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13話 真夏に海はうってつけ
「そう言えば、この海って『レンフィールド王国の枯れない花2』でも、来たことがあったような」
夏のイベントの研修旅行先が、海だった気がする。
攻略対象の好感度を上げるため、夜の砂浜をふたりきりで歩くのだ。
満天の星、寄せてはかえす波の音、いつもとは違うロケーションに、否応にも高まる気持ち。
「好意を持つ相手となら、最高に盛り上がっただろうけど」
前世のウェンディが夏のイベントで、惰性で選んだ攻略対象とどんな会話をしたのか、もう覚えてもいない。
暮れ始めた空を見上げると、白く細い月が浮かんでいた。
「月齢的にも、今夜が狙い目だわ」
ウェンディの目的は、新月の前後に浅瀬へ集まる習性をもつ、赤いクラゲだ。
このクラゲの雄から採れる粘液が、塗布バージョンのポーションには必要なのだ。
「もっと早くに知っていれば、私の卒論のデータを集めるのに、役に立ったのになあ」
ウェンディが研究していたのは、ポーションで魔法陣を描くことだったが、試行したポーションの粘度を保つのが難しく、限られた一定の条件下でしか実験が出来なかったのだ。
「このクラゲの粘液を加えたら、もっと立体的な物にも魔法陣を描けるはずよ」
ブツブツ呟くウェンディがレシピの改変を考え込んでいる間にも、日は沈み、月は昇っていく。
ハッと気がついたときには、あたりは真っ暗になっていた。
「いけない、クラゲを探さなくちゃ!」
新月に近いので、月明りは頼りにならない。
ウェンディは夜目が効くようになるポーションを飲んだ。
鞄からタモ網を取り出し、捕獲したクラゲを入れるための水槽も用意する。
捕まえる段階では雌雄が分からないから、水槽の中に移して性別を見分け、雌は逃がし、雄から粘液を採集するつもりだった。
卵ほどの大きさのクラゲを探し求め、ウェンディは浅瀬を歩き回る。
「もっと集団で漂っているイメージだったけど、なかなか見つからないわね。だけどこれ以上、沖に行くのは怖いし」
夜の海は闇より暗く、泳げないウェンディにとっては怖い世界だ。
知らず、左手でぎゅっと、腰につけた浮き輪のひもを握りしめていた。
沖から目をそらし、また歩き出したウェンディのふくらはぎに、何かがぬるりと触れる。
「きゃあ!」
急なことに驚き、触れた方の脚を慌てて海から引き揚げた瞬間、ぐらりと体が傾いだ。
ダニング伯爵の言いつけを守り、ウェンディは膝までしか浸からない浅瀬にいる。
(手をつけば大丈夫――)
そう冷静に判断し、タモ網を手放すと、水底に手をつこうと肘を伸ばした。
だが、手をつく前に、ウェンディの顔に波しぶきがかかる。
目と口と鼻に海水が入り、驚いたウェンディは顔に手をやり、拭おうとした。
そして――体ごと海面に倒れ込んでしまうのだった。
バシャン!
ごぼごぼっと、勢いよく口から塩辛い海水が入ってくる。
(早く仰向けにならないと――海面はどっち?)
そう思って体の向きを変えようとするが、指先は海底の砂を引っ掻くばかりで、踏ん張りがきかない。
次第に波の流れにのって、ウェンディの体はだんだんと沖へ向かう。
パニックになったウェンディが全身をばたつかせると、浮き輪をつけた腰だけが浮かび、頭と手足は海中に沈んでいく。
もうウェンディにはどちらが上でどちらが下か、判断できなかった。
(苦しい、苦しい! 息が出来ない――!)
鼻にも口にも、入ってくるのは海水だけ。
目は痛くて開けられず、真っ暗な中で溺れる恐怖に、死の気配を感じた。
(助けて! 誰か!)
そこにいない誰かへ向かって、ウェンディが手を伸ばすと――。
「ウェンディ!」
ウェンディが倒れたときよりも大きな水音と一緒に、デクスターの声がした。
そしてウェンディの体は海から引っぱり上げられる。
逞しいデクスターの両腕によって。
「うえっ……ごっほごほ……」
新鮮な空気を鼻から吸うと、塩辛い水が胃液と一緒にせり上がって、ウェンディは吐いた。
えずいて苦しそうにしているウェンディの背を、デクスターがさする。
しばらくして、飲んだ海水を吐いてしまうと、ようやくウェンディは話すことが出来た。
「デ、デクスターさま……どうして?」
ホレイショの瞬間移動の能力で、デクスターはここに来たのだろう。
下半身の蛇の部分を海水に浸し、しっかりとウェンディを抱き上げている。
すっかり夜も更けて辺りに人影はないが、頭にはヤギの角、背中には蝙蝠の羽根がついた魔物の姿である。
もし誰かに見つかってしまえば、国王により討伐隊が編成されるというのに。
「アルバートがあまりにも心配するから、ホレイショにウェンディを見守ってもらっていた。そうしたら、ウェンディが溺れたと、ホレイショが血相を変えて俺を呼びに……」
ウェンディは、自分が震えているのかと思ったが、小刻みに揺れていたのはデクスターの腕だった。
デクスターはウェンディを助けるために、人目をはばからず魔物姿で海へ飛び込んだ。
他の人に知られてしまうかもしれないという、危険を冒してまで。
「ウェンディがうつ伏せになって、もがいているのを見て肝を冷やした……間に合ってよかった」
ウェンディの濡れた体を、デクスターがぎゅっと抱き締める。
ドクドクと激しく脈打っているのは、どちらの心臓だろう。
【ほらほら、誰かに見つかる前に、すぐに山小屋へ戻るぞ! ふたりとも、そのままくっついてろよ!】
どこからかホレイショの声がして、ウェンディの視界が歪む。
気がつけば、ウェンディが寝泊まりしていた部屋に到着していた。
雪山にある山小屋は、夏と言えども肌寒い。
とくに海水で全身がずぶ濡れのウェンディは、悪寒を感じずにはいられなかった。
「浴槽に湯をためてこよう。ウェンディはすぐに入れるように、着替えの用意をしていて」
寒さに身を震わせるウェンディの心配をして、デクスターは浴室へと向かった。
助けてもらったばかりか、お風呂の準備までしてもらって、ウェンディはデクスターに頭が上がらない。
座らせてもらった椅子からよろよろと立ち上がると、備え付けのクローゼットに近づき、置きっぱなしのタオルと寝間着を取り出した。
濡れた髪から落ちる雫を、タオルに吸わせて、湯がたまるのをじっと待つ。
ポトリ。
毛先から滴る冷たい海水ではなく、ウェンディの瞳から温かい涙が零れた。
(私、死ぬところだった――)
今さらながら恐怖に襲われ、腰が抜けたウェンディはその場にへたり込み、堰を切ったように泣いた。
しゃくりあげるような嗚咽を聞いて、デクスターが慌てて部屋に戻ってくる。
そして、タオルに顔を埋めて肩を震わせているウェンディに、どうしたらいいか右往左往していると、ホレイショから檄が飛ぶ。
【女が泣いているときは、男が抱き締めてやるもんだ。泣き止むまで、胸を貸すんだぞ!】
それに従う意を示すようコクコクと頷くと、デクスターは両腕をウェンディに回した。
そっと頭を引き寄せ、胸のあたりにもたれさせる。
「怖かった、怖かったよぉ……!」
「大丈夫だ。もう怖くない。ウェンディは助かったんだ。ここは海じゃない」
涙腺が崩壊したウェンディを、たどたどしくデクスターが慰める。
いつしか冷たかったウェンディの体は温まり、声も涙も枯れてくる。
そうしてようやく、ウェンディはタオルから顔を上げた。
そこには、美しい紫色の瞳があって、ウェンディを優しく見守っていた。
(ああ、好きだ。私、デクスターじゃなくて、デクスターさまが好き。ゲームのスチルじゃなくて、今ここにいて、私を抱き締めてくれるデクスターさまが好きだ)
ウェンディは気持ちを自覚すると、ほろりと笑みを零した。
その笑みが儚げに見えたのだろうか、デクスターはより一層力強く、ウェンディを抱き締める。
【想いが通じ合って何よりだが、風呂の湯が冷めちまうぜ。もういっそのこと、二人で入れば? デクスターもお嬢ちゃんも、なんか磯臭いからなあ】
いい雰囲気を台無しにしたホレイショは、その後デクスターに首根っこを掴まれていた。
そしてもちろん、顔を真っ赤にしたウェンディは、一人で風呂に入るのだった。
夏のイベントの研修旅行先が、海だった気がする。
攻略対象の好感度を上げるため、夜の砂浜をふたりきりで歩くのだ。
満天の星、寄せてはかえす波の音、いつもとは違うロケーションに、否応にも高まる気持ち。
「好意を持つ相手となら、最高に盛り上がっただろうけど」
前世のウェンディが夏のイベントで、惰性で選んだ攻略対象とどんな会話をしたのか、もう覚えてもいない。
暮れ始めた空を見上げると、白く細い月が浮かんでいた。
「月齢的にも、今夜が狙い目だわ」
ウェンディの目的は、新月の前後に浅瀬へ集まる習性をもつ、赤いクラゲだ。
このクラゲの雄から採れる粘液が、塗布バージョンのポーションには必要なのだ。
「もっと早くに知っていれば、私の卒論のデータを集めるのに、役に立ったのになあ」
ウェンディが研究していたのは、ポーションで魔法陣を描くことだったが、試行したポーションの粘度を保つのが難しく、限られた一定の条件下でしか実験が出来なかったのだ。
「このクラゲの粘液を加えたら、もっと立体的な物にも魔法陣を描けるはずよ」
ブツブツ呟くウェンディがレシピの改変を考え込んでいる間にも、日は沈み、月は昇っていく。
ハッと気がついたときには、あたりは真っ暗になっていた。
「いけない、クラゲを探さなくちゃ!」
新月に近いので、月明りは頼りにならない。
ウェンディは夜目が効くようになるポーションを飲んだ。
鞄からタモ網を取り出し、捕獲したクラゲを入れるための水槽も用意する。
捕まえる段階では雌雄が分からないから、水槽の中に移して性別を見分け、雌は逃がし、雄から粘液を採集するつもりだった。
卵ほどの大きさのクラゲを探し求め、ウェンディは浅瀬を歩き回る。
「もっと集団で漂っているイメージだったけど、なかなか見つからないわね。だけどこれ以上、沖に行くのは怖いし」
夜の海は闇より暗く、泳げないウェンディにとっては怖い世界だ。
知らず、左手でぎゅっと、腰につけた浮き輪のひもを握りしめていた。
沖から目をそらし、また歩き出したウェンディのふくらはぎに、何かがぬるりと触れる。
「きゃあ!」
急なことに驚き、触れた方の脚を慌てて海から引き揚げた瞬間、ぐらりと体が傾いだ。
ダニング伯爵の言いつけを守り、ウェンディは膝までしか浸からない浅瀬にいる。
(手をつけば大丈夫――)
そう冷静に判断し、タモ網を手放すと、水底に手をつこうと肘を伸ばした。
だが、手をつく前に、ウェンディの顔に波しぶきがかかる。
目と口と鼻に海水が入り、驚いたウェンディは顔に手をやり、拭おうとした。
そして――体ごと海面に倒れ込んでしまうのだった。
バシャン!
ごぼごぼっと、勢いよく口から塩辛い海水が入ってくる。
(早く仰向けにならないと――海面はどっち?)
そう思って体の向きを変えようとするが、指先は海底の砂を引っ掻くばかりで、踏ん張りがきかない。
次第に波の流れにのって、ウェンディの体はだんだんと沖へ向かう。
パニックになったウェンディが全身をばたつかせると、浮き輪をつけた腰だけが浮かび、頭と手足は海中に沈んでいく。
もうウェンディにはどちらが上でどちらが下か、判断できなかった。
(苦しい、苦しい! 息が出来ない――!)
鼻にも口にも、入ってくるのは海水だけ。
目は痛くて開けられず、真っ暗な中で溺れる恐怖に、死の気配を感じた。
(助けて! 誰か!)
そこにいない誰かへ向かって、ウェンディが手を伸ばすと――。
「ウェンディ!」
ウェンディが倒れたときよりも大きな水音と一緒に、デクスターの声がした。
そしてウェンディの体は海から引っぱり上げられる。
逞しいデクスターの両腕によって。
「うえっ……ごっほごほ……」
新鮮な空気を鼻から吸うと、塩辛い水が胃液と一緒にせり上がって、ウェンディは吐いた。
えずいて苦しそうにしているウェンディの背を、デクスターがさする。
しばらくして、飲んだ海水を吐いてしまうと、ようやくウェンディは話すことが出来た。
「デ、デクスターさま……どうして?」
ホレイショの瞬間移動の能力で、デクスターはここに来たのだろう。
下半身の蛇の部分を海水に浸し、しっかりとウェンディを抱き上げている。
すっかり夜も更けて辺りに人影はないが、頭にはヤギの角、背中には蝙蝠の羽根がついた魔物の姿である。
もし誰かに見つかってしまえば、国王により討伐隊が編成されるというのに。
「アルバートがあまりにも心配するから、ホレイショにウェンディを見守ってもらっていた。そうしたら、ウェンディが溺れたと、ホレイショが血相を変えて俺を呼びに……」
ウェンディは、自分が震えているのかと思ったが、小刻みに揺れていたのはデクスターの腕だった。
デクスターはウェンディを助けるために、人目をはばからず魔物姿で海へ飛び込んだ。
他の人に知られてしまうかもしれないという、危険を冒してまで。
「ウェンディがうつ伏せになって、もがいているのを見て肝を冷やした……間に合ってよかった」
ウェンディの濡れた体を、デクスターがぎゅっと抱き締める。
ドクドクと激しく脈打っているのは、どちらの心臓だろう。
【ほらほら、誰かに見つかる前に、すぐに山小屋へ戻るぞ! ふたりとも、そのままくっついてろよ!】
どこからかホレイショの声がして、ウェンディの視界が歪む。
気がつけば、ウェンディが寝泊まりしていた部屋に到着していた。
雪山にある山小屋は、夏と言えども肌寒い。
とくに海水で全身がずぶ濡れのウェンディは、悪寒を感じずにはいられなかった。
「浴槽に湯をためてこよう。ウェンディはすぐに入れるように、着替えの用意をしていて」
寒さに身を震わせるウェンディの心配をして、デクスターは浴室へと向かった。
助けてもらったばかりか、お風呂の準備までしてもらって、ウェンディはデクスターに頭が上がらない。
座らせてもらった椅子からよろよろと立ち上がると、備え付けのクローゼットに近づき、置きっぱなしのタオルと寝間着を取り出した。
濡れた髪から落ちる雫を、タオルに吸わせて、湯がたまるのをじっと待つ。
ポトリ。
毛先から滴る冷たい海水ではなく、ウェンディの瞳から温かい涙が零れた。
(私、死ぬところだった――)
今さらながら恐怖に襲われ、腰が抜けたウェンディはその場にへたり込み、堰を切ったように泣いた。
しゃくりあげるような嗚咽を聞いて、デクスターが慌てて部屋に戻ってくる。
そして、タオルに顔を埋めて肩を震わせているウェンディに、どうしたらいいか右往左往していると、ホレイショから檄が飛ぶ。
【女が泣いているときは、男が抱き締めてやるもんだ。泣き止むまで、胸を貸すんだぞ!】
それに従う意を示すようコクコクと頷くと、デクスターは両腕をウェンディに回した。
そっと頭を引き寄せ、胸のあたりにもたれさせる。
「怖かった、怖かったよぉ……!」
「大丈夫だ。もう怖くない。ウェンディは助かったんだ。ここは海じゃない」
涙腺が崩壊したウェンディを、たどたどしくデクスターが慰める。
いつしか冷たかったウェンディの体は温まり、声も涙も枯れてくる。
そうしてようやく、ウェンディはタオルから顔を上げた。
そこには、美しい紫色の瞳があって、ウェンディを優しく見守っていた。
(ああ、好きだ。私、デクスターじゃなくて、デクスターさまが好き。ゲームのスチルじゃなくて、今ここにいて、私を抱き締めてくれるデクスターさまが好きだ)
ウェンディは気持ちを自覚すると、ほろりと笑みを零した。
その笑みが儚げに見えたのだろうか、デクスターはより一層力強く、ウェンディを抱き締める。
【想いが通じ合って何よりだが、風呂の湯が冷めちまうぜ。もういっそのこと、二人で入れば? デクスターもお嬢ちゃんも、なんか磯臭いからなあ】
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