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百万丁の花嫁
デカート 共和国協定千四百四十六年春分
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春になって子供たちはそれぞれに進級した。
だが、アーシュラは相当に不本意だった様子だ。
結局、ルミナス一人が昇級試験に合格して飛び級してエリスに追いついていた。
エリスは飛び級なぞという制度に気がついておらず、弟妹がなにやら試験を受けているのは知っていたが、いきなりルミナスが隣の学級に進級していたことに驚きを隠せないでいた。
アーシュラが十二才で学志館の初等部を修了して、軍学校の士官過程に入学するつもりであるという野望を鼻高々に明かすと、エリスはアーシュラの両頬をしたたか引っ張り、妹の思い上がりがそうそうにくじけたことを嘲笑い、ちゃんと四年生になったからにはまだ一年余裕があると、なおも強気で計画性に自信を示すアーシュラの角の間に正確に手刀を落とし、眉間に鈍く響かせると早々に蹴っ頓いた妹の計画性のなさを論った。
当然兄弟喧嘩が始まり、ルミナスが慌ててロゼッタを呼びに走ることになった。
エリスもアーシュラも諦めの悪い強情な性格をしていて、男の子たちと喧嘩になっても疲れて動けなくなるまでトコトンやる性格をしていた。
それはそれでわかりやすく、また同時にひどく心配な性格でもあるわけだが、春風荘のの中でのことであれば、仲裁の大人がいなければ止まる気がまるでないということでもある。
ロゼッタは面倒臭げに溜息をひとつつくと叱っただけでは喧嘩を止めないエリスとアーシュラにゲンコツをくれて一旦黙らせてからソラとユエを呼びつけ、二人を別々の部屋で調書をとらせた。
アーシュラが勉強しないで昇級試験に挑んだのが事の発端であるというのはそれとして、エリスもルミナスに追いつかれたくらいでアーシュラに八つ当たりするくらいならちゃんと勉強しろ、と調書の結果を眺めてロゼッタ法廷は裁定を下した。
ロゼッタにしてみれば、課題をさっさとこなして日課の時間を増やすことには賛成だったが、学校の早あがりにはあまり意味を感じていないのでバカバカしい限りで、のんびりと学校生活を楽しんでいるいつの間にか後輩ということになったユーリのような存在もいる。
免税や労務の免除という学生の特権を求めた就労移民が高等部の籍を長く使うために卒業を遅らせることを目的として学費を収めながら労働を優先したり、或いは実際に学業の困難から計画的な留年をおこなっていた。
一方で官吏を目指したり、様々な資格への基礎とみなす者達は早上がりをおこなったりということで、高等部に入ると二極化が進んでいて卒業年齢はおよそ十歳あまりもゆうにひらく。
学志館を出てから軍学校を目指すと云うのはあまり多くないキャリアステップでもあったが、そういう例がないわけではない。大抵は中途で休学なり退学なりで軍学校に入るわけだが、学習意欲旺盛で才能に恵まれたルミナスであれば計画的に残りの五年分のカリキュラムを二年に押し込んで一年遅れで軍学校の初等部に送り込むことはできる、と教務指導の教師たちが太鼓判を押していた。
アーシュラはと云えばたしかに彼女も才能確かな優秀な生徒ではあるけれど、もう少しゆっくりと学んだほうが良いだろう、とやんわりと温ましげな説明があった。もちろんゲリエ卿の縁者であれば軍学校の卒業後に高等部の門を叩くことはごく自然なことであるから、初等部の修了は特にこだわらなくても良いのではないか、という教務指導担当の言葉は床がなる勢いでアーシュラのアタマをマジンが押しこむ必要があるものだった。
アーシュラの言い分はマジンにもおよそ想像はつくが、実績として心得準備と能力の不足を示してしまった以上、虚しいものでもある。
そういうわけで新学期早々に姉と父の理不尽な暴力による痛みと恥辱で涙に濡れたアーシュラは、雪辱を果たすべく勉学に勤しむことを誓っていた。
エリスはというと、ふたつ下の弟と並ばれたことはもちろん屈辱だったし、グルコやウェイドから高等部になると史学資料室が公開利用できるという話を聞いたことで、俄然やる気になってきていた。
エリスにとって初等部の授業はなんとなく退屈だった。
それでも彼女にとって学校での日常は悪いものと云うには居心地が良すぎて、それはおよそ父や姉たちや人々の庇護のおかげであることはエリスには理解できたことだから、道理を乱すおこないは慎むようにおとなしくしていた。
ソラとユエやロゼッタとグルコとがローゼンヘン館の子どもたちにふさわしい実績を積み上げてきたことを、エリスは様々に直感していたし、もちろんそれは大事なことだと思っていた。
そういうわけでアーシュラがあちこちに八つ当たりをしているのを見ると却って腹立たしくなって、微妙に貯めこんでいる鬱屈にも一気に火がついてしばしば年下の妹を諌めるついでに喧嘩になるわけだった。アーシュラは年下で体も小さかったが腕力やはしっこさという意味ではエリスより年上の男の子たちよりも強く、喧嘩の相手としてはなかなかに歯応えのある相手だった。
学志館でのエリスはソラとユエの奔放さとは全く真逆の、誰もが思い描くような良家の子女としての優等生ぶりを発揮していたから、春風荘でのエリスは化けの皮が剥がれて彼女の本性が出たとも言える。
初等部の施設に併設されている図書館は一般資料館で、子供向けの本というわけではもちろんなかったが、天文地理については数学や共和国史が多く、デカート風土史に絞ったものは意外と少なかった。とはいえ論文要旨集はエリスも図書館の中で発見していて、重たく分厚いそれをエリスは抱えるようにして書架からおろし、しばしば眺めていた。
手書きの読みにくい論文が活字に起こされるだけで子供にも読めるものになるわけではあるが、もちろん読めると云って意味をつかめるかといえばそうではないし、彼女が文中の綴文字をきちんと理解しているということさえ怪しい。
彼女の祖父母或いはその先達などの祖先の残した論文の内容に彼女自身がついてゆけているわけではまったくなく、論文要旨集の執筆者の中に先祖の名前を発見しても、今のところ彼女にとっては、ああ見つけた、という程度の意味合いでしかなかった。
ただともかく最初の一歩そして二歩目がつながったという意味でしかなかったが、エリスにとってはそれは勉学という意味の実用でもあったから、彼女は俄然やる気を出していた。
ソラとユエはユーリの秘書、という形で父親の事業に久しぶりに関わる身分を手に入れていて、妹弟達の面倒をみている暇に捕虜収容所の実績資料のひとつも目を通しておきたい気分であったが、ロゼッタから落第だけはしないようにとも釘をさされていた。
二人はカリキュラム上の早上がりにはあまり意味を見出しているわけではなかったが、成績上再履修の数がパラパラとならぶと、席次はぐんぐんと下がってゆくわけで、それはあまり格好の良いものというわけではない。
ロゼッタも別段一桁席次というわけではなかったが、彼女は高等部在籍中に学士論文を完成させた、というひときわ目立つ実績があった。
論文が認められる、ということはロゼッタは学者として一人前ということであったから、高等課程の席次などというものはどうでもよい立場になったということだった。
ウェイドが珍しくユーリに頼み事をして秘書にしてくれと言い出したのは、論文のテーマに捕虜収容所の実績と研究が将来経済のテーマに都合が良さそうだったからでもある。学生のうちに論文を書き上げるというウェイドの野望は実は既に怪しくなりかけていて、このままだと早上がりがあっさりと完成してしまいそうでもあった。それはそれでひとつだったのだが、ウェイドとしては手頃な研究テーマを探しあぐねていた。
学生というか生徒の立場では指導教官というものは特になく、教授の研究室の扉を直接に叩いて回るしかないわけだが、哲学と工学と科学の合間をふらふらとしている経済という論考はよほどきちんと話題を絞らないと単に、明日も世界は回っているでしょう、という結論に至る。
論文そのものの価値はつまりは単にウェイドが実績として書いた、というだけのことであるわけだが、大店の将来のご主人としてはちょっとした箔でもある。
ローゼンヘン工業がデカートを席巻して以来、人々の学問への意味や価値が道楽や娯楽から実用的な意味になり始めていた。
辞書と算盤が使えない人間は使いものにならない、そういう時代の到来を誰もが肌で感じ始めていた。そのために無産階級であっても多くが手習いに子供を送るようになり始めた。
学問の意味するところが変わったことは、権威としての一家の棟梁が単に腕っ節と人格の他にわかりやすく知恵があることを示す必要が出たということでもある。
これまでは多くの場合、それこそが学志館の席次というものであったわけだが、それだけでは不足になり始めていた。
そういう新時代の当主の模索としてウェイドは、もちろん稼業に論文が何の足しにならないことも承知のうえで、自身の学問的価値の証明として学位を望んでいた。
彼には論文を連続的に発表しているゲリエ卿の努力と立場も直感できていた。
ゲリエ卿は学位を求めてのことではなく、単に理事としての特別講演の権利を行使しているに過ぎなかったが、毎年、数百名の人々に向け論文を説明しつづけている意味は、ゲリエ卿がこれまでのデカートと全く異なる独自の価値観を有していたからに他ならない。
ローゼンヘン工業の撒き散らす様々に一年に半刻ほどの公演でなにができるわけもあるはずはない。だが、それでもなお公開された論文は数年を経て意味を紐解かれていた。
先人が書き記した文字を通して言葉は物は時を超えて意味を持つ。
当たり前にすぎることを、全く単純忠実にゲリエ卿はなしていた。
それは秘儀秘跡や家伝の奥義といったものとは全く違う、世界を直接に変える力になっていた。
ウェイドが必ずしもデカートや世界を変えることを目的として論文を執筆しようと志したわけではない。それは全く単純に、将来の当主としての権威を求めてのことではあったが、それでも権威を求めてのことであれば多少とも欲張りたくもなる。
ウェイドにとっては姉よりは自分こそが事業の理事にふさわしい資質を備えていると思ってもいたが、一方で姉が理事に選ばれたのは、事務局長であるロゼッタとの関係であることも理解していた。
ゲリエ卿は弾除けとしてロゼッタを事務局長に据え、更にその弾除けとしてユーリを理事に招いた。ウェイドの想像は単に意地の悪い想像が単純な妄想と結びついた結果だったが、そういうことだった。
ウェイドがユーリに秘書にしてくれるように頼んだのはそういう経緯があった。
とはいえ、ユーリの答は「バッカじゃないの。ソラとユエの二人で十分です」というひどく冷たいものだった。ユーリはおよそウェイドが論文の研究題材を探していることは知っていたから、そのことはさておき二年でものになるようなテーマになるというものでもない、と彼女は考えていた。
ユーリの中でウェイドの評価は極端に高いものではなかったし、云ってしまえば勉強はできるが頼りない弟、という感覚でしかなかった。向き不向きで云えば荒野の生活の似合わないウェイドは頭の良いバカというところだった。
デカートの富裕層の軽薄さをウェイドの中に見つけてユーリが苛立っていることは、マジンにもわかったが、やりたいというものにやらせないというほどにヒトに余裕が有るわけでもなかったから手伝わせたくもあった。
だが間違いなく常識的な範囲でウェイドが目指していたような早上がりはできなくなる。
たとえ秘書という非公式の立場であっても、或いは非公式な立場であればこそ、学業の日課とは間違いなく衝突をしてしまう。
両立はほぼ間違いなく不可能であると直接相談を持ちかけたウェイドにマジンは告げた。
さらに云えば、学生の研究を実地において検証をおこなえるほどの余裕はエンドア開拓事業団にはなかった。
研究題材としては、アミザムにおける軍の鉄道基地運行管理の破綻についてのほうが宜しいのではないだろうか、とマジンはウェイドに提案もしてみた。
短期的な研究対象としてはある程度に形の出ているもののほうが扱いやすく、結果どころか形も定まっていないエンドア開拓事業団を何かの研究対象にすることは長期的な研究調査を必要として、ウェイドの高等部卒業までの期間では全く評価ができない論文になるだろう。
既に数年理事として過ごし、毎年百を超えるの学志館の論文を査読することを求められる職務上の軽健からも、そういう判断だった。
ソラもユエも必修教科を互いに別の日に固めて学校の年次計画を長期化していた。二人にとっては学校は社会としての接点として一種の錨のようなもので、ローゼンヘン館では友だちもできまい、という父親の気分もそろそろわかってはいたから、学校そのものを疎かにするつもりもなかったし、友だちと楽しく交わってもいたが、別段に学校に何かを求めているわけでもなかった。
ウェイドの気落ちした様子がそれぞれに気にかかってはいたのだが、どういう話の流れ方をしたのかウェイドはスティンク卿の秘書として拾われていた。
だが、アーシュラは相当に不本意だった様子だ。
結局、ルミナス一人が昇級試験に合格して飛び級してエリスに追いついていた。
エリスは飛び級なぞという制度に気がついておらず、弟妹がなにやら試験を受けているのは知っていたが、いきなりルミナスが隣の学級に進級していたことに驚きを隠せないでいた。
アーシュラが十二才で学志館の初等部を修了して、軍学校の士官過程に入学するつもりであるという野望を鼻高々に明かすと、エリスはアーシュラの両頬をしたたか引っ張り、妹の思い上がりがそうそうにくじけたことを嘲笑い、ちゃんと四年生になったからにはまだ一年余裕があると、なおも強気で計画性に自信を示すアーシュラの角の間に正確に手刀を落とし、眉間に鈍く響かせると早々に蹴っ頓いた妹の計画性のなさを論った。
当然兄弟喧嘩が始まり、ルミナスが慌ててロゼッタを呼びに走ることになった。
エリスもアーシュラも諦めの悪い強情な性格をしていて、男の子たちと喧嘩になっても疲れて動けなくなるまでトコトンやる性格をしていた。
それはそれでわかりやすく、また同時にひどく心配な性格でもあるわけだが、春風荘のの中でのことであれば、仲裁の大人がいなければ止まる気がまるでないということでもある。
ロゼッタは面倒臭げに溜息をひとつつくと叱っただけでは喧嘩を止めないエリスとアーシュラにゲンコツをくれて一旦黙らせてからソラとユエを呼びつけ、二人を別々の部屋で調書をとらせた。
アーシュラが勉強しないで昇級試験に挑んだのが事の発端であるというのはそれとして、エリスもルミナスに追いつかれたくらいでアーシュラに八つ当たりするくらいならちゃんと勉強しろ、と調書の結果を眺めてロゼッタ法廷は裁定を下した。
ロゼッタにしてみれば、課題をさっさとこなして日課の時間を増やすことには賛成だったが、学校の早あがりにはあまり意味を感じていないのでバカバカしい限りで、のんびりと学校生活を楽しんでいるいつの間にか後輩ということになったユーリのような存在もいる。
免税や労務の免除という学生の特権を求めた就労移民が高等部の籍を長く使うために卒業を遅らせることを目的として学費を収めながら労働を優先したり、或いは実際に学業の困難から計画的な留年をおこなっていた。
一方で官吏を目指したり、様々な資格への基礎とみなす者達は早上がりをおこなったりということで、高等部に入ると二極化が進んでいて卒業年齢はおよそ十歳あまりもゆうにひらく。
学志館を出てから軍学校を目指すと云うのはあまり多くないキャリアステップでもあったが、そういう例がないわけではない。大抵は中途で休学なり退学なりで軍学校に入るわけだが、学習意欲旺盛で才能に恵まれたルミナスであれば計画的に残りの五年分のカリキュラムを二年に押し込んで一年遅れで軍学校の初等部に送り込むことはできる、と教務指導の教師たちが太鼓判を押していた。
アーシュラはと云えばたしかに彼女も才能確かな優秀な生徒ではあるけれど、もう少しゆっくりと学んだほうが良いだろう、とやんわりと温ましげな説明があった。もちろんゲリエ卿の縁者であれば軍学校の卒業後に高等部の門を叩くことはごく自然なことであるから、初等部の修了は特にこだわらなくても良いのではないか、という教務指導担当の言葉は床がなる勢いでアーシュラのアタマをマジンが押しこむ必要があるものだった。
アーシュラの言い分はマジンにもおよそ想像はつくが、実績として心得準備と能力の不足を示してしまった以上、虚しいものでもある。
そういうわけで新学期早々に姉と父の理不尽な暴力による痛みと恥辱で涙に濡れたアーシュラは、雪辱を果たすべく勉学に勤しむことを誓っていた。
エリスはというと、ふたつ下の弟と並ばれたことはもちろん屈辱だったし、グルコやウェイドから高等部になると史学資料室が公開利用できるという話を聞いたことで、俄然やる気になってきていた。
エリスにとって初等部の授業はなんとなく退屈だった。
それでも彼女にとって学校での日常は悪いものと云うには居心地が良すぎて、それはおよそ父や姉たちや人々の庇護のおかげであることはエリスには理解できたことだから、道理を乱すおこないは慎むようにおとなしくしていた。
ソラとユエやロゼッタとグルコとがローゼンヘン館の子どもたちにふさわしい実績を積み上げてきたことを、エリスは様々に直感していたし、もちろんそれは大事なことだと思っていた。
そういうわけでアーシュラがあちこちに八つ当たりをしているのを見ると却って腹立たしくなって、微妙に貯めこんでいる鬱屈にも一気に火がついてしばしば年下の妹を諌めるついでに喧嘩になるわけだった。アーシュラは年下で体も小さかったが腕力やはしっこさという意味ではエリスより年上の男の子たちよりも強く、喧嘩の相手としてはなかなかに歯応えのある相手だった。
学志館でのエリスはソラとユエの奔放さとは全く真逆の、誰もが思い描くような良家の子女としての優等生ぶりを発揮していたから、春風荘でのエリスは化けの皮が剥がれて彼女の本性が出たとも言える。
初等部の施設に併設されている図書館は一般資料館で、子供向けの本というわけではもちろんなかったが、天文地理については数学や共和国史が多く、デカート風土史に絞ったものは意外と少なかった。とはいえ論文要旨集はエリスも図書館の中で発見していて、重たく分厚いそれをエリスは抱えるようにして書架からおろし、しばしば眺めていた。
手書きの読みにくい論文が活字に起こされるだけで子供にも読めるものになるわけではあるが、もちろん読めると云って意味をつかめるかといえばそうではないし、彼女が文中の綴文字をきちんと理解しているということさえ怪しい。
彼女の祖父母或いはその先達などの祖先の残した論文の内容に彼女自身がついてゆけているわけではまったくなく、論文要旨集の執筆者の中に先祖の名前を発見しても、今のところ彼女にとっては、ああ見つけた、という程度の意味合いでしかなかった。
ただともかく最初の一歩そして二歩目がつながったという意味でしかなかったが、エリスにとってはそれは勉学という意味の実用でもあったから、彼女は俄然やる気を出していた。
ソラとユエはユーリの秘書、という形で父親の事業に久しぶりに関わる身分を手に入れていて、妹弟達の面倒をみている暇に捕虜収容所の実績資料のひとつも目を通しておきたい気分であったが、ロゼッタから落第だけはしないようにとも釘をさされていた。
二人はカリキュラム上の早上がりにはあまり意味を見出しているわけではなかったが、成績上再履修の数がパラパラとならぶと、席次はぐんぐんと下がってゆくわけで、それはあまり格好の良いものというわけではない。
ロゼッタも別段一桁席次というわけではなかったが、彼女は高等部在籍中に学士論文を完成させた、というひときわ目立つ実績があった。
論文が認められる、ということはロゼッタは学者として一人前ということであったから、高等課程の席次などというものはどうでもよい立場になったということだった。
ウェイドが珍しくユーリに頼み事をして秘書にしてくれと言い出したのは、論文のテーマに捕虜収容所の実績と研究が将来経済のテーマに都合が良さそうだったからでもある。学生のうちに論文を書き上げるというウェイドの野望は実は既に怪しくなりかけていて、このままだと早上がりがあっさりと完成してしまいそうでもあった。それはそれでひとつだったのだが、ウェイドとしては手頃な研究テーマを探しあぐねていた。
学生というか生徒の立場では指導教官というものは特になく、教授の研究室の扉を直接に叩いて回るしかないわけだが、哲学と工学と科学の合間をふらふらとしている経済という論考はよほどきちんと話題を絞らないと単に、明日も世界は回っているでしょう、という結論に至る。
論文そのものの価値はつまりは単にウェイドが実績として書いた、というだけのことであるわけだが、大店の将来のご主人としてはちょっとした箔でもある。
ローゼンヘン工業がデカートを席巻して以来、人々の学問への意味や価値が道楽や娯楽から実用的な意味になり始めていた。
辞書と算盤が使えない人間は使いものにならない、そういう時代の到来を誰もが肌で感じ始めていた。そのために無産階級であっても多くが手習いに子供を送るようになり始めた。
学問の意味するところが変わったことは、権威としての一家の棟梁が単に腕っ節と人格の他にわかりやすく知恵があることを示す必要が出たということでもある。
これまでは多くの場合、それこそが学志館の席次というものであったわけだが、それだけでは不足になり始めていた。
そういう新時代の当主の模索としてウェイドは、もちろん稼業に論文が何の足しにならないことも承知のうえで、自身の学問的価値の証明として学位を望んでいた。
彼には論文を連続的に発表しているゲリエ卿の努力と立場も直感できていた。
ゲリエ卿は学位を求めてのことではなく、単に理事としての特別講演の権利を行使しているに過ぎなかったが、毎年、数百名の人々に向け論文を説明しつづけている意味は、ゲリエ卿がこれまでのデカートと全く異なる独自の価値観を有していたからに他ならない。
ローゼンヘン工業の撒き散らす様々に一年に半刻ほどの公演でなにができるわけもあるはずはない。だが、それでもなお公開された論文は数年を経て意味を紐解かれていた。
先人が書き記した文字を通して言葉は物は時を超えて意味を持つ。
当たり前にすぎることを、全く単純忠実にゲリエ卿はなしていた。
それは秘儀秘跡や家伝の奥義といったものとは全く違う、世界を直接に変える力になっていた。
ウェイドが必ずしもデカートや世界を変えることを目的として論文を執筆しようと志したわけではない。それは全く単純に、将来の当主としての権威を求めてのことではあったが、それでも権威を求めてのことであれば多少とも欲張りたくもなる。
ウェイドにとっては姉よりは自分こそが事業の理事にふさわしい資質を備えていると思ってもいたが、一方で姉が理事に選ばれたのは、事務局長であるロゼッタとの関係であることも理解していた。
ゲリエ卿は弾除けとしてロゼッタを事務局長に据え、更にその弾除けとしてユーリを理事に招いた。ウェイドの想像は単に意地の悪い想像が単純な妄想と結びついた結果だったが、そういうことだった。
ウェイドがユーリに秘書にしてくれるように頼んだのはそういう経緯があった。
とはいえ、ユーリの答は「バッカじゃないの。ソラとユエの二人で十分です」というひどく冷たいものだった。ユーリはおよそウェイドが論文の研究題材を探していることは知っていたから、そのことはさておき二年でものになるようなテーマになるというものでもない、と彼女は考えていた。
ユーリの中でウェイドの評価は極端に高いものではなかったし、云ってしまえば勉強はできるが頼りない弟、という感覚でしかなかった。向き不向きで云えば荒野の生活の似合わないウェイドは頭の良いバカというところだった。
デカートの富裕層の軽薄さをウェイドの中に見つけてユーリが苛立っていることは、マジンにもわかったが、やりたいというものにやらせないというほどにヒトに余裕が有るわけでもなかったから手伝わせたくもあった。
だが間違いなく常識的な範囲でウェイドが目指していたような早上がりはできなくなる。
たとえ秘書という非公式の立場であっても、或いは非公式な立場であればこそ、学業の日課とは間違いなく衝突をしてしまう。
両立はほぼ間違いなく不可能であると直接相談を持ちかけたウェイドにマジンは告げた。
さらに云えば、学生の研究を実地において検証をおこなえるほどの余裕はエンドア開拓事業団にはなかった。
研究題材としては、アミザムにおける軍の鉄道基地運行管理の破綻についてのほうが宜しいのではないだろうか、とマジンはウェイドに提案もしてみた。
短期的な研究対象としてはある程度に形の出ているもののほうが扱いやすく、結果どころか形も定まっていないエンドア開拓事業団を何かの研究対象にすることは長期的な研究調査を必要として、ウェイドの高等部卒業までの期間では全く評価ができない論文になるだろう。
既に数年理事として過ごし、毎年百を超えるの学志館の論文を査読することを求められる職務上の軽健からも、そういう判断だった。
ソラもユエも必修教科を互いに別の日に固めて学校の年次計画を長期化していた。二人にとっては学校は社会としての接点として一種の錨のようなもので、ローゼンヘン館では友だちもできまい、という父親の気分もそろそろわかってはいたから、学校そのものを疎かにするつもりもなかったし、友だちと楽しく交わってもいたが、別段に学校に何かを求めているわけでもなかった。
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