石炭と水晶

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百万丁の花嫁

共和国軍東部戦線北部軍団本部 共和国協定千四百四十六年秋分

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 とうとう練成なった軍令本部正規編制のふたつの自動車聯隊が攻勢主軸を外された理由は様々にあげられるのだが、基本的には自動車聯隊の扱いの難しさと便利さが総予備として本部の手元に置かれることになった理由であった。
 威力高く足が早く補給の手間がかかる自動車聯隊を野放図に前線に貼り付けることの意味は多くの司令部幕僚たちは既に二年前に味わっていた。
 格段に戦力としては強力で戦果も確実で兵員の損耗も殆ど無い、と一見前線戦力としては良いことずくめなのだが、味方の兵站をも強烈に圧迫していて、二年前に押し上げた前線を維持できなかった理由は、輜重の往来で馬匹を酷使しすぎていて陣地線を維持する兵隊たちに十分に補給を維持できなかったことによる。
 また、自動車聯隊の圧倒的な戦域機動力が幻想のような戦力増強要素として機能していて、その活躍が限界を迎えたときに共和国軍の戦線はシャボン玉のような儚さで限界を迎えた。
 それが無残な形で破裂しなかったのは、試験中の自動車聯隊が自ら限界を申告して実施された撤収に先立つリザール城塞に対する恐怖爆撃を誘導する釣針作戦で、置き土産として大きな戦果を戦域に作ったことで帝国軍が共和国軍の戦線撤収に疑念を抱いたことと、さしもの帝国軍であっても兵站指導に少なからぬ混乱を引き起こしたからでもあった。
 それでも容赦のない、というべきか、軍隊とは全く異なる理屈で動いている開拓者である帝国民兵は、極めて的確にほつれの出た共和国軍の戦線に全く自分たちの欲求を戦力として叩きつけていた。
 帝国民兵の動きは作戦戦術として見た場合には殆どが稚拙で無謀な作戦行為であったが、威力偵察としての効果は大きく、文字通り彼らの出血で共和国軍の戦線のほつれを見出した帝国軍が的確な攻勢をかけることで、共和国軍の撤収は余裕のある理性的な計画というモノから次第に早足で急ぎ足で投げ出さない駆け出さない程度に慌てたモノに変わっていた。
 戦線の縮小撤収は幾度か口の端に上ったもので、リザール川の全面的な渡河の失敗、というべきか膨大な民兵捕虜と兵站上の限界を悟ったところで前線だけでなく大本営でも計画されていた物事の一局面であったから、二年前の戦線の押し上げと戦線の後退は計画的な範囲、全体の結果としてリザール川を渡河する帝国軍の状況が見える位置まで戦線が前進していればよし、という作戦判断があった。
 結果として、共和国軍は作戦的な当初目的を満たした上で強力な橋頭堡となる拠点を確保し戦争遂行の将来に向けた有望な感触を得た、と主張したし、帝国軍は賊軍の卑劣な奇襲を追い落とし後退させることに成功した、と主張した。
 互いの主張を見比べるべき立場の者はこの世界にはごくわずかと云うことさえ誇張であるほどにしかいなかったからそれは良かった。
 戦場の実際を知らない者達の目から見れば共和国軍の主張のほうがやや正しいのかと感じる面が多いが、会計上から見た共和国軍の戦争行政としての兵站を考えた時には帝国軍の主張のほうがより真剣味の大きな問題を感じさせる。
 兵站という言葉が軍隊を維持する上での行政機能を示すとするなら、東部戦線総軍司令部はこの十年で何度目かの行政破産の危機に瀕していた、といえる。
 それがなんとか乗り切れた理由は、兵隊が優秀だった、とか、指揮が優れていた、とか云うよりは、一言では運が良かった、という他ないような誰もが本当の全体像を見きれないままに様々な自らの活躍を戦場文学で経緯として報告書に謳いあげる状況があった。
 もちろんその中には、幸運を強烈に引き寄せた自動車聯隊の活躍を称える戦場文学も多かったが、押し上げた戦線にそれなりに陣地を築いておきながら、陣地線後方に設けた物資集積基地までも放棄して戦線を縮小した理由を考えれば、自動車聯隊の張り切り過ぎに前線の部隊が踊らされた結果ということもできた。
 その戦力の幻惑は敵味方に圧倒的な印象を植え付けていたが、その戦力を支える兵站上の様々は単純な発注書面上のややこしさという以上の問題を将来にわたって投げかけていた。正規部隊としての自動車聯隊の編制は必然で必要でもあったが、ありとあらゆる意味で問題が野積みになっていた。そして、その問題に火を放つべきと考える者はあらゆる立場――敵のみならず味方にも多かった。
 圧倒的な威力を持つ戦力が更に拡充されふたつになって帰ってきたことは、前線司令部にとって全く心強く喜ばしいことであったが、それらに全力を発揮させるということは補給維持の努力が二倍になるということを意味していた。


 一方で前線後方まで鉄道が伸びたこと、そして鉄道軍団が物資搬送と集積を一手に引き受けていることは、前線司令部の補給上の或いは兵站軍政上の人員を大きく助けることにもなった。それは総予備としての人員に余裕が出るということで、あるいは実際に大本営から不定期に増援の聯隊を受け取りやすくもしていた。
 もちろん、ペイテルまで線路が伸び、更にリザール川の下流を目指すように鉄道線路が伸び始めたことも大きく影響している。
 アタンズに待望の鉄道基地が整備され、当面は単なる物資基地という以上の機能はないものの馬匹を後方から前線に回せ、広域兵站聯隊が長駆大本営までの輜重任務を肩代わりする必要がなくなったことで自動車聯隊ふたつを動かせるだろう。と東部戦線の前線兵站将校たちは考えていた。
 そしてラジコル大佐の実績としてわずか一日で五十リーグを一気に突き進んでみせた事実を考えれば、戦線で待機させずとも帝国軍の動きを待って見極めてから飛び込ませても十分に間に合う、と東部戦線の前線作戦将校たちは考えていた。
 一方で兵站将校の多くは機械化部隊の兵站上の問題を楽観する気にはとてもなれなかった。兵站が生活であるとするなら機械は生活に向かない面を多く抱えていた。少なくとも馬匹や兵隊のように融通を期待することは不可能だった。
 広域兵站聯隊に試験部隊が使っていた土木重機が回され、機械化工兵大隊として組み込まれていたが、そういう圧倒的なと云うべき拡充をも吹き飛ばすほどに補給上の不安もあったから、東部戦線の参謀たちはひどく強力な戦力を不安げに持て余し気味にしていた。
 戦力というものが物量と技術そして速度というものの掛け合わせであるとするなら、自動車聯隊の威力は全く並の聯隊の百倍ほどもあるはずだったが、その戦力を支える物量と速度に共和国軍の前線兵站が無制限に耐えられるというわけではない。
 だが、不慣れな不安や実際にとてつもない事件事故が鉄道や機械によって引き起こされていたが、それでもかつてアミザムで起こったような無残な出来事が再びアタンズで引き起こされてしまったとしても、それでもやはり鉄道も機械も共和国軍には必要な物だった。
 長い戦争で辛うじて釣り合いを見つけてはいるものの疲れきってもいる前線の街を立て直すための軍需の補給が優先で、鉄道の伸びはこれまでほどに急速というわけではなかったが、鉄道基地に併設された燃料基地が完成すると、アタンズを拠点とした広域兵站聯隊は活動の保証を大きく確保できたし、これまでのような先を読んだ上での無理というものをする必要がなくなってきた。
 冬期における行動というものは広域兵站聯隊にとってはおよそ問題のないものだったが、後方本部からの物資供給という意味では全く頼りにならない状況で自ら受領する必要があったから、そういう意味でも随分と鉄道軍団には期待できた。
 せっかく練成が終わり戦力充実した部隊が予備として留置されることに、たっぷり油の浮いたスープがどれくらいの温度かわからないような羹に懲りたような扱いにラジコル大佐は不満もあったが、たったふたつの戦力の突出した部隊を振り回しても帝国軍の深い縦深を持つ戦域を十分に切り崩せないことはわかっていた。
 レンゾ大尉の考えは全く違っていて、速度を活かした奇襲的な挟撃作戦で一気にリザール城塞を落としてしまえば、司令部と物資基地を失った帝国軍の行動は混乱をする。やるなら雪がふる前に一気にやってしまえば、それでケリがつく、というものだった。
 自動車聯隊の速度を考えればふたつの経路で進発して調整は難しいとして、一方の遅れが戦闘に関与できないほどの遅れになるとは考えにくく、一気に城塞を落としてしまえば補給をそのまま城塞で受ける必要はない、というものだった。
 リザはファラリエラの積極的な策の方が効果的だろうと考えていたし、まさにそれこそがリザが十年前に望んだ作戦戦力だったのだが、策は策として聯隊主席幕僚としては受け入れられない案だった。
 自動車聯隊が何故聯隊ふたつであるか、何故これほど強力な戦力を持つ部隊の指揮官が大佐であるのか、という理由はそれぞれに兵站上の制限を設けて聯隊が勝手にそこらじゅうを飛び回ることを防ぐためであった。
 リザは部隊編成に際しては横紙破りを個人的に繰り返し、この先に昇進の目がないまま、下手をすると配置すらないままに年齢を理由に現役待機を申し付けられるかも知れなかった。
 彼女にとっては既に自ずと人生の墓場に入ることが確定していたので、軍での扱いがどうなろうと現役待機をするつもりでいたから個人の一身上に怖いものはなかったが、部隊の扱いにケチがつくようなことだけは避けたかった。
 決定的な場面にもっとも重要な拠点を殲滅することこそが自動車聯隊の期待された役割であるのは間違いなく、東部戦線の総軍としての意志の焦点はリザール城塞の占領もしくは撃滅にあった。
 そしてそれはある地点まで戦線が前進すれば、夏冬に関係なく可能だとラジコル大佐は考えていたし、作戦発起の段階までに補給状態が十分であれば問題ない、と総軍司令部も考えていた。
 一個師団に欠ける戦力でリザール城塞に手をかけるなどということは、これまでであれば鼻にもかけられない作戦だったが、人員規模で戦力を量るということが自動車聯隊に限ってはおこなえず、聯隊としても欠けた人員数ではあったが物資量としては並の師団以上の物量を求める自動車聯隊は、物資の集中が戦力の集中という兵站学的な意味では、つまり師団ほどの戦力として期待されているということでもあり、二年前の実績を鑑みれば全くの絵空事とはいえない期待を東部戦線の総軍司令部では抱いていた。
 しかし、今は軍服どころか革地や布地のたぐいまで完全に空になったアタンズとペイテルの軍需品倉庫を満たすまで補給線に負担をかけるような作戦は東部線戦総軍司令部としては認めるわけにはゆかなかった。
 彼らの時代錯誤と云うべき揃いの甲冑――突撃服なる装束も羨望とヤッカミの混じった嘲り薄笑いの対象でもあったが、ともかくそういう待遇と戦力として総軍予備に指定されてふたつの自動車聯隊は待機をしていた。


 訓練代わりに駐屯地とその周辺の道路の整備を行っている自動車聯隊は鉄道基地までの道路を優先的に整備を進めると、幾つかの主要街道、前線手前の十リーグばかりの道路の整備を更に進めた。
 アタンズの鉄道基地が砕石や海漆喰という工事資材を、集積基地が川風を遮り風向きを変える文字通りの山となるほどに大量に運ぶようになり、あちこち完全に機能を失っていたアタンズの街が機能を回復する一方で、多少計画に余裕を持って運び込まれた資材を使って補給路のいくらかを簡易的に舗装する計画がたち、車両と機材と技量に余裕のある待機中の自動車聯隊にお鉢が回ってきた、というところだった。
 アタンズの補給を支える鉄道基地、といっても列車の向きを入れ替えるような設備がまだ建設終わっていないためにぐるりと一周環状線を折り返す間に荷物を下ろす、という至って単純かつ大掛かりなものだったが、逆さに振ってもホコリも出ないような軍需品倉庫の代わりに人々に物資を運ぶにはある程度大勢との接続が便利な方が良くて、物資の管理ということを優先したアミザムの鉄道基地とは考え方のだいぶ違う、野積みにするからみんなで取りに来てね的な配給所形式の物資基地は鉄道接続からひとつきをようやくすぎたところだったが、いまだに物資は右から左へ消えていた。
 各地の義捐物資も鉄道の往来によって送られているために共和国の配給計画よりも物資は更に潤沢だったが、そういった膨大な物資であっても飲み込むほどにアタンズは乾ききっていた。
 そういう補給状態の変化にあってアタンズ市政では市民に自主的に各世帯での必要物資の内訳を上げてもらうために、「欲しがりましょう。勝つために」等という標語を作って、戦災市民に後方への要望を取りまとめるための意見公募を始めていた。
 中には個人が物資を抱え込んでいる話も聞くが、兵隊の需要分が不足するということがなければ倉庫の管理を行なうよりは面倒が少ない、ということでおよそ放置されていた。
 冬には線路の切替設備が完成して鉄道基地としての体裁が整うはずだったが、軍需民需優先で鉄道基地計画は遅れがちだった。
 物資補給連絡上はかなり良好に好転した共和国軍も、兵隊の人員という意味ではあまり大きな余裕が有るわけではない。
 物流の好転を受けて各地で練兵された聯隊が送られてきてはいるが、総軍司令部の指揮能力の余裕が有るわけでもない。長期間の戦争で中堅下級士官――戦況の視察報告をおこなえる参謀や更には魔導師――連絡参謀の人員が全く不足していた。
 近場は電話機や無線機というものが多少足しにはなるのだが、戦域各地の詳細を求めて往来する戦務参謀が必要だった。が、前線を往来する参謀は馬匹の次に死にやすい者達だったから数に余裕があるということはない。
 連絡参謀はもちろんだったし、前線と後方の伝令をおこなう参謀にとっても敵味方が入り組んだ東部戦線は極めて危険な土地で、軽自動車が与えられていても逃げ散った帝国軍の残党が手頃な意趣返しに単騎と云ってよい少数で移動中の戦務参謀を襲うことはしばしばあった。
 ある程度以上にまとまった情報は視察と伝令が必要で、戦務参謀はつまりは無任所の信頼のおける士官という便利屋であったから、前線の動きに合わせて従兵とともに往来をすることになる。戦争が佳境になって久しいことで、中尉参謀であっても本当に単身ということは殆どなくなったが、前線に人員に余裕があるわけもなく名目小隊といっても十数名ということはないから、帝国軍と遭遇すれば生きて友軍に会える可能性はほぼない。
 戦務参謀の増員は様々な理由で滞っていたが、鉄道軍団の新設やリザが有望な階段参謀をまとめて引っこ抜いたことで、いよいよ抜き差しならない状況に陥っていた。
 送られてきた兵員も既に十年も陣地線後方に張り付いて匪賊退治に精を出している警察軍の義勇兵たちからすると、正規軍という言葉の意味を疑うような聯隊も多い。
 そのやりくりされた人員軍需を使って四度にわたって失った土地をいま再び取り戻すべくリザール川を目指して共和国軍は戦線を押し上げていた。
 だが、これまでのように包丁を滑り込ませて肉を切り分けるような方法では帝国軍を打ち崩せなくなっていた。帝国軍は既に戦域の縦深陣地化全周陣地化を進めていて秋のうちに包囲、後方を遮断することの意味は殆どなくなった。
 共和国軍はその頑健な帝国軍の抵抗をおよそ三十リーグにわたって粉砕してリザール城塞への攻勢発起点である三号橋頭堡と二十四号橋頭堡とを目指していた。それぞれの橋頭堡は半ば帝国軍に飲み込まれるようになっていたが、陣地地形としての整備と再奪還の難しさから東部戦線総軍が優先的に連絡を維持していたために辛うじて持ちこたえていた。
 縦深のある抵抗のある中、三十リーグを突破して満足な補給をあたえることは広域兵站聯隊にとってももはや容易なことではない。戦争が始まっておよそ十年という歳月は戦争の形そのものを変えていた。


 秋攻勢の主眼は三号橋頭堡と二十四号橋頭堡との完全な接続をおこない、リザール川を渡河する帝国軍連絡線を完全に遮断することにあった。
 帝国軍は占領地域の拠点化を優先して必ずしも突進速度が大きいというわけではなかったが、共和国軍が兵の消耗を恐れて土地を譲るのに蚕食を止める道理もなく、この一年半で三四十リーグも戦線は押し返されていた。
 そして防備を固めた帝国軍民兵はこれまでのように散り散りに逃げることは殆ど無く、砦或いは半ば要塞のような集落を死守し玉砕することが多くなっていた。その闘いは極めて激しく時に夕餉の湯や油をも武器にして、文字通り死力を尽くして頑強に抵抗を続けていた。
 時に同等戦力の共和国部隊を道連れにするような激戦は、これまでの帝国軍民兵の士気や訓練を考えればありえないようなものだったが、集落の軍事拠点としての固め方やほぼ統一された新型の小銃や軽量簡便な騎兵砲など、これまでの民兵とは一味違う様子もあり、考え方を変える必要も出てきていた。
 帝国軍の新型小銃は従来の小銃弾よりも小口径で十二シリカしかなかったが共和国軍の使っている九シリカ銃弾のように細長く軽い銃弾を打ち出すことで火薬を減らし反動が小さく、銃身の肉を削り手元に重心があったために連発はできなかったが狙いやすい優れた銃だった。
 そういう手軽な取り回しの良い銃を手に集落を陣地に篭もり、退く処無しと腹を据えた者たちを相手にすることはたとえ女子供であっても多少の装備戦術優位を持っていたとして、容易な敵とはいえなかった。
 特にこれまでも幾らかあった仕掛け爆弾の類や油を詰めた発火装置などという単純ながら兵をひるませる威力に欠かない準備が徹底し、少数ながら巡回しているこれは明らかに帝国正規軍の騎兵や戦車兵という戦力が組み合わさると帝国軍の本気も伝わってくる。
 リザは互いが様々に手の内を見せびらかした結果だと冷淡に考えていたが、帝国軍はさておき地力に劣る共和国軍はその場で思いついてその場でやらなければ、今こうしていられなかったという事情もあった。
 しかし一般的な戦況としては再び共和国軍が全体に圧し気味に戦線を押し上げていた。
 帝国が国力に物を言わせて人を押し込み物量を準備できることで創りだした重厚な縦深陣地も、個々の民兵の逃げ場を封じ戦意をまとめる全周陣地も、物量を揃え始め兵站としての大きな劣勢を挽回しつつある共和国軍の前には戦術的な相性の悪さをさらけ出すだけだった。


 そのはずだった。
 奇妙な損害、奇妙な兵の損耗に気がついた上で公式に報告として具申したのはワージン将軍の幕下で本部予備の管理をおこなっていたマイヤール大尉だった。
 本部の予備隊で受け取った補充の新兵の選別と教育をおこなっていた彼は兵士の気質について知るところの多い本部要員であったから、どう考えても敵の玉砕に巻き込まれるようなことのあるはずのない、慎重な悪く云えば臆病な兵隊がここしばらくあまりに多く死んでいることに首を傾げていた。
 味方が全滅すれば生きていられるはずもないような勇者と云うには物足りない兵隊たちではあるが、その兵隊の死因について首をひねり本部で予備隊総監に訴えもしたが、戦地に出れば気分も変わる、本番では本気になるタイプだったのだろうと、調査希望は退けられていた。
 マイヤール大尉にとっては首をひねる奇妙さは感じていても、塹壕の気分で元気になるそういう兵隊は割合と多い。訓練では臆病すぎるような兵でもその実やること自体は身についていて、訓練に反抗的な兵隊が優秀な兵隊であることは多い。
 慎重臆病というよりも納得しないと行動しない種類の人間は、その場の扱いが面倒であっても状況に追い込まれれば全く優秀であることも多いから、部隊の危機に際して慎重を捨て挺身を尽くした、というのは考えられる。
 報告を具申した上で一考して却下されるのであれば、それは組織として当然に仕方ないことだった。
 しかしどうやらそれが巧妙な戦術的な罠であると見られたのは、本部で腕が良い尖兵中隊と見られていた中隊が文字通り全滅したからだった。
 彼らの任務は地域の調査と連絡の遮断とで、正面攻勢は別の歩兵中隊がおこなうはずだった。
 装備を軽く整え糧食や水といったものを個々の兵隊に分配して行李を同伴させない尖兵中隊は、斥候としての任務以上のことを求めるわけにはゆかなかったが、本部は軽自動車を連絡用に備えていて士官伝令を常用するような贅沢な、つまり気合信頼された部隊でもあった。
 尖兵中隊が帝国の往来していた輜重を急襲したというところまでは本部でも歩兵中隊でも把握していた。その後、連絡が途絶えた。


 ワージン将軍の元をジェーヴィー教授が二度目の視察に訪れたのは低密度の電探網を連携的に機能させる方策についてジェーヴィー教授が考案し、新しい電算機装置群と電源装置が鉄道で運ばれてきたからだった。
 それは複数の仮説理論からある見積もりを絞り込むという工学や商業の実務ではよくある手法をつかって複数の電算機の結果を連節的に上位の電算機に流し込むという方法で、考え方の上では特段に画期的というわけではなかったが、科学や工学というものの確からしさの怪しい世界においては、暴力的ですらある天才の所業の結晶だった。
 鉄道貨物として発電機を持ち込めるようになったことで、電算機を使い連続的に長時間の計算をおこなうことで、予備的な計算を事前におこない変化を素早く読み取るという事ができるようになっていた。
 電算機というもの自体は共和国軍でも次第に様々に使えることは認知されてきたものの、せいぜいが巨大なそろばんという認識に研究者一般にはとどまっていて、実際になにができるというところまで具体的に説明はできず、せいぜい文字にできることはなんでもできるという嘘ではないが真実でもない言葉でお茶を濁していた。
 ジェーヴィー教授は複数の電探の探知波形を重ねあわせることで時間的な特徴とその不連続点特異点を抽出することで電探の性能外の空間的な印象を可視化注目点化する技術を完成させた。
 オーブンを温めておけば料理が早いというようなものか、というワージン将軍の理解はジェーヴィー教授の癇に障ったらしく、画期的な点はそこではないそうではないことを延々と喋りまくった挙句に、しかし従来との多くの差異を無視して敢えて卑近な類似を求めればそうなる、というようにジェーヴィー教授は専門ではないワージン将軍の理解の努力を認めた。
 ジェーヴィー教授の態度は驚くような無礼さと紙一重のものだったが、ワージン将軍にとっては久しくないことだったが将軍が若かりし頃の軍隊の風景というものはこういうもので、実はこういう放埒な人物からこそ学ぶべきことが多いことは意識していた。
 ワージン将軍の理解は新しい電算機と電探の連携においては全く末節にすぎないわけだが、軍人としては鉄道線が伸び補給が完全であることを信用できる状態になったこと、という点がとてつもなく重要な意味を持っていることはジェーヴィー教授にも理解できていて、ジェーヴィー教授がわざわざギゼンヌを訪ねたのもそういう現場の空気感を求めてのことでもあった。
 わがままな考え無しな人物であると評されることの多いジェーヴィー教授は、周囲からそう指摘されるところが多いことは本人も知っていたが、当然に当人にとっての言い分もあり、全く実を結んでいるわけでもないながら当人も様々に誤解を解く努力をしていた。
 少なくとも、ジェーヴィー教授は彼の中にある様々を実現するにあたって周囲の理解の努力を拒んだことはなく、時間の許す限り正確に精密に説明をおこなった。
 理解の共有の努力という意味では全くマジンよりも誠実なジェーヴィー教授は、実のところモノやカネが絡まなければ、まさに天才的な学者研究者で、教育者としても有能であった。
 そして飛び抜けた鬼才はゲリエ卿の破壊的な指導力生産力がなければ、ついぞ野に埋もれ偏屈な指導教官として顧みられることもなかっただろう。
 もちろん、マジンはジェーヴィー教授の天才に感銘するところは多い。
 だが、教授のおこなう後先考えない行為には憤りを禁じ得ないことも多い。
 ジェーヴィー教授が持ち出した電源安定器を含む新型の発電機や電算機は試験の終わっていない量産先行機で色々な試験用或いは調整用の線が残っている品で、量産品では塞がれている穴や口がまだ残っている、製品化への様々なノウハウが覗けるようなシロモノだった。なにが問題かといえば、その穴や口を製品に開ければ量産品であっても改造か可能になる。回路を解析すれば当然に設計上の弱点は明らかになるわけだが、現物があれば解析すら不要になる。更には回路の高度化にともなって設計手法はある程度共有することになるから、解析もなしに次世代機や前世代機の弱点や改造方法に行きつきやすくなる。
 ものづくりにはあまり興味も関心も或いは才能もないジェーヴィー教授の行動は、軍への不信というよりも蓋然性と実績から警戒しているマジンとローゼンヘン工業を怒らせるに十分な内容だった。
 その怒りがまだ届いていないのは、第四堰堤の浄水装置のそしてその浄水の放水の状況を確認するためにゲリエ卿が現地の点検と状況の確認に忙しくしているからだし、ローゼンヘン工業は量産以前の製品について直接関与する立場にはなかったからだった。
 以前、ジェーヴィー教授が逓信院の研究者に不用意に教えた、保守用の命令やそのための信号線が納品された電算機にない、などという問い合わせなどから納品されたモノが違うのではないか、などの疑惑を逓信院で招いてその誤解の解消に様々なやり取りが繰り広げられた。


 ジェーヴィー教授は全く懲りていなかった。
 彼の中では彼の技術を世界に発することはともかく優先される事業であったから、堰堤の浄水機の発電機の予備を試験で使う、と言い捨てて実験で使っている新型電算機を同じ貨車に積み込んで、ギゼンヌに向かうことはジェーヴィー教授にとってはそれほど筋違いのことではなかった。
 生産技術の上で工数が圧縮されたことで、資源的生産時間的経費の上で新型電算機は旧来のそれよりも比較にならないほどに安くなっていた。
 かつて貨物車いっぱいに必要だった様々は旅行かばん四つほどの大きさに収まり、大きさがかさばるのは小さくすると使いにくくなる表示板と操作卓と結線用の変換部のせいですらあった。
 発電機の方は鉄道用の貨車に乗っていたが、自動車百両ほどの機関出力を電力として取り出すための専用機械でギゼンヌで使っている電力とおよそ同程度の出力を安定して発揮する専用機械だった。戦車の動力と同じような一体型の部品構成で発電部と変電部と燃料系をそれぞれにまとめた構成で油槽車の手配が付くなら、移動発電所として小さくない街に電気を供給できるようなそういう機械だった。
 他に樽ほどの変電安定器を十基操作室に積んでいた。
 複数の電探を一元的に接続する空中監視網を実際に構築するためにジェーヴィー教授はギゼンヌに乗り込んできていた。
 各発信基地の信号を回収するためには空中信号よりは雑音の少ない状態の、できれば発信直前の信号が必要で、それが大気に干渉を受けたり或いは物体に反射や回折を受けたりという減衰や位相偏位を受ける状態を追跡して各地の受信器の信号と合わせることで、小さな電波出力と不安定な感度の電探信号を補正して、小規模な投資のままに性能を引き上げるという、構想の実地試験のためにであったが、そうするためにはともかく安定した高品質の電源と高性能高解像度の信号解析機が必要だった。
 その規模は前回の物見遊山とは全く異なっていた。幾人か逓信院からの研究者も同行していたそれは、友人であるゲリエ卿の私物を面白半分に持ち出したというものとは全く異なる規模だったが、もちろんジェーヴィー教授の中では大差ない。
 気の置けない友人の手助けにちょっとしたおせっかいを焼いているだけだった。
 そしてもちろん、彼の思いついたちょっとした理屈を友人の機械で実際に確かめてみるということが、はるばる砲声と戦火の香り残る土地に訪れた理由だった。
 電波探照儀自体の試験はすでに終わっていたが、その後の信号統合に向けた調整はある程度直接行う必要もあったし、その失敗や事件を含めた些末な経緯や成果こそが重要な意味を持っていた。
 帝国軍の空騎兵による後方の擾乱は無視はしにくいものだったが、一方で被害という意味ではあまり大きくはなく、つまりは蠅や蚊のうっとおしさに似たもので、河川や鉄道が地形の上で目印になっているアタンズに比べると途中の目印が少ないギゼンヌは空襲の実害はふとすると思いつかない気が付かないほどに少なかった。
 しかし、リザール川を目指す戦線はその水源として川のそばに集積基地を設けることもあり、油断をすると幾らか焼かれることもあった。前線での馬匹の不足はおよそ空騎兵に逃げ散らかされることでしばしば起きる。馬郎の油断とばかりはいえない突然の通り魔のような出来事だが、それはいつぞやのように集落が吹き飛ぶほどのものではなくとも、その対応に数日が取られ、その遅れが様々に引き起こすこともあって、バカにできるものでもなかった。
 ギゼンヌ周辺三十リーグに展開している電探車は四両いて電信線を繋いで防空基地の基点になっていたが、電源に自動車の発電機を流用しているところから実のところ頼りない面も操作員たちは気がついてもいた。
 また、表示用の電算機もあったが、十分に性能が引き出せていないのではないかとも疑っていた。
 ジェーヴィー教授の持ち込んだ機材はおよそ現場の操作員の疑問や不満を一掃するようなものだった。
 操作員が見ている生の信号波形には他所の電探からの信号とそれが生み出す影も含まれていた。その原型と時間がわかれば到達までの減衰とその偏位でどこで回折や反射が起こったかがわかるし、いつどこで吸収されたかも推測ができる。また、こちらの信号を別の基地で受信した波形からもやはり同様に空中目標と環境の詳細がわかる。各基地の電算機には実のところそれほどの性能の余裕があるわけではないが、表示だけなら十分だし中間処理を終えた情報を扱うには全く不足がない。持ち込んだ新型の電算機は複数の電探の情報を中間処理するくらいは全く不足がないし、それらを表示することもできる。
「つまり飛んでいるものが、鳩なのか雲なのか鉄の塊なのか、それがどこをどんな高さにいるのか、どう動いているのか、大きいのか小さいのか、を影の濃さ大きさにごまかされることなく詳らかにしてみせることがこの機械の機能です」
 ジェーヴィー教授の説明の結論はひどく単純明快であったが、そこに至るまでの紆余曲折は直接作戦を指導していないとはいえ戦地にあるワージン将軍が途中幾度か中座をする必要のある長さでもあった。
 ジェーヴィー教授が一廉のと容易く云うにはやはり抜きん出た人物であることは間違いもなく、その成果や態度は奇矯ではあっても軽薄ではなく、真摯に過ぎての奇人であることはワージン将軍は納得していて、幕僚にも特技兵たちと説明に同席させていた。
 実際の作業としては電源と信号線を現在ある電探車に接続して、新しい演算行程を電算機に読み込ませることをおこない、まる二日電探を動かし続ける。それで天空にある細かな星屑や雨や雲の影響を無視して域内の複数の電探車同士が連携するようになる。そしてその様子が本部に相当するこの電算機に表示される、という説明だった。
 作業としては各地の電探車がおよそ六十リーグに散っているところが問題だったが、電線の工事に丸三日かかるとはいえ本部で統一して状況を把握できるということであれば、そのくらいの労苦は幕僚であればやらせるのが道理でもあった。
 実際にどうなるかというところは、やってみるまでわからないということが正直なところでもあるが、少なくともローゼンヘン工業の製品もジェーヴィー教授自身もややこしいところはあっても、心底使えないということはなかったから、ジェーヴィー教授の講演を聞いた幕僚たちの意見は反対はなくワージン将軍の判断に任せるということになった。
「それでおいくらか」
 ワージン将軍としてはモノとしては信用していたが、信用ならない部分について改めて確認した。
「私は愛国者であって研究者ではありますが、商売人ではありませんので、値段についてはゲリエ卿にお任せしております」
 と、実にあっさりとジェーヴィー教授は子供のようにケツをまくったのをワージン将軍は内心に様々を収めてうなずいてみせた。


 両者への義理立てもさておき、使えるものであれば使いたかったし、少なくとも使えるかどうかを確認できるということであれば、手元に置くことを望むかどうかは別にして確認することは先だった。
 特に電探の電源の問題は前々から面倒でもあったので、解決が転がり込んだということであれば、試さない手はない。
 手早い参謀に作業計画をまとめさせその日のうちに計画を承認すると、翌日には電線の敷設作業を開始させた。
 一応その日の内にローゼンヘン工業の社主秘書室には連絡をさせたが、社主は外出中折り返しご返答差し上げる、という一種定型的な応対であった。
 ある程度予想通りの応対とも云えるものであった。
 当時、マジンはカシウス湖の脇の浄水施設の低率運転の立会の真っ最中であったから、居留守ということはなかったが、それで様々が遅れた結果がジェーヴィー教授の死につながったとも言える。
 ともかく一応義理は果たしたワージン将軍とその幕僚たちは手元に転がり込んできたかなり有望な新機材を実地に試す機会を手に入れた。
 当然にこの場で機材の本来の持ち主であるゲリエ卿本人の口から苦情が出れば、ワージン将軍は喜んで返却申し上げる心づもりだったし、その後のいつなりとてたとえ試験が始まっていたとして回収してお返しするつもりでもあったが、もちろん現場での展開工事が三日もかかるような機材であれば片付けも相応にかかるはずだった。
 将軍がそういう心づもりであれば、ゲリエ卿の剛毅に感謝してジェーヴィー教授の持ち込んだ資材をためすことになった。
 マジンはワージン将軍から連絡があったことをカシウス湖畔地下の施設内で聞いたが、ワージン将軍に預けっぱなしにしていた高初速砲の返却についての様々だろうとたかを括っていた。鉄道がつながれば自ずと大型機材搬送もおこなえるようになる。役に立たない邪魔くさい機材を引き上げる算段を求めてのことだろうと考えていた。
 だがあいにくワージン将軍の方はまだあの大砲を返す気はなかった。
 性能がどうあれあちこち焼き付いてはいたが、長大で目立つ大砲は帝国軍の指揮を惑乱するのに効果があったし、打てなくなって焼き付いた大砲はさておきその砲座基部や照準装置或いは整備用の工具など使える部品は山ほどあったし、自動車の整備を見様見真似でおこなうくらいには共和国の前線の職工工兵たちもローゼンヘン工業の細工物に慣れてきていた。大きく固く重たいローゼンヘン工業の製品は同じような癖のようなものがあって、スジとやり方が分かれば腕の良い職人ならなんとか使えるものをでっち上げることはわけもなかったし、大物であれば扱いの上では乱暴の余地もあって却って楽なくらいだった。
 もちろんそういう間に合わせの乱暴に使った様々が間に合う通りに動くかというのは別の話だったが、道具も手数も未だ足りないこれからが戦争の本番だという時期にまだ使える道具をお行儀よく手放す兵隊はいるはずもなかった。
 しかし、わざわざけんかを売って不興を買う気もなかったから、先に手を打って実績として状況証拠としてワージン将軍は社主秘書室に連絡をさせた。というだけだ。
 有能かつ暴走しがちな独善的な他人の部下というものの危険も利益もワージン将軍は十分に理解していたから、危険に巻き込まれない最初の手を打ち、次の手を打つ前に内容の確認を行うべく、予備の工兵隊をほぼ全力で走らせた。
 教授の目論見と機械の機能とが離れていれば、お引き取りいただく口実としては上等だし、十分に効果があるなら十日でも二十日でも教授の滞在中拝借して或いはいつぞやのように教授個人にお借りすれば宜しい。ゲリエ卿が返却を迫るとして、申し訳ない、既に戦地である、と頭を下げた上でなおということであれば、それは全く返却の努力は吝かではないが戦地故手元不如意、というだけだ。
 ジェーヴィー教授はワージン将軍の全く軍隊らしい迅速な行動に深く感銘を受けていたが、ワージン将軍としてはゲリエ卿の出方によっては、例えば機材の引き上げを明確に求めるようであったり、或いは来訪してジェーヴィー教授を譴責するような態度に出るようであれば直ちに実験は取りやめにする予定でもあった。
 この程度は政治的駆け引きとも言えない。来客の応対というものは責任ある社会人の基本だった。およそ商いの道というものは人の生業の大きなところで、軍人としても無視するわけにゆくものでもなかった。
 そういう商いの計算から全く離れた人物をどう使うかが、組織としての責任を預かる将軍の責務であり度量であったから、ジェーヴィー教授という人物は久しぶりに迷い込んできた近所の猫のような存在だった。可愛いと云うにはいささかトウが立っていて実益にうるさいが、将軍の立場から見れば兵隊などというのは犬ころと大した差があるわけでもない。扱いとして大差はなかった。


 工兵たちは一価通信用の電線を太くしたような電線に多少戸惑っていた様子であったが、扱いそのものは簡単でデカく重たいが扱いやすいローゼンヘン工業の製品ということで、仕方ないと諦めていたし、中身が一価通信の線を百も走らせるようなもので理論上五十リーグも信号を繋ぐということであれば多少のゴツさ重さは逆に細さ軽さに驚いてもいた。
 一価通信機はここしばらく共和国軍前線で普及した陣地用の通信機で、つまり燭光通信や狼煙や半鐘や笛のような点滅の長短を記号にする電気通信装置であった。
 一価通信機は様々にローゼンヘン工業の部品を使ってはいるが、全体としては実は逓信院と参謀本部の依頼を受けた職人が交流を使う二価通信機を更に簡素化した機械で様々に一般的な共和国の技術に沿わせた形になっていた。
 交流を使い電話と完全に共用できる二価通信に比べれば通信速度は三分の一で通信距離もおよそ十分の一だったが、その分装置上の様々が必要なく通信の記録が残せた。コイルとゼンマイだけでモーターすらいらないという点が素晴らしかった。要するに、打鍵をスイッチにしてその間だけリボンが動き、その上に符号が描かれるという恐ろしく単純な機械だった。
 だがそんなものであっても、十分に意味があるほどに共和国軍は塹壕陣地に頼りきっていたし、その徹底こそが共和国軍の帝国軍への有利な点でもあった。
 電池を電源とした直流回路で形成される一価通信はせいぜいが数十チャージ、自動車を電源にして管理と運が良くて一二リーグが精一杯という貧弱な装置で、広大な戦域をつなぐというよりは拠点内或いは隣の拠点との常用される予備連絡というところがおよその用途であったが、雷鳴の速さで命令が伝わり、また応答もできるということで、孤立しがちな塹壕陣地で連絡参謀に頼らずとも火点や監視哨と調整がしやすくなった。
 音声での連絡よりも符号から文字による連絡のほうが周知はしやすく、部隊命令としては使いやすいことも多い。とくに半鐘や燭光と違って回路の完全性からともかく送った内容について送った手元で確認ができることが幕僚たちには受けていた。判断が間に合う間に合わないはともかく、言った言わないで背中弾になる事態は司令部幕僚の死因としては実はかなり多い。
 無線の傍受という問題よりも誤解が少ないという意味で文字記録が残るほうが都合が良いことから、軍用信号として一価電気通信、或いはリボンレター、又は線信は陣地内では無線よりも優先して使われるようになってきていた。
 電線敷設の苦労や文章送信の時間など無線電話の簡便性や優位性も多かったが、本部の電源があれば時計を直せる程度に機械に通じていれば取りあえず直せる機械的な単純さが現場に受けた。
 無線電話もいちいち声を上げるのは面倒と呼び出しベルを使った一価通信を符牒に使うこともある。
 フエやラッパは声よりは遥かに命令をはっきりと伝える有意義な道具だったが、塹壕陣地においてはせいぜいが数チャージ、一息に走っていけるような距離までの道具で、戦闘が始まればそれも怪しかった。
 伝令が走って伝えるのが一番効果的とはいえ、伝令が撃たれて伝わらないことも考えれば、他の手を準備しておくことは重要で、二価通信や電話は大きな期待もあったし実際使われてもいるが、前線を十分にくまなく覆うためにはより単純なより安いより扱いやすく兵隊にも簡単に修理ができる物が必要だった。
 そして一価通信線を一組走らせるとそれを使って音声電話も使えるようになる。混用は難しいわけだが、ともかく技術としての電信電話は共和国軍において貨物自動車の軍用が始まった瞬間から当たり前に装備されていた技術で、古い技術というわけでは全くないわけだが、既に機関小銃と同じくらいには陳腐な技術になり始めていて、その陳腐化は自動車や鉄道よりも一足先に様々に進んでいた。


 既に電線の敷設という作業になれた現地の兵隊と本部からの工兵で滞り無く新しい電線が敷かれ、三日目のうちに機械の新たな接続の指導と確認がおこなわれ、前線後方に進出している電探車でワージン将軍に同行したジェーヴィー教授の実地による操作説明がおこなわれていた。
 自動車の優先的な利用が許されたとはいえ、三日で三十リーグ全域でおよそ百六十リーグという工兵の作業速度は全く驚くほかない速さだったし、ジェーヴィー教授がそれだけの準備を持ちだしていたということも全く驚くべきことだった。
 ギゼンヌ周辺の四五十リーグは広域兵站聯隊の往来によって比較的詳細な地図と整備された街道が整っていたが、電波探信儀は必ずしも往来を優先した土地に配置されていたわけではなく、一口三十リーグといって途中の数リーグは好地を確保するための多少の無理をしていて、そのためにかつて交通事故によって電算機車が喪失されるという事件も起きた。
 ギゼンヌの前方およそ三十リーグに八十リーグの幅で散っている四両の電探車はこれまでそれぞれおよそ直径二十五リーグほどの担当区画を持っていたが、それは辛うじてリザール川を収めるような位置に進出したという意味合いで前線の動きでウロウロと車両を動かすと観測がしにくいということで、帝国軍を避けて以前に比べ随分と控えめな位置にいた。
 交通事故というものがどうしても避けられないということを配慮した上で戦線の動きに応じて動くことを諦めた措置である。
 技術的情熱のままに機材を持ち込んだジェーヴィー教授も三日間の後方司令部の滞在のうちに二百五十の隊伍が七百ほどの区間の電線を昼夜なく突貫でつなげてゆくのを工兵本部の作業報告で聞いていた。
 全くそれは司令部予備隊にとっては降って湧いたような実戦であって、ジェーヴィー教授の行動の意味合いを将軍が正確に理解した上で幕僚たちに最優先で達成すべき戦術事案として命令したことで、およそ二千名の電線を或いは自動車を扱える技術兵が専従する一大作戦の様相を呈してしていた。
 二千名の技術兵という人員規模は本部の技術兵のほぼ全て、長期待機任務或いは前方後方の連絡線維持の定期任務にあたっていた人員以外の北部軍団隷下のほとんど全ての技術兵が一元的に任務に赴いたということである。
 作業の計画と資材の展開でほぼ一日が費やされ実質的な作業は丸二日あまりの余地しかないままに文字通り昼夜なく作業は繰り広げられていった。
 幾つかの区間はきちんとした測量も地図もないままに目見当で土地勘のある兵隊たちが資材を背に一気に踏みわたってみせた。
 小綺麗な身なりを整えることが仕事であるような参謀たちの幾人かも配置がおこなわれていると幕舎でゆっくり寝ているわけにゆかず、担当部隊の進捗動向と現場の状況を気にして動き回っていた。
 とくに作業展開中の部隊との連絡をおこなっている六名の連絡参謀は、ゆったりとしていながらも状況を作業状況をつぶさに見守っているために、担当部隊が行動中は幕舎からほぼ完璧に禁足状態で食事や下の世話まで従兵任せという有様だった。
 そしてときにうわごとのような彼らの言葉を従兵が見守り、近年完全配備されたテレタイプと電話機の先で聞き漏らさないようにしている本部参謀が現場の状況を拾い取る、という作業をおこなっていた。
 敢えて完全な没入接続をおこなわないままに複数の現場状況を拾い上げるという、近年の魔導技術の発達によって人員の相互的な危険は減り、情報の統合はより精度を増したものの本部要員の緊張による疲労は集中することになり重要度も増していた。
 もちろんかつてのように本部要員が倒れることで前線との連絡が途絶するということは、連携した本部要員による相互の監視があることで起こらなくなっていたが、一人で監視できる部隊の数は十数箇というところで、今回のように五十の作業本部があるような建てられるような作戦だと数名が同時に相互的な補完をおこなう連座を作っていた。
 これはこの十年ほど研究が続いていた成果で少数名の本部魔導師で膨大な配下魔導師を支援するための技術であったのだが、その決定的な成果への示唆を与えたのは複数の局交換器を経由する長距離電話交換機の相互的な乗り入れ回線と回線通話情報記録の受け渡しというものだった。
 更に後方逓信院においても上級魔導師による支援が行われることになっていたが、現在のところは将来の構想にすぎない。
 階層的な接続でそれぞれに求めるべき状況と情報と資源と技術とをやり取りさせる連絡をおこなうことを構想した魔導網は、かつて現場の魔導士の実力のみが頼りだった、そしておよそ現在においても変わらない魔導の技術を総力として扱うべく研究が勧められていた。
 最終的にはかつて魔導に求められていた、そして一時たしかに示した天変地異を求めるにも等しい行為をより組織だった形でおこないたい、という欲求がその研究を支えていたが、ともかく今はより分かりやすく使われている最も陳腐な形であるはずの感情意志伝達魔導をより安全により確実に使うことを目的としていた。
 魔導連絡のもつ一種の記号的な個別認識と、帳簿上の連結切断行為というべき接続管理状態の受け渡しをおこなうことで一対一の直接的な接続を超えた一対群或いは群対群の接続を可能にする魔導技術を逓信院は完成させていた。
 これによって前線に展開する魔導師は必ずしも体力と魔導を共に備えている必要は少なくなっていて、明瞭な魔導の波動があれば必ずしも技術的な魔導の資質を必要としなくなり、或いは魔導への完全な没入を必要としないままに連絡を後方で拾い上げることが可能になっていた。
 もともと魔導師に前線からの明瞭な報告は求められておらず、後方からの命令下達と現場の心象印象の確認がおこなえればそれでよかったことと状況の監視までが任務のウチであったから、実態としてどうしても発生してしまう中隊規模での喪失で本部の要員が巻き添えのように戦死する事態を避けられることは、有為な人員の被害極限の上でも重要な意味を持っていた。
 そこからの情報の意味を組み上げるためには、戦務に長けた参謀の翻訳が必要で複数の参謀の見解を一同に集わせるために相応に大きな地図と幾つかの基準になる数表と時間の整理が必要で、鉄道運行のようなこちらの希望する予定と、実際の状況による割り込みとを、本部の黒板と時計と地図とが担っていた。
 ワージン将軍が将軍となってからの十数年は魔導において長足というべき発展があり、戦場の様子は全く一転するような出来事があったわけだが、それをも上回る衝撃がローゼンヘン工業によってもたらされ、さらにジェーヴィー教授が今直接将軍の目の前に新たな戦場の未来を示そうとするということであれば、本部予備隊を戦場と直接関わりないことで苦労させることもやむを得ない投資、統帥権の範囲であるとワージン将軍は納得していたし、事ここに至ってはたとえゲリエ卿からの折り返しの連絡があったとして戦地に視察に赴いているという理由で断ることにしていた。
 実際にジェーヴィー教授の大規模実験がおこなう内容は、まさにこの場を戦地の視察の場にすることであったから、詭弁というのは事実だったが嘘というほどのこともなかった。
 そして、幸いな事に本部予備隊の戦闘を目的としない最重要作戦中、ゲリエ卿からの連絡はなかった。


 ワージン将軍の見つめる中で電探は新しい表示形式を試し始めた。ワージン将軍の見ているうちにその表示は次第に山の地図のような或いは池の波紋か海の島のようなそういう図形を砂を掃くように描き始めた。砂絵が風で流れるように絵は全く落ち着かなかったが、次第に絵の中で箒のように動いている砂を掃いている部分が次第に安定するようになってきた。
 それを見てジェーヴィー教授は深くうなずいて自信を示した。
 画面を切り替えてゆくとそこらじゅうが赤い砂絵の視点が動き、電探がおおまかに各拠点周辺の地形を捉えているのが、ワージン将軍にもわかるようになってきた。動かないものが緑で動いているものが赤く表示されているらしい。今のところ電算機に十分に周辺の地形が入っていないことで、動いているものと動いていないものの区別がつかないらしいが、まる二日電算機に情報が貯まると、電波的な地図が描かれてゆき、ある程度の大きさのもの例えば馬車や自動車が陣地を動いている様子や鳥や砲弾が空を飛んでいることが識別されるようになるという。それは必ずしもここから見えている必要がなく、ある程度のまとまった動きであれば、例えば数千の隊列であれば多少地平に邪魔をされていても感知できるし、兵隊がある程度動いている塹壕であれば、動いていない塹壕との違いを気配として感知できるという。空中のような定まった動きをする星屑の他には基本的に何もない空間では雲の動きを含めても非常に明瞭な信号を拾う。
 ワージン将軍には戸板ほどの表示板の中の赤と緑の砂のような光の粒を見ても、にわかには信じがたい言葉だったが、ジェーヴィー教授は大真面目だったし、十分に電波地図が出来上がった後であればそれは事実だった。
 人が動いている兵隊が生活している空間には電波の上でも多少の変化はあって、現行配置された電探では短期間でその意味を見破ることは難しかったが、僅かな鉄兜の動きや兵隊の炊事の煙、或いは実際に出入りしているなにかを複数の電探の回折した本来信号としての意味のない信号を後方で一元的に解析することで、別の波形信号として有為を発見する事ができるとジェーヴィー教授は説明した。
 遠回りした電波を使うということで当然にボヤける像から素早く意味を取り出すことは難しいが、複数の電探の信号を、それぞれに丸二日にわたって蓄積できる高速高性能の電算機があって成り立つ捜索儀は、単純な電探技術というよりはジェーヴィー教授の専門である高次曲線の写像転換という数学分野の工学への応用だった。
 電探が電波で照らして物を見ているのに比べて、この離散位相探索儀は電波を音として例えば音の変化で扉が開いたとか閉じたを聞き分けるようにして、見えない位置の物の動きを取り出す機械だった。
 或いは盲人が杖の響かせる音と手触りで辺りの状況を確かめるようなものである。
 もちろんワージン将軍にはそれ以上に意味がわかったわけではない。
 ワージン将軍にとって重要な事はこの機械を一度壊したら現場の軍人にはまず直せないということと、単純な操作で便利なことをやっている機械がとてつもなく高度なことをやって地形に隠れている様々な動きを炙り出せるという点だった。
 そしてジェーヴィー教授の口上の一部でも真実であるなら、それは戦場の後方司令部において試して参考にしてみるに値する時計のような機械であるはずだった。
 細々な教授の話しによれば、近いものが見えにくいとか、物の大きさと信号の大きさは必ずしも違っていて、動きのあるものが得意で、ないものが不得意とか、細かいところはやってみるまでなんとも言えないが、ともかく一晩寝る間に地図の状況が落ち着くとどうなっているかわかるはずだ、というジェーヴィー教授の言葉に従ってワージン将軍はそのまま電探車の基地で一泊した。
 ジェーヴィー教授は研究や興味以外のところでは聡明で礼儀正しい人物でワージン将軍としては大本営のくだらない連中相手よりもよほど会話を楽しんで夜を過ごした。
 翌朝、地形図はだいぶ安定していた。緑色の影の中に赤い縞模様が刺繍のように影を刺し、或いは未処理の布地の縁のような赤と黒のボヤケた霧のような境界が示され、一晩のうちにおよそ二十数リーグの地図が電算機の中で構成されていた。これまでは意味不明として諦めるしかなかった信号未満の波形を時間をかけて確認することで電探の捜索範囲を超えておよそ百リーグ近くも有為な地図を作り出すことができるはず、とジェーヴィー教授は説明をした。
 軍隊にとって正確な地図は神の言葉を綴った聖典と大差ない重要な意味を持っているが、不幸なことに正確な地図などというものは、共和国では神の存在よりも遥かに怪しげなものだった。
 共和国では土地土地によって信仰や宗教のあり方は万別であったから、他人の神を借りることはあっても信心という意味では生温い、せいぜい酒場の夕餉の献立のようなものであった。
 ジェーヴィー教授の自信の通りであるならば、これは戦場の神の言葉を代弁する機械であるはずだった。
 しかも言葉通りならギゼンヌに居ながらにしてリザール城塞の辺りまでの新しい地図が手に入るということであるから、それは疑うべきか崇め望むべきか悩ましい悪魔のような異教の神のような機械でもある。
 まだ情報という意味では不足がちであるはずだったが、早速捜索儀は威力を発揮していた。
 ジェーヴィー教授の操作による指示で電探の画面は鳥のように付近の森の一角で起こっていた動きをとらえた。
 目の前と云うには少しある、五リーグほど先の土地でのことで、電探の基地が周りから多少小高い土地にあると云って見通せるはずもない位置の出来事だった。
 視察がおこなえれば、機能の証明になるというジェーヴィー教授の言葉にワージン将軍は少し迷ったが、戦闘は昨晩のうちに収束し今は追撃に移っていて残置の部隊が捕虜の尋問などをおこなっている、という多少の驚きを伴った幕僚の報告から、危険はあるが予備の歩兵を連れている今、盛り場の騒ぎに巻き込まれるよりは危なくないはずだった。
 ジェーヴィー教授は電波地図と幕僚の持っていた軍用地図とを照合して勝手に地図の上に幾つかの特徴的な地形の地図上の誤ちを描き込んだ。
 当然に幕僚はいい顔をするはずもなかったが、明らかに面白がっているワージン将軍の手前それ以上にジェーヴィー教授を追及はせず、一行は教授の指摘とその根拠の機械の性能がどれほどのものかを確かめるべく戦闘のあった集落を視察に赴いた。
 ジェーヴィー教授は距離も違うと指摘していたが、流石にそこまでは十分に調べることはできなかった。だが建物の向きや配置が地図と異なっていて、防備のための空堀やその向こう側の土塁など、地図とは大きく違う地形上の特徴が機械の表示をもとに描き込みがされていた。
 ジェーヴィー教授の態度に不満のある幕僚たちも事実として地図よりも戦場を訪れたことのない教授の機械の表示のほうが実際に近いらしいことは認めざるを得なかった。
 一晩では機械の精度の上で十分な結像に至るのは難しいのだが、あるかないかといういくらかについてそれなりの結果を示すことができたのは地形的に回折を必要としないままに他の地点に配置された電探からの見通しがあったことが大きい。


 ともかく、ジェーヴィー教授が持ち込んだ機材は面目を躍し、ジェーヴィー教授はまだ戦闘の焦げ臭さと硝煙の香りの覚めやらぬ戦場に踏み入れた。
 焦げ臭いというか、油臭いようなネギを焼く匂いというものが集落に満ちていて、この手の植物の匂いを苦手としている亜人の兵隊の幾割かは体調不良を訴え捕虜の後送を引き受けて早々に後退していた。
 ジェーヴィー教授も玉ねぎのような目がシパシパする香りに眉をひそめたが、自分で来たいといった手前、自分からそれ以上何かを言う気はなさそうだった。
 掩体に篭ったまま後先考えずに機関小銃や機関銃を撃ち散らかすとちょうどこんな感じで目が痛くなることも多く、よほど派手な戦闘を繰り広げたのかと撒き散らされ燃え残ったらしい油に眉根を潜めている将軍の視察の一行は連続的に納屋が爆発するのを目にして反射的にワージン将軍とジェーヴィー教授を押し倒すように伏せた。
 帝国軍は集落の物資にこういった時限式の発火装置を仕掛けていることが多く、火薬倉庫や穀倉或いは住宅の屋根裏の火点などに放火爆破して共和国軍の足止めや或いは占領を妨害していた。
 幕僚の幾人かはそのことを知っていたはずの兵隊を怒鳴っていたが、ともかく将軍にも来客にも直接被害が出たわけではないことで、将軍の視察終了の命令で将軍一行は撤収することになった。
 ジェーヴィー教授は押し倒され泥だらけの服と手を拭うと、初めての戦場の洗礼に文句をこぼしていたが、押し倒した当の女性参謀からの詫びの言葉に、命を守ってくれたことへの礼を丁寧に述べていた。
 だが泥だらけであることが気になったのか、集落の井戸で手と顔とハンカチをすすぎ、服に油染みが残ったことの文句を述べた。
 如何にも教授のシャバの有様に同行していた者達の多くは無警戒の豪胆を笑ったが、至って真面目な有様で自分の流儀を貫くジェーヴィー教授に再び笑わずにはいられなかった。
 教授は余計なお世話にも自分の身を案じて押し倒してくれたモワルーズ少佐に感謝を述べ手と顔をすすぐことを勧め、井戸から水を汲んだ。
 戦場の心得として、占領したばかりの地の井戸の水を飲まないことをモワルーズ少佐はジェーヴィー教授に教え、手と顔の泥を洗いだ。本部付きの士官らしく手袋の換えは持っていたが、流石に着替えまではこの場でできないモワルーズ少佐は同行していた他の幕僚に叱られながら車に乗り込んだ。
 車内は泥と火薬とネギの香りで目に染みる空気になっていて、秋の日が暮れて風が寒くなっていた時間だったが、大きく窓を開けてギゼンヌ近郊の幕営地まで帰ってくることになった。
 幕営地と云って掘っ立て小屋とは笑えない本部の建物に案内され、夕食の席で戦場の空気を感じたことでだいぶ疲れたことを笑っていたジェーヴィー教授は翌朝死んでいた。
 ワージン将軍も突然の昏睡に襲われていた。
 前日、戦場の視察に訪れた幕僚と警護の兵のうち十五名が死亡もしくは昏睡状態になった。随伴した兵隊のうち一個分隊が丸々一つと幕僚三名が倒れた。他に従兵が一人死んでいた。
 モワルーズ少佐は命は無事だったが左頬にひどい炎症を起こしていた。
 他に昨日の集落を制圧していた小隊が丸々全員が倒れていた。
 特徴的な症状として皮膚の爛れを伴う炎症と呼吸と心臓の脈が極端に細くなることが共通していた。
 あのネギと云わずニンニクと云わず奇妙なスパイスのような香りが疑わしいとその場にいた者達は思い当たりもしたが、その前にやるべきことが多すぎた。
 幸い参謀長のバーゼル大佐は無事だったから、短期的な兵站上の何かで問題があるというわけではない。作戦の発令も現状の主攻勢は中部軍団が担当している。というよりも鉄道基地の稼働が始まったばかりのギゼンヌではようやく日に三万ずつの捕虜の送致が始まったところだった。三十五万の捕虜の送致は半月内外で決着し、その後、戦線の補給の整理を改めておこない本格的な攻勢につなげる。
 今は、いわば全く小手調べの準備の前段階だったはずだった。
 ジェーヴィー教授が死んだことももちろん問題だった。
 基本的には全く私的な訪問であるので政治的に問題になるわけではない。
 元来は単純な頓死というところだ。
 司令部の混乱を考えれば当然に後回しにすべき事案であった。
 だが問題はジェーヴィー教授が死ぬ前に様々を持ち出した元がローゼンヘン工業の社主であるゲリエ卿であるということだった。


 将軍の昏倒という事態に司令部がパニックになっているとき、当のゲリエ卿から連絡があった。
 キオール中佐が電話に出たのは、面識があるというだけの人選だった。
「将軍よりご連絡を頂いたものの、出先より戻ってくるのが遅れてしまいました。全く申し訳ありません。どういったご用件でしょうか。まだ間に合いお役に立てるということであれば幸いですが」
 電話口の向こうで明るい様子のゲリエ卿の声を聞きながら、キオール中佐は一回深く息を整えた。
「いいところにご連絡をくださった。ご来訪いただいていたジェーヴィー教授が本日亡くなられた。またワージン将軍が倒れた。毒ではないかとこちらでは疑っているが、確信もない。ついてはご協力を頂きたい」
 キオール中佐の言葉が終わって電話口の向こうが慌ただしい気配になった。
「毒というのは、どういう性質のものであるかはわかっているのでしょうか」
 緊張した様子でゲリエ卿が確認した。
「あまりに突然に複数の者が同時に倒れたという以上にわかっているところは少ない。炒めたネギやニンニクの香りというかそういう特徴的な香りを疑うものが多いが、その場で死んだ者はいなかった。火傷というか皮膚の爛れのような症状を起こしているものもいるがそういう者が必ず死んでいるというわけではない。だがいずれにせよ、あまりに突然であるので毒を疑っている。実のところ確実な話を説明できない状態だ」
 キオール中佐が可能な限り私見を排した形で説明をした。
「病気でないなら経皮性か呼吸性の毒でしょうね。そういう風に毒になる化学薬品に心当たりが何種類かあります。今、私がこの場で言えることは、現場を訪れた人々全員入浴と洗濯を徹底してください。そして換気を積極的におこなうように。特に長時間滞在する執務室や寝室の換気を怠らないようにおねがいします。ブーツや外套などの一般に洗わないような装具や寝具も洗濯をしてください。作業者に被害が出ないように洗濯や掃除中の換気は徹底してください。炎症が既に起きている人は……牛乳を薄めたぬるま湯で濯ぐと多少マシかと。手遅れかもしれませんが。ともかく洗濯と入浴を徹底してください。あと、移動に使った自動車や馬車や馬についても同様に洗う必要があります。被害者は体温の維持に気を配ってください。この後、ギゼンヌにゆきます。明後日にはつくかと思います。それで手が打てるか、間に合うかはわかりませんが、ジェーヴィー教授が亡くなったということであれば引き取りにも伺います。教授の遺体も毒にまみれている可能性があります。取り扱いには十分に換気に注意してください。ともかくそのネギだかニンニクだかという香りがするうちは毒があると思って気をつけてください。鼻が頼りなのでしばらく香水は使わないほうがいいでしょう。ともかく入浴と洗濯を徹底させてください」
 マジンは一気に指示を出した。
「心得た。入浴と洗濯を徹底させる。誠にご足労だが、来訪をお待ちしている」
 キオール中佐が敢えて電話口で周りに聴かせるように言った。


 ギゼンヌは後方だが、入浴や洗濯が自由というわけではない。燃料にも水にも石鹸にもある程度以上の手間がかかる。
 タライで沐浴すれば贅沢なことで湯の量もお茶を沸かすヤカンでいっぱいあれば贅沢なことでもあった。
 だが将兵の命がかかるということであれば変わる。
 兵舎のニンニク臭のある部屋はおよそ徹底した形で掃除と洗濯がおこなわれた。
 献立の中のニンニクや玉ねぎは日持ちのする食材で且つ肉料理には様々な意味で欠かせないものだったが、数日は使用を制限されることが言明された。
 事件の前、夏頃から肺炎で死んだ者が急に増えていた。
 正直なところを云えば、幕僚たちにとって兵隊の死因の詳細を追うほどに余裕があったわけではないのだが、各級の主計参謀はなんとなく新兵の受領や軽作業の指揮などで新兵の管理を行なう機会が多く、結果として兵隊のことを尋ねられることが多い。部隊長が死亡した兵隊の遺品や遺族への連絡をまとめる際にも、しばしば尋ねられることがある。
 そういう役職である主計参謀のなんとなくという感触では、動きの良いあまり風邪とは縁のなさそうな兵隊が突然肺炎で倒れるというのは不思議でもあったのだが、毒であれば、と今にして思えば思いつくような死が幾つもあった。
 死因がはっきりとしない死、というものは戦場では多い。
 だが、それが将軍に起きるとなると或いは軍団本部の幕僚に起きるとなると、組織の維持の問題になる。誰が死のうがどう倒れようが勝利に向かって或いは敗北に抗して機能するということが理想の軍隊ではあったが、現実としてはいきなり中枢が倒れればどうあっても混乱をすることは避けられなかった。
 もちろん将軍が倒れたことや来客が死んだことは箝口令が敷かれたが、ジェーヴィー教授と同行していた助手を禁足する根拠もなく彼らが特段になにも口にしなくとも彼らの中心で人目を憚ることなく声高く様々を論じていたジェーヴィー教授の姿が見えないとあれば奇妙に感じる者達は多かった。
 しかし一応ある程度の対処の指針が示されたことで、混乱は起きたもののパニックというほどの危険をはらんだ状態に達することは避けられた。
 有無を言わさぬ暴力的な宿舎の清掃と洗濯そして入浴の徹底という命令が作戦行動よりも優先されるという異常事態は、なにが起こったのか、という疑問と動揺が引き起こされ兵隊に当然に含まれる脛に傷持つ者達はすわ自分の悪事の手入れかと狼狽えもしたが、大方のところで問題というほどのこともなく、しかし幾らかの騒ぎも引き起こされ、北部軍団の軍事作戦は事実上停止した。
 重大な兵站上の問題は東部戦線の軍団師団の司令部に通達された。
 帝国軍が遅効性の対処困難な毒物を使用しているという報告と入浴と被服の交換で限定的な対処が可能という情報は、以前から不確かではあったけれども疑いを抱いていた部隊もあり、たちの悪い夏風邪、と思われていたものの幾割かが毒によるものである疑いが出てきたことで共和国軍の反攻作戦は全域で緩んだ。
 しかし一方で対策のないまま陣地に篭ったことで気が付かぬままに被害者は更に増えた。
 ギゼンヌの司令部は各地に入浴と洗濯を徹底する対策を伝えたものの、そんな贅沢がおこなえる戦場は共和国軍の前線支配域には殆どなかった。
 対策と云ってそう呼べるような種類のものではなかったのだ。
 結果として共和国軍の前線は崩壊はしなかったものの、混乱して停滞した。
 秋攻勢はジェーヴィー教授の死とワージン将軍の失調昏倒という象徴的な出来事によってくじかれた。


 ローゼンヘン館への連絡から二日後、ゲリエ卿が医療調査団とともに現れた。
 ゲリエ卿は百五十名の医療研究者の集団と三万着の兵の軍服と長靴、十万着の古着、十万床分の毛布と敷布を物資として自分たちの調査用の機材の他に持ち込んでいた。
 後方の幾らかの街の市にあった古着を一気にかき集め、体格に合わせて組にして選別した上で持ってきていた。
 古着屋や奴隷商はある程度揃えの服というものを持っていて、そういうものをバラにしないまま袋に入れさせ組で引き取り、大中小とその外のふたつという程度の大雑把に五つの大きさの様々な服を、とりあえず十万着と同様に古着の揃いやデカートの軍需品倉庫に死蔵されていた軍服を三万持ってきた。ギゼンヌの軍需品倉庫の中の軍服はよほど大きなものと小さなもの以外は殆どなくなっている状態で、軍需品倉庫の中身の補充はおよそ地域でおこなわれる性質のものだったから、いまに至るまで生産力の回復が見込めなかったギゼンヌやアタンズペイテルという土地では、使えるものが殆ど無い状態になっていたし、接続している街の倉庫も似たような状態だった。
 鉄道が接続したにも関わらず、倉庫の補充は未だにおざなりにされるような現場の状態で、鉄道軍団の能力というよりもギゼンヌの市政運営が混乱していることを示していた。長らくギゼンヌにいた広域兵站聯隊の本部が移動したことで、様々の市政が返還された筈だったが、当局の人員が枯渇していたということが大きい。
 十年も戦ってこれたことが不思議なほどの状態だったが、農業地帯というものが基本的に豊かであり一方で農業は相当に組織だった労力を求めるものでもあって人員に余裕があるというわけでもないということでもあった。
 鉄道接続でギゼンヌに先行するアタンズやペイテルでも後方から来援する鉄道の補給効果が、市政に届き目に見えて回復に向かうにはおよそ丸ひとつきかかっていたし、それでも尚、軍需品倉庫の物資定数という意味では不足が目立っていた。
 ギゼンヌに鉄道は届いたものの今はまだ過渡的な状態にあって、過不足が様々に混乱を引き起こしていた。
 そういう中でデカートからギゼンヌまでの六百二十リーグを特別便を編成して割り込ませ、最低限とはいえ丸二日でまとまった人員と物資を伴って現れたゲリエ卿の実力は北部軍団の幕僚たちにとって驚くべきことだった。
 最低限と云ってもそう云ってみせたのはゲリエ卿本人で北部軍団を着替えさせるに足る被服だけでおよそ四百グレノルの物資というものは鉄道の貨車でも三十両に達する。
 入浴も洗濯もできないならせめて着替えろ、というゲリエ卿の対策の意志だった。
 ゲリエ卿は挨拶もそこそこに幕僚たちを蹴り飛ばしかねない勢いでワージン将軍の元へ向かった。
 ゲリエ卿は体温が低いことと心拍に問題があることを見て取るとすぐに湯を沸かさせ、ワージン将軍に輸液をさせながら入浴をさせた。
 体温と血圧脈拍に関する幾つかの指示を医者に指示して二人残すと、同様に昏倒している士官たちを順に見て回った。基本的に全員が似たような症状で低体温と低い血圧と脈が殆ど取れない不整脈で、体温の確保と強心剤による血流と体温の確保をおこない体力と意識の回復を期待する治療だった。
 昏倒するほどに長時間毒ガスを吸っていたという事実は驚くことだったが、一通り生きているものの診断と応急処置を施した後に訪れた霊安室の香りとジェーヴィー教授の棺を開けた途端に目が痛くなるほどのスパイスのような刺激と香りを嗅いだ瞬間に毒の正体の見当はすぐに付いた。
 棺を外に運び出し改めてジェーヴィー教授の衣服を改めるとポケットの中に香りのもとを発見した。汚れたハンカチが出てきたのだ。
 幾分様々に使われた様子もあるが、ともかく分かりやすく疑わしい物で汚れているハンカチを試料として調査をおこなうと、硫化ジクロロジエチルがはっきりと検出された他に幾らかの揮発性成分があり人体に毒性があるものも含まれていた。
 肺炎の多発という症例は白血球の破壊という特徴的な破壊をおこなうマスタードガスの長期に渡る吸引が疑われた。また低濃度のガスを長時間呼吸していたことで神経系に障害が出て主に呼吸循環系での麻痺が緩慢に起こっている様子だった。
 人の鼻というものはなかなかバカにならない性能を持った器官であるのだが、多くの場合、意識しない生活臭を識別することをやめてしまう慣れの早い感覚器であるので、悪臭と常にある陣地に篭った兵隊の鼻は様々な香りにすぐ慣れるようになっている。
 自分の頭の匂い口の匂い手の匂い脇の臭い股の匂い足の匂いと、悪臭の元が自分自身であれば、或いは味方であれば陣地に篭もる兵隊はそれに慣れなければならず、敵味方の負傷や死体の匂いにも慣れてゆく。
 そこにひとつふたつ例えばネギやニンニクを刻んだ匂いがしたとして多くの者は気にしない。そういう風にして緩慢且つ弱毒ながら極めて危険な効果的な毒として泥の中に油とともに撒かれたマスタードガスは泥汚れ油汚れとして軍装に紛れて陣地に持ち込まれ、兵隊の陣地の生活のうちで体を犯し、心肺機能を鈍化麻痺させつつ白血球を壊し人体の抵抗力を奪い、倦怠と睡眠中の死や肺炎などの他の感染症の形で兵を殺していた。
 将軍が視察にめぐった現場を視察したいというゲリエ卿の申し出に、当然に幕僚たちは眉をひそめ動揺したが、そこに赴く者達の仰々しい鎧兜のようなと言うよりは、なにか袋詰の菓子を思わせる出で立ちの調査団の姿をみたとき、実は自分たちがとんでもなく危険なところを気楽に往来していたのではないかと司令部幕僚たちに考えさせた。
 そして一日の調査の結果、翌日全くそのとおりであることを調査団は告げた。
 帝国軍のニンニクソースの主成分が硫化ジクロロジエチルとその前駆体であることはほぼ確実だった。
 あまり純度は高くなく流動性のある重油のようなものによって薄められた状態だった。しかし一方でそのために樽のような比較的気密の低い容器で扱え、劇症を引き起こさないのでより効果的に敵自らによって敵陣内に持ち込まれ長時間効果を発揮する。
 或いは泥の中に撒き散らした後、火をつけるなどということを考えていたかもしれない。燃焼させてしまえば毒性成分は高温で容易に分解するものであるが、一方で蒸気の発散も早くなり雰囲気濃度が高くなれば集中的に吸引或いは雰囲気から皮膚に定着することで呼吸器や皮膚を糜爛させる効果が有る。そのためには轟々と炎が上る必要はなくどこか片隅でちろちろと炎が上がっていればその周囲で湧いた油がその周りのマスタードガスを撒き散らす。
 そして、装具などの汚れから延々と蒸気を立ちこもらせ夏風邪のような症状を敵陣地内に撒き散らし原因不明の死を引き起こす。
 取り扱いを重視した工夫としては皮膚を侵すほどの純度の高い濃度の原液を持ち込むよりも遥かに簡便で、致死性という意味ではあまり高くない種類の毒であるので、却って対策が取りにくい効果的な毒の使用方法だった。
 入浴のそして装具の手入れの困難な前線であれば、運悪く戦地で汚染された泥の油を踏んだだけで、陣地を離れ後方に下がれるまでの数日間、毒を含んだ空気を吸い続け、或いは自動車移動中大勢と肩を寄せ合った車内の篭った毒の蒸気を吸えば、毒で装具を汚した者がその場の致死に至らずとも後に他の者達が昏倒をすることになる。もちろん濃度が一定以上ならば皮膚や呼吸器に炎症潰瘍そして爛れを起こすが、直接肌に触れたモワルーズ少佐のような例でもある程度すみやかに洗い落とせば、死に至ることはない。ただ戦地においては湯水を十分に使って入浴をするということは難しく、幾度か定期的に洗う機会と習慣のある手はともかく顔は十分ではなかったということであろう。
 ゲリエ卿の結論は、毒そのものは入浴と着替えで問題なく対処可能であるというものだった。だが北部軍団の幕僚の判断は全軍に体制を整えることは極めて困難な手法である。ということだった。
 とはいえ、そう言われてしまうとマジンとしてはなすすべがない問題でもある。


 現実問題として帝国の毒ガスによる攻撃はおよそ二段階の意味を持っていて、直接的な将兵個人の体力或いは直接的な死を狙った毒ガスとしての攻撃と、その対処のための戦線全体の兵站上の圧迫である。
 統計をこの後確認する必要はあるが、おそらくこの低濃度マスタードガスを使った攻撃は感染症の増加による死者を含めると汚染地帯に踏み込んだ人員そして馬匹のおよそ一割が死んでいるはずであると、ゲリエ卿に同伴した研究者たちは推計した。
 それは、戦闘に関わっていない者も含めてという数字で、拠点が共通であればたとえ本部司令部の要員であっても、或いは汚染地域を通過した輜重なども含まれることになる。
 一割という数字を口に出された瞬間、幕僚たちはひどく控えめな数字であることに気がついた。視察に赴いた者達は人数の上で三割ほど、そして丸二日、現地を確保していた小隊は全滅していた。
 毒に汚れた物と長時間ともにあることで確実に死を招く、という事実は塹壕にとって恐怖以外の何物でもない。
 多くの毒ガスの蒸発熱源として人体は非常に効率のよいものであったから、即死しない程度の濃度の毒ガスの原液に汚れた兵隊は気が付かないままに自陣に毒を撒き散らしながら不幸な同僚を巻き添えに死ぬことになる。
 マスタードガスの対策に限らず毒ガス対策として一番簡単なのは大量の散水で水滴の表面に毒性の分子を吸着しつつ、空気中の毒ガスの濃度と揮発の可能性を抑えながら広範な土壌に染み込ませ、致傷性の低い蒸発と拡散を狙いつつ紫外線や水中イオンや他の物質による分解や反応を待つことだった。
 化学薬品や電気的な分解も可能だったが、基本的には入浴と洗濯以上に簡単な化学処置はありえなかったし、洗濯も素手で直接洗濯物や水に触れない準備をして、例えば長靴などで踏み洗いを川などの大量の流水が使える状態でおこなえばよかった。
 入浴洗濯ができない中でそれでも対策を取るとすれば毒性のある気体は空気よりもかなり重たいので塹壕に溝に深く刻み水を流しつづけ、水面の動きで換気をおこなうことくらいだった。実際にそれで事足りるためには相応の水の速さと溝の深さが必要であるわけだがひとつの提案だった。
 どのくらいの速さと問えば塹壕の中に尿の香りがこもらない程度、とゲリエ卿は簡単に目安を答えた。
 香りの主成分が毒性であるとしておよそ立ち上る周囲の香りがしなくなるくらい空気の洗浄が進めば、ひとまず空気の洗浄は終わったとも言えるので目安としてはある程度正しいわけだが、つまりはまるで手入れの優れた農園のような用水を求めていることになる。
 そんな水源がある塹壕ばかりではないし、ひとつ間違えば塹壕を水没させかねない対策だった。
 空気の洗浄自体はつまりは霧吹きで水を大量にまいて溝に流してやれば済むが、装具が洗えない、人員の体を洗えないであれば、対策としては全く不足だった。高濃度の毒液ということでなければそれこそ体を洗って油を塗って体を洗ってという程度のことで事が足りる。贅沢が許されるなら畜乳を湯に溶かした風呂に入ればいい。
 そんなことで作戦ができるか、と恫喝するように云う本部幕僚もいたが、ひとまず手当をした者たちが現地調査とその後の報告会の間に快方に向かっているとあれば、長居をする理由もマジンにはなかった。ジェーヴィー教授の遺族に状況を説明するためにデカートに引き上げるほうがマジンにとっては先だった。


 ジェーヴィー教授の遺族と云って他家に嫁いだ妹君がいるだけだった。
 研究のために戦地に赴いて倒れられた。軍務ではないので戦死ではないのだが、戦地のことで個人の口から話せることは多くない。
 そう告げると教授の妹君は腰が抜けたようになった。
 一家はソイルと云うよりはデカートに近いフォンテという鉄道沿いの新しい集落の開拓地に小さいと云うには大きな農場を家族だけで切り開いていた。ヴィンゼのような無闇な広がりはないが、もともと農地に向いた地勢だったらしく丘の麓の森を開いて水路を整備するだけでそこそこの農地になった。もちろんまだ拓いて十年に経っていない土地なのでわからないことが多く問題も多いそうだが、機械力もあり逃げ出すほどのことにも至っていない。
 教授は妹君との仲はよく、彼女の家族とも穏当に交流していたらしい。
 葬儀はしめやかに執り行われた。
 教授とは館の研究室でただひたすらにバカかと互いに罵ることもあったが、教授は紛れもない天才で彼の才能と研究が示唆するところはマジンの地平を大きく広げた。
 全く教授を失ったことは残念としか云えなかったが、落ち込んでいるわけにもゆかなかった。ギゼンヌでの事件調査を知ったリザが飛んで帰ってきてマスタードガスの対策を求めたからだった。
 対策と云って一旦皮膚についた場合には水で洗い流す、可能なら畜乳を水で割りすすぎ、脂肪を使って中和するのが効果的だった。単純な油の場合には再度その油を洗い落とす必要があるが、畜乳は比較的単純に水に流せるために作業として一段楽だった。
「戦場に雌牛を連れてゆけとでも云うの」
 そうリザは薄笑うように尋ねたが、対策というべきものの基本は洗濯と入浴しかありえず、短期的な対策――例えば防毒面や様々な防毒服を準備し、被害の治療をおこなうことは可能だが、治療や事前事後の対策の内容は結局のところ、防毒服の洗浄や心肺の活性化と身体の洗浄と体温の維持、ということで、平たく洗濯と入浴というものの高度化したものでしかない。
「つまりなに、そのお肌の手入れに良さそうな牛乳風呂を兵隊に入れてやれってことなの」
 どういう性質の化学毒なのかを説明したところでリザは皮肉というよりも面倒臭げに改めて尋ねた。
「そこまでは言っていない。だが一般的な対策として入浴と洗濯が衛生管理の基本だ。皮膚を侵す毒に対する対策の基本も変わりはない。マスタードガスは人体の細胞を構成する脂肪を分解する性質を持っている。幸いにして帝国軍では扱いをしやすくするために純度を落とし基剤に油脂を使っているために毒性は低い。長時間皮膚についたまま放置したり、或いは服や装具を汚したまま、放置して塹壕に篭ったりしていなければ殆ど問題にならない。だから、兵隊を入浴させて汚れた服を洗ってやれば犠牲者をそれと出す前にせいぜいが肌荒れや軽い炎症ぐらいで対策が取れる」
 マジンの説明にリザはまた嫌な顔をした。
「あなた、なに言っているかわかっているの。前線で水をそんな自由に使えるわけないでしょ」
「対策を聞かれたから説明したまでだ。お前の部隊は前線の陣地に張り付く性質のものじゃないだろう。作戦から帰ってきた部隊を風呂に入れてやるくらいしろ。帝国軍の狙いに嵌っているぞ。連中こっちの足元を見透かして、可能な行動を予想した上でやっている」
 マジンはギゼンヌの幕僚たちと同じことを言っているリザに同じことを言ってやるしかない。
「もっと簡単のものはないの。機械とか薬とかでパッとケリがつくようなのは」
「ない。というよりも四千とか八千とかの人数分の薬とか機械を準備する意味を考えてみろ。それに洗濯は突撃服の管理をしている車を準備してやったろ。あれで洗濯物を干すのが随分楽なはずだ。高温の蒸気でもあらかた吸い付くはずだから、長靴や突撃服は適当に濡らして乾燥車で干せばおよそ心配はない。気をつけないとそこから出た毒ガスが辺りを流れることになるが、地形や風向きに気をつければ問題にはならないだろう」
 リザはまだなにか言いたそうにしていた。
「洗濯はそれでいいわ。風呂は水だけじゃダメでしょ。風呂桶ちょうだいよ。あと風呂釜それと、川で水を汲んでくるための油槽車みたいな奴を頂戴」
 リザは文句を飲み込んだ顔で不満そうなまま、ねだった。
「お前な。――」
「今の状態の軍で兵隊に風呂を入れられるわけ無いでしょ。村がどれだけあって風呂がどれだけあると思っているのよ。飲水だって汲みに行くのに丸一日かけるような苦労しているような陣地だって山のようにあるの。それにあたしらの部隊は神速で敵中に進出するのが期待されているのよ。説明はわかったけど何百も何千も風呂桶を揃えるなんて無理に決まっているじゃないの」
 マジンが文句を言いかけたところでリザが一気に言い返して言葉を封じた。
「お前につけとけばいいとして、払う気はあるのか」
「払う気はあるわよ。この作戦が終わったらどうせ私勲章もらってお払い箱だから、稼げるだけアナタにこき使われてあげる。あとファラに同じものつけておいて。そっちは多分出世払いになるけど、私よりは払う気あると思うわよ。あの娘、作戦後ももうちょっと軍で粘るつもりらしいから」
 マジンは深く息を吐いて少し考えた。
「一日待て、子供用の風呂を大きく整えてやる。水が問題だな。馬や人で丸一日ってことは水源から五六リーグ離れていることがあるのか」
「そこまでってことはないけど、二三リーグは偶にあるわね。ちょっとした山の上に陣取ってれば、反対の山裾まで降りる必要が有ることはある。井戸掘るほどいつく気もないんだけど周りに水源がないってことは珍しくないわ」
「それなら車で二三往復することはできるな。本部には何人か運転できる兵隊は余っているんだろうな」
「そりゃ、本部予備ってくらいだから、いくらかはいるわよ」
「洗濯車と給水車と湯沸かし風呂おけを合わせてまとめて十両ってところだ。洗濯車って云っても泥を綺麗に落とすのが目的じゃなくて、毒ガスをとりあえず無力化することしか考えないから後で兵隊には服を手入れさせろ。靴も突撃服もそれでなんとかできる」
「洗濯車ってどういうもの」
「洗剤を吹き出す散水装置みたいなものだ。二時間で千着ってところだろうから、手で洗って天日に干したほうが早いが、夜に必要なだけ回せるから、使えないってほどじゃない」
「移動しながら使えるのかしら」
「バカ言うな。無理に決まっている。まぁ乾燥だけなら出来なくもないが」
「危なくないの」
「火を使うわけじゃない」
 リザは自分で尋ねておいて、危なくないもないものだと思うがマジンの言葉にうなずいた。
「それで兵隊も洗濯できるのかしら」
「兵隊並ばせて洗うつもりか」
「それで命が買えるならそうするわよ」
 少しマジンは考えた。
「ボクが考えていたのとは違うが、そういうつもりならそういうのもアリだろうと思う」
「水が少ないのはどっち」
「大差ない。水の不便なところで風呂を入れようと思えばある程度水の再利用は必要になる。川から水を汲み上げる段階で濾過浄水機は必要だし、準備する機材も殆ど差はない。水の再利用って意味だと風呂桶のほうが簡単だが、どっちにしても幾らかはこぼれてゆく。浄水機の管理の上からも汚水はある程度は流すしね」
「少しは兵隊に風呂を入れる苦労がわかったかしら」
「知るか、と言いたいところだが、自分に払いが回るとは思わなかったよ」
「それでおいくら」
「二億タレルを幾らか出るはずだ。三億タレルまではいかないはずだが、設計が定まらないとわからないし、実際に組んでみないとなんとも言えない」
「案外安いのね。すぐ壊れたりするんじゃないでしょうね。前は牽引なしの空の輸送車一両五千万って云ってたじゃないの」
 二億タレルが安いと言い放った目の前の考えなしにマジンは軽くため息をついた。
「少し前と違って材料がずいぶん安くなっている。堰堤建設で馬鹿みたいに投資したのが今になって効いてきているんだ。物事順番があるってだけの話だよ。もっと安く作ることもできるけど、他の車と同じように使えないんじゃ困るだろ」
「そりゃそうよ。兵隊にいちいち頭使うこと期待しないで」
 リザが偉そうに言う内容に苦笑する。
「それでどういう風になるのかしら」
「洗濯車を二両、給湯車を二両、浄水機付きの三グレノルの給水車を六両。自走で八両。給湯車は牽引でいいだろう。浄水機はカシウス湖やエンドアで既に実績がある。水を汲むのに一時間、あとは動かしてみないとなんとも言えないが、他にシャワーに使えるテントと温水空気式の水槽とを付けてやる。着替えや脱衣場にするための天幕やなんかくらいはそっちで準備しろ」
「どうやって使うのよ」
「後で設計ができたら教えてやるよ。基本的にはシャワーをつけたテントをダラダラ歩いているうちに石鹸が吹きつけられるような構造でいいだろ。基本的には洗濯も同じだ。洗濯の方は動かすのが面倒くさいから吹き出す水のほうを変えるわけだが、温水出して洗うものを暖めつつ濡らして洗剤出して濯ぐ。という工程になる」
 リザが少し関心したような顔になっていじわるげな顔でニヤけた。
「兵隊がのぼせて転んで窒息するような仕掛けはやめてよね」
「お前、いちいち細かいな」
 面倒臭げにマジンが言った。
「当たり前よ、兵隊死なせないための仕掛けで兵隊が死んだら笑い話にもならないわ」
「まぁ言いたいことはわかる。そのつもりで準備も設計もするが」
「ひょっとして洗濯車ってそのテントとシャワーとが積めればなんでもいいってことなのかしら」
「乾燥室にするつもりだが、干すだけの時間と場所が取れるなら別段なくてもいいな。兵隊の仕事みたくシワのないシャツとかアイロンがけってのは期待するな。あと、そのアイロンがけの時間こそが実は毒ガスを飛ばす行程になるから、文句がある士官は後で自分で洗わせろ」
「そうするわ。でも聞きたかったことってそこじゃなくて、牽引貨車にしてくれないかしら。給湯車も動きながら使わないって意味じゃ似たような感じなんでしょ」
「給湯車の方は最初から牽引のつもりだった。ポンプと湯沸かしと幾らかの配管だから温水を流してテントを温めて乾燥室にするくらいはできるよ。兼用にするつもりなら、おそらくそうしないと間に合わないだろう」
「四千人で八時間なら一晩で間に合いそうだけど、帰ってきたらすぐやらないと危ないってことなら、確かに兼用じゃ問題ありそうね」
「余裕があるなら周辺のよその兵隊の分もやれなくはないだろうが、お前にそんな余裕がある顔には見えなかったな」
 そう云われてリザは少し気まずそうな顔になった。
「そりゃそうよ。突撃服で銃弾は平気でも毒はどうしてもダメでしょ。戦車はどうすればいいの」
「洗え。戦車の中は大方大丈夫なようにしてある。前回の失敗の経験から車内の換気は向上しているから、よほどの毒ガスも全部無視できるような仕掛けを積んでいる。防毒面の脇の酸素瓶と機関過給用の圧縮空気で気密を確保しているから、五分ぐらいは吸気が途絶えても運転できるし、落ち着いていられれば一日くらいは水に潜ったままでも大丈夫だ」
「本当でしょうね」
「疑うならそれでもいいが、信用しろ。洗車場は作っておいたほうがいいな。基本洗剤と散水機とでことは足りる。兵隊の入浴と一緒だが、大きい分面倒もあるし楽でもある。高圧洗浄機を二十組つけてやるよ。大枠は兵隊と一緒でシャワーをくぐらせればいいだけだが、車体の下や足元はそれだけじゃ少し足りないだろう。面倒くさければ、どこかで川遊びさせてやれ」
 マジンは書付にポンチ絵を描いてみせ、どういうものであるかを示した。
「わかったけど、これ、ひょっとして戦場から帰ってくるたびにやらないとダメってことなのかしら」
「ダメってことはないけど、やっておいたほうがいい。少なくとも敵がなにをやっているか一部でもわかった以上、準備を怠ることは意味がない。何かを賭ける気にはならないが、帝国軍のすべての村には、前哨みたいな道ふさぎに毒を入れた樽が火薬と一緒に置いてあって勝てないような敵が来たら火をつけて引き上げる、くらいは備えがあるんだろう」
 云われてリザは鼻から手元の書付が揺れるほどに息をついた。
「ウチなんて云われているか知ってる」
「知らん」
「鉄箱入りお荷物部隊よ」
「まぁ、会社の出している戦車の部品のコンテナは圧延鋼板製だからなぁ」
「そっちじゃなくて、お高いお荷物だって云われているのよ」
「それはしょうがない。お前が望んだことじゃないか。完全な装備と完全な訓練による完全な勝利だろう」
「勝てると思う」
「何にだ。帝国にってのは無理だ。はっきり云って連中は遊び半分で戦争をしている。連中の本気がどんなものか読めないうちは勝ち負けをいうことは出来ない」
 リザはあっさり云われて嫌な顔になった。
「嘘でも勝てるって云うべきところよ」
「だからなにに勝ちたいんだ。共和国軍の他の部隊にっていう意味なら勝てるよ」
「そうじゃなくて、この戦争に勝てるかって聞いているのよ」
「どういう風に勝ちたいんだ。そこがわからない」
「帝国のふたつの城塞線から帝国の軍勢が湧き出さないようにしたい」
「南はそういう意味ではうまくいっているんじゃなかったか」
「あっちは山地がちだから、多少すり抜けられているみたいだけど、大きくはなっていないようね」
「そしたらリザール城塞だけって話なら難しくはないだろう。戦車の百五十シリカ砲は石壁なんかあっという間だぞ。だから占領を考えなければそれほど難しくないけど、帝国軍の毒ガス戦術を考えると拠点制圧を許さないための嫌がらせの仕掛けがあるんじゃないかと思うんだが」
 マジンは大雑把に勝利を保証したつもりだったが、リザはそれでは不満気だった。
「占領しなかったら湧いてきちゃうじゃない」
 リザは溜息をつくように言った。
「それは、悪いがボクの専門じゃない。ただ、単なる勘としてはとても難しいだろうと思う。リザール城塞を落とすことまではそれほど難しくないだろうけど、そこを継続的に占領するということは、後方との補給の連絡が必要になるんだろう。もう一個自動車聯隊がいて、敵陣を突破しながら補給を繋ぐなら話はわかるが、部隊の性質を考えても長期の占拠は出来ないんじゃないかな。……ああ、ボクはなんというか、賞金稼ぎとして忍びこんだり乗り込んでいって殺したりぶんどったりってことは割とアッサリ思いつくんだが、守るってなるとなんというか考えが及ばないところがあるから、プロに意見をできるような立場ではないよ。……ああ、まぁそういうところで言えるところがあるとしたら、戦闘部隊に入浴や洗濯を自前でおこなわせないとならない現状の共和国軍の体制で、百リーグ先のリザール城塞を落としたあと維持はできないだろうと云う気はしている。十年前の完全に無防備だった土地と今の状態ではぜんぜん違うだろうし、帝国も自動車戦術を理解した上で対策をとっているだろう。鉄道が伸びてきたけれど、それで助かるのは馬匹の糧秣に事欠かないというくらいの話で、それは大きな意味があるけど、距離の話で言えば戦場の百リーグは街道の百リーグとは全く意味が違う。街道の百リーグはせいぜい半月の話だが、戦場ではひとつきなのか三ヶ月なのか、見積もりは建てられてもその通りにゆくとは限らない。それが嫌だったからボクは鉄道を作ったわけだしさ。……こういうことが聞きたかったのか」
 リザは聞いているうちに口をとがらせていた。
「……う。まぁだいたい。やっぱり、洗濯や入浴は聯隊でおこなうようなことじゃないわよね」
「聯隊っていう枠組みがどういうものかよくわかってないんだけどさ、生活に類するような事柄っていうのは、もうちょっとなんか大きな枠組で扱ったほうがいいように思うんだが。まぁ鉄道軍団みたいなところや療養院とか逓信院とか、あと憲兵隊もそういうものだよな。多分。この間初めてギゼンヌに行って憲兵隊が交通整理しているのを見て、本当に巡警なのかと思った」
「まぁ、軍警って言い方もあるくらいだからね。そしたら、あれかしら。洗濯入浴専門の部隊があったほうがいいってことかしら」
「そこまでは言っていないけど、療兵が前線を回るつもりがあるなら、患者を入浴させて様々洗濯しないと治療が追いつかないだろうとは思うから、共和国軍が前線の兵隊の命を多少とも大事に思うなら、考える必要のある設備装置だろう」
 そう言うマジンの言葉にリザはニヤリとした。
「我軍は将兵の命を軽く考えているということね」
「これまでは単に策がなく考えが及ばなかったということだろう。けど、おまえが色々持ち込んで、……例えばリザール城塞を激戦の上で人員被害なく占領してみせたとするだろう。そうすれば、なぜ被害がなかったのか、という話に注目が向かなくてはおかしいし、そのためにどうするかという話になるはずだ。英雄的活躍を称揚して終わりってことにもなりかねないけど、それだと、お前らの部隊の連中の扱いが難しくなりすぎる。それで戦争が終わりなら簡単だけど、そうもいかないだろう。だいたい、突撃服は全部おまえ個人の資産持ち出しだ。ってことになっているんだろう。公式には」
「まぁそうね。そうすると、あなたの会社に儲け話が転がり込むわね」
 リザの言葉を聞いて少しマジンが苦笑した。
「そうもゆかない。共和国軍が本当に百万の兵隊をこの後抱えることを目指して組織を改変するとして、これまでの倍の人数に例えば突撃服を揃えたり、入浴設備や洗濯設備を揃えだしたりするだけで、自動車の配備率を三倍は必要とする。自動車の値段はこれまでよりだいぶ下がっているのは事実だが、兵隊一人あたりに十倍も金をかけることができるかどうか、人数を増やすつもりなら二十倍もカネをかける気があるか、それを諸州が許すかどうかという話になる。それでも大方人命の大事を思えば、進めたいと云うだろう。結果としてケツを向けてうちの会社の頭の上でクソをひるだろうさ」
 リザが事情を察したように頷いた。
「もっと安くしろって云うのね。出来ないの」
「できないだろうな。少なくともウチ以外でウチの会社が羨ましがるようなモノを誰かが創りだすまでは。……ジェーヴィー教授が死んだことが本当に悔やまれる。あの御仁はボクが思いつかなかったり、意味を見出せないものに、ちょっとしたヒネリを加えて様々に素晴らしい物に仕立てる才能を持っていたんだ。そのせいで正直仲が良いというわけにはゆかなかったが、紛れも無い天才だった」
「惜しい人を亡くしたわね」
 しみじみとリザが言った。
「本当だよ。自業自得という言葉もあるが、ワージン将軍も倒れたし、持ちだされた電算機と発電機車について文句を言う先を失って困っているよ。一応ワージン将軍が回復するまで有償で預けるということで決着はしたけどさ。成果をみたが、なるほど大したものだった。アレならボクが一人でやっている作業を死ぬ前に手伝ってもらえばよかったよ」
「なにを手伝ってもらおうと思ったの」
「ハリボテ、あるの知っているだろ」
「ああ。ルミナスが作っているやつね。竹馬と操り人形のあいのこみたいな感じのやつよね」
 リザも工房に腰を下ろした巨人のような姿にちょっとした期待を抱いていた。実のところ大きすぎ重たすぎ立ち歩くためには革を下ろす必要があり、紙のような革を張っただけで、辺りの様子が見えなくなってしまう。
「風景が見えるようにできる方法があると云ったらちょっと驚くだろう」
 リザもルミナスが作った小さなものに袖を通したことがあって、周りが見えないままへっぴり腰で立ち上がり、そのまま尻餅をついた覚えがある。
「そりゃまぁ。……できるの」
「ジェーヴィー教授の研究はつまりそういう内容にも繋がるんだ」
「あなたにはできないの」
「できる。けど、今は忙しい」
「ルミナスができればいいのにね」
「あいつなら、教授の論文が読みこなせるようになったらすぐ自分でやるだろうと思うけど、まだ少し色々足りていないだろうな」
 そう云うマジンを嬉しそうにリザはしばらく見つめていた。
「……。そしたら二日待ってれば、とりあえずあたしの分とファラの分の毒ガス対策の手筈は揃うってことでいいのかしら」
「面倒がなければそうなるな」
「面倒ってどんな」
「急な来客とかかな」
「予定があるの」
 不思議そうにリザが尋ねた。
「ない客だから面倒くさいんだよ」
「あなたの妻らしいことをしてあげるわよ」
 マジンが言うのに頷いて自信ありげにリザが言った。
「何をだ」
 露骨に鼻で笑ってしまったマジンを眉をちょっとはねただけでリザは軽く流した。
「来客のご相手。どうせ夜までお相手できればいいんでしょ」
「うん。ああ。すまない。そうしてくれるとだいぶ助かる。任せていいんだろうか。デカートに用があったりはしないのか」
 リザが言ったことはおよそ正しかったからマジンは素直に頭を軽くうなずかせた。
「帰りがけに寄ればいいわ。用って云っても、特になにがあるわけでもないし。ショアトアが手配がどうなっているか確かめてくれているから、私は待っていればいいだけ。なかなかいいわね、あの娘」
 実のところ未だに拐ってきた女達のプロフィールについてあまり良く知らないマジンは曖昧に頷いた。


 年若いというか幼くすらあるショアトアは非常に人使いの度胸の良い面があって、自分の三倍は年かさで階級も上の一等軍曹を副官に参謀長の名代としてデカート市街での用事に奔走していた。
 本部を置いたアタンズは鉄道が物資の供給を始めたものの、その品々は通り一遍の古い習慣の品目で、デカートですでに馴染んだような缶入りの食品や燃料という面倒の少ない様々な品物は数が足りていなかった。社主の指示でいくらかは義捐物資として送られていたが、軍の発注を経由したものでないことで兵站本部での確認が取れず、由来不明品目不明の便利なものと扱われていた。
 勘定が得意でヒトに物おじしないショアトアは待機中の聯隊本部の要員を二十人ばかり連れてローゼンヘン工業を訪れていた。
 ショアトア・マルモッサ兵長のちんちくりんな外見と階級が上であるはずの軍曹を壁にしてふんぞり返った態度はローゼンヘン工業の本社物販本部で首をひねられながら応接を受けていた。
 やがて、品目を確認していた者たちからの請求が報告されるとショアトアはその場で書付をまとめ、予算のうちに品目と数量をめるめ、本部で応接をしていた係りの者に注文を押し出した。
 その頃にはショアトアが実はローゼンヘン館の社主の家人の一人、年若い情婦であることが色々な筋を経由して伝わり、胡散臭げだった様々な態度が下にも置かない態度に変化していったわけだが、請求先を社主個人につければ宜しいでしょうか、と応対した者が口にした瞬間に、ついにショアトアは立ち上がって怒鳴った。
「なにバカなこと云ってるのよ。御手様がここの社主だってのはアタシも知ってます。けど、軍務の払いをあの方にさせるわけにいかないでしょ。バカ言ってんじゃないわよ。参謀長が直に来たら何でもタダで持ってくって話になっちゃうからアタシが出向いてきたのよ。商売を少しは真剣にやりなさい。アナタ達がそんなだと会社が潰れるわよ」
 自分の娘のようなことによると十になっているのか疑わしいような女童に正論で叱られ物販本部で応対していた面々は更に恐縮した。
 ショアトアが品目の取りまとめを預かったのは彼女が極めて計算に強く、生活の様々に均衡の取れた感覚をしていて、不審に容赦なく吠えかかる番犬のような性格をしているからだった。
 ペナン一等軍曹は参謀長からマルモッサ兵長をデカートでの調達任務中は新品少尉と同じように扱えと命じられていて、およそ士官のように扱っていた。
 それは、もちろんショアトアの非公式の立場が参謀長であるリザのゲリエ卿夫人の義妹のひとりというデカートでは必ずしも無視しきれない一面があるわけだが、実務上も聯隊から離れて問題のない人材としてはかなり上等の部類の人員だった。
 人材にはかなりの人選と訓練をおこなっている自動車聯隊だが、どういう意味においても余裕があるというわけではない。躰の小さなまだ成長が終わっていないショアトアは全く兵隊向けではなかったが、性格や頭脳の上では様々に役に立つ素養を秘めてもいた。
 ショアトアが兵隊をつれてデカートまで出てきていたのは、未だに羽根を伸ばすにはあまり向かないアタンズの状態もあって兵隊たちの慰労の意味が無いわけでもなかったが、ついうっかり羽目をはずしがちな子供の面倒を見るのはリザは苦手だった。
 子供に子供を引率させるというのはあざとくはあったが、一つの手法でショアトアの一見幼気な外見に反した理路整然とした隙を嫌う性格はその目的に上手くハマった。
 参謀長には面と向かえなくともその従兵ならばという浮かれた連中も多かったが、退屈しのぎに訓練相手を探している本部付きの下士官にとっては、ショアトアマルモッサ兵長はイキの良い囮鮎のような存在でショアトアもしばしば遊び半分に訓練に巻き込まれることがあった。
 もちろん遊び半分なのは訓練指導する下士官にとってであって、ショアトアは風景が歪み数を数える息が数を忘れさせる状態に疲労して、参謀長の天幕で寝かされるような状態になるわけだが、その程度で動けなくなるような兵隊は重要な陣地に置いておくにはまだ早すぎた。
 とは云え、懲りない音を上げないショアトアの根性は本部付きの下士官にとっては全く鍛えがいのある新兵で流石はあの参謀長の妹君だというところで納得されてもいた。
 最初はショアトアの体力は砂時計代わりに使われていたが、そのうち日が暮れラッパと笛が食事を告げるまで、なんとか起きているようになっていたから、なかなか有望でもあった。
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