逆転関が原殺人事件

東山圭文

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「毛利輝元殿、上杉景勝殿の軍勢が、それぞれ武蔵松山城と忍城を落として、江戸城の目と鼻の先、川越城を包囲し始めたとのことです」
 大野治長の報告を、豊臣秀頼はきょとんとして聞いていた。隣に座る淀君は、良い報告を聞いても表情が浮かないように、片桐且元には見える。
「治長、ご苦労。ところで、三成の軍勢はどうしているのじゃ?」
「はい……駿河に着いておるようですが、そこから甲斐に回って、関東に入るようでございます……」
 治長の報告を聞いて、東海道を下る軍勢は箱根辺りで手痛い反撃を受けたものと、且元は推測した。そうでなければ、こちらも東海道をそのまま下って、江戸を目指すはずである。
 それに甲斐を回るとなると、甲斐は三成嫌いで有名な浅野長政・幸長親子の領土だ。三成のいる軍勢を長政が通してくれるのかという不安もある。
 淀君の表情が険しくなる。剥いた目が治長に向けられる。
「なぜじゃ? なぜ三成たちは、わざわざ大回りするのじゃ? 東海道をそのまま下らぬのか?」
 治長は居住まいを正した。そして顔を上げる。
「箱根峠の敵を撃破するのは難しいとみた模様です。また伊豆の韮山には、裏切った福島正則と黒田長政が籠っておりますので」
「三成がおりながら、何たることじゃ? 家康を失った徳川など、金棒を奪われた鬼と同じではないか?」
 淀君が声を張り上げた。淀君は三成のことを買いかぶり過ぎている。確かに奉行としての手腕は凄いけれども、武功という武功は殆どあげていない。彼は朝鮮にも自らの軍を率いて出兵していないし、大きな戦の経験もない。
「恐れながら、徳川にはもう一本、金棒がございました。その金棒は、治部少輔殿ごときでは倒せるものではございませぬ」
「なに? 三成でも倒せぬ金棒だと? して、それはいったい誰じゃ?」
 淀君が顔をしかめた。治長がしたり顔になる。彼のしたり顔を見るたび、且元は癇(かん)に障る。
「お方様。治部少輔殿でも倒せぬ、ではなくて、治部少輔殿だからこそ倒せぬ、と表現したほうがよろしいかと思います」
 治長の言い方には嫌味を感じた。三成では倒せぬが、自分だったら倒せるとでも言いたそうだ。
「して、治長、誰なのじゃ? 三成だからこそ倒せぬ、その金棒とやらは?」
「内府の次男・結城秀康でございます」
 治長が声を張り上げた。結城秀康の名を聞いて、且元は納得した。確かに彼が徳川を引っ張るとなると、かなりの難敵になる。若いながら、秀吉の目に留まって豊臣家の養子にもなり、豊臣政権下も数々の武功をあげている。そんな秀康を相手に、三成ごときでは歯が立たないだろうと且元は思った。正直なところ、且元でもかなう相手ではない。
 しかし淀君は可笑しそうに吹き出す。
「結城秀康だと。あのギギ(※魚のこと)みたいな顔をした男が徳川の金棒とは。おかしな話じゃ」
 ギギと聞いて、思わず且元は吹き出してしまった。それを目ざとく淀君が見つける。
「そうであろう? 且元。あの男はギギにそっくりじゃ」
「はい。確かに似ております」
 且元は畏まって答えた。目の間が広い所と、口が大きい所が、よく似ている。
「して、治長。結城秀康はギギの分際で金棒なのか?」
「お方様。少々、治部少輔殿を買いかぶり過ぎではございませんか?」
 且元の思いと同じことを、治長が言ってくれた。淀君が狼狽(うろた)え始めたように見える。
「そ、そんなことはない。わらわは三成のことなど、買いかぶってはおらぬぞ。それより、治長。わらわの質問に答えよ。結城秀康はギギの分際で金棒なのか?」
 治長は再び居住まいを正した。
「はい。お方様には申し上げにくいのですが、徳川家中では秀忠よりも秀康の方が、人望があるのは確かでございます」
「真か?」治長が大きく頷いた。そして淀君の表情が再び険しくなる。「すると、お江が不憫じゃ。秀忠こそ、徳川の跡取りであろう?」
「確かにお方様の仰せのとおりでございます。普通ならば他家に養子に出された秀康は、徳川の家督を継ぐことはございません。しかしながら、今の徳川は普通ではございませぬ」
「普通ではないと?」
「はい。内府が討ち取られた徳川は普通ではありませぬ。この危機を乗り越えるためには、若くて経験のない秀忠より、戦の経験が豊富な秀康の方が良い、と思っている家臣も多いと聞いております。秀康のことを内府の生まれ変わりと申している家臣も存在しているくらいです。そんな秀康が中心に一丸となって豊臣と戦えば、勝てると思っているのでしょう。秀康がいる限り、徳川は豊臣に抗(あらが)うと思われます」
「な、何と……」
 淀君は言葉を詰まらせて、不安から目を泳がせた。淀君の心中は、且元にもよく分かる。淀君は傲慢ではあるけれど、根は妹思いの優しい女性だ。妹のお江と、その夫である秀忠のことが心配なのだろう。
「しかしながら、お方様、ご安心ください。江戸ではいま、大きな山が動いております」
 治長が顔を紅潮させて言った。以前、大きな山が動くと治長が言っていたことを、且元は思い出した。
「大野殿。それは、徳川家中で何かが起こったのですか?」
 治長は紅潮させた顔を且元に向けて、大きく頷いた。それは自信に満ち溢れた顔だ。美男で、自信に満ちた、できる男の顔。それは明らかに、且元を見下している。そんな顔をする治長を、且元は苦手だ。いや、嫌悪すら覚えている。それは三成にも言えることである。
「治長。大きな山が動いているとは、どういうことじゃ?」
 淀君も身体を前のめりにさせる。隣に座っている秀頼は、興味無さそうに、目の前に置かれた白い饅頭を頬張った。
「はい。その秀康を毒殺するのに成功いたしました!」
 大広間いっぱいに声を響かせて、治長が答えた。自信に満ち溢れた治長に腹を立てるより、秀康が殺害されたことへの衝撃が、且元を襲った。
「え、それは真か?」淀君も声を上ずらせて聞き返した。治長は端正な顔を淀君に向けて、大きく一つ頷いた。
「はい。それがしと通じている者が、見事にやり遂げました。これで、我らにとっても、そしてお江さまにとっても、邪魔者が消えましてございます」
「治長。それはでかしたぞ! あの三成でも手こずったギギを、見事に調理するとは、さすが、治長じゃ。家康も討ち取ったのも、治長。本当に、わらわの目に狂いはなかった!」
 淀君の顔も紅潮している。且元の心の中に、治長に対しての嫉妬の念が、大きな沈殿物となって、よどんでいく。
「お褒めいただき、ありがとうございます」治長は畏まって、頭を下げた。「しかしながら治部少輔殿と、それがしを比較されるのは心外でございます。お方様もお分かりだと思いますが、治部少輔殿などより、それがしの方が、ずっと秀頼公のために尽くしております」
「そうじゃ、真に治長の申すとおりじゃ。わらわはずっと、治長の才と忠誠を見事だと思っておるぞ」
 淀君のはしゃぎ声を聞いて、且元は治長に対して、さらに嫉妬の念を深めていった。


 東海道を下る宇喜多秀家を総大将とする部隊は、山中城の戦いに敗れたあと、箱根峠を破れないと見るや、甲州の甲府に着いた。
 甲府は徳川方に味方していた浅野幸長の所領だ。幸長は家康と共に美濃に出陣していたが、家康が討たれるとすぐに兵を甲府に引き上げていた。また、幸長の父親の長政は、三成と同じ、豊臣家の五奉行のなかの一人であるけれども、三成とは何かと馬が合わない。彼も徳川に味方して秀忠に従軍していたが、家康が討たれたと知ると、甲府に兵を退いていた。
 甲府に軍勢が進めたのは、軍を甲府経由で江戸に下りたい、と秀家からの打診を、浅野家側が、城を攻めれば迎え撃つ、そうでなければ手出しはしない、と返答してきたからである。
 浅野家の高飛車な返答に、三成は頭に来ていた。甲府に到着してすぐに開いた昨夜の軍議で、三成は甲府城攻めを主張したが、島津義弘が猛反対した。島左近まで反対している。軍勢も、宇喜多勢は少なくなったとはいえ八万弱、浅野家側はかき集めてもせいぜい一万五千程度だ。それに甲府の城は山城でもなく、それほど規模の大きなものではないので、攻めるのも容易い。そう三成は主張したが、義弘は逆に浅野家を味方に付けようと提案してきたのだ。それで、秀家・義弘・三成と島左近四人は、浅野長政・幸長の甲府城に赴いた。
 四人が甲府城の広間に入ると、上座は秀家に譲られた。浅野親子を含めて、秀家の官位がいちばん高いからだ。
「備前宰相(※秀家のこと)殿。このような片田舎に脚を運ばれるとは、思いも寄らなかったです」
 浅野長政はそう挨拶して、頭を下げた。その言葉に嫌味があるように、三成は感じた。何しろ長政は、三成の顔を見るや否や、顔をしかめ、声には出さないけれども舌打ちをしたからだ。
 秀家は大きく頷いた。秀家の方が官位は高いけれども、長政は豊臣家古参の家臣で、年長者でもある。秀家は丁寧な言葉で語りかける。
「思いのほか、箱根の守りが堅く、突破するのは困難と判断しました。それで、甲州路を使わせてもらうことになりました」
「それは、それは。東海道に比べると、甲州路は道が悪く、軍馬の移動も容易ではございません。ここから武蔵に入るには、小仏峠を越える道がございますが、整備されておりませんので、大軍の移動はかなり難行することでしょう。それに八王子に、徳川方の城がございます。もう一方は回り道になりますが大菩薩峠を越える道でございます」
 武蔵に入るのに苦労すると述べている長政の口調が、何だか楽しんでいるように三成には聞こえた。三成は下唇を噛み締めて、長政を睨みつけた。それに気付かないのか、長政は涼しい顔を秀家に向けている。
「もし長政殿が江戸を攻めるなら、どちらの峠を越えますかな?」
 口を開いたのは、秀家の隣に座った義弘だ。義弘の質問にも、長政は首を傾げる。
「どちらとは決めかねます。かの信玄公は、北条を攻めるときは、小仏峠を越える道を多く使ったようです。八王子の城は武田家が滅んでからできた城で、当時はまだ無かったので攻めやすかったでしょう。ここから北上して、大菩薩峠を越えるのが甲州路ですが、そちらは北条方の支城も当時は多くあったので、あまり使われなかったようです」
 三成は頭の中に地図を描いてみた。確かに長政の言うとおり、大菩薩峠を越えるのは、江戸を目指すには回り道だ。
 つまり城がない大回りする道を選ぶか、それとも城がある近道を選ぶか。その二者択一である。
「その八王子の城は堅固なのですか?」
 聞いたのは秀家である。質問に長政はまた首を傾げた。
「小田原攻めのとき、前田利家様が攻めましたが、かなり堅固な山城だったと伺っております。北条家滅亡後、内府殿が関東に移り、それがしも甲府に移りましたので、必要性がなくなり、八王子は廃城となっていましたが、このところは有事に備えて整備していると、聞き及んでございます」
「長政殿。ぜひ、我らに力をお貸しできないでしょうか?」
 唐突に、義弘が声を張り上げ、そして長政の前に腰を下ろした。そして畏まって頭を下げる。
「いま、毛利殿、上杉殿、佐竹殿の軍勢が、江戸に向かっております。それに我らが加われば三十万近くの大軍勢になるでしょう。もう徳川には、勝ち目がございません。これから浅野殿も加わってくれたら、我らにとっても百人力。ぜひ、お力をお貸し願いたい」
 義弘が頭を下げるのに合わせて、秀家も頭を下げた。それを見て三成も頭を下げる。頭を下げる直前に長政の顔が目に入ったが、彼は険しい顔で、三成を睨みつけていた。
「しかしながら……」と長政は口ごもった。やはり三成のことが気に食わないのであろう。
「浅野殿。気付いてくだされ。豊臣に楯突いた上杉殿討伐の名目のもと、京と大阪を留守にして、この治部少輔に挙兵させたのも、豊臣家を滅ぼすためですぞ。現に、西で治部少輔が挙兵したら、治部少輔憎しで団結して、謀反人であるはずの上杉家を捨て置いて、西に向かったではないか。もし内府が、真に豊臣家のために戦うのであれば、そのまま会津を攻めるのが筋ではござらぬか?」
 義弘は諭すように言った。言われてみればそうだと、三成は思った。上杉景勝が領内に支城を建設して、兵を増強して、戦の準備をしていたのを豊臣家に対する謀反と見て、家康は福島正則や黒田長政らと共に、関東まで下った。しかし西で三成が挙兵したと聞いて、取って返したのだ。もし、家康なりに、本当に豊臣のことを思うのであれば、謀反人の上杉景勝を討つのが正論であったのだ。それなのに、西に向かった。それは三成、さらには豊臣を倒すためであったのだ。上杉などどうでも良いのだ。
 長政は目を堅く閉じ、腕を組んで、唸った。長政は、家康と馬が合い、三成と反目していたために、家康方についたのだけれど、豊臣家の家臣で、秀吉によって功績が認められ、二十万石以上の大名になった身だ。この義弘の言葉で決まりだと、三成が思ったが、長政は目を閉じたままだ。
 そこで、今まで口を閉ざして控えていた島左近が顔を上げた。
「浅野様に申し上げます。間もなく、浅野様のお耳にも報せが入るかと思いますが、江戸で大変なことが起きております」
「大変なこと?」長政の目が大きく開いた。三成は自分の後ろに控えている左近の顔を見る。
「左近。大変なこととは何か?」
 すると、浅野家の近習の者が広間に入ってきて、入り口で控えた。自分の主君・長政に何か伝えたいことがあるようだ。
 長政の目が近習に向く。
「構わぬ。申してみよ」
「はい。江戸で何者かによって、結城秀康様が殺されたようです」
 聞いて、三成は驚いた。長政も目を丸くしている。
「な、何と? それで、どうして秀康殿は亡くなられたのか?」
「そこまでは分かりませぬ」
 近習は、そう言って頭を下げた。
「毒でございます」代わりに左近が答えた。
「毒か?」長政の目が左近に向いた。左近が大きく頷く。
「これで、徳川は大きな柱を失いました。秀忠では、今の徳川もまとまることはあるまいと存じております」
 左近はそう言って、平伏した。


 毛利・上杉の連合軍は、川越城を力攻めで落とした。連合軍はしばらく城を囲んで、降伏を勧めたが、守備兵はこれを拒否したからだ。川越城は内堀と外堀を巡らせた堅固な城であるが、連合軍が総攻撃を仕掛けると、わずか半日で落ちた。何しろ三千の守備兵に、十五万を超える大軍だったからだ。江戸からの援軍も無かった。
 焼け残った本丸御殿の広間に、毛利輝元の呼びかけで、上杉景勝、佐竹義宣、吉川広家、小早川秀秋、安国寺恵瓊、直江兼続、里見義康そして真田昌幸と信繁が集まった。今後の作戦を練る軍議を開くためである。
 輝元以外の諸将が、広間に集まっていた。信繁は昌幸と並んで、末席に腰を下ろした。
「殿。少しお耳に入れておきたいことがございます」
 と真田の近習の者が昌幸に耳打ちした。信繁にはその話が聞こえなかったが、「真か?」と聞いた昌幸の顔が輝いているように見えた。きっと良い報(しら)せなのだ。
「父上。何かございましたか?」
 信繁が尋ねたが、昌幸は大きく頷いた。
「すぐに、信繁にも分かる」
 そこで上座に輝元が姿を現した。集まっていた諸侯が、頭を下げて彼を迎えた。
「今夜、こうして集まってもらったのは、このまま江戸を攻めるか否かを決めるためだ。皆の忌憚(きたん)ない意見を聞かせてほしい」
「では、まずはそれがしから申し上げます。この勢いに乗じて、このまま江戸を突くのがよろしいかと存じます」
 若い佐竹義宣が言った。彼は信繁と同い年と聞いている。しかし常陸一国の太守で、しかも若くして家督を継いでいるので、貫録さえ感じる。義宣の言葉に、信繁の目の前に座っている里見義康も大きく頷いている。
「殿。それがしはまだこの川越に留まるべきかと存じます。江戸には十万近い大軍が城に詰めていると思います。それに小田原をしのぐ規模の巨大な城と聞いております。宇喜多殿の到着を待った方がよろしいかと存じます」
 輝元の家臣・吉川広家が言った。家臣と言っても、毛利家は大家なので、広家は山陰に一四万石の城持ち城主で、真田家よりも石高が多い。信繁もまだ留まるべきでだと思っている。
「吉川殿。何を弱気な」と突っ掛かってきたのは、同じく毛利家の家臣である安国寺恵瓊だ。彼も真田家よりも多くの石高がある。「それがしは佐竹様と同じ意見。この勢いに乗じて、一気に江戸を突くのが良いと存じておる。もしや、吉川殿は徳川に内通していたのと違うか?」
「安国寺殿。何を申すか。それがしは内府殿と気が合い、好(よしみ)を通じていただけ。最初から徳川に内通などしておらぬ」
 広家が唾を飛ばしてまくし立てるように言った。顔も赤くなっている。そんな彼の態度から、少なくとも家康と内通していたことは、信繁にも分かる。
 そんな二人を見かねてか、輝元は咳払いをした。
「過去のことはもうよい。それより大事なことは、明日からどうするかだ。上杉殿はどのように思われるか?」
 と、輝元の視線が、側に座る上杉景勝に向いた。景勝はすぐ横に座っている家老の直江兼続の顔を眺めた。頷いて、兼続が口を開く。
「恐れながら、申し上げます。江戸に向かうにしても、ここに留まるにしても、問題は兵糧でございます。我が軍と佐竹様・里見様、そして真田様は、国も近く兵糧がじゅうぶんに用意できますが、毛利様は関東からずいぶんと離れた中国地方を治めていらっしゃいます。兵糧がどれだけあるのか、それが問題になると存じます」
 兼続の言葉に、輝元は大きく頷いた。そして恵瓊に顔を向ける。
「恵瓊。あとどれほどあるのか?」
「はい。宇喜多様と合流できなければ、あと二か月といったところでございます」
 恵瓊は恭(うやうや)しい態度で答えた。二か月と聞いて、諸将の表情が硬くなる。帰路の分も考えないといけないから、毛利の大軍が関東に滞在できるのは一か月もない。
 兼続は表情を強張らせて続けた。
「我らが落とした徳川方の城という城の米蔵が殆どからっぽでございました。守る兵も少なかったため、それほど多くの兵糧の必要が無かったこともあるでしょうが、これは多くの兵糧を江戸や小田原に運んで、長期の籠城に備えるのと、我らに兵糧を渡さないようにしているのだと存じます。そして合流したとしても、宇喜多軍も同じような状況でございましょう。落とした伊豆の城にはそれほどの兵糧がなかったはずです。そのうえ我らの兵糧米の輸送に難渋しているはずです。それは武蔵と相模の制海権が徳川にあって、多くの兵糧を船で運び入れることができないからです」
「それなら、まず小田原を攻めなくてはならないのですか?」
 佐竹義宣の問い掛けに、兼続はさらにむつかしい顔になった。
「小田原は堅城です。十年前の北条との籠城戦も、太閤殿下は最初から長期戦を覚悟して、二年も戦いができるように用意されました。今回は守備兵もその時より多くありませんが、あの城を落とすには長期戦を覚悟しなければなりません。そうなると、小田原を攻めている間に、我が方の兵糧が尽きてしまうでしょう」
 信繁は、大軍を動かすことの難しさを目の当たりにした。真田みたいな、二千や三千の兵を動かすのに、それほど兵糧の確保など考えなくても済む。これまで信繁が遭遇した戦は、徳川との籠城戦を除いては、各兵士が戦場に持参する腰兵糧で済む短期の野戦ばかりであった。十年前の小田原の役にも、若かった信繁は三成の指揮のもと、忍城攻めに加わっている。その時は兵糧のことなど、考えもしなかった。すべて豊臣家が手配してくれたためだ。
「それでは真田殿。真田殿はどう考えておられるか?」
 輝元の顔が昌幸に向いた。そして場にいる諸将の顔も昌幸に向く。みな、当代きっての策略家の意見を聞きたいという顔をしている。
 昌幸は輝元に身体を向けた。
「まずは皆さんに報告したいことがございます。我らと通じている徳川家臣の者が、結城秀康の毒殺に成功したとのことです」
 昌幸の報告を聞いて、信繁は目を丸くした。結城秀康といえば、家康の子の中でいちばん武勇に優れていると評判の者だ。その男がいなくなれば、江戸は攻めやすくなる。あくまで兵糧のことを考えなければの話であるが。
 諸将も誰もが驚いた表情を浮かべている。輝元も目を丸くして昌幸の顔を眺めている。
「結城殿の暗殺は、真田殿の指示なのですか?」
「いかにも」昌幸は胸を張った。「大野殿に通じている徳川家臣がおると伺い、それがしが大野殿に提案したことでございます。家康ばかりか、結城秀康も松平忠吉もいなくなれば、徳川とも組み易くなります」
 信繁はハッと気づかされたことがある。徳川秀忠の軍隊が江戸へ退却するのに東山道を使って上田を通ったとき、秀忠を討つのかと聞いたところ、討ってはならぬと昌幸が答えたことだ。これは、ひょっとすると、若くて戦の経験の少ない秀忠を生きて帰させることで、今後の徳川との戦いを有利に進めようと、昌幸が企んでいたのかもしれないと思ったからだ。
「して、真田殿は、江戸に攻めるべき、ここに留まるべき、どちらをお考えか?」
「はい。江戸に向かい、包囲するべきと考えております」
 昌幸はまっすぐに輝元の顔を見て言った。
「といっても、真田殿。普通、城攻めには倍の兵力が必要でしょう。しかも敵は堅牢(けんろう)堅固な江戸城。いま何とか我が軍は徳川の倍の兵力。それでは落とすこともできますまい」
 今度は広家が言った。昌幸は大きく頷いた。
「ここにおっても、江戸城を囲んでも、兵糧米はなくなります。だったら、囲むまで。敵も秀康抜きでは大胆な作戦には出てこないでしょう。きっと、こちらの兵糧が尽きて兵を退くのを待っているのみです。そして囲んでいる間に、堅固な城に籠っていても、その内部から崩壊する可能性もあると存じます」
「城の内部から崩壊するというのは、いかなることか?」
 再び昌幸は輝元の顔を真っすぐに見た。
「毛利様のところに南蛮渡来の大筒が何門かあると伺っておりますが、何門ございますか?」
「ああ。豊臣家からお借りしたものの、なかなか目標に当たらず使い勝手が悪いものでございますが、三門ほどございます」
「それだけあれば、短期間で内部から崩壊させることもできるかもしれませぬ」
 昌幸は言った後で、薄く笑った。


 いよいよ敵が江戸城を包囲した。城を囲んでいるのは毛利・上杉・佐竹などの大軍だ。あの憎き真田の六文銭の旗印も見える。しかし東海道を下っていた軍勢の旗印は見えない。それでも十五万以上の大軍だ。少なくとも、守備兵の二倍程度の軍勢である。
その敵を、徳川は籠城戦で迎えることになった。敵の兵糧にも限りがある。いずれ兵糧が無くなり、包囲を解いて帰るだろうという目論見だ。
 毛利本隊は市ヶ谷と四ツ谷にある。そして城の両端、浅草橋と両国橋には小早川秀秋隊、赤坂・虎ノ門には吉川広家と里見義康隊である。浅草橋の隣の万世橋には上杉景勝隊、水道橋には佐竹義宣隊、牛込門には安国寺恵瓊と真田昌幸隊が配置されていた。このように各門に兵が配置され、城内から蟻のはい出る隙間がないくらいだ。
 一方、守る徳川は、毛利に本多忠勝、安国寺と真田と佐竹に井伊直政と本多正信、上杉と小早川には榊原康政、吉川・里見に主君を亡くした結城軍(※家老の本多富正が指揮)、そして本丸と二の丸には秀忠直属軍とお梶の軍隊が配置された。
 本多正信は水道橋の西側を守っていた。防御のために壊された水道橋から外堀を隔てて、正面に安国寺隊がいる。そこから牛込門に向かっては真田隊だ。それに対峙しているのは、徳川の赤備え・井伊直政だ。しかし、囲んでから一日経ったが、安国寺も毛利も攻めてくる気配はいまのところない。
「本多殿。少しばかりお時間を頂戴してよろしいですか?」と、赤い甲冑をまとった直政が正信を訪ねて来た。直政は浮かない顔をしている。
「どうされたか?」と正信が椅子に腰かけるように促すと、「それでは失礼して」と直政は浅く腰かけて、正信のほうに、身体を前のめりにさせた。
「それがし、秀康様が亡くなって誰がいちばん得をするのか考えてみたのですが、本多殿はどなただと思われますか?」
 聞かれて、正信は少し考えた。だけれど、そんな答えはすぐに出てくる。
「お方様と存ずる」
 正信は答えた。しかし正信の答えに、直政は頷かない。
「お方様よりも、もっと得をするお方がいらっしゃらないですか?」
 聞かれて正信は「まさか」と思わず言葉を発した。そんなことは、あってはならない。
「まさか、若殿……」正信は言葉を詰まらせた。そして首を大仰に振る。「いや、若殿が秀康様を殺害するわけがない。若殿は秀康様を必要とされていた。それに実に謙虚なお方だ。秀康様に戦ではまったく及ばないことも知っていらっしゃる。そんな若殿が、秀康様を殺害するはずが無い」
 正信が必死の形相で言ったためか、直政は吹き出して、一気に表情が和(なご)んだ。正信が少し険しい視線を向けると、直政は居住まいを正した。
「そのことはそれがしもよく存じております」
「そうしたら、秀康様が亡くなっていちばん得をする人物って、誰なのか?」
 今度は正信の身体が前のめりになった。そして唾を飲み込んで、直政の言葉を待つ。
「敵方です」
「敵方?」聞き返すと、直政は真剣な面持ちで頷いた。
「左様でございます。豊臣家です。秀康様が亡くなれば、徳川は組み易くなるということになります」
 正信には、直政の言っていることがよく分からなかった。敵方の誰かが厳重な警備の江戸城内に忍び込んで、秀康の饅頭に毒を仕込むというのは、とうてい考えられない。
 正信は首を傾げる。
「豊臣の家臣が城内に忍び込むのは、考えにくいと思うが?」
「ご尤(もっと)もでございます。しかし、敵と通じる者がいたら、容易(たやす)いことでしょう」
 直政の言葉に、正信の頭の中に閃光のようなものが走った。
「内通者といえば、山中城の戦いでも!」
 直政は大きく頷く。正信の頭の中に浮かんだのは、本多忠勝だ。
「はい。あの戦いで、秀康様が退くという情報を敵に流した者が家中にいます。それと同一の人物が、秀康様の饅頭に毒を盛ったとも考えられます。もちろん、若殿とお方様も考えられますが」
 正信は大仰に首を振った。
「若殿はない、ない。絶対にないと存じる」
 と、その時、背後で大きな爆音がした。二人は慌てて櫓(やぐら)を出る。
「申し上げます。物見櫓に、敵の大筒が撃ち込まれた模様です!」
「申し上げます。敵の大筒により、物見櫓が損壊しました!」
「申し上げます。物見櫓に打ち込まれた大砲によって、我が軍に負傷者が出ています!」
 近習が次々に報告に来る。おそらく毛利本隊から撃ち込まれた大砲だろう。物見櫓は内堀の中にある北の丸の最前線にある櫓だ。この櫓から、田安門に攻める敵の軍勢を攻撃することができる。大筒の攻撃目標になるであろう。
 そこに一発で命中するとは、正信も驚いた。南蛮の商人からあらたに手に入れたものかもしれぬ。
「南蛮渡来の大筒か?」
 直政の質問に、近習は大きく首を傾げた。
「申し訳ありませんが、そこまでは分かりません」
 そして再び、さらに大きな爆音がした。今度は正信たちのいる櫓の近くに着弾したようだ。


 真田信繁は南蛮渡来の大筒に目を丸くした。安国寺恵瓊軍に配置された三台の大筒は、自分の胴体よりも太い。そこに自分の頭よりも大きな鉛球を入れて、江戸城に向けて飛ばしている。それがどこに着弾しているかはよく分からないが、そのうちの何発は田安門近くに着弾していて、城の外壁が大きく損壊しているのが遠くに見て取れた。ただ、一発ずつ砲丸と多くの火薬を詰めて着火させているので、一発撃つのにもある程度の時間を要している。
「これで、本当に効果がありますか?」安国寺恵瓊が疑心暗鬼な目で真田昌幸を見ている。「種子島のように正確に目標を定めて撃ち抜くことはできません。ただあのあたりと目星をつけて、前方に向かって撃つだけです。運が良ければ城の外壁や門を壊すこともできましょうが、敵兵を倒すとなると、かなり幸運に恵まれないとできませぬ」
「それでじゅうぶんです」
昌幸はかすかに笑った。何度か信繁は見ているけれど、自信はそうとうありそうだ。
「じゅうぶんなのですか?」
「ええ。とにかくなるべく遠くに届くように、撃ち続けてください。特に夜は間髪をおかずに撃ち続けるのです。もう少し遠くに着弾できれば、効果があると存じますが、いかがでしょうか?」
「それは砲弾を少し小さくすれば可能です。ただし、建物への損壊は小さくなってしまいます」
 恵瓊の言葉に、昌幸は大きく頷いた。
「そうしたら、日が暮れてから、砲丸を小さくしてください。そうすれば、本丸に届くことでしょう」
 昌幸はそう言って、江戸城を見渡して、ほくそ笑んだ。
 これがうまく行けば、徳川は内部から崩れるはずだ、と言っているように信繁には見えた。


 昼間から北の丸に大筒が間断なく撃ち込まれていた。城壁や櫓の損壊が少し、それに数名ほどの負傷者が出ているけれども、徳川軍や城に、死者や大きな損壊は出ていない。それに徳川秀忠のいる本丸には、まだ一発も撃ち込まれていない。
 しかし、秀忠の正室・お江は極度に怖がっていた。
「お梶殿。北の丸に大筒の被害が出ているというが、真か?」
「お方様。私も見に行きましたが、たいした被害は出ておりませぬ。物見の櫓と、城壁が少しばかり壊れただけでございます」
 怯えるお江を安心させるように、具足姿のお梶は満面の笑みを作って言った。それでもお江の身体が震えているのが、隣に座っている秀忠にも分かる。
「嘘じゃ。けが人も出たと聞いておるぞ!」
 お江が声を張り上げたので、お梶は笑みを止めて、居住まいを正して、お江に向き合う。
「確かに、負傷した者は井伊直政殿の部隊に三人ほど出ています。しかし砲弾に直接あたったわけではなく、城壁や櫓を損傷した破片などに当たって負傷した者たちです。死者どころか、骨を折るなどの重傷者も出ておりませぬ」
「でも、これくらい大きな鉛の弾じゃろ? そんなのが当たったら、死ぬじゃろ?」
 お江は両手で蹴鞠ほどの大きな円を描いて、怯えた顔をしている。お梶は再び満面の笑みを作った。
「お方様。そんなに怖がらなくても大丈夫でございます。ここは亡き大殿が築かれた江戸のお城でございます。いくら城外から南蛮渡来の大筒を撃ち込んでも、せいぜい北の丸や吹上、三の丸くらいまでしか届かないはずです。二重の内堀に囲まれたこの本丸と二の丸、そして西の丸は安全でございます。そのように、大殿が設計されて築城していますので、お方様には安心してこの本丸御殿でお過ごしください」
「大筒はここまで届かぬのか?」
「はい。届くことはございませぬ」
 お梶が答えた直後に、大きな破裂音が響いた。これは、秀忠も思わず身体を浮かしてしまうほど、今までになく大きな音と振動だ。大筒が、近くに撃ち込まれたに違いない。
「今のは何じゃ? かなり近くに落ちたのではないのか?」お江が狼狽(うろた)えた。恐怖で唇が震えている。
「誰か、誰か、ある?」お梶が声を張り上げると、すぐに具足をまとった近習がやってきて、お梶の前に控えた。「今の砲弾がどこに落ちたのか、すぐに調べて報告しなさい」
「ははっ!」と近習はすぐに広間を出て行く。
「大丈夫なのか? 今のはすごく近くに落ちたであろう。わらわはとても不安じゃ。もう日も暮れようとしている。夜も撃ち込んでくるのか? そして、この御殿まで撃ち込まれるのではないのか? 大筒を撃ち込んで櫓や門を破壊して、敵の大軍が攻め込んでくるのではないのか?」
 お江の声が恐怖で震えている。彼女の目が泳いでいるのも、秀忠には分かった。お梶が大きく首を横に振る。
「この御殿が撃ち込まれることはないはずです。ましてや、いくら大軍といえども、敵がこの本丸まで攻め込んでくることはあり得ません。それどころか、あれだけの大軍です。兵糧が尽くのも早いと存じます。兵糧が尽きたら、兵を退きます。だからお方様は、安心してこの御殿でお過ごしください」
「お江。お梶の言うとおりだ」秀忠はようやく、不安そうな顔をしているお江に言葉をかけた。「いいか。この江戸の城は父上が綿密に縄張りをし、余が建設した城ぞ。特にこの本丸と西の丸に攻め込むには、迷路のような曲輪の中を進まないといけないし、いくつもの門を突破しないといけない。甲州に回っている敵がこれから増えて、たとえ三十万の大軍になって総攻撃を仕掛けたとしても、この本丸に辿り着けるのは多くても数千、いや数百の兵だろう。いや、数十人かもしれぬ。そして大筒も、城外のどこから撃ち込んでも、本丸には届かぬはずだ。だから我らは、この本丸でどんと構えていれば良い」
 秀忠の言葉に、お江は大きく頷いた。そこへ、先ほどの近習が広間の入り口にやってくる。
「申し上げます。先ほどは清水門に着弾した模様です」
「そんな馬鹿な……」
清水門と聞いて秀忠は腰が抜けるほど驚いた。清水門は北の丸から二の丸に通じる門で、本丸天守の真下にある門だ。その門に着弾したとなると、外堀と二重の内堀を越してきたことになる。少し角度を変えればこの本丸も大筒の攻撃目標になってしまう。御殿も危ない気がする。
「それで、被害は?」
「そこまでは分かりません」お梶の質問に近習は声を張り上げた。「とにかくお梶様のご指示がほしいと、門を守る兵たちが申しております」
「あい、分かった」お梶は凛として答えた。そして秀忠たちに顔を向ける。「それでは私は清水門に向かいます。これにて、ごめん!」
 近習に続いて、お梶も広間から去っていった。お江の不安そうな顔が、秀忠に向く。
「秀忠殿。清水門といえば、この御殿から近くないか?」
「近いといえば近い」
 というより、本丸の天守から目と鼻の先だ。お江の顔が引き攣る。
「清水門に大筒が届くということは、この御殿にも届くということではないのか?」
「違う!」秀忠は強く否定した。「お江。大筒というのは、前方に弾を飛ばすだけのものだ。目標を定めてそこに当てることはなかなかできない。それに、この御殿がどの辺にあるのか、敵も知るまい。だからこの御殿は安全だ」
 秀忠の言葉に、お江は鼻を鳴らして大きく頷いた。どうやら納得してくれたらしい。そして頭を秀忠の胸に凭(もた)れてくる。
 秀忠はお江をとてもいとおしく感じた。お江を抱きたいと思ったのは、久しぶりだ。秀忠がこんな感情になるのも、彼女が滅多に見せぬ弱い所をさらけ出しているからだ。彼女を小袖の上から優しく抱く。
「心配することはない。この御殿は城のいちばん奥だ。大筒も届かぬし、兵で攻め落とすこともできぬ。何しろ難攻不落の江戸城だ」
 秀忠はお江というより、むしろ自分に言い聞かせるように言った。そして少し、自信を取り戻す。
 しかし、再び爆裂音がした。その、あまりの衝撃に、二人の身体が離れた。先ほどまでお梶が座っていたところに、木材や瓦が飛び散っている。お江は腰を抜かして、倒れている。お江の顔は蒼白で、紅がひときわ目立つ唇を、まるで酸欠の金魚のように、ぱくぱくさせていた。
「大丈夫だ。とにかく大丈夫だ」
 秀忠はお江にというより、自分自身に言い聞かせた。本当に、あと少しずれていたら、自分たちの真上に落ちていたところだ。運が悪ければ、命を落としてしまっていたかもしれない。そう思うと、恐怖に身体が震えてくる。
「こ、これは敵の大筒か?」
「おそらく」お江の顔を見ずに秀忠は答えた。
 そして再び、爆裂音が響いた。今度も近くに落ちたようだ。本丸のどこかに落ちたのは間違いない。お江は「きゃあ」と叫び声をあげて、両目を堅く閉じて、両耳を塞いだ。身体も小刻みに震えている。
「今度のも近くに落ちたのではないか?」
「先ほどよりは遠い」
 秀忠に抱かれたお江の目が剥いて、秀忠を眺めた。
「あの大筒は、秀忠殿とわらわの命を狙っているのじゃ。そうじゃ。それでこの御殿を目標にしているのではないのか?」
 そんなことは当たり前である。お江の言うとおりだ。だけれど、それを肯定して、お江の不安をいたずらに駆り立ててもいけない。そして自分自身の不安も。
 秀忠はおもむろに首を横に振った。
「大筒は正確に目標を定めることはできない。だから、我らを狙うことができない。そして、この御殿がどこにあるのか、敵は知るまい。何しろ絵図などあるわけがないのだから」
「あの憎き、大野治長がおろう?」お江は顔を紅潮させて言った。「治長は、先日まで徳川に仕えていたとき、見せかけの忠誠心を見せて、大殿にも認められて、よう働いてくれたものじゃ。特に井伊直政や本多忠勝と仲が良かったと聞いておる。わらわもそうじゃが、西の丸にいたお梶や茶阿の信頼も厚かったではないか。それに秀忠殿。そなたもまるで兄上のように慕っておった」
 秀忠は唾を飲み込んだ。徳川は、まんまと治長に騙されていたのだ。騙されて、家康が討たれた。そして徳川家そのものを討とうとしている。
 そこでもう一発、秀忠たちの背中で、大きな破裂音がした。そして建物が壊れる音がする。おそらく破壊されたのは、御殿の中でもいちばん大事な大奥(※秀忠とお江の居住空間)だ。
「い、今のは、奥ではないのか?」
 お江の顔から色が失せている。もし今、奥にいたら、秀忠もお江も怪我をし、運が悪ければ命を落としていたのかもしれない。
 秀忠も恐怖で身体が固まった。そしてやっとのことで頷いた。もうお江の顔を見る余裕もない。
「やはり、そうじゃ。敵はわらわと秀忠殿の命を狙っているのじゃ。いますぐに、敵に大筒を撃つのを止めてくれと願い出るのじゃ。そう、わらわが直接、お願いすれば良い。わらわの願いなら、きっと姉上も聞いてくれる」
 お江は完全に狼狽(うろた)えている。どうすれば良いか困っているところへ、お梶が現れてくれた。秀忠のすぐ側で控える。
「若殿。そしてお方様。ご無事で何よりです」
 秀忠は大きく頷いた。やはり恐怖で言葉が出てこない。秀忠の胸に凭れているお江の身体も、恐怖で震え続けている。
 続けて、一人の近習が広間に入ってきた。彼も秀忠の近くに控える。手に矢文を持っている。
「申し上げます。敵からこのようなものが放たれました」
 秀忠は矢文を手に取って、広げた。それは敵から和議の申し出だ。
「何と。これは良い報せじゃ。秀忠殿。早速、そのとおりにいたすべきじゃ」
 広げた矢文を横から見ていたお江が声をあげた。お梶が怪訝そうな表情を、向けている。
「その矢文の内容は何と?」
 秀忠は頷いて、文をお梶に手渡した。お梶は畏まって両手でそれを受け取って、読む。そして表情を強張らせた。
「お言葉ですが、和議に応じるのは、私は反対でございます。敵は兵糧が尽きそうなので、和議を申し出たのでしょう。それは明白でございます」
「お梶どの。何を申すか。まだ敵は全軍揃っていないのじゃぞ。これから甲州にいる敵が増えるというではないか。それに和議の条件として、豊臣の臣下となれば、この江戸と相模は安堵してくれるのじゃ。どこかの田舎に国替えとかではないでないか」
 お江が身体を起こして、お梶に向き合って言った。お梶も居住まいを正す。
「しかしながら、お江さま。和議の条件として、江戸と小田原の城の外堀を埋めるというのが気になります。そしてまだ三歳の千姫さまを大阪に人質として差し出すというのも、姫が不憫でなりませぬ」
 お江は首を横に振った。
「姉上のところに差し出すのじゃ。悪いようにはならぬ」
 秀忠はもう一度、矢文の内容を読み返した。そこには、江戸と相模を安堵する代わりに、江戸・小田原の両城の外堀を埋めることと、娘の千姫を人質として大阪に差し出すことが記されていた。そして返答の期限は明日の酉の刻(※午後六時)まで。それまでは攻撃を中断するとも書かれている。現にいま、城に大筒は撃ち込まれていない。
 秀忠は居住まいを正した。
「明朝、みなを大広間に集める」
 何とか出した声がしゃがれていて、何だか自分の声でないように、秀忠には感じた。
「して、若殿。いかがされるおつもりですか?」
 お梶が真剣な表情を秀忠に向けた。何だか問い詰められているように感じる。そして秀忠の横でお江が恐怖で震えていた。
 そう。徳川に残された道は、これしかいないのだ。秀忠は大きく頷いた。
「和議に応じようと思っている」


「余は和議に応じる決意をした」
 徳川秀忠から意外な言葉が出てきて、本多正信は腰を抜かすほど驚いた。もちろん、驚いているのは正信だけでない。大広間に集められた家臣たちのどよめきが聞こえる。
「若殿。どうして和議に応じるのですか? 我らは敵が退くまで、じゅうぶんに戦えるではございませんか」
 若い井伊直政が声をあげた。これに正信は大きく頷いた。もちろん家臣たちも同じ考えだ。城には兵糧がじゅうぶんにある。しかし敵は心もとないはずだ。籠城していればやがて敵は兵糧が尽きて、兵を退く。それが重臣たちの思いだ。秀忠も同じ考えだったはずだ。
 秀忠は大きく頷いた。秀忠の隣に座るお江の顔も、何だか冴えないように見える。
「いかにも。直政の意見はよく分かる。しかし、この和議の条件がなかなか良いと、余は判断した。この戦の前に豊臣方の出した条件は、真田領か出羽大曲に国替えという条件だった。しかしこの度の和議では、相模国とこの江戸が安堵される。徳川が国持大名として存続できる最後の機会だと、余は判断した」
 秀忠が話している間は静まり返っていたが、話し終えると再びざわめきが起きた。ざわめきは、和議を突っぱねるべきだという内容ばかりだ。もちろん正信も同じ意見である。
 そこで本多忠勝が立ち上がった。
「若殿。それはかなり腰が引けているのではござらぬか。もしかしたら、腰抜けに一服盛られたのではあるまいか?」
 忠勝が正信を睨みつける。思わず正信は視線を逸らしてしまった。
 また場がざわつき始めた。さすがに正信を非難する声は聞こえなかったが、このまま戦うべきという意見が大半だ。
 そこでお梶がすくっと立ち上がった。お梶は一同を見回してから、口を開いた。
「恐れながら申し上げます。昨日、若殿から和議に応じるお考えを伺ったとき、私も最初は皆さんと同じで、反対の考えを申し上げました。しかし今では、若殿が仰せになった和議の内容に、私は納得しております。もしこのまま抵抗すれば、敵は一度兵を退きましょうが、再び態勢を整えて、攻め込んでくるのは必定です。その時は、これほどまで良い条件を徳川に示してこないと存じます」
 そこでお梶は一度、間を置いた。場は静まり返っている。彼女の言うことは尤(もっと)もだと、正信は思った。しかし直政が首を傾げているのが、正信に見えた。
 彼女はさらに発言を続ける。
「それに諸大名の動きです。若殿の御前でこのようなことを申し上げるのは、真に恐縮でございますが、大殿の存命中のときは、全国の多くの大名家が徳川の味方になってくれました。しかし大殿が亡くなられた今、お味方になってくれているのは、韮山に籠っている福島殿と黒田殿、山形の最上殿、それとごく僅かでございます。仙台の伊達殿、そして毛利家中でも吉川殿や小早川殿は明らかに豊臣方に付いております。そしてこの関東でも、沼田の真田信之殿も動いてくれぬではありませんか」
 そう言って、お梶は忠勝を一瞥した。敵方についている真田昌幸の長男・信之に、忠勝の娘が嫁いだ関係で、信之は父親と袂(たもと)を分かち、徳川に味方しているのだ。もし今でも徳川と通じているのなら、毛利軍が上野国を攻めている段階で、毛利軍の背後を突いていたはずだ。だけれどもいまだに動きはない。
「何度も兵を出すように、催促の文を送ったわ」
 忠勝は顔を歪(ゆが)めて、悔しそうに拳を叩いた。
「ここは徳川もひとまず和議に応じ、しばらくは豊臣の臣下としてふるまうのが肝要と存じます。そうしてこの江戸で力を蓄えていれば、徳川にも好機が巡ってくるはずです。豊臣家も秀頼君はまだ若く、どのような人物が後見人になっても再び世が乱れるとみております。そうすれば再び徳川に追い風にもなるでしょう。しかし、それも国持ち大名でいられたらの話です。信州上田や出羽大曲の小大名に転落してしまっては、その望みも叶わないでしょう」
 尤もな意見だと正信は思った。上座ではお江の顔が明るくなったように見えた。隣に座る秀忠は大きく頷いた。
「お江の意見に、余も賛成である。反対の意見を申す者はおらぬか?」
 秀忠の言葉に、申し出る者はいなくなった。
 
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