
困ったような表情をする真紀子を見て、藤野と東條はお互いの顔を見合わせた。
とにかく田舎で暮らすのには車がいる。
……と言うのは真紀子が言っていたことだ。話は十数分前に遡る。
『お父さんがね、用があって車でご近所さんのお家に行ったんだけどね。わたしついでに煙草を買ってきてって言ったのに忘れてきちゃたみたいなの。七生さんちょっと自分でコンビニまで行ってきてくれないかしら』
『えっ、真紀子さん煙草吸うんですか』
真紀子はいいとこのご婦人、と言う感じで歯も白くヤニがついてもいない。そんな彼女が煙草を吸うなんて意外だな、なんて思ったのだがどうやらそれは真紀子が吸うものではないらしい。
『わたしじゃないわよ?』
『じゃあ豊さん』
『お父さんも吸わないわ』
『え、じゃあ誰が……』
見た目的にふたりとも確かに喫煙者の雰囲気は無いけれど。じゃあ誰が?
その疑問に答えたのは東條だった。
『吸うのは僕』
『えっ』
『父さんに頼んでたんだ。外に出るならって。でも忘れちゃったなら母さんの言う通り自分で買いに行こうかな』
『気分転換がてら慎もいく?』と言われ、親御さんと東條抜きで三人と言うのもアレだったので(東條がいなければ豊と対峙もできないし)藤野もついていくことにした。東條が所有する黒の自動車の助手席に乗り、シートベルトを締める。東條はコンビニまで長いから、とカーナビのモニターでニュースをつけてくれた。カーナビの画面に映された映像が窓の外の景色の移り変わりと共に切り替わる。
『——……数年前に合法化された忘却剤を使用する国民は年々増加しており、薬の過剰処方による死亡事故に政府は問題視を……』
「うわっ、嫌なもん見た」
カーナビの画面に映るニュースが嫌いな話題を流してくる。この類の話は藤野が嫌いな話題のひとつだ。
「……チャンネル変える?」
「そうして。マジわかんねーよ、なんで自分の記憶消したがるのかね。イジメとかそういうトラウマがあるならわかるけど最近のは覚えてないから犯罪したかわかりません~みたいなやつだろ?」
「そういう使い方もされるらしいね」
「薬剤師見習いとしてありえん」
数年前に開発された薬『忘却剤』は名前そのまま、飲んだ日の事を忘れさせてくれる薬だ。鬱病や漠然とした不安感からくる精神病に対して作られたらしいが、今は悪用する輩が多い。一錠飲めばその日の何かを忘れる。つまりそれ以上飲めば……。オーバードーズで幼児退行や障害が残るなどのトラブルもあり藤野はこの薬にいい感情を抱いていなかった。
「東條はえっと……医者目指してるんだっけ。医学部だからそうだよな」
「うん。目指してるのは精神科医だよ。父さんが医者だからその流れで医学部に入ったの」
「え、豊さん医者なんだ」
「うん、精神科医」
驚いた。医者は忙しいイメージがあるが、そんな中せっかくの休みに知らん男が来たと言うシチュエーションに申し訳なくなる。たまの休みくらいゆっくりしたいだろうに。
「あ、でもでも、もう定年したから忙しくないよ。休みの日に申し訳ないとか思わないでね」
「そう……」
考えを見透かされていたのかそうフォローをされてしまう。その間にもニュースは進む。
『本日、○○県の個人医院で忘却剤の過剰処方が明らかにされ——』
「うわ、こっちのニュースもかよ」
「どこもこの話でもちきり」
「この薬って確か依存度が高くて副作用も……過剰服薬したらやばいんだよな……。マジで過剰服薬とかする奴の頭が見てみてーわ。下手したら死ぬんだぞ」
忘却剤は一定の記憶を失くすことができる。だが、人間とは一度学習すると面倒なもので、味を占めると「繰り返して」しまうのだ。いやなことがあるとすぐ薬に頼り、いやだったことを「なかったこと」にする。それが続いて癖になり、どんどん大量に使ってしまうと、今度は副作用が起こる。記憶が混乱し、人格を保てなくなってしまう。これは巷で「人格の仮死」と呼ばれる症状で、国でも問題視されている事のひとつだ。「仮死」なんて言うが、元の脳と人格に戻ったなんて話は滅多に聞かない。実質的な個人の死——……最も「個人」が肉体ではなく記憶の蓄積による集合体をそう仮定するのであれば——もし、「個人」を消滅させるために過剰服薬するのならそれは自殺と何も変わらない。
「……でも、本人にとってはなにもおかしくない事かもしれない」
「は?」
「……死は救いになりえる」
「おいおい、医者が何言ってんだよ。生かしてこその商売だろ」
そう言って茶化して笑ってやる。だって、そんな、なんてことを。
死は救いだなんて、考えること自体がおかしい。
だって、死んだらそこで終わりだ。終わってしまったら何もできない。謝ることも、泣くことも、ありがとうと言うことも出来ない。
そんなのは。
「慎は分かんなくていいよ」
「なんだそれ。それは医者志望として? それともお前個人として?」
「勿論、僕個人としてだ」
「医者失格だな。目指すのは辞めた方が良い」
厭味ったらしく言うと小さく笑われた。
「家のことがなければ医者になんかなろうと思わなかったよ。……今は、医者にならなきゃいけない理由があるけど」
「理由?」
運転する目線も頭も前から動かさない。顔色も変わらない。だけど声色だけが、重く空気にのしかかった。
「忘却剤を出したい人がいる」
「連れてきゃいいだろ、医者に無理矢理」
「自分じゃ気付いてないんだ。病気な事。医者になればあの人に忘却剤を出してあげられる。今、その人依存症に苦しんでて。こっちはいくら忘れられてもいい。生きててくれればいいんだ。苦しい想いが重なって自殺ってパターンが一番怖い」
藤野は何も言えなかった。医者ならまだしも薬剤師なんてほぼ処方箋通りに薬を出すことしかできない。もし忘却剤を出せと言われたらそれに従うしかない。でも、忘れる事で全て解決するだろうか? 藤野は解決しないと思う。どんなに辛くてもちゃんと現実と向き合わなければ、いつか大切な事だって忘れてしまう。
「……あ、あれがコンビニ」
目の先に小さな店が見える。都内にあるような見慣れた看板では無く、どうやら地域特有のソレのようだ。
「あれ売ってたよな、マックスコーヒー。あったら買う」
言ってから自分で驚く。このコンビニに来たのは初めてのはずだ。だってここに来たのが今年で初めてなんだから。なのにどうして、ここにマックスコーヒーが売っているのを知っている? 財布を出しながら手を止めると「そのくらい出す」と東條が財布を出す手を制した。
「在庫あったらね。ここなんもないから」
東條はそう言うとスタスタと先に行ってしまった。慌てて藤野も後に続く。コンビニの中は空いているスペースが多く、やる気のなさが伺える。それとも地元にここしかコンビニが無くてすぐ物が売り切れてしまうのだろうか。彼はドリンク売り場でラスニで残っていたマックスコーヒーを取ると、タバコを買うためにレジに向かう。
藤野はその間暇だったのでところどころ空いたラックを眺める。少し見ていない間にだいぶ新商品が出たらしい。知らないものばかりだ。それとも地域が違うからか?生まれも育ちも東京の藤野は特に旅行などもしたことがなく、地域限定商品に疎いのだ。
会計が終わったので車に戻り、買ってもらった缶のプルタブを開ける。
「今日の飯なんだろ。コンビニで自分の分買ってきた方が良かったかな」
「ちらし寿司だと思う。慎が好きだから」
「あれ、それも母さんから聞いてんの?」
「聞いてるっていうか」
そう言い切らない内に東條は黙り込んでしまった。なんなんだ一体。あぁ、もしかしたら全部筒抜けになってるのが不快だとか思われてるのかも知れない。東條とはこれから長い付き合いになるし言わなくてもわかってくれるなら面倒じゃないから助かるが。
「そしたら真紀子さんの手伝いするために気合いれなきゃな!」
ポーズとして腕まくりをすると東條は笑った。一緒に買ったもうひとつの缶に口をつけてエンジンをかけずにそのまま背もたれに寄り掛かる。
「ねえ、慎」
「なんだよ?」
「僕のお嫁さんにならない? この土地でずっと一緒に暮らそうよ」
「何言ってんだお前」
だけど東條は笑っていなかった。悲しそうに、どこか遠くを見て続ける。
「その方が幸せだよ。僕は絶対医者になるから苦労はさせない」
「あいにく」
金関係には厳しい性格の藤野はため息を吐く。
「俺は自分の稼いだ金しか信用してないんでね。それに親孝行もしたいからさっさと事件のほとぼりが冷めたら東京に帰る」
そう言うと東條は「知ってた」と笑った。
「言ってみただけ」
そうして車にエンジンをかける。やがて走行し始めた車の中で藤野は思う。
——どうして東條は俺にこんなに好意を抱いているんだろう?
大学の後輩らしいが会ったことは無い。合コンは飲み過ぎたのか記憶が無い。単に困った人を放っておけない偽善者かと思ったが、その行為はどうやら好意によるものらしい。だが、東條に関する記憶は一切無い。
少し唸って考えたが、藤野の残念な頭では答えはひとつしか考え憑かなかった。
「一目惚れか」
「ん?」
「いや、お前俺のこと好きなのなんでだろって思ってひとりで納得しただけ」
その解答に東條は優しい声で笑った。何も間違ってないとでも言う様に、否定もせずに。
その日の夕食は東條の予想通りちらし寿司だった。真紀子の料理はどれも好みを把握されているのかと思うくらい恐ろしく口に合い、舌つづみを打ちながら楽しんだ。そんなものを頂いたなら完全な客になれるわけがない。何か手伝えることはありますか、俺はバイトなんですからと言うと洗い物を手伝って欲しいと言うことだったので、今は真紀子の隣で皿から水気を拭っている。
「慎さん、手慣れてるわね。最近家事はするの?」
「皿拭きに慣れとかあるんですか? まあ……親が片親で、それなりに家事は。今は一人暮らしですし使い捨て容器はコスパ悪いし家事とか自炊はそれなりに」
「そう、慎さんさえよければウチにいつでもいらっしゃいね。いつでもご飯用意するから」
「免許取れたら是非……」
あんたらは好きだけど絶対来ねーわこんな田舎。愛想笑いで真紀子の話を受け流し、話題を変える。
「今日、俺の好きなものばかりで嬉しかったです。東條がウチの親に聞いてくれたんですかね?」
「いいえ。前来てた子がね、言ってたの。だから慎さんも好きなのかしらってやってみたら当たっただけよ」
「ああ、例の」
「握りよりちらしの方がお得感があるって」
「確かに一理ある」
ちらしの方が具が多いし、はずれが無いし、出前を取る時低コストだ。
すし屋で一時期バイトをしていた藤野が言うのだから間違いない。まかないで出た余り物で作ったちらし寿司は美味しく、高校時代から好きな食べ物のひとつだ。
「そうだわ、あのね、七生さんから話を聞いてね。慎さんが好きかしらと思ってお父さんにチョコレートを買ってきてもらったの。茶葉も買ったわ。お皿洗いが終わったら一緒にどうかしら」
「チョコですか⁉ 是非!」
チョコレートは大好きだ。純粋に食べれるのは嬉しい。
だけど、そう思うのだけど、なんだろう、この胸がざわざわする感じは。なんだか、へんなかんじ。藤野は今日初めてこの家に来た。東條とは昨日初対面だし、母親が情報を色々流しているとは言え、全てを把握されているわけではないはずだ。東條家に来て初日。それなのに、あまりにも「不便がない」藤野が抱いた感想はそんなものだった。
「慎、今日の分の薬置いとくよ」
「ああ、サンキュー」
東條がリビングから声をかけてくれた。
目覚めて一番最初に目に入ってきたのは東條の寝顔だった。
「うお⁉」
とびのく藤野だが東條は起きる様子がない。だいぶ安心して寝きっているらしい。ぐっすりな東條を起こす気も起きず、布団からゆっくりと出る。同じ布団には寝ていなかったはずだが一緒に寝ていたということは……。布団の方を見る。東條の方の布団がはねっかえされていた。恐らく寝相が悪く、藤野の布団に潜りこんでしまったのだろう。
短針は朝の五時を指している。早い時間に起きてしまった。
昨日の夜は——、布団に入った時の記憶が無い。まあいいか。
とりあえず水を貰おう。音を立てないように襖を開け、台所へ向かうとまな板と包丁がぶつかる音が響いている。覗いてみると既に真紀子が立っていた。
「真紀子さん、はやいですね」
「あら、慎さんこそ! おはようございます」
「おはようございます、手伝いますよ」
「あら、ありがとー。じゃあトマト切ってくれる?」
そうして渡されたのは四つのトマト。みずみずしく美味しそうな色をしている。
どうやら本日の朝食は焼き鮭とわかめの味噌汁、雑穀米に冷ややっこらしい。このトマトは何に使うのだろう。この和風のメニューにトマト。しかも単体。サラダならわかるが、単体。首を傾げる藤野を真紀子は笑った。
「わたしもね、最初はありえないと思ったんだけど、前にウチに来てくれた子が教えてくれたの。砂糖かけると美味しいんですよって」
「トマトに砂糖……」
「びっくりするでしょ? 今ではウチでは定番のデザート」
藤野の母は甘党でなんでも砂糖をかける人だった。そのくせ、藤野には糖尿病になるからとメニューには出すことはせず、ひとりで甘味を味わっていたものだから、幼い藤野はそんな母を見て隠れて真似をしたりしていた。トマトに砂糖もそのひとつで、藤野にとっては珍しくもない。ただ、人の家でそれが「普通」になっているのは初めて見た。みんな藤野の家の常識は「変」だと言っていたから。
「慎さん甘いの好きでしょう?好きなだけかけて良いわよ」
「人の家なんでほどほどにしておきます」
「自分の家だと思ってくれていいのに」
そうして歪な朝食が完成した。真紀子に東條を起こしてきてくれと言われたので、藤野は自分に割り振られた部屋に戻る。
「東條―、あさだぞー」
部屋に戻ると東條はぐっすり寝ていた。朝は強いほうだと勝手に思っていたがあの最初の日は寝ていなかったのかもしれない。
「とーうーじょーうー、真紀子さんが起きろって」
「んー……」
ブランケットのおくるみのなかでもぞもぞと出てきそうにない東條にどうしたものかと考える。どうやら彼はだいぶお寝坊さんのようだ。どうにか彼を起こす方法は……と考えていると小さく「まこと」と声がした。
「おっ、起きたか」
「……」
座ったまま起き上がったブランケットの繭のなかから二つの目がのぞく。かわいらしい。
「真紀子さんが朝飯出来たから呼んで来いって。いこーぜ」
「まこと」
まだ寝ぼけているのか東條はぼーっとしたままだ。マジで寝起き悪いんだな。と見ていると頭からかぶっていたブランケットが肩までずり落ちる。そしてその裾を掴むと「来い」と言うようにブランケットの裾を突き出した。
「さむいからおいで」
いや、めちゃくちゃ猛暑ですけど。でもどこかその隙間にあらがえない自分がいる。藤野はまるで自然なことのようにそのまま近づくとそのままブランケットの隙間、彼の膝の上にすっぽりと収まり自分から抱きしめられた。ああ、あたたかい。あまり意識していなかったけれどエアコンで冷えたこの部屋を自分は寒いと思っていたのかもしれない。
「わっ」
東條は藤野を抱きしめたままごろっと布団の上に横になる。
「おいっ!」
驚いて東條の顔を見ると彼は目をつむって眠ってしまっていた。
「……眠り姫め」
改めてよく見るとやはり東條はかっこいい。
コイツが自分のことを好きだというのならちょっとくらいは付き合ってあげてもいいかな、的に思うくらいには。美人系の顔の作りだから男男していないし。
完全に藤野が東條の顔面に見惚れていると、自分の頭上から女性の声がした。
「あら~、なかよしさんね~」
頭上を見るとそこには真紀子の姿が。慌ててブランケットの繭の中から飛び出ると彼女は口に手を当ててうれしそうに笑った。
「照れなくてもいいのに~」
「照れてません! ほら、東條! 起きろ!」
頭をひっぱたくとようやく東條は目が覚めたらしい。「おはよう」と小さくあくびするとこちらに向けてふにゃりと笑った。
「まこと、きょうもげんきだね、よかった」
「おういつでも元気だよ! 飯覚めるから身支度してこい!」
「はあい」
部屋を出ていく東條を藤野と真紀子は見送り、藤野はため息をつく。
「あの起きなさは子供の時大変でしたか?」
そう言うと真紀子は「ふふ」と小さく笑う。
「昔はああじゃなかったのよ。あなたが来てから。甘えてるのね」
「甘えって」
「あの子、いつも気を張ってたから。外でも家でも」
真紀子はそう言い、「支度支度!」と戻っていく。
東條にとって藤野が甘えられる存在だとしてもだ、飲み会の時の自分はいったい東條に何をしたんだ。藤野は聖人君主ではないし、性格が良いとも決して言えない。東條は元カノを忘れられていないとみているのだが、その過去を置いて、藤野のどこを気に入ったのだろう?
どこか納得できない気持ちのまま、藤野は誰もいない部屋を出た。
どうやら東條は藤野と違って忙しい人間らしい。
「それじゃあバイト行ってくるから」
「おー、了解。今更だけど何のバイトしてんの?」
「塾講師」
「流石医大生だな、頭いい。ってか、もしかしてバ先って東京?」
東條は当たり前のように「うん」と頷く。ここから元々住んでいた家までどれだけ遠いと思ってるんだ。ほぼ毎日千葉から東京まで往復。東條にとって自分は負担にしかならないのにどうしてよくしてくれるんだろう。好きってそんなにすごいのか? 好きがわからない藤野にはわからない。今まで好きになった子は胸が大きいとか顔がかわいいとか外身だけ見て決めていて内面なんて見ていなかったし。
「お土産なにがいい? 東京ばなな?」
「地方民じゃねーからいつでも買えるんだわ。ってか、マジでこの生活続ける気? どう考えてもお前往復きついだろ」
「車運転するのは嫌いじゃないし。それに慎を東京に置いておくよりまし」
「別に大丈夫だぞ? 家帰らなくても実家行くって選択肢もあるし……。幼馴染、あ、同じ学校なんだけど赤崎翔子って知ってるか? そいつの家に居座れば……」
「やだ」
きっぱりと東條は答えた。
「慎を傍に置いておきたい。誰かの家にいるとかは僕が嫌」
「お前は俺の彼氏か」
——あ、でもあれか。こいつ俺の事好きなのか。
だったら藤野がほかの奴のところに行くのは複雑なのかも。
「まあお前が良いならいいか……。気をつけろよ、事故とかシャレにならないからな」
「慎を悲しませるようなことはしないよ。じゃあ、行ってきます」
そうして東條は家を出て行った。ここからは暇になるわけだが、間借りしている身なので立場はわきまえなければならない。見ている限り真紀子の腰が痛いというのは嘘だと思うが、彼女の手伝いをしなければならないし。藤野の手伝いは真紀子にとっては助かることは確かなようだし。
「真紀子さーん。東條行きましたよ」
「男衆、全員出かけたのねー。お茶してから洗濯物やりましょうか」
「俺も男なんですけど……」
「じゃあ旦那たち?」
「付き合ってもないんですが……」
そう言えば東條は藤野と自分の関係をどのように両親に伝えているのだろう。友人? 知人? どうやら東條は藤野のことを一方的に知っているような雰囲気があるが、藤野は彼と会った覚えがない。だけど全くの知らない人間を実家に置くのも説明がつかないし……。
「え」
「付き合ってもない」その一言に真紀子は固まった。まるで驚いたように。まさか東條は自分と藤野が付き合っているとでも説明していたのだろうか。いや、でも顔合わせの時には何も説明されていなかったようだった。
「……まさか東條、俺と付き合ってるとか説明して……?」
「いや、その、ちがうのよ。ただ……」
「ただ?」
「その、七生さんが慎さんに告白してなかったのが意外で」
「アピールはされてますけどね。なんですか、前から東條って結構押せ押せタイプだったんですか?」
「前来てた子にはね……」
例の恋人か。その話がなくても関係の薄い人間を実家に拉致するのは控えめな性格のやることではないから恋愛観が押せ押せなのもわかる。だが、真紀子は言いずらそうに答える。
「七生さん、本当はあんまり自分の意見を口に出さないの。遠慮がちなところがあって」
「俺はその姿見たことないですけど……」
「それは慎さんだからよ。大学に入るまではね、本当に控えめで。実の親が死んじゃってからかしら。うちに引き取られるのもだいぶプレッシャーだったみたいで」
「え、真紀子さんと豊さんって……」
「七生さんの祖父母。お嫁さんを亡くした息子がね、自殺しちゃったの。それでウチに」
そんなこと聞いていない。東條は全く藤野にそんな話しなかった。
「実の父親も今の父親も医療系だったから、自分もって中学の時から気を張ってて。頑張り屋の子だったんだけど頑張りすぎて精神を病みかけてて。それで出会ったのが前の恋人さん。それから元気になってね、大学に入ってから全く実家に帰ってこなかったのに彼を連れてきて。びっくりしたけどもうひとりで頑張ってないって言うのが嬉しかったわ」
「そう、なんですか……」
前の恋人は東條にとってかけがえのない人間だったのだろう。
それを上書きできるほどのことを藤野は東條にした覚えがない。東條は自分のどこを好きになったんだろう。藤野にはそれがわからなかった。
「失礼なことを聞きますけど、東條ってゲイなんですか?」
真紀子はその質問に嫌な顔をしなかった。「わたしの記憶では……」と思い返すように言う。
「恋愛も何も、人嫌いな子だったわ。男とか女とか関係なく人間が嫌い。わたしたちに心を開いてくれたのも彼が来てからだもの。父親がアレだったからかもしれないけどね」
「アレ?」
「忘却剤、知ってる?」
「ええ、まあ薬学部なんで」
「あの薬作った人。色々叩かれて精神病んで自殺。そういうのを小さいながらに見てきたから、他人が怖くなっちゃったのね。今は違うみたいだけど」
突然の告白に藤野は何も言えなかった。東條の父親があの薬を? だったらそれを否定した藤野は東條にとって酷いことを言ったんじゃないか? 誰だって親を悪く言われれば腹が立つ。それも尊敬しているものならなおさら。藤野はやっぱり忘却剤のことは好きになれないけれど、東條が、その父親が、人のためにそれを使おうとしているくらいはわかる。
「……そうとも知らずに、東條にとっては酷いこと言ったかもしれません……」
「あら、どうしたの?」
「忘却剤のことは理解できないと……。それを使いたい東條は医者失格だと……。謝らなきゃですね……」
それはふたつの意味で息子を悪く言われたのと同じなのに、真紀子は優しく笑った。
「慎さんがそう否定してくれるの、あの子は嬉しいと思うわ。結末がどうであれ」
「え?」
聞き返すと、その声には真紀子は反応せずすたすたと台所に向かってしまう。
「お茶入れてくるわ。慎さんは座って待ってて」
「あ、はい……」
真紀子は気を悪くしただろうか。そのようには見えなかったが……。
やがて盆に茶菓子とお茶を載せて真紀子がやってくる。彼女は藤野に盆の上のものを差し出すと笑う。
「七生さんが帰ってきたら、ふたりでお話してみて。きっとそれが一番いいから」
「はい……」
「テレビでもつけましょうか」
そうしてつけたテレビ番組ではニュースとして忘却剤絡みの事件が流れていて気まずい思いになる。確かに、これで救われる人間はいると思う。でも、やっぱり忘れてはいけないことはあると思うのだ。たとえそれがどんなに辛くても。
『……今は、医者にならなきゃいけない理由があるけど』
『理由?』
東條は忘却剤絡みで医者を目指しているのはなんとなく言われなくてもわかる。
なんだか胸がもやもやする。別に、東條には何の感情があるわけでもない。会ったばかりの人間だし、特に思入れがあるわけでもない。でも、心のどこかで思うのだ。辛いなら話してくれと。力になれるのかはわからない。だけど、大事な人がいなくなって、誰も好きになれなくて、その中で唯一自分を気に入ってくれているのならお返しとして何かしてあげたい。だって、藤野が怖くないと判断した人間ならば、藤野に嫌なことをする人間では無い事は確かなのだ。誰も信じられないなら、そういう人は大事にしたい。
東條が帰ってきたのは夜遅くだった。もう真紀子も豊も寝てしまっていて、家で起きているのは藤野ひとり。なので勿論出迎えたのも藤野だ。
「おかえり」
「ただいま、遅くなってごめん」
「別に俺は夜型だから。ご飯温めるよ」
「ありがと」
台所に立ち、今日の夕飯を温める。そうしていると後ろから腕が回ってきた。
「調理中はおさわり禁止」
「普通の時ならいいんだ」
「よくねーよ。お前は付き合ってない女を抱きしめるのか? セクハラでしょっ引かれるぞ」
「慎が嫌ならやめるけど」
嫌じゃないから困るのだ。なんだ? 自分は無意識下で男が好きだったのか? いや、でも実際豊はまだ東條の手を握ってないと話せないから男性恐怖症は治っていないと思うし、男の裸見てもなんとも思わないしな……。そう考えていると密着した東條の頭が肩に乗る。
「嫌じゃないんだ」
「スキンシップは慣れてる」
主に女の子とのだけどな。付け足すと東條の声色は重くなった。
「またそういうこと言う」
「俺を好きにさせたいならおっぱいつけてこい、ほら、箸出せ」
東條に手伝わさせ、食卓に夕飯を並べる。東條家は和食が主らしく普段自分の分は簡単に済ませてしまう藤野には少々骨が折れた。でも、出来栄えは悪くないと思う。それに気づいたのか、東條はひとくち口に含むと反応を見せた。
「今日のご飯、慎が作ったの? 味違うけど」
「ああ、味付け教えてもらって俺が作った。どっか変か?」
「ううん、すっごいおいしい。慎はすごいね」
「もっと褒めろ~」
心配だったけれど、口に合ったならよかった。
東條は藤野の料理をすぐに食べ終わると台所に空になった皿を持っていく。
「洗い物やるよ」
「いいよ、慎の手が荒れる」
「過保護か。バイトなんだからやらせろ」
少しの押し問答の後、結局根負けして妥協案で皿拭きをすることになった。藤野は少し考えたが明るい時間に真紀子が言っていたことを聞いてみることにする。心の中でぐるぐるするのは自分には向いてないから。
「……あのさ」
「ん?」
「東條のお父さんって、製薬系の人だったの」
東條は一瞬手を止めると、何か諦めたような表情で言った。
「どこまで聞いたの」
「……お父さんが亡くなってることと、真紀子さんと豊さんは祖父母だってこと」
「別に重要なことじゃないな。隠してるわけでもないし」
「それから元恋人と出会うまでお前がずっとしんどそうだった、ってことも」
返答はなかった。多分、これは東條のやわい部分で簡単に触れてはいけない場所だ。でも、だからこそ手を伸ばさないといけない。しんどい時、そうしてくれる人はなかなかいないから。その元恋人がもういないなら、代わりになりたい。藤野を守ってくれると言うのなら、それくらいはしてあげたい。
「俺さ、年上だけど頼りない。頭悪いし、しんどい人に何言っていいのかわかんないし。でも、東條がしんどいなら力になりたいと思う。……俺に何かできること、ないかな?」
「慎には関係ないよ」
「関係ある!」
思わず大きな声が出て、口をとっさにふさぐ。夜遅い時間だ。真紀子も豊ももう寝室にいる。起こしてはいけない。でも、どうしてこんなことが口から出てしまったのだろう。確かに出会ってすぐの藤野には関係ない。東條は何も間違ってない。でも。
「……お前のこと、何も知らないんだ。お前は俺のこと知ってるみたいだけど俺は知らない」
「……うん」
「だから知りたいし、お前は良い人だから……少なくとも飲み会ひとつで俺が素を出すのに躊躇しなかったなら、信じたいし、仲良くなりたい」
「……僕はそんな良い人じゃない」
「俺にとっては良い人だよ。だから、もしなんかあったら頼ってほしい」
東條は下を向いてしまう。出過ぎた真似だというのは自覚していたけれど。でも、放っておけない。なんでかは、やっぱりわからないけれど、きっと唯一怖くない人だからだと思う。もしかしたら一目惚れしたのはこっちだったのかも。そう考えるくらいには東條のことが気になっている。だって、こんなの奇跡じゃないか。ずっと患っていた男性恐怖症をひとつ触っただけで解いてくれるなんて。
「慎」
「え……」
抱きしめられているのだ、と気が付いたのは皿が落ちた音を聞いた時だ。幸い割れた様子はなかったが、今の状況に混乱する。こんなに蒸し暑いのに、東條の腕の中は冷たい。ふと、この人を温めたいと思った。体温が冷たい人は心優しいなんて言うけれど、そんなの悲しいだろ。心が冷たくたっていい。温かい体温で溶け合って安心するのを教えてあげたい。変だな、今まで抱いた子にそんなこと思ったことないのに。
変だ。抱きしめられただけで泣きたくなるなんて。
「慎、慎がいれば僕は何にもいらないよ。だから傍にいて」
「……そんなに、どこが好きなんだよ。俺なんかの」
「なんかじゃないよ。僕のことをいつだって心配してくれる。もう、忘れちゃったかもしれないけど」
「覚えてねえよそんなん……」
なんで記憶が無いんだろう。いつ東條と出会ったんだろう。
あの合コンの日に何かあったのだろうか?
それからしばらく抱き合っていたけれど廊下の物音を合図に藤野は慌てて東條から離れた。真紀子と豊には見られたくなかった。東條が軽い人間だと思われたくなかったから。
元恋人の代わりになろうなんて思わない。東條を救ってくれたであろう人間の立場に挿げ替えようなんておこがましい考えだし、包容力もクソもない藤野はそんな器ではないだろうし。
でも、出来ることがあるとすれば。あげられるものがあるとすれば。藤野に出来ることがあるならなにかしてあげたい。
心配、と言えば聞こえはいい。
だけどなんとなくわかる。はじめての感情だけれど、藤野は東條に気に入られたいのだ。
——元恋人と同じくらいに。
東條は忙しい。彼の実家にいると言うのに会う時間が少ない。
「俺ここにいる意味ある?」
「ん?」
少しだけ東條家に慣れてきたある日、藤野は夕餉の支度をしながら問いかけた。
「流石に犯人も捕まったんじゃないの」
「え、犯人?」
「俺の家の殺傷事件の」
東條はそれを聞くと一瞬固まって「ああ」と気まずそうに言った。
「まだ捕まってないよ」
「ふーん」
藤野はニュースを見ない。だからこれが一般的に捜査が難航している状態なのか普通なのかわからない。でも、東條が言うならそうなのだろう、と思う。なにも疑わず藤野は向かいに座ってお茶を淹れる。東條は「いただきます」と手を合わせ食事に箸をつけた。
「邪魔になったら言ってな」
「慎はそれ気にするね。なんかあったの。いいずらかったらいいけど」
「別に言えない話じゃないけど」
祖父の話をすると、東條は「そっか」と頷いた。
「慎はそれ悪くないでしょ。少なくともここは大丈夫だよ。慎、あのね」
彼は箸を止めて、前を向く。東條の瞳はいつだってキラキラしていて、見惚れてしまって。
「僕は慎の味方だよ。慎のことをいちばんに考えてる。だから、無理でも信じてほしい」
「……信じて裏切ったら?」
「その時は殺して」
当たり前のようにそんなことを言うものだから笑ってしまう。
「お前の命軽すぎだろ」
「慎にならいいよ」
「ほんと俺のこと好きだな」
「うん」
悪い気はしない。だけど、どうしてと思う。こんなに好かれることをした覚えはない。産まれたばかりの鳥のひなのすり込みのように東條は藤野のことを好いてくれる。不思議なのだ。記憶はないのに。
「そこまで好かれるなんて俺はお前に何をしたんだか」
緑茶を一口啜って東條は答える。
「僕ね、慎に出会うまで生きているのが辛かったの」
辛かった、なんともないようにそう言う。
「知ってると思うけど、忘却剤を作った実の父親はすごい人で、父さんも精神科医としてはすごい人。医療系の家系に生まれて、自分もそっちに進んで人を助けなきゃって思ってた。でも、僕は出来が良くなかったんだよ。劣等生で。だめだめで、そんな僕に慎は『無理すんな』って言ってくれた」
「俺そんなこと言ったんだ」
「忘れちゃっただろうけどね。でも、僕はそれに救われたよ」
飲み会の時にそんなことを自分は言ったのか。覚えはないけれど当時の酔っ払った自分をほめてやりたい。
東條が嬉しいなら、藤野も嬉しいから。
自分の言葉で救われたならそれほど幸せなことはないから。
「そっか、そんなかっこいいセリフ言うなら素面の時に言いたかったな」
照れ隠しに苦笑いすると東條は微笑む。
「どんな状況でもうれしいよ」
「お前恥ずかしいこと言う才能はあるよな」
「慎にだけだよ」
なんでこいつはこんなことを平然と。
「食器片づけるね」
照れて顔を見れず下を向いている藤野の横を通りすぎていく。この雰囲気がなんだかこそばゆくて、藤野は口を開く。
「と、東條」
「ん?」
「俺、俺さ、覚えてないんだけど」
でも、でも。と続ける。
「俺の言葉で東條が救われたなら、生きててよかったと思う」
東條はその言葉に目を丸くし、どこか寂しそうに笑った。
「……生きてて、か」
彼はそのまま台所に行ってしまった。少し重かっただろうか。生きててよかったなんて、普通は言わないし。それでも言わなきゃ。そう思ったのはなぜだろう。
その日薬を飲んで、布団に入ったのは深夜を過ぎた時間だった。明日は東條のバイトは休みで、ゆっくりしようと約束していた。特に何をするでもないけれど、ここに来てから東條は東京に出ずっぱりでゆっくりお互いのことを知る時間も取れなかった。まあ、東條は一方的に藤野のことを知っているみたいだけれど、藤野は東條のことなんかちっとも知らないのだ。もっと知りたい。
「明日さ、忘れてなかったらデートしようか」
「え?」
隣通しの布団に入って、向き合って話す。エアコンは入れているがエコな気温設定で少しだけ蒸し暑い。だけど涼しくして次の日くっつかれても困るので、この温度感で我慢する。
「何かしたいことある? 慎がしたいことしよう。お盆だからさ、しばらく塾は休みなんだ」
「そうなのか。じゃあゆっくりできた方がいいよな」
考えてみるけれど、特にどこも行きたいところはない。だって千葉に何があるかわからないしな。都内なら何とかわかるけど……。
「休みの日まで都内行きたくないだろ?」
「別にいいよ。慎が行きたいなら、ひとりで行かせるのは無理だけど、僕が一緒ならまあ許せるかなって」
「お前は俺の何なんだよ」
「彼氏?」
「あほか」
いろいろ話し合って、次の日は久々の地元ということで千葉の田舎では出来ないことをしようということになった。とは言え、やることと言えば特に何もなく日用品の買い物ばかりになってしまったが。せっかく出てきたのだから、そこでしかできないデートらしい事……と思ったが、よくよく考えてみれば、今は実家にいるけれど東條も住んでいるところは東京なので遊園地も水族館も珍しいものではない。そんな事情もあってどうしようかと選んだのが都内の家電屋。千葉でよかっただろと思うが、東條家から行ける場所には大したものは売っていないだろう。
「あ、これほしい。アパートに帰るとき持っていくからさ、しばらく家で使っていい?」
藤野が指さしたのはコーヒーメーカーだ。比較的安価なものでサイズも他のものより小さい。説明を見るにエスプレッソやカプチーノが作れるらしい。藤野家にも東條家にも無いものだ。
「別にいいけど。ああ、慎はカフェとか好きだもんね」
「それも話したのかよ。……俺さ、普段ウェイみたいな感じで人に絡むけど根本陰キャなんだよね」
「陰キャ……?」
反応を見るに言葉の意味を知らないようだ。藤野は子どもに教えるように言葉を選んで口を開く。
「根が暗い人。俺、合コンでは結構人に絡んだり、女の子に話しかけたりしただろ? でもそういうの全部無理してやってる。本当はカフェとかでコーヒー飲みながら甘いもの食べてゆっくりするのが好き。誰にも言ってないけどな」
「なんで無理してるの?」
「似合わないって言われてさ」
派手な顔をしているからだろうか、大学で同じゼミだった女の子に個人経営の小さなカフェで偶然会い「こんなところに居るなんて似合わないね」なんて言われたことがある。それで、ダメなのかと思った。上手く生きていくにはみんなのイメージに合った人間でなくてはいけない。誰も信用できない、頼れないのだから強く生きなければ。そのためには敵を作らないように理想の「藤野慎」でいる必要がある。だったら、私生活も「そう」でなければ。
「そのときはさ、女の子と待ち合わせだって言ってイメージ崩さずに済んだんだけどさ、それから家でしか素の自分を出せなかったんだよな。あ、でも……」
ひとりだけ素を見せるのを許した相手がいた気がする。覚えていないということは一晩限りの相手だったんだろうか。すっかり忘れてしまっているけれど、その人といたときは安心できたような。そんな人がいるわけない。夢の話かもな。
「でも?」
「あ、ああ。親と親友……あ、幼馴染な。その人達以外にひとり素を見せられたヤツいたなあって」
「僕は?」
東條は自分を指さす。
「結構いろんなこと話してくれるけど僕は大丈夫なの?」
そう言われて気づく。東條は大丈夫だ。こんな話ができるほど心のうちを曝せる。
「大丈夫だわ。なんでだろ? やっぱ危ないから家来いってお前にとっては何のメリットもないのにつれてきてくれて。そーいう損得無しで守ってくれるとこがいいのかな。こいつは俺が変なことしても期待外れだと思わないって安心してるのかも」
なに言ってるんだろう、と照れ隠しで笑っていると東條が黙り込んでいることに気づく。藤野は彼の顔を覗き込んで様子をうかがった。
「どした? 具合悪いか?」
「……自己嫌悪中。僕は慎が思ってるほど良い人じゃないから。なんかすごく、辛い気分」
「いいやつじゃん。男の趣味は悪いけど」
この何十億の中の人間で、たったひとり藤野のことを好きになるなんて変わったやつだ。趣味が悪い。けどそれが、どこか嬉しい。愛されていることは人に認めてもらうことで、藤野にはそんな人間が母親以外にいなかったから。
「ねえ、慎」
東條は藤野の方を見ずに、コーヒーメーカーを見て言う。
「僕が慎を裏切ってたら、慎は悲しい?」
「そりゃまあ」
藤野にとって東條は気を許している部類に入る人間だし、裏切られたらそれなりにダメージは受けるだろう。その答えが東條にはよほど堪えたようで、車の中まで会話はなかった。コーヒーメーカーは買ってくれたけど。
車の助手席に座り考える。東條は何か隠しているのだろうか、と。
でも多分、よほどのことがない限り藤野は怒ったりしないだろう。たとえ東條が藤野を裏切っていたとしても、きっとそれには理由がある。
まだ少ししか一緒にいないけれど、それだけは確信があった。
「東條」
「……なあに?」
「ひとりで抱え込むなよ。俺が付いてるから。出来ることは、少ないかもだけど……」
うん、と答えた東條の声には力がなかった。
疲れているのかな、と思った。都内まで走らせたし、かなりの店を回ったし。
東條は、自分が暗い人間だと知っても、キャラを作ってるような薄っぺらい人間だと知っても否定しなかった。受け入れてくれた。その分自分も恩返ししたい。辛いなら、今はいない元恋人の代わりに東條を支えたい。その力が今の自分にあるかは別として、の話だけど。
「よーく馴染んだね」
「え?」
東條が買ってくれたバニラアイスにエスプレッソをかけたアフォガートを口に入れ、コンビニで購入したらしい漫画を縁側で読む。そんな姿を見て東條は「よかった」と微笑む。
東條家に来て二週間。藤野は当初抱いていた不安とは正反対の快適な日々を送っていた。東條夫妻は気の置けない仲の様に話が合うし、ここでは大学の仲間内で求められるキャラ――立場の様にヘラヘラする必要がない。ご飯は大好物ばかりだし、必要な物があれば東條が買ってくれる。家からほぼ出られない事を除けばほぼ天国だ。
「あと二ヶ月くらいならいていいかも」
「快適ならいいけど」
「今日は都内行くの?」
「ううん」
「バイト?」
「違うよ、別件。用事があって」
東條は塾が無い日も度々都内に車を走らせる。理由は聞いたことがないけれど、何かしら美味しいものを買ってきてくれるから寂しくない。話し相手なら真紀子がいるし、豊は用事か付き合いで家を開けていることが多いが、家の手伝いをしながら待っていれば家族が揃うのなんてすぐだ。
「あ、じゃあゲーム買って。真紀子さんとやるから」
「ゲーム?」
「中古でも可。暇なんだよねー」
冗談めかしてそう言うと、東條は何の嫌な顔もせず「わかった」と頷いた。
「カラーは?」
「えっ、ちょっと待って冗談だから。マジにすんなよ」
「欲しいものは買うって言った」
「限度があるだろ」
東條は確かに不便がない様にすると言ってくれたが、数万もするものを二つ返事で了承するのはどうかと思う。藤野のことを甘やかしすぎだ。
「慎のわがままなら何でも聞くって約束した」
そんなに言うのなら無理でも言ってやろうか。
「何でもって言ったな? じゃあ俺も連れてけよ、東京」
「何か用でもあるの?」
「……新作ドリンクが飲みたい?」
「なんで疑問形」
流石に言い訳が苦しいか? そう思ったが東條は笑って「いいよ」と言ってくれた。
「でも長い間待たせるからそれまでは喫茶店にいてね」
そうして都内。車は大きな病院の前で停まった。東條は何か病気があるのだろうか。
「……どっか悪いの」
「精神。薬もらうだけだよ。なくなりそうだから」
「精神……」
目の前にある喫茶店で待っていて、そう言って東條はエントランスに入っていった。
「……精神」
ぽつんと藤野は東條を見送って駐車場に立ち尽くす。精神。東條には何か悩みがあるのか。
「……俺、やっぱり何かできないかな」
東條はいい奴だ。こんな奴のわがままを何でも聞いてくれるし、優しいし、藤野のことを一番に考えてくれる。何か、何か出来ること。喫茶店の中で色々考えたけれど何も答えは出ない。だって、藤野はまだ東條のことを何も知らない。
「あ~!なんで俺ってこんな無能なんだろう……」
何か困ってるなら隣にいてあげたい。ひとりで悩むことはさみしいから。そう思った時だった。
「あれ? 慎じゃん、久しぶり」
お手洗い帰りなのだろう。ハンカチを持った女性が藤野に声をかける。この女の子は——……。
「赤崎?」
記憶より少し垢抜けているが、確かに赤崎翔子だ。年齢というか学年は東條と同じで年下の幼馴染、兼親友。藤野は彼女のことを結構気に入っている。祖父に虐められる前からの仲なので藤野のことを理解してくれているし、ノリがいいし、藤野に懐いてくれているからだ。しばらく、というか東條に拉致られてから会っていないし連絡もしていなかった。そういえば、合コンがあるなら彼女も来ていたんじゃないか? いつも藤野の前で「彼氏が欲しい」と言っていたし、藤野の行くイベントごとにはついてくることが多かったから。
「えー、マジいつぶりだろ。ちょっと話そうぜ」
「友達とかと一緒じゃないの」
「ひとりだよ、時間潰し。慎は?」
「連れの病院待ち」
「じゃあそっち移動する!」
赤崎は席を一緒するために移動し、追加で注文を頼んだ。店員は快くそれに応え、伝票をこっちの席に持ってくる。
「最近どう?」
「千葉に拉致られてる」
「ウケる。何それ」
「家周辺にやべー奴がうろついてるらしくってさ、犯人捕まるまで避難中」
「え、やば。何、ついにストーカーでもされてんの。女遊び激しいから……」
「違う違う。あれ? ニュースでも取り上げられてたけど知らん? 刃物持った奴が俺の住んでるアパートで事件起こしたって話」
「しらなーい。そんなニュースあったかな……」
最近はテレビを見ない人間が多いし知らなくとも不思議じゃないか。赤崎は少し疑問を持ったようで、手元のスマートフォンで調べてくれる。
「いや……そんな事件ないけど……」
「うそだあ、だってウェブページ見たぜ?」
「無いよ。ほら、好きなだけ見て」
ニュース記事をざっと見てみるが、そんな記事は赤崎の言う通り無い。被害者が出ているんだから少なくとも小さいニュースにでもなっているはずだが。地方新聞にしか載っていないのか? いや、それはないだろう。無差別殺傷事件、しかも犯人が捕まっていないなんてメディアが飛びつきそうな事件だ。
「おかしいな……。確かに見たんだけど」
「住所間違えたんじゃない?」
それより藤野が東京を離れたことの方が気になるようで頬杖をしながら質問を投げかけてくる。
「で、なんで千葉に? スマホは?」
そうなるわな。別に隠すことでもないので藤野は正直に答える。
「……というわけで、合コンで会った奴が犯人捕まるまで実家に来いって」
「スマホぶん投げたの? マジでウケる。あ、じゃあこれあたしの番号。なんかあったら連絡して」
赤崎は紙ナプキンにボールペンで番号を書くと藤野に手渡す。藤野はそれを財布に入れた。多分使うことはないだろう。今なにも不便してないし。
「で、どこの女のところに転がり込んでるの?」
「男だよ。お前と同い年なんだけど知らない? 医学部の東條七生ってヤツ」
赤崎はその言葉に一瞬強張ると気まずそうに口を開いた。
「……東條七生?」
「うん。なんか俺のこと好きらしい、最初は嫌いなタイプだと思ったけどいいやつだよ」
「それは……」
彼女は東條の名前を反芻すると、難しそうな顔をする。
「どうした?」
「あ、いや、なんでもない。そいつとはどう? 上手くいってる?」
「何でも言うこと聞いてくれるし快適」
「そうなんだ、七生がね……」
そうしてまるで失言でもしたかとでもいう様に赤崎は口を咄嗟に手で押さえた。「違う」「今のは」とうわ言の様に呟いている。どうして赤崎が東條のことを知っているみたいな言い方。同学年だし知り合いなのだろうか。藤野は赤崎に疑問をそのままぶつける。
「東條と知り合い?」
「……個人的な」
「え、そうなんだ。世間狭い」
「……ねえ、まこと」
赤崎はおずおずと口を開いた。
「七生のこと、好き?」
「好き? ああ、好きだよ。結構」
だって何でもわがまま聞いてくれるし。ご両親は良い人だし。
付き合うかどうかは別として、友達にはなれると思う。それと同時に自分達はまだ友達ですらないのか、となんだか胸がもやもやした。
「あのさ、だったら、もう薬なんて……」
「何してんの」
その声は東條だった。冷たい目をして赤崎を見下ろす彼は、今まで見たこともない雰囲気を漂わせていた。
「七生……」
「赤崎さん、何でここにいるの」
「たまたまだよ。……てか、何やってんの。慎のことはもう放っておいてやってよ」
「関係ないでしょ」
「ふざけんな。何も知らない慎を好きにして楽しい?」
「なに? 慎の恋人でもないくせに。そういうことは選ばれてから言えば?」
「あんた……!」
赤崎は突然立ち上がる。藤野は彼の手を握ってそれを制す。何のことかはわからないが、この喧嘩は自分が原因なのはわかる。
「ふたりともここ外だから!」
藤野の声で我にかえったのだろう。赤崎はバツが悪そうに伝票を持つと会計に向かった。
周りからの目線が痛い。東條は先ほどまで赤崎が座っていた席に座ると、ため息をつく。
「……今から携帯買いに行こうか。僕にしか連絡できないキッズケータイ」
「キッズじゃねえわ」
藤野は珍しく不機嫌そうな東條に苦言を溢す。
「お前俺の幼馴染ビビらせてんじゃねーよ。てか早かったな」
「今日は長引かなかった」
「いつもは長引くんだ」
「みんな病んでるんだよ。嫌な時代だね」
東條は先ほどの騒ぎなど気にしてもいないようで普通に店員に注文をする。店員は流石プロか、はたまたこんなこと日常茶飯事なのかなんともなかったように注文を受けた。やがて運ばれてきたアイスコーヒーに東條は口をつける。
「なんで赤崎さんと一緒にいたの」
「赤崎の言ってた通り偶然だよ。てか、知り合いみたいだったけどあんなにけんか腰なのなんで?」
「赤崎さん、慎のこと好きだもん」
「んなわけねーだろ。あいつ幼馴染だぞ」
「幼馴染だからって言うのは理由にならない」
そういう意味ではない。赤崎は合コンに行くほど藤野が眼中に無いわけで。藤野も別に赤崎にそんなこと思ったことは無いし。
「あいつが俺のこと好きとか言ってくるとかないわ。ずっと一緒なんだぜ? 言ってきたら変だろ、どんだけ長いこと片想いしてんだっていう」
……あれ、そういえば俺、東條に好きって言われて気持ち悪いとか変とか思ったことない。
「……でもお前合コン来てたんだろ。多分俺が来てたって言うことは赤崎も一緒だっただろうし。赤崎は男狙いに行ったくらいわかるだろ」
「慎狙いだよ」
「お前じゃねーんだからそれはない」
「まあ気づいてないなら好都合だけど」
透明なストローの中でアイスコーヒーが吸い上げられる。その映像をなんとなく眺めながら綺麗な顔だなと思う。東條の顔は仮に彼が女の子であったらやっぱり一目惚れするくらい好みで、たまに見惚れてしまう。東條は藤野が男にもモテると思っているらしいが(顔には勿論自信があるのだが)藤野としては東條の方がモテるのではないかと思う。だってかっこいいし。尽くしてくれるし。甘やかしてくれるし。
「そんなに見ないでよ、照れる」
「は? 見てねー」
「はいはい。で? 赤崎さんと何の話したの」
別に大した話はしていないが。
適当に赤崎と話したことをかいつまんで話すと、東條は「へえ」と自分で聞いておいてどこかどうでもよさげな雰囲気だった。紙ナプキンに書かれた電話番号のことはなんとなく言えなかった。東條は多分嫌な顔をするだろうな、と確信があったから。
「……やっぱりひとりでいさせるのは良くないね。連れてきたのは失敗だった」
「失敗って……」
なんだそれ。
「この世界は慎にとって害がありすぎる」
「それを決めるのはお前じゃないだろ」
「ううん、僕だよ。慎が傷つかないように僕が守らなきゃいけないから」
頭がおかしい。精神科に通っているくらいだ。こんなものなのかもしれないけれど、悲しくなる。東條は俺を信用できない? 信用って、別に付き合ってもないんだからどう干渉される筋合いもないが、単純に悲しい。
「俺は東條のものじゃない」
「……でも外に出たら慎は僕を捨てるでしょ? だったら閉ざさなきゃ」
「捨てないよ」
藤野はまっすぐ東條の目を見て、はっきり言う。
「大丈夫。傍にいるよ。なにがあっても」
「……なんでそんなこと言ってくれるの」
「なんでだろ」
誰かの傍にいたいなんて思ったことがなかった。
はじめてだ。傍にいたい、力になりたい。そう思ったのは東條がはじめて。
理由なんてわからない。でも、どうにかしなきゃいけない、そういう想いはいつもどこかにあって。この子を笑顔にしてあげたい、自分がこの子の傍にいると安心するから、自分も安心させてあげたい、と。
どうしようもなくそう思うのだ。
「俺、貰ったものは返したい派なんだ。東條からはいっぱい貰ったから、その分返したいのかも」
「なにもあげてないよ」
「貰ったよ」
東條は気づいていないかもしれないけれど、藤野はちゃんと貰っている。
絶対的な安心という、唯一の身内の祖父からももらえなかったもの。
「お前のこと何も知らないけどさ、最初はびっくりしたけど不思議と男なのに怖くないんだ。お前からは触られても、嫌な気しない。実家の次に、いつの間かお前の傍が俺のいちばん安心できる場所になったよ」
それを聞いた東條は、下唇を噛む。泣くのを我慢するように。何かに耐えるように。
嫌だったかな。でも本当のことなんだ。
お前の前だと、俺は安心できるんだよ。
「……ごめん、気持ち悪かったかな。帰ろっか」
「……うん」
当たり前の様に東條が伝票を取る。なんだか急に不安な気持ちが襲ってくる。なんだろう、何も変なことなんてないのに、東條の背中が小さく見える。病院で何か言われたのだろうか。俺は間違った答えを言ってしまっただろうか。駐車場に向かいながら、藤野は東條に声をかけた。
「東條」
「……なに?」
「無理してる?」
「無理?」
「なんか、精神科にまで頼るとか、普通に考えたらそんな気がして。あのさ、なんかあるなら相談しろよ。ひとりで抱え込んで頑張るとかマジでやめろ。無理しなくていいよ、頑張ってるの、俺はちゃんと見てるし」
だから俺の前くらいでは素でいいから。そう言って背中を叩くと東條が急に立ち止まった。頭が東條の背中にぶつかり少しだけ痛い。
「いって、お前、いきなり立ち止まって……」
彼の表情を覗き込んで伺うと、東條はとても辛そうな顔を押し込めたように唇を噛みしめていた。
「東條……? どうかしたのか」
「……昔、同じことを言ってくれた人がいた」
「え?」
「今は遠いところに行ってるけど」
言って「くれた」という事は、東條にとってその言葉は大切にしたいものなのだろう。東條の大切な人。多分、東條家に一時期滞在していたという人間のことだろう。そう考えるとなんだか胸が痛む。それを振り払おうとして藤野は呟いた。
「その人のこと、今でも好きなの?」
「うん」
「俺がいるのに?」
「……うん」
好き。藤野にはわからない感情だ。だから可哀想で胸が痛む。好きとはそんな、こんな表情をさせるほど辛いものなのだろうか。自分が出来る事はなんだろう。東條にはできれば笑っていてほしい。こんな顔はさせたくない。
「そっか、じゃあ俺のセリフは忘れて、その人の言葉を大切にして」
「……違う、慎、僕はどっちも」
「わーってるよ! 東條、あのな。人は声から忘れるんだと」
「いきなりなに……」
「会えないなら、大切なら、忘れたくないなら、声を忘れないことを最優先にしろ。人は簡単に忘れるから」
人はどれだけ大切にしていたものでも、簡単に忘れる。だから恋人や家族というカテゴリに無理矢理入れて忘れないように死ぬまで一緒に生きていくのだと思っていた。実際そうだと思うし、間違った事は言っていない。
「……どっちも大事な時は?」
「どっちもは選べない」
「無理でも、どっちも大事なんだ。目の前の慎の事も、どっちも、大事にしたい」
今の藤野と同じくらい。もしくはそれ以上、そのくらい東條に大切にされているどこかの誰かを羨ましく思ってしまう。
「それでも、どっちもは選べねえよ」
東條は一瞬、驚いた顔をして、それから顔を歪ませた。
「……わかってる」
自分も会ってみたかったと思う。東條にこんな表情をさせるその人に。どんな人なのだろう。優しい人だといい。ずっとそばにいてくれる人。そんな人なら、いいと思う。
失った時のショックは与えた愛情と比例する。
藤野はそれを一番知っている。
『お前は望んで生まれた子じゃない』
うるさい。
別に彼が悪いわけではない。自分も大人だ。共感はしたくないけれど事を事実として受け入れることは出来る。
彼は娘のことを愛していたが、どこの男の子かもわからない孫を愛することは出来なかった。それだけの話だ。
娘の力になりたいし、世間からもいい祖父だと思われたい。そんなエゴに付き合わされた自分は結果的にねじ曲がった人間に育ってしまった。他人が信じられない。他人を愛せない。藤野が素を見せられるのは母親と幼馴染くらいで、あの子に出会うまでずっと生きている意味が分からなかった。
……あの子ってだれだっけ。
最初はちょっかいを出してやろうと思った。必死で生きていて、見るからに限界で、いつも険しい表情をしていて、それが十歳のころの自分に似ていたから、どうにかしてあげたくて。だから無理して酒の力を借りて声をかけた。
一生懸命勉強する彼を毎日邪魔するものだから、それから一緒にいる時間が長くなっていつの間にか「好きだ」なんて言われてつきあうことになって。幸せだった。この子のために自分は生まれてきたんだと思った。この子を幸せにするために生まれてきたと、本気で思っていた。でも、幸せにすることが自分の幸せになるとは限らない。現に自分は、あの子を幸せにすることと、自分が幸せになることを天秤にかけて後者を選んだ。
『生まれてきてくれてありがとう』
あの子はそう言ってくれたのに、自分はあの子を捨ててしまった。
だから、もし自分より優しい誰かにこの身体を渡せるなら、お願いです。
——あの子を幸せにしてあげてください。
俺は弱くて、自分の幸せのためにあの子から逃げて、悲しませてしまったから。
「真紀子さん、おはようございます。手伝いますよ」
朝起きると、隣に東條は居なかった。どこに行ったのだろうと探していると、庭の小さな畑で麦わら帽子を被って雑草の処理をしている真紀子を見つけた。今日の気温は三十度。いくら熱中症対策をしていても長時間の外仕事は辛いだろう。
「あら、慎さん。助かるわ」
「それにしても意外ですね。お金持ちが自分で畑仕事するなんて」
例の夏野菜の畑は心配したほど大きくはなく、大きな家庭菜園レベルだった。たたみ何畳分のスペースに、茄子とトマトときゅうりが植えられている。
「趣味よ趣味。昨年ね、始めたの。遊びに来てくれた男の子がね、楽しいですよって言うから」
男の子。近所の子どもだろうか?いや、ここ周辺は全て東條の家か土地で、他に民家は見当たらない。子どもが度々来るような立地ではないが。それについて聞いてみると真紀子は嬉しそうに笑う。
「彼氏さんよ。七生さんの恋人」
「は⁉ 女の子じゃないんですか⁉」
例の「大切な人」のことだろうがまさか男だったとは。いや、自分が偏見がないから不自然に思わなかっただけで東條は藤野に好意を持っているのだからよく考えれば普通のことなのか?
「驚きませんでした?」
「ええ、最初は私たちも戸惑ったけど……」
真紀子は藤野を見て微笑む。その表情は東條が藤野を見てたまに見せるものにどこか似ていた。
「七生さんがね、ずっと私たちの期待に応えるために言うことばかり聞いてた七生さんが、あの子のことだけは譲らなかったの。一緒にいたいって。親としてはそこまで言われたら、って思っちゃって。それにとってもいい子だったしね」
「は~~。そんな人が」
東條は今は藤野のそばにずっといてくれる。藤野はその人の代わりになれているだろうか。
「あの子はね、今も七生さんのそばにいるわよ」
「え?」
「きっとそう」
真紀子はそれから黙ってしまった。
なんとなく、わかったことがある。遠いところにいて、今でもそばにいるその人に、藤野は会えないだろうということ。もしかしたら東條自身も。だってもう亡くなってしまっているのだから。きっと東條は墓前に連れて行ってくれるなんてことはしてくれないし。
「……」
幸せにしてあげたい、と思う。幸せにしてもらった分だけ東條に返してあげたい。でも、藤野は何も持っていない。何もあげられない。
「……らしくないな」
他人に与えてもらうだけで満足。そんなままの自分でいたかった。女の子はいつも甘えさせてくれて、見返りを求め始めたら離れればよかった。それは自分が彼女らに恋をしてなかったからできた事なのだろう。少なくとも今の藤野は、そんなことできない。与えられたいし、与えたい。
日差しが強い。こんな暑い日に東條はどこに行ったのだろう。太陽が雲に隠れてくれればいいのに。自分は、太陽の下にいれるほどできた人間ではないから。
「ただいま、慎」
そうして手伝いをして汗を流していると、いつ帰ってきたのだろう。東條が顔を出す。
「朝早かったな」
「ああ、ちょっと買い出しに」
藤野に東條が差し出したのは花火のセットだった。
「性格的に好きそうだったから、花火」
「うわ、懐かしいな~!」
昔はよく母とやったものだ。大人になってからはスルーしていたが、いざやってもいいと言われるとテンションがだんだん上がってきてソワソワしてしまう。
「なあ、この辺海とかないの? 派手にやりたい!」
「夜までに探しておくよ」
「やった! あ、てか金出すよ! ちょっと待って」
「いらないって……あ、ちょ!」
自室としてあてがわれている部屋に向かい財布を開く。
花火っていくらだったっけ、まあ千円あれば足りるか。
そう思い札入れを開くと、紙ナプキンを入れたときには気が付かなかった、見覚えのない白いシールが入っていた。
「……なんだ、これ」
『精神科』と書かれた分厚い診察券が、札入れに挟まっていた。こんな病院、行ったことない。同じく財布に挟まっているのは、薬局でお薬手帳を忘れたときにもらえるシールだ。そこには忘却剤が処方されていたことが印字されていた。
「……は?」
なんだよ。そんな、そんな記憶なんて。
「慎?」
襖の先で東條に声をかけられる。藤野は「金なかったわ!」と咄嗟に返事をし、財布を隠した。どうしてそうしたかはわからない。ただ、東條にバレたらよくない。そう無意識に思ったのだ。
最悪のパターンが脳裏に浮かんでは消える。
忘却剤の処方量は明らかにおかしかった。過剰投薬ギリギリの処方なのは成績のすぐれない藤野でも分かった。病院名と薬局名は見れなかったが、ロクなところではないだろう。どうしてそんなものが自分の手元にあるのか。答えはひとつしかない。
それが意味するのは、信じていた人に裏切られていたという事実。それが善意からだとしても、藤野にはそれが悲しい。勿論、裏切られていたという事実もそうだけれど、仮に、藤野の予想が当たっていたとしたら。藤野は東條にとてもひどいことをしたのかもしれない。
だが、今はそれを気づかれてはいけない。少なくとも夜、ちゃんとふたりで話し合う時までは。
その夜、有言実行の代名詞の男は藤野の望み通りの場所を用意してくれた。穴場なのか、誰もいない海。頭上の藍色にはきらきらと星が瞬き、月が顔を出す。波の音だけが潮風にのせられて、どこまでも最高のロケーションだった。
「海! 家でやるのもいいけど夜の海でやるのって風情あるよな!」
早速バケツに水を溜めて、パッケージを開ける。中には様々な花火が入っていた。どれも母と遊んだことがある。懐かしい。線香花火は最後にとっておこう。藤野はライターを取り出すと最初の花火に火をつける。そうすると綺麗な色の火が手に持った棒の火薬から噴射された。記号を作り出す様に振ってみると火花が追ってきて思うがままの記号になる。こんなの大人になった東京じゃできない。
「あはは! こんなん久しぶりにやったわ! 東條ありがと!」
「うん」
ひとりでだいぶ花火を堪能して、残りは線香花火だけになった。藤野は近くで見守っていた東條を呼んで線香花火を何本か持たせる。
「お前もやれよ、どっちが長く持たせられるか勝負しようぜ」
「……うん」
ふたり、バケツを囲んで線香花火に火をつける。まるでガラス細工を作るときの様に先端に火の玉が溜まる。パチパチと小さな花が舞った。
「勝ったほうは何でも言うこと聞くやつ! 見てろよ! 俺、これすげー得意だったんだよな!」
「知ってるよ」
顔を花火から上げる。その時、唇に温かいものが触れて、衝撃で火溜まりが砂浜に落ちた。
東條の目には涙が滲んでいた。
「……知ってる。去年も聞いたから」
ああ、やっぱり。だって、嫌な感じはしなかったから。同性で、付き合ってもいないのに。
でもそう考えるとすべてのつじつまが合うのだ。理解のありすぎる実家。赤崎の反応。そして東條が傍にいてくれた理由。触れられても嫌悪感が無い事も。
ただ、苦しいくらいの胸の痛みが藤野を締め付ける。そんな顔をさせたかったわけじゃないはずなのに。
「……なあ、ひとつきいていいか?」
「うん。財布の中、見てたよね。もう隠すことも無いし何でも答えるよ」
東條はそう言った。藤野は意を決して東條の顔を見る。
「どこからどこまでが嘘?」
彼はそれを聞いて、やっと肩の荷が下りたかのように力なく笑った。
「全部だよ。合コンで出会ったことも、慎の家で事件があったことも、荷物がないことも」
どうりでネットで事件の記事が見当たらないわけだ。だって嘘なんだから。あの見せてきた記事は自分で作ったか何かしたのだろう。少し知識があれば一枚のウェブページなんて簡単に作れる。
「そっか」
「怒らないんだ」
「そんな気はしてたから」
波の音がざあ、っと空気の中に流れた。
お互い無言の時間が続く。ああ、もうだめだな、と。
もう元通りの楽しい日々は帰ってこない。気づかないふりをしていればよかったか? そうすれば幸せになれたか? そんなぬるま湯みたいな日々、いらねえよ。
だってそこに、東條の幸せはねえだろ。
藤野は引導を渡す。東條に、そして自分たちの関係に。
「なあ俺、もしかしてお前のこと忘れてる?」
それと同時に、藤野の方の火溜まりも落ちて消えていった。
「……うん」
ずっと違和感があった。東條夫妻の態度や、赤崎の態度、それに部屋にかけられていないカレンダー。男の恋人。自分がそれを聞くたびに辛くなること。
「……付き合ってた。慎と」
「うん」
「でも、慎はもういない。僕が好きになった人はもういない」
「……そうだな」
東條と出会った記憶がない。つまりは、そういうことなのだろう。財布に入っていた精神科の診察券。お薬手帳のシールに印字されていた忘却剤の量。そして何の疑問もなく毎日飲んでいた薬。過剰投薬だと言うのに起こらない発作。健康な東條が通っている精神科。
藤野は、いや、東條とお付き合いしていた「慎」は、きっと忘却剤のオーバードーズで自殺した。東條に楽しかった記憶だけを押し付けて。
「……これは俺のただの考え方の話なんだけど、人格っていうのは今までの記憶の積み重ねから形成されるものだと思う」
言葉を選ぶ。二人とも手から花火は落ちて、聞こえるのは波の音だけ。藤野はかき消されない様にはっきり言った。
「だからごめん、期待されても俺は、お前の恋人の藤野慎じゃない。なれない」
忘却剤の過剰摂取による記憶への影響は詳しく明らかになっていない。ただ、こういう風に記憶に「おかしいくらいの大きな空き」が出てきている場合、元に戻る確率はゼロに等しい。過去に前例はないと言われている。
「どうしてもお前との記憶が思い出せない。お前の好きな子を返してあげられなくてごめん、思い出せなくてごめん……」
きっと、何かがあったのだと思う。自死を選ぶまでの何かが自分に。忘却剤で忘れた記憶が戻る確率はほぼ無い、と言われているならば、東條の恋人の人格は何かの奇跡が起きない限り帰ってこないだろう。それでも東條は言うのだ。
「……好きだよ」
藤野を見て。
「それは俺じゃない」
そう言うと東條はどこか悲しそうに笑った。
「『藤野慎』はきみでしょう?」
違う、違う、違う。
俺は『藤野慎』じゃない。
お前もそう思ってるだろ。そんな顔する奴が、平気なはずないだろ。お前は、「こっち」なんかみてないだろ。
「記憶、一生戻らないかもしれない」
「好きだから、それでいいよ」
そんなの嘘だ。だって現に東條の瞳は、藤野ではなく別の男を見ている。
「……なんでだよ」
なんで、と胸が辛くなる。なんで東條を捨てたんだよ。なんでこんな顔をさせるんだよ。
自分にどれだけ問い掛けても答えは出ない。だってもう、東條の恋人はいない。
「……片付けて帰ろうか。あんまり遅くなると母さん心配するし」
バケツとゴミを持って藤野に背を向ける東條に、藤野は言った。
「好きになるから!」
その言葉に東條は足を止める。
「もう一回、俺もお前のことを好きになるから! 絶対幸せにする! だから、だから」
泣くなよ。それは喉から出なかった。泣いているのは東條じゃなくて自分の方だ。自分の嗚咽でかき消されたから。涙が止まらない。死んでもこんなにカケラを残すくらいに、東條のことが好きなら、なんで死んだりしたんだよ。好きになりたい。東條に笑って欲しい。「慎」ではなく「俺」を見て欲しい。
その為には、知らなければいけない。
——どうして「慎」が死んだのか。
自分は、何を失ったのか。
現在持っている手札は少なく、またインターネットも無いので「藤野慎」に何があったかを知ることは難しい。処方シールに書かれている住所に行ってみれば何か手掛かりがつかめるかもしれないが、真紀子と豊を躱す理由が思いつかない。東條が実家に自分を連れてきた理由のひとつには万が一藤野が自分の行いに気がついた時、変な気を起こさないよう監視する人間が欲しかったのかもしれない。東條は家を空けることが多いから。
しかし藤野は思い出さなければならない。
少しの罪悪感はあったものの、真紀子を騙すのは簡単だった。
「え? 同窓会?」
「はい、そういえば今日だったなって思って。なので今日は都内に行ってきますね。東條とは現地で合流します。もし家に帰れそうな状況だったら帰りますね。その時は一報入れます」
「そうなの? 気をつけてね」
財布だけ持って外に出る。駅までの道は真紀子に地図を書いてもらった。あとは駅員にでも聞けばどうとでもなるだろう。無事にそこそこの都会まで来て電話ボックスに向かう。使い方はあやふやだがどうにかなる。藤野は財布の中のくしゃくしゃになった紙ナプキンに書かれた電話番号を打ち込むとコール音を聞きながら彼を待った。
「もしもし?」
「——赤崎か?」
「慎? え、なんで」
「時間がないから手短に聞く。お前東條になんか口止めされてんだろ。簡単に教えてくれ」
渋谷の喫茶店であった時、東條を見た赤崎は見るからにおかしかった。藤野の記憶ではふたりに接点はない。では何故、赤崎が東條を知っていたか? それはきっと「慎」が東條を赤崎に紹介したのだろう。赤崎はよくウチに出入りしていたから、なんらかの形で会ったに違いない。
「頼む」
「……慎は聞いたら傷つくと思う」
「それでもいいよ」
たのむ、真剣にそう言うと赤崎は言った。
「……今から都内これる?」
藤野の答えはひとつしかない。
「行く」
すぐに藤野は駅に向かう。ここから都内までの道筋は駅員の女性に聞いた。
赤崎の待つ喫茶店は前回と同じ場所だった。
ネット環境がしばらくなかった藤野には見覚えのないドリンクをテーブルに置いている。藤野は少し気になったけれど、なんだか新しいものを飲む気分にもなれなかったのでチョコレートラテのアイスを注文し赤崎の待つ席に向かった。
「なに飲んでんの」
「慎」
藤野は赤崎の向かいの席に座ると唇をドリンクで濡らす。
「ここまで来るのめっちゃ疲れたわ。休日朝の電車って混むのな」
「七生は?」
「来てないしここにいることも知らない」
どこか安心した表情で赤崎は「そう」と答えた。
「……で、なに。なに知りたいの」
「忘却剤を飲んだことは察した」
「知りたいのは七生のこと?」
「理解が早い親友で助かる」
ドリンクを一口飲む。それから赤崎はため息をついた。
「あたしから言えることは何もないに等しいよ。現にあたしは慎に何もしてやれなかったから」
「それが知りたいんだよ。俺はいったい何を忘れてるんだ?」
「大事なことだよ。あたしの口からは言えない」
「そこをなんとか、ってできない?」
「……慎さ、忘却剤についてどう思う?」
「は?」
突然何を、と思うが赤崎がそう言うのなら何か意味のあることなのだろう、自分の考えを藤野は嘘偽りなく口に出す。
「最悪な薬だと思う」
「七生の身内が作ってて、それに救われた人がいたとしても?」
「否定はしねえよ。救われたきゃ勝手に救われとけって思う。でも俺は忘却剤を飲んだ自分のことが嫌いだ」
だって、東條にあんな顔をさせた。
東條を悲しませた。
俺だったら、絶対あんな顔はさせないのに。
「あたしはさ、慎が薬飲んでくれてよかったと思ってるよ」
赤崎はそう言うとストローをマドラー代わりにしてドリンクをかき回す。からん、と軽い音がジャズが響く店内の音に混ざった。
「絶望してる慎を見るのが辛かった。自暴自棄になる慎を見たくなかった。あたしが好きな慎が壊れていくのを何もできずに見てることしかできなかった。だから、『あんた』になってよかったよ」
「でも、『俺』は東條が求めてる人間じゃないから」
「だから? もう七生なんて捨てろよ。あたしにしとけば、大事にするよ」
「ふざけろ。お前をそんな目で見るとか絶対ありえんわ」
「男嫌いの慎も結局男と付き合ったじゃん?」
「それはそうかもだけどさ、奇跡ってのが起こったんじゃねーの? 知らんけど」
藤野は慎がどうして東條を好きになったのかを知らない。なんとなくわかる気はするけれど。多分、東條が昔の藤野のようにキャラを作っておらず、あのままの性格が素なのだとしたら、そういうところに救われたのだと思う。
「あー、わかったよ。あんたんちの玄関のポスト」
「ポスト?」
「慎の家のポストの中、上にテープで合い鍵貼ってあるんだよ。まだ合鍵あるかもしれない。七生に回収されてなければ……」
そういえば、そんなことしていた気がする。藤野は飲み会で泥酔して帰ってくることが多く、東條と出会った合コンの時もそうだが荷物をどこかにやってしまう癖がある。その度に赤崎が荷物を届けに来てくれていたのだが、次の日起きれない藤野に呆れた赤崎がそうしろと冗談で言って、藤野はそれをいい案だと真に受けて。あ、なんで忘れてたんだろう。
「それで全部わかると思うよ。……それがあんたの幸せになるかはわからないけど」
「……お前はあんまりいい顔しないのな。俺が記憶を取り戻すこと」
「あんたに辛い思いさせたくないんだよ」
無言の時間が喫茶店を過ぎる。周りの話し声やコーヒーを抽出する音がやけに大きく聞こえた。どんな秘密が家にあるんだろう。そう不安がっていると赤崎はうかがうように言う。
「……ついていこうか」
藤野はその提案に乗ろうと思ったが断わった。
なんだかこれは、ひとりでなんとかしなければいけない気がしたから。
家までは一時間ほど。その間を落ち着かない気持ちで車内で過ごした。駅から出て、家までの道を走る。
よく晴れた日だった。雲一つない、太陽がアスファルトを焼く、そんな日。アブラゼミの声が余計暑さを助長させる。だけど冷や汗が、嫌な予感が、身体を冷やす。玄関の火傷しそうなくらいアルミの郵便受けを覗くとスペアキーが見つかった。震える手で鍵穴を開ける。何を怖がっている? たかが家に帰るだけだろう。何もない。家には誰もいないはずだし。内鍵も閉めず慌てて中に入り全ての部屋のドアを開ける。記憶では客間として使われていたはずの和室。襖を音を立てて開けて。それを視界に入れた瞬間、蝉の声が止んだ。
「は……?」
自分の暮らしていた客間には仏壇がある。ウチには仏壇は無かったはずだ。こんなもの、いつから。
それに。
「なんだよ、この写真……」
母親の写真が仏壇に飾られている。なんで、誰がこんな、母は普通に生きているはずで、誰がこんな悪趣味な。
そうだ、とハッとする。電話をしよう。あっちは仕事中でも関係ない。今すぐにでもこの心の不安とざらざらを無くしたかった。スマホはない、だったら固定電話。と立ち上がって、立ち尽くした。思い出せない。母の携帯の番号を。どうして。
「……まこと」
置いてきたはずの東條の声がした。部屋の入り口を確認しなくてもわかる。この家の鍵を持っているのは家族の他には恋人である東條しかいないだろう。
「そろそろだと思った。迎えに来たよ」
「……なにか、しってるのか?」
「……」
「……東條」
「お母さまが亡くなったのは、冬のことだったよ」
すとん、と嫌な予想がパズルの空きにはまったように現実としておさまった。
「俺、そんなの、おぼえてない……」
掠れた声が喉から出る。小さく震えていて自分のことながら今にも消えてしまいそうだ。
「ずっと寝てたから。病院で」
「病院?」
「忘却材の過剰摂取による副作用。記憶の混濁、過剰睡眠、社会での生活は不可能と判断。が、医師の見解。この前やっと退院できたけど、慎にはここ数カ月の記憶が抜け落ちてた。お母さまのことも、僕と出会った時のことも、何も覚えてなかった。だけどそんな場合でも薬飲まないと苦しむから、実家でも忘却剤を飲むしかなくて。何も思わなかった? 寝る前に薬飲むこと」
「……うそ」
「嘘じゃない」
東條が語ったのは、藤野にとって受け入れ難い事実だった。母が死んだ? そんなわけない。でも、目の前に証拠がある。それに、もしそれが真実なら全てに納得がいくのだ。
「だって、全部覚えてる、声も……」
声、覚えてない。
「声も……」
「……慎」
人は、声から忘れるらしい。そう教えてくれたのは母親だったか。その声も、思い出せない。二十なん年も聞いてたのに、思い出せない。
「なんで、なんで覚えてないの、何も覚えてない、親のことも、東條の事も、何も」
息が苦しい、楽になりたい。忘れたい。思い出したくない。
「それだけ辛かったんだろうね。しょうがない。今日も薬を飲もう。そうしたらまた幸せに過ごせる」
東條は鞄から小さなジッパーで個包装された錠剤を取り出す。
「今まで通り、薬を飲めば大丈夫、僕が代わりに精神科に行ってるから忘却剤はある。平気だよ。慎は何も心配しなくていい」
思い出したくない。それでも。
「やだ」
「まこと」
「薬は飲まない!」
思ったより大きな声が出て、はっとする。でも、止まれなかった。
「母さんが死んでるのは理解できない、信じたくない。でも、信じたくないけど、これが現実なんだろ? じゃあもう、忘れたって何も変わらないだろ! 生き返らないんだよ! そんなことしても!」
「だってそうしなきゃ慎は僕を置いていくだろ」
震えた声で東條は言う。
「また自殺されたら? 耐えられない、もう慎を失いたくない」
何があったか、詳しくは把握していない。でも、『慎』が自殺したのは事実だ。それは自分の記憶が証明している。でも、『慎』はそうだったとしても『藤野』はそうしたくない。死にたくない。だって。
「置いていかない。絶対に。だって俺は忘れるなんて選択肢、選ばないからな。だからそんなものは捨てろ」
「慎……」
「だってそれで何が解決するんだよ。お前が辛い思いするだけだろ」
だって、藤野が忘れたらまた東條が全て抱え込む。藤野の悩みも、辛さも、全部抱えていこうとする。確かに、忘れた方がいいこともある。でも。
「忘れたくない。辛くても、全部無かったことにしたくない。ちゃんと、現実に向き合いたい」
受け入れたいと思った。忘れたところで母は帰ってこない。
「これ以上真綿に包まれて生活するのは嫌だ。辛くてもいい」
東條の抱えているものを分け与えてもらえるのなら、この涙が出そうな現実も受け入れたい。
「……慎、だめだ」
「東條と一緒にいたい、『俺』じゃなきゃ嫌だ。他の『俺』に渡したくない」
「飲まなきゃ、きみは壊れるよ。薬を飲もう、慎」
「そうしたら何か解決するんだよ? 母さんは生き返るのか?」
「……それは」
「忘れさせて表面上だけ問題なく過ごすなんて、そんなの、東條の勝手だ。俺は俺のままでいたい」
他の誰にも、どの自分にも東條のことを渡したくない。記憶が人格を形成するのなら、どの記憶だって人ひとりのピースで、欠けてはいけない。辛くても、「俺」が東條の隣にいたいのだ。
「『俺』を見てよ、東條。顔や身体が同じだけの『藤野慎』じゃない。今、目の前でお前を見ている『俺』のことを」
だけど彼の口から出てきたのは謝罪だった。
「……ごめん」
「俺と『慎』は何が違う?」
「ごめん」
東條はそれだけ言って黙り込んでしまった。
「……あのさ、東條。慎じゃなくて、俺を好きになる可能性ってワンチャンある?」
「……ごめん」
「……謝んなよ。ごめんはこっちのセリフ。俺なんかが恋人の身体を奪ってごめんな」
なんで、自分は生まれたんだろう。
慎が起きてくれれば東條は喜ぶのに、藤野なんかが生まれてしまった。
それで、東條のことを気に入ってしまった。
傍にいたい、喜ばせたいなんて思ってしまった。
「最初は意味わかんなかった。いきなり拉致されて、実家行かされてさ。でも、ちょっと一緒にいて、一緒にいる時間がすごく大切になって。お前は俺の事一番に考えてくれてるし、大切にされるのは久しぶりで心地よかった。隣にいたいって気づくのに時間はかかんなかった」
好きかはまだわからない。でも、寄り添いたい。
辛いなら傍にいたい。
彼を辛くしているのは藤野の存在自身なのだけど。
「俺と『慎』は違う。同じになれない。そいつより今の『俺』を見てほしいって思う。でも、もし東條が望むなら」
こんなの口に出したくない。
「俺は『慎』になれるように演じるよ。お前に笑顔になってほしいから」
でも、選んでもらえないなら、好きになってもらえないなら、東條が『慎』を求めているなら、こうするしかないじゃないか。ずっと世話をさせて、好きな人は一生帰ってこなくてって、そこまで尽くしてくれる東條に返せるものなんてこれしかない。演じているうちに人格が統合して理想の自分になれるかも、なんて思わない。藤野は『慎』に戻ることが出来ない。なら、もう。
だけど、東條はふるふると首を振る、その表情は今にも泣きそうだった。
「そんな顔をさせたいわけじゃないんだ」
そんなの、こっちだってそうだよ。わかれ、馬鹿。
それから、東條は話してくれた。自分と、それから『慎』の話を。
「頑張ってるの、俺はちゃんと見てる」
自分はどうも要領が良くなくて、人一倍頑張らないと何も出来なかった。だから沢山沢山勉強して親が言うまま叔父の病院で働くために大学の医学部にストレート合格した。でも受かってしまったら今までよりもっと大変で、それなのに周りからは優等生扱いされる毎日だから疲弊していたのだ。周りから見た自分はハリボテで、本当は、何してもダメな人間。たった一人でよかった。誰かに知ってほしいと、認めてほしいと叫び出しそうになるくらいの毎日。そんな時、慎はそばにいてくれた。
「よくやるね~」
慎はカフェテリアで勉強する自分にいつも酒を持ってついてきた。学部が違うから毎日ではないけれど、空きコマが出来たらなんとなく集合する。何するでもない慎をあの時は不思議に思っていた。
「……完璧じゃなきゃいけないから」
「完璧?」
「親の求める完璧な息子でいなきゃならない。命を扱う仕事なら尚更。ひとつのミスも許されない」
「そりゃそうか。若人よ、勉学に励め~~」
学年は同じだけれど慎は七生よりいくつか歳上だ。薬学部で、結構遊び人と言う噂がちらほら飛び交っている。いつも会うと酔っ払っていて、教授に怒られているのも見たことある。アル中寸前のやばいやつ。友達としてなら一緒にいて楽しいけれど、これと一緒になる人は大変だな、なんて未来の自分に笑われるような印象を持っていた。そんな慎は自分の向かいでポチポチとスマホゲームをしている。大きな音が勉強の邪魔だ。
「……音うるさいんだけど。勉強の邪魔だからどっか行って」
「邪魔してんだよ」
「は?」
なんなんだコイツ、と思う前に缶ジュースがコロコロと自分の元に転がってきた。机から転げ落ちそうだったものを慌てて受け止めると、慎はこちらを一瞥もせずに口を開いた。
「お前、頑張りすぎ。俺の前くらい少しは休め」
「休……? 必要ない、もっと頑張らないと」
そう言うと、慎は七生を顔を指差し眉間に皺を寄せる。
「目のクマやべーんだよ! お前、ちゃんと寝てるか? 食ってるか?」
「……でも」
「でももクソもねえよ」
慎はそう言うと七生の手元にあるノートを取り上げる。
「俺が近くにいる時は俺に構え。これ歳上命令な」
それから、慎は七生の頭を優しく撫でた。
「お前が頑張ってるの、俺はちゃんと見てる。勉強とかもどんどん頑張ればいい。だけど、そのせいで息が詰まりそうならせめて俺を息抜き場所にしろ。サボってるなんて誰にも言わせねえからさ」
「……そう見えるの」
「俺的には?」
そう笑う彼を、太陽みたいだと思った。好きだと気づいたのは、それからすぐ。二人でいる時間がなによりも大切になっていると自覚してから。
「好き、なんだけど」
友達でしかない七生の告白を慎は笑い飛ばさなかった。
「……俺とどうなりたいの?」
「付き合いたい。死ぬまで一緒にいてほしい」
「あはは、直球。でもお前から言われるのは悪くない気分だ」
いいよ、と七生の好意はあっさりと受け入れられた。「先に死ぬなよ」そう笑う彼はやっぱり太陽のようで、好きだと顔を合わせる度に、姿を思い出す度に何度も思い直した。何回だって恋をして、ずっとこんな生活が続くと思っていた。
「……え」
「ごめん、別れて」
「なんで」
「もう二度と会うつもりない。じゃあな」
別れを告げられたのは突然の事だった。昨日まで仲良く笑ってたのに、どうして急に。夏休みの暑い、日差しに肌が焼けてしまいそうな日の事だった。いまだに覚えている。慎の家に走ったあの日のカラッとした空気。暗いものが全て似合わないような、雲ひとつない青空。やがて、自宅につきチャイムを鳴らす。出ない、出ない、出ない。ダメ元でドアノブに手をかけると、玄関のドアは開いていた。
「慎……?」
自宅には何回か来たことがある。慎の部屋は玄関からすぐのはずだ。
「まこと……? どこに……」
ガタッと大きなものが落ちる音が漏れた。きっと慎の部屋からだ。何かあったに違いない。ノックもせずに部屋を開けるとそこには倒れている慎の姿があった。首にはベルトが括られている。どうやら身体をベルトで繋いでいたカーテンレールが折れて落ちたらしい。自殺を考えていたのだろう。そうすぐに理解した。
「慎!? ねえ、慎!?」
息はしているがぐったりしている。床に散らばった睡眠薬のせいだろうか。とにかく救急を呼ばなければ。何時間にも思えるような時間を待ち、慎は身内の病院に運ばれた。命に別状は無く、後遺症も無かったが、目覚めた時、慎の目の輝きは失われていた。
「……東條、来てたのか」
「調子は?」
「明日には退院。でもすぐに精神病棟行きだってさ」
自嘲気味に慎はそう言う。
「……ご家族の話、聞いた」
慎の母が、亡くなった。海外赴任から帰ってくる日に飛行機事故があって、それに巻き込まれたらしい。夫人はとても良い人で、慎から話はいつも聞いていたし、挨拶に来いと慎に言われ会ったこともある。息子から恋人だと紹介されても「歳下の男の子なんてアンタよく捕まえたわね!」なんて笑って受け入れてくれる人で、七生はあの家の空気が好きだった。
「……俺、浪人してたって話したっけ」
「ちょっとだけ」
「親にかなり迷惑かけてさ、だから親孝行したかったんだけど……もう出来ないんだな」
「……うん」
なんと言えば良いのかわからなかった。
「……だからって慎まで死ぬ必要ないだろ」
「だってどうしていいかわかんないから。ウチ、結婚する時ごたついててさ、親戚とかとも縁切ってるわけ。だから、ああ、ひとりぼっちになっちゃったって思ったら目の前が真っ暗になって」
「ひとりじゃない」
視界が滲む。これが正解かなんてわからない。だけど、自分がこう思っている、と言うことは彼に伝えておきたかった。
「僕がいる。絶対にひとりにしない」
「……なんでお前が泣くの」
「慎が泣かないから」
「……変なの」
そう言った慎の表情は、ここを訪れた時よりも少し強張りが解けていて、ちゃんと伝わったのだと。
思っていた。
「……は?」
それから精神病棟を退院してすぐ、また慎は忘却剤をオーバードーズした。今度は慎は起きなかった。次に目を覚ました時、慎は自分の知っている慎ではなく「藤野慎」という新しい人格で目の前に現れた。
——未だに慎は目を覚まさない。
「……きみが嫌いなわけじゃないんだ」
東條はその時初めて『藤野』をそう呼んだ。東條にとっての藤野は恋人ではない。
「素敵だと思う。好きだって言われてうれしいし、慎の件がバレなければずっと一緒にあそこで暮らそうと思ってた。でも、じゃあきみを慎の代わりに、なんて思えないんだ。僕の恋人は慎だけで、それは、たぶん変われない」
「一途だな」
「……好きだったから、本当に」
自分には何が結局足りなかったのだろう。『慎』と『藤野』はどう違う? どうしたら東條の傍にいられる?
でも、そんな問答には意味は無い。記憶が人格を構成するなら、東條との思い出が大きく抜け落ちている時点でもうそれは別人なのだ。東條と出会えた人間が『慎』で出会えなかった人間が『藤野』。
そんなのは東條もわかってるのに。
「なあ、なんで嘘までついて俺を拉致したの。もう俺はお前の恋人じゃないのに」
「わかんないんだ」
「え?」
「慎じゃないなら、放っておけばよかった。なのにダメだった」
東條はそう言うと口をつぐんだ。もしかして、と考えてしまう。
もし、奇跡があるとして彼が『藤野』を好きになってくれることはあるのだろうか。
「帰ろうか」
東條がフローリングに座り込む俺に手を差し出す。藤野はその腕に手を伸ばしかけて、それを下した。
「帰れない」
「……僕が嘘ついたから? 確かに、この家の周辺に怖い人はいないよ。でも親も待ってるし……」
「違う。すこしだけ、『俺』を捨てる準備をさせて」
東條はそれを聞いて差し伸べた手を戻す。藤野はそれを見て続けた。
「東條の親御さんも求めてるのは『慎』の方だろ? だから色々情報集めて『それっぽく』なれるように頑張るよ。だからさ、しばらくしたら迎えに来て」
彼は、少しうつむいた。
「心配すんなよ、いろいろ『慎』を調べて、ちゃんと演じられるようにするから。だから、それまで距離置こう?」
「……なんで、そこまでしてくれるの」
「大切にしてくれた分、お前を大切にしたいから」
それ以外、あるわけないじゃないか。
好きなんて感情、はっきりとはわからない。
だけど身体がそう言ってるんだ。心じゃない、慎と連なった身体が「東條をひとりにするな」と叫んでいる。他の人間にそんなことは思わない。恋の定義はわからないけれど、どんな形でも隣にいたい。
東條は何か言いたそうにして、けれど何も言わずに藤野の部屋を立ち去った。
「……だってしょうがないじゃん……」
みんな『慎』を求めてる。
『藤野』はいらない。
そういうことだろう?
東條家に電話をして、しばらく戻らないことを告げた。
真紀子はそれを聞いて「……そう」となんとも言えない声で落胆したし、豊は何か力になると言ってくれた。だが、頼ることは無いだろう。豊と真紀子の前の慎は、本来の慎とは違う可能性があるから。彼が酒を事前に用意していたら、人格を作るための参考資料としては使えない。
だが、いろいろ自室の家探しをしても、めぼしいものはひとつも見つからなかった。日記のひとつでもあればいいのだが、あいにくズボラな自分はそんなもの続いたことがない。慎と藤野は別の人間だが、東條に出会う前の根本の人生は同じだ。性格が大きく変わったということは無いし基本的な考え方は同じだろう。
「……そうだ、スマホ」
要は東條に接していた時の自分をトレースすればいいのだ。普段自分が東條にどう接していたか理解すればいい。藤野は部屋を見渡す。東條は荷物までは部屋にもっていっていなかったようで、自室に電源の切れたスマートフォンが放ってあった。電源に挿して数秒待つ。すぐに起動し、壁紙を見て唖然とした。
「うわ」
盗撮だろう、東條の寝顔が設定されていた。
「めっちゃ好きじゃん……」
藤野は、少なくとも藤野が把握している『藤野慎』は誰かを好きになることはなかった。女の子は来るもの拒まず、去る者負わず、上っ面だけで他人を信用しない、誰かに情を抱くことも無い。なのにどうやら慎は東條のことが好きだったらしい。メッセージを確認すると、返事こそそっけなかったものの、母親が死んだ時だろう。その日まで毎日連絡は取りあっていたようだった。幸せだったんだろうな。
形に残らないせいでどんな会話をしていたのかはわからない。だけど、東條にとって慎は大切で、慎にとっても東條は大切だったことはわかる。
「……なんだよ、やっぱり入る隙無いじゃん」
わかっていたけど、ちょっとだけ奇跡が起きるかとか、ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ期待していた。藤野のままでいいと、言われるのを。でも、慎になるのを止められなかった時点でお察しだろう。東條も誰も彼も、藤野のことはなんとも。
何かないだろうかとほかの人間へのメッセージも見る。
「ん……?」
直近のトークを見ていて、ひとりだけ様子が違う話をしているのに気が付いた。
赤崎だ。
「そういえば……」
そういえば赤崎は慎と東條の関係を知っているようだった。彼なら当時の慎を知っているかもしれない。藤野は赤崎に連絡を取ると速攻で既読が付き、直接話そうということになった。
「……知ってるよ、全部」
記憶が無い間の藤野慎について都内の喫茶店の喫煙席で赤崎は苦々しく呟いた。多分、慎は唯一自分にだけは東條とのことを話していたと思う。そう付け足して。
「慎は七生を溺愛してた。最初はからかってるだけだったけど。勉強ばっかしてる七生を見てちょっかい出してくるって言って。会うときは男怖いのに酒飲んでまで頑張って。七生が無理してるの、見てらんなかったんだと思う」
「……それで仲良くなって付き合って?」
「そう。幸せそうだった。よく惚気聞かされたよ」
「それは申し訳ないけど」
「いいよ、あたしはお前が幸せそうで嬉しかったし。でもさ、おばさんが死んじゃった時はダメだった。泣いてたよ。七生に言われたことで」
何を言われたんだろう。でも、その先はなんとなくわかっていた。
「『自分がこれから慎の家族になるよ』って。七生は多分悪気ないよ。それ言われて喜ぶ人もいると思う。でも、慎は駄目だったんだ。おばさんの代わりはいないし、他人とはずっといっしょにはいられないって思ってたから」
慎の気持ちはわかる。血縁であっても、愛情の永遠はない。祖父の件でそれを知っていた。だから不安になったんだろう。最初はそう言ってくれる。でも、その先は? 東條にまで捨てられたらどうしたらいい? なんてこと。
「だから、おばさんの死自体を忘れることを選んだ。薬を飲んで、死んだ事実と覚えてないことで混乱してどんどんおかしくなって、いつの間にか量が増えて。オーバードーズして入院。七生のことをすっぽり忘れたのは奇跡だよ。これで楽になるんだな、ってあたしは安心してた。七生は忘れられたら諦めると思ったんだ。甘かった」
拉致するとは思ってなかった。それはそうだろう。正常な人間なら記憶が無い人間を拉致して監禁しようなんて思わない。しかも親ぐるみで。
「ここからはあんたが体験した通り。……あたしは協力するよ?」
「え、何に?」
「七生のところから逃げるんでしょ? あたしのところに来ればいい。あんたの家は割れてるし鍵も持ってると思うけど、さすがにあたしの家までは知らないはず」
赤崎が何を言っているのか、頭の半分では理解していて、もう片方は理解できていなかった。そうだよな、と冷静な方の頭で思う。変だよな。拉致されて、薬漬けにされて、それでも一緒にいようだなんて。でも、思うんだ。
「ありがとう、でもごめん」
好き、が何なのかわからない。もしかしたらこれは違う感情なのかもしれない。
でも、でも。
「俺、東條と一緒にいたいんだ。だからあいつのところに帰るよ」
子どもみたいな寝顔。わがままな藤野に付き合ってくれたこと。藤野ではなく、慎が目当てだったとしても、自分のことを愛してくれたこと。全部本当じゃないものだったとしても、嘘だらけだったとしても、藤野はどうしても東條を嫌いになれない。
「は……? 何言ってんの、あいつに何されたと」
「変だよな」
そう笑うと、赤崎は下唇を噛んで悔しそうに顔をゆがめた。
「……本気で思ってるなら、病気だよ」
「…………うん」
ごめん、それしか言えなかった。
赤崎が正しい。藤野は医者ではないからわからないけれど、自分はおかしい。
家に帰って仏壇を見ると辛くて、死にたくて忘れたくて。でも薬はもう飲まないと決めた。
その日は久しぶりに薬ではなく酒に逃げた。
藤野は酒に強いので深酒した次の日も比較的次に持ち越すようなことはない。出して寝たら抜けるので二日酔いの類はしたことがないのが密かな自慢だ。
「朝か……」
時刻は朝五時。本日の気温はこの夏最高が予想されるとお天気お姉さんが言っている。そう言えば真紀子と豊にはあれだけよくしてもらったのに顔を見てお別れも言えなかったな、とぼうっとした頭で考える。でも騙されていたし、彼らも別に藤野を求めているわけではない。慎になりきれるようになったらまた詫びがてら遊びに行けばいいだろう。
今日は何をしようか。正直手詰まり感はある。スマートフォンの中には大した手掛かりはなかったし、赤崎からもあれ以上引き出すものもなさそうだ。処方を出した精神科に行って記憶を無くしていないふりをして話を聞きだすのもいいけれど、精神科の予約には時間がかかる。今日すぐに、というのは無理だろうし、行ったところで精神のプロと駆け引きするのは成功する気がしない。記憶が無いのはすぐばれるか、最悪病名が付いて面倒なことになる。
「……アレクサ、記憶を取り戻す方法って何?」
『よくわかりません』
「だよなー」
藤野の小さな脳みそをひっくり返しても、記憶の仮死から回復した判例はないはずだ。
「……ないよな?」
あいにく成績が最下層なので自信がない。ここは図書館にでも行って調べてみるしかないか。
……と、来てみたものの。
「ないな……」
アパートから徒歩十五分の図書館に来てみたものの、結果的にはエアコン代の節約にしかならなかった。忘却剤自体が新しい薬で、歴史が浅いということもある。まだ仮死の対策がされていないのだ。開発されてからのメディア記事をどれだけ漁っても仮死になった例はあっても記憶が戻ったという記事はない。
「無駄足……」
図書館を出たのは夕方前。適当にコンビニで夕飯を買いアパートに戻る。すると、自分の部屋の前で人影が倒れていた。遠目から見ておそらく男だろう。
「な、ええ⁉ ちょ、大丈夫ですか⁉」
駆け寄ってみると倒れていたのは東條だった。どうして、千葉にいるはずじゃ、と思ったがそれよりも倒れている東條を何とかしなければ。頬に触れると驚くくらい身体は熱を持っていた。おそらく熱中症かもしれない。OS1を開け、東條に手渡す。買っておいてよかった。
「なんでこんなところに……。って言うか身体熱いんだけどいつから待ってたの⁉」
「あさのじゅうじから……」
「ほぼ一日中じゃん! とりあえず家で横になれ!」
ぐったりとした東條を引きずり、母の仏壇のある自室に連れて行く。敷きっぱなしだった布団に投げ捨てる。確か塩タブレットは母の教えで夏は常備してたから一粒くらいは残っているのではないだろうか。飴入れになっているシュガーポットの覗くと三粒残っていた。ポットごと持っていくことにする。それと氷嚢……。氷枕ならいくつかあったはずだ。それでいいか。
塩タブレットとOS1を口に含ませ、枕元に腰掛ける。東條の具合は良くないが、意識もあるし救急車を呼ぶレベルではないだろう。少し休ませれば何とかなるはずだ。
「……なんでこんなことしたの。スマホ見てなかった俺も悪いけど、お前鍵の場所知ってるんだから普通に入ってくればよかったじゃん」
元々図書館に行く予定だったからスマートフォンは家に置いてきていたのだ。この数週間でスマートフォンがない生活に慣れ切っていたし、図書館内では使うことも無いので。だが、先ほど確認したら何件も東條から電話がかかってきていて、心配をかけたであろうことがわかった。それは慎を心配しているのであって、藤野を心配しているのではないのだろうけど。
「……れんらくつかないから、きらわれたかとおもって。きらわれたならかってにはいるのももっときらわれるだろうし」
「お前のこと嫌いになるわけないじゃん。もう少し待てよ、ちゃんと慎にそっくりになれるように頑張るから」
「まことじゃなくて、きみにあいたかった」
「は?」
藤野に? まさか、聞き間違いだろう。
「ゆめにでてきて、いてもたってもいられなくなって」
「それ慎じゃねえの」
「ううん」
体調が悪い癖に、やけにはっきりと東條は言う。
「きみのほうがしあわせそうにわらう。……まことのわらったかおは、もうおぼえてないんだ。ずっとないてたから」
母が亡くなってから、おそらく慎の笑顔は減ったのだろう。気持ちは痛いほどわかる。たったひとりの身内を亡くしたらきっと藤野だってそうなる。藤野が泣かないのは、東條がいるからだ。彼がいるから、心なんか折っている時間はない。早く東條に慎を返さなければ、という思いが母の死以上に藤野の心を先行させていた。
「……慎のこともっと教えてくれよ」
「おさけばっかのんでて、へびーすもーかーで、おれさまで、わがままだったよ。おかねたかるし」
「なんでそんなクズ好きになったんだか」
藤野の記憶では自分はそこまでクズではなかったのだが、東條の前ではそうだったらしい。普通に嫌だな。
「でもね、まことはやさしいんだ。つめたくしても、ぼくのこときにしてくれてて、はじめてだれかにかまってもらえて、うれしかった」
「そんなの……」
そんなの、俺だってできる。
俺の方が優しくできる。
慎、東條のこと捨てたなら俺にくれよ。なんで捨てたの。俺ならもっと大事にする。
「すきだったんだあ。もう、ないてるすがたしかおもいだせないんだけどね」
体力の限界だったのだろう、東條はうとうとし始めていて、藤野は「もういいよ」と目を覆ってやった。身体の力が抜けていき、すぐに寝息が聞こえてくる。
「……俺を選んでくれたらいいのに」
泣いてる姿しか見せない男なんて忘れてしまえ。
「俺を見てよ……」
わかってる。東條は慎のことが好きで、藤野のことは何とも思ってない。
だから騙した。記憶の連なりで人格は構成される。だと言うのに少量——理由は依存発作で苦しむ姿を見たくなかっただろうということはわかるが、薬を飲まされた。藤野の人格は一度否定されている。その程度にしか思われていない。今日夢に出てきたらしいが、たぶんそれは慎と見間違えたのだろう。見た目は一緒だから。
思うことがある。
慎のことを理解して、演じられて、東條を満足させられるような恋人になって。
それで自分は正気を保っていられるのだろうか。
今、こんなに慎に嫉妬して、こんなにこっちを見てほしいのに、嫌いなヤツのふりをしてこれから一生を生きるなんて耐えきれる自信がない。
どうしたらいいんだろう。
自分の幸せと東條の幸せ、どっちをとればいいかなんて考えなくてもわかる。だって藤野はもともといない人間だ。突発的、何かの間違いで生まれた人間に幸せなんて必要ない。慎の身体なのだから、慎に返すべきだ。もういないならフリをしてでも生かすべきだ。
「……やだ……」
頭ではわかってるのに。
藤野は、藤野のまま生きていきたいと思ってしまう。
藤野のまま愛されたいと思ってしまう。好きになってほしい。愛してほしい。「慎」じゃなくて、「きみ」でもなくて、名前で呼んでほしい。
ああ、そうだ。ばかだ。おおばかだ。
——俺には、名前すらないじゃないか。
東條が起きたのは時計の短針がてっぺんを過ぎたころだった。それまで藤野は仮死について調べたり、家探しをしてみたり、東條の眠りを邪魔しない範囲で頑張っていたが何も収穫は無し。東條と母の死に関することだけすっかり抜け落ちていて、これも慎の面倒なところが出ているのだが、交際中の自分の対応の証拠の一切を残していない。きっと年上風吹かせて恰好つけてたのではないだろうか? スマートフォンの待ち受けにするくらいは彼氏のことが好きなくせにめんどくさいやつ。藤野は慎のことが嫌いだ。死ねばいいと思うがすでに死んでいるのでこの感情をどうしていいかわからない。
「……ねてたの」
「おはよう、って言っても夜だけど」
「記憶が無い」
「倒れてたからな。熱中症。救急呼ぶレベルじゃなかったから呼ばなかったけど体調はどうだ?」
「大丈夫」
少し休憩しようと思い、調査を止めて東條の様子を見ながらネットを徘徊していると東條が目を覚ました。どうやら具合はよくなったようだ。顔色が良い。
「今日は泊っていけよ」
「きみはどこで寝るの」
ソファは無いし、客用布団はないし。まあ徹夜か床で寝るかだろう。気にしないでいいと答えると、東條は掛布団を持ち上げる。
「一緒に寝よ」
「……マジで意識されてないってか」
そうだよな、俺は慎じゃないもんな。
藤野は少し嫌な気持ちになったが、身体が疲れていたのは事実だ。東條が良いなら布団に一緒に入らせてもらう。先ほどからエアコンをガンガンにつけていて身体が冷えてしまっていてたまらない。
薄手の布団の中に潜り込むと東條が腰に手を回してきた。
「ちょ……! なに……」
「さむい……」
「じゃあエアコンの温度上げるから」
「ちがう」
それから力を込めて抱きしめられる。強く、絶対に離さないとでも言うように。
「さむいのはきらい、ひとりはもういやだ……」
「……っ」
これは、想像でしかないけれど。
慎と東條はいつも一緒に寝てたんじゃないのかな。この人はさみしがりで、きっと慎もそれはわかっていたと思うし。もし、そうだとしたら、自分がやるべきことは。
藤野は東條の腕の中で向きを変えて向かい合う。それから自分も腕を回して東條を抱きしめた。
「ここにいるよ」
あなたの本当にいてほしい人はいないのだけど、代わりはいる。
ねえ、俺はここにいるよ。俺なら、ずっと一緒にいれる。
一緒に寝よう、一緒に手をつないでどこかに行こう、ふたりで暮らすのもいいし、これからもずっといてあげる。だから、俺を選んでくれないかな。
無理なのは、わかってるんだけど。
泣きたくなった。自分はこの人に何もしてあげられない。代わりにしかならない。その代わりは求められてない。どうすればいい? どうすればこの人を幸せにできる?
この人をあたためられれば、もう他には何もいらない。
——神様、おねがいです。
消えたくない、俺を見てほしい。でも、この子が幸せになれるなら、この子が幸せなら——俺は消えてもいいから、慎を返してあげてください。
その日は抱きしめあって寝たけれど、ちっとも温かさは感じなかった。
朝起きたら、隣に東條はいなかった。
朝、といってももう昼の一時だ。寝すぎてしまった。今日は平日だし、おそらくバイトだろう。お盆以外は塾の夏期講習で忙しいと実家でこぼしていた気がする。藤野は母に線香を上げると「さて」と立ち上がった。今日は何をしようか。仮死状態から回復する方法は実質ないとなると、やはりなにか慎の人格に関わる手掛かりを見つけてそこに寄せていくしかないのだが。
「日記とかあればいいんだけど……」
家探しをしたがそのようなものは無かった。というか、そんなものを書くはずがない。藤野と慎は途中までは同じ人生を歩んでいるので、根本は同じ。つまり極度のめんどくさがり屋なのは共通なのだ。
「恋したからって大きく変わるはず、いや、俺なら待ち受けを彼氏の写真にはしない……」
はたして浮かれていたのか、はたまた慎と藤野が全く別の人間になるくらいの何かがあったのかは知らない。赤崎が言っていたように慎が東條を溺愛していたのは本当だろうけれど。
スマートフォンを振っても中身を見てもカバーを外しても何も出てこない。アナログでないならデジタルだと思ったんだが。藤野は心に言いたいことをとどめておけないタイプで、よく匿名掲示板や匿名ブログを利用していたし……。
「そうだ、ブログ……!」
藤野が「そう」なら、慎も「そう」だ。
慎だって絶対に心にとどめておけない。赤崎には惚気ていたらしいが、全てを話していたわけではないだろう。そして元々女の子が好きな慎は男と付き合っているなんて他に口外しないはずだ。
ブラウザを開いてブックマークと履歴を見る。まとめサイト、動画サイト、通販、匿名掲示板……。個人のブログらしきものは……。
「……あった」
多分これだ。
「シン」というユーザーのブログ。このサイトだけ書き手として自動ログインされている。Cookieがまだ残っているのだ。めんどくさがりでよかった。おそらく名前の由来は「慎」の読み方を変えたのだろう。アイコンは星空の写真。夏の大三角形が鮮明に映っている。そういえば、星が綺麗って言ってたな。きっと千葉で撮った写真だろう。星なんか見上げもしなかった。慎と藤野の差はそこなのかもしれない。
スクロールして、ブログを一記事ずつ読んでいく。
——頑張り屋って、頑張り方を間違えてるから結果が出ないんだよなって思う。
——そいつは一部の女子から高嶺の花扱いされている医学部の男だった。俺はよく知らなかったけど、合コンでちょっといいなと思った子を誘ったら「ごめん私なおくん(仮名)が好きなの」って。は? なら合コンくんなよ。って思ったけど、どうやらその「なおくん」は合コン呼ばれてバックレたらしい。A子ちゃん(仮名)は見事エサに釣られて来てしまったのだと。合コン慣れしてない潜在ビッチは初々しいね。
そんな「なおくん」に興味がわいて、親友に聞いてみた。どうやらなおくんはいつもカフェテリアの窓際の席で勉強しているらしい。図書室行けよって思ったけど、うちの大学の図書室って飲食禁止だから(どこもそうか)長居したい時不便なのかな。とにかく親友調べではいつもそこにいるらしいので、ちょっと見てみることにした。
すごいイケメンがいた。
あれで医学部はそりゃ女が群がるわってレベル。なにあれ。アイドル?
でもすごい険しい顔で勉強しててイケメンが台無し。いや、美人が台無し? 国語の成績悪かったからどう表現したらいいかわかんないけど、もったいないな、と思った。笑ったら絶対かわいいのに。男にかわいいって変か。
——今日「なおくん」に話しかけてみた。
男に話しかけるのはとても勇気がいるので、酒をしこたま飲んでから見に行った。向かい合って、近くで見て思ったのは「あ、この子もうだめだな」って。多分限界来てる。ろくに寝てないんだろう。目の隈が酷いし、顔は疲れ切っている。目はうつろで、常に眉間にしわが寄っていた。じーちゃんに虐められてた頃の自分にそっくりでなんかほっとけなかったから声をかけた。
なおくんはどうやら医療の家系のようで、親の期待を裏切らないために頑張っているらしい。女の子に聞いたら主席だって。それ以上なにめざしてんの? 本人は自分が出来が悪いって思ってるみたいだけど劣等生の俺から見ればスゲー奴だと思う。なんか見てらんないから強制的に息抜きさせてやろう、なんて。
——なおくんに懐かれた。
別に特別な事をした覚えはないけど、犬みたいについてくる。
なおくんに近づいてくる女の子にフラれた瞬間慰めてホテルにインとかできるからまあいいか。合コンについてくるのはやめてほしいけど……。
——なおくんに告白された。まじか。
男が男を好きになることがあるって知ってたけど、まさか自分が当事者になるとは。
でもいいかと思って承諾してしまった。
——今まで人を好きになるとかわかんなかったけど、なおのことは好きかもしれない。
今日俺が陰キャなのがバレた。家にかーちゃんが来てて、合い鍵で先に家にいたなおと鉢合わせて意気投合。付き合ってるのがバレた挙句、本性までバラされた。かーちゃん……。
自分の稼いだ金と親しか信用してなくて、本当はみんなで騒ぐよりゆっくりするのが好きで、初恋なんかしたことなくて、って大学内で作ってるキャラと剥離しすぎてて、嫌われるって焦ったけど、なおは「大丈夫だよ、好きだよ」って言ってくれた。
信じていいのかな?
——夏休みに入った。長期休みは嫌いだ。バーベキューとか海とか山とかほんとは嫌いなんだよ。いきたくねー。なんて話をなおにしたら、夏休み中はなおの実家で過ごすことになった。他の仲間には「じーちゃんが腰悪くして手伝いに行かなきゃいけなくて~」とか言ったけど、十歳以降じーちゃんと会ったことねえわ。嫌いだしな。
なおの家庭はいろいろあるみたいで、今は祖父母の家に居候してるらしい。でも、その人たちは「なおの親です」って紹介してくれたし、居候って思ってるのお前だけじゃね? って飯中に言ったら、なおは「父さんと母さんって呼んでいいの?」ってご両親に言ってた。ご両親には泣かれた。まじかーってなったけど俺、ひとつの家庭を救っちゃいましたか(笑)
——なおが付き合ってるのご両親にバラした。
驚かれたし何度も確認されたけど反対されることはなかった。
「ウチを第二の実家だと思って……」とか言われてしまった。ちょっと嬉しい。
——夏休み最終日前日になった。
海で花火をした。東京ではあんまり気にしなかったけど、田舎だからか星が綺麗で、花火が終わってもしばらく海にいた。また「来年もくる?」ってなおに言われたから「気が向いたらな」って答えた。なおのことは信じてるし別れることは無いとは思うけど、絶対ってないし。未来の話をするのが俺は苦手だ。
——母さんが死んだ。
飛行機事故だった。色々やることはやった。
これからどうしよう。ひとりぼっちだ。
——病院で忘却剤を処方された。そういう病院狙ったから想像通りだけど意外と簡単にもらえるんだな。十日分。その日数分の薬を飲んで、記憶を無くして、母さんが死ぬという事実を消す。大丈夫。この十日間誰とも会ってないし、なおとも連絡を取ってない。この記事は非公開に入れておこう。
——今日祖父から電話があって母さんが死んだことを忘れていたのが分かった。
忘却剤ってなんも意味ないじゃん。確かに知らん奴にレイプされたーとかいじめの記憶がーとか使いどころはあるんだろうけど、忘れてもなんも解決しないじゃん。周りが覚えてたら意味ないじゃん。
——死ぬことにした。病院で過剰分の忘却剤を処方してもらった。精神は嘘ついてもバレないからちょろい。わかんない。もう俺は医者の意見通り薬が必要なくらい精神を病んでるのかもしれないけど、薬剤師にはわかんねえわ。
これは遺書の代わり。もう母さんは死んだから誰かに手紙残すほど思入れある奴いない。
なおのことだけが心配だ。なおに遺書は残さない。だって、絶対読んだら病むし。なおには幸せになってほしい。俺のことはせいぜい「あんな奴いたな」くらいに思ってもらえればいい。こっぴどく振ったし大丈夫だろう。別れる理由も言ってないし。
なおのことが好きだった。
要領が悪い癖に頑張り屋で、察しが悪くて、俺のことを一番に考えてくれて、俺の素を知っても受け入れて「好き」って言ってくれた。
なおに迷惑をかけたくない。だから何も言わない。
なおに新しく好きな人ができればいい。自分勝手な男でごめんな。
愛してたよ。
「……こんなん、勝ち逃げじゃん」
慎と東條が一緒にいた期間は長くはない。藤野ならその期間を余裕で追い越せるくらい東條の傍にいる事ができる。だって藤野は死ぬ気なんてさらさらないから。母が死んだ事実は勿論辛い。だけど泣いてもわめいてもその事実は覆らないのだ。だったら、寄り添ってくれる人と生きていきたい。
でも、東條は藤野を選ばない。
これを読んで確信した。だって、慎は東條を救ったけれど、藤野は東條を救えないから。
家族、心のよりどころ、恋人、慎は東條にいくつもの大事なものを与えた。だけど、藤野はなにを与えてやることができる?
「……なんもないだろ……」
藤野には何もできない。
最初からこの物語は始まってすらいなかった。これは藤野の物語ではない。慎と東條の物語だ。藤野は部外者。部外者が主役になんかなれるはずがないだろう。
「ばかか、俺は」
慎の言う通り、藤野も東條から離れた方がいいのかもしれない。
東條には別の人と幸せになってもらって、藤野は慎とは別の人間として生きる。多分その方がふたりとも楽になれる。時間はかかるかもしれないけれど、逆に言えば時間が解決してくれる。この夏をいい思い出に。
「できるわけ……」
できるわけない。忘れるなんてできない。他の人に挿げ替えるなんてできない。
「どうすれば……」
心の中の藤野が言う。どうしたも何も。呼べばいいじゃないか。東條のことを「なお」と。
そうしたら張りぼての「慎」が完成。あとは好きなだけ踊ればいい。疲れて足が壊れるまで踊ればいい。それだけの話だ。
でも、そんなことをしたら藤野は、自分は死んだと同じじゃないか。
存在を認められたい。愛してほしい。この感情はそんなに罪なことだったか?
くるしい。こんな事実忘れたい。薬を、いや、もう……。
握っていたスマートフォンが震える。表示されたのは赤崎の名前だった。
「心配してくれてありがと。でも大丈夫なのに」
「その顔がだいじょうぶなわけないじゃん」
赤崎はわざわざ手土産を持ってアパートまで来てくれた。近くの洋菓子店のカヌレだ。しかも藤野の好きな味の。こういうところは慎も藤野も変わらないんだろうな。
「……まだ考えてんの? 演技するとか」
「うん、ブログが残っててね。ちょっとだけふたりの関係が分かった」
「どうだった?」
藤野の喉から出たのはすがすがしいくらいに吹っ切れたような声だった。
「かてねーわ!」
自分でもびっくりだ。笑えた。
「なにあれ。相思相愛ラブラブカップル? あんなん間に入れねーし運命じゃん。なるべくしてなったっていうか、俺、東條に選んでもらうとかなに馬鹿な事少しでも思って」
「おちついて」
「頑張るよ。頑張ります。でもさ、そしたら俺って誰? ずっと無理しなきゃいけないの? そんなの」
「慎!」
両肩を掴まれ、正気に戻る。肩で息をしていて自分が興奮状態なのが分かった。
「……あきらめなよ」
「え……」
「あんたが壊れるところをもう見たくない。合い鍵渡してるならしばらくあたしの家来なよ。しばらく……。落ち着くまで七生とは関係を断った方がいい」
「……ありがとう、赤崎。でも……」
赤崎が苦しそうに漏らす。
「あんたは七生の恋人の慎じゃない。同じにはなれないよ」
「わかってるよ。人格は経験と記憶の積み重ねだ。記憶が無い以上全く同じ人間にはなれない。でも一回だけ試させて」
「試す?」
「俺が『慎になれるかどうか』を」
その日、東條は当たり前のように藤野のアパートに来た。連絡もなしだ。藤野にはそれが好都合だった。事前に連絡なんてされたら、待ってる間苦しいほど辛くなってしまうだろうから。
「ただいま」
「おかえり、『なお』」
貼り付けた笑顔でその名を呼んだ時、胸が針を刺したように痛んだ。藤野の心とは裏腹に東條の表情はぱあっと明るくなる。彼は子どもの用に藤野に飛びつき、嬉しそうにこう言った。「うれしい」と。
「思い出したの⁉」
「うん、まだところどころ抜けがあるけど」
話ながら、ああ、と落胆する。
「あのね、僕ずっとそう呼ばれたかった!」
「今までごめんな。もう忘れないから」
どこから、こんな声が出てきているのだろう。
どこから、こんなセリフがでてくるのだろう。
東條が喜んでくれることはうれしい。慎は奇跡により記憶を取り戻し、東條は最愛の恋人とずっと一緒にいられるようになりました。これでハッピーエンドのはずだ。なのにどうしてこんなに空しく、泣きたくなるんだろう。
「……どうしたの?」
心配そうに東條が藤野の顔を覗き込む。
——ごめん。
赤崎、お前の言う通りだったよ。
『お前は七生の恋人の慎じゃない。同じにはなれないよ』
俺はダメな奴だな。
——慎がどうとか関係ない。藤野は東條のことが好きだ。慎が愛した「なおくん」じゃない、藤野を見つけてくれた「東條」が好きだ。
だから、絶望してしまった。辛いと思ってしまった。
自分はどうやっても慎に勝てなくて、頭では慎になれると思ってても自我がその行為を否定する。だからもうダメ。限界。これ以上、慎のふりをしたら、慎の皮を引っぺがして「好き」と「俺を選んで」といらない人格を出してしまう。
だめだ、このまま演技していたら。
——心が、こわれていく。
せっかくこんなに喜んでくれたのに。こんな子に大事な人を二度も失わせたくない。
——だから、俺ができることは。
「……なお、別れよ」
幸せにしてあげたいのに、何でもやるつもりだったのに、結局、好きな子を悲しませることしかできない。
最悪だ。
東條は返事をしなかった。ただ、泣きじゃくる藤野を黙って抱きしめてくれて。泣き止んだら頭を撫でて帰っていった。合い鍵を置いて。
それが東條の答えだった。
それからは大学が始まるまで赤崎の家に居候させてもらった。
赤崎のアパートは藤野の家から三駅のところにある物件で、東條は場所を知らないから訪問されることもないと言う。申し訳ないと思いながらもおおよそ一週間お世話になった。どうやら精神を病んでいた間、東條が休学手続きをしてくれていたらしい。全く慎にはもったいない彼氏だ。
広い学内と言っても、東條のことだ。慎や藤野の行きそうな場所なんてすぐわかってしまうだろう。今はもう別れたから会ったとしても、なんだけれど、やっぱり会ったら気まずいので昼食は空き講義室内で食べる。
「今日この後も講義あるからだからご飯作っといて」
「おー、じゃあ帰り牛乳よろしく」
赤崎との暮らしはうまくいっている。今日も藤野が作った弁当を食べてくれているし、生活に不便がないように気を使ってくれているし、そもそも仲が良いし。赤崎は藤野の弱い部分も理解してくれている。彼女との生活は、平和だ。
——これでよかったんだ。
慎になれないのなら、いっそのこと東條から離れる。
他人になりきる、しかも好きな人の好きな人に。そんな自分を殺すような真似最初から出来るわけなかった。だったら答えはこれしかなくて。
「あ、雨……」
全ての講義が終わり、エントランスを出るとぱらぱらと雨粒が落ち始めてきた。折り畳みも傘も持っていない。赤崎のアパートまでは結構歩くし、ここから近い藤野のアパートまで取りに行くか? ……いや、濡れるな。コンビニで買ってしまおう。大学のいいところは近くにコンビニが必ずあるところだ。
さて、少し濡れる覚悟でコンビニまで走るか、そう意気込んだ時だった。
「傘、ないの?」
トートバッグを前に抱え、足を踏み出そうとすると聞きなれた声が聞こえてきた。声の方を見ると、そこには予想通り。
「なお……」
「久しぶり」
彼は傘を開くとその中で手をこまねく。
「家まで送るよ。どうせ傘持ってないでしょ」
赤崎の家にいることがバレてはいけない。赤崎に迷惑がかかるからだ。だったら、もうバレている藤野のアパートまで送ってもらってそこから折を見て赤崎のアパートに向かうかしかないだろう。ここでムキになって走っていっても東條を困惑させるだけだろうし。東條のことは大切にしたいのだ。傷つけたくないし、悲しい思いをさせたくない。いつも裏目に出てしまっているけれど。
「……なんで傘持ってないってわかったの。めんどくさくて傘さしてない可能性もあるじゃん」
「慎が傘自分でさしてるところ見たことない」
……確かに他人の傘に入ることが多いけれど。だって傘さすの面倒だし。いやいやそういうことじゃなくて。
「あの、一応俺たち別れたんだけど」
「うん。わかってるよ」
「別れた男にやさしくする意味ってなに?」
東條は少し考えこむと「わかんない」と結論を出した。
「別れてもきみのことがまだ忘れられないから、前言ってたような、えっと……わんちゃん? 狙ってまた仲良くしたいって思う。しばらく会えなかったの結構辛くて、やっぱりどんな形でも一緒にいたいなって思ったの」
「……変なの」
そこまで言われたらどうもできないじゃないか。
藤野は黙って東條の隣に入り、歩き出す。肩がぴったりとくっついてどうもドキドキして気まずかった。
「……嫌われたかと思ってた」
だって合い鍵返されたし。それに東條は「嫌いになるわけないじゃん」と返す。
「きみのこと、結構好きだもん」
「変なの」
それから無言の中、ふたりで駅まで歩いた。電車に乗っても無言。でもそれが心地よかった。無理して話さなくても、頑張らなくても、本来の東條は受け入れてくれる。
——それが「慎」であれば、の話だけれど。
駅から自宅までの道。傘がすれ違う中で、藤野は東條の肩が濡れているのに気が付いた。それから、少しだけ傘をこっちに傾けてくれていることとか。
そういうところを意識すると、握りつぶされているように苦しい。
「どうしたの?」
足が止まってしまった藤野に東條は駆け寄り、様子を窺うように傘を向ける。そんな優しさが辛くて、どうしようもなくて。藤野は思わずこぼしてしまった。
「嘘なんだ」
「……うん」
「記憶を思い出してなんかない。手がかりを見つけてちょっとお前達のことを知っただけ」
「うん」
「期待させてごめん、でも、でも」
言葉があふれて止まらない。
「……慎じゃなくて『俺』のこと、どんな形でもいいから好きになって欲しかった……!」
ああ、嫌われただろうな。
だって、こんな嘘ついて。怒られても、嫌われてもしょうがないよな。
こんなはずじゃなかった。誰かを好きになることなんてないと思ってた。
でも、藤野はこんなにも東條のことが好きだ。
優しいところが好きだ。ちょっと抜けてるところが好きだ。一途なところも好きだ。でもそれは藤野に向けたものでは無かった。藤野にそれが少しでも向けられていれば、何か違ったのかな。慎を超えるくらい好きにさせてみせるとか、思ったのかな。
東條は下を向く藤野の手を握ると、優しい声で言った。
「しってるよ、きみが慎じゃないことくらい」
「え……?」
そんなはず、だって東條は藤野の予想通り騙されて。
「だって慎は『なお』なんて呼んでくれなかったもん。名前で呼んでとは言ったことあるからちょっと嬉しかった。でも、きみがそのエピソードを知るはずがない。だから、きみが『慎』を演じて生きることにしたのかなって乗ったの。その時の傷ついた表情を見て、それが間違いだったってすぐに分かったけど」
「……うそ」
だって慎は東條のことを「なおくん」「なお」と呼んで……。
「あ……」
『ごめん私なおくん(仮名)が好きなの』
やられた、そういうことか。
個人のミクロなブログだとしても、他人の個人情報を出すべきではない。性格の悪い慎は恋敵である東條のプライバシーなんてみじんも考えなかったのだろう。とうじょうなお。フルネームは流石に出せないし、仮名を使うのも気を使っているみたいでむかつくから、実名の名前の部分を出したのではないだろうか。七生をなおと一発で読むのは珍しいし、そもそも読者はいないし。軽い気持ちで。そんな関係だったのに、好きになってしまって、付き合うことになって、呼び方も変えられず。
そんなよく考えればすぐにわかるようなトラップに藤野はまんまと引っかかったらしい。
「きみは本当に優しいね」
東條はぽつりとこぼした。雨が強くなったシャッターが目立つ商店街。そんな場所には自分たち以外誰もいなくて、妙にその声が響いた。
「でも、もう頑張らなくていいよ」
それは、どういうことだろう。
「慎のことは諦める。忘れる。それできみは楽になれるかな」
「は……?」
「きみの負担になることはしたくないんだ。僕のためにたくさん頑張ってくれて、泣いてくれて、そんないい子なのに僕は傷つけてばかりだ。やめたいんだ、そんな関係。まだ間に合うかわからないけど、きみともう一度最初から関係を作りたい」
慎を諦める、忘れる。
そうしてくれれば、どれだけ自分は楽になるだろう。
だけど、そんなの。
「そんなことだめだ! だって、慎との日々はお前を構成する一部だろ。俺はその一部も含めて好きなんだからそんな軽い気持ちで忘れようとすんな!」
ああ、めんどくさいやつ。
でもあんな日記読んだらそう思うじゃないか。
きっと、慎と出会う前の東條と藤野が出会ったとして、藤野は東條を好きにならなかっただろう。東條の纏っていた氷を溶かしたのが慎で、藤野はその隠れていた中身を好きになった。どれだけ気に食わなくても、嫉妬しても、慎は東條にとっては自分を構成する大切な人だ。それを無理矢理忘れさせようなんてそんな酷い選択肢選ばせない。
「……じゃあどうすれば一緒にいてくれる? 毎日見てた。きみは赤崎さんとばっかり一緒にいて、それを見ながら何回奥歯を噛んだかわからない。赤崎さんはきみが好きなのに、無防備な顔ばっかりさらして……。正直むかついた」
むかつく、なんておっとりした東條からそんな物騒な言葉が出てきたのに驚いた。
が、赤崎のためにも訂正しなければならないことがある。別に彼にはそんな気はない。
「きみのいいところを知らないのに好き好きオーラだされるのに耐えられない。今日も赤崎さんの家に帰るんでしょ? そんなのやだ」
「何で知ってんの?」
「ついてったから」
ストーカーかお前は。まあ、慎の身体が知らない女のところに行ってるのは彼氏としては不安なのかもしれない。けど、赤崎に迷惑がかかるからやめてほしい。
「確かに、赤崎さんは慎のいいところは僕より知ってると思う。でも、きみのことは知らないよ。きみが生まれてからずっと傍にいた僕がいちばん知ってる」
「……そういうこと、その気がないのに言うな。お前が好きなのは俺じゃなくて慎だろ」
「そうだけど、でも、いやだ。きみを誰かにとられるなんてやだ。きみの隣にいるのは、僕がいい」
その言葉にかっとなる。
「お前が俺の何を知ってんだよ! 俺だって知らない『俺』の何を知ってんの⁉」
俺だってわからないのに、お前が何を知ってんだよ。お前は何も知らないだろ、こんなはじめての気持ちで迷走する俺の気持ちも、俺の名前すら。
「慎が好きなら、期待させんなよ……名前すら呼んでくれないくせに……!」
慎、慎うっせーんだよ。俺はそんな名前じゃない。そんな名前で呼ばれても、その人格にはなれない。その名前で呼ばれるたびに苦しくて、辛くて。
頭の中がぐちゃぐちゃして、東條の手を振りきって走り出す。どこを目的地にしているわけでもない、とにかく頭を冷やしたかった。
しばらくして、雨は本降りになった。赤崎家と自分の家の中間地点でびしょびしょになる前に近くの喫茶店に駆け込んだ。被害としては頭や服が濡れたくらい。店としては迷惑だがしょうがない。クーラーが効いた店内で乾かさせてもらおう。タオルハンカチで水気をぬぐい、ホットコーヒーを注文する。店員が持ってきたホットコーヒーで身体を温めながら赤崎にメッセージを入れる。
『傘忘れてびしょびしょだから迎えに来て』
『傘買いなよ』
講義中だと言うのにすぐに返信が返ってきた。いいやつ。
『いろいろあってコンビニ無いとこまで来ちゃった』
『講義終わるから迎えに行く。マップよこせー』
言われた通りに現在位置を送ると、それから返信が無くなった。おそらく講義に集中しているのだろう。邪魔をしないように追撃はしない。さて、これからどうするか。勉強でもしようか。教材をカバンから出し、テキストを開いた。
スマートフォンが震えたのはそれからしばらくしてからだ。
『もうすぐ着く』
そんなに時間が、と時計を見ると、最初に赤崎に連絡してから一時間も経っていた。
服はだいぶ乾いてきたけれど、外は土砂降り。こんな辺鄙な場所に急がせるのはかわいそうだ。
『急がなくていいよ』
そう打って送信しようとしたところで、からんと入店を知らせるベルが鳴った。赤崎が濡れた傘を傘立てに置き、こちらに向かってくる。
「おつかれ、何、濡れてんじゃん」
「ちょっとね、てか迎えに来させてごめん」
「別にいいけど。てか傘買ってきたから金出して」
「はいはーい」
財布から千円札を取り出すと、件の精神科からの処方シールがひらりと床に落ちた。
「あ……」
「落ちた……ってなにこれ、あんたまた」
「違う違う!」
赤崎も知っている「慎」のものだと説明すると彼は安心したようだった。
「……また仮死になられたら困る」
「ならないよ。俺、やることあるし」
「やること?」
「……東條とのこと、ちゃんと清算しなきゃいけない」
そう言うと赤崎は大きくため息をつき頭を抱えた。
「あんたが言ったんでしょ。人格は経験と記憶の積み重ねだって。それが抜けてるあんたは元の人格には戻れない。無理があるんだよ、あんたの考えてることは」
「そうかもね」
「だったら今のあんたのことを受け入れてくれてくれる奴を選びなよ」
「いないよ」
だって、藤野は最初からひとりぼっちで。周りは慎を欲している。藤野のままでいいよ、なんて言ってくれる人はいるわけがない。だって、藤野は産まれたばかりで、東條のほかにはだれも。
「あたしがいる」
いつの間にかテーブルの上に置きっぱなしの藤野の手が赤崎によって包まれていた。暖かい手。東條とは違う。
「藤野、あたしのところにきて」
はじめて、誰かに認識された。『藤野慎』ではない、名前のない自分を。
泣きたくなった。それはとっても嬉しいことのはずで、自分の願いだったはずなのに、最低なことを思ってしまう。その言葉はこの人から聞きたかったのではない。名前を呼んで欲しかったのは、この人じゃなくて——。
「俺は——……」
「いた!」
藤野はぱっと顔を上げる。その声は間違えるはずもない。
「東條……」
「何の用だよ、藤野を騙して、それで追い詰めて、今更彼氏気取りか?」
「赤崎さんには関係ない」
事務的に東條は答える。
「関係ある。あたしは今の藤野が好き。そして、あんた達の関係なんて壊れろって、……いや、壊してやるって思ってる。だから今一緒に暮らしてるし」
そういう意味で暮らしてたんじゃ、と弁解する暇もなく東條は「……そう」と呟いた。そう、じゃないだろ。お前は慎のことが好きなんじゃなかったのかよ。慎の身体が奪われそうになってるんだから、なんか言えよ。それとも。
——中身が『俺』だからもうどうでもいい?
東條を救ってくれた慎に会えないならもうこの身体には用はない?
それを肯定するかのように東條は続ける。
「……その子が赤崎さんを選ぶなら文句はないよ」
そうして東條は踵を返す。「待って!」と藤野は頭で考える前に追いかけていた。やっと東條が話してくれたのは店から少し離れた公園の前だった。
「東條、その、ごめん」
「ごめんって、なんで?」
「……他の子のところにいた」
「別に気になんないよ。きみが選んだ人なら」
「ちが、俺が好きなのは」
「座って話そうか」東條はそう言うと公園の屋根のあるベンチに座る。藤野もそれに倣って横に腰をかけた。雨が屋根をたたく。周りには自分たちしかいないみたいで、世界から切り取られたように静かだった。
「……慎は帰ってこないって、あきらめてるんだ。慎は自殺した。きみは似てるけど違う人間。それは事実で奇跡が起きない限り覆らない」
何も言い返せない。
「だから、きみには慎のことは気にせず自由に生きてほしい」
「東條はそれでいいの? 俺、頑張るよ。慎になれるように頑張る。……割り切るのは、難しいけど、もっと頑張れば」
東條は複雑そうな表情で藤野の頭を撫でた後、そのまま引き寄せる。彼の胸に頭がくっついて、音が聞こえる。心臓の音。生きている音。
「もう頑張らないでいいよ。確かに僕は慎が好きだよ。でも、慎ときみが崖から落ちそうでどっちか選べって言われたら僕は選べないと思う。きみはきみとして見てるから、慎と僕の事は気にしないでほしい。……個人的には、きみのことをもっと知りたい、一緒にいたい、隣で星を見るのはきみが良いと思ってる。でも強制はしないよ」
「……ずるい」
「無理に頑張らせて……いままでごめん」
「ごめんって、なにが」
「きみのことなにも考えないで傷つけた」
「……傷つくなんて」
傷つかなかったといえば嘘になる。慎じゃなくて、藤野を愛して欲しかった。でもそれは無理だし、無理して藤野を好きになってもらわなくていい。藤野は、慎を愛してくれていた東條が好きだったので。だから、大丈夫なのに。
「もう、僕はきみには近づかないほうがいいんだろうね。……僕は君と一緒にいたいけど、ほかの人が好きならそれでいいんだ。その時は、はっきり言ってくれると嬉しいな」
「……ばか」
東條はいつも自分勝手だ。藤野の気持ちなんて考えたことなんてないだろう。ばか。
ばかだばかだばかだ。
気づけよ。
「一緒にいたい。好きなんだ」
好きじゃなかったら、騙されてると知ってからも一緒にいなかった。
「趣味悪いな、こんな男のどこが」
「だって東條は理想の慎じゃなくても俺のそばにいてくれたじゃん。俺が記憶が無くなったって気付いても、慎じゃなくても、隣にいてくれたじゃん。俺にはそれが嬉しかったよ」
「それは、慎に戻るかもって下心があって……きみが僕に言ってくれるような綺麗な感情じゃ」
確かにそうかもしれない。信じていたのに裏切った。それは悲しい。
でも言ってくれたじゃないか。
『ゆめにでてきて、いてもたってもいられなくなって』
『きみのほうがしあわせそうにわらう。……まことのわらったかおは、もうおぼえてないんだ。ずっとないてたから』
本当は、あの時の自分が慎だったっていいんだ。
その姿を「慎」じゃなくて「藤野」だと思ってくれたこと。そう言ってくれたこと。
それが今ならわかる。少なくとも、この人は「慎」だけを見ていたわけじゃない。
ひと夏しか一緒に過ごさなかった「藤野」のことも見ていてくれていた。
それに今は救われている。
「東條が慎に救われて好きになったように、俺も東條に救われた。わかってよ」
「赤崎さんと一緒にいた方が幸せになれる」
「何が幸せかは俺が決める。その上で俺はお前を選んだ」
赤崎を選んだ方が、たぶん幸せになれる。でも、それは他人の物差しで見た幸せだろう?
「好きになってほしいなんて言わない。東條は慎のことが好きだろうし、見た目は同じでも別の人間を好きになれって言うのは酷だと思う。だから、俺が一方的に好きなことは許して。隣で、お前のこと見てるのは許して」
新しく好きな人が出来るまででいいから。その声は小さく掠れて、聞こえているかはわからなかったけれど。それでも、抱きしめられた体温で許されたのだと分かった。冷たいけれど、暖かい。知っているはずで、藤野は知らない愛おしい身体。
「……なんで、そんなこと言うかな」
抱きしめる腕の力が強くなる。
「僕は、きみにひどいことをしたのに。慎になるまでやり直させようと、きみの存在を消そうとしたのに。なんでそんなこと言えるの。おかしいよ」
「あはは、俺もそう思う」
藤野は東條の背中に腕を回す。自分より広い背中。この背中に自分と慎はどれだけのものを背負わせてきたんだろう。守りたいと思う。もう、この人が傷つかないように、大切にしたい。傍にいることを選べばそんなことは叶わないのに、人間の感情はいつもあべこべで自分でも理解しがたい。いつか、好きになってほしい。慎のことは忘れなくていい。でも、慎を失った悲しみを覆えるくらい、彼を自分が幸せにしたい。藤野がそう思うのだ。この想いは誰にも否定させない。
「……名前を」
「え?」
「何て呼べばいいか、教えてほしい。僕はきみの名前を知らないから」
その言葉に藤野は驚き、その後、胸がどうしようもなく痛くなった。それは悲しいだとか辛いだとかじゃなくて多分、嬉しいと。東條が『俺』を理解しようと歩み寄ってくれたことが、苦しいほど嬉しいと。
「……藤野でいいよ。もう、そう名乗る身内もいないから」
慎は『俺』の名前ではない。少なくとも東條にとっては。だからそう呼んでほしい。同じ苗字を持つ母親は死んだ。他の親戚も接触はしてこない。『藤野』と言う呼び方は自分にとってはちょうどよかった。
「藤野」
はじめて、東條に名前を呼ばれた。
ひとりの人間だと認識してもらえた。
やっと藤野と慎と東條の関係が、少しだけ前に進めた気がした。
「僕を、見捨てないでくれてありがとう」
「……見捨てるわけないじゃん。むしろ言いたいのはこっちだよ。東條が『好き』を諦めてたら俺はずっとひとりぼっちだった」
「そんなことない。藤野はひとりでも……」
「どっちにしろ真実は知ることになるだろうけど、それなりに生きていけただろうな。でも、きっとひとりで抱え込んだら辛かったよ。大丈夫だったのは、東條がいたから」
どうだろう、東條に見限られていた未来。母親の死に耐えられずに慎と同じ結末を辿って今度こそ死んでいたような気がするし、何とかなったかもしれない気もする。でも、ありもしないパターンを想像して何になる?
今が現実だ。藤野が東條とこうして一緒にいる今だけが現実だ。
「愛されてるな、僕は」
「じゃなきゃ嘘つかれた時点で殺してるよ」
それからふたり、顔を見合わせて笑った。
「帰ろうか」
僕たちの家に。そう続けた東條に藤野は「うん」と頷く。
東條の自宅にタクシーで帰るまで会話はなかった。
何を話せばいいかわからなかったし、自分たちの間の会話を一言たりとも他人に聞かれたくなかったというのもあるかもしれない。東條と藤野の関係には、まだ誰も入れたくない。ふたりだけの閉じた世界でいい。少なくとも今日だけは。
玄関に入って、久しぶりに部屋を見る。藤野が産まれた場所。藤野が最初に見たもの。身体にしっくりくるこの空気は、胎児が育った子宮のようだった。安心で安全で、ずっとここにいたい。きっと、東條もそれを望んだんだろうなと思う。藤野が傷つかない世界で、慎が産まれるまで永久にリセマラをして。無理なら安全な病室で思い出すまで待ってもらう。そんな未来、イチパーセントもないのに。子どもはいつまでも子宮にはいられない。時が来たら外に出てひとりで立ち上がらなきゃ。
「おいで」
東條がベッドに座り、隣のスペースをぽんぽんと叩く。座れと言う意味だろう。藤野は言われた通り隣に腰をかけ、おずおずと口を開いた。
「……今日、泊っていいか?」
「元々そのつもりだったけど、なんで?」
「明日から家に帰るよ。母さんの身の回りの整理しないと。今日は疲れたからゆっくりしたい」
やることはたくさんある。慎がどこまでやったのかは分からないから把握して、やっていないことがあったらやらなきゃいけないし。
「僕もその時は一緒にいていい?」
「心配してんの? またいなくなるかもって」
「ちょっとだけ」
「信じろよ」
藤野は東條の肩に頭を寄りかからせる。
「もうお前のことは悲しませない。絶対に」
自分が『藤野』である限り。絶対。
これから『慎』の出番はない。自分から逃げた奴に東條を渡してやるものか。東條はまだ慎のものだったとしても、もう藤野は藤野のものだ。この人格は消させないし、いつか慎から東條を奪ってみせる。
「うん、信じるね。……藤野」
「なに……」
顔を上げた藤野に東條が覆いかぶさる。
ベッドに押し倒されたのだと気が付いたのは、自分の露出した皮膚がさらりとしたシルクのシーツの感触に反応してからだった。それから自分の両腕が掴まれていると。覆いかぶさる東條の唇が触れる。
——あ、キス、されてる。
口内という自分の弱いところを触れられているのに、不思議と怖いだとか、嫌だとかは感じなかった。それはきっと慎の身体が東條の身体を覚えているからだろう。身持ちが固いとは言えない慎のことだ、恐らく東條とそういう関係になってから何度も——、それこそ身体が彼の形を覚えてしまうくらい繋がったはずで。藤野にとっては、本当に男となんてはじめてのことなのに、キスの味を覚えている舌が追うように東條の舌に絡みつく。
「ふ……っ、ん……」
どうしようもなく頭が鈍くなる。もやがかかって、ぴちゃぴちゃと脳の中で水音が響く。それだけが今の藤野の全てで、それだけしか考えられない。気持ちがよくておかしくなる。口内から犯される感覚は藤野は知らない。どの女の子ともしたことがなくって、これからもこの先も、きっと東條だけ。
「あ……」
口内を蹂躙されつくし、息も絶え絶えになった時に唇が離れた。その時目と目が合い照れてしまう。キスごときでこんな、痛いほど胸が苦しくなるなんて。ドキドキ、ドキドキ。おかしい。自分は年上で、大人で、なのにこんな。
「……あの、俺、俺ははじめてで、その」
まるで処女のようなセリフ。セックスなんて初めてではないはずなのに。どうしようもなく恥ずかしくて、動悸がする。それはきっと相手が東條だから。他の人間だったらこんなこと思わないはずだ。そんな藤野の頭を東條は優しくなでる。最初に会った時と同じように、愛おしそうな優しい声で言うのだ。
「……嫌?」
「いや、じゃないけど……」
そう、嫌じゃないのだ。同姓で、恐怖対象の男だと言うのに触れられて何も嫌悪感がない。これは普通のことなのだろうか? でも、もし普通じゃないとしてもやってみたい。だって慎は触ったんだろう? 触れられたんだろう? 繋がったんだろう? それを考えると嫉妬で是が非でもやってやりたくなる。だってもう東條は慎だけのものではない。藤野の彼氏でもあるのだ。……そうだよな?
「……あの、俺でいいの」
念のために確認してみる。自分でも女々しいとは思うが、大切なことなので。
そう聞いてみると東條は藤野の手を握り、その手を持ち上げキスをした。
「藤野がいい」
その言葉で藤野は自分が真っ赤になってしまっていることが自分でもわかった。そんなこと言われたら、東條にべた惚れしている藤野にはもう。
「……うん……」
そうしてもう一度唇を塞がれ、唾液を混ざり合わせるように舌を絡ませあう。そのぼんやりとした快感を与えられるまま享受していると、一瞬、ぴりとした刺激が身体に走った。
「あぁ……っ!」
東條は藤野の乳首を服をたくし上げて乳頭をつねる。男の乳首なんて何も感じないはずなのに、雷が落ちるような強い性感が襲ってくる。
「ひ、……え……な、なんで……」
「乳首、まだ感じる? しばらく触ってなかったけど」
「お、お前がかいはつしたの……?」
「うん。恥ずかしい?」
東條は藤野に対し、悪びれもなくそう言う。こんなの、こんなこと言われたら。
「……恥ずかしいけど……東條が開発したなら、その……おこらない……」
「ありがとう」
「んっ」
ぬめる舌先で乳首をなめられると喉の奥から甘い声が鳴る。自分じゃないみたいな甘い声になんだかこれが正しいような気がした。抱くのではなく抱かれる方。それは身体に染みついた方が“そっち”だったからかもしれないけれど、例えこれが間違ったことだったとしてもいいや、と思う。藤野がそう思うのなら、それが正しい。どう生きていくのかは、今は藤野が決める事なので。
「ぁ……あ、ん……っ……」
片手で乳首をいじり、もう片方を舐られる。それは驚くほど気持ちがいいことで声に吐息が混ざる。乳頭が腫れぼったくなるころには息も絶え絶えだった。自分の下半身が緩く主張し始めている。
「乳首だけで勃ってきた……」
「し、しょうがないだろ。どーせこうしたのはお前なんだから責任取れっ!」
「うん、そうだね」
東條は藤野のそこに服越しに手を伸ばし、下から上へゆっくりと撫で上げる。その行為に身体がぞくぞくし、吐息に熱がこもる。その反応に東條は満足そうに微笑んだ。
「きもちい?」
「…………う、ん……」
「じゃあもっと頑張るね」
「あっ」
東條はそのままベルトを緩め、下着のふちに手をかけて中に潜り込んでくる。冷たい手にびくりと身体が跳ねるが濡れはじめた性器に触れられると、気が高ぶりすぎて鈴口から蜜がにじんできた。
「は……っ、ん……」
興奮で泣きたいくらい性器がジンジンする。先走りが幹に塗りたくられ、下着の中でくちくちと淫靡な水音を出して、それが気持ちの高ぶりを助長させた。
「ぁ、あ、ああ……!」
どんどん擦られる音が速くなり、音に耳が犯される。藤野はたまらず東條の手の中で射精した。びくびくと身体が痙攣し、出した解放感で頭が空っぽになる。
「は、あ……は、ぁ……」
「大丈夫?」
満身創痍の藤野に東條が心配そうに声をかける。藤野は「へーき!」とやけくそで言うと自分を見下ろしている東條を手と足まで使って抱きしめた。
「いーから、俺のことめちゃくちゃにして。……慎よりも俺の方がいいって思えるくらいに」
少しの嫉妬と一生慎には勝てないという劣等感。それを声色から感じたのか東條は藤野を抱きしめ返す。
「大丈夫だよ」
「……何が」
「今抱きしめてるのが慎じゃなくて藤野だってことくらいわかってるよ。大丈夫だよ、ちゃんときみのこと見てる」
嬉しかった。なにがってちゃんと「藤野」を見てくれていることが。
この人なら、藤野を見てくれるこの人になら全部あげてもいいと思った。藤野が持っている数少ないものの全てを。
「藤野?」
何も言わない藤野を訝しんだのか東條は声をかける。それから藤野の目元を指で拭ってくれた。
「泣いてる」
「え……」
自分でも目元に手を伸ばすと、確かにそこには涙がこぼれていたのだった。ぽろぽろとあふれ出る塩水に困惑するが、あふれ出す理由はすぐに理解した。
「ごめん、でも、嬉しくて」
「嬉しい?」
「東條が俺を見てくれてて」
「そんな泣くほど想われてるなんて僕は幸せ者だな」
そしてもう一度キスをしてくれた。
藤野が翻弄されている間に、東條はベッドサイドを探る。個包装のローションとコンドームを取り出すと、藤野から離れた。
「……なんで離れるの……?」
「藤野はわかんないかもしれないけど、男同士でするにはよく慣らさないといけないから。今から準備しようね」
東條はローションの袋から冷たい液体を下腹部に垂らし、コンドームの封を手で開けると、藤野の身体の窄まった場所にポリウレタンに包まれた指を当てる。突然のことに喉から小さな声が出たが、これも必要なことだと窄まりが解されるのを耐えた。最初は冷たさで身体が委縮していたけれど、ローションが温まると性交に使わないはずの場所を解されることに微弱な快感を覚えるようになる。過去の自分は何度東條と身体を重ねたのだろう。上がる吐息の中でどうしてもそんなことを考えてしまう。だって、受け入れてしまうのだ。使わないはずの場所が少しほぐされただけで簡単に彼の中指を美味しそうに飲み込む。それが過去の自分と東條の関係を証明しているみたいで、悔しい。
「は……ぁ……、あ……」
もう一本解すための指が増える。
「あと一本、入るようになったら挿れるから」
「……うん」
「どうしたの?」
藤野の様子がおかしいと思ったのか東條が手を止めて伺ってくる。女々しいと思いながらも藤野は不安を口にした。
「めんどくさい思考回路なんだけど」
「言ってみて?」
「こんなに身体が慣れてるの、慎と東條が何回もヤッたのわからされて……なんかやだ……」
「かわいい」
そう笑う彼を藤野はキッと睨みつける。
「笑い事じゃない!」
「嬉しいよ」
東條は藤野の頬を撫でる。
「藤野が嫉妬するまで僕のこと好きなの、嬉しい」
そう言って彼は藤野の瞳を見つめる。それがどこか照れくさかったので目線をそらしてやり過ごしたかったのだけど、なんだか今それをするのはいけない気がして、無理をして東條の幸せそうな顔を見た。
「もう藤野以外とはしないから。これからずっと、僕は藤野のもの。過去はどうにもしてあげられないけど、僕のこれからは全部あげる。それじゃ満足できないかな?」
そんなことを言われたら。
「善処は、する……」
「なにそれ」
藤野の回答に東條は笑った。その反応に膨れていると「機嫌悪くしないで」と首元を強く吸われる。小さな喘ぎ声が漏れる裏で、跡が残るかもなんて頭の隅で思ったが、それでもいいやと思った。東條がくれるものならなんでも受け入れたい。
「あ……」
意識がほかに行っているうちに中に入る指がもう一本増えた。三本の指が中でぱらぱらと動き、この先の異物を挿入できるように念入りに解される。異物感に身体がこわばったけれど、東條の「息吐いて」の声でなんとか力を抜くことができた。
「あ、あ……いや……」
「痛い?」
「そう、じゃなくて……」
気持ちいいのが怖いのだと、この先が怖いのだと正直に言うと笑われた。
「なんだよ」
恥ずかしくって、むきになってそう言う。すると東條は優しい声で甘えるように耳元に吹き込んだ。
「痛いのも、怖いのも、今日から全部無くなるって言ったら藤野はどうする?」
「え……」
「これから全部気持ちいいしか感じられなくなって、僕の下で喘いで。これからそんな風にしかなれなくなるとしたら、藤野はベッドから逃げちゃう?」
「あ……」
想像してみる。東條とこれからする行為を。
自分が彼の元で乱れる姿を。
そんなことを考えると、違和感で萎えていた下腹部が急に熱を持ち始めたのを自覚して。藤野は耐えきれなくてそっぽを向いた。
「あ、ちょっと勃ってきた」
「うるさいっ!」
「これだけ意識してくれてるんだからちゃんとしないとね」
一旦止まっていた指が中で蠢く。違和感の中に快感を見つけ出すと藤野はそれだけを感じられるように身体の力を抜いて東條に身を任せた。
「あ……、ぅ……、あっ!」
「ここだよね?」
東條の指が中のある一点をかすめる。そこを刺激されると、身体に電流が走ったかのように身体が跳ねてしまう。こんな快感知らない、女の子とのセックスでもこんなの感じたことない。藤野が混乱していても、東條は容赦なくそこを刺激してくる。その度に声が上がり、身体は疲弊していった。
「あ、あっ、だ、だめ……!」
「だめじゃないよ。こういう時は気持ちいいって言うんでしょ? ほら、言ってみて」
「……っ、やだ、はずかしい……」
「言って」
普段は藤野のことを第一に考えてくれるくせに。藤野の言うことなら何でも聞いてくれるくせに。こういう時だけ強引で、かっこいいとか、ずるい。
恋愛は惚れた方が負けと言うけれど、まさにそうだ。藤野は東條になら何をされてもいいと思っているし、東條にはその権利がある。何もかもを許してしまうくらい、藤野は東條のことが好きなのだ。
……東條が藤野のことを好きじゃなくても。
「や、あ、あぁ……!」
頭の中で電流が走る。壊れた思考回路では正常な判断などできず、藤野は言われたとおりに口を開くことしかできなかった。
「き、きもちい……! きもちいからぁ……!」
「よく出来ました」
「ひあっ!」
その一点を強く押されると女のような高い声が上がってしまう。藤野は咄嗟に両手で自分の口をふさぐと「ちが、今のは!」と声を上げる。
「なに? 正直に言って?」
「今のは……ちょっと気持ちよすぎただけで……いつもはこんな声……」
「じゃあその声を聞くのは僕の特権だ」
「ばか……! あ……っ!」
体内から薄い膜につつまれた指が抜けていく。その喪失感に声が漏れた。
「……そろそろ挿れるよ」
「っ……!」
東條が自らの衣服を寛げ、それをあらわにする。東條のものは触っていなくても十分勃起しており、その太さと長さに同じものを持つ同性ながら息をのんだ。いや、こんなん無理だろ。入るわけない。でも、もしこれが自分の中に入るとしたら、と思うと口の中に唾液がにじんでくる。心ではどう思っていたとしても、身体は期待しているのだと気が付くのに時間はかからなかった。
「……怖い?」
「え、あ……。ち、ちょっとだけ……」
「大丈夫。ちゃんと気持ちよくなるから。……力抜いて」
「ん……」
少しの緊張の後、極薄の膜に包まれた質量を持った熱が蕾に当てられる。藤野のよく慣らされた柔いそこは、東條を受け入れようと簡単に屹立を飲み込んだ。
「ぃあ、ああ……!」
「……っ」
藤野の体内はその質量を覚えていたのかと思うほど自然にそれをすべて受け入れる。東條が息を呑んだ声が聞こえた。身体で感じる異物感に、あの大きなものが自分の中にあるのだと、繋がったのだと意識し、東條のものを締め付けてしまう。
「藤野……、ちょっときつ……」
「は、……ご、め……でも……どうやったら……」
「慣れるために少しぎゅってしようか」
そう言うと東條は藤野を抱きしめたまま、おとなしくなった。どくどくと繋がった場所で鼓動だけが伝わる。鼓動と、荒い息遣いと、興奮で熱を持った温かい体温。それとお互いの身体。この部屋には今それだけしかなくて、そのそれだけが藤野はどうしようもなく愛おしかった。
「……藤野、見て。外」
ベッドのすぐ近くにある窓からは星が見えていた。まだそんなに遅い時間ではないが一番星が見える時間帯にはなったようだ。夕焼けと夜を混ぜた空の色に、明るい星が瞬いている。東條はその星を見ているのだろう。
「……星?」
「うん、これはさ、慎と見た星空じゃないよ。藤野と見る空は泣きたいほど綺麗だ」
夏の大三角形、慎と見たであろう写真と比べると東京の空は星がよく見えないしビルや街頭ばかりで所々よく見えない。それでも東條には綺麗に見えるんだろう。藤野にとってはそれが嬉しかった。
「あのね、こうしてても『好き』ってまだ完全にわかんなくて」
「……うん」
「慎のことは好きだった。『好き』って生涯ひとりだけに抱くものでしょう? なのに、僕は、藤野のことが好きならいいのに、って思うんだ。これが『好き』だったらいいと思うんだ。そんなこと、ありえないのに、おかしいよね」
「おかしくないよ」
藤野はやっと笑えた。
「いつか好きって言ってくれればいいよ」
いつかでいい。すぐにとは言わない。これから長い時間を一緒に過ごして、その長い時間の中で小さな「好き」のひとつでもくれたらそれで十分だ。
「ありがと」
東條はそう言って藤野の唇に口づけを落とすと、歯列を割り濡れた口内の中に入ってくる。優しくて気持ちのいいキスをしながら、彼は緩く腰を動かした。
「——あ、あっ、っ……!」
圧迫感がすごい。自分の体内を侵されている感覚。それでも嬉しかった。完全にパズルのピースがはまったわけではなくても、自分たちは今、繋がっている。他でもない藤野と、藤野が恋をしている東條が。それはとても幸福なことで、このセックスだけでこれからの不安も、それ以外のなにもかもに耐えられる気がした。例え東條が一生「好き」を返してくれなくても、この思い出だけで生きていける。そんな気がした。
「は、あっ……! ぁ、ああっ!」
腰を打ち付ける速度が速くなった。東條は藤野の腰をしっかりと掴み、離さない。過剰に注がれる快感に頭がおかしくなりそうなほど悶えて、喘ぎ声が止まらなくなる。気持ちいい。気持ちいい。どうしよう、こんなに気持ちよくって、こんなの知ったらおかしくなる。こんなの登場としかしたくない。藤野のことを暴くのはこれからもずっと、東條だけが良い。
「ゃ、あ、やだ、おかしく……、っ!」
「は……、藤野……」
「だめ、だめ……っ! これ以上激しくしたら、い、いっちゃう……!」
「いいよ、好きなタイミングで。最後まで付き合うから」
最後まで付き合うって。そうじゃない。藤野がしてほしいのは……。
「……東條も」
「ん?」
「東條も、俺で気持ちよくなってくれなきゃ、やだ……っ」
そう蚊の鳴くような声で呟くと、珍しく東條が混乱したかのように顔を赤くする。いつもどこか余裕ぶっていて、年上の藤野を甘やかしていたのに、こんな一言で彼は照れるのか。慎も知らないかもしれない、自分だけに見せた顔。藤野はその事実にほの暗い優越感を持ちながら、彼の肩にすり寄った。
「……いっしょにいこ?」
「…………ばか。せっかく余裕ぶってたのに、台無しだ」
「年上を好きにできると思うな」
藤野はすり寄った肩にそのまま口づける。それを合図に東條の身体が前後に動き出した。
「あ、……ぃ、きもち……!」
何度もなんども気持ちいいところを擦られて身体が溶けてしまいそう。そんなばかな事を考えてしまうくらいに気持ちがよくて、このまま混ざり合ってしまいたいくらい心地が良かった。
「……っ、……っく! も……いっちゃ……!」
「……ぼくも」
余裕が無いのだろう、動きが激しいものに変わり、気持ちを伝えあう手段から快楽を追うものへと変わっていく。双方「気持ちがいい」の他にはろくな事を考えられず、それ以外にあるとすれば。
「ね……、そっちも、きもちい……?」
「うん、きもちいいよ……」
それ以外にあるとすれば、それは相手も自分と同じ気持ちかというものだけ。
「あ、いくっ! ぃ、っ~~!」
「——っ!」
射精はほぼ同時だった。腹部に白い液体が飛び散る。体内では幹がすべてを出し切るように脈を打ちながらゴム越しに精を放っており、藤野はどこか惚けた頭でそれをもったいないなあと思った。
放心状態でそれを受け止めていると、東條が頭をこすりつけてくる。その頭を藤野は抱きしめ、「だいすき」と呟いて意識を手放した。幸せだと、心の底から感じながら。
目が覚めたのはまだ朝日が完全に昇っていない、薄暗い時間帯だった。
意識を落とす前、そしてその後もあったはずの東條の姿は隣にない。不安になって、どこに行ったのだろうと部屋を見渡すとベランダにかけられたレースカーテンが風になびいていたのだった。
「東條」
ベランダに顔を出すと、東條が煙草を吸って遠くを見ていた。彼は藤野を目線で確認すると目を細めて笑う。それを見て口から勝手に「俺も吸う」と出てきた。普段は吸ったりなんかしないのに。
「はい」
東條から一本差し出され、一緒に渡されたライターで火をつける。手に染みついたそのしぐさに、慎は喫煙者だったのかもしれないと思った。そういえばヘビースモーカーだと言っていたかも。
「藤野も吸うんだ。実家にいるときは一本も吸わなかったのに」
「吸わない。今はそういう気分だっただけだよ。慎は結構吸ってたのか?」
「うん。身体に悪いから禁煙してって言ってたんだけど」
「喫煙者のお前が言っても説得力ないじゃん」
それもそうか、と東條は笑う。
「……真紀子さんと豊さんにも赤崎にもお騒がせしましたって言わないとなあ」
「みんな気にしてないんじゃない?」
「お前さあ……。そのふわふわな性格どうにかしろ?」
「じゃあ藤野が禁煙したらどうにかする」
その横顔に覚えのある声と映像がフラッシュバックする。
——禁煙しなよ。
——そっくりそのまま返すわ。それにアレ、煙草とライター持ってればどんなに暗い所でもお前のこと見つけられるだろ?
——見つけてくれるんだ。
——俺はな。お前は知らんけど。
——僕だって見つけることくらいできるよ。例えば……相手が誰なのかはっきりわからなくなる夜明けの時間のことをかわたれ時って言うんだって。今のこの時間のことを言うのかな。こんな時間でもきっと見つけられるよ。
——はーん、言うねえ。ちなみにその雑学は誰の受け売り?
——同じゼミの女の子。
——お前しらねーところで浮気すんなよ殺すぞ。
——できないのは慎が一番知ってるくせに。
——うるせー。……てか、なんだよはっきりわかんなくなるって。知り合いくらい気合で分かれや。少なくとも俺だってお前のことなら見えなくてもわかるね。
——うそじゃん。酔っ払ったら僕と女の子間違えて口説く癖に。
——あー、じゃあ見てろよ。もしお前とこんな時間に会っても絶対一発で当ててやるからな。
——愛の力で?
——殺すぞ。
あ、そっか。
その記憶を思い出して、藤野の心の中に引っかかっていたものがすとんと落ちた。
夜明けのベランダ。煙草を吸っていたのは同じ味のキスを期待していたからで、郵便屋のバイクの音くらいしかしない澄んだ空気の中、ふたりきりで話す時間が好きだった。
東條のことが好きだった。
はじめて自分から好きになって、ずっと一緒にいたくて、でも心配なんかかけさせたくなくて、負担になることも嫌で。多分、それで。
「……藤野?」
東條が顔を覗き込む。涙の膜が張られていたのは自覚していたので、腕で目元をぬぐって藤野は何ともない風に笑おうとした。でも、無理だった。
慎、俺はお前のこと嫌いだし、お前の人となりもよく知らないけどさ。
お前が東條のことを本当に好きだったのはなんとなく理解したよ。だってさ。俺、最初こいつに会った時、綺麗だ、って思ったんだ。きっと網膜に焼き付いてたのかな。それほどお前は東條のことを見てたのかな。もしそうだったら、ちょっとだけお前のこと好きになるよ。
「……泣いてるの?」
「ううん」
慎のいままでと、藤野のこれから。
東條は慎のことを忘れないと思う。藤野の方がきっと一緒にいる時間は長くなるのに、慎がずっと東條のどこかにいる。でも、それでいい。そう今は思う。藤野は慎を好きになった東條が好きだし、慎も、きっと東條のことを大切にしていたから。その大切が、藤野の根本に残っていたから東條を好きになれたのなら。それでいい。
「ちゃんと見つけられたな、って。そう思って」
あの時、最初に目に入ったのは東條の姿だった。
——お前、誰?
忘れてしまっても、ちゃんと思い出せた。見つけられた。
これからの未来、どうなるかはわからない。母親のように死別してしまうかもしれない。東條夫妻のように一緒にいられるかもしれない。藤野にわかるのは今現在だけで、明日のこともわからない。けれど、これだけはわかる。
——自分は、生まれ変わっても、この人のことを好きになるだろう。
慎が死んで、藤野が生まれて、それでももう一度東條を好きになったように。
何度忘れたとしても、何があったとしても。
きっと東條を見つけて「好きだ」と言える。
「東條」
「ん?」
「好きだよ、これまでもこれからもずっと好きだ。……これだけはちゃんと思い出せたよ」
それを聞いた彼は藤野に口づける。煙草味のキスも、ちゃんと覚えがあった。
「……藤野、ありがとう」
日が少しだけ橙を覗かせて、光が自分たちの方を照らす。東條の瞳は涙のせいかきらきらと輝いて見えて、藤野はそれをいっとう綺麗だと思った。
「僕も好きだよ、藤野が好きだ」
『藤野が』その言葉に嬉しくなってまた視界がぼやけた。
もう、大丈夫。自分たちはこれからちゃんと歩いていける。自分の気持ちに嘘を付かなくても、隠し事をしなくても、お互いを見て生きていける。
それが藤野にはとても嬉しかった。
きっと今日が、本当に『藤野』が生まれた日。『慎』とは別の生を認められた日。
ハッピーバースデー。
(了)
昨日の記憶を強制的に失くす薬、それを開発した人はなんらかの賞を取ったが、薬の悪用が多発して自責の念から自殺したらしい。トラウマを消す、アフターピルのような役目をするその薬は飲めば飲むほど記憶が消える。夢の中の自分はその処方箋を見た時、力なく笑うことしか出来なかった。
場面が切り替わる。早朝、まだ日が昇りきっていない時間のベランダ。
自分の隣に男が立っている。
その男は言った。
彼は誰なのかはっきりわからなくなる夜明けの時間のことをかわたれ時と言うんだよ、そう言ったのはいったいどの男だっただろう。自分にそんな学はないから、誰かの受け売りに違いない。男は大の苦手だし、それは思い込みで、女の子だったか、いや、もっと仲の良い相手だったような気がする。ベッドの中で過ごす夜明けではなく小さなアパートのベランダで煙草を吸うこの時間が自分はいっとう好きだった。隣にはそれよりも好きな人がいて、辞められない煙草を呆れて、それで口寂しいなら、とキスをしてくれた。それが好きだった。もう、遠い昔のことのような気がするし、そもそも現実ではないかもしれない。だって自分はその人の顔すら思い出せないのだから。
そんな断片的なシーンが続いた夢を見た気がする。ぼうっとする頭の中、淡い記憶を反芻素ながら橙色の眩しい光で藤野慎は目覚めた。
朝だ。それも、一日の始まりの早い時間の。
ぼんやりとした記憶。昨日は何をしていたんだっけ、と窓から見える燃える橙を見ながら思い出す。
「……あさ、か」
昨日、自分は何をしていたんだっけ。
それさえ思い出せない。
「まこと?」
声の主は見覚えのない男だった。つやのある黒髪に黒曜石のような瞳が印象的な、とても綺麗な顔の同い年くらい——おそらく二十代前半だろう男はこちらに寄ってきてベッドの前にしゃがみ込む。綺麗な顔。まるで作り物みたいだ。大きくはっきりとした二重の中にはきらきらと澄んだ瞳がはめ込まれていて、肌はビスクドールのよう。身長もおそらく高い部類に入るだろう。家具との比較から見て、藤野より大きそうだったからかなりスタイルのいい部類に入るはずだ。
「大丈夫?」
見覚えがないのは男だけではない。部屋も、家具の配置も。何もかも自分の部屋とは違う。モノトーンを基調とした部屋に見覚えは無い。藤野の部屋は好きなものを詰め込んでもっとごちゃついているので、ここが藤野の部屋ではないのはよく考えずとも明らかだ。そこまで理解して血の気が引く。そうして男がこちらに手を伸ばした時、藤野はあまりの怖さに身体を知事ませながら叫んだ。
「や……! お、お前、誰……⁉」
見知らぬ男に藤野は言う。男は「大丈夫だよ」と優しい声で言い、その声色と同じくらい優しい手で恐怖で泣きそうな藤野の頭を撫でてくれた。安心する。なんでだろう、利害関係もない、慣れない男の人は怖くて、こんなことされたら泣いてしまうのに、この人には何も感じない。むしろこうされて安心する。
「大丈夫だから、怖がらなくていいよ。僕は慎の敵じゃないから。……東條七生。覚えてない?」
とうじょうなお。記憶の中にはそんな男は居ない。藤野の友人関係は広い。だがそれは女性のみで、男性恐怖症の藤野は親友を介してか、酒が入っていないと男と対面で話すことすらできない。そんな狭い男性の交友関係、どれだけ記憶を辿ってもこの男の姿は無い。
「覚えてない……」
覚えてないのは彼のことだけではない、昨日のことも何一つ覚えていない。
「俺は忘却剤でも飲んだの?」
忘却剤。数年前に合法化された文字通りの「忘れる」薬だ。近年、うつ病患者などの精神病患者が増え、医療はパンク状態。だったら、と開発されたのが「忘却剤」だ。トラウマや悩みの原因である「記憶」を消すことにより、病気の根自体を消す。勿論、そんな何の解決にもならないものが世間に受け入れられるわけがない。
だがそれは大多数の「世間様」での話だ。本当にトラウマで困っている人間にはそれは救いだった。飲んだ直前の記憶を忘れるこの薬は、レイプなどの性被害のトラウマを薄めることを主に使われ認められつつある。薬剤師見習いである藤野は、結局は問題解決にならないし悪用の危険性もある「忘却剤」はよく思っていないが、実際薬剤師はほとんど医師の指示で薬を出すことしか出来ないので、あまり深い事は考えないようにしている。
「忘却剤は飲んでないよ」
男——東條はベッドに座る藤野の傍に寄る。
「ただ、飲み会で泥酔してスマホも失くして家の鍵も失くしてこれは捨て置くしかないなって話になったから僕が預かっただけ」
「え、マジ……? そんな、男についていくわけ」
きょろきょろと部屋を見渡すが1Kの部屋に藤野の荷物らしきものは無い。東條は補足して説明する。
「道で鞄ごと失くしてたよ。残ったのはアウターのポケットに入ってた財布だけ」
「嘘だろ……」
ベッドから起き上がりカーテンレールにハンガーでぶら下がっていたアウターのポケットに手を入れる。そこには確かに二つ折りの財布が入っていたが、逆に言うとそれ以外何も入っていなかった。
「……東條、だっけ? 迷惑かけてごめん、すぐに帰るから——……」
「帰れないよ」
東條はきっぱりとそう言い放った。
「これ見て」
スマートフォンの画面を向けられる。そこには「○○区アパートで無差別殺傷事件。犯人未だ捕まらず」の文字が映されていた。
「は?」
「昨日が飲み会でよかったね。なんかピンポン押して開けた人片っ端から刺したみたい。慎も危なかったよ。普段家の鍵閉めないし」
「……マジ?」
「家にテレビ無くてごめんね」
情報源はこのスマートフォンのみ。だが、藤野はそれを疑わなかった。だってこの記事に映っている写真は、まぎれもなく藤野が住んでいるアパートで間違いなかったので。
「すまん、スマホ貸してくれ。部屋に帰れない、スマホも無い、鍵も無いってなると遠いけど実家に帰るしか……。親なら合鍵持ってるし、危ないなら犯人捕まるまで実家で」
「その必要はないよ」
東條は藤野の言葉を遮って無表情に言う。
「昨日のうちに電話で話してある。慎は今日から犯人が捕まるまで僕の実家に住んでもらう」
耳を疑った。どうしてそんなことになっているんだ。実家に住んでもらう? 今日(正確には昨日か)知り合ったばかりの人間の家に? 何ばかな事言っているんだ。大体、どうして藤野の親の連絡先を東條が知っている?
その答えは阿呆としか言えないものだった。
「タクシーでこの家に向かう途中でお母様から電話がかかってきて、ニュース大丈夫なの? って。そしたら慎が『うるせえババア!』って言ってタクシーの窓からスマホ投げ捨ててそのまま……」
「なにやってんの⁉」
「酔ってたけどなんとか実家の番号聞き出してお母様に危ないからウチで預かりますって伝えた。だから慎はウチにいなきゃいけない」
我ながらなんてばかな事を。スマートフォンも家の鍵も道路に投げ捨てて爆睡なんて。今からでも回収できないだろうか。警察は? そう聞くと「投げた先は川だったよ」と言われた。
「……俺、お前のことなにも知らないんだけど。っていうか、ごめんだけど男嫌いだから一緒にいたくない。厄介になるなら別の友達の所行くわ」
幼馴染なら事情を話せばほとぼりが冷めるまで家に置いてくれるだろう。荷物は——。不動産屋が合鍵を持っているだろうから事情を話して借りるか。幸い身分証明書は財布の中にある。それで合鍵を借りれるかは知らないけれど。そう思いベッドから立ち上がると腕を東條に掴まれ引き留められる。
「だめだよ。お母様から慎のこと預かってるのは僕だもん。——改めて初めまして。医学部四年の東條七生です」
男と目が合う。黒々とした澄んだ瞳が脳に焼きついた。この瞳を知っているような。でも、記憶のどこを探してもこの容姿とこの名前は見当たらない。キラキラとした水晶のような瞳。手を振り払うことが優先順位が先だと言うのに、藤野の脳はそれより先に橙が反射してきらめく彼の瞳を、綺麗だと思った。少しの怖さはあるけれど、男だというのに触れられても嫌じゃない。そんな人間がいれば少なからず覚えているはずなのに。
知らない名前。とうじょうなお。やっぱり覚えがない。
「ストレートだから二浪してた慎よりは年下だけど、偉ぶるつもりはないです。昨日の合コンで隣の席だったけど覚えてない?」
「……全く」
「じゃあこれから知ってくれればいいよ。実家は千葉県です」
「……千葉のどこ」
「上の方」
「……まあ都内まではすぐ行け」
「夢の国とは反対側」
「田舎じゃん!」
めちゃくちゃ乗り換えめんどくさいどうせ住宅街しかない田舎だろ? 買い物はマゼンタピンクのショッピングセンターで全部済ませろって感じの土地だろ? なんでこんな詳細知ってるんだ行ったことねえよ千葉なんて。
「でも不自由はさせないよ。衣食住は保証するし、欲しいものがあれば何でも買ってあげる。通販で次の日には届くように手配するよ。今すぐに必要、ってものだったら僕が車走らせて買いに行くし」
「……なにが目的?」
会って数日の人間にそこまでする意味が分からない。単純に人を疑うことを知らないばかなのか、尽くすことが生きがいなんですって言う自己満の塊タイプの人間か。藤野には理解できない。親には人を疑えなんて教えられて育っていないけれど、そこそこの年齢を生きていると人間に善意なんてものは無いのがわかってくる。
だが、東條は首を傾げる。
「『僕が慎を守ります』ってお母様に言ったから。それ以外ないよ」
「……理解できない。お前の親は? いきなり知らん奴が長期で泊まりに来て迷惑じゃないのかよ」
「……うーん」
明らかに困った表情をする東條に、藤野は目の前のコイツが後者の人間だと確信した。偽善者。自己満足の塊。自分が一番嫌いなタイプの人間だ。
「ほらな、かーちゃんには俺が話しておく。とりあえず家帰るわ」
そう言うと掴まれた腕に力が入った。
「違う、そういう意味じゃない」
「は?」
「多分、親はびっくりする。それだけ」
東條はそう言うと藤野の腕を掴んだまま黙り込んでしまった。さて、どうしたものか。
藤野は回らない頭を働かせて「わかった」と提案した。
「俺が欲しいものはお前の財布から出す」
「え?」
「俺はめちゃくちゃわがままだからお前にメリットをもたらさない。何ならお前に年上風吹かせて顎で使う。それでも引き取りたいのか?」
「うん」
即答だった。これだけデメリットを並べたのに頷くなんて訳が分からない。
「なに? お前にとってのメリットがわかんないんだけど。もしかして俺のこと好きなの? 俺狙いで合コンきた系?」
そう茶化してやると、掴まれていた腕が離れた。そして、自分がなにかとてもひどいことを言ってしまったような、そんな傷ついたような表情で東條は答えたのだ。
「……そうだよ」
そうだよ、ね。
窓ガラス越しに自分の姿を見る。東條より身長は小さいが女の子受けしそうなぱっちり二重のアイドル顔に、パーマのかかったブラウンの髪は少し長めのショートボブだ。理解は出来ないが、こういう顔が好きな男もいるかもしれない。生憎、藤野は女の子にしか興味が無いので、どれだけ東條が尽くしてくれても靡くことは無いのだが。
「慎、まだ朝早いよ。ここはもう大丈夫な場所だから、時間が来るまで寝ていいよ」
時計は朝の四時をさしている。確かにまだ寝ていてもいい時間かもしれない。そう言われると生あくびが出てきて急に眠気が顔を出す。自分の部屋じゃないのに、男の部屋なのに。身体の方はだいぶリラックスしているみたいだ。
「出かける前に起こすね」
そう、東條は言った。藤野はまあ、テコでも動かなさそうだししょうがないかと流れに身を任せることにしてベッドに潜る。寝具からは安心できる香りがした。
危ないから実家に連れてく? 意味が分からん。信用していい人かもわからないし、正直親が関係してなければついていきたくない。
……もう、裏切られたくないし。
藤野には父親がいない。
だから母に育てられてきた。母は社長業。そんな特殊な仕事をしている人だけれど気丈で、藤野をとても愛してくれる人だった。だけど働き詰めだったことにより、一度身体を壊したことがある。その時助けてくれたのが、祖父だった。
十歳の藤野は確かその時、祖父と言う存在が自分にあるのを初めて知った。父親が誰かわからない、そんな藤野を産んだ母は家から勘当されていてその時まで一度も会ったことがなかったのだ。しかし、母は倒れ、藤野はひとりで生きられない。そこで祖父が手を挙げた。自分が世話を引き受ける、と。
最初は良かった。だが、日をめくるごとに態度は変わっていった。
のちに母から聞くことになるが、祖母は子供が、と言うよりどこの馬の骨かわからない父に似た顔が嫌いらしい。
『慎は顔が良いから、ちやほやされるあんた見て自分の華々しいころ思い出して嫉妬してんのよ』
そう教えてくれたが、そんな裏事情を藤野が知るはずもなく。外では娘の子どもを預かるいい祖父。家では藤野の容姿に嫉妬し、体罰や暴言を吐くひとりの男。三ヶ月、子どもにとっては長い時間を振り回された藤野は母の所に帰された時、人間不信に陥っていた。人の善意の裏側に敏感になったのはそれからだ。信用できない偽善者が嫌い。祖父のような自己満足で物事を引き受ける人種が嫌い。一時期は母しか信用できなかったが、その母に教えられた言葉で今まで世渡りをしてきた。
『慎、お金と愛想はあればあるだけいいわ』
結果、藤野慎と言う人間は愛想だけが良い人間になった。人付き合いが表面上は大好きで、そのくせ、自分の稼いだ金しか信用できない。だから大学の費用を貯める為に二浪もしたし、その間身の回りの世話を手伝ってくれた母親には未だに頭が上がらない。いつか親孝行をするのが夢だった。藤野にとっては、たったひとりの家族で世界で唯一信用できる人間だったので。
……そう言えば、母はどんな顔で、どんな声をしていただろうか。
大学に入学してから二年経って、なかなか実家に顔を出せなかったけれど、それでも年に数回、顔を見に行っていたはずだ。それなのに、顔が思い出せない。どうしてだろう。母とは仲が良く、心配性の母は何度も電話をくれたはずだ。今はスマートフォンが無いからわからないが履歴も残っているはず。それなのに、顔も、姿も、声も、何も思い出せない。
——どうしてだろう。
記憶力は、いやなほどよかったはずなのに。
「……ろ、おき……」
「……ぅ、」
「起きないと単位出さないぞ!」
「すみませんでした!」
反射的に起き上がると、そこは講義室ではなく、声の主は教授ではなく東條だった。
「あはは、ようやく起きた。昼過ぎだよ」
「テメェ……単位の話は無しだろ……」
「真面目な学生なら反射的に飛び起きたりしない。まず寝ないから」
「反論させろ!」
「ご飯できてるよ」
そう言って彼は部屋を出て行く。残されたのは藤野だけ。ベッドサイドにはレモンとミントが浮かぶ水の入ったグラスが置かれている。飲めということか。そんなレモン水を朝から飲むようなオシャレな習慣ないぞ。デートで行くような小洒落たレストランにあるようなレモン水を流し込むと意外に喉に馴染んだ。
「おはよう、慎」
いい匂いが食卓へ迎えてくれる。卓には朝ごはんらしい品が並んでいた。東條は向かいでウェブニュースを読んでいる。
「それ面白いの」
「ニュース?」
「そう」
藤野は世界情勢に興味がない。自分が何をしたって起こったことは変えられないし、無意味だと思うから。なんなら今日が何日かもわからないけれど、新聞を見る気にもなれない。ニュースは難しいから読みたくない。薬学部がそんなんでいいのかと思うが。卓につき、いただきますと手を合わせて目の前の食事を見る。昼には軽いが、カリカリのベーコンに半熟っぽい目玉焼き。モチモチの厚切りトースト二枚。それに色とりどりの野菜が入ったボウルにはクルトンが入っていた。クルトンって小学校の給食ぶりに見たわ。
「慎が見ない分、僕が世界のこと把握してないと」
「そりゃどーも。酒とかないの。朝飯より酒飲みたいわ」
「あはは、慎、そんな無理にキャラ作らなくていいって。別に強いだけでアル中じゃないの、僕知ってるよ」
「なに、そんなことまで話したの」
「うん」
藤野は大学ではアル中として通している。
別に酒が好きなわけではないけど、酒がないと男性恐怖症が露骨に出てしまうので常に持っている。教授には大学で酒を飲むなとか言われるが、無いとコミュニケーションすら危ういのでしょうがない。カウンセリングは受けているが治らない。教授や大学職員は金という信じられるものが間にあるので大丈夫なのだが、どうも利害関係なしだとだめなのだ。でも、こいつの前では素を出していいと自分は昨日判断したのか。
なら、それを信じてみよう。
酒は諦め、トーストを無造作に口に入れると、口の中にジュワッとしたバターの甘みが広がる。シュガーバタートーストは藤野の密かな好物だ。母からは糖尿病になるわよ、なんて言われるからあまり食卓には出されなかったけれど東條には言っているのか。
「……千葉で何すんの」
「田舎だから。のんびりしていけばいいよ。好きなものだって約束通り何でも買うし」
「メリットがデメリットに釣り合ってねーよ」
藤野は都内で友達と遊びたいし、映える新作ドリンクを飲むためのカフェや女の子をナンパするバーにだって行きたい。田舎にはそんなものはないだろうから最悪だ。
「いつ帰れんの、東京」
「とりあえず長引いても夏休みまるまるあっちにいるからしばらくは……」
「最悪……」
思った事をそのまま口に出すと、東條は嬉しそうに微笑んだ。
「……何」
「いや、なんでもない」
「……変なの」
東條は何が嬉しいんだろう。どうやら藤野に好意を持っている事は分かるのだが、早朝聞いた時は微妙な反応をしていた。考えている事がわからない。藤野の思い出せる限りでの対人関係のなかでは見ないタイプの人間で扱いに困る。
「……絶対後悔させてやるからな」
「クーリングオフ期間はとっくに過ぎてるよ」
「お前の中では昨日から今日の時間が一週間になってるの?」
そんな経緯があり、現在は東條の車の助手席。
流れている東京で聴き慣れた音楽とは違い、車の外は非日常。本物の田舎みたいだ。畑ばかりで、辺りには家もない。
「ガチ田舎じゃん。ショッピングセンターも無さそう」
「そうだよ。だから上京したんだ、不便だから」
「ふーん。あ、そうだ。親御さんってどんな人なんだよ。菓子折りとかも用意してないんだけど大丈夫か?」
今日から長々とお世話になるのに手ぶらなんて非常識だと今更気づく。東條はそんな姿に声だけ笑わせて答えた。
「大丈夫だよ。ふたりとも慎を知ってる」
「お前なんか話したのか」
「ちょっとね。楽しみに待ってるよ」
自分だったら知らない奴をワンシーズン丸々預かるなんて無理だ。親戚でもちょっと危うい。
「変わってるかな? どうだろう。僕の知り合いは良い人だねって言ってたよ」
「そりゃ知り合いの親御さん悪く言えねーだろ」
「そうじゃなくて、慎の他にひとりだけ長期間泊まらせたことあって。人を」
「お前んちたまり場なの?」
「普通の家だけど。その人口悪いし忖度とかしないタイプの人だから、まあ良くない人たちではないと思う。少なくとも慎にとっては」
冗談は受け止めてもらえなかった。
「へ、へえ~。普通って言っても色々あるけど。普通の定義は人それぞれだし? これからお世話になるんだからどんな家か聞いておきたいなあ~!」
少しの沈黙の後、東條は「えっと」と返答する。
「畑がある」
「へ?」
「母が知り合いに勧められて家庭菜園をやってる。丁度夏野菜の収穫時期」
「お、おう」
そして沈黙。
「ほ、他には……?」
今のところ夏野菜がある事しか情報がない。着けばわかると言われればそれまでだが、いきなり知らないところに拉致されるこちらとしては不安しかないのだ。少しくらい情報を集めておきたいと思うのは普通のことだろう。普通のことだよな?
「他……」
また東條がフリーズしてしまった。お前の実家だろ。なんでお前がフリーズすんだよ。
「……近くにコンビニがない」
「初手でデメリット言うのはどうなの。メリットとかないの?」
「夏野菜が」
「夏野菜はいいから」
どんだけ夏野菜推し? 野菜は嫌いじゃないけれどガッチガチの農園に連れて行かれたら都会っ子はどう反応していいかわからんぞ。家庭菜園って言ってもレベルがあるし。庭レベルなら「わ~立派ですね~(朗らか)」で終われるけどビニールハウスレベルなら「わ~立派ですね(震え声)」になる。もし後者だったら話を合わせられるように事前に調べておきたい。ポケットを探るがスマートフォンがない事に気がついてがっくりと頭を垂れた。失くしてるんだった。スマホ社会、こういう所ダメ。
「あとは……星が綺麗だと言われた」
「星?」
「街灯が全くないから、星が良く見えるって。僕にとっては当たり前のことだったけど、その人にとっては珍しい事で、喜んでくれて。それが印象に残ってる」
その声色はとても優しく、何かを懐かしんでいるように見えた。
「その人って一回泊まったって言うお客さん?」
「……エスパー?」
「そんくらいわかるわ」
「……そうなんだ……」
何故か難しい顔をする東條に首を傾げる。
数時間ほどのドライブの後、ビルの森を通り抜けて田んぼ道を経由して到着した東條の実家は目を見開くような大きさだった。
「着いた」
「デッカ……」
車を停めた先は、この土地にいくつ家が立つのだろうと思うような広いお屋敷だった。古き良き瓦屋根の日本家屋で、きちんと定期的に手入れされているようだ。不気味さや汚らしさなどは一切感じられない。これが実家ということは、土地の値段や色々考えても、東條はお金持ちの家に生まれたのだろう。自分もそこそこの家に生まれた自覚はあるが、ここに住むとなると少したじろいでしまう。うちが一代で栄えた家だとすれば、東條家は由緒正しきお家柄という感じ。ちょっと帰りたくなった。
「ただいま帰りました」
東條が玄関を開ける。藤野はその後を恐々しながら着いていく。すぐに誰かの足音がして、顔を上げてみると、そこには気の良さそうな七十代前半くらいの女性と男性が藤野の事を嬉しそうに見ていた。
「あらあら、慎さんこんにちは、七生の母の真紀子です。名前で呼んでね! それにしても聞いてたより随分可愛らしいわね~!」
「可愛らしいは失礼だろう母さん。慎くんは男性なんだから」
「あ……そうねえ、ごめんなさい、気を悪くしちゃったかしら……」
真紀子が旦那であろう男性に注意され、犬が叱られたようにしょんぼりとする。それを見た藤野は男性を見て反射的に東條の後ろに隠れた。
「あら? どうしたの?」
「あ……えと……」
まずい、これからお世話になると言うのに発作が出てしまった。だって仕方ないのだ。東條の父らしき男性は祖父と年代がまる被りの見た目だし、どうしても怖い。酒を持ってくればよかったのだけど、自分に父親がいないためか実家=男がいるに全く結びついていなくて失念していた。
「す……、すみません! 失礼なのはわかってるんですけど!」
「慎は男の人だめなんだって言わなかったっけ」
「ああ、そうか。すまなかった、久しぶりに他人を家に呼ぶからそういう事情を失念していた。大丈夫だよ、慎くん。ここに怖い人は誰もいないから」
「……すみません」
ふがいない。初手からこんな失礼な行動をする羽目になるなんて。
「慎、大丈夫だよ、僕がついてるから。ね?」
「……うん」
東條が笑い、藤野の手を握る。冷たい温度の手に落ち着いた。
「よかった~。慎さん、これからよろしくね」
「よろしく……お願いします……」
その様子を見て真紀子はホッとしたのか纏っていた空気が明るくなる。こんな醜態をさらしても受け入れてくれるなんて。第一印象的にはどうやら東條夫妻はとても良い人らしい、と感じた。それからやっぱり菓子折り持ってくればよかったと後悔した。
こんなところじゃなんだから、と夫妻に通されたのはこれまた広い和室だった。すぐにお茶を用意するわ、と真紀子は出て行き、部屋には藤野、東條、東條父の男三人になる。
「慎くん」
「は、はいっ!」
東條の父は身体が大きくそれなりに威圧感がある。厳格そうな見た目もありなおさらだ。先程は真紀子の朗らかさで隠れていたが、どうも改めて向き合うとやっぱり怖い。東條の握ったままの手をぎゅっと握る。
「七生の父の豊です。これから……、一か月くらいかな。一緒に暮らすことになります。何か困ったことがあれば遠慮なく言ってほしい。私じゃなくて、七生に言ってもいいから」
「あの……ご迷惑じゃないでしょうか。いきなり長期間他人と暮らすなんて」
恐る恐る手を挙げると、豊は微笑む。
「これは七生の為でもあるから」
「……父さん」
「わかってる。……慎くん、七生は少し疲れているけれど、きみにとってマイナスになるようなことは絶対しない。だから、七生の事をどうかよろしく頼む。仲良くしてくれるだけでいいから」
「父さん」
東條が冷たい声でそう呟く。今まで接してきた優しい東條と同じ声帯から出たものとは思えないその声に、驚いて肩を跳ねさせた藤野を見て、豊は「すまない」とこちらに向けて呟いた。
「大人の関係に口を挟むべきじゃなかったな」
そう眉を下げたのと同時に、真紀子が襖をあげて入ってくる。その姿は旅館の女将の如く洗練されていて、こちらまで背筋を伸ばしてしまう。きっと彼女はいい育ち方をしてきたのだろう。
「七生さん、またなにかあったの?」
お茶を出し終わった真紀子が首を傾げる。東條は否定するようにふるふると頭を振った。
「なにもありません」
「……七生さんが言うならそうなんでしょうね。慎さん、冷たいお茶でよかったかしら? 今日は暑いから」
「あ、はい、ありがとうございます」
暑いのは確かだったので遠慮なくお茶をいただく。そこら辺のペットボトルとはまた違う深みのある味で、やっぱりいい家なのだと感じた。そんな家柄の子どもが自分と同じ大学とは。不思議な事もあるものだ。ここまで良い家ならばもっとレベルの高い私大にでも、と思うけれど。藤野と東條が通う大学は、偏差値的にはそこそこの国立だ。ちょっと過去に忘却剤とかいうものを出しただけの特殊な研究室があるだけの普通の大学。薬学部である藤野はその大学病院のコネが欲しくて——……もっと言えばワンチャンそこで働けないかな、と思って二浪もして入学したわけだが、人生はそんなにうまくいかず、就職は普通の薬局にしようかなと考えている。東條は医学部だと言っていたか。だったら院とか、まあ色々考えてるのかな。と予想してみる。まあ別に藤野の人生に彼の進路なりなんなりは全く関係ないのでいくら考えても無駄でしかないが。
「あの、東條くんからどこまで聞いてらっしゃいますか? 俺も突然のことで混乱しているんですけど、豊さんと真紀子さんの方が昨日の今日で混乱しているかと思うんですが……」
沈黙に耐えられず恐る恐る聞いてみる。真紀子は朗らかに答えた。
「えっと、お家に帰れなくなったのよね」
「はい」
「……」
「……」
真紀子も豊もそれから黙ってしまう。その後顔を合わせると、こちらに向けて困ったように微笑んだ。
「えっ、それだけ⁉」
「まあ……」
「東條⁉」
「あはは……」
つまりこの空気はアレだ。
東條は自分の親に全くと言っていいほど状況説明をしていない。
「東條~? お前これはお前~! 契約違反だ! 早く東京に俺を帰せ!」
「まあまあ」
「いやあなた達の迷惑になるからって話ですよ!」
この子にしてこの親あり。ふたりともおっとりしていて(しすぎている)東條の胸倉を掴む藤野を宥めている。藤野は東條夫妻の迷惑になるから帰る、と言いたいだけなのだがまるで藤野がわがままを言っているような構図になってきた。どうなってんの?
「あの! 息子さんになに言われたのか俺は存じませんが、本当に長い間お世話になるなんて迷惑になるので無理です! 東京に帰ります! お邪魔しました!」
藤野は部屋を出ようと立ち上がる。「待って」と東條は藤野を止めたが元はと言えばちゃんと説明をしない東條が悪い。例え他人を近くに置いたとして、最初は良いのだ。だけど、他人だからこそ言えない生活の不満はどんどんたまっていって、いつか爆発する。藤野はその怖さを実際に体験したことがあるからこそ、警戒する。
もう二度と、受け入れられてから捨てられる、あんな傷つき方はしたくない。
「……迷惑じゃなければいいのよね?」
引き留めたのは真紀子の声だった。
「確かに、わたしたちは七生さんから『藤野慎さんという男の人がしばらくの間泊まりに来る』としか聞いていません。でも、男性ひとり、いいえ、七生さんも家に居ることになるからふたりかしら? そんな人数を老人が養うのは大変な事です。だから、もともと慎さんが来たら言うつもりだったことを言いますね」
真面目な声色にごくり、と生唾を飲んで次の言葉を待つ。
だが、続いたのは変わって初めて会った時と同じおっとりとした声だった。
「泊まる代わりに家事やってくれないかしら~?」
「は?」
「何言って」
「七生」
立ち上がりかけた東條を豊が声で制する。真紀子は続けていった。
「わたし実は腰を悪くしちゃってね~。家事がちょっと難しいの。でも、おうちは掃除やお手入れをしないと元気が無くなっちゃうし、みんなのご飯も作らなきゃだし、お洗濯も、お野菜のお世話もしなきゃでしょ? 泊まる代わりっていうか、住み込みで夏の間だけ家政夫としてバイトしてくれないかしら~! 勿論お給金は出すから~!」
「おねがい~」と両手を合わせて頼みこまれると何も言えなくなってしまう。確かに、その条件だとお互いにウィンウィンで利害の一致としてサービスの提供ができるだろう。部屋を見渡す。これほど広く、大きな家だ。これを腰を悪くしたご婦人がひとりで、と言うのは確かに思うところがある。東條の様に自分は善意の人間では無いが、もし彼女が本当に困っているならば……一度は受け入れようとしてくれた人なのだ。どうにかしてやりたいという気持ちは無くはない。
藤野は少し悩んだ後「あの……」と絞り出した。
「あら、なあに?」
「本当に嫌になったら言ってください。出て行くので」
そう言うと、真紀子と豊は顔を見合わせて笑った。
「貴方が慎さんである限りは大丈夫よ!」
その意味は分からなかったが、この会話の原因である藤野の隣の東條は、胸を撫でおろしていた。
「ここが慎さんのお部屋ね、あんまり物がなくてごめんなさいね」
「それよりも広すぎて逆に怖いんですけど」
藤野にあてられた部屋は普段客間に使っているという和室だった。高そうな掛け軸が飾ってある下には真紀子の作品なのだろうかどこの流派かは分からないが活けた花が飾られている。押し入れに布団があると言うことで触ってみるとふっかふかだった。自室のベッドよりふかふか。高そうだ。
「大丈夫、出ても座敷童よ」
「全然大丈夫じゃないです」
「母さん、慎は幽霊とかそういうのあんまり」
「あらそうなの」
確かに幽霊の類は苦手だが昨日そこまでこの男に自分は話したのか。記憶が無いのでどこまで自分のことをばらしたのかがわからない。変な事を口にしてなければいいけれど。だが、幽霊よりなにより一番怖くて厄介なのは同じ人間だと思っている事。それさえこの男と家族にバレていなければそれでいい。
「僕の部屋は遠いから何かあったときに不便だね。布団こっちに持ってこようか」
「それって一緒に寝るってこと?」
「うん」
誰が男となんて一緒に寝るか、むさくるしい。いや、東條は太ってないから幅取らないし、部屋は広くて綺麗だし、イメージ的にむさくるしいという感じではないんだけども相手が例え女の子だとしても他人に力の入っていない部分を晒すのはに若干の抵抗感がある。
「一緒に暮らしてる上に部屋まで一緒はちょっと」
「対策はしてるけど虫出るかも。ムカデとか」
「やっぱ頼むわ」
藤野の嫌いなものは主にみっつある。ひとつは偽善者。ふたつは幽霊。そして最後に虫、特に多足類の類であった。もう出られたら固まってどうしようもできない。それが出ると言うのならもうしょうがない。背に腹は代えられない。
「あいかわらずねえ」
にこにこと真紀子が笑う。藤野はげんなりしながら「都会っ子なんで」と口に出すが、すぐにそれが失言だったと気づき、慌てて訂正する。
「いや、田舎が悪いとかではなく! あっちには虫とかあんま出なくて慣れてなくて無理って言うか」
「大丈夫よ、前にここにいた子も虫は嫌い~! って泣きついてきたもの」
「それって夏野菜の?」
「あら、七生さんそこまで話したの? そうよ、都内に住む七生さんの大事な人でね、慎さんの滞在予定の一ヶ月よりちょっと長くウチにいたかしら? よくお手伝いしてくれるいい子でね、そこにお花があるでしょう?」
「ああはい」
掛け軸の下に活けられた花のことだろう。
「あれもその子が考えたデザインなのよ」
「華道が出来たんですか」
「ええ、私が華道の仕事してて……今は趣味なんだけどね。お花を活けてるところを見て自分もやってみたいって」
「へえ~」
お花に興味持っているということは多分女の子だろう。大切な人と言っていたし東條の彼女……。いや、合コンに来ていたということはもう別れているのか。元カノ(暫定)とはどうして別れたのか知らないけれど、実家に連れてくるほどだ。きっと仲が良かったに違いない。
「その子と会えなくなってもう一年経ったのだけど、一緒にいた時が楽しくて。たまに思い出すとあの子が活けたのと同じものを作ってしまうの」
「いい子だったんですね」
「ええ」
少し悲しそうに言った真紀子の反応からかなり気に入っていたのだろうと言うことが察せられた。反応に困る質問しちゃったなあと反省しているとタイミングよく電話のベルが鳴る。
「あらあら、ごめんなさいね、ちょっと待ってて」
真紀子はそう言うと急いで部屋を出て廊下へ駆けて行った。
「元カノいい子そうじゃん、東條そんな子と別れるとか何したんだよー」
えいえいとふざけて肘で小突くと東條は困った顔をする。それから言いにくそうに答えた。
「別れたつもりはないんだけどね」
「え」
「消えちゃったの、僕の前から」
「……あ」
そんな話だとは思わなかった。
自分の失言を正当化しようとして思いつく。確か、東條は藤野のことが好きだと言っていた(昔の話だと言っていたから、多分どこかで株を落としたのだろうけれど)だから、その元カノにはもう未練はないのかもしれない。
「えっと、東條は俺のことちょっといいなくらいは思ってたんだろ? ってことはもう乗り越えたのか?」
「うーん、どうだろ」
東條は首を傾げる。
「もうどこが好きだったか忘れちゃったから。好きだったことだけは覚えてるんだけど」
「……そっか」
藤野は大事な人を周りからなくした記憶が無い。だから東條の気持ちは分からない。こんな時、どういう反応をすれば正解なのだろう。無言の時間だけが、ふたりの間に流れ、それを壊すようにぱたぱたと真紀子が戻ってくる。
「七生さん、慎さん、ごめんなさい。頼みたいことがあるのだけど……」
困ったような表情をする真紀子を見て、藤野と東條はお互いの顔を見合わせた。
とにかく田舎で暮らすのには車がいる。
……と言うのは真紀子が言っていたことだ。話は十数分前に遡る。
『お父さんがね、用があって車でご近所さんのお家に行ったんだけどね。わたしついでに煙草を買ってきてって言ったのに忘れてきちゃたみたいなの。七生さんちょっと自分でコンビニまで行ってきてくれないかしら』
『えっ、真紀子さん煙草吸うんですか』
真紀子はいいとこのご婦人、と言う感じで歯も白くヤニがついてもいない。そんな彼女が煙草を吸うなんて意外だな、なんて思ったのだがどうやらそれは真紀子が吸うものではないらしい。
『わたしじゃないわよ?』
『じゃあ豊さん』
『お父さんも吸わないわ』
『え、じゃあ誰が……』
見た目的にふたりとも確かに喫煙者の雰囲気は無いけれど。じゃあ誰が?
その疑問に答えたのは東條だった。
『吸うのは僕』
『えっ』
『父さんに頼んでたんだ。外に出るならって。でも忘れちゃったなら母さんの言う通り自分で買いに行こうかな』
『気分転換がてら慎もいく?』と言われ、親御さんと東條抜きで三人と言うのもアレだったので(東條がいなければ豊と対峙もできないし)藤野もついていくことにした。東條が所有する黒の自動車の助手席に乗り、シートベルトを締める。東條はコンビニまで長いから、とカーナビのモニターでニュースをつけてくれた。カーナビの画面に映された映像が窓の外の景色の移り変わりと共に切り替わる。
『——……数年前に合法化された忘却剤を使用する国民は年々増加しており、薬の過剰処方による死亡事故に政府は問題視を……』
「うわっ、嫌なもん見た」
カーナビの画面に映るニュースが嫌いな話題を流してくる。この類の話は藤野が嫌いな話題のひとつだ。
「……チャンネル変える?」
「そうして。マジわかんねーよ、なんで自分の記憶消したがるのかね。イジメとかそういうトラウマがあるならわかるけど最近のは覚えてないから犯罪したかわかりません~みたいなやつだろ?」
「そういう使い方もされるらしいね」
「薬剤師見習いとしてありえん」
数年前に開発された薬『忘却剤』は名前そのまま、飲んだ日の事を忘れさせてくれる薬だ。鬱病や漠然とした不安感からくる精神病に対して作られたらしいが、今は悪用する輩が多い。一錠飲めばその日の何かを忘れる。つまりそれ以上飲めば……。オーバードーズで幼児退行や障害が残るなどのトラブルもあり藤野はこの薬にいい感情を抱いていなかった。
「東條はえっと……医者目指してるんだっけ。医学部だからそうだよな」
「うん。目指してるのは精神科医だよ。父さんが医者だからその流れで医学部に入ったの」
「え、豊さん医者なんだ」
「うん、精神科医」
驚いた。医者は忙しいイメージがあるが、そんな中せっかくの休みに知らん男が来たと言うシチュエーションに申し訳なくなる。たまの休みくらいゆっくりしたいだろうに。
「あ、でもでも、もう定年したから忙しくないよ。休みの日に申し訳ないとか思わないでね」
「そう……」
考えを見透かされていたのかそうフォローをされてしまう。その間にもニュースは進む。
『本日、○○県の個人医院で忘却剤の過剰処方が明らかにされ——』
「うわ、こっちのニュースもかよ」
「どこもこの話でもちきり」
「この薬って確か依存度が高くて副作用も……過剰服薬したらやばいんだよな……。マジで過剰服薬とかする奴の頭が見てみてーわ。下手したら死ぬんだぞ」
忘却剤は一定の記憶を失くすことができる。だが、人間とは一度学習すると面倒なもので、味を占めると「繰り返して」しまうのだ。いやなことがあるとすぐ薬に頼り、いやだったことを「なかったこと」にする。それが続いて癖になり、どんどん大量に使ってしまうと、今度は副作用が起こる。記憶が混乱し、人格を保てなくなってしまう。これは巷で「人格の仮死」と呼ばれる症状で、国でも問題視されている事のひとつだ。「仮死」なんて言うが、元の脳と人格に戻ったなんて話は滅多に聞かない。実質的な個人の死——……最も「個人」が肉体ではなく記憶の蓄積による集合体をそう仮定するのであれば——もし、「個人」を消滅させるために過剰服薬するのならそれは自殺と何も変わらない。
「……でも、本人にとってはなにもおかしくない事かもしれない」
「は?」
「……死は救いになりえる」
「おいおい、医者が何言ってんだよ。生かしてこその商売だろ」
そう言って茶化して笑ってやる。だって、そんな、なんてことを。
死は救いだなんて、考えること自体がおかしい。
だって、死んだらそこで終わりだ。終わってしまったら何もできない。謝ることも、泣くことも、ありがとうと言うことも出来ない。
そんなのは。
「慎は分かんなくていいよ」
「なんだそれ。それは医者志望として? それともお前個人として?」
「勿論、僕個人としてだ」
「医者失格だな。目指すのは辞めた方が良い」
厭味ったらしく言うと小さく笑われた。
「家のことがなければ医者になんかなろうと思わなかったよ。……今は、医者にならなきゃいけない理由があるけど」
「理由?」
運転する目線も頭も前から動かさない。顔色も変わらない。だけど声色だけが、重く空気にのしかかった。
「忘却剤を出したい人がいる」
「連れてきゃいいだろ、医者に無理矢理」
「自分じゃ気付いてないんだ。病気な事。医者になればあの人に忘却剤を出してあげられる。今、その人依存症に苦しんでて。こっちはいくら忘れられてもいい。生きててくれればいいんだ。苦しい想いが重なって自殺ってパターンが一番怖い」
藤野は何も言えなかった。医者ならまだしも薬剤師なんてほぼ処方箋通りに薬を出すことしかできない。もし忘却剤を出せと言われたらそれに従うしかない。でも、忘れる事で全て解決するだろうか? 藤野は解決しないと思う。どんなに辛くてもちゃんと現実と向き合わなければ、いつか大切な事だって忘れてしまう。
「……あ、あれがコンビニ」
目の先に小さな店が見える。都内にあるような見慣れた看板では無く、どうやら地域特有のソレのようだ。
「あれ売ってたよな、マックスコーヒー。あったら買う」
言ってから自分で驚く。このコンビニに来たのは初めてのはずだ。だってここに来たのが今年で初めてなんだから。なのにどうして、ここにマックスコーヒーが売っているのを知っている? 財布を出しながら手を止めると「そのくらい出す」と東條が財布を出す手を制した。
「在庫あったらね。ここなんもないから」
東條はそう言うとスタスタと先に行ってしまった。慌てて藤野も後に続く。コンビニの中は空いているスペースが多く、やる気のなさが伺える。それとも地元にここしかコンビニが無くてすぐ物が売り切れてしまうのだろうか。彼はドリンク売り場でラスニで残っていたマックスコーヒーを取ると、タバコを買うためにレジに向かう。
藤野はその間暇だったのでところどころ空いたラックを眺める。少し見ていない間にだいぶ新商品が出たらしい。知らないものばかりだ。それとも地域が違うからか?生まれも育ちも東京の藤野は特に旅行などもしたことがなく、地域限定商品に疎いのだ。
会計が終わったので車に戻り、買ってもらった缶のプルタブを開ける。
「今日の飯なんだろ。コンビニで自分の分買ってきた方が良かったかな」
「ちらし寿司だと思う。慎が好きだから」
「あれ、それも母さんから聞いてんの?」
「聞いてるっていうか」
そう言い切らない内に東條は黙り込んでしまった。なんなんだ一体。あぁ、もしかしたら全部筒抜けになってるのが不快だとか思われてるのかも知れない。東條とはこれから長い付き合いになるし言わなくてもわかってくれるなら面倒じゃないから助かるが。
「そしたら真紀子さんの手伝いするために気合いれなきゃな!」
ポーズとして腕まくりをすると東條は笑った。一緒に買ったもうひとつの缶に口をつけてエンジンをかけずにそのまま背もたれに寄り掛かる。
「ねえ、慎」
「なんだよ?」
「僕のお嫁さんにならない? この土地でずっと一緒に暮らそうよ」
「何言ってんだお前」
だけど東條は笑っていなかった。悲しそうに、どこか遠くを見て続ける。
「その方が幸せだよ。僕は絶対医者になるから苦労はさせない」
「あいにく」
金関係には厳しい性格の藤野はため息を吐く。
「俺は自分の稼いだ金しか信用してないんでね。それに親孝行もしたいからさっさと事件のほとぼりが冷めたら東京に帰る」
そう言うと東條は「知ってた」と笑った。
「言ってみただけ」
そうして車にエンジンをかける。やがて走行し始めた車の中で藤野は思う。
——どうして東條は俺にこんなに好意を抱いているんだろう?
大学の後輩らしいが会ったことは無い。合コンは飲み過ぎたのか記憶が無い。単に困った人を放っておけない偽善者かと思ったが、その行為はどうやら好意によるものらしい。だが、東條に関する記憶は一切無い。
少し唸って考えたが、藤野の残念な頭では答えはひとつしか考え憑かなかった。
「一目惚れか」
「ん?」
「いや、お前俺のこと好きなのなんでだろって思ってひとりで納得しただけ」
その解答に東條は優しい声で笑った。何も間違ってないとでも言う様に、否定もせずに。
その日の夕食は東條の予想通りちらし寿司だった。真紀子の料理はどれも好みを把握されているのかと思うくらい恐ろしく口に合い、舌つづみを打ちながら楽しんだ。そんなものを頂いたなら完全な客になれるわけがない。何か手伝えることはありますか、俺はバイトなんですからと言うと洗い物を手伝って欲しいと言うことだったので、今は真紀子の隣で皿から水気を拭っている。
「慎さん、手慣れてるわね。最近家事はするの?」
「皿拭きに慣れとかあるんですか? まあ……親が片親で、それなりに家事は。今は一人暮らしですし使い捨て容器はコスパ悪いし家事とか自炊はそれなりに」
「そう、慎さんさえよければウチにいつでもいらっしゃいね。いつでもご飯用意するから」
「免許取れたら是非……」
あんたらは好きだけど絶対来ねーわこんな田舎。愛想笑いで真紀子の話を受け流し、話題を変える。
「今日、俺の好きなものばかりで嬉しかったです。東條がウチの親に聞いてくれたんですかね?」
「いいえ。前来てた子がね、言ってたの。だから慎さんも好きなのかしらってやってみたら当たっただけよ」
「ああ、例の」
「握りよりちらしの方がお得感があるって」
「確かに一理ある」
ちらしの方が具が多いし、はずれが無いし、出前を取る時低コストだ。
すし屋で一時期バイトをしていた藤野が言うのだから間違いない。まかないで出た余り物で作ったちらし寿司は美味しく、高校時代から好きな食べ物のひとつだ。
「そうだわ、あのね、七生さんから話を聞いてね。慎さんが好きかしらと思ってお父さんにチョコレートを買ってきてもらったの。茶葉も買ったわ。お皿洗いが終わったら一緒にどうかしら」
「チョコですか⁉ 是非!」
チョコレートは大好きだ。純粋に食べれるのは嬉しい。
だけど、そう思うのだけど、なんだろう、この胸がざわざわする感じは。なんだか、へんなかんじ。藤野は今日初めてこの家に来た。東條とは昨日初対面だし、母親が情報を色々流しているとは言え、全てを把握されているわけではないはずだ。東條家に来て初日。それなのに、あまりにも「不便がない」藤野が抱いた感想はそんなものだった。
「慎、今日の分の薬置いとくよ」
「ああ、サンキュー」
東條がリビングから声をかけてくれた。
目覚めて一番最初に目に入ってきたのは東條の寝顔だった。
「うお⁉」
とびのく藤野だが東條は起きる様子がない。だいぶ安心して寝きっているらしい。ぐっすりな東條を起こす気も起きず、布団からゆっくりと出る。同じ布団には寝ていなかったはずだが一緒に寝ていたということは……。布団の方を見る。東條の方の布団がはねっかえされていた。恐らく寝相が悪く、藤野の布団に潜りこんでしまったのだろう。
短針は朝の五時を指している。早い時間に起きてしまった。
昨日の夜は——、布団に入った時の記憶が無い。まあいいか。
とりあえず水を貰おう。音を立てないように襖を開け、台所へ向かうとまな板と包丁がぶつかる音が響いている。覗いてみると既に真紀子が立っていた。
「真紀子さん、はやいですね」
「あら、慎さんこそ! おはようございます」
「おはようございます、手伝いますよ」
「あら、ありがとー。じゃあトマト切ってくれる?」
そうして渡されたのは四つのトマト。みずみずしく美味しそうな色をしている。
どうやら本日の朝食は焼き鮭とわかめの味噌汁、雑穀米に冷ややっこらしい。このトマトは何に使うのだろう。この和風のメニューにトマト。しかも単体。サラダならわかるが、単体。首を傾げる藤野を真紀子は笑った。
「わたしもね、最初はありえないと思ったんだけど、前にウチに来てくれた子が教えてくれたの。砂糖かけると美味しいんですよって」
「トマトに砂糖……」
「びっくりするでしょ? 今ではウチでは定番のデザート」
藤野の母は甘党でなんでも砂糖をかける人だった。そのくせ、藤野には糖尿病になるからとメニューには出すことはせず、ひとりで甘味を味わっていたものだから、幼い藤野はそんな母を見て隠れて真似をしたりしていた。トマトに砂糖もそのひとつで、藤野にとっては珍しくもない。ただ、人の家でそれが「普通」になっているのは初めて見た。みんな藤野の家の常識は「変」だと言っていたから。
「慎さん甘いの好きでしょう?好きなだけかけて良いわよ」
「人の家なんでほどほどにしておきます」
「自分の家だと思ってくれていいのに」
そうして歪な朝食が完成した。真紀子に東條を起こしてきてくれと言われたので、藤野は自分に割り振られた部屋に戻る。
「東條―、あさだぞー」
部屋に戻ると東條はぐっすり寝ていた。朝は強いほうだと勝手に思っていたがあの最初の日は寝ていなかったのかもしれない。
「とーうーじょーうー、真紀子さんが起きろって」
「んー……」
ブランケットのおくるみのなかでもぞもぞと出てきそうにない東條にどうしたものかと考える。どうやら彼はだいぶお寝坊さんのようだ。どうにか彼を起こす方法は……と考えていると小さく「まこと」と声がした。
「おっ、起きたか」
「……」
座ったまま起き上がったブランケットの繭のなかから二つの目がのぞく。かわいらしい。
「真紀子さんが朝飯出来たから呼んで来いって。いこーぜ」
「まこと」
まだ寝ぼけているのか東條はぼーっとしたままだ。マジで寝起き悪いんだな。と見ていると頭からかぶっていたブランケットが肩までずり落ちる。そしてその裾を掴むと「来い」と言うようにブランケットの裾を突き出した。
「さむいからおいで」
いや、めちゃくちゃ猛暑ですけど。でもどこかその隙間にあらがえない自分がいる。藤野はまるで自然なことのようにそのまま近づくとそのままブランケットの隙間、彼の膝の上にすっぽりと収まり自分から抱きしめられた。ああ、あたたかい。あまり意識していなかったけれどエアコンで冷えたこの部屋を自分は寒いと思っていたのかもしれない。
「わっ」
東條は藤野を抱きしめたままごろっと布団の上に横になる。
「おいっ!」
驚いて東條の顔を見ると彼は目をつむって眠ってしまっていた。
「……眠り姫め」
改めてよく見るとやはり東條はかっこいい。
コイツが自分のことを好きだというのならちょっとくらいは付き合ってあげてもいいかな、的に思うくらいには。美人系の顔の作りだから男男していないし。
完全に藤野が東條の顔面に見惚れていると、自分の頭上から女性の声がした。
「あら~、なかよしさんね~」
頭上を見るとそこには真紀子の姿が。慌ててブランケットの繭の中から飛び出ると彼女は口に手を当ててうれしそうに笑った。
「照れなくてもいいのに~」
「照れてません! ほら、東條! 起きろ!」
頭をひっぱたくとようやく東條は目が覚めたらしい。「おはよう」と小さくあくびするとこちらに向けてふにゃりと笑った。
「まこと、きょうもげんきだね、よかった」
「おういつでも元気だよ! 飯覚めるから身支度してこい!」
「はあい」
部屋を出ていく東條を藤野と真紀子は見送り、藤野はため息をつく。
「あの起きなさは子供の時大変でしたか?」
そう言うと真紀子は「ふふ」と小さく笑う。
「昔はああじゃなかったのよ。あなたが来てから。甘えてるのね」
「甘えって」
「あの子、いつも気を張ってたから。外でも家でも」
真紀子はそう言い、「支度支度!」と戻っていく。
東條にとって藤野が甘えられる存在だとしてもだ、飲み会の時の自分はいったい東條に何をしたんだ。藤野は聖人君主ではないし、性格が良いとも決して言えない。東條は元カノを忘れられていないとみているのだが、その過去を置いて、藤野のどこを気に入ったのだろう?
どこか納得できない気持ちのまま、藤野は誰もいない部屋を出た。
どうやら東條は藤野と違って忙しい人間らしい。
「それじゃあバイト行ってくるから」
「おー、了解。今更だけど何のバイトしてんの?」
「塾講師」
「流石医大生だな、頭いい。ってか、もしかしてバ先って東京?」
東條は当たり前のように「うん」と頷く。ここから元々住んでいた家までどれだけ遠いと思ってるんだ。ほぼ毎日千葉から東京まで往復。東條にとって自分は負担にしかならないのにどうしてよくしてくれるんだろう。好きってそんなにすごいのか? 好きがわからない藤野にはわからない。今まで好きになった子は胸が大きいとか顔がかわいいとか外身だけ見て決めていて内面なんて見ていなかったし。
「お土産なにがいい? 東京ばなな?」
「地方民じゃねーからいつでも買えるんだわ。ってか、マジでこの生活続ける気? どう考えてもお前往復きついだろ」
「車運転するのは嫌いじゃないし。それに慎を東京に置いておくよりまし」
「別に大丈夫だぞ? 家帰らなくても実家行くって選択肢もあるし……。幼馴染、あ、同じ学校なんだけど赤崎翔子って知ってるか? そいつの家に居座れば……」
「やだ」
きっぱりと東條は答えた。
「慎を傍に置いておきたい。誰かの家にいるとかは僕が嫌」
「お前は俺の彼氏か」
——あ、でもあれか。こいつ俺の事好きなのか。
だったら藤野がほかの奴のところに行くのは複雑なのかも。
「まあお前が良いならいいか……。気をつけろよ、事故とかシャレにならないからな」
「慎を悲しませるようなことはしないよ。じゃあ、行ってきます」
そうして東條は家を出て行った。ここからは暇になるわけだが、間借りしている身なので立場はわきまえなければならない。見ている限り真紀子の腰が痛いというのは嘘だと思うが、彼女の手伝いをしなければならないし。藤野の手伝いは真紀子にとっては助かることは確かなようだし。
「真紀子さーん。東條行きましたよ」
「男衆、全員出かけたのねー。お茶してから洗濯物やりましょうか」
「俺も男なんですけど……」
「じゃあ旦那たち?」
「付き合ってもないんですが……」
そう言えば東條は藤野と自分の関係をどのように両親に伝えているのだろう。友人? 知人? どうやら東條は藤野のことを一方的に知っているような雰囲気があるが、藤野は彼と会った覚えがない。だけど全くの知らない人間を実家に置くのも説明がつかないし……。
「え」
「付き合ってもない」その一言に真紀子は固まった。まるで驚いたように。まさか東條は自分と藤野が付き合っているとでも説明していたのだろうか。いや、でも顔合わせの時には何も説明されていなかったようだった。
「……まさか東條、俺と付き合ってるとか説明して……?」
「いや、その、ちがうのよ。ただ……」
「ただ?」
「その、七生さんが慎さんに告白してなかったのが意外で」
「アピールはされてますけどね。なんですか、前から東條って結構押せ押せタイプだったんですか?」
「前来てた子にはね……」
例の恋人か。その話がなくても関係の薄い人間を実家に拉致するのは控えめな性格のやることではないから恋愛観が押せ押せなのもわかる。だが、真紀子は言いずらそうに答える。
「七生さん、本当はあんまり自分の意見を口に出さないの。遠慮がちなところがあって」
「俺はその姿見たことないですけど……」
「それは慎さんだからよ。大学に入るまではね、本当に控えめで。実の親が死んじゃってからかしら。うちに引き取られるのもだいぶプレッシャーだったみたいで」
「え、真紀子さんと豊さんって……」
「七生さんの祖父母。お嫁さんを亡くした息子がね、自殺しちゃったの。それでウチに」
そんなこと聞いていない。東條は全く藤野にそんな話しなかった。
「実の父親も今の父親も医療系だったから、自分もって中学の時から気を張ってて。頑張り屋の子だったんだけど頑張りすぎて精神を病みかけてて。それで出会ったのが前の恋人さん。それから元気になってね、大学に入ってから全く実家に帰ってこなかったのに彼を連れてきて。びっくりしたけどもうひとりで頑張ってないって言うのが嬉しかったわ」
「そう、なんですか……」
前の恋人は東條にとってかけがえのない人間だったのだろう。
それを上書きできるほどのことを藤野は東條にした覚えがない。東條は自分のどこを好きになったんだろう。藤野にはそれがわからなかった。
「失礼なことを聞きますけど、東條ってゲイなんですか?」
真紀子はその質問に嫌な顔をしなかった。「わたしの記憶では……」と思い返すように言う。
「恋愛も何も、人嫌いな子だったわ。男とか女とか関係なく人間が嫌い。わたしたちに心を開いてくれたのも彼が来てからだもの。父親がアレだったからかもしれないけどね」
「アレ?」
「忘却剤、知ってる?」
「ええ、まあ薬学部なんで」
「あの薬作った人。色々叩かれて精神病んで自殺。そういうのを小さいながらに見てきたから、他人が怖くなっちゃったのね。今は違うみたいだけど」
突然の告白に藤野は何も言えなかった。東條の父親があの薬を? だったらそれを否定した藤野は東條にとって酷いことを言ったんじゃないか? 誰だって親を悪く言われれば腹が立つ。それも尊敬しているものならなおさら。藤野はやっぱり忘却剤のことは好きになれないけれど、東條が、その父親が、人のためにそれを使おうとしているくらいはわかる。
「……そうとも知らずに、東條にとっては酷いこと言ったかもしれません……」
「あら、どうしたの?」
「忘却剤のことは理解できないと……。それを使いたい東條は医者失格だと……。謝らなきゃですね……」
それはふたつの意味で息子を悪く言われたのと同じなのに、真紀子は優しく笑った。
「慎さんがそう否定してくれるの、あの子は嬉しいと思うわ。結末がどうであれ」
「え?」
聞き返すと、その声には真紀子は反応せずすたすたと台所に向かってしまう。
「お茶入れてくるわ。慎さんは座って待ってて」
「あ、はい……」
真紀子は気を悪くしただろうか。そのようには見えなかったが……。
やがて盆に茶菓子とお茶を載せて真紀子がやってくる。彼女は藤野に盆の上のものを差し出すと笑う。
「七生さんが帰ってきたら、ふたりでお話してみて。きっとそれが一番いいから」
「はい……」
「テレビでもつけましょうか」
そうしてつけたテレビ番組ではニュースとして忘却剤絡みの事件が流れていて気まずい思いになる。確かに、これで救われる人間はいると思う。でも、やっぱり忘れてはいけないことはあると思うのだ。たとえそれがどんなに辛くても。
『……今は、医者にならなきゃいけない理由があるけど』
『理由?』
東條は忘却剤絡みで医者を目指しているのはなんとなく言われなくてもわかる。
なんだか胸がもやもやする。別に、東條には何の感情があるわけでもない。会ったばかりの人間だし、特に思入れがあるわけでもない。でも、心のどこかで思うのだ。辛いなら話してくれと。力になれるのかはわからない。だけど、大事な人がいなくなって、誰も好きになれなくて、その中で唯一自分を気に入ってくれているのならお返しとして何かしてあげたい。だって、藤野が怖くないと判断した人間ならば、藤野に嫌なことをする人間では無い事は確かなのだ。誰も信じられないなら、そういう人は大事にしたい。
東條が帰ってきたのは夜遅くだった。もう真紀子も豊も寝てしまっていて、家で起きているのは藤野ひとり。なので勿論出迎えたのも藤野だ。
「おかえり」
「ただいま、遅くなってごめん」
「別に俺は夜型だから。ご飯温めるよ」
「ありがと」
台所に立ち、今日の夕飯を温める。そうしていると後ろから腕が回ってきた。
「調理中はおさわり禁止」
「普通の時ならいいんだ」
「よくねーよ。お前は付き合ってない女を抱きしめるのか? セクハラでしょっ引かれるぞ」
「慎が嫌ならやめるけど」
嫌じゃないから困るのだ。なんだ? 自分は無意識下で男が好きだったのか? いや、でも実際豊はまだ東條の手を握ってないと話せないから男性恐怖症は治っていないと思うし、男の裸見てもなんとも思わないしな……。そう考えていると密着した東條の頭が肩に乗る。
「嫌じゃないんだ」
「スキンシップは慣れてる」
主に女の子とのだけどな。付け足すと東條の声色は重くなった。
「またそういうこと言う」
「俺を好きにさせたいならおっぱいつけてこい、ほら、箸出せ」
東條に手伝わさせ、食卓に夕飯を並べる。東條家は和食が主らしく普段自分の分は簡単に済ませてしまう藤野には少々骨が折れた。でも、出来栄えは悪くないと思う。それに気づいたのか、東條はひとくち口に含むと反応を見せた。
「今日のご飯、慎が作ったの? 味違うけど」
「ああ、味付け教えてもらって俺が作った。どっか変か?」
「ううん、すっごいおいしい。慎はすごいね」
「もっと褒めろ~」
心配だったけれど、口に合ったならよかった。
東條は藤野の料理をすぐに食べ終わると台所に空になった皿を持っていく。
「洗い物やるよ」
「いいよ、慎の手が荒れる」
「過保護か。バイトなんだからやらせろ」
少しの押し問答の後、結局根負けして妥協案で皿拭きをすることになった。藤野は少し考えたが明るい時間に真紀子が言っていたことを聞いてみることにする。心の中でぐるぐるするのは自分には向いてないから。
「……あのさ」
「ん?」
「東條のお父さんって、製薬系の人だったの」
東條は一瞬手を止めると、何か諦めたような表情で言った。
「どこまで聞いたの」
「……お父さんが亡くなってることと、真紀子さんと豊さんは祖父母だってこと」
「別に重要なことじゃないな。隠してるわけでもないし」
「それから元恋人と出会うまでお前がずっとしんどそうだった、ってことも」
返答はなかった。多分、これは東條のやわい部分で簡単に触れてはいけない場所だ。でも、だからこそ手を伸ばさないといけない。しんどい時、そうしてくれる人はなかなかいないから。その元恋人がもういないなら、代わりになりたい。藤野を守ってくれると言うのなら、それくらいはしてあげたい。
「俺さ、年上だけど頼りない。頭悪いし、しんどい人に何言っていいのかわかんないし。でも、東條がしんどいなら力になりたいと思う。……俺に何かできること、ないかな?」
「慎には関係ないよ」
「関係ある!」
思わず大きな声が出て、口をとっさにふさぐ。夜遅い時間だ。真紀子も豊ももう寝室にいる。起こしてはいけない。でも、どうしてこんなことが口から出てしまったのだろう。確かに出会ってすぐの藤野には関係ない。東條は何も間違ってない。でも。
「……お前のこと、何も知らないんだ。お前は俺のこと知ってるみたいだけど俺は知らない」
「……うん」
「だから知りたいし、お前は良い人だから……少なくとも飲み会ひとつで俺が素を出すのに躊躇しなかったなら、信じたいし、仲良くなりたい」
「……僕はそんな良い人じゃない」
「俺にとっては良い人だよ。だから、もしなんかあったら頼ってほしい」
東條は下を向いてしまう。出過ぎた真似だというのは自覚していたけれど。でも、放っておけない。なんでかは、やっぱりわからないけれど、きっと唯一怖くない人だからだと思う。もしかしたら一目惚れしたのはこっちだったのかも。そう考えるくらいには東條のことが気になっている。だって、こんなの奇跡じゃないか。ずっと患っていた男性恐怖症をひとつ触っただけで解いてくれるなんて。
「慎」
「え……」
抱きしめられているのだ、と気が付いたのは皿が落ちた音を聞いた時だ。幸い割れた様子はなかったが、今の状況に混乱する。こんなに蒸し暑いのに、東條の腕の中は冷たい。ふと、この人を温めたいと思った。体温が冷たい人は心優しいなんて言うけれど、そんなの悲しいだろ。心が冷たくたっていい。温かい体温で溶け合って安心するのを教えてあげたい。変だな、今まで抱いた子にそんなこと思ったことないのに。
変だ。抱きしめられただけで泣きたくなるなんて。
「慎、慎がいれば僕は何にもいらないよ。だから傍にいて」
「……そんなに、どこが好きなんだよ。俺なんかの」
「なんかじゃないよ。僕のことをいつだって心配してくれる。もう、忘れちゃったかもしれないけど」
「覚えてねえよそんなん……」
なんで記憶が無いんだろう。いつ東條と出会ったんだろう。
あの合コンの日に何かあったのだろうか?
それからしばらく抱き合っていたけれど廊下の物音を合図に藤野は慌てて東條から離れた。真紀子と豊には見られたくなかった。東條が軽い人間だと思われたくなかったから。
元恋人の代わりになろうなんて思わない。東條を救ってくれたであろう人間の立場に挿げ替えようなんておこがましい考えだし、包容力もクソもない藤野はそんな器ではないだろうし。
でも、出来ることがあるとすれば。あげられるものがあるとすれば。藤野に出来ることがあるならなにかしてあげたい。
心配、と言えば聞こえはいい。
だけどなんとなくわかる。はじめての感情だけれど、藤野は東條に気に入られたいのだ。
——元恋人と同じくらいに。
東條は忙しい。彼の実家にいると言うのに会う時間が少ない。
「俺ここにいる意味ある?」
「ん?」
少しだけ東條家に慣れてきたある日、藤野は夕餉の支度をしながら問いかけた。
「流石に犯人も捕まったんじゃないの」
「え、犯人?」
「俺の家の殺傷事件の」
東條はそれを聞くと一瞬固まって「ああ」と気まずそうに言った。
「まだ捕まってないよ」
「ふーん」
藤野はニュースを見ない。だからこれが一般的に捜査が難航している状態なのか普通なのかわからない。でも、東條が言うならそうなのだろう、と思う。なにも疑わず藤野は向かいに座ってお茶を淹れる。東條は「いただきます」と手を合わせ食事に箸をつけた。
「邪魔になったら言ってな」
「慎はそれ気にするね。なんかあったの。いいずらかったらいいけど」
「別に言えない話じゃないけど」
祖父の話をすると、東條は「そっか」と頷いた。
「慎はそれ悪くないでしょ。少なくともここは大丈夫だよ。慎、あのね」
彼は箸を止めて、前を向く。東條の瞳はいつだってキラキラしていて、見惚れてしまって。
「僕は慎の味方だよ。慎のことをいちばんに考えてる。だから、無理でも信じてほしい」
「……信じて裏切ったら?」
「その時は殺して」
当たり前のようにそんなことを言うものだから笑ってしまう。
「お前の命軽すぎだろ」
「慎にならいいよ」
「ほんと俺のこと好きだな」
「うん」
悪い気はしない。だけど、どうしてと思う。こんなに好かれることをした覚えはない。産まれたばかりの鳥のひなのすり込みのように東條は藤野のことを好いてくれる。不思議なのだ。記憶はないのに。
「そこまで好かれるなんて俺はお前に何をしたんだか」
緑茶を一口啜って東條は答える。
「僕ね、慎に出会うまで生きているのが辛かったの」
辛かった、なんともないようにそう言う。
「知ってると思うけど、忘却剤を作った実の父親はすごい人で、父さんも精神科医としてはすごい人。医療系の家系に生まれて、自分もそっちに進んで人を助けなきゃって思ってた。でも、僕は出来が良くなかったんだよ。劣等生で。だめだめで、そんな僕に慎は『無理すんな』って言ってくれた」
「俺そんなこと言ったんだ」
「忘れちゃっただろうけどね。でも、僕はそれに救われたよ」
飲み会の時にそんなことを自分は言ったのか。覚えはないけれど当時の酔っ払った自分をほめてやりたい。
東條が嬉しいなら、藤野も嬉しいから。
自分の言葉で救われたならそれほど幸せなことはないから。
「そっか、そんなかっこいいセリフ言うなら素面の時に言いたかったな」
照れ隠しに苦笑いすると東條は微笑む。
「どんな状況でもうれしいよ」
「お前恥ずかしいこと言う才能はあるよな」
「慎にだけだよ」
なんでこいつはこんなことを平然と。
「食器片づけるね」
照れて顔を見れず下を向いている藤野の横を通りすぎていく。この雰囲気がなんだかこそばゆくて、藤野は口を開く。
「と、東條」
「ん?」
「俺、俺さ、覚えてないんだけど」
でも、でも。と続ける。
「俺の言葉で東條が救われたなら、生きててよかったと思う」
東條はその言葉に目を丸くし、どこか寂しそうに笑った。
「……生きてて、か」
彼はそのまま台所に行ってしまった。少し重かっただろうか。生きててよかったなんて、普通は言わないし。それでも言わなきゃ。そう思ったのはなぜだろう。
その日薬を飲んで、布団に入ったのは深夜を過ぎた時間だった。明日は東條のバイトは休みで、ゆっくりしようと約束していた。特に何をするでもないけれど、ここに来てから東條は東京に出ずっぱりでゆっくりお互いのことを知る時間も取れなかった。まあ、東條は一方的に藤野のことを知っているみたいだけれど、藤野は東條のことなんかちっとも知らないのだ。もっと知りたい。
「明日さ、忘れてなかったらデートしようか」
「え?」
隣通しの布団に入って、向き合って話す。エアコンは入れているがエコな気温設定で少しだけ蒸し暑い。だけど涼しくして次の日くっつかれても困るので、この温度感で我慢する。
「何かしたいことある? 慎がしたいことしよう。お盆だからさ、しばらく塾は休みなんだ」
「そうなのか。じゃあゆっくりできた方がいいよな」
考えてみるけれど、特にどこも行きたいところはない。だって千葉に何があるかわからないしな。都内なら何とかわかるけど……。
「休みの日まで都内行きたくないだろ?」
「別にいいよ。慎が行きたいなら、ひとりで行かせるのは無理だけど、僕が一緒ならまあ許せるかなって」
「お前は俺の何なんだよ」
「彼氏?」
「あほか」
いろいろ話し合って、次の日は久々の地元ということで千葉の田舎では出来ないことをしようということになった。とは言え、やることと言えば特に何もなく日用品の買い物ばかりになってしまったが。せっかく出てきたのだから、そこでしかできないデートらしい事……と思ったが、よくよく考えてみれば、今は実家にいるけれど東條も住んでいるところは東京なので遊園地も水族館も珍しいものではない。そんな事情もあってどうしようかと選んだのが都内の家電屋。千葉でよかっただろと思うが、東條家から行ける場所には大したものは売っていないだろう。
「あ、これほしい。アパートに帰るとき持っていくからさ、しばらく家で使っていい?」
藤野が指さしたのはコーヒーメーカーだ。比較的安価なものでサイズも他のものより小さい。説明を見るにエスプレッソやカプチーノが作れるらしい。藤野家にも東條家にも無いものだ。
「別にいいけど。ああ、慎はカフェとか好きだもんね」
「それも話したのかよ。……俺さ、普段ウェイみたいな感じで人に絡むけど根本陰キャなんだよね」
「陰キャ……?」
反応を見るに言葉の意味を知らないようだ。藤野は子どもに教えるように言葉を選んで口を開く。
「根が暗い人。俺、合コンでは結構人に絡んだり、女の子に話しかけたりしただろ? でもそういうの全部無理してやってる。本当はカフェとかでコーヒー飲みながら甘いもの食べてゆっくりするのが好き。誰にも言ってないけどな」
「なんで無理してるの?」
「似合わないって言われてさ」
派手な顔をしているからだろうか、大学で同じゼミだった女の子に個人経営の小さなカフェで偶然会い「こんなところに居るなんて似合わないね」なんて言われたことがある。それで、ダメなのかと思った。上手く生きていくにはみんなのイメージに合った人間でなくてはいけない。誰も信用できない、頼れないのだから強く生きなければ。そのためには敵を作らないように理想の「藤野慎」でいる必要がある。だったら、私生活も「そう」でなければ。
「そのときはさ、女の子と待ち合わせだって言ってイメージ崩さずに済んだんだけどさ、それから家でしか素の自分を出せなかったんだよな。あ、でも……」
ひとりだけ素を見せるのを許した相手がいた気がする。覚えていないということは一晩限りの相手だったんだろうか。すっかり忘れてしまっているけれど、その人といたときは安心できたような。そんな人がいるわけない。夢の話かもな。
「でも?」
「あ、ああ。親と親友……あ、幼馴染な。その人達以外にひとり素を見せられたヤツいたなあって」
「僕は?」
東條は自分を指さす。
「結構いろんなこと話してくれるけど僕は大丈夫なの?」
そう言われて気づく。東條は大丈夫だ。こんな話ができるほど心のうちを曝せる。
「大丈夫だわ。なんでだろ? やっぱ危ないから家来いってお前にとっては何のメリットもないのにつれてきてくれて。そーいう損得無しで守ってくれるとこがいいのかな。こいつは俺が変なことしても期待外れだと思わないって安心してるのかも」
なに言ってるんだろう、と照れ隠しで笑っていると東條が黙り込んでいることに気づく。藤野は彼の顔を覗き込んで様子をうかがった。
「どした? 具合悪いか?」
「……自己嫌悪中。僕は慎が思ってるほど良い人じゃないから。なんかすごく、辛い気分」
「いいやつじゃん。男の趣味は悪いけど」
この何十億の中の人間で、たったひとり藤野のことを好きになるなんて変わったやつだ。趣味が悪い。けどそれが、どこか嬉しい。愛されていることは人に認めてもらうことで、藤野にはそんな人間が母親以外にいなかったから。
「ねえ、慎」
東條は藤野の方を見ずに、コーヒーメーカーを見て言う。
「僕が慎を裏切ってたら、慎は悲しい?」
「そりゃまあ」
藤野にとって東條は気を許している部類に入る人間だし、裏切られたらそれなりにダメージは受けるだろう。その答えが東條にはよほど堪えたようで、車の中まで会話はなかった。コーヒーメーカーは買ってくれたけど。
車の助手席に座り考える。東條は何か隠しているのだろうか、と。
でも多分、よほどのことがない限り藤野は怒ったりしないだろう。たとえ東條が藤野を裏切っていたとしても、きっとそれには理由がある。
まだ少ししか一緒にいないけれど、それだけは確信があった。
「東條」
「……なあに?」
「ひとりで抱え込むなよ。俺が付いてるから。出来ることは、少ないかもだけど……」
うん、と答えた東條の声には力がなかった。
疲れているのかな、と思った。都内まで走らせたし、かなりの店を回ったし。
東條は、自分が暗い人間だと知っても、キャラを作ってるような薄っぺらい人間だと知っても否定しなかった。受け入れてくれた。その分自分も恩返ししたい。辛いなら、今はいない元恋人の代わりに東條を支えたい。その力が今の自分にあるかは別として、の話だけど。
「よーく馴染んだね」
「え?」
東條が買ってくれたバニラアイスにエスプレッソをかけたアフォガートを口に入れ、コンビニで購入したらしい漫画を縁側で読む。そんな姿を見て東條は「よかった」と微笑む。
東條家に来て二週間。藤野は当初抱いていた不安とは正反対の快適な日々を送っていた。東條夫妻は気の置けない仲の様に話が合うし、ここでは大学の仲間内で求められるキャラ――立場の様にヘラヘラする必要がない。ご飯は大好物ばかりだし、必要な物があれば東條が買ってくれる。家からほぼ出られない事を除けばほぼ天国だ。
「あと二ヶ月くらいならいていいかも」
「快適ならいいけど」
「今日は都内行くの?」
「ううん」
「バイト?」
「違うよ、別件。用事があって」
東條は塾が無い日も度々都内に車を走らせる。理由は聞いたことがないけれど、何かしら美味しいものを買ってきてくれるから寂しくない。話し相手なら真紀子がいるし、豊は用事か付き合いで家を開けていることが多いが、家の手伝いをしながら待っていれば家族が揃うのなんてすぐだ。
「あ、じゃあゲーム買って。真紀子さんとやるから」
「ゲーム?」
「中古でも可。暇なんだよねー」
冗談めかしてそう言うと、東條は何の嫌な顔もせず「わかった」と頷いた。
「カラーは?」
「えっ、ちょっと待って冗談だから。マジにすんなよ」
「欲しいものは買うって言った」
「限度があるだろ」
東條は確かに不便がない様にすると言ってくれたが、数万もするものを二つ返事で了承するのはどうかと思う。藤野のことを甘やかしすぎだ。
「慎のわがままなら何でも聞くって約束した」
そんなに言うのなら無理でも言ってやろうか。
「何でもって言ったな? じゃあ俺も連れてけよ、東京」
「何か用でもあるの?」
「……新作ドリンクが飲みたい?」
「なんで疑問形」
流石に言い訳が苦しいか? そう思ったが東條は笑って「いいよ」と言ってくれた。
「でも長い間待たせるからそれまでは喫茶店にいてね」
そうして都内。車は大きな病院の前で停まった。東條は何か病気があるのだろうか。
「……どっか悪いの」
「精神。薬もらうだけだよ。なくなりそうだから」
「精神……」
目の前にある喫茶店で待っていて、そう言って東條はエントランスに入っていった。
「……精神」
ぽつんと藤野は東條を見送って駐車場に立ち尽くす。精神。東條には何か悩みがあるのか。
「……俺、やっぱり何かできないかな」
東條はいい奴だ。こんな奴のわがままを何でも聞いてくれるし、優しいし、藤野のことを一番に考えてくれる。何か、何か出来ること。喫茶店の中で色々考えたけれど何も答えは出ない。だって、藤野はまだ東條のことを何も知らない。
「あ~!なんで俺ってこんな無能なんだろう……」
何か困ってるなら隣にいてあげたい。ひとりで悩むことはさみしいから。そう思った時だった。
「あれ? 慎じゃん、久しぶり」
お手洗い帰りなのだろう。ハンカチを持った女性が藤野に声をかける。この女の子は——……。
「赤崎?」
記憶より少し垢抜けているが、確かに赤崎翔子だ。年齢というか学年は東條と同じで年下の幼馴染、兼親友。藤野は彼女のことを結構気に入っている。祖父に虐められる前からの仲なので藤野のことを理解してくれているし、ノリがいいし、藤野に懐いてくれているからだ。しばらく、というか東條に拉致られてから会っていないし連絡もしていなかった。そういえば、合コンがあるなら彼女も来ていたんじゃないか? いつも藤野の前で「彼氏が欲しい」と言っていたし、藤野の行くイベントごとにはついてくることが多かったから。
「えー、マジいつぶりだろ。ちょっと話そうぜ」
「友達とかと一緒じゃないの」
「ひとりだよ、時間潰し。慎は?」
「連れの病院待ち」
「じゃあそっち移動する!」
赤崎は席を一緒するために移動し、追加で注文を頼んだ。店員は快くそれに応え、伝票をこっちの席に持ってくる。
「最近どう?」
「千葉に拉致られてる」
「ウケる。何それ」
「家周辺にやべー奴がうろついてるらしくってさ、犯人捕まるまで避難中」
「え、やば。何、ついにストーカーでもされてんの。女遊び激しいから……」
「違う違う。あれ? ニュースでも取り上げられてたけど知らん? 刃物持った奴が俺の住んでるアパートで事件起こしたって話」
「しらなーい。そんなニュースあったかな……」
最近はテレビを見ない人間が多いし知らなくとも不思議じゃないか。赤崎は少し疑問を持ったようで、手元のスマートフォンで調べてくれる。
「いや……そんな事件ないけど……」
「うそだあ、だってウェブページ見たぜ?」
「無いよ。ほら、好きなだけ見て」
ニュース記事をざっと見てみるが、そんな記事は赤崎の言う通り無い。被害者が出ているんだから少なくとも小さいニュースにでもなっているはずだが。地方新聞にしか載っていないのか? いや、それはないだろう。無差別殺傷事件、しかも犯人が捕まっていないなんてメディアが飛びつきそうな事件だ。
「おかしいな……。確かに見たんだけど」
「住所間違えたんじゃない?」
それより藤野が東京を離れたことの方が気になるようで頬杖をしながら質問を投げかけてくる。
「で、なんで千葉に? スマホは?」
そうなるわな。別に隠すことでもないので藤野は正直に答える。
「……というわけで、合コンで会った奴が犯人捕まるまで実家に来いって」
「スマホぶん投げたの? マジでウケる。あ、じゃあこれあたしの番号。なんかあったら連絡して」
赤崎は紙ナプキンにボールペンで番号を書くと藤野に手渡す。藤野はそれを財布に入れた。多分使うことはないだろう。今なにも不便してないし。
「で、どこの女のところに転がり込んでるの?」
「男だよ。お前と同い年なんだけど知らない? 医学部の東條七生ってヤツ」
赤崎はその言葉に一瞬強張ると気まずそうに口を開いた。
「……東條七生?」
「うん。なんか俺のこと好きらしい、最初は嫌いなタイプだと思ったけどいいやつだよ」
「それは……」
彼女は東條の名前を反芻すると、難しそうな顔をする。
「どうした?」
「あ、いや、なんでもない。そいつとはどう? 上手くいってる?」
「何でも言うこと聞いてくれるし快適」
「そうなんだ、七生がね……」
そうしてまるで失言でもしたかとでもいう様に赤崎は口を咄嗟に手で押さえた。「違う」「今のは」とうわ言の様に呟いている。どうして赤崎が東條のことを知っているみたいな言い方。同学年だし知り合いなのだろうか。藤野は赤崎に疑問をそのままぶつける。
「東條と知り合い?」
「……個人的な」
「え、そうなんだ。世間狭い」
「……ねえ、まこと」
赤崎はおずおずと口を開いた。
「七生のこと、好き?」
「好き? ああ、好きだよ。結構」
だって何でもわがまま聞いてくれるし。ご両親は良い人だし。
付き合うかどうかは別として、友達にはなれると思う。それと同時に自分達はまだ友達ですらないのか、となんだか胸がもやもやした。
「あのさ、だったら、もう薬なんて……」
「何してんの」
その声は東條だった。冷たい目をして赤崎を見下ろす彼は、今まで見たこともない雰囲気を漂わせていた。
「七生……」
「赤崎さん、何でここにいるの」
「たまたまだよ。……てか、何やってんの。慎のことはもう放っておいてやってよ」
「関係ないでしょ」
「ふざけんな。何も知らない慎を好きにして楽しい?」
「なに? 慎の恋人でもないくせに。そういうことは選ばれてから言えば?」
「あんた……!」
赤崎は突然立ち上がる。藤野は彼の手を握ってそれを制す。何のことかはわからないが、この喧嘩は自分が原因なのはわかる。
「ふたりともここ外だから!」
藤野の声で我にかえったのだろう。赤崎はバツが悪そうに伝票を持つと会計に向かった。
周りからの目線が痛い。東條は先ほどまで赤崎が座っていた席に座ると、ため息をつく。
「……今から携帯買いに行こうか。僕にしか連絡できないキッズケータイ」
「キッズじゃねえわ」
藤野は珍しく不機嫌そうな東條に苦言を溢す。
「お前俺の幼馴染ビビらせてんじゃねーよ。てか早かったな」
「今日は長引かなかった」
「いつもは長引くんだ」
「みんな病んでるんだよ。嫌な時代だね」
東條は先ほどの騒ぎなど気にしてもいないようで普通に店員に注文をする。店員は流石プロか、はたまたこんなこと日常茶飯事なのかなんともなかったように注文を受けた。やがて運ばれてきたアイスコーヒーに東條は口をつける。
「なんで赤崎さんと一緒にいたの」
「赤崎の言ってた通り偶然だよ。てか、知り合いみたいだったけどあんなにけんか腰なのなんで?」
「赤崎さん、慎のこと好きだもん」
「んなわけねーだろ。あいつ幼馴染だぞ」
「幼馴染だからって言うのは理由にならない」
そういう意味ではない。赤崎は合コンに行くほど藤野が眼中に無いわけで。藤野も別に赤崎にそんなこと思ったことは無いし。
「あいつが俺のこと好きとか言ってくるとかないわ。ずっと一緒なんだぜ? 言ってきたら変だろ、どんだけ長いこと片想いしてんだっていう」
……あれ、そういえば俺、東條に好きって言われて気持ち悪いとか変とか思ったことない。
「……でもお前合コン来てたんだろ。多分俺が来てたって言うことは赤崎も一緒だっただろうし。赤崎は男狙いに行ったくらいわかるだろ」
「慎狙いだよ」
「お前じゃねーんだからそれはない」
「まあ気づいてないなら好都合だけど」
透明なストローの中でアイスコーヒーが吸い上げられる。その映像をなんとなく眺めながら綺麗な顔だなと思う。東條の顔は仮に彼が女の子であったらやっぱり一目惚れするくらい好みで、たまに見惚れてしまう。東條は藤野が男にもモテると思っているらしいが(顔には勿論自信があるのだが)藤野としては東條の方がモテるのではないかと思う。だってかっこいいし。尽くしてくれるし。甘やかしてくれるし。
「そんなに見ないでよ、照れる」
「は? 見てねー」
「はいはい。で? 赤崎さんと何の話したの」
別に大した話はしていないが。
適当に赤崎と話したことをかいつまんで話すと、東條は「へえ」と自分で聞いておいてどこかどうでもよさげな雰囲気だった。紙ナプキンに書かれた電話番号のことはなんとなく言えなかった。東條は多分嫌な顔をするだろうな、と確信があったから。
「……やっぱりひとりでいさせるのは良くないね。連れてきたのは失敗だった」
「失敗って……」
なんだそれ。
「この世界は慎にとって害がありすぎる」
「それを決めるのはお前じゃないだろ」
「ううん、僕だよ。慎が傷つかないように僕が守らなきゃいけないから」
頭がおかしい。精神科に通っているくらいだ。こんなものなのかもしれないけれど、悲しくなる。東條は俺を信用できない? 信用って、別に付き合ってもないんだからどう干渉される筋合いもないが、単純に悲しい。
「俺は東條のものじゃない」
「……でも外に出たら慎は僕を捨てるでしょ? だったら閉ざさなきゃ」
「捨てないよ」
藤野はまっすぐ東條の目を見て、はっきり言う。
「大丈夫。傍にいるよ。なにがあっても」
「……なんでそんなこと言ってくれるの」
「なんでだろ」
誰かの傍にいたいなんて思ったことがなかった。
はじめてだ。傍にいたい、力になりたい。そう思ったのは東條がはじめて。
理由なんてわからない。でも、どうにかしなきゃいけない、そういう想いはいつもどこかにあって。この子を笑顔にしてあげたい、自分がこの子の傍にいると安心するから、自分も安心させてあげたい、と。
どうしようもなくそう思うのだ。
「俺、貰ったものは返したい派なんだ。東條からはいっぱい貰ったから、その分返したいのかも」
「なにもあげてないよ」
「貰ったよ」
東條は気づいていないかもしれないけれど、藤野はちゃんと貰っている。
絶対的な安心という、唯一の身内の祖父からももらえなかったもの。
「お前のこと何も知らないけどさ、最初はびっくりしたけど不思議と男なのに怖くないんだ。お前からは触られても、嫌な気しない。実家の次に、いつの間かお前の傍が俺のいちばん安心できる場所になったよ」
それを聞いた東條は、下唇を噛む。泣くのを我慢するように。何かに耐えるように。
嫌だったかな。でも本当のことなんだ。
お前の前だと、俺は安心できるんだよ。
「……ごめん、気持ち悪かったかな。帰ろっか」
「……うん」
当たり前の様に東條が伝票を取る。なんだか急に不安な気持ちが襲ってくる。なんだろう、何も変なことなんてないのに、東條の背中が小さく見える。病院で何か言われたのだろうか。俺は間違った答えを言ってしまっただろうか。駐車場に向かいながら、藤野は東條に声をかけた。
「東條」
「……なに?」
「無理してる?」
「無理?」
「なんか、精神科にまで頼るとか、普通に考えたらそんな気がして。あのさ、なんかあるなら相談しろよ。ひとりで抱え込んで頑張るとかマジでやめろ。無理しなくていいよ、頑張ってるの、俺はちゃんと見てるし」
だから俺の前くらいでは素でいいから。そう言って背中を叩くと東條が急に立ち止まった。頭が東條の背中にぶつかり少しだけ痛い。
「いって、お前、いきなり立ち止まって……」
彼の表情を覗き込んで伺うと、東條はとても辛そうな顔を押し込めたように唇を噛みしめていた。
「東條……? どうかしたのか」
「……昔、同じことを言ってくれた人がいた」
「え?」
「今は遠いところに行ってるけど」
言って「くれた」という事は、東條にとってその言葉は大切にしたいものなのだろう。東條の大切な人。多分、東條家に一時期滞在していたという人間のことだろう。そう考えるとなんだか胸が痛む。それを振り払おうとして藤野は呟いた。
「その人のこと、今でも好きなの?」
「うん」
「俺がいるのに?」
「……うん」
好き。藤野にはわからない感情だ。だから可哀想で胸が痛む。好きとはそんな、こんな表情をさせるほど辛いものなのだろうか。自分が出来る事はなんだろう。東條にはできれば笑っていてほしい。こんな顔はさせたくない。
「そっか、じゃあ俺のセリフは忘れて、その人の言葉を大切にして」
「……違う、慎、僕はどっちも」
「わーってるよ! 東條、あのな。人は声から忘れるんだと」
「いきなりなに……」
「会えないなら、大切なら、忘れたくないなら、声を忘れないことを最優先にしろ。人は簡単に忘れるから」
人はどれだけ大切にしていたものでも、簡単に忘れる。だから恋人や家族というカテゴリに無理矢理入れて忘れないように死ぬまで一緒に生きていくのだと思っていた。実際そうだと思うし、間違った事は言っていない。
「……どっちも大事な時は?」
「どっちもは選べない」
「無理でも、どっちも大事なんだ。目の前の慎の事も、どっちも、大事にしたい」
今の藤野と同じくらい。もしくはそれ以上、そのくらい東條に大切にされているどこかの誰かを羨ましく思ってしまう。
「それでも、どっちもは選べねえよ」
東條は一瞬、驚いた顔をして、それから顔を歪ませた。
「……わかってる」
自分も会ってみたかったと思う。東條にこんな表情をさせるその人に。どんな人なのだろう。優しい人だといい。ずっとそばにいてくれる人。そんな人なら、いいと思う。
失った時のショックは与えた愛情と比例する。
藤野はそれを一番知っている。
『お前は望んで生まれた子じゃない』
うるさい。
別に彼が悪いわけではない。自分も大人だ。共感はしたくないけれど事を事実として受け入れることは出来る。
彼は娘のことを愛していたが、どこの男の子かもわからない孫を愛することは出来なかった。それだけの話だ。
娘の力になりたいし、世間からもいい祖父だと思われたい。そんなエゴに付き合わされた自分は結果的にねじ曲がった人間に育ってしまった。他人が信じられない。他人を愛せない。藤野が素を見せられるのは母親と幼馴染くらいで、あの子に出会うまでずっと生きている意味が分からなかった。
……あの子ってだれだっけ。
最初はちょっかいを出してやろうと思った。必死で生きていて、見るからに限界で、いつも険しい表情をしていて、それが十歳のころの自分に似ていたから、どうにかしてあげたくて。だから無理して酒の力を借りて声をかけた。
一生懸命勉強する彼を毎日邪魔するものだから、それから一緒にいる時間が長くなっていつの間にか「好きだ」なんて言われてつきあうことになって。幸せだった。この子のために自分は生まれてきたんだと思った。この子を幸せにするために生まれてきたと、本気で思っていた。でも、幸せにすることが自分の幸せになるとは限らない。現に自分は、あの子を幸せにすることと、自分が幸せになることを天秤にかけて後者を選んだ。
『生まれてきてくれてありがとう』
あの子はそう言ってくれたのに、自分はあの子を捨ててしまった。
だから、もし自分より優しい誰かにこの身体を渡せるなら、お願いです。
——あの子を幸せにしてあげてください。
俺は弱くて、自分の幸せのためにあの子から逃げて、悲しませてしまったから。
「真紀子さん、おはようございます。手伝いますよ」
朝起きると、隣に東條は居なかった。どこに行ったのだろうと探していると、庭の小さな畑で麦わら帽子を被って雑草の処理をしている真紀子を見つけた。今日の気温は三十度。いくら熱中症対策をしていても長時間の外仕事は辛いだろう。
「あら、慎さん。助かるわ」
「それにしても意外ですね。お金持ちが自分で畑仕事するなんて」
例の夏野菜の畑は心配したほど大きくはなく、大きな家庭菜園レベルだった。たたみ何畳分のスペースに、茄子とトマトときゅうりが植えられている。
「趣味よ趣味。昨年ね、始めたの。遊びに来てくれた男の子がね、楽しいですよって言うから」
男の子。近所の子どもだろうか?いや、ここ周辺は全て東條の家か土地で、他に民家は見当たらない。子どもが度々来るような立地ではないが。それについて聞いてみると真紀子は嬉しそうに笑う。
「彼氏さんよ。七生さんの恋人」
「は⁉ 女の子じゃないんですか⁉」
例の「大切な人」のことだろうがまさか男だったとは。いや、自分が偏見がないから不自然に思わなかっただけで東條は藤野に好意を持っているのだからよく考えれば普通のことなのか?
「驚きませんでした?」
「ええ、最初は私たちも戸惑ったけど……」
真紀子は藤野を見て微笑む。その表情は東條が藤野を見てたまに見せるものにどこか似ていた。
「七生さんがね、ずっと私たちの期待に応えるために言うことばかり聞いてた七生さんが、あの子のことだけは譲らなかったの。一緒にいたいって。親としてはそこまで言われたら、って思っちゃって。それにとってもいい子だったしね」
「は~~。そんな人が」
東條は今は藤野のそばにずっといてくれる。藤野はその人の代わりになれているだろうか。
「あの子はね、今も七生さんのそばにいるわよ」
「え?」
「きっとそう」
真紀子はそれから黙ってしまった。
なんとなく、わかったことがある。遠いところにいて、今でもそばにいるその人に、藤野は会えないだろうということ。もしかしたら東條自身も。だってもう亡くなってしまっているのだから。きっと東條は墓前に連れて行ってくれるなんてことはしてくれないし。
「……」
幸せにしてあげたい、と思う。幸せにしてもらった分だけ東條に返してあげたい。でも、藤野は何も持っていない。何もあげられない。
「……らしくないな」
他人に与えてもらうだけで満足。そんなままの自分でいたかった。女の子はいつも甘えさせてくれて、見返りを求め始めたら離れればよかった。それは自分が彼女らに恋をしてなかったからできた事なのだろう。少なくとも今の藤野は、そんなことできない。与えられたいし、与えたい。
日差しが強い。こんな暑い日に東條はどこに行ったのだろう。太陽が雲に隠れてくれればいいのに。自分は、太陽の下にいれるほどできた人間ではないから。
「ただいま、慎」
そうして手伝いをして汗を流していると、いつ帰ってきたのだろう。東條が顔を出す。
「朝早かったな」
「ああ、ちょっと買い出しに」
藤野に東條が差し出したのは花火のセットだった。
「性格的に好きそうだったから、花火」
「うわ、懐かしいな~!」
昔はよく母とやったものだ。大人になってからはスルーしていたが、いざやってもいいと言われるとテンションがだんだん上がってきてソワソワしてしまう。
「なあ、この辺海とかないの? 派手にやりたい!」
「夜までに探しておくよ」
「やった! あ、てか金出すよ! ちょっと待って」
「いらないって……あ、ちょ!」
自室としてあてがわれている部屋に向かい財布を開く。
花火っていくらだったっけ、まあ千円あれば足りるか。
そう思い札入れを開くと、紙ナプキンを入れたときには気が付かなかった、見覚えのない白いシールが入っていた。
「……なんだ、これ」
『精神科』と書かれた分厚い診察券が、札入れに挟まっていた。こんな病院、行ったことない。同じく財布に挟まっているのは、薬局でお薬手帳を忘れたときにもらえるシールだ。そこには忘却剤が処方されていたことが印字されていた。
「……は?」
なんだよ。そんな、そんな記憶なんて。
「慎?」
襖の先で東條に声をかけられる。藤野は「金なかったわ!」と咄嗟に返事をし、財布を隠した。どうしてそうしたかはわからない。ただ、東條にバレたらよくない。そう無意識に思ったのだ。
最悪のパターンが脳裏に浮かんでは消える。
忘却剤の処方量は明らかにおかしかった。過剰投薬ギリギリの処方なのは成績のすぐれない藤野でも分かった。病院名と薬局名は見れなかったが、ロクなところではないだろう。どうしてそんなものが自分の手元にあるのか。答えはひとつしかない。
それが意味するのは、信じていた人に裏切られていたという事実。それが善意からだとしても、藤野にはそれが悲しい。勿論、裏切られていたという事実もそうだけれど、仮に、藤野の予想が当たっていたとしたら。藤野は東條にとてもひどいことをしたのかもしれない。
だが、今はそれを気づかれてはいけない。少なくとも夜、ちゃんとふたりで話し合う時までは。
その夜、有言実行の代名詞の男は藤野の望み通りの場所を用意してくれた。穴場なのか、誰もいない海。頭上の藍色にはきらきらと星が瞬き、月が顔を出す。波の音だけが潮風にのせられて、どこまでも最高のロケーションだった。
「海! 家でやるのもいいけど夜の海でやるのって風情あるよな!」
早速バケツに水を溜めて、パッケージを開ける。中には様々な花火が入っていた。どれも母と遊んだことがある。懐かしい。線香花火は最後にとっておこう。藤野はライターを取り出すと最初の花火に火をつける。そうすると綺麗な色の火が手に持った棒の火薬から噴射された。記号を作り出す様に振ってみると火花が追ってきて思うがままの記号になる。こんなの大人になった東京じゃできない。
「あはは! こんなん久しぶりにやったわ! 東條ありがと!」
「うん」
ひとりでだいぶ花火を堪能して、残りは線香花火だけになった。藤野は近くで見守っていた東條を呼んで線香花火を何本か持たせる。
「お前もやれよ、どっちが長く持たせられるか勝負しようぜ」
「……うん」
ふたり、バケツを囲んで線香花火に火をつける。まるでガラス細工を作るときの様に先端に火の玉が溜まる。パチパチと小さな花が舞った。
「勝ったほうは何でも言うこと聞くやつ! 見てろよ! 俺、これすげー得意だったんだよな!」
「知ってるよ」
顔を花火から上げる。その時、唇に温かいものが触れて、衝撃で火溜まりが砂浜に落ちた。
東條の目には涙が滲んでいた。
「……知ってる。去年も聞いたから」
ああ、やっぱり。だって、嫌な感じはしなかったから。同性で、付き合ってもいないのに。
でもそう考えるとすべてのつじつまが合うのだ。理解のありすぎる実家。赤崎の反応。そして東條が傍にいてくれた理由。触れられても嫌悪感が無い事も。
ただ、苦しいくらいの胸の痛みが藤野を締め付ける。そんな顔をさせたかったわけじゃないはずなのに。
「……なあ、ひとつきいていいか?」
「うん。財布の中、見てたよね。もう隠すことも無いし何でも答えるよ」
東條はそう言った。藤野は意を決して東條の顔を見る。
「どこからどこまでが嘘?」
彼はそれを聞いて、やっと肩の荷が下りたかのように力なく笑った。
「全部だよ。合コンで出会ったことも、慎の家で事件があったことも、荷物がないことも」
どうりでネットで事件の記事が見当たらないわけだ。だって嘘なんだから。あの見せてきた記事は自分で作ったか何かしたのだろう。少し知識があれば一枚のウェブページなんて簡単に作れる。
「そっか」
「怒らないんだ」
「そんな気はしてたから」
波の音がざあ、っと空気の中に流れた。
お互い無言の時間が続く。ああ、もうだめだな、と。
もう元通りの楽しい日々は帰ってこない。気づかないふりをしていればよかったか? そうすれば幸せになれたか? そんなぬるま湯みたいな日々、いらねえよ。
だってそこに、東條の幸せはねえだろ。
藤野は引導を渡す。東條に、そして自分たちの関係に。
「なあ俺、もしかしてお前のこと忘れてる?」
それと同時に、藤野の方の火溜まりも落ちて消えていった。
「……うん」
ずっと違和感があった。東條夫妻の態度や、赤崎の態度、それに部屋にかけられていないカレンダー。男の恋人。自分がそれを聞くたびに辛くなること。
「……付き合ってた。慎と」
「うん」
「でも、慎はもういない。僕が好きになった人はもういない」
「……そうだな」
東條と出会った記憶がない。つまりは、そういうことなのだろう。財布に入っていた精神科の診察券。お薬手帳のシールに印字されていた忘却剤の量。そして何の疑問もなく毎日飲んでいた薬。過剰投薬だと言うのに起こらない発作。健康な東條が通っている精神科。
藤野は、いや、東條とお付き合いしていた「慎」は、きっと忘却剤のオーバードーズで自殺した。東條に楽しかった記憶だけを押し付けて。
「……これは俺のただの考え方の話なんだけど、人格っていうのは今までの記憶の積み重ねから形成されるものだと思う」
言葉を選ぶ。二人とも手から花火は落ちて、聞こえるのは波の音だけ。藤野はかき消されない様にはっきり言った。
「だからごめん、期待されても俺は、お前の恋人の藤野慎じゃない。なれない」
忘却剤の過剰摂取による記憶への影響は詳しく明らかになっていない。ただ、こういう風に記憶に「おかしいくらいの大きな空き」が出てきている場合、元に戻る確率はゼロに等しい。過去に前例はないと言われている。
「どうしてもお前との記憶が思い出せない。お前の好きな子を返してあげられなくてごめん、思い出せなくてごめん……」
きっと、何かがあったのだと思う。自死を選ぶまでの何かが自分に。忘却剤で忘れた記憶が戻る確率はほぼ無い、と言われているならば、東條の恋人の人格は何かの奇跡が起きない限り帰ってこないだろう。それでも東條は言うのだ。
「……好きだよ」
藤野を見て。
「それは俺じゃない」
そう言うと東條はどこか悲しそうに笑った。
「『藤野慎』はきみでしょう?」
違う、違う、違う。
俺は『藤野慎』じゃない。
お前もそう思ってるだろ。そんな顔する奴が、平気なはずないだろ。お前は、「こっち」なんかみてないだろ。
「記憶、一生戻らないかもしれない」
「好きだから、それでいいよ」
そんなの嘘だ。だって現に東條の瞳は、藤野ではなく別の男を見ている。
「……なんでだよ」
なんで、と胸が辛くなる。なんで東條を捨てたんだよ。なんでこんな顔をさせるんだよ。
自分にどれだけ問い掛けても答えは出ない。だってもう、東條の恋人はいない。
「……片付けて帰ろうか。あんまり遅くなると母さん心配するし」
バケツとゴミを持って藤野に背を向ける東條に、藤野は言った。
「好きになるから!」
その言葉に東條は足を止める。
「もう一回、俺もお前のことを好きになるから! 絶対幸せにする! だから、だから」
泣くなよ。それは喉から出なかった。泣いているのは東條じゃなくて自分の方だ。自分の嗚咽でかき消されたから。涙が止まらない。死んでもこんなにカケラを残すくらいに、東條のことが好きなら、なんで死んだりしたんだよ。好きになりたい。東條に笑って欲しい。「慎」ではなく「俺」を見て欲しい。
その為には、知らなければいけない。
——どうして「慎」が死んだのか。
自分は、何を失ったのか。
現在持っている手札は少なく、またインターネットも無いので「藤野慎」に何があったかを知ることは難しい。処方シールに書かれている住所に行ってみれば何か手掛かりがつかめるかもしれないが、真紀子と豊を躱す理由が思いつかない。東條が実家に自分を連れてきた理由のひとつには万が一藤野が自分の行いに気がついた時、変な気を起こさないよう監視する人間が欲しかったのかもしれない。東條は家を空けることが多いから。
しかし藤野は思い出さなければならない。
少しの罪悪感はあったものの、真紀子を騙すのは簡単だった。
「え? 同窓会?」
「はい、そういえば今日だったなって思って。なので今日は都内に行ってきますね。東條とは現地で合流します。もし家に帰れそうな状況だったら帰りますね。その時は一報入れます」
「そうなの? 気をつけてね」
財布だけ持って外に出る。駅までの道は真紀子に地図を書いてもらった。あとは駅員にでも聞けばどうとでもなるだろう。無事にそこそこの都会まで来て電話ボックスに向かう。使い方はあやふやだがどうにかなる。藤野は財布の中のくしゃくしゃになった紙ナプキンに書かれた電話番号を打ち込むとコール音を聞きながら彼を待った。
「もしもし?」
「——赤崎か?」
「慎? え、なんで」
「時間がないから手短に聞く。お前東條になんか口止めされてんだろ。簡単に教えてくれ」
渋谷の喫茶店であった時、東條を見た赤崎は見るからにおかしかった。藤野の記憶ではふたりに接点はない。では何故、赤崎が東條を知っていたか? それはきっと「慎」が東條を赤崎に紹介したのだろう。赤崎はよくウチに出入りしていたから、なんらかの形で会ったに違いない。
「頼む」
「……慎は聞いたら傷つくと思う」
「それでもいいよ」
たのむ、真剣にそう言うと赤崎は言った。
「……今から都内これる?」
藤野の答えはひとつしかない。
「行く」
すぐに藤野は駅に向かう。ここから都内までの道筋は駅員の女性に聞いた。
赤崎の待つ喫茶店は前回と同じ場所だった。
ネット環境がしばらくなかった藤野には見覚えのないドリンクをテーブルに置いている。藤野は少し気になったけれど、なんだか新しいものを飲む気分にもなれなかったのでチョコレートラテのアイスを注文し赤崎の待つ席に向かった。
「なに飲んでんの」
「慎」
藤野は赤崎の向かいの席に座ると唇をドリンクで濡らす。
「ここまで来るのめっちゃ疲れたわ。休日朝の電車って混むのな」
「七生は?」
「来てないしここにいることも知らない」
どこか安心した表情で赤崎は「そう」と答えた。
「……で、なに。なに知りたいの」
「忘却剤を飲んだことは察した」
「知りたいのは七生のこと?」
「理解が早い親友で助かる」
ドリンクを一口飲む。それから赤崎はため息をついた。
「あたしから言えることは何もないに等しいよ。現にあたしは慎に何もしてやれなかったから」
「それが知りたいんだよ。俺はいったい何を忘れてるんだ?」
「大事なことだよ。あたしの口からは言えない」
「そこをなんとか、ってできない?」
「……慎さ、忘却剤についてどう思う?」
「は?」
突然何を、と思うが赤崎がそう言うのなら何か意味のあることなのだろう、自分の考えを藤野は嘘偽りなく口に出す。
「最悪な薬だと思う」
「七生の身内が作ってて、それに救われた人がいたとしても?」
「否定はしねえよ。救われたきゃ勝手に救われとけって思う。でも俺は忘却剤を飲んだ自分のことが嫌いだ」
だって、東條にあんな顔をさせた。
東條を悲しませた。
俺だったら、絶対あんな顔はさせないのに。
「あたしはさ、慎が薬飲んでくれてよかったと思ってるよ」
赤崎はそう言うとストローをマドラー代わりにしてドリンクをかき回す。からん、と軽い音がジャズが響く店内の音に混ざった。
「絶望してる慎を見るのが辛かった。自暴自棄になる慎を見たくなかった。あたしが好きな慎が壊れていくのを何もできずに見てることしかできなかった。だから、『あんた』になってよかったよ」
「でも、『俺』は東條が求めてる人間じゃないから」
「だから? もう七生なんて捨てろよ。あたしにしとけば、大事にするよ」
「ふざけろ。お前をそんな目で見るとか絶対ありえんわ」
「男嫌いの慎も結局男と付き合ったじゃん?」
「それはそうかもだけどさ、奇跡ってのが起こったんじゃねーの? 知らんけど」
藤野は慎がどうして東條を好きになったのかを知らない。なんとなくわかる気はするけれど。多分、東條が昔の藤野のようにキャラを作っておらず、あのままの性格が素なのだとしたら、そういうところに救われたのだと思う。
「あー、わかったよ。あんたんちの玄関のポスト」
「ポスト?」
「慎の家のポストの中、上にテープで合い鍵貼ってあるんだよ。まだ合鍵あるかもしれない。七生に回収されてなければ……」
そういえば、そんなことしていた気がする。藤野は飲み会で泥酔して帰ってくることが多く、東條と出会った合コンの時もそうだが荷物をどこかにやってしまう癖がある。その度に赤崎が荷物を届けに来てくれていたのだが、次の日起きれない藤野に呆れた赤崎がそうしろと冗談で言って、藤野はそれをいい案だと真に受けて。あ、なんで忘れてたんだろう。
「それで全部わかると思うよ。……それがあんたの幸せになるかはわからないけど」
「……お前はあんまりいい顔しないのな。俺が記憶を取り戻すこと」
「あんたに辛い思いさせたくないんだよ」
無言の時間が喫茶店を過ぎる。周りの話し声やコーヒーを抽出する音がやけに大きく聞こえた。どんな秘密が家にあるんだろう。そう不安がっていると赤崎はうかがうように言う。
「……ついていこうか」
藤野はその提案に乗ろうと思ったが断わった。
なんだかこれは、ひとりでなんとかしなければいけない気がしたから。
家までは一時間ほど。その間を落ち着かない気持ちで車内で過ごした。駅から出て、家までの道を走る。
よく晴れた日だった。雲一つない、太陽がアスファルトを焼く、そんな日。アブラゼミの声が余計暑さを助長させる。だけど冷や汗が、嫌な予感が、身体を冷やす。玄関の火傷しそうなくらいアルミの郵便受けを覗くとスペアキーが見つかった。震える手で鍵穴を開ける。何を怖がっている? たかが家に帰るだけだろう。何もない。家には誰もいないはずだし。内鍵も閉めず慌てて中に入り全ての部屋のドアを開ける。記憶では客間として使われていたはずの和室。襖を音を立てて開けて。それを視界に入れた瞬間、蝉の声が止んだ。
「は……?」
自分の暮らしていた客間には仏壇がある。ウチには仏壇は無かったはずだ。こんなもの、いつから。
それに。
「なんだよ、この写真……」
母親の写真が仏壇に飾られている。なんで、誰がこんな、母は普通に生きているはずで、誰がこんな悪趣味な。
そうだ、とハッとする。電話をしよう。あっちは仕事中でも関係ない。今すぐにでもこの心の不安とざらざらを無くしたかった。スマホはない、だったら固定電話。と立ち上がって、立ち尽くした。思い出せない。母の携帯の番号を。どうして。
「……まこと」
置いてきたはずの東條の声がした。部屋の入り口を確認しなくてもわかる。この家の鍵を持っているのは家族の他には恋人である東條しかいないだろう。
「そろそろだと思った。迎えに来たよ」
「……なにか、しってるのか?」
「……」
「……東條」
「お母さまが亡くなったのは、冬のことだったよ」
すとん、と嫌な予想がパズルの空きにはまったように現実としておさまった。
「俺、そんなの、おぼえてない……」
掠れた声が喉から出る。小さく震えていて自分のことながら今にも消えてしまいそうだ。
「ずっと寝てたから。病院で」
「病院?」
「忘却材の過剰摂取による副作用。記憶の混濁、過剰睡眠、社会での生活は不可能と判断。が、医師の見解。この前やっと退院できたけど、慎にはここ数カ月の記憶が抜け落ちてた。お母さまのことも、僕と出会った時のことも、何も覚えてなかった。だけどそんな場合でも薬飲まないと苦しむから、実家でも忘却剤を飲むしかなくて。何も思わなかった? 寝る前に薬飲むこと」
「……うそ」
「嘘じゃない」
東條が語ったのは、藤野にとって受け入れ難い事実だった。母が死んだ? そんなわけない。でも、目の前に証拠がある。それに、もしそれが真実なら全てに納得がいくのだ。
「だって、全部覚えてる、声も……」
声、覚えてない。
「声も……」
「……慎」
人は、声から忘れるらしい。そう教えてくれたのは母親だったか。その声も、思い出せない。二十なん年も聞いてたのに、思い出せない。
「なんで、なんで覚えてないの、何も覚えてない、親のことも、東條の事も、何も」
息が苦しい、楽になりたい。忘れたい。思い出したくない。
「それだけ辛かったんだろうね。しょうがない。今日も薬を飲もう。そうしたらまた幸せに過ごせる」
東條は鞄から小さなジッパーで個包装された錠剤を取り出す。
「今まで通り、薬を飲めば大丈夫、僕が代わりに精神科に行ってるから忘却剤はある。平気だよ。慎は何も心配しなくていい」
思い出したくない。それでも。
「やだ」
「まこと」
「薬は飲まない!」
思ったより大きな声が出て、はっとする。でも、止まれなかった。
「母さんが死んでるのは理解できない、信じたくない。でも、信じたくないけど、これが現実なんだろ? じゃあもう、忘れたって何も変わらないだろ! 生き返らないんだよ! そんなことしても!」
「だってそうしなきゃ慎は僕を置いていくだろ」
震えた声で東條は言う。
「また自殺されたら? 耐えられない、もう慎を失いたくない」
何があったか、詳しくは把握していない。でも、『慎』が自殺したのは事実だ。それは自分の記憶が証明している。でも、『慎』はそうだったとしても『藤野』はそうしたくない。死にたくない。だって。
「置いていかない。絶対に。だって俺は忘れるなんて選択肢、選ばないからな。だからそんなものは捨てろ」
「慎……」
「だってそれで何が解決するんだよ。お前が辛い思いするだけだろ」
だって、藤野が忘れたらまた東條が全て抱え込む。藤野の悩みも、辛さも、全部抱えていこうとする。確かに、忘れた方がいいこともある。でも。
「忘れたくない。辛くても、全部無かったことにしたくない。ちゃんと、現実に向き合いたい」
受け入れたいと思った。忘れたところで母は帰ってこない。
「これ以上真綿に包まれて生活するのは嫌だ。辛くてもいい」
東條の抱えているものを分け与えてもらえるのなら、この涙が出そうな現実も受け入れたい。
「……慎、だめだ」
「東條と一緒にいたい、『俺』じゃなきゃ嫌だ。他の『俺』に渡したくない」
「飲まなきゃ、きみは壊れるよ。薬を飲もう、慎」
「そうしたら何か解決するんだよ? 母さんは生き返るのか?」
「……それは」
「忘れさせて表面上だけ問題なく過ごすなんて、そんなの、東條の勝手だ。俺は俺のままでいたい」
他の誰にも、どの自分にも東條のことを渡したくない。記憶が人格を形成するのなら、どの記憶だって人ひとりのピースで、欠けてはいけない。辛くても、「俺」が東條の隣にいたいのだ。
「『俺』を見てよ、東條。顔や身体が同じだけの『藤野慎』じゃない。今、目の前でお前を見ている『俺』のことを」
だけど彼の口から出てきたのは謝罪だった。
「……ごめん」
「俺と『慎』は何が違う?」
「ごめん」
東條はそれだけ言って黙り込んでしまった。
「……あのさ、東條。慎じゃなくて、俺を好きになる可能性ってワンチャンある?」
「……ごめん」
「……謝んなよ。ごめんはこっちのセリフ。俺なんかが恋人の身体を奪ってごめんな」
なんで、自分は生まれたんだろう。
慎が起きてくれれば東條は喜ぶのに、藤野なんかが生まれてしまった。
それで、東條のことを気に入ってしまった。
傍にいたい、喜ばせたいなんて思ってしまった。
「最初は意味わかんなかった。いきなり拉致されて、実家行かされてさ。でも、ちょっと一緒にいて、一緒にいる時間がすごく大切になって。お前は俺の事一番に考えてくれてるし、大切にされるのは久しぶりで心地よかった。隣にいたいって気づくのに時間はかかんなかった」
好きかはまだわからない。でも、寄り添いたい。
辛いなら傍にいたい。
彼を辛くしているのは藤野の存在自身なのだけど。
「俺と『慎』は違う。同じになれない。そいつより今の『俺』を見てほしいって思う。でも、もし東條が望むなら」
こんなの口に出したくない。
「俺は『慎』になれるように演じるよ。お前に笑顔になってほしいから」
でも、選んでもらえないなら、好きになってもらえないなら、東條が『慎』を求めているなら、こうするしかないじゃないか。ずっと世話をさせて、好きな人は一生帰ってこなくてって、そこまで尽くしてくれる東條に返せるものなんてこれしかない。演じているうちに人格が統合して理想の自分になれるかも、なんて思わない。藤野は『慎』に戻ることが出来ない。なら、もう。
だけど、東條はふるふると首を振る、その表情は今にも泣きそうだった。
「そんな顔をさせたいわけじゃないんだ」
そんなの、こっちだってそうだよ。わかれ、馬鹿。
それから、東條は話してくれた。自分と、それから『慎』の話を。
「頑張ってるの、俺はちゃんと見てる」
自分はどうも要領が良くなくて、人一倍頑張らないと何も出来なかった。だから沢山沢山勉強して親が言うまま叔父の病院で働くために大学の医学部にストレート合格した。でも受かってしまったら今までよりもっと大変で、それなのに周りからは優等生扱いされる毎日だから疲弊していたのだ。周りから見た自分はハリボテで、本当は、何してもダメな人間。たった一人でよかった。誰かに知ってほしいと、認めてほしいと叫び出しそうになるくらいの毎日。そんな時、慎はそばにいてくれた。
「よくやるね~」
慎はカフェテリアで勉強する自分にいつも酒を持ってついてきた。学部が違うから毎日ではないけれど、空きコマが出来たらなんとなく集合する。何するでもない慎をあの時は不思議に思っていた。
「……完璧じゃなきゃいけないから」
「完璧?」
「親の求める完璧な息子でいなきゃならない。命を扱う仕事なら尚更。ひとつのミスも許されない」
「そりゃそうか。若人よ、勉学に励め~~」
学年は同じだけれど慎は七生よりいくつか歳上だ。薬学部で、結構遊び人と言う噂がちらほら飛び交っている。いつも会うと酔っ払っていて、教授に怒られているのも見たことある。アル中寸前のやばいやつ。友達としてなら一緒にいて楽しいけれど、これと一緒になる人は大変だな、なんて未来の自分に笑われるような印象を持っていた。そんな慎は自分の向かいでポチポチとスマホゲームをしている。大きな音が勉強の邪魔だ。
「……音うるさいんだけど。勉強の邪魔だからどっか行って」
「邪魔してんだよ」
「は?」
なんなんだコイツ、と思う前に缶ジュースがコロコロと自分の元に転がってきた。机から転げ落ちそうだったものを慌てて受け止めると、慎はこちらを一瞥もせずに口を開いた。
「お前、頑張りすぎ。俺の前くらい少しは休め」
「休……? 必要ない、もっと頑張らないと」
そう言うと、慎は七生を顔を指差し眉間に皺を寄せる。
「目のクマやべーんだよ! お前、ちゃんと寝てるか? 食ってるか?」
「……でも」
「でももクソもねえよ」
慎はそう言うと七生の手元にあるノートを取り上げる。
「俺が近くにいる時は俺に構え。これ歳上命令な」
それから、慎は七生の頭を優しく撫でた。
「お前が頑張ってるの、俺はちゃんと見てる。勉強とかもどんどん頑張ればいい。だけど、そのせいで息が詰まりそうならせめて俺を息抜き場所にしろ。サボってるなんて誰にも言わせねえからさ」
「……そう見えるの」
「俺的には?」
そう笑う彼を、太陽みたいだと思った。好きだと気づいたのは、それからすぐ。二人でいる時間がなによりも大切になっていると自覚してから。
「好き、なんだけど」
友達でしかない七生の告白を慎は笑い飛ばさなかった。
「……俺とどうなりたいの?」
「付き合いたい。死ぬまで一緒にいてほしい」
「あはは、直球。でもお前から言われるのは悪くない気分だ」
いいよ、と七生の好意はあっさりと受け入れられた。「先に死ぬなよ」そう笑う彼はやっぱり太陽のようで、好きだと顔を合わせる度に、姿を思い出す度に何度も思い直した。何回だって恋をして、ずっとこんな生活が続くと思っていた。
「……え」
「ごめん、別れて」
「なんで」
「もう二度と会うつもりない。じゃあな」
別れを告げられたのは突然の事だった。昨日まで仲良く笑ってたのに、どうして急に。夏休みの暑い、日差しに肌が焼けてしまいそうな日の事だった。いまだに覚えている。慎の家に走ったあの日のカラッとした空気。暗いものが全て似合わないような、雲ひとつない青空。やがて、自宅につきチャイムを鳴らす。出ない、出ない、出ない。ダメ元でドアノブに手をかけると、玄関のドアは開いていた。
「慎……?」
自宅には何回か来たことがある。慎の部屋は玄関からすぐのはずだ。
「まこと……? どこに……」
ガタッと大きなものが落ちる音が漏れた。きっと慎の部屋からだ。何かあったに違いない。ノックもせずに部屋を開けるとそこには倒れている慎の姿があった。首にはベルトが括られている。どうやら身体をベルトで繋いでいたカーテンレールが折れて落ちたらしい。自殺を考えていたのだろう。そうすぐに理解した。
「慎!? ねえ、慎!?」
息はしているがぐったりしている。床に散らばった睡眠薬のせいだろうか。とにかく救急を呼ばなければ。何時間にも思えるような時間を待ち、慎は身内の病院に運ばれた。命に別状は無く、後遺症も無かったが、目覚めた時、慎の目の輝きは失われていた。
「……東條、来てたのか」
「調子は?」
「明日には退院。でもすぐに精神病棟行きだってさ」
自嘲気味に慎はそう言う。
「……ご家族の話、聞いた」
慎の母が、亡くなった。海外赴任から帰ってくる日に飛行機事故があって、それに巻き込まれたらしい。夫人はとても良い人で、慎から話はいつも聞いていたし、挨拶に来いと慎に言われ会ったこともある。息子から恋人だと紹介されても「歳下の男の子なんてアンタよく捕まえたわね!」なんて笑って受け入れてくれる人で、七生はあの家の空気が好きだった。
「……俺、浪人してたって話したっけ」
「ちょっとだけ」
「親にかなり迷惑かけてさ、だから親孝行したかったんだけど……もう出来ないんだな」
「……うん」
なんと言えば良いのかわからなかった。
「……だからって慎まで死ぬ必要ないだろ」
「だってどうしていいかわかんないから。ウチ、結婚する時ごたついててさ、親戚とかとも縁切ってるわけ。だから、ああ、ひとりぼっちになっちゃったって思ったら目の前が真っ暗になって」
「ひとりじゃない」
視界が滲む。これが正解かなんてわからない。だけど、自分がこう思っている、と言うことは彼に伝えておきたかった。
「僕がいる。絶対にひとりにしない」
「……なんでお前が泣くの」
「慎が泣かないから」
「……変なの」
そう言った慎の表情は、ここを訪れた時よりも少し強張りが解けていて、ちゃんと伝わったのだと。
思っていた。
「……は?」
それから精神病棟を退院してすぐ、また慎は忘却剤をオーバードーズした。今度は慎は起きなかった。次に目を覚ました時、慎は自分の知っている慎ではなく「藤野慎」という新しい人格で目の前に現れた。
——未だに慎は目を覚まさない。
「……きみが嫌いなわけじゃないんだ」
東條はその時初めて『藤野』をそう呼んだ。東條にとっての藤野は恋人ではない。
「素敵だと思う。好きだって言われてうれしいし、慎の件がバレなければずっと一緒にあそこで暮らそうと思ってた。でも、じゃあきみを慎の代わりに、なんて思えないんだ。僕の恋人は慎だけで、それは、たぶん変われない」
「一途だな」
「……好きだったから、本当に」
自分には何が結局足りなかったのだろう。『慎』と『藤野』はどう違う? どうしたら東條の傍にいられる?
でも、そんな問答には意味は無い。記憶が人格を構成するなら、東條との思い出が大きく抜け落ちている時点でもうそれは別人なのだ。東條と出会えた人間が『慎』で出会えなかった人間が『藤野』。
そんなのは東條もわかってるのに。
「なあ、なんで嘘までついて俺を拉致したの。もう俺はお前の恋人じゃないのに」
「わかんないんだ」
「え?」
「慎じゃないなら、放っておけばよかった。なのにダメだった」
東條はそう言うと口をつぐんだ。もしかして、と考えてしまう。
もし、奇跡があるとして彼が『藤野』を好きになってくれることはあるのだろうか。
「帰ろうか」
東條がフローリングに座り込む俺に手を差し出す。藤野はその腕に手を伸ばしかけて、それを下した。
「帰れない」
「……僕が嘘ついたから? 確かに、この家の周辺に怖い人はいないよ。でも親も待ってるし……」
「違う。すこしだけ、『俺』を捨てる準備をさせて」
東條はそれを聞いて差し伸べた手を戻す。藤野はそれを見て続けた。
「東條の親御さんも求めてるのは『慎』の方だろ? だから色々情報集めて『それっぽく』なれるように頑張るよ。だからさ、しばらくしたら迎えに来て」
彼は、少しうつむいた。
「心配すんなよ、いろいろ『慎』を調べて、ちゃんと演じられるようにするから。だから、それまで距離置こう?」
「……なんで、そこまでしてくれるの」
「大切にしてくれた分、お前を大切にしたいから」
それ以外、あるわけないじゃないか。
好きなんて感情、はっきりとはわからない。
だけど身体がそう言ってるんだ。心じゃない、慎と連なった身体が「東條をひとりにするな」と叫んでいる。他の人間にそんなことは思わない。恋の定義はわからないけれど、どんな形でも隣にいたい。
東條は何か言いたそうにして、けれど何も言わずに藤野の部屋を立ち去った。
「……だってしょうがないじゃん……」
みんな『慎』を求めてる。
『藤野』はいらない。
そういうことだろう?
東條家に電話をして、しばらく戻らないことを告げた。
真紀子はそれを聞いて「……そう」となんとも言えない声で落胆したし、豊は何か力になると言ってくれた。だが、頼ることは無いだろう。豊と真紀子の前の慎は、本来の慎とは違う可能性があるから。彼が酒を事前に用意していたら、人格を作るための参考資料としては使えない。
だが、いろいろ自室の家探しをしても、めぼしいものはひとつも見つからなかった。日記のひとつでもあればいいのだが、あいにくズボラな自分はそんなもの続いたことがない。慎と藤野は別の人間だが、東條に出会う前の根本の人生は同じだ。性格が大きく変わったということは無いし基本的な考え方は同じだろう。
「……そうだ、スマホ」
要は東條に接していた時の自分をトレースすればいいのだ。普段自分が東條にどう接していたか理解すればいい。藤野は部屋を見渡す。東條は荷物までは部屋にもっていっていなかったようで、自室に電源の切れたスマートフォンが放ってあった。電源に挿して数秒待つ。すぐに起動し、壁紙を見て唖然とした。
「うわ」
盗撮だろう、東條の寝顔が設定されていた。
「めっちゃ好きじゃん……」
藤野は、少なくとも藤野が把握している『藤野慎』は誰かを好きになることはなかった。女の子は来るもの拒まず、去る者負わず、上っ面だけで他人を信用しない、誰かに情を抱くことも無い。なのにどうやら慎は東條のことが好きだったらしい。メッセージを確認すると、返事こそそっけなかったものの、母親が死んだ時だろう。その日まで毎日連絡は取りあっていたようだった。幸せだったんだろうな。
形に残らないせいでどんな会話をしていたのかはわからない。だけど、東條にとって慎は大切で、慎にとっても東條は大切だったことはわかる。
「……なんだよ、やっぱり入る隙無いじゃん」
わかっていたけど、ちょっとだけ奇跡が起きるかとか、ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ期待していた。藤野のままでいいと、言われるのを。でも、慎になるのを止められなかった時点でお察しだろう。東條も誰も彼も、藤野のことはなんとも。
何かないだろうかとほかの人間へのメッセージも見る。
「ん……?」
直近のトークを見ていて、ひとりだけ様子が違う話をしているのに気が付いた。
赤崎だ。
「そういえば……」
そういえば赤崎は慎と東條の関係を知っているようだった。彼なら当時の慎を知っているかもしれない。藤野は赤崎に連絡を取ると速攻で既読が付き、直接話そうということになった。
「……知ってるよ、全部」
記憶が無い間の藤野慎について都内の喫茶店の喫煙席で赤崎は苦々しく呟いた。多分、慎は唯一自分にだけは東條とのことを話していたと思う。そう付け足して。
「慎は七生を溺愛してた。最初はからかってるだけだったけど。勉強ばっかしてる七生を見てちょっかい出してくるって言って。会うときは男怖いのに酒飲んでまで頑張って。七生が無理してるの、見てらんなかったんだと思う」
「……それで仲良くなって付き合って?」
「そう。幸せそうだった。よく惚気聞かされたよ」
「それは申し訳ないけど」
「いいよ、あたしはお前が幸せそうで嬉しかったし。でもさ、おばさんが死んじゃった時はダメだった。泣いてたよ。七生に言われたことで」
何を言われたんだろう。でも、その先はなんとなくわかっていた。
「『自分がこれから慎の家族になるよ』って。七生は多分悪気ないよ。それ言われて喜ぶ人もいると思う。でも、慎は駄目だったんだ。おばさんの代わりはいないし、他人とはずっといっしょにはいられないって思ってたから」
慎の気持ちはわかる。血縁であっても、愛情の永遠はない。祖父の件でそれを知っていた。だから不安になったんだろう。最初はそう言ってくれる。でも、その先は? 東條にまで捨てられたらどうしたらいい? なんてこと。
「だから、おばさんの死自体を忘れることを選んだ。薬を飲んで、死んだ事実と覚えてないことで混乱してどんどんおかしくなって、いつの間にか量が増えて。オーバードーズして入院。七生のことをすっぽり忘れたのは奇跡だよ。これで楽になるんだな、ってあたしは安心してた。七生は忘れられたら諦めると思ったんだ。甘かった」
拉致するとは思ってなかった。それはそうだろう。正常な人間なら記憶が無い人間を拉致して監禁しようなんて思わない。しかも親ぐるみで。
「ここからはあんたが体験した通り。……あたしは協力するよ?」
「え、何に?」
「七生のところから逃げるんでしょ? あたしのところに来ればいい。あんたの家は割れてるし鍵も持ってると思うけど、さすがにあたしの家までは知らないはず」
赤崎が何を言っているのか、頭の半分では理解していて、もう片方は理解できていなかった。そうだよな、と冷静な方の頭で思う。変だよな。拉致されて、薬漬けにされて、それでも一緒にいようだなんて。でも、思うんだ。
「ありがとう、でもごめん」
好き、が何なのかわからない。もしかしたらこれは違う感情なのかもしれない。
でも、でも。
「俺、東條と一緒にいたいんだ。だからあいつのところに帰るよ」
子どもみたいな寝顔。わがままな藤野に付き合ってくれたこと。藤野ではなく、慎が目当てだったとしても、自分のことを愛してくれたこと。全部本当じゃないものだったとしても、嘘だらけだったとしても、藤野はどうしても東條を嫌いになれない。
「は……? 何言ってんの、あいつに何されたと」
「変だよな」
そう笑うと、赤崎は下唇を噛んで悔しそうに顔をゆがめた。
「……本気で思ってるなら、病気だよ」
「…………うん」
ごめん、それしか言えなかった。
赤崎が正しい。藤野は医者ではないからわからないけれど、自分はおかしい。
家に帰って仏壇を見ると辛くて、死にたくて忘れたくて。でも薬はもう飲まないと決めた。
その日は久しぶりに薬ではなく酒に逃げた。
藤野は酒に強いので深酒した次の日も比較的次に持ち越すようなことはない。出して寝たら抜けるので二日酔いの類はしたことがないのが密かな自慢だ。
「朝か……」
時刻は朝五時。本日の気温はこの夏最高が予想されるとお天気お姉さんが言っている。そう言えば真紀子と豊にはあれだけよくしてもらったのに顔を見てお別れも言えなかったな、とぼうっとした頭で考える。でも騙されていたし、彼らも別に藤野を求めているわけではない。慎になりきれるようになったらまた詫びがてら遊びに行けばいいだろう。
今日は何をしようか。正直手詰まり感はある。スマートフォンの中には大した手掛かりはなかったし、赤崎からもあれ以上引き出すものもなさそうだ。処方を出した精神科に行って記憶を無くしていないふりをして話を聞きだすのもいいけれど、精神科の予約には時間がかかる。今日すぐに、というのは無理だろうし、行ったところで精神のプロと駆け引きするのは成功する気がしない。記憶が無いのはすぐばれるか、最悪病名が付いて面倒なことになる。
「……アレクサ、記憶を取り戻す方法って何?」
『よくわかりません』
「だよなー」
藤野の小さな脳みそをひっくり返しても、記憶の仮死から回復した判例はないはずだ。
「……ないよな?」
あいにく成績が最下層なので自信がない。ここは図書館にでも行って調べてみるしかないか。
……と、来てみたものの。
「ないな……」
アパートから徒歩十五分の図書館に来てみたものの、結果的にはエアコン代の節約にしかならなかった。忘却剤自体が新しい薬で、歴史が浅いということもある。まだ仮死の対策がされていないのだ。開発されてからのメディア記事をどれだけ漁っても仮死になった例はあっても記憶が戻ったという記事はない。
「無駄足……」
図書館を出たのは夕方前。適当にコンビニで夕飯を買いアパートに戻る。すると、自分の部屋の前で人影が倒れていた。遠目から見ておそらく男だろう。
「な、ええ⁉ ちょ、大丈夫ですか⁉」
駆け寄ってみると倒れていたのは東條だった。どうして、千葉にいるはずじゃ、と思ったがそれよりも倒れている東條を何とかしなければ。頬に触れると驚くくらい身体は熱を持っていた。おそらく熱中症かもしれない。OS1を開け、東條に手渡す。買っておいてよかった。
「なんでこんなところに……。って言うか身体熱いんだけどいつから待ってたの⁉」
「あさのじゅうじから……」
「ほぼ一日中じゃん! とりあえず家で横になれ!」
ぐったりとした東條を引きずり、母の仏壇のある自室に連れて行く。敷きっぱなしだった布団に投げ捨てる。確か塩タブレットは母の教えで夏は常備してたから一粒くらいは残っているのではないだろうか。飴入れになっているシュガーポットの覗くと三粒残っていた。ポットごと持っていくことにする。それと氷嚢……。氷枕ならいくつかあったはずだ。それでいいか。
塩タブレットとOS1を口に含ませ、枕元に腰掛ける。東條の具合は良くないが、意識もあるし救急車を呼ぶレベルではないだろう。少し休ませれば何とかなるはずだ。
「……なんでこんなことしたの。スマホ見てなかった俺も悪いけど、お前鍵の場所知ってるんだから普通に入ってくればよかったじゃん」
元々図書館に行く予定だったからスマートフォンは家に置いてきていたのだ。この数週間でスマートフォンがない生活に慣れ切っていたし、図書館内では使うことも無いので。だが、先ほど確認したら何件も東條から電話がかかってきていて、心配をかけたであろうことがわかった。それは慎を心配しているのであって、藤野を心配しているのではないのだろうけど。
「……れんらくつかないから、きらわれたかとおもって。きらわれたならかってにはいるのももっときらわれるだろうし」
「お前のこと嫌いになるわけないじゃん。もう少し待てよ、ちゃんと慎にそっくりになれるように頑張るから」
「まことじゃなくて、きみにあいたかった」
「は?」
藤野に? まさか、聞き間違いだろう。
「ゆめにでてきて、いてもたってもいられなくなって」
「それ慎じゃねえの」
「ううん」
体調が悪い癖に、やけにはっきりと東條は言う。
「きみのほうがしあわせそうにわらう。……まことのわらったかおは、もうおぼえてないんだ。ずっとないてたから」
母が亡くなってから、おそらく慎の笑顔は減ったのだろう。気持ちは痛いほどわかる。たったひとりの身内を亡くしたらきっと藤野だってそうなる。藤野が泣かないのは、東條がいるからだ。彼がいるから、心なんか折っている時間はない。早く東條に慎を返さなければ、という思いが母の死以上に藤野の心を先行させていた。
「……慎のこともっと教えてくれよ」
「おさけばっかのんでて、へびーすもーかーで、おれさまで、わがままだったよ。おかねたかるし」
「なんでそんなクズ好きになったんだか」
藤野の記憶では自分はそこまでクズではなかったのだが、東條の前ではそうだったらしい。普通に嫌だな。
「でもね、まことはやさしいんだ。つめたくしても、ぼくのこときにしてくれてて、はじめてだれかにかまってもらえて、うれしかった」
「そんなの……」
そんなの、俺だってできる。
俺の方が優しくできる。
慎、東條のこと捨てたなら俺にくれよ。なんで捨てたの。俺ならもっと大事にする。
「すきだったんだあ。もう、ないてるすがたしかおもいだせないんだけどね」
体力の限界だったのだろう、東條はうとうとし始めていて、藤野は「もういいよ」と目を覆ってやった。身体の力が抜けていき、すぐに寝息が聞こえてくる。
「……俺を選んでくれたらいいのに」
泣いてる姿しか見せない男なんて忘れてしまえ。
「俺を見てよ……」
わかってる。東條は慎のことが好きで、藤野のことは何とも思ってない。
だから騙した。記憶の連なりで人格は構成される。だと言うのに少量——理由は依存発作で苦しむ姿を見たくなかっただろうということはわかるが、薬を飲まされた。藤野の人格は一度否定されている。その程度にしか思われていない。今日夢に出てきたらしいが、たぶんそれは慎と見間違えたのだろう。見た目は一緒だから。
思うことがある。
慎のことを理解して、演じられて、東條を満足させられるような恋人になって。
それで自分は正気を保っていられるのだろうか。
今、こんなに慎に嫉妬して、こんなにこっちを見てほしいのに、嫌いなヤツのふりをしてこれから一生を生きるなんて耐えきれる自信がない。
どうしたらいいんだろう。
自分の幸せと東條の幸せ、どっちをとればいいかなんて考えなくてもわかる。だって藤野はもともといない人間だ。突発的、何かの間違いで生まれた人間に幸せなんて必要ない。慎の身体なのだから、慎に返すべきだ。もういないならフリをしてでも生かすべきだ。
「……やだ……」
頭ではわかってるのに。
藤野は、藤野のまま生きていきたいと思ってしまう。
藤野のまま愛されたいと思ってしまう。好きになってほしい。愛してほしい。「慎」じゃなくて、「きみ」でもなくて、名前で呼んでほしい。
ああ、そうだ。ばかだ。おおばかだ。
——俺には、名前すらないじゃないか。
東條が起きたのは時計の短針がてっぺんを過ぎたころだった。それまで藤野は仮死について調べたり、家探しをしてみたり、東條の眠りを邪魔しない範囲で頑張っていたが何も収穫は無し。東條と母の死に関することだけすっかり抜け落ちていて、これも慎の面倒なところが出ているのだが、交際中の自分の対応の証拠の一切を残していない。きっと年上風吹かせて恰好つけてたのではないだろうか? スマートフォンの待ち受けにするくらいは彼氏のことが好きなくせにめんどくさいやつ。藤野は慎のことが嫌いだ。死ねばいいと思うがすでに死んでいるのでこの感情をどうしていいかわからない。
「……ねてたの」
「おはよう、って言っても夜だけど」
「記憶が無い」
「倒れてたからな。熱中症。救急呼ぶレベルじゃなかったから呼ばなかったけど体調はどうだ?」
「大丈夫」
少し休憩しようと思い、調査を止めて東條の様子を見ながらネットを徘徊していると東條が目を覚ました。どうやら具合はよくなったようだ。顔色が良い。
「今日は泊っていけよ」
「きみはどこで寝るの」
ソファは無いし、客用布団はないし。まあ徹夜か床で寝るかだろう。気にしないでいいと答えると、東條は掛布団を持ち上げる。
「一緒に寝よ」
「……マジで意識されてないってか」
そうだよな、俺は慎じゃないもんな。
藤野は少し嫌な気持ちになったが、身体が疲れていたのは事実だ。東條が良いなら布団に一緒に入らせてもらう。先ほどからエアコンをガンガンにつけていて身体が冷えてしまっていてたまらない。
薄手の布団の中に潜り込むと東條が腰に手を回してきた。
「ちょ……! なに……」
「さむい……」
「じゃあエアコンの温度上げるから」
「ちがう」
それから力を込めて抱きしめられる。強く、絶対に離さないとでも言うように。
「さむいのはきらい、ひとりはもういやだ……」
「……っ」
これは、想像でしかないけれど。
慎と東條はいつも一緒に寝てたんじゃないのかな。この人はさみしがりで、きっと慎もそれはわかっていたと思うし。もし、そうだとしたら、自分がやるべきことは。
藤野は東條の腕の中で向きを変えて向かい合う。それから自分も腕を回して東條を抱きしめた。
「ここにいるよ」
あなたの本当にいてほしい人はいないのだけど、代わりはいる。
ねえ、俺はここにいるよ。俺なら、ずっと一緒にいれる。
一緒に寝よう、一緒に手をつないでどこかに行こう、ふたりで暮らすのもいいし、これからもずっといてあげる。だから、俺を選んでくれないかな。
無理なのは、わかってるんだけど。
泣きたくなった。自分はこの人に何もしてあげられない。代わりにしかならない。その代わりは求められてない。どうすればいい? どうすればこの人を幸せにできる?
この人をあたためられれば、もう他には何もいらない。
——神様、おねがいです。
消えたくない、俺を見てほしい。でも、この子が幸せになれるなら、この子が幸せなら——俺は消えてもいいから、慎を返してあげてください。
その日は抱きしめあって寝たけれど、ちっとも温かさは感じなかった。
朝起きたら、隣に東條はいなかった。
朝、といってももう昼の一時だ。寝すぎてしまった。今日は平日だし、おそらくバイトだろう。お盆以外は塾の夏期講習で忙しいと実家でこぼしていた気がする。藤野は母に線香を上げると「さて」と立ち上がった。今日は何をしようか。仮死状態から回復する方法は実質ないとなると、やはりなにか慎の人格に関わる手掛かりを見つけてそこに寄せていくしかないのだが。
「日記とかあればいいんだけど……」
家探しをしたがそのようなものは無かった。というか、そんなものを書くはずがない。藤野と慎は途中までは同じ人生を歩んでいるので、根本は同じ。つまり極度のめんどくさがり屋なのは共通なのだ。
「恋したからって大きく変わるはず、いや、俺なら待ち受けを彼氏の写真にはしない……」
はたして浮かれていたのか、はたまた慎と藤野が全く別の人間になるくらいの何かがあったのかは知らない。赤崎が言っていたように慎が東條を溺愛していたのは本当だろうけれど。
スマートフォンを振っても中身を見てもカバーを外しても何も出てこない。アナログでないならデジタルだと思ったんだが。藤野は心に言いたいことをとどめておけないタイプで、よく匿名掲示板や匿名ブログを利用していたし……。
「そうだ、ブログ……!」
藤野が「そう」なら、慎も「そう」だ。
慎だって絶対に心にとどめておけない。赤崎には惚気ていたらしいが、全てを話していたわけではないだろう。そして元々女の子が好きな慎は男と付き合っているなんて他に口外しないはずだ。
ブラウザを開いてブックマークと履歴を見る。まとめサイト、動画サイト、通販、匿名掲示板……。個人のブログらしきものは……。
「……あった」
多分これだ。
「シン」というユーザーのブログ。このサイトだけ書き手として自動ログインされている。Cookieがまだ残っているのだ。めんどくさがりでよかった。おそらく名前の由来は「慎」の読み方を変えたのだろう。アイコンは星空の写真。夏の大三角形が鮮明に映っている。そういえば、星が綺麗って言ってたな。きっと千葉で撮った写真だろう。星なんか見上げもしなかった。慎と藤野の差はそこなのかもしれない。
スクロールして、ブログを一記事ずつ読んでいく。
——頑張り屋って、頑張り方を間違えてるから結果が出ないんだよなって思う。
——そいつは一部の女子から高嶺の花扱いされている医学部の男だった。俺はよく知らなかったけど、合コンでちょっといいなと思った子を誘ったら「ごめん私なおくん(仮名)が好きなの」って。は? なら合コンくんなよ。って思ったけど、どうやらその「なおくん」は合コン呼ばれてバックレたらしい。A子ちゃん(仮名)は見事エサに釣られて来てしまったのだと。合コン慣れしてない潜在ビッチは初々しいね。
そんな「なおくん」に興味がわいて、親友に聞いてみた。どうやらなおくんはいつもカフェテリアの窓際の席で勉強しているらしい。図書室行けよって思ったけど、うちの大学の図書室って飲食禁止だから(どこもそうか)長居したい時不便なのかな。とにかく親友調べではいつもそこにいるらしいので、ちょっと見てみることにした。
すごいイケメンがいた。
あれで医学部はそりゃ女が群がるわってレベル。なにあれ。アイドル?
でもすごい険しい顔で勉強しててイケメンが台無し。いや、美人が台無し? 国語の成績悪かったからどう表現したらいいかわかんないけど、もったいないな、と思った。笑ったら絶対かわいいのに。男にかわいいって変か。
——今日「なおくん」に話しかけてみた。
男に話しかけるのはとても勇気がいるので、酒をしこたま飲んでから見に行った。向かい合って、近くで見て思ったのは「あ、この子もうだめだな」って。多分限界来てる。ろくに寝てないんだろう。目の隈が酷いし、顔は疲れ切っている。目はうつろで、常に眉間にしわが寄っていた。じーちゃんに虐められてた頃の自分にそっくりでなんかほっとけなかったから声をかけた。
なおくんはどうやら医療の家系のようで、親の期待を裏切らないために頑張っているらしい。女の子に聞いたら主席だって。それ以上なにめざしてんの? 本人は自分が出来が悪いって思ってるみたいだけど劣等生の俺から見ればスゲー奴だと思う。なんか見てらんないから強制的に息抜きさせてやろう、なんて。
——なおくんに懐かれた。
別に特別な事をした覚えはないけど、犬みたいについてくる。
なおくんに近づいてくる女の子にフラれた瞬間慰めてホテルにインとかできるからまあいいか。合コンについてくるのはやめてほしいけど……。
——なおくんに告白された。まじか。
男が男を好きになることがあるって知ってたけど、まさか自分が当事者になるとは。
でもいいかと思って承諾してしまった。
——今まで人を好きになるとかわかんなかったけど、なおのことは好きかもしれない。
今日俺が陰キャなのがバレた。家にかーちゃんが来てて、合い鍵で先に家にいたなおと鉢合わせて意気投合。付き合ってるのがバレた挙句、本性までバラされた。かーちゃん……。
自分の稼いだ金と親しか信用してなくて、本当はみんなで騒ぐよりゆっくりするのが好きで、初恋なんかしたことなくて、って大学内で作ってるキャラと剥離しすぎてて、嫌われるって焦ったけど、なおは「大丈夫だよ、好きだよ」って言ってくれた。
信じていいのかな?
——夏休みに入った。長期休みは嫌いだ。バーベキューとか海とか山とかほんとは嫌いなんだよ。いきたくねー。なんて話をなおにしたら、夏休み中はなおの実家で過ごすことになった。他の仲間には「じーちゃんが腰悪くして手伝いに行かなきゃいけなくて~」とか言ったけど、十歳以降じーちゃんと会ったことねえわ。嫌いだしな。
なおの家庭はいろいろあるみたいで、今は祖父母の家に居候してるらしい。でも、その人たちは「なおの親です」って紹介してくれたし、居候って思ってるのお前だけじゃね? って飯中に言ったら、なおは「父さんと母さんって呼んでいいの?」ってご両親に言ってた。ご両親には泣かれた。まじかーってなったけど俺、ひとつの家庭を救っちゃいましたか(笑)
——なおが付き合ってるのご両親にバラした。
驚かれたし何度も確認されたけど反対されることはなかった。
「ウチを第二の実家だと思って……」とか言われてしまった。ちょっと嬉しい。
——夏休み最終日前日になった。
海で花火をした。東京ではあんまり気にしなかったけど、田舎だからか星が綺麗で、花火が終わってもしばらく海にいた。また「来年もくる?」ってなおに言われたから「気が向いたらな」って答えた。なおのことは信じてるし別れることは無いとは思うけど、絶対ってないし。未来の話をするのが俺は苦手だ。
——母さんが死んだ。
飛行機事故だった。色々やることはやった。
これからどうしよう。ひとりぼっちだ。
——病院で忘却剤を処方された。そういう病院狙ったから想像通りだけど意外と簡単にもらえるんだな。十日分。その日数分の薬を飲んで、記憶を無くして、母さんが死ぬという事実を消す。大丈夫。この十日間誰とも会ってないし、なおとも連絡を取ってない。この記事は非公開に入れておこう。
——今日祖父から電話があって母さんが死んだことを忘れていたのが分かった。
忘却剤ってなんも意味ないじゃん。確かに知らん奴にレイプされたーとかいじめの記憶がーとか使いどころはあるんだろうけど、忘れてもなんも解決しないじゃん。周りが覚えてたら意味ないじゃん。
——死ぬことにした。病院で過剰分の忘却剤を処方してもらった。精神は嘘ついてもバレないからちょろい。わかんない。もう俺は医者の意見通り薬が必要なくらい精神を病んでるのかもしれないけど、薬剤師にはわかんねえわ。
これは遺書の代わり。もう母さんは死んだから誰かに手紙残すほど思入れある奴いない。
なおのことだけが心配だ。なおに遺書は残さない。だって、絶対読んだら病むし。なおには幸せになってほしい。俺のことはせいぜい「あんな奴いたな」くらいに思ってもらえればいい。こっぴどく振ったし大丈夫だろう。別れる理由も言ってないし。
なおのことが好きだった。
要領が悪い癖に頑張り屋で、察しが悪くて、俺のことを一番に考えてくれて、俺の素を知っても受け入れて「好き」って言ってくれた。
なおに迷惑をかけたくない。だから何も言わない。
なおに新しく好きな人ができればいい。自分勝手な男でごめんな。
愛してたよ。
「……こんなん、勝ち逃げじゃん」
慎と東條が一緒にいた期間は長くはない。藤野ならその期間を余裕で追い越せるくらい東條の傍にいる事ができる。だって藤野は死ぬ気なんてさらさらないから。母が死んだ事実は勿論辛い。だけど泣いてもわめいてもその事実は覆らないのだ。だったら、寄り添ってくれる人と生きていきたい。
でも、東條は藤野を選ばない。
これを読んで確信した。だって、慎は東條を救ったけれど、藤野は東條を救えないから。
家族、心のよりどころ、恋人、慎は東條にいくつもの大事なものを与えた。だけど、藤野はなにを与えてやることができる?
「……なんもないだろ……」
藤野には何もできない。
最初からこの物語は始まってすらいなかった。これは藤野の物語ではない。慎と東條の物語だ。藤野は部外者。部外者が主役になんかなれるはずがないだろう。
「ばかか、俺は」
慎の言う通り、藤野も東條から離れた方がいいのかもしれない。
東條には別の人と幸せになってもらって、藤野は慎とは別の人間として生きる。多分その方がふたりとも楽になれる。時間はかかるかもしれないけれど、逆に言えば時間が解決してくれる。この夏をいい思い出に。
「できるわけ……」
できるわけない。忘れるなんてできない。他の人に挿げ替えるなんてできない。
「どうすれば……」
心の中の藤野が言う。どうしたも何も。呼べばいいじゃないか。東條のことを「なお」と。
そうしたら張りぼての「慎」が完成。あとは好きなだけ踊ればいい。疲れて足が壊れるまで踊ればいい。それだけの話だ。
でも、そんなことをしたら藤野は、自分は死んだと同じじゃないか。
存在を認められたい。愛してほしい。この感情はそんなに罪なことだったか?
くるしい。こんな事実忘れたい。薬を、いや、もう……。
握っていたスマートフォンが震える。表示されたのは赤崎の名前だった。
「心配してくれてありがと。でも大丈夫なのに」
「その顔がだいじょうぶなわけないじゃん」
赤崎はわざわざ手土産を持ってアパートまで来てくれた。近くの洋菓子店のカヌレだ。しかも藤野の好きな味の。こういうところは慎も藤野も変わらないんだろうな。
「……まだ考えてんの? 演技するとか」
「うん、ブログが残っててね。ちょっとだけふたりの関係が分かった」
「どうだった?」
藤野の喉から出たのはすがすがしいくらいに吹っ切れたような声だった。
「かてねーわ!」
自分でもびっくりだ。笑えた。
「なにあれ。相思相愛ラブラブカップル? あんなん間に入れねーし運命じゃん。なるべくしてなったっていうか、俺、東條に選んでもらうとかなに馬鹿な事少しでも思って」
「おちついて」
「頑張るよ。頑張ります。でもさ、そしたら俺って誰? ずっと無理しなきゃいけないの? そんなの」
「慎!」
両肩を掴まれ、正気に戻る。肩で息をしていて自分が興奮状態なのが分かった。
「……あきらめなよ」
「え……」
「あんたが壊れるところをもう見たくない。合い鍵渡してるならしばらくあたしの家来なよ。しばらく……。落ち着くまで七生とは関係を断った方がいい」
「……ありがとう、赤崎。でも……」
赤崎が苦しそうに漏らす。
「あんたは七生の恋人の慎じゃない。同じにはなれないよ」
「わかってるよ。人格は経験と記憶の積み重ねだ。記憶が無い以上全く同じ人間にはなれない。でも一回だけ試させて」
「試す?」
「俺が『慎になれるかどうか』を」
その日、東條は当たり前のように藤野のアパートに来た。連絡もなしだ。藤野にはそれが好都合だった。事前に連絡なんてされたら、待ってる間苦しいほど辛くなってしまうだろうから。
「ただいま」
「おかえり、『なお』」
貼り付けた笑顔でその名を呼んだ時、胸が針を刺したように痛んだ。藤野の心とは裏腹に東條の表情はぱあっと明るくなる。彼は子どもの用に藤野に飛びつき、嬉しそうにこう言った。「うれしい」と。
「思い出したの⁉」
「うん、まだところどころ抜けがあるけど」
話ながら、ああ、と落胆する。
「あのね、僕ずっとそう呼ばれたかった!」
「今までごめんな。もう忘れないから」
どこから、こんな声が出てきているのだろう。
どこから、こんなセリフがでてくるのだろう。
東條が喜んでくれることはうれしい。慎は奇跡により記憶を取り戻し、東條は最愛の恋人とずっと一緒にいられるようになりました。これでハッピーエンドのはずだ。なのにどうしてこんなに空しく、泣きたくなるんだろう。
「……どうしたの?」
心配そうに東條が藤野の顔を覗き込む。
——ごめん。
赤崎、お前の言う通りだったよ。
『お前は七生の恋人の慎じゃない。同じにはなれないよ』
俺はダメな奴だな。
——慎がどうとか関係ない。藤野は東條のことが好きだ。慎が愛した「なおくん」じゃない、藤野を見つけてくれた「東條」が好きだ。
だから、絶望してしまった。辛いと思ってしまった。
自分はどうやっても慎に勝てなくて、頭では慎になれると思ってても自我がその行為を否定する。だからもうダメ。限界。これ以上、慎のふりをしたら、慎の皮を引っぺがして「好き」と「俺を選んで」といらない人格を出してしまう。
だめだ、このまま演技していたら。
——心が、こわれていく。
せっかくこんなに喜んでくれたのに。こんな子に大事な人を二度も失わせたくない。
——だから、俺ができることは。
「……なお、別れよ」
幸せにしてあげたいのに、何でもやるつもりだったのに、結局、好きな子を悲しませることしかできない。
最悪だ。
東條は返事をしなかった。ただ、泣きじゃくる藤野を黙って抱きしめてくれて。泣き止んだら頭を撫でて帰っていった。合い鍵を置いて。
それが東條の答えだった。
それからは大学が始まるまで赤崎の家に居候させてもらった。
赤崎のアパートは藤野の家から三駅のところにある物件で、東條は場所を知らないから訪問されることもないと言う。申し訳ないと思いながらもおおよそ一週間お世話になった。どうやら精神を病んでいた間、東條が休学手続きをしてくれていたらしい。全く慎にはもったいない彼氏だ。
広い学内と言っても、東條のことだ。慎や藤野の行きそうな場所なんてすぐわかってしまうだろう。今はもう別れたから会ったとしても、なんだけれど、やっぱり会ったら気まずいので昼食は空き講義室内で食べる。
「今日この後も講義あるからだからご飯作っといて」
「おー、じゃあ帰り牛乳よろしく」
赤崎との暮らしはうまくいっている。今日も藤野が作った弁当を食べてくれているし、生活に不便がないように気を使ってくれているし、そもそも仲が良いし。赤崎は藤野の弱い部分も理解してくれている。彼女との生活は、平和だ。
——これでよかったんだ。
慎になれないのなら、いっそのこと東條から離れる。
他人になりきる、しかも好きな人の好きな人に。そんな自分を殺すような真似最初から出来るわけなかった。だったら答えはこれしかなくて。
「あ、雨……」
全ての講義が終わり、エントランスを出るとぱらぱらと雨粒が落ち始めてきた。折り畳みも傘も持っていない。赤崎のアパートまでは結構歩くし、ここから近い藤野のアパートまで取りに行くか? ……いや、濡れるな。コンビニで買ってしまおう。大学のいいところは近くにコンビニが必ずあるところだ。
さて、少し濡れる覚悟でコンビニまで走るか、そう意気込んだ時だった。
「傘、ないの?」
トートバッグを前に抱え、足を踏み出そうとすると聞きなれた声が聞こえてきた。声の方を見ると、そこには予想通り。
「なお……」
「久しぶり」
彼は傘を開くとその中で手をこまねく。
「家まで送るよ。どうせ傘持ってないでしょ」
赤崎の家にいることがバレてはいけない。赤崎に迷惑がかかるからだ。だったら、もうバレている藤野のアパートまで送ってもらってそこから折を見て赤崎のアパートに向かうかしかないだろう。ここでムキになって走っていっても東條を困惑させるだけだろうし。東條のことは大切にしたいのだ。傷つけたくないし、悲しい思いをさせたくない。いつも裏目に出てしまっているけれど。
「……なんで傘持ってないってわかったの。めんどくさくて傘さしてない可能性もあるじゃん」
「慎が傘自分でさしてるところ見たことない」
……確かに他人の傘に入ることが多いけれど。だって傘さすの面倒だし。いやいやそういうことじゃなくて。
「あの、一応俺たち別れたんだけど」
「うん。わかってるよ」
「別れた男にやさしくする意味ってなに?」
東條は少し考えこむと「わかんない」と結論を出した。
「別れてもきみのことがまだ忘れられないから、前言ってたような、えっと……わんちゃん? 狙ってまた仲良くしたいって思う。しばらく会えなかったの結構辛くて、やっぱりどんな形でも一緒にいたいなって思ったの」
「……変なの」
そこまで言われたらどうもできないじゃないか。
藤野は黙って東條の隣に入り、歩き出す。肩がぴったりとくっついてどうもドキドキして気まずかった。
「……嫌われたかと思ってた」
だって合い鍵返されたし。それに東條は「嫌いになるわけないじゃん」と返す。
「きみのこと、結構好きだもん」
「変なの」
それから無言の中、ふたりで駅まで歩いた。電車に乗っても無言。でもそれが心地よかった。無理して話さなくても、頑張らなくても、本来の東條は受け入れてくれる。
——それが「慎」であれば、の話だけれど。
駅から自宅までの道。傘がすれ違う中で、藤野は東條の肩が濡れているのに気が付いた。それから、少しだけ傘をこっちに傾けてくれていることとか。
そういうところを意識すると、握りつぶされているように苦しい。
「どうしたの?」
足が止まってしまった藤野に東條は駆け寄り、様子を窺うように傘を向ける。そんな優しさが辛くて、どうしようもなくて。藤野は思わずこぼしてしまった。
「嘘なんだ」
「……うん」
「記憶を思い出してなんかない。手がかりを見つけてちょっとお前達のことを知っただけ」
「うん」
「期待させてごめん、でも、でも」
言葉があふれて止まらない。
「……慎じゃなくて『俺』のこと、どんな形でもいいから好きになって欲しかった……!」
ああ、嫌われただろうな。
だって、こんな嘘ついて。怒られても、嫌われてもしょうがないよな。
こんなはずじゃなかった。誰かを好きになることなんてないと思ってた。
でも、藤野はこんなにも東條のことが好きだ。
優しいところが好きだ。ちょっと抜けてるところが好きだ。一途なところも好きだ。でもそれは藤野に向けたものでは無かった。藤野にそれが少しでも向けられていれば、何か違ったのかな。慎を超えるくらい好きにさせてみせるとか、思ったのかな。
東條は下を向く藤野の手を握ると、優しい声で言った。
「しってるよ、きみが慎じゃないことくらい」
「え……?」
そんなはず、だって東條は藤野の予想通り騙されて。
「だって慎は『なお』なんて呼んでくれなかったもん。名前で呼んでとは言ったことあるからちょっと嬉しかった。でも、きみがそのエピソードを知るはずがない。だから、きみが『慎』を演じて生きることにしたのかなって乗ったの。その時の傷ついた表情を見て、それが間違いだったってすぐに分かったけど」
「……うそ」
だって慎は東條のことを「なおくん」「なお」と呼んで……。
「あ……」
『ごめん私なおくん(仮名)が好きなの』
やられた、そういうことか。
個人のミクロなブログだとしても、他人の個人情報を出すべきではない。性格の悪い慎は恋敵である東條のプライバシーなんてみじんも考えなかったのだろう。とうじょうなお。フルネームは流石に出せないし、仮名を使うのも気を使っているみたいでむかつくから、実名の名前の部分を出したのではないだろうか。七生をなおと一発で読むのは珍しいし、そもそも読者はいないし。軽い気持ちで。そんな関係だったのに、好きになってしまって、付き合うことになって、呼び方も変えられず。
そんなよく考えればすぐにわかるようなトラップに藤野はまんまと引っかかったらしい。
「きみは本当に優しいね」
東條はぽつりとこぼした。雨が強くなったシャッターが目立つ商店街。そんな場所には自分たち以外誰もいなくて、妙にその声が響いた。
「でも、もう頑張らなくていいよ」
それは、どういうことだろう。
「慎のことは諦める。忘れる。それできみは楽になれるかな」
「は……?」
「きみの負担になることはしたくないんだ。僕のためにたくさん頑張ってくれて、泣いてくれて、そんないい子なのに僕は傷つけてばかりだ。やめたいんだ、そんな関係。まだ間に合うかわからないけど、きみともう一度最初から関係を作りたい」
慎を諦める、忘れる。
そうしてくれれば、どれだけ自分は楽になるだろう。
だけど、そんなの。
「そんなことだめだ! だって、慎との日々はお前を構成する一部だろ。俺はその一部も含めて好きなんだからそんな軽い気持ちで忘れようとすんな!」
ああ、めんどくさいやつ。
でもあんな日記読んだらそう思うじゃないか。
きっと、慎と出会う前の東條と藤野が出会ったとして、藤野は東條を好きにならなかっただろう。東條の纏っていた氷を溶かしたのが慎で、藤野はその隠れていた中身を好きになった。どれだけ気に食わなくても、嫉妬しても、慎は東條にとっては自分を構成する大切な人だ。それを無理矢理忘れさせようなんてそんな酷い選択肢選ばせない。
「……じゃあどうすれば一緒にいてくれる? 毎日見てた。きみは赤崎さんとばっかり一緒にいて、それを見ながら何回奥歯を噛んだかわからない。赤崎さんはきみが好きなのに、無防備な顔ばっかりさらして……。正直むかついた」
むかつく、なんておっとりした東條からそんな物騒な言葉が出てきたのに驚いた。
が、赤崎のためにも訂正しなければならないことがある。別に彼にはそんな気はない。
「きみのいいところを知らないのに好き好きオーラだされるのに耐えられない。今日も赤崎さんの家に帰るんでしょ? そんなのやだ」
「何で知ってんの?」
「ついてったから」
ストーカーかお前は。まあ、慎の身体が知らない女のところに行ってるのは彼氏としては不安なのかもしれない。けど、赤崎に迷惑がかかるからやめてほしい。
「確かに、赤崎さんは慎のいいところは僕より知ってると思う。でも、きみのことは知らないよ。きみが生まれてからずっと傍にいた僕がいちばん知ってる」
「……そういうこと、その気がないのに言うな。お前が好きなのは俺じゃなくて慎だろ」
「そうだけど、でも、いやだ。きみを誰かにとられるなんてやだ。きみの隣にいるのは、僕がいい」
その言葉にかっとなる。
「お前が俺の何を知ってんだよ! 俺だって知らない『俺』の何を知ってんの⁉」
俺だってわからないのに、お前が何を知ってんだよ。お前は何も知らないだろ、こんなはじめての気持ちで迷走する俺の気持ちも、俺の名前すら。
「慎が好きなら、期待させんなよ……名前すら呼んでくれないくせに……!」
慎、慎うっせーんだよ。俺はそんな名前じゃない。そんな名前で呼ばれても、その人格にはなれない。その名前で呼ばれるたびに苦しくて、辛くて。
頭の中がぐちゃぐちゃして、東條の手を振りきって走り出す。どこを目的地にしているわけでもない、とにかく頭を冷やしたかった。
しばらくして、雨は本降りになった。赤崎家と自分の家の中間地点でびしょびしょになる前に近くの喫茶店に駆け込んだ。被害としては頭や服が濡れたくらい。店としては迷惑だがしょうがない。クーラーが効いた店内で乾かさせてもらおう。タオルハンカチで水気をぬぐい、ホットコーヒーを注文する。店員が持ってきたホットコーヒーで身体を温めながら赤崎にメッセージを入れる。
『傘忘れてびしょびしょだから迎えに来て』
『傘買いなよ』
講義中だと言うのにすぐに返信が返ってきた。いいやつ。
『いろいろあってコンビニ無いとこまで来ちゃった』
『講義終わるから迎えに行く。マップよこせー』
言われた通りに現在位置を送ると、それから返信が無くなった。おそらく講義に集中しているのだろう。邪魔をしないように追撃はしない。さて、これからどうするか。勉強でもしようか。教材をカバンから出し、テキストを開いた。
スマートフォンが震えたのはそれからしばらくしてからだ。
『もうすぐ着く』
そんなに時間が、と時計を見ると、最初に赤崎に連絡してから一時間も経っていた。
服はだいぶ乾いてきたけれど、外は土砂降り。こんな辺鄙な場所に急がせるのはかわいそうだ。
『急がなくていいよ』
そう打って送信しようとしたところで、からんと入店を知らせるベルが鳴った。赤崎が濡れた傘を傘立てに置き、こちらに向かってくる。
「おつかれ、何、濡れてんじゃん」
「ちょっとね、てか迎えに来させてごめん」
「別にいいけど。てか傘買ってきたから金出して」
「はいはーい」
財布から千円札を取り出すと、件の精神科からの処方シールがひらりと床に落ちた。
「あ……」
「落ちた……ってなにこれ、あんたまた」
「違う違う!」
赤崎も知っている「慎」のものだと説明すると彼は安心したようだった。
「……また仮死になられたら困る」
「ならないよ。俺、やることあるし」
「やること?」
「……東條とのこと、ちゃんと清算しなきゃいけない」
そう言うと赤崎は大きくため息をつき頭を抱えた。
「あんたが言ったんでしょ。人格は経験と記憶の積み重ねだって。それが抜けてるあんたは元の人格には戻れない。無理があるんだよ、あんたの考えてることは」
「そうかもね」
「だったら今のあんたのことを受け入れてくれてくれる奴を選びなよ」
「いないよ」
だって、藤野は最初からひとりぼっちで。周りは慎を欲している。藤野のままでいいよ、なんて言ってくれる人はいるわけがない。だって、藤野は産まれたばかりで、東條のほかにはだれも。
「あたしがいる」
いつの間にかテーブルの上に置きっぱなしの藤野の手が赤崎によって包まれていた。暖かい手。東條とは違う。
「藤野、あたしのところにきて」
はじめて、誰かに認識された。『藤野慎』ではない、名前のない自分を。
泣きたくなった。それはとっても嬉しいことのはずで、自分の願いだったはずなのに、最低なことを思ってしまう。その言葉はこの人から聞きたかったのではない。名前を呼んで欲しかったのは、この人じゃなくて——。
「俺は——……」
「いた!」
藤野はぱっと顔を上げる。その声は間違えるはずもない。
「東條……」
「何の用だよ、藤野を騙して、それで追い詰めて、今更彼氏気取りか?」
「赤崎さんには関係ない」
事務的に東條は答える。
「関係ある。あたしは今の藤野が好き。そして、あんた達の関係なんて壊れろって、……いや、壊してやるって思ってる。だから今一緒に暮らしてるし」
そういう意味で暮らしてたんじゃ、と弁解する暇もなく東條は「……そう」と呟いた。そう、じゃないだろ。お前は慎のことが好きなんじゃなかったのかよ。慎の身体が奪われそうになってるんだから、なんか言えよ。それとも。
——中身が『俺』だからもうどうでもいい?
東條を救ってくれた慎に会えないならもうこの身体には用はない?
それを肯定するかのように東條は続ける。
「……その子が赤崎さんを選ぶなら文句はないよ」
そうして東條は踵を返す。「待って!」と藤野は頭で考える前に追いかけていた。やっと東條が話してくれたのは店から少し離れた公園の前だった。
「東條、その、ごめん」
「ごめんって、なんで?」
「……他の子のところにいた」
「別に気になんないよ。きみが選んだ人なら」
「ちが、俺が好きなのは」
「座って話そうか」東條はそう言うと公園の屋根のあるベンチに座る。藤野もそれに倣って横に腰をかけた。雨が屋根をたたく。周りには自分たちしかいないみたいで、世界から切り取られたように静かだった。
「……慎は帰ってこないって、あきらめてるんだ。慎は自殺した。きみは似てるけど違う人間。それは事実で奇跡が起きない限り覆らない」
何も言い返せない。
「だから、きみには慎のことは気にせず自由に生きてほしい」
「東條はそれでいいの? 俺、頑張るよ。慎になれるように頑張る。……割り切るのは、難しいけど、もっと頑張れば」
東條は複雑そうな表情で藤野の頭を撫でた後、そのまま引き寄せる。彼の胸に頭がくっついて、音が聞こえる。心臓の音。生きている音。
「もう頑張らないでいいよ。確かに僕は慎が好きだよ。でも、慎ときみが崖から落ちそうでどっちか選べって言われたら僕は選べないと思う。きみはきみとして見てるから、慎と僕の事は気にしないでほしい。……個人的には、きみのことをもっと知りたい、一緒にいたい、隣で星を見るのはきみが良いと思ってる。でも強制はしないよ」
「……ずるい」
「無理に頑張らせて……いままでごめん」
「ごめんって、なにが」
「きみのことなにも考えないで傷つけた」
「……傷つくなんて」
傷つかなかったといえば嘘になる。慎じゃなくて、藤野を愛して欲しかった。でもそれは無理だし、無理して藤野を好きになってもらわなくていい。藤野は、慎を愛してくれていた東條が好きだったので。だから、大丈夫なのに。
「もう、僕はきみには近づかないほうがいいんだろうね。……僕は君と一緒にいたいけど、ほかの人が好きならそれでいいんだ。その時は、はっきり言ってくれると嬉しいな」
「……ばか」
東條はいつも自分勝手だ。藤野の気持ちなんて考えたことなんてないだろう。ばか。
ばかだばかだばかだ。
気づけよ。
「一緒にいたい。好きなんだ」
好きじゃなかったら、騙されてると知ってからも一緒にいなかった。
「趣味悪いな、こんな男のどこが」
「だって東條は理想の慎じゃなくても俺のそばにいてくれたじゃん。俺が記憶が無くなったって気付いても、慎じゃなくても、隣にいてくれたじゃん。俺にはそれが嬉しかったよ」
「それは、慎に戻るかもって下心があって……きみが僕に言ってくれるような綺麗な感情じゃ」
確かにそうかもしれない。信じていたのに裏切った。それは悲しい。
でも言ってくれたじゃないか。
『ゆめにでてきて、いてもたってもいられなくなって』
『きみのほうがしあわせそうにわらう。……まことのわらったかおは、もうおぼえてないんだ。ずっとないてたから』
本当は、あの時の自分が慎だったっていいんだ。
その姿を「慎」じゃなくて「藤野」だと思ってくれたこと。そう言ってくれたこと。
それが今ならわかる。少なくとも、この人は「慎」だけを見ていたわけじゃない。
ひと夏しか一緒に過ごさなかった「藤野」のことも見ていてくれていた。
それに今は救われている。
「東條が慎に救われて好きになったように、俺も東條に救われた。わかってよ」
「赤崎さんと一緒にいた方が幸せになれる」
「何が幸せかは俺が決める。その上で俺はお前を選んだ」
赤崎を選んだ方が、たぶん幸せになれる。でも、それは他人の物差しで見た幸せだろう?
「好きになってほしいなんて言わない。東條は慎のことが好きだろうし、見た目は同じでも別の人間を好きになれって言うのは酷だと思う。だから、俺が一方的に好きなことは許して。隣で、お前のこと見てるのは許して」
新しく好きな人が出来るまででいいから。その声は小さく掠れて、聞こえているかはわからなかったけれど。それでも、抱きしめられた体温で許されたのだと分かった。冷たいけれど、暖かい。知っているはずで、藤野は知らない愛おしい身体。
「……なんで、そんなこと言うかな」
抱きしめる腕の力が強くなる。
「僕は、きみにひどいことをしたのに。慎になるまでやり直させようと、きみの存在を消そうとしたのに。なんでそんなこと言えるの。おかしいよ」
「あはは、俺もそう思う」
藤野は東條の背中に腕を回す。自分より広い背中。この背中に自分と慎はどれだけのものを背負わせてきたんだろう。守りたいと思う。もう、この人が傷つかないように、大切にしたい。傍にいることを選べばそんなことは叶わないのに、人間の感情はいつもあべこべで自分でも理解しがたい。いつか、好きになってほしい。慎のことは忘れなくていい。でも、慎を失った悲しみを覆えるくらい、彼を自分が幸せにしたい。藤野がそう思うのだ。この想いは誰にも否定させない。
「……名前を」
「え?」
「何て呼べばいいか、教えてほしい。僕はきみの名前を知らないから」
その言葉に藤野は驚き、その後、胸がどうしようもなく痛くなった。それは悲しいだとか辛いだとかじゃなくて多分、嬉しいと。東條が『俺』を理解しようと歩み寄ってくれたことが、苦しいほど嬉しいと。
「……藤野でいいよ。もう、そう名乗る身内もいないから」
慎は『俺』の名前ではない。少なくとも東條にとっては。だからそう呼んでほしい。同じ苗字を持つ母親は死んだ。他の親戚も接触はしてこない。『藤野』と言う呼び方は自分にとってはちょうどよかった。
「藤野」
はじめて、東條に名前を呼ばれた。
ひとりの人間だと認識してもらえた。
やっと藤野と慎と東條の関係が、少しだけ前に進めた気がした。
「僕を、見捨てないでくれてありがとう」
「……見捨てるわけないじゃん。むしろ言いたいのはこっちだよ。東條が『好き』を諦めてたら俺はずっとひとりぼっちだった」
「そんなことない。藤野はひとりでも……」
「どっちにしろ真実は知ることになるだろうけど、それなりに生きていけただろうな。でも、きっとひとりで抱え込んだら辛かったよ。大丈夫だったのは、東條がいたから」
どうだろう、東條に見限られていた未来。母親の死に耐えられずに慎と同じ結末を辿って今度こそ死んでいたような気がするし、何とかなったかもしれない気もする。でも、ありもしないパターンを想像して何になる?
今が現実だ。藤野が東條とこうして一緒にいる今だけが現実だ。
「愛されてるな、僕は」
「じゃなきゃ嘘つかれた時点で殺してるよ」
それからふたり、顔を見合わせて笑った。
「帰ろうか」
僕たちの家に。そう続けた東條に藤野は「うん」と頷く。
東條の自宅にタクシーで帰るまで会話はなかった。
何を話せばいいかわからなかったし、自分たちの間の会話を一言たりとも他人に聞かれたくなかったというのもあるかもしれない。東條と藤野の関係には、まだ誰も入れたくない。ふたりだけの閉じた世界でいい。少なくとも今日だけは。
玄関に入って、久しぶりに部屋を見る。藤野が産まれた場所。藤野が最初に見たもの。身体にしっくりくるこの空気は、胎児が育った子宮のようだった。安心で安全で、ずっとここにいたい。きっと、東條もそれを望んだんだろうなと思う。藤野が傷つかない世界で、慎が産まれるまで永久にリセマラをして。無理なら安全な病室で思い出すまで待ってもらう。そんな未来、イチパーセントもないのに。子どもはいつまでも子宮にはいられない。時が来たら外に出てひとりで立ち上がらなきゃ。
「おいで」
東條がベッドに座り、隣のスペースをぽんぽんと叩く。座れと言う意味だろう。藤野は言われた通り隣に腰をかけ、おずおずと口を開いた。
「……今日、泊っていいか?」
「元々そのつもりだったけど、なんで?」
「明日から家に帰るよ。母さんの身の回りの整理しないと。今日は疲れたからゆっくりしたい」
やることはたくさんある。慎がどこまでやったのかは分からないから把握して、やっていないことがあったらやらなきゃいけないし。
「僕もその時は一緒にいていい?」
「心配してんの? またいなくなるかもって」
「ちょっとだけ」
「信じろよ」
藤野は東條の肩に頭を寄りかからせる。
「もうお前のことは悲しませない。絶対に」
自分が『藤野』である限り。絶対。
これから『慎』の出番はない。自分から逃げた奴に東條を渡してやるものか。東條はまだ慎のものだったとしても、もう藤野は藤野のものだ。この人格は消させないし、いつか慎から東條を奪ってみせる。
「うん、信じるね。……藤野」
「なに……」
顔を上げた藤野に東條が覆いかぶさる。
ベッドに押し倒されたのだと気が付いたのは、自分の露出した皮膚がさらりとしたシルクのシーツの感触に反応してからだった。それから自分の両腕が掴まれていると。覆いかぶさる東條の唇が触れる。
——あ、キス、されてる。
口内という自分の弱いところを触れられているのに、不思議と怖いだとか、嫌だとかは感じなかった。それはきっと慎の身体が東條の身体を覚えているからだろう。身持ちが固いとは言えない慎のことだ、恐らく東條とそういう関係になってから何度も——、それこそ身体が彼の形を覚えてしまうくらい繋がったはずで。藤野にとっては、本当に男となんてはじめてのことなのに、キスの味を覚えている舌が追うように東條の舌に絡みつく。
「ふ……っ、ん……」
どうしようもなく頭が鈍くなる。もやがかかって、ぴちゃぴちゃと脳の中で水音が響く。それだけが今の藤野の全てで、それだけしか考えられない。気持ちがよくておかしくなる。口内から犯される感覚は藤野は知らない。どの女の子ともしたことがなくって、これからもこの先も、きっと東條だけ。
「あ……」
口内を蹂躙されつくし、息も絶え絶えになった時に唇が離れた。その時目と目が合い照れてしまう。キスごときでこんな、痛いほど胸が苦しくなるなんて。ドキドキ、ドキドキ。おかしい。自分は年上で、大人で、なのにこんな。
「……あの、俺、俺ははじめてで、その」
まるで処女のようなセリフ。セックスなんて初めてではないはずなのに。どうしようもなく恥ずかしくて、動悸がする。それはきっと相手が東條だから。他の人間だったらこんなこと思わないはずだ。そんな藤野の頭を東條は優しくなでる。最初に会った時と同じように、愛おしそうな優しい声で言うのだ。
「……嫌?」
「いや、じゃないけど……」
そう、嫌じゃないのだ。同姓で、恐怖対象の男だと言うのに触れられて何も嫌悪感がない。これは普通のことなのだろうか? でも、もし普通じゃないとしてもやってみたい。だって慎は触ったんだろう? 触れられたんだろう? 繋がったんだろう? それを考えると嫉妬で是が非でもやってやりたくなる。だってもう東條は慎だけのものではない。藤野の彼氏でもあるのだ。……そうだよな?
「……あの、俺でいいの」
念のために確認してみる。自分でも女々しいとは思うが、大切なことなので。
そう聞いてみると東條は藤野の手を握り、その手を持ち上げキスをした。
「藤野がいい」
その言葉で藤野は自分が真っ赤になってしまっていることが自分でもわかった。そんなこと言われたら、東條にべた惚れしている藤野にはもう。
「……うん……」
そうしてもう一度唇を塞がれ、唾液を混ざり合わせるように舌を絡ませあう。そのぼんやりとした快感を与えられるまま享受していると、一瞬、ぴりとした刺激が身体に走った。
「あぁ……っ!」
東條は藤野の乳首を服をたくし上げて乳頭をつねる。男の乳首なんて何も感じないはずなのに、雷が落ちるような強い性感が襲ってくる。
「ひ、……え……な、なんで……」
「乳首、まだ感じる? しばらく触ってなかったけど」
「お、お前がかいはつしたの……?」
「うん。恥ずかしい?」
東條は藤野に対し、悪びれもなくそう言う。こんなの、こんなこと言われたら。
「……恥ずかしいけど……東條が開発したなら、その……おこらない……」
「ありがとう」
「んっ」
ぬめる舌先で乳首をなめられると喉の奥から甘い声が鳴る。自分じゃないみたいな甘い声になんだかこれが正しいような気がした。抱くのではなく抱かれる方。それは身体に染みついた方が“そっち”だったからかもしれないけれど、例えこれが間違ったことだったとしてもいいや、と思う。藤野がそう思うのなら、それが正しい。どう生きていくのかは、今は藤野が決める事なので。
「ぁ……あ、ん……っ……」
片手で乳首をいじり、もう片方を舐られる。それは驚くほど気持ちがいいことで声に吐息が混ざる。乳頭が腫れぼったくなるころには息も絶え絶えだった。自分の下半身が緩く主張し始めている。
「乳首だけで勃ってきた……」
「し、しょうがないだろ。どーせこうしたのはお前なんだから責任取れっ!」
「うん、そうだね」
東條は藤野のそこに服越しに手を伸ばし、下から上へゆっくりと撫で上げる。その行為に身体がぞくぞくし、吐息に熱がこもる。その反応に東條は満足そうに微笑んだ。
「きもちい?」
「…………う、ん……」
「じゃあもっと頑張るね」
「あっ」
東條はそのままベルトを緩め、下着のふちに手をかけて中に潜り込んでくる。冷たい手にびくりと身体が跳ねるが濡れはじめた性器に触れられると、気が高ぶりすぎて鈴口から蜜がにじんできた。
「は……っ、ん……」
興奮で泣きたいくらい性器がジンジンする。先走りが幹に塗りたくられ、下着の中でくちくちと淫靡な水音を出して、それが気持ちの高ぶりを助長させた。
「ぁ、あ、ああ……!」
どんどん擦られる音が速くなり、音に耳が犯される。藤野はたまらず東條の手の中で射精した。びくびくと身体が痙攣し、出した解放感で頭が空っぽになる。
「は、あ……は、ぁ……」
「大丈夫?」
満身創痍の藤野に東條が心配そうに声をかける。藤野は「へーき!」とやけくそで言うと自分を見下ろしている東條を手と足まで使って抱きしめた。
「いーから、俺のことめちゃくちゃにして。……慎よりも俺の方がいいって思えるくらいに」
少しの嫉妬と一生慎には勝てないという劣等感。それを声色から感じたのか東條は藤野を抱きしめ返す。
「大丈夫だよ」
「……何が」
「今抱きしめてるのが慎じゃなくて藤野だってことくらいわかってるよ。大丈夫だよ、ちゃんときみのこと見てる」
嬉しかった。なにがってちゃんと「藤野」を見てくれていることが。
この人なら、藤野を見てくれるこの人になら全部あげてもいいと思った。藤野が持っている数少ないものの全てを。
「藤野?」
何も言わない藤野を訝しんだのか東條は声をかける。それから藤野の目元を指で拭ってくれた。
「泣いてる」
「え……」
自分でも目元に手を伸ばすと、確かにそこには涙がこぼれていたのだった。ぽろぽろとあふれ出る塩水に困惑するが、あふれ出す理由はすぐに理解した。
「ごめん、でも、嬉しくて」
「嬉しい?」
「東條が俺を見てくれてて」
「そんな泣くほど想われてるなんて僕は幸せ者だな」
そしてもう一度キスをしてくれた。
藤野が翻弄されている間に、東條はベッドサイドを探る。個包装のローションとコンドームを取り出すと、藤野から離れた。
「……なんで離れるの……?」
「藤野はわかんないかもしれないけど、男同士でするにはよく慣らさないといけないから。今から準備しようね」
東條はローションの袋から冷たい液体を下腹部に垂らし、コンドームの封を手で開けると、藤野の身体の窄まった場所にポリウレタンに包まれた指を当てる。突然のことに喉から小さな声が出たが、これも必要なことだと窄まりが解されるのを耐えた。最初は冷たさで身体が委縮していたけれど、ローションが温まると性交に使わないはずの場所を解されることに微弱な快感を覚えるようになる。過去の自分は何度東條と身体を重ねたのだろう。上がる吐息の中でどうしてもそんなことを考えてしまう。だって、受け入れてしまうのだ。使わないはずの場所が少しほぐされただけで簡単に彼の中指を美味しそうに飲み込む。それが過去の自分と東條の関係を証明しているみたいで、悔しい。
「は……ぁ……、あ……」
もう一本解すための指が増える。
「あと一本、入るようになったら挿れるから」
「……うん」
「どうしたの?」
藤野の様子がおかしいと思ったのか東條が手を止めて伺ってくる。女々しいと思いながらも藤野は不安を口にした。
「めんどくさい思考回路なんだけど」
「言ってみて?」
「こんなに身体が慣れてるの、慎と東條が何回もヤッたのわからされて……なんかやだ……」
「かわいい」
そう笑う彼を藤野はキッと睨みつける。
「笑い事じゃない!」
「嬉しいよ」
東條は藤野の頬を撫でる。
「藤野が嫉妬するまで僕のこと好きなの、嬉しい」
そう言って彼は藤野の瞳を見つめる。それがどこか照れくさかったので目線をそらしてやり過ごしたかったのだけど、なんだか今それをするのはいけない気がして、無理をして東條の幸せそうな顔を見た。
「もう藤野以外とはしないから。これからずっと、僕は藤野のもの。過去はどうにもしてあげられないけど、僕のこれからは全部あげる。それじゃ満足できないかな?」
そんなことを言われたら。
「善処は、する……」
「なにそれ」
藤野の回答に東條は笑った。その反応に膨れていると「機嫌悪くしないで」と首元を強く吸われる。小さな喘ぎ声が漏れる裏で、跡が残るかもなんて頭の隅で思ったが、それでもいいやと思った。東條がくれるものならなんでも受け入れたい。
「あ……」
意識がほかに行っているうちに中に入る指がもう一本増えた。三本の指が中でぱらぱらと動き、この先の異物を挿入できるように念入りに解される。異物感に身体がこわばったけれど、東條の「息吐いて」の声でなんとか力を抜くことができた。
「あ、あ……いや……」
「痛い?」
「そう、じゃなくて……」
気持ちいいのが怖いのだと、この先が怖いのだと正直に言うと笑われた。
「なんだよ」
恥ずかしくって、むきになってそう言う。すると東條は優しい声で甘えるように耳元に吹き込んだ。
「痛いのも、怖いのも、今日から全部無くなるって言ったら藤野はどうする?」
「え……」
「これから全部気持ちいいしか感じられなくなって、僕の下で喘いで。これからそんな風にしかなれなくなるとしたら、藤野はベッドから逃げちゃう?」
「あ……」
想像してみる。東條とこれからする行為を。
自分が彼の元で乱れる姿を。
そんなことを考えると、違和感で萎えていた下腹部が急に熱を持ち始めたのを自覚して。藤野は耐えきれなくてそっぽを向いた。
「あ、ちょっと勃ってきた」
「うるさいっ!」
「これだけ意識してくれてるんだからちゃんとしないとね」
一旦止まっていた指が中で蠢く。違和感の中に快感を見つけ出すと藤野はそれだけを感じられるように身体の力を抜いて東條に身を任せた。
「あ……、ぅ……、あっ!」
「ここだよね?」
東條の指が中のある一点をかすめる。そこを刺激されると、身体に電流が走ったかのように身体が跳ねてしまう。こんな快感知らない、女の子とのセックスでもこんなの感じたことない。藤野が混乱していても、東條は容赦なくそこを刺激してくる。その度に声が上がり、身体は疲弊していった。
「あ、あっ、だ、だめ……!」
「だめじゃないよ。こういう時は気持ちいいって言うんでしょ? ほら、言ってみて」
「……っ、やだ、はずかしい……」
「言って」
普段は藤野のことを第一に考えてくれるくせに。藤野の言うことなら何でも聞いてくれるくせに。こういう時だけ強引で、かっこいいとか、ずるい。
恋愛は惚れた方が負けと言うけれど、まさにそうだ。藤野は東條になら何をされてもいいと思っているし、東條にはその権利がある。何もかもを許してしまうくらい、藤野は東條のことが好きなのだ。
……東條が藤野のことを好きじゃなくても。
「や、あ、あぁ……!」
頭の中で電流が走る。壊れた思考回路では正常な判断などできず、藤野は言われたとおりに口を開くことしかできなかった。
「き、きもちい……! きもちいからぁ……!」
「よく出来ました」
「ひあっ!」
その一点を強く押されると女のような高い声が上がってしまう。藤野は咄嗟に両手で自分の口をふさぐと「ちが、今のは!」と声を上げる。
「なに? 正直に言って?」
「今のは……ちょっと気持ちよすぎただけで……いつもはこんな声……」
「じゃあその声を聞くのは僕の特権だ」
「ばか……! あ……っ!」
体内から薄い膜につつまれた指が抜けていく。その喪失感に声が漏れた。
「……そろそろ挿れるよ」
「っ……!」
東條が自らの衣服を寛げ、それをあらわにする。東條のものは触っていなくても十分勃起しており、その太さと長さに同じものを持つ同性ながら息をのんだ。いや、こんなん無理だろ。入るわけない。でも、もしこれが自分の中に入るとしたら、と思うと口の中に唾液がにじんでくる。心ではどう思っていたとしても、身体は期待しているのだと気が付くのに時間はかからなかった。
「……怖い?」
「え、あ……。ち、ちょっとだけ……」
「大丈夫。ちゃんと気持ちよくなるから。……力抜いて」
「ん……」
少しの緊張の後、極薄の膜に包まれた質量を持った熱が蕾に当てられる。藤野のよく慣らされた柔いそこは、東條を受け入れようと簡単に屹立を飲み込んだ。
「ぃあ、ああ……!」
「……っ」
藤野の体内はその質量を覚えていたのかと思うほど自然にそれをすべて受け入れる。東條が息を呑んだ声が聞こえた。身体で感じる異物感に、あの大きなものが自分の中にあるのだと、繋がったのだと意識し、東條のものを締め付けてしまう。
「藤野……、ちょっときつ……」
「は、……ご、め……でも……どうやったら……」
「慣れるために少しぎゅってしようか」
そう言うと東條は藤野を抱きしめたまま、おとなしくなった。どくどくと繋がった場所で鼓動だけが伝わる。鼓動と、荒い息遣いと、興奮で熱を持った温かい体温。それとお互いの身体。この部屋には今それだけしかなくて、そのそれだけが藤野はどうしようもなく愛おしかった。
「……藤野、見て。外」
ベッドのすぐ近くにある窓からは星が見えていた。まだそんなに遅い時間ではないが一番星が見える時間帯にはなったようだ。夕焼けと夜を混ぜた空の色に、明るい星が瞬いている。東條はその星を見ているのだろう。
「……星?」
「うん、これはさ、慎と見た星空じゃないよ。藤野と見る空は泣きたいほど綺麗だ」
夏の大三角形、慎と見たであろう写真と比べると東京の空は星がよく見えないしビルや街頭ばかりで所々よく見えない。それでも東條には綺麗に見えるんだろう。藤野にとってはそれが嬉しかった。
「あのね、こうしてても『好き』ってまだ完全にわかんなくて」
「……うん」
「慎のことは好きだった。『好き』って生涯ひとりだけに抱くものでしょう? なのに、僕は、藤野のことが好きならいいのに、って思うんだ。これが『好き』だったらいいと思うんだ。そんなこと、ありえないのに、おかしいよね」
「おかしくないよ」
藤野はやっと笑えた。
「いつか好きって言ってくれればいいよ」
いつかでいい。すぐにとは言わない。これから長い時間を一緒に過ごして、その長い時間の中で小さな「好き」のひとつでもくれたらそれで十分だ。
「ありがと」
東條はそう言って藤野の唇に口づけを落とすと、歯列を割り濡れた口内の中に入ってくる。優しくて気持ちのいいキスをしながら、彼は緩く腰を動かした。
「——あ、あっ、っ……!」
圧迫感がすごい。自分の体内を侵されている感覚。それでも嬉しかった。完全にパズルのピースがはまったわけではなくても、自分たちは今、繋がっている。他でもない藤野と、藤野が恋をしている東條が。それはとても幸福なことで、このセックスだけでこれからの不安も、それ以外のなにもかもに耐えられる気がした。例え東條が一生「好き」を返してくれなくても、この思い出だけで生きていける。そんな気がした。
「は、あっ……! ぁ、ああっ!」
腰を打ち付ける速度が速くなった。東條は藤野の腰をしっかりと掴み、離さない。過剰に注がれる快感に頭がおかしくなりそうなほど悶えて、喘ぎ声が止まらなくなる。気持ちいい。気持ちいい。どうしよう、こんなに気持ちよくって、こんなの知ったらおかしくなる。こんなの登場としかしたくない。藤野のことを暴くのはこれからもずっと、東條だけが良い。
「ゃ、あ、やだ、おかしく……、っ!」
「は……、藤野……」
「だめ、だめ……っ! これ以上激しくしたら、い、いっちゃう……!」
「いいよ、好きなタイミングで。最後まで付き合うから」
最後まで付き合うって。そうじゃない。藤野がしてほしいのは……。
「……東條も」
「ん?」
「東條も、俺で気持ちよくなってくれなきゃ、やだ……っ」
そう蚊の鳴くような声で呟くと、珍しく東條が混乱したかのように顔を赤くする。いつもどこか余裕ぶっていて、年上の藤野を甘やかしていたのに、こんな一言で彼は照れるのか。慎も知らないかもしれない、自分だけに見せた顔。藤野はその事実にほの暗い優越感を持ちながら、彼の肩にすり寄った。
「……いっしょにいこ?」
「…………ばか。せっかく余裕ぶってたのに、台無しだ」
「年上を好きにできると思うな」
藤野はすり寄った肩にそのまま口づける。それを合図に東條の身体が前後に動き出した。
「あ、……ぃ、きもち……!」
何度もなんども気持ちいいところを擦られて身体が溶けてしまいそう。そんなばかな事を考えてしまうくらいに気持ちがよくて、このまま混ざり合ってしまいたいくらい心地が良かった。
「……っ、……っく! も……いっちゃ……!」
「……ぼくも」
余裕が無いのだろう、動きが激しいものに変わり、気持ちを伝えあう手段から快楽を追うものへと変わっていく。双方「気持ちがいい」の他にはろくな事を考えられず、それ以外にあるとすれば。
「ね……、そっちも、きもちい……?」
「うん、きもちいいよ……」
それ以外にあるとすれば、それは相手も自分と同じ気持ちかというものだけ。
「あ、いくっ! ぃ、っ~~!」
「——っ!」
射精はほぼ同時だった。腹部に白い液体が飛び散る。体内では幹がすべてを出し切るように脈を打ちながらゴム越しに精を放っており、藤野はどこか惚けた頭でそれをもったいないなあと思った。
放心状態でそれを受け止めていると、東條が頭をこすりつけてくる。その頭を藤野は抱きしめ、「だいすき」と呟いて意識を手放した。幸せだと、心の底から感じながら。
目が覚めたのはまだ朝日が完全に昇っていない、薄暗い時間帯だった。
意識を落とす前、そしてその後もあったはずの東條の姿は隣にない。不安になって、どこに行ったのだろうと部屋を見渡すとベランダにかけられたレースカーテンが風になびいていたのだった。
「東條」
ベランダに顔を出すと、東條が煙草を吸って遠くを見ていた。彼は藤野を目線で確認すると目を細めて笑う。それを見て口から勝手に「俺も吸う」と出てきた。普段は吸ったりなんかしないのに。
「はい」
東條から一本差し出され、一緒に渡されたライターで火をつける。手に染みついたそのしぐさに、慎は喫煙者だったのかもしれないと思った。そういえばヘビースモーカーだと言っていたかも。
「藤野も吸うんだ。実家にいるときは一本も吸わなかったのに」
「吸わない。今はそういう気分だっただけだよ。慎は結構吸ってたのか?」
「うん。身体に悪いから禁煙してって言ってたんだけど」
「喫煙者のお前が言っても説得力ないじゃん」
それもそうか、と東條は笑う。
「……真紀子さんと豊さんにも赤崎にもお騒がせしましたって言わないとなあ」
「みんな気にしてないんじゃない?」
「お前さあ……。そのふわふわな性格どうにかしろ?」
「じゃあ藤野が禁煙したらどうにかする」
その横顔に覚えのある声と映像がフラッシュバックする。
——禁煙しなよ。
——そっくりそのまま返すわ。それにアレ、煙草とライター持ってればどんなに暗い所でもお前のこと見つけられるだろ?
——見つけてくれるんだ。
——俺はな。お前は知らんけど。
——僕だって見つけることくらいできるよ。例えば……相手が誰なのかはっきりわからなくなる夜明けの時間のことをかわたれ時って言うんだって。今のこの時間のことを言うのかな。こんな時間でもきっと見つけられるよ。
——はーん、言うねえ。ちなみにその雑学は誰の受け売り?
——同じゼミの女の子。
——お前しらねーところで浮気すんなよ殺すぞ。
——できないのは慎が一番知ってるくせに。
——うるせー。……てか、なんだよはっきりわかんなくなるって。知り合いくらい気合で分かれや。少なくとも俺だってお前のことなら見えなくてもわかるね。
——うそじゃん。酔っ払ったら僕と女の子間違えて口説く癖に。
——あー、じゃあ見てろよ。もしお前とこんな時間に会っても絶対一発で当ててやるからな。
——愛の力で?
——殺すぞ。
あ、そっか。
その記憶を思い出して、藤野の心の中に引っかかっていたものがすとんと落ちた。
夜明けのベランダ。煙草を吸っていたのは同じ味のキスを期待していたからで、郵便屋のバイクの音くらいしかしない澄んだ空気の中、ふたりきりで話す時間が好きだった。
東條のことが好きだった。
はじめて自分から好きになって、ずっと一緒にいたくて、でも心配なんかかけさせたくなくて、負担になることも嫌で。多分、それで。
「……藤野?」
東條が顔を覗き込む。涙の膜が張られていたのは自覚していたので、腕で目元をぬぐって藤野は何ともない風に笑おうとした。でも、無理だった。
慎、俺はお前のこと嫌いだし、お前の人となりもよく知らないけどさ。
お前が東條のことを本当に好きだったのはなんとなく理解したよ。だってさ。俺、最初こいつに会った時、綺麗だ、って思ったんだ。きっと網膜に焼き付いてたのかな。それほどお前は東條のことを見てたのかな。もしそうだったら、ちょっとだけお前のこと好きになるよ。
「……泣いてるの?」
「ううん」
慎のいままでと、藤野のこれから。
東條は慎のことを忘れないと思う。藤野の方がきっと一緒にいる時間は長くなるのに、慎がずっと東條のどこかにいる。でも、それでいい。そう今は思う。藤野は慎を好きになった東條が好きだし、慎も、きっと東條のことを大切にしていたから。その大切が、藤野の根本に残っていたから東條を好きになれたのなら。それでいい。
「ちゃんと見つけられたな、って。そう思って」
あの時、最初に目に入ったのは東條の姿だった。
——お前、誰?
忘れてしまっても、ちゃんと思い出せた。見つけられた。
これからの未来、どうなるかはわからない。母親のように死別してしまうかもしれない。東條夫妻のように一緒にいられるかもしれない。藤野にわかるのは今現在だけで、明日のこともわからない。けれど、これだけはわかる。
——自分は、生まれ変わっても、この人のことを好きになるだろう。
慎が死んで、藤野が生まれて、それでももう一度東條を好きになったように。
何度忘れたとしても、何があったとしても。
きっと東條を見つけて「好きだ」と言える。
「東條」
「ん?」
「好きだよ、これまでもこれからもずっと好きだ。……これだけはちゃんと思い出せたよ」
それを聞いた彼は藤野に口づける。煙草味のキスも、ちゃんと覚えがあった。
「……藤野、ありがとう」
日が少しだけ橙を覗かせて、光が自分たちの方を照らす。東條の瞳は涙のせいかきらきらと輝いて見えて、藤野はそれをいっとう綺麗だと思った。
「僕も好きだよ、藤野が好きだ」
『藤野が』その言葉に嬉しくなってまた視界がぼやけた。
もう、大丈夫。自分たちはこれからちゃんと歩いていける。自分の気持ちに嘘を付かなくても、隠し事をしなくても、お互いを見て生きていける。
それが藤野にはとても嬉しかった。
きっと今日が、本当に『藤野』が生まれた日。『慎』とは別の生を認められた日。
ハッピーバースデー。
(了)
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