石炭と水晶

小稲荷一照

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ローゼンヘン工業

ヴィンゼ 共和国協定千四百三十八年立秋

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 暑さの退かない秋のうちから、奇妙に身なりの整った人々が便の少ない駅馬車に詰め込まれるようにしてヴィンゼに物見遊山に訪れていた。
 理由は、学志館の学会、ゲリエ卿の論文講演にあった。
 学志館の学会論文講演の内容は、電話機の数学理論の構造概略と自動交換機の構造概略と接続アルゴリズムについてだった。
 音声信号の符号化と特定相手先への転送と復号化。という題目でおこなわれた。
 今年は去年と違って聴衆が多く、五百人入れる大教室が定員を超えたギュウ詰めになっていて、六百冊あった配布資料の冊子が足りないという事件が起こった。
 今回の論文資料は、写植鋳造印刷機が使われて四色刷り二百五十ページほどの冊子の形になっていた。
 赤青緑黒、という手近に流通していたインクを使っただけで、版画ほどにも鮮やかなものではなかったが、白黒の光画の謄写版印刷の上に、四種類の字体と三種類の大きさの文字を組み合わせた活字印刷物を個人配布するということは、去年の謄写版印刷によるものよりも遥かに衝撃が大きく、配られた資料と称する印刷物も、事実上の書籍或いは教科書だった。付録に二十四桁の三角関数表対数表素数表がついたことも、多くの研究者の度肝を抜いた。当然の流れの勢いとして、数学に素養のある研究者は、各表の数値の検定を始め、その精度に唸ることになった。
 ゲリエ卿が、工業製品の事後報告のようにして、学会向け論文の内容を選んでいるらしいことは、学志館の研究者の間でも想像がつくようになってきた。
 趣味と興味こそが学志の精華。
 と謳い誇る学志館は、学問研究に必ずしも実用を拘って求めておらず、学問の即時性実用性には、元来疑念を示す立場であったが、一方で予算都合という現実問題との折り合いで、人界にあっては無関心無制限無責任へと孤高に佇立することもできなかった。
 理事であり研究者であり実業家であるマジンは、多くの研究者にとっては、自分のテリトリーに入ってきてほしくない羅喉のような存在になっていた。一方で、マジンの示す実用品の技術的な可能性については、深く大きな魅力を感じていて、冷凍冷蔵庫や機関車といったものについて、当然に手に入れたいと願ってもいた。
 マジンの講演会は製品発表会という性質のものではなく、背景理論についてのかいつまんだ概要というもので、可能なかぎり実例に触れない形で説明をしていた。だが、結果として背景理論についての説明が膨らみ、公演時間内で説明することは難しい量になっていた。
 今年の発表内容は、去年までの熱と圧力と運動という三体問題から離れて、代数的な素養が必要な分野であったことから、基礎の説明が膨らんでいたこともあった。
 音の本体が、空気或いは中間媒体の疎密波であること。
 運動としての可視化は、実態として糸電話と一例としたもので可能であること。
 運動現象として表現されるならば、運動方程式の形で表現がおこなえる。
 方程式の写像から、音声の符号が抽出できる。
 記録と転送は符号化による圧縮によって、時間や空間距離を無視した形でおこなえる。
 必要な時間位置で復号化して、音声として再生ができる。
 今回は記録については触れず、転送について扱う。
 オマケとして、標準波形としての正弦波と交流電気。
 という内容で、詳細を語れば一年はゆうに語れるような内容だったが、電話機と称するものを作りました、ヴィンゼでは普及が始まりました。年明けにデカートでも使えるようにするつもりです。興味のある方はお配りの冊子を読んでヴィンゼに来てね。
 というオチをつけた説明であった。
 質疑応答の時間では、去年の発表資料を上回る大作というべき、配布資料についての質問が大量に出ていた。自家製本で製本作業は専用機械を作っていないので、来年は製本機械を作ろうかと思うと冗談めかしてマジンが応えると、前回のタイプライタと今回の印刷機とともに売って欲しい、という真剣な意見が返ってきた。
 聴衆の中には、学者学生とは考えにくい身形整った、というより隙のない風貌の人々が幾人かいた。ハテと思えば軍人だった。学会講演は一般に解放されていはいないが、公人は身分を示すことで入れるようになっていた。マコブレン大尉とモウデル中尉と名乗った二人は、デカートの軍連絡室が拡大されたのを受けて、来月付で異動になったという。他に四五人来ているはずだが、席の都合で入室できなかった者たちもいたかもしれない、ということだった。
 デカートに配属になり、学志館学会がゲリエ氏に直接会える機会、ということで聴衆にくわわったという。着任前の物見遊山で時の人の顔を拝みに来た、というと穿ち過ぎだが、的外れでもないという雰囲気だった。
 彼らの疑問は、実用品としての電話の性能と保守点検の経過だった。
 電話機は貨物車に組み込む形で、既に軍にも納入していて、ギゼンヌでは軍務に使われているという話は彼らには初耳だったようで、相当に驚かれた。
 どこかで動いているものがあるならば、是非見たいということだったので、ヴィンゼに足を向けることを推めた。


 ヴィンゼの電話設備の敷設は、当初もちろん多くの反発や事件の原因ともなった。
 本質的に設備の巨大さや、自分の土地に自分の財産でない電線を通すということと、その保守整備が他人の手によっておこなわれていることに対する、ある種の忌避感が開拓農民の神経に障ることもあった。
 だが、既に今では一種の命綱のように扱われ始めていた。
 ヴィンゼの地では、まともな意味で家族単位を超えた社会生活や自治体共同体というモノの恩恵を受けている者は、ひどく少ない。
 とはいえヴィンゼの人々が社会性に背を向けているというわけではなく、家族単位の低労働力密度で農業をおこなうにはヴィンゼの土地は痩せすぎていて、連携できるほど互いに近くない、まばらにある農業適地を中心に各個に農業を行うしかないような土地だ、ということが原因だった。
 雑草が天然自力で生えている土地があれば、ヴィンゼとしてはかなり豊かな有望な土地、とみなせるほどにヴィンゼの土地は農地に向いていなかったから、家畜を増やして田畑を集中的に拓くということも現実味が薄かった。
 もちろん農民たちも、それぞれに土地に向き合い日々工夫を重ね、生業として腰を据えてはいた。
 ここしばらくローゼンヘン館が卸していた燐窒素剤によって、農地の収穫の向上に成果効果を見せていたが、それで十分というほどにヴィンゼの土地は生易しくもなかったし、入植者たちも諦めがよくなかった。
 牛馬に牽かせる回転鋤と粉肥料を組み合わせることで、おととしあたりから収量はだいぶ増えてきたが、それでも二百年も家系を辿れる家があるようなソイルの農家に比べれば、まだまだというところだった。
 しかし氷屋に始まり屑芋の引取、脱穀機、鉄道や肉屋、缶詰工場、電灯や電話とローゼンヘン館の事業が拡大するに連れてヴィンゼの雰囲気は変わっていた。農民にとって驚くばかりの変化であったが、悪いこととは受け止められていなかったし、実態として餓死や離散は随分と減っていた。
 農民たちの多くは、普段彼らの生活にあまり縁のないヴィンゼの町長セゼンヌ・ヴィンゼが、折に触れてはヴィンゼの様々の売り込みを、ローゼンヘン館におこなっていたのを知っていたし、それが結果としてカネに困ったり土地が悪かったり、という連中の月雇いに結びついているのは知っていた。感謝というには熱心でもなく消極的だったが、彼女と折り合いの悪い人々も、セゼンヌの努力がなければ、ヴィンゼが町の体裁を整えることは難しいだろうことは認めていた。
 鉄道が延び食肉工場が動き始めると、ローゼンヘン館の雇われの内容も随分と様変わりして、読み書き算盤を求めるようになり始め、子供を新しく街に出来た手習い所にあずける親たちが増えてきた。
 教本を持って帰され宿題をおこない、偶に来た手習い所で答え合わせと続きをおこなう。というただそれだけなのだが、子守を子供に任せて子供が死んでしまう事故というものはヴィンゼでは多く、そういう事件が起きたことのない家のほうが少なかったので、大人が面倒を見るというのはそれだけで随分と安心できるものだったし、今のところ手習い所では事故は起きていない。
 鉄道が敷かれたのはヴィンゼの北側で、電灯や電話もヴィンゼの北側が先だった。
 理由は単純にゲリエ家の土地がヴィンゼの北側で、そこを鉄道が走っていたからだが、北側の発展を眺めているうちに、南側からも鉄道敷設の希望が出てきた。
 町の管轄は四十リーグ四方あったが、そんなにむやみに人々が散らばっているわけでもなかった。だが、市場や役場から十リーグも離れた家というのはかなり多く、日の昇る前に家を出て昼のいっときを過ごして去ってゆくという農家の者達は少数派というわけではなかった。
 ヴィンゼの南側は入り組んだ丘陵がちで、北側に比べて多少豊かな土地が多かった。家族の規模も北に比べて一回り大きい。
 ヴィンゼの北側の人々が、突然の組織立った野盗の襲撃で町への帰属意識を高めたのに対して、南側はヴィンゼの町を日常で意識したことはなかった。ヴィンゼの町とのつながりは葬式の日取りを町長に告げると町長と町役場の連中が挨拶に来るという程度の関係でしかなかった。
 ゲリエ家というものも、野盗を退治した賞金稼ぎの子供が、その砦の跡に住み着いて物珍しい物をヴィンゼの町に卸している、という程度の感覚で、律儀に葬式に並んでくれる羽振りと行儀がよくて結構なお子様で、という程度のものに過ぎなかった。だが鉄道が敷かれて市場に新鮮な肉が並び始めると流石に無視できなくなった。
 大家族、と言っても二十人やそこらで潰した牛豚を腐らせず傷ませずに食べきるのは難しい。それがこの夏に肉を市場にさらしている、という事実は辺境の農家に衝撃を与えた。
 これがデカートの町中ならば、羊でも牛でも豚でも朝捌けば夜には捌ける、というのはごく当たり前の光景だったが、向こう三軒両隣をめぐろうと思えば一日でこなせるか怪しいヴィンゼではそうはいかない。食いきれずに腐らせるなら、畑を荒らすウサギやシカの肉で十分だったし、突然に肉が食べたいというなら家鴨か鶏だった。ヴィンゼの農家が夏場に家畜を捌くのは、お客を歓迎するときか、何かの祭りのときくらいだった。
 豚は味に癖がなく、牛や羊よりも育てるのが一回り楽だったが、生かしたまま働かせるのが難しい生き物で、ヴィンゼではあまり多く飼われてはいない。
 この夏、ヴィンゼの市場に新鮮な豚肉が並んだ。
 なにかあったかといえば、屠殺場が大きく綺麗になって様変わりして、ソイルから生きた豚が運び込まれるようになったからだという。
 なにをバカな、はるばるソイルから、と町に出入りすることの少ない農家の家長の多くは当然に疑ったが、綺麗に捌かれた豚のアバラの半身を、家人が持ち帰るとぐうの音も出なかった。きちんと血抜きがされ、腐りやすい膜が洗われた肉は、市場では氷漬けだったが、夏の日に一日に馬車に揺られている間に、すっかり解けぬるくなっていた。けれどしかし腐れとは縁遠い新鮮なものだった。
 その日に売れなかった肉は、金属の小さな蓋の閉じた鍋のようなモノで料理して小分けしてしまう。缶詰と称するそういうものが保存食として売られていた。
 五年十年は怪しいが、二年三年を目指して作られているということで、塩と脂で肉を煮た謂わば肉のジャムのようなものだった。
 すっかり脂で固まっているその肉は、塩漬けの樽肉よりは遥かに柔らかく、塩抜きや煮戻しをせずともそこそこ食べられたし、パンや野菜と合わせて食べるのも随分と面倒が減っていた。樽肉は塩抜きが面倒で、塩を抜きすぎると味もなくなり、塩が残りすぎると塩の味しかしない。買ってきた樽肉を食うよりは肉の周りの塩を料理に使ったほうが面倒が少ないというシロモノだった。
 そうした見方は特殊な意見ではなく、肉の缶詰は元来精肉の調整用保存食として始まったが、ヴィンゼで料理の名を言わずに肉というと出てくる様な、日常で消費されるものになっていったし、ヴィンゼの肉料理というと、缶詰肉を指すようになる。ペガスピー氏が食品工場の権利をローゼンヘン工業から買い取り、幾つかのレシピで缶詰を流通させるようになるころには、カーンズは保存食の一大ブランドとなっていた。
 見るべき産業のない町の体裁を整えるのも難しい田舎町という印象と、鉄道敷設後のヴィンゼの様子は、地味ながら大きく変わっていた。
 たかが一年では町の人々の懐が大きく変わるはずもなかったが、急速に人頭を増やしたローゼンヘン工業が、生活資材や食料の管理の手間を分散するために、雇い人に少なくない現金を渡したことでヴィンゼの経済事情は変化していた。
 鉄道が敷かれただけでこれほどに町の雰囲気が変わるのか、とセゼンヌはマジンに問い糾したが、共和国が負けそうな戦争をボクが僕らがひっくり返したからだ、というマジンの言葉の迫力に黙り込んでしまった。
 実のところ、面倒くさい、という代わりの見積金額の殆どを、共和国軍はあらかたマジンの言い値で引き受けていた。
 そのいわば一種の悪銭を引き回すようにして、新しい事業への資本金としていた。
 地元であるヴィンゼの町は、鉄道事業に経済的に貢献しているとは言いがたい。
 そもそもヴィンゼが産業として独立した機能を持つには、あまりに人口が少なすぎた。町が利益を受けているのは、純粋にマジンの善意による施策というに過ぎない。屠殺場の拡大にしても、電話局や電灯にしても、全て港口で収めてしまえば、町を通る必要すらなかった。鉄道敷設以前からマジンはそのことについては幾度か指摘していた。
 今は一千六百人ほどの鉄道に係る労働者たちが、デカートへフラムへ二本の線路を建設していたが、ヴィンゼの西への着工はおこなわれていなかった。測量も始まっていない。
 アペルディラに旅行に行こう。
 子供たちが夏休みの帰省を終えて春風荘に帰った翌日、マジンはリザにそう言った。
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