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10話 三年目の還り鮭
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放流から三年が過ぎた。
あの春の日、小さな手で稚魚をそっと水面に送り出した子どもたちは、今では背も伸び、少し大人びた顔つきになっていた。
あのときの鮭たちは、はるか遠い海で生き抜いているのか、それとももう……と、村の人々も言葉にしない不安を胸に抱えていた。
環境の整備は地道なものだった。
養殖場の整備に始まり、魚道を整え、ブナを植え、川を曲げる――。
山の保水力を高めるための上流植林や、洪水対策としての遊水地の整備も行われた。
それでも、結果が目に見えるわけではない。
「効果なんて、ほんとにあるのか?」
「もう戻ってこないんじゃないか?」
そんな声も、いつしか聞こえるようになっていた。
そして、迎えた三年目の秋。
冷たい風が吹き始め、村の空気がわずかに緊張を帯びていた。
「今年も……だめかもしれないな」
誰ともなく、そうつぶやいた日だった。
それは、ある夕暮れ時のこと。
川辺を見回っていた漁師のひとりが、ふと足を止めた。
「……あれは」
水面が跳ねた。銀色の背中が、夕日にきらめいた。
もう一度、跳ねる。――間違いない、鮭だ!
「戻ってきたぞ!」
声が川沿いに響き、家々に伝わる。
人々が駆け寄る。子どもたちも、大人も、漁師も、かつて養殖を手伝った仲間も。
歓声があがり、涙ぐむ者もいた。
水しぶきをあげて次々と川をさかのぼる鮭の姿に、誰もが言葉を失った。
「あの時、やっていてよかった」
ヘイジが静かにつぶやく。
背後で、潮見の翁がうなずいていた。
あの稚魚たちが、数千キロの海を越えて戻ってきたのだ。
懸命に泳ぎ、群れを成し、激流に挑んで再びこの川を選んだ。
それは人の手によって破壊された環境が、ようやく自然のサイクルを取り戻しはじめた証だった。
「よう帰ってきたな……」
誰かがそう声をかけると、不思議とみんなも頷いていた。
鮭は、生まれた川の匂いを覚えているという。
ならば、ここが彼らの帰るべき場所になったのだ。
川辺には、次の放流を待つ稚魚が水槽の中で泳いでいた。
あの日祈ったように、また数年後、この川に還ってくることを願って――
人と鮭との、長い再会の物語は、ようやく始まったばかりだった。
* * *
鮭が還ってきたあの秋から数年。
ヘイジたちの取り組みは、単なる一過性の事業では終わらなかった。
むしろ、そこからが本当の始まりだった。
上流の山には、ブナやミズナラを中心とした広葉樹の植林が続けられていた。
人工林の一部は間伐され、多様な樹種が育つ「魚つき林」へと姿を変えていく。
木々が葉を広げ、根を張り、雨をやさしく受け止める。
それは、山が“水の器”として生まれ変わっていく過程だった。
川の整備も止まることはなかった。
かつて直線に引き直された人工の水路には、随所に「よどみ」や「たまり」が設けられ、魚や水生昆虫が息をつける場所となった。
さらに、新たに整備された遊水地は、洪水時に水を溜めるだけでなく、普段は湿地として多様な生き物のゆりかごになっていた。
春の柔らかな陽光の下、ヘイジたちの養殖場では、今年も稚魚の放流準備が進められていた。
川辺には地元の子どもたちが集まり、小さな手で銀色に輝く稚魚を大切に水へ放つ。祈るような瞳が並ぶ、毎年の恒例行事となっていた。
だが、今年は一つ違っていた。
放流する稚魚の数を、昨年の半分に抑える判断が下されたのだ。
「こんなに少なくて、戻ってくる数は大丈夫なのか?」
地元の漁師の一人が、心配そうに問いかけた。
無理もない。鮭の遡上は、彼らにとって誇りであり、収入源でもあったからだ。
ヘイジは静かに、養殖池の水面を見つめたあと、応えた。
「去年は、戻ってきた鮭の数が一時的に増えすぎた。産卵場のキャパシティを超えたところもあった。あれでは、卵が踏みつぶされてしまう。結局、次の命につながらないんだ」
「でも、たくさん戻ってきたら嬉しいじゃないか」
「気持ちはわかる。でもな、“川が受け入れられる命の量”ってのがある。無理に押し込めば、生態系が壊れる」
実際、過剰な放流は川底の水生昆虫や小魚の数を一時的に減らし、鮭自身の稚魚の餌となる生態系を圧迫していた。
生き物が棲み分け、支え合って成り立つ環境。それを壊さずに持続させるには、「ほどほど」が必要だった。
ヘイジたちは、川の水温や流量、生き物の多様性を観察しながら、放流数を年ごとに調整していた。
数ではなく、質。生きて還ってくる鮭の割合を高める。それが彼らの目指すやり方だった。
「足し算じゃないんだな」
漁師は少し間をおいて、ぽつりとつぶやいた。
「自然ってのは、つくづく奥が深い……」
その年の放流会も、子どもたちと一緒に慎重に数を数え、選ばれた稚魚たちを川へと送り出した。
数は少ないが、一尾一尾が健やかに育ったものばかりだった。
「いってらっしゃい。また帰っておいで」
川に向かって手を振る子どもたちの声は、去年より静かだったが、どこか芯のある温かさがあった。
そして数年後――少なくとも、今はっきりしているのは、あのとき数を絞った世代の鮭たちが、力強く、健やかに、戻ってきているということだった。
* * *
そして、治水についてもその成果が試される日が来た。
ある年、梅雨の終わりに記録的な大雨が降った。
数年前なら、川はすぐにあふれ、土砂崩れや浸水の被害が出ていたはずだった。
だが今回は違った。
山は雨を静かに吸い込み、地中に留め、ゆっくりと川へと流す。
川沿いの遊水地には濁流がたまり、住宅地まで到達する前に水量を調整していた。
住民たちは不安げに見守りながらも、かつてのような慌てた避難や被害の報告はなかった。
「……効いてるんだな」
誰かがぽつりとつぶやいた。
それは、数年かけて積み上げた自然との対話の成果だった。
自然を押さえつけるのではなく、寄り添うように、調和を図るように。
木々が生い茂る山と、生き物の息づく川。
そこに人が関わる余地を残しながらも、あくまで自然の力を活かす形で。
ヘイジは、雨上がりの山を歩きながら、ふと振り返る。
あの堰、あの魚道、あの稚魚の放流、そして人々の手と時間。
すべてが積み重なって、この安全と豊かさにつながった。
子どもたちが川辺で遊ぶ姿が見える。
その向こう、また今年も、鮭が戻ってきていた。
あの春の日、小さな手で稚魚をそっと水面に送り出した子どもたちは、今では背も伸び、少し大人びた顔つきになっていた。
あのときの鮭たちは、はるか遠い海で生き抜いているのか、それとももう……と、村の人々も言葉にしない不安を胸に抱えていた。
環境の整備は地道なものだった。
養殖場の整備に始まり、魚道を整え、ブナを植え、川を曲げる――。
山の保水力を高めるための上流植林や、洪水対策としての遊水地の整備も行われた。
それでも、結果が目に見えるわけではない。
「効果なんて、ほんとにあるのか?」
「もう戻ってこないんじゃないか?」
そんな声も、いつしか聞こえるようになっていた。
そして、迎えた三年目の秋。
冷たい風が吹き始め、村の空気がわずかに緊張を帯びていた。
「今年も……だめかもしれないな」
誰ともなく、そうつぶやいた日だった。
それは、ある夕暮れ時のこと。
川辺を見回っていた漁師のひとりが、ふと足を止めた。
「……あれは」
水面が跳ねた。銀色の背中が、夕日にきらめいた。
もう一度、跳ねる。――間違いない、鮭だ!
「戻ってきたぞ!」
声が川沿いに響き、家々に伝わる。
人々が駆け寄る。子どもたちも、大人も、漁師も、かつて養殖を手伝った仲間も。
歓声があがり、涙ぐむ者もいた。
水しぶきをあげて次々と川をさかのぼる鮭の姿に、誰もが言葉を失った。
「あの時、やっていてよかった」
ヘイジが静かにつぶやく。
背後で、潮見の翁がうなずいていた。
あの稚魚たちが、数千キロの海を越えて戻ってきたのだ。
懸命に泳ぎ、群れを成し、激流に挑んで再びこの川を選んだ。
それは人の手によって破壊された環境が、ようやく自然のサイクルを取り戻しはじめた証だった。
「よう帰ってきたな……」
誰かがそう声をかけると、不思議とみんなも頷いていた。
鮭は、生まれた川の匂いを覚えているという。
ならば、ここが彼らの帰るべき場所になったのだ。
川辺には、次の放流を待つ稚魚が水槽の中で泳いでいた。
あの日祈ったように、また数年後、この川に還ってくることを願って――
人と鮭との、長い再会の物語は、ようやく始まったばかりだった。
* * *
鮭が還ってきたあの秋から数年。
ヘイジたちの取り組みは、単なる一過性の事業では終わらなかった。
むしろ、そこからが本当の始まりだった。
上流の山には、ブナやミズナラを中心とした広葉樹の植林が続けられていた。
人工林の一部は間伐され、多様な樹種が育つ「魚つき林」へと姿を変えていく。
木々が葉を広げ、根を張り、雨をやさしく受け止める。
それは、山が“水の器”として生まれ変わっていく過程だった。
川の整備も止まることはなかった。
かつて直線に引き直された人工の水路には、随所に「よどみ」や「たまり」が設けられ、魚や水生昆虫が息をつける場所となった。
さらに、新たに整備された遊水地は、洪水時に水を溜めるだけでなく、普段は湿地として多様な生き物のゆりかごになっていた。
春の柔らかな陽光の下、ヘイジたちの養殖場では、今年も稚魚の放流準備が進められていた。
川辺には地元の子どもたちが集まり、小さな手で銀色に輝く稚魚を大切に水へ放つ。祈るような瞳が並ぶ、毎年の恒例行事となっていた。
だが、今年は一つ違っていた。
放流する稚魚の数を、昨年の半分に抑える判断が下されたのだ。
「こんなに少なくて、戻ってくる数は大丈夫なのか?」
地元の漁師の一人が、心配そうに問いかけた。
無理もない。鮭の遡上は、彼らにとって誇りであり、収入源でもあったからだ。
ヘイジは静かに、養殖池の水面を見つめたあと、応えた。
「去年は、戻ってきた鮭の数が一時的に増えすぎた。産卵場のキャパシティを超えたところもあった。あれでは、卵が踏みつぶされてしまう。結局、次の命につながらないんだ」
「でも、たくさん戻ってきたら嬉しいじゃないか」
「気持ちはわかる。でもな、“川が受け入れられる命の量”ってのがある。無理に押し込めば、生態系が壊れる」
実際、過剰な放流は川底の水生昆虫や小魚の数を一時的に減らし、鮭自身の稚魚の餌となる生態系を圧迫していた。
生き物が棲み分け、支え合って成り立つ環境。それを壊さずに持続させるには、「ほどほど」が必要だった。
ヘイジたちは、川の水温や流量、生き物の多様性を観察しながら、放流数を年ごとに調整していた。
数ではなく、質。生きて還ってくる鮭の割合を高める。それが彼らの目指すやり方だった。
「足し算じゃないんだな」
漁師は少し間をおいて、ぽつりとつぶやいた。
「自然ってのは、つくづく奥が深い……」
その年の放流会も、子どもたちと一緒に慎重に数を数え、選ばれた稚魚たちを川へと送り出した。
数は少ないが、一尾一尾が健やかに育ったものばかりだった。
「いってらっしゃい。また帰っておいで」
川に向かって手を振る子どもたちの声は、去年より静かだったが、どこか芯のある温かさがあった。
そして数年後――少なくとも、今はっきりしているのは、あのとき数を絞った世代の鮭たちが、力強く、健やかに、戻ってきているということだった。
* * *
そして、治水についてもその成果が試される日が来た。
ある年、梅雨の終わりに記録的な大雨が降った。
数年前なら、川はすぐにあふれ、土砂崩れや浸水の被害が出ていたはずだった。
だが今回は違った。
山は雨を静かに吸い込み、地中に留め、ゆっくりと川へと流す。
川沿いの遊水地には濁流がたまり、住宅地まで到達する前に水量を調整していた。
住民たちは不安げに見守りながらも、かつてのような慌てた避難や被害の報告はなかった。
「……効いてるんだな」
誰かがぽつりとつぶやいた。
それは、数年かけて積み上げた自然との対話の成果だった。
自然を押さえつけるのではなく、寄り添うように、調和を図るように。
木々が生い茂る山と、生き物の息づく川。
そこに人が関わる余地を残しながらも、あくまで自然の力を活かす形で。
ヘイジは、雨上がりの山を歩きながら、ふと振り返る。
あの堰、あの魚道、あの稚魚の放流、そして人々の手と時間。
すべてが積み重なって、この安全と豊かさにつながった。
子どもたちが川辺で遊ぶ姿が見える。
その向こう、また今年も、鮭が戻ってきていた。
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