夫には好きな相手がいるようです。愛されない僕は針と糸で未来を縫い直します。

伊織

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 誠一が出かけて行ったあと。
 布団を干しながら、ふと思う。

 ――不用品のこと、今なら言えそうな気がする。
 朝、羽織紐の誤解が解けて、ようやくそう思えるようになっていた。

 不用品を探した時、家の中はほとんど見た。
 残るのは――誠一の書斎と、お義父さんの部屋だけ。

 僕は、お義父さんの部屋には一度も入ったことがない。
 お義父さんが出かけたあとで「この部屋には入るな」と誠一に言われていたからだ。

 お義父さんは「西に住む兄の所へ行く」と言っていた。
 当分帰ってこないだろう。
 「父がいない間は、この部屋のことは全部俺がやる」と誠一が言っていたから、掃除にも入れない。
 つまり――中に何があるのか、僕には全く分からない。

 お義父さんの部屋の前でひとつため息をつき、誠一の書斎へ向かった。

 “相馬先生の書斎、ご覧になったことありますか?”

 昨日の高瀬さんの言葉が、また脳裏をかすめる。
 思わず頭を振った。
 ――違う。高瀬さんが言ったからじゃない。
 今は、不用品を探すために見るだけだ。

 書斎で高瀬さんからの手紙を見つけて以来、この部屋には入らないようにしてきた。
 また、何か見つけてしまうのが怖くて。

 先日の夜は、誠一の様子を見るために、仕方なく入った。
 その時は、ちゃぶ台の上に採点の紙が置いてある程度だった気がするけど……。

 そう思いながら、襖をそっと開ける。

 その瞬間、思わず息をのんだ。
 ちゃぶ台の周り、畳の上――紙や本が至るところに散らばっている。

 誠一は片づけができない人じゃない。
 なのに、どうしてこんな状態に……。

 “きっと今、お一人で抱え込みすぎて、限界に近いんだと思うんです”
 “少しは手を貸しても良いんじゃないでしょうか?”

 高瀬さんが書斎を見たから誠一の様子が分かったのか。
 それとも、誠一の変化に気づいて見に行ったのか。
 どちらにせよ――彼女は正しかった。

 やはり彼女の方が、誠一の変化にずっと早く気づける。
 誠一も、きっと……そういう人を必要としているのかもしれない。

 胸の奥が、すっと冷えていく。

 僕はそっと襖を閉めた。
 ――誠一が帰ってきたら、片づけを口実に、この部屋の不用品を一緒に探そう。

 静かな決心だけが、心の中に落ちていった。

 ****

 その日の夕方、誠一は思ったより早く帰ってきて、一緒に夕飯を取ることができた。
 まだ誠一は僕の様子をうかがっている。
 けれど、迷ってばかりでは何も変わらない。

 食べ終わったところで、僕は思い切って口を開いた。

「誠一さん、最近お忙しそうですよね。もし書斎の整理で手伝えることがあれば、お手伝いさせてください。もし使わないものがあれば、代わりに処分しておきますので」

 誠一は一瞬、怪訝そうに眉を寄せた。
 けれど、静かに息を吐いて、頷いた。

「……そうだな。確かに書斎は、ここのところ整理できていないと思っていた」

「よかったら、今から少しだけでも、一緒に整理しませんか?」

「今からか?……わかった」

 少し強引だったかな。
 でも、とりあえず誠一は頷いてくれたし、今しかない。

 書斎へ向かうと、朝と変わらず、畳の上に紙や本が散乱していた。

「……こっちは俺が片づける。君は、そこの引き出しに本をしまってくれ」

「はい」

 誠一はちゃぶ台の周りに散らばった紙を拾い、僕は本を集めていった。

 誠一が示した棚の、一番下の引き出しをそっと開ける。
 中はきれいに本が並べられていた。

 ここじゃなかったのかな――そう思い、閉めかけたその時。
 引き出しと畳の隙間に、白い紙が落ちているのが見えた。

 ……あれって、着物を包む時の?

 引き出しを手前に大きく引いて、下にあった包みを取り出す。
 重みのある包みの中には、やはり着物が入っていた。
 そしてそれは、女性物だった。

「誠一さん。これ、もしかして……お義母様のお着物ですか?」

 包みを開いて現れたのは、既婚女性が着る留袖とめそでだった。
 落ち着いた色味で、若い女性が着る柄でもなかった。

 誠一がこちらをちらりと見るが、すぐに視線を戻してしまった。

「あぁ、そうだ。……母が亡くなった後、父が母のものを全て捨てようとしたんだ。それは、兄と一緒に隠した着物だ。ずっと前にしまったもので……忘れていた。……もう処分してくれて構わない」

 その言葉に、胸がきゅっと締めつけられる。
 ――どうして、そんな嘘を。
 
 だって、この着物……定期的に干してる。
 お義母様が亡くなられたのは八年前なのに、カビが見当たらない。
 この引き出しも、ほこりがほとんどまっていない。

 忘れていたなんて、ありえないよ……。
 それなのに「処分していい」だなんて。
 本当に、そんな気持ちなのかな……?

 もしかして、お母さんの着物を取っておいたことを、恥ずかしいと思ったのかな。
 そんなふうに思う必要なんてないのに。

 呉服屋にいた頃、家族や大切な人に先立たれたお客様が「捨てられない」と言って相談に来られることは、よくあった。
 みんな、何らかの形で残しておきたい、という希望だった。
 そして僕は、その着物を小物などに作り替える手伝いもしていた。

 たぶん誠一も……。
 口を開きかけて、やめた。
 でも、黙って頷くのも違う。

「いいえ、誠一さん。これを処分するのは、もったいないです。生地も良いものですし……。このお母様の着物をいかして何か作れるものを、僕考えてみますね。ですから捨てずに、残しておきましょう」

 誠一がかすかに息を吸うのが聞こえた。

「……あぁ」

「作れるものが浮かんだら、お伝えしますね」

「……着物のことは、君に任せる」

 誠一はこちらを向かずに、ぽつりと言った。

「ありがとうございます」

 そう答えながら、心の中でそっと思う。
 ――誠一にはああ言ったけど、すぐに作り替えるつもりはない。

 着る人がいないこの着物を、誠一は八年間もずっと手入れしてきたんだ。
 母親を何度も思い出しながら……。
 着物を干す誠一を想像して、胸が詰まる。

 だから、ハサミを入れるのは、誠一が本当に「そうしても良い」と思えたときだ。
 それまでは、このままそっとしておこう。

 僕が着物をたたみ直していると――。

「千尋、……ありがとう」

「いいえ、僕、呉服屋の息子ですから」

 なるべく明るく返した。

「……そうだったな」

 隣で、誠一が小さく鼻をすする音が聞こえた。
 僕は聞こえないふりをして、整理を続けた。

 いつか、誠一が亡くなったお母さんのことを、もう少しだけ穏やかに思い出せるようになったら。

 その時、僕はまだ誠一の隣にいるだろうか。
 ……離婚を決めていたはずなのに、この時の僕は、それをすっかり忘れてしまっていた。

 ****

 (誠一視点)

 千尋が書斎の整理を手伝ってくれた日。

 昨日、千尋が高瀬になぜあんなことを言ったのか――俺には分からないままだ。
 どこかぎこちない空気は残っているのに、千尋は黙って手伝ってくれている。
 その距離が、かえって胸に刺さった。
 
「この着物は明日干せるように向こうに持っていきますね」

 千尋は着物を大事そうに抱え、座敷にそっと置いた。
「この着物が入るように、箪笥を整理してきます」と彼は寝室へ向かった。

 座敷には、俺だけが残された。
 俺はひとり、母の着物を見つめる。

 ――母の死は、乗り越えなければいけないものだと思っていた。

 母が亡くなったとき、父が母のものを全て捨てようとした。
 俺たち兄弟は、突然の別れを受け入れられず、必死に抵抗した。

 はじめのうちは、兄も一緒に父に逆らってくれた。
 けれど、成長してもなお、母の着物を見るたびに泣いてしまう俺を見て、兄は言った。

「誠一。いつまでもめそめそするな。男らしくない」

 兄の目は、真剣だった。

「母の死を受け止めて、強くなれ。お前はもう子供じゃないんだ」

 そして、兄は言った。

「……着物は、もう捨てよう」

 きっと俺のことを思って言ってくれたのだろう。
 でも、俺には――できなかった。
 兄はため息をつき、それ以上は何も言わなかった。

 そして、高瀬にも――。
 
 ある日、高瀬に着物の話をしたことがあった。

 彼女も、母を亡くしている。
 だから、俺の辛さを分かってくれると思った。

「相馬先生。私も手放したほうがいいと思います」

 高瀬は、優しく微笑んだ。
 彼女は本気で、俺のことを心配してくれているのだろう。

「いつまでも過去にとらわれていては、前に進めません。お母様も、きっとそれを望んではいないはずです」

 彼女の言葉は、正しかった。
 でも――俺の心には、響かなかった。

 知っている。
 弱さを乗り越えてこそ、人は強くなれることを。
 わかっている。
 母の着物を捨てなければならないことも。

 それでも――捨てようと手に取るたびに、母の優しい笑顔が浮かんで、体が動かなくなる。

 結局、またいつもの場所に戻してしまっていた。
 俺の心が、弱いから。

 ――でも、今日。

「残しておきましょう」

 千尋に言われた言葉は、胸に小さな灯りがともるようだった。

「お母様の着物をいかして、何か作れるものを考えてみますね」

 この思い出の詰まった母の着物を――捨てなくてもいいのか?
 まだ手元に置いておいてもいいのか?
 それは、“乗り越えなくてはならない弱さ”じゃないのか?

 そう思いながらも、千尋の言葉が静かに沁みていく。

「残していい」と、千尋は言った。

 千尋。
 君の言葉が、暗い俺の心を静かに照らしていく。

 親しくしない、大切な存在にしないと決めていたはずなのに――
 千尋の優しさに触れるたび、硬くなった心が溶かされていくようだった。

 俺は――千尋に、救われている。

 けれど、俺には千尋を幸せにする資格がない。
 この貧しい暮らし。父の借金。
 何ひとつ、与えられない自分。

 それなのに――。
 今はもう、どうしたらいいのか分からない。
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