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百万丁の花嫁
リザール城塞 共和国協定千四百四十六年冬
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リザール城塞攻略戦が秋というよりも冬、雪の降り積もり始めた時期におこなわれることになったのは、前線展開した兵隊に入浴をさせるという大きな手間が加わったことによるものだった。
それは元来絶望的な手間と危険を伴うものだったが、雪が降り積もり集落や拠点からの往来が困難になれば、いかに無軌道な帝国の開拓者たちも静かになる。
戦闘単位としては稚拙愚劣でありながら圧倒的に巨大な戦力の中核をなす、帝国の民兵たちは自らの命を護るために秋の訪れとともに冬越しの支度を優先した。
周期的に訪れる帝国と共和国の海の潮の波打ち際のような戦線移動とその小康状態はつまり、共和国と帝国のそれぞれの兵站の事情と充実の具合によっておこなわれていた。
既に陣地地形が入り組み、長閑な田園と云うにはあまりに危険な地域になったリザール川の西岸一帯は杜撰な畝のような奇妙な縞模様を描いて緩やかに帝国に支配されていた。
もちろん農繁期を狙った共和国軍の遠距離砲撃による度重なる恐怖爆撃によって、かつて帝国の開拓者が新天楽土と愛した土地ではなくなったが、しかし共和国にとってはまったき敵地として幾度目かの見えない壁を作っていた。
帝国の大戦略は共和国軍の想像を遥かに超えた知覚できない形で霞網のように広く戦域を覆っていたから慎重になることも当然に必要であったし、それよりも北部軍団の本営でワージン将軍を始めとする多くの幕僚が倒れたことに対する始末手当は相応の時間を必要とした。
フェルト将軍がワージン将軍の倒れた後に自分の師団を軍団に統合する形で指揮を引き継いだが、これによって秋から冬におこなう予定であった作戦は事実上流れた。
様々な調査の結果、というべきか無視しきれない実態として肺炎を伴う塹壕風邪と称される感冒が戦線全域で大きく流行っていた。帝国軍との作戦戦術と関わりなくとも将兵の衛生状態の確認は必要である。東部戦線総軍司令部はそう結論した。
そのうちの幾割が帝国軍の毒ガスによるものであるのかは、判断のしようがなかった。
だが、ともかくも兵隊をまとまった部隊単位で本部陣地まで下げて、定期的に入浴と洗濯をおこなう体制を整備することになった。後方に下げることで体調の不良が気分的な一時の精神的なものであれば、銃や大砲の音から離れるだけで落ち着くかもしれないし、更に余裕があれば、散髪や女郎屋なども足が伸ばせるかもしれない。
本部陣地の酒保に女郎屋を準備することは流石に無理だったが、戦区が落ち着いていて運よく後方との往来が信用出来るようなら、輜重警備や行嚢の受け渡しなどの名目で酒場があるくらいのどこかの街まで兵隊を下げさせ羽根を伸ばさせるのも広義に於いては兵站の重要な一部であった。
鉄道軍団の努力はこれまで共和国軍が不可能ごとと投げ捨てていた幾らかの兵站上の采配を、現場の面倒厄介の範疇でなんとかこなせる出来事に変えていた。
鉄道がアタンズまで来たことで燃料や資材についてある程度余裕が出始めたということももちろんあったが、実は相当の人馬に被害が出ているらしいことが見えてきたことが、ともかくも陣地の衛生環境改善に尽力すべし、と毒に倒れた後に意識は回復したものの未だに全身に麻痺の残るワージン将軍が呻くように述べ命じたところであった。
比較的兵隊の扱いに保守的なところの強い兵站参謀が積極的に人員のローテーションに賛意を示したのは、もちろん鉄道が延び鉄道軍団がアタンズからさらに前方に向けて拠点の設定を始めたことも大きく、後方から複数の聯隊が送られてきた効果があって部隊の配置を調整する必要もあった。
秋季攻勢を諦めた後であれば本格攻勢まで多少の時間があり、前線にある蒸気機関による陣地排水などに使っている小型の揚水機械が構造上、冬場でも季節に関係なく湯気を立てる泥混じりの湯を吐き出すことで、燃料の余裕と兵隊が浸かっても病気にならない程度の水があれば、あとは設備を作る場所の問題だけだった等という様々な理由があった。
人員の休養配置の循環も数的には劣勢であるものの一般的な状況として包囲をしているのは共和国軍であって帝国軍ではないことから可能と判断された。
往来の手間を多少かけて陣地を離れることは容易いというほどのことではないが、不可能というほどに出来無いわけではなかった。
陣地に篭っている兵隊も二日三日に一日はなにができるというわけではないが配置のない休息日があることが普通だったし、そういう時間があれば後方で風呂と洗濯とをというのは出来るならやりたいところではあった。多くの兵隊が風呂に入らないのは嫌いだからではなくて、そんな贅沢を望んでも叶えられないからでしかない。
鉄道の恩恵は全く分かりやすく前線の兵隊の待遇を改善した。
泥混じりの湯であってもともかく体を洗うのに湯の中で手足をこすれるのは、冷たい土の壁に包まれた寝床で髪の毛や背中をかきむしるのとは訳が違ったし、湯船の中の水は泥混じりでも飲んでも腹を壊さなさ気な水も湯上がりに泥を流すのに使えるとなれば、実家の風呂よりだいぶマシだ、という連中も多い。
流民や貧民上がりの連中も軍の兵隊には多かったから、兵舎での風呂が初めてという連中も多かったし、塹壕陣地で泥まみれでもまぁしょうがない、という程度に兵隊たちは考えていたが、風邪の対策に風呂で体を温め清潔にする、ということであれば、風邪で苦しんで死ぬのは嫌だな、という程度には理解もしていた。
前線にいま集まりつつある共和国軍将兵二十万あまりを入浴洗濯させるということは、兵站上猛烈な負担であることは明らかだったが、つまりはワージン将軍が倒れたことによって、その理由と対策が明らかに示されたために、各級本部の雰囲気としてなにもしないということは許されなくなっていた。
そして、これまでと違い鉄道によって兵站上に余裕が期待され、また実際に兵站を直接物資面から支配する補給運行上ある程度の余裕があったことが、陣地後方というよりも再集結用の予備陣地付近に小さくない規模の入湯設備と洗濯用の資材や被服の予備を用意する機運にもつながった。炊事をおこなう脇で風呂や洗濯という家庭でおこなう家事三大難事業が集まったということである。
農場の奴隷が必要になる理由のそしてその奴隷のために別の奴隷が必要になる理由として、炊事洗濯入浴という作業が全く手を抜けば果てしなく手を抜け、最終的に死に至るという性質を持っているわけで、兵站事業の中ではおよそ炊事のための材料調達までを兵站として扱いその他は個々の兵隊に任せていたわけだが、直接に生命ひいては部隊の機能にまで影響するとあっては残りの洗濯入浴も兵站事業に組み込むこともやむを得ない判断となった。
馬匹と行李の容量を財布の紐と同じように握っている兵站参謀が敢えて反対しないとあれば、物事の多くはスルリと流れる。
物の道理と人の力の限界を代弁する役割の兵站参謀は望んで保守的であるわけではなく、全く純粋に手持ちの人馬の力でどれだけの将兵が養えるかという、嵩と目方の見積りの責任を預かっていたから、兵の規模と担当する戦域で出来ることなぞ最初からほとんど決まっていた。
帝国軍の拠点の排除が一息には行えないことはこの夏からの威力偵察が効果を減じていることで共和国軍も把握していた。兵を惜しんで土地を譲っていても、全面攻勢は秋からであっても、戦争をおこなっている軍隊が積極的な攻撃をおこなわないというわけはない。ただ、その数を絞り全体として手控えていたというに過ぎない。
もちろん放埒といえるほどに自由気ままに戦力を振り回すことはできないが、そうであっても機関小銃と自動車で機動力と火力密度の上で圧倒している共和国軍が、その攻勢の意思を阻まれることはこの数年なかった。
戦略的な兵站面で困惑するほどの格差を見せつけられてはいたが、戦術的な作戦局面において共和国軍は帝国軍に優勢を確保しているはずだった。
一般的な意味においてそれは現状この瞬間も変化がない。共和国軍首脳はそう理解していた。
だが、それが陥穽となってワージン将軍が倒れた。
将軍が倒れるとしてそれがどれほどの衝撃であったかを想像することは実はかなり難しい。
一般的な話題として将軍であっても、理屈上の建前ではただ一人の将校であるから別段彼一人の死や体調不良が何かを損なうことなぞありえない。もちろん理屈の上のことは可能不能で云えば可能であったし、可能であればかくあることを求められてもいたが、実態として混乱が生じ、東部戦線は鉄道延伸到着後も攻勢を限定的におこなっていた。
混乱が生じた理由を意地悪く云えば、ワージン将軍が戦死ではなく存命で、その昏倒の理由が極めて早い段階で特定されたことが原因であった。
北部軍団は実際のところ鉄道線の延伸が後回しにされており、戦線全体の中にあっては三号橋頭堡の連絡の確保と定期的な恐怖砲撃をリザール川東岸域におこなうことを中心に中部軍団の助攻を主におこなっていた。
三号橋頭堡は地形的には有力な陣地であるのだが、連絡線の接続には距離があり、実を云えば継続的な補給の接続にはかなりの無理をしてもいた。
三号橋頭堡は弾薬や水食料燃料など優先的に運び込まれたリザール川を間近に望む東岸の稜線の一角、橋頭堡という近代的かつ簡素な砦或いは浅瀬を守る陣地兼物資集積所というよりは全く古典的な意味での山城で、当初は確かに簡素な丘陵陣地であったものが幾度かの帝国軍の攻勢と周辺の地理の把握が及ぶに至り、共和国軍本部からは川向う半ば永久拠点の様相を呈していた。
帝国軍も幾次かの攻勢失敗が極めて悔やまれるものの、リザール川流域の有望な渡河点を抑える土地を黙って諦めるわけにもゆかなかった。放置すれば比較的面倒の少ない渡河点を共和国軍が大挙して進撃することにも繋がる。
共和国の一個聯隊がその場に居座っていることで、帝国軍はリザール川の中でも比較的深さの安定した両軍の様々によって荒らされていない幾つかの瀬を束ねた渡河しやすい地域を五リーグほども下流方向に迂回して橋をかけることになった。
これまでの帝国軍の主街道であった一角が封じられる要衝ということで、両軍にとってはここしばらくの激戦の焦点で、攻守ところを変えて帝国軍の正規部隊が幾度となく攻めかけ、共和国軍が払いのけ、その隙に帝国軍が渡河部隊を送り込み後方の遮断を試みるのを更に共和国軍が受け抑える、という激戦が繰り広げられている土地だった。
戦理から双方が諦めるはずもない三号橋頭堡はギゼンヌから道のりで五十リーグ。戦域として安定確保されている後方地帯の集積拠点から距離で二十リーグ。道のりでおよそ三十リーグ。その三十リーグの道のりはほぼ日替わりで支配地域が入れ替わるような状態だった。
まともな輜重であれば五日六日或いは半月もかかる道のりを、軍団から抽出した自動車を集中的に編成した自動車化輜重と現地の戦闘的な補給参謀と連絡参謀の連携によってほぼ二日で連絡接続をおこない、補給をおこなっていた。更にこの先リザール城塞までは地形的に道が開けていて嘗ては幾つかの湖沼地帯があったもののわざわざに迂回するまでもない、帝国が起こした土石流によって均された干拓地が四十リーグ広がっている。
こうも広大無辺に広がってしまうと戦線をどう敷こうが遭遇戦になる。
自動車化輜重にとっては往路よりも復路のほうが危険であって、往来した車列からおよその戦力を割り出すことが出来るまでに帝国軍は対自動車戦術を洗練させてもいた。そして、縦深に余裕のある道のりを快調に飛ばす自動車部隊の速度を互いに武器とするように共和国と帝国の戦術は発展をしていた。僅かな戦力を見せ金として使い、本当の罠に誘い込むなどという手段は全くささやかな方法で、帰路全域で一気に戦力を蜂起させ圧迫をかけて、それ自体も極めて高価値の物資である自動車そのものの破壊を狙うという方法がとられることもあった。
共和国軍側も帝国軍の狙いについては把握していたから、初期のように奇襲的な戦術目標の変化にむざむざと貨物車を奪われ或いは破壊されるようなことは減っていたが、それでも路面がある程度以上に荒れると人馬のように歩いて超えることのできない自動車は追い詰められ破壊されることになった。橋頭堡の西側は沼沢地が多く、ある程度に選べる道はあるものの貨物自動車を沈めるくらいの大きな水たまりとも沼とも言えない軟弱な土地が道の外には広がっている。いっそ、底まで沈んでしまうくらいの沼地ならばともかく、腹を支えさせ車輪を虚しく空転させるような湿地であったから、一旦数を頼みに追い込まれてしまえば、わかっていても這い出すことは難しかった。
物資の補給の周期とおよその兵力規模は把握された上で尚重要な拠点である三号橋頭堡は、朝も夕も雨も晴れも関係ない激戦が大小数次が繰り返され、およそ五千の共和国将兵と僅かに五万に欠ける帝国軍の将兵の血潮をリザール川の流れに足した。
数字の上では勝ち続け、いまも橋頭堡という意味では確保し続けている共和国軍ではあったが、もともとの人員という意味でも作戦上の戦力の余地という意味でも重大な失血と拘束をされている状態で、三号橋頭堡を確保し続けるだけで北部軍団のほぼ全力が注力されていると云っても過言ではなかった。
そして、聯隊ひとつで師団を幾つか拘束できるような取引は全く綱渡り的な状態であったが、東部戦線全体を見渡した時には必ずしも悪い取引というわけではなかった。
北部軍団のワージン将軍は全く待つことの苦手な種類の将軍で、三号橋頭堡を餌にした逆包囲作戦を検討していた。
とは云え北部軍団は各地聯隊の来援補充を受けているものの、未だ数の上で十分に優勢とはいえない状態でもあったから、最終的には機動戦、或いは撃滅を企図した決戦をおこなうことになるはずだったが、ともかく戦術的な独自判断をゆるく縛るであろう包囲側の心理をついて帝国軍内の戦術行動上の温度差と共和国軍の機動的な優勢と瞬間火力を活かして各個撃破を目論んでいた。
かつてアタンズでワージン将軍がおこなったことの焼き直しで、狙いは互いに見え透いていても、帝国軍のそれぞれの陣が一斉に統一して動けない以上、対処の難しい作戦状況を作れる。
秋のうちに一旦三号橋頭堡周辺の帝国軍を蹴散らして、春先に予定していた全面反攻につなげる予定だった。
だが、ワージン将軍が倒れたことで積極案は一旦棚上げになった。
ある意味で運と判断にセンスが必要な作戦であったことから、将軍不在でおこなえるような内容ではなかった。
事前には物事の幾つかの結節までしか計画ができず、細かなところは戦術判断を作戦判断につなぎ合わせる柔軟さとその場で作戦目的をも変更する権限が必要だった。
上手くゆけば圧し無駄と見れば退く判断の剪定は、作戦全体を眺める必要があって、全体の構図を整える算段が求められる。
つまりは、後先なしの成り行き任せと積極果敢な自由運動の端境にある作戦で、完遂するには責任と権限が必要で誰でもが備えているわけではない資質に期するところの大きい作戦だった。
ワージン将軍が倒れたことで北部軍団は積極的な運動戦を指揮する機能を失った。
無責任に業績や戦果を求めれば良い部隊指揮官と、それを束ねる将帥は自ずと求める地図の風景が異なっていて、ワージン将軍はこの時代では屈指の現場判断の優れた将帥だった。
そしてワージン将軍が未だ存命であることから北部軍団は統帥権をワージン将軍に委ねたまま、積極的な活動を手控えた。
鉄道によって捕虜が掻き出された後に後方で編成されていた聯隊が送り込まれてきていたが、共和国軍の聯隊の戦力というものはそれぞれに規模や規格が整っている師団と違って、全くそれぞれ別ものと云って良い種類のものであったから、その戦力と扱いの把握と整理は地図の上にポイと置けばそれで良いという種類のものでもなかった。
それでも橋頭堡の連絡回廊を作る役割くらいは果たせるだろうと考えられていたし、とりあえず主攻勢は部隊の能力を把握してから、と考えていたが、毒ガスの衝撃とその対策が兵隊の入浴と洗濯であるという衝撃的な内容は東部戦線総軍の幕僚たちに大きな目眩を与えた。
報告を額面通り受け取るなら、帝国軍の陣地を攻略した部隊を一両日中に入浴と被服の交換をおこなわない場合、部隊拠点ごと戦闘力を喪失する可能性がある、という予測であると云え、現実としてワージン将軍とその本部要員が倒れた。
そのような事実があれば対策は必要だったが、全面的な対策を準備すれば来春季どころか来年いっぱいをかけてもそんなことは出来はしない。
陣地のすべてが水の問題を抱えているわけでもないが、兵隊が宿屋に泊まるほどに生活の全てを整えられるはずもない。行軍中も入浴や行水などという贅沢は下士官の裁量に任されていたし、およその意味で兵隊は着の身着のまま戦争に従事していた。
アタンズやペイテルなどの後方の拠点であれば入浴も洗濯も容易だが、兵力二十万になんなんと整えている前線陣地に入浴やら洗濯やらの準備ができるはずもなかった。鉄道が前線司令部の街に伸び着き、ようやく輜重の馬匹に秣を充てる目処が出来たが、替えの被服を往来させるというほどに行李をふくらませるほどの余裕があるわけではない。
被服を洗濯するということは荷物の重さが変わらないまま往復するということで、輜重にとっては文字通り重荷だった。
一方で入浴や洗濯を準備しないということは、帝国軍の使う毒に対する対策がなく、土地を奪い返せないということも意味していた。
対策はないのか、という問いに対しては部分的には対策はあった。
事件が起きた秋口のうちにローゼンヘン工業というかゲリエ卿から私物を奪い持ち出すようにしてゴルデベルグ中佐が野営装備の中に入浴洗濯の設備を組み込んでいた。
またローゼンヘン工業か、という総軍幕僚の苦る声はさておき、対策が時間の問題であることはそれとして、いつまで待つか何を待つか、土地を譲るのか兵を諦めるのか、という問題があった。
待たない。
待つまでもない、というラジコル大佐の作戦案は全く驚くべきものであったが、一方で大佐の実績とその戦力を鑑みればむしろ当然といえるようなものだった。
冬の間、往来の難しい前線拠点は春になれば当然に往来を必要とする。
拠点化してしまった集落は半農とは云えつまりは生産力としては低下しているから秋の蓄えはともかく、冬を越して春を超えて尚豊かというわけにはゆかない。
後方からの一定の往来を必要としていた。
陣地網に関しては後回しにする。
冬の間に連絡線の大本であるリザール城塞を制圧する。
その後に直径三十リーグの巨大な郭を持った攻城戦をゆるやかに戦う。
自動車聯隊の機動力であれば、川沿いの橋頭堡が確保されている限り、距離そのものは問題にならない。
もちろん聯隊の補給そのものは前線において困難であることは既に実績がありこれも明確であるが、既にふたつ目の聯隊が編成されている。そしてそれぞれの戦力は以前に倍している。
アタンズを拠点とした補給には余裕があり、戦区を長駆する交通の問題はあるにせよ、自動車聯隊に優先権を与えていただけるなら、ふたつの聯隊が単独で交互にリザール城塞を短期間制圧をつづけ連続的に占領することは可能である。装備の移動を考えれば、ひとつの聯隊が予備ということで見かけ上一つの部隊、旅団として機能することになる。
リザール城塞周辺には水源があることはほぼ確実であるから、入浴上の問題は燃料だけということになる。部隊の性質上燃料の予備は計上されていて問題はない。
素案としてはそういう流れだった。
ラジコル大佐の構想はある意味で総軍幕僚たちのいくらかも脳裏に過ぎらなかったわけではない内容だった。
だが、部隊を掌握している指揮官が語るのと、戦力の実態が額面以上に読み取れない幕僚が語るのとでは大きな違いがある。アタンズからリザール城塞までの百リーグは標準的な輜重であればおよそひとつき、精兵であっても十日では怪しい。戦闘を考えれば半月はかかる。それを何度でも通ってみせると豪語するラジコル大佐の意気込みは、破天荒と一言で云うには実績もあり、何より今の東部戦線の状況にとってあまりに頼もしくあった。
冬の雪によって帝国軍の動きは抑えられていたが、実を云えばここしばらくで帝国軍の動き全体が巧妙な連携を取り出していて十年前とは明らかに帝国軍の作戦の傾向が変わっていた。
もちろん小規模な拠点を既に前線に膨大な数抱えている、密度の高い縦深を持っているというそれだけのことであっても厄介なのだが、それぞれが統制のある連携を取り始めていた。
単純に土地を譲るということはもはや共和国軍にとっては危険な状態でもあった。
ある意味で予定通りの作戦ではあったが、元来雪が降る直前を攻勢開始の時期に予定していて、既に一面が白くなっている今冬本番の時期を選ぶことは常識的判断からすれば怪しむべきことでもあった。
それでもやるかやらないか、という判断を前にして鉄道が延び、広域兵站聯隊が間に合わせのように後方に走らなくとも物資の補給が潤沢におこなえるようになった現在、おそらく戦力機動力という意味では冬であることすら優位である今、作戦をおこなわない理由はないように感じられた。
結局ラジコル大佐がふたつの自動車聯隊と幾らかの貨物自動車による輜重を取りまとめ装甲歩兵旅団を臨時編成して指揮してリザール城塞攻略作戦をおこなうことになった。
共和国軍の装甲歩兵旅団の動きそのものは帝国軍に筒抜けだった。
もちろん隠さない隠せない動きであったのは事実だが、それを伝える術が帝国軍には既に整っていた。
ここ数年のうちに帝国軍は巨大なレンズと鏡を使った燭光通信機を開発していて、かなりの遠距離の通信を黄弾のような或いは夏の祭りで打ち上げるような大型の花火とも思えるような、信号用の特殊砲弾を組み合わせることで、昼夜関係ない通信を師団内或いは師団間の戦域でおこなっていた。およそ八色程度の閃光と煙の組み合わせというだけであるが、彼らの持つ空騎兵と組み合わせると部隊の位置を問わずにかなりの遠距離を統一した管区として扱える技術で、鉦や太鼓と基本的な運用は代わりはしないが、より徹底した形でより大きく戦場を指導できる手法だった。
雨天曇天では空中の視界が小さくなり、風が強ければまた妨害されるという、天候の悪化激化に脆い面もあったが、共和国から鹵獲した少数の通信機を骨格に空騎兵と烽火信号ならぬ砲火信号と大掛かりな燭光信号の組み合わせによって、全周防御を前提に陣地化した民兵の集落とそれを縫うような安全地帯の迷宮は、近傍の集落や帝国軍本軍との連絡をおこなうことで夏冬関係なく十分に連絡を確保し続けていた。
もちろん連絡士官や無線機電話などに比べれば言語的な融通は小さいが、複数の信号形式を組み合わせることで、その部分は対処は可能でもあった。そして、それを十分に実用可能にしたものは、全く皮肉なことに共和国軍の新兵器である双眼鏡を大量に鹵獲したことによる。
ある時期共和国軍大本営は前衛尖兵を務める猟兵に向けて双眼鏡を大量に導入し、部隊の交代を待たずに積極的に配備しようとした。複数の精密なガラスの組み合わせとは思えないほどに安い遠眼鏡が小銃よりも一桁安い金額で手に入るなどとは大本営では誰も考えていなかったし、遠眼鏡の効果や意味は軍隊にいれば嫌でも気がつく種類の物品であるはずだから、前線の誰もが喜ぶはず、と大本営では思っていた。
実態としては既に崩壊寸前だった東部戦線の補給線の混乱の中で兵站上の迷宮に嵌まり、書類上の名目のままに前線に送られたものの、明確な宛先のないまま各陣地の一般品目備品とともに物資集積所に書類とともに送り込まれ、戦線の後退に火を放たれて置き去りにされていた。
およそ十万の双眼鏡のうち、五万前後は実際に猟兵の手元に届きその活動を支えたが、小型とはいえ二パウンを僅かに出るような遠眼鏡は下士官向きの装備と云え、およそ分隊にひとつかふたつ、それと見栄を張った新しいもの好きの士官が従兵に預ける、というのがおよその現場での使い方で、水筒と遠眼鏡を秤にかけて、中身を飲めば軽くなって捨てても惜しくない水筒と如何にも高価で作りの立派な遠眼鏡のどちらが戦地で便利で捨てやすいかといえば水筒だろう、という兵隊感覚もあって、十万という十分に大量ではあるものの全将兵には配れない半端な数も足を引っ張り、兵站将校なら誰もが存在は知っているが、配備は十分徹底した形でおこなわれないまま、混乱している拠点倉庫よりは予備陣地線後方の物資集積所のほうがまだ多少は前線が必需に手を付けやすい、そう考えられ数千の被服や野営装具と同じような扱いで物資集積所に送られた。
幾らかが後方の警備にあたっている警察軍に配備された。
事実上拠点周辺の歩哨であることを期待された警察軍は義勇兵の寄せ集めで故郷にいれば愚連隊と大差無いような連中であったが、そうであるがゆえに襟を正させる必要もあり、形を整えることから優先していた。
配置にある間は襟のボタンを全て閉じろ、という訓戒を様式にした流れで無線機担当軍曹と同じように双眼鏡担当軍曹という役職が一つ増えたことを意味していた。
それは兵站全体が混乱している中では、全体としてはおよそ誰もが満足したかたちで配備が進んだということでもある。
ここしばらくの戦略的転換によっての戦線後退も、共和国軍としては十分に組織だった戦争計画ができたと自負していた。
戦線の後退は戦況によるものとはいえ、銃弾砲弾をも備蓄している物資集積所の全てには火が放たれていて運び出せる物、例えば歩兵に配置が始まっていた新型の軽野砲である噴進弾などは当然持ちだされ新たな拠点に移されていたが、銃弾砲弾という敵に渡ると危険な物品を優先した結果として、夥しい膨大な量と云える食料や被服などの備品類には十分な手当てが着かないまま、火を放つことになった。
それは全く徹底したもので戦線からの予定通りの後退をおこなえなかった幾つかの部隊が、望みの綱を物資集積所に託して冷えた倉庫の残骸を集結拠点に来援を本部に要求するという一幕が一度ならず開かれた。
拠点の遺棄は全く計画通りにおこなわれていて、後退してきた兵隊の多くは絶望的な気分になっていたが、缶詰の普及が始まっていたことから水はともかく食料が完全に火に包まれたわけではなかった。ともかく、ほとんど身一つで陣地の放棄をおこなった部隊も、似たように追い込まれてきた幾らかの部隊とともに来援を待つ間に腹ごなしが出来るくらいには缶詰は燃え残っていた。
武器はなかったが倉庫の残骸を骨組みに燃え残っていた土木工具ショベルやツルハシを道具に土を積み上げることで煤けた缶詰で腹を満たし来援を待ち逆襲しつつ後退する位の芸当はできた。
ツルハシやショベルといったモノが燃え残るのは兵站関係の参謀たちの頭から抜け落ちていた、と言えないこともなかったが、全てが燃えるとも燃えないとも誰もが期待していなかったから、ともかく友軍が大方が生きて合流出来たことのほうが重要だった。
そのためにおよそ三万を少し割る程度の双眼鏡が、戦線の移動で放棄された物資集積所で帝国軍の手に渡ったことを重要視する者は殆どいなかった。
兵隊が踏むことも殴りつけることも考慮に入れた双眼鏡は焚き火に放り込まれることも想定はされていて、石炭を燃やす炉の中ならばともかく植物が焼けるような焚き火に晒されたところで、薄いブリキの保管ケースの中に入った未使用状態の双眼鏡が受ける試練としては海風にさらされたり鉄道貨車の積み替えで外の梱包ごと投げ出されたりという出来事よりもヌルい出来事であった。陣地の芯材代わりとして銃弾砲撃に晒されたものを除けば、ほとんどの双眼鏡は機能上無傷のままで放棄され、そのうちの半数ほどが帝国軍の手に渡った。
機械としての双眼鏡は危ないところのない機械で、操作も顔に合わせて僅かに動くところのいくらかを調整すれば理解できる種類の機械だったから、帝国軍が制圧した陣地拠点を検分した際に接収した大量の揃いの金属箱、当初は金庫か書類行嚢かと考えられていたモノから出てきた遠眼鏡を帝国軍が喜ばなかったわけはない。
帝国軍の戦果としては全く未完全な追撃に終わり予定の土地の大半は得たものの完遂したとは言いがたかったが、物品としての双眼鏡が手に入ったことは烽火通信と燭光通信を組み合わせた拠点間の連絡の底を固める役に立った。
帝国においても飾り以上に性能のある遠眼鏡は高価な物品だったし、それなりの数を出征時には揃えていたが、膨大な民兵に普及出来るほどに数があるわけではない。
わずか二万ほどの遠眼鏡ではあったが、ともかくもまとまった数での敵からの鹵獲品で使えるとなれば、戦略の転換で小銃の型を揃え始めた民兵たちの長に双眼鏡を渡すことは、あまり悩む必要のない当然としておこなわれていた。
ある程度普及が進むと鹵獲品の双眼鏡は帝国軍の陣地間の連絡の背骨を担うことになった。
型示信号の殆どの問題は相手がこちらの信号を見ているか見えているかという問題に止めを刺す。
双眼鏡の普及は少なくとも、能力的に見えない、という問題を送信者の念頭から排除することに成功した。
帝国にとって燭光信号は軍人や船乗りであれば手旗信号と同じように馴染んだものであって、もちろんそれなりに民間でも普及を果たした技術であるが、農民植民者がそういう技術を持っているかということは期待できない。
手旗信号はそれなりに単純なつまりは腕の長さほどの布地が二枚、できれば向きがわかるように二色あることが望ましいわけだが、旗になるものがあれば良い。
慣れるまではそれなりに体力が必要な技能であるが、乗馬でも農作業でも慣れるまでは切れのある動きを期待することは出来ずとも、練習と場数で定型的な信号送信はやり取りできる。
問題はむしろその信号を読み取る側の問題が大きい。
相手の信号が怪しげである場合は、再送を求める必要も含めて判断を下す必要がある。
それをいかに読み落としなく読み取れるか、という問題がひとつと、苦労をして送受信をした信号の文字数は動きに応じて送られるものであるから、文字数に応じて時間は伸びその時間に応じて送受信が怪しくなるという問題がある。
千でも万でも好きな数だけ文字を送れる型示通信であるが、一般的な話題として三十を超える文字の読み取りは難しい。およそ実用上の限界は百五十というところであり、時間としては三分から五分、というところが壁になる。
もちろん手旗信号の競技会では十分を超える試技や、中には三十分を超えるもはや舞踏と変わりない模範演技もあるわけだが、そういったことをおこなえる送信者は前線の将兵にはいないし、仮に居たとしても協議会の如き場であってすら複数の受信員が読み取りを突き合わせるような状態であるから、できるかぎり短文を、可能であれば数文字で送りたいというのは帝国でも共和国でも変わりはなかった。
そういう中で飛び出した電話機や無線機というものの衝撃的な価値は当然に瞠目すべきものであったが、帝国において全く良い時期に大量と云ってよい双眼鏡が手に入ったことによって型示信号においてもひとつの展開があった。
海辺にあれば灯台の灯籠かと思うような設備は贅沢なガラス製の鏡を複数枚組み合わせたもので人の頭ほどの松明――つまりは普通の篝火を理論的にはその日のうちに連携している全域に信号として送る機構は、野戦用の地図保管棚をまるごとガラス細工にしたような大きさで鹵獲した双眼鏡などよりもよほど高価で精密な機械であったから、それを営々脈々と千を超える数を前線に送り込んできた帝国軍の兵站能力は全く底しれないものであったわけだが、そういう準備はあっても全てが万全とはいえず、特に流刑同然に土地を下賜された開拓者はまつろわぬ民草から自らを守り調伏する民兵として武器を渡されたものの、兵隊として資質が揃った者ばかりというわけはあるはずもなかった。
農民の多くはそれなりに五感は揃っているものの遠目に自信がある者が集落にそれぞれ散らばって存在するわけではない。そもそもの話として帝国軍はこれまで民兵を組織として扱ってはいなかった。
そこに数名の帝国軍士官が巨大な燭光通信機と必殺兵器とともに送り込まれ、軍事的指導者としての役割をはたすようになり始めた。
その組織的転換が帝国軍の民兵の質が変わることにつながっていた。
これまでの帝国軍の軍事行動の名目としては、開拓者の護送護衛と開拓初期における入居地の確保、ということで本国の支援を受けて兵站的に圧倒的に優勢な状況を流用して一気に攻勢をかけていた。
三百五十万からの人員を賄うだけの物量を通過させるための設備は、つまりはリザール城塞――エノクサ城を帝国でも小さいとはいえない都市として機能させるだけの往来を支える連絡線を備えたということであった。
これまで帝国軍にとってエノクサ城は単なる哨戒網の最先端拠点というだけに過ぎず、重要ではあっても注目をされていた拠点というわけではなかった。そこに年間数十万の人々を往来させる機能をもたせることは帝国であってもなかなかの事業であった。
もちろん、軍事行動としての戦闘を行っている意識は帝国軍にはあったが、あくまでも戦争ではなかった。
帝国で戦争といえば皇帝出征の宣下が轟き、玉体自らが戦陣に臨まれることはなくとも、近衛軍が少なくともそのいくらかが動くことになる。
帝国内でそのような動きがないならば、それは戦争ではない。
演習などということももちろんありえないが、少なくとも国家の一難である戦争ではなかった。
歴史的経緯から西方に滞在する叛徒共が共和国なる国家を自称する組織を作っていることは当然に帝国にとって知るところで、過去幾度かの叛徒の逃亡先追放先として手頃な土地であったことから、相応に軍事的な備えはあったが、それは未開の曠野を求めての無為な行為ではなかった。
その帝国の文明の前哨基地であるエノクサ城に蛮族の軍勢が十年ぶりで迫っていた。
陣地化された集落を横目に雪野原を急ぐ自動車の群れがひたすらに東に向かうとあれば、そして様子を確認するために冬にわざわざ仕掛けてみせたリザール川の橋頭堡を押し渡って来るとあれば、その戦闘の数時間で追い抜いた前線陣地からの報せに帝国軍は動揺し、しかし精兵である彼らは揺らいだものの戦陣を整える動きにつなげた。
共和国軍の装甲歩兵旅団の早さは帝国が苦労して編み上げた通信網を以ってしても或いは途中で本営の時を稼ぐべく奮戦した勇猛な将兵の血と汗を以ってしてもようやく丸一日の猶予を与えたのみであった。
だがそれでも帝国軍の備えを整える時を稼ぐことには成功した。
第三橋頭堡で自走に切り替えた戦車の群れはリザール城塞から十二リーグ、つまりは旧共和国軍の陣地線の後方、司令部跡に達していた。
湿地帯で側面を守られていた地形はリザール川の流れが変わった事で耕地になっていた。
小高い丘だったこの土地は直接に泥に塗れることはなかったはずだが、地形が変わり数年のうちに草木に覆われていた。
小さな連絡用の帝国軍部隊が拠点を作っていたが、抵抗も降伏をも意思を示すこともできないままに踏み潰されていた。
この位置からはかつての湿地である農地を踏み渡れば実は十二リーグよりも近くリザール城塞を射程に収められる。
戦車の砲の射程は戦車を標的に撃滅しようと考えれば一リーグを超えることはありえず、半リーグどころか事によれば千キュビットでも怪しくなるわけだが、巨大な城塞に城壁に砲弾を撃ちこむだけならばこの位置からでも出来ないわけではない。もちろん狙って当てる意味のあるところに当てる事ができるかは全く別の問題であるが、ともかく既に聯隊の戦力はリザール城塞を射程にとらえた。
作戦上ここまで足を伸ばした以上、戦車は更に推し進みリザール城塞を制圧すべく動くわけだが、北部軍団から抽出された長距離野砲をここに置き、一個聯隊で城塞を攻略しもう一個は予備とする。素案としてはそういうことだった。
連隊ふたつと応援部隊ではなくひとつの旅団として行動しているので部隊を必要に応じて切り分けることが容易になったことで幾らか計画に修正が加わったが、基本的に部隊を三つに分けることには変わりがなかった。
前線での抵抗が少なかったことからそこそこ以上に戦力を温存している可能性もあったが、砲戦車はともかく歩兵戦車とその歩兵の銃弾は合わせれば一千万発を超えていて、ひとつの旅団が戦前の共和国軍師団の四倍以上の弾薬を抱えて行動しているということでもあった。
別段、銃弾の数が部隊の戦力でないことは言うまでもないわけだが、わかりやすいやる気、という意味でリザは静かに有無を言わさない形で先鋒に加わった。
気分の上では自分が乗り込むつもりだったラジコル大佐だったが、旅団長というポストは全く臨時のものでもあったがともかく全体の監督役でもあって、その主席幕僚が前衛の統制に立つというのは云うほどに理屈にそぐわないというものでもない。
元来聯隊長であるホイペット大佐が笑って良いのか気の毒な顔を作るべきかともかく内心の嵐を引き締めた無表情で乗り切るほどにラジコル大佐は羨ましげな憤りを素直に表した。
前衛と本部との距離が十二リーグというのは、常識的な配置からすれば十倍は勘違いしているような配置だったが、無線機と自動車が充実した部隊であれば、通信連絡の距離としては隣と変わらず、戦力の連絡という意味でもおよそ二時間の距離だった。平地を疾走するのであれば戦車も重機も十リーグは一時間で駆け抜けることも容易い距離であるからそもそも常識の地平が違う。
それにこの先はかつての湿地が均された平地で地形的な障害の殆ど無い農地だった。
どういう伏撃があるにせよ、敵の動きを見てから動くことに予備戦力の意味はあって、それは拠点制圧というものにおいても同じだった。
とりあえず火砲の射程の中で見通しの宜しいこの位置で野砲による恐怖砲撃の準備をしていた。十パウンにようやく掠るような焼夷弾では実のところ城塞には直接の被害を与えることは難しいことは双方わかっていたが、そうであっても射点が見えないまま流星のように降り注ぐ砲弾と突然広がる火の手の恐ろしさは人の手を止めるに足りる。
夕刻に旧司令部跡に砲兵の陣地を築き始め本隊は大休止をとって日が変わるのと同時に先鋒は移動を開始することになった。
入浴設備は流石に使われなかったものの柔らかく汚れのない卸されたばかりの蒸しタオルは準備され、ささやかながら贅沢な気分を兵隊に味あわせた。
雪深い、というわけではないが雪から逃れることも出来ぬ丘は、重機によって簡素ながら十分な陣地に仕立てられていた。
ラジコル大佐は直接の手持ちの戦力が再び幾らかの戦闘部隊の他には空の戦車輸送用の牽引トラクターや雑多な労務向けの車両の群れになっていることになんというべきか理不尽のようなものを感じていたが、高速化する戦術判断と広域化する戦域判断と巨大化する兵站管理とは単一の人間が管理するには様々問題もあって、過渡期にある自身の立場の複雑さを考えれば戦車でリザール城塞の城門を踏み破る贅沢を味わえるわけもないことは重々承知の上でゴルデベルグ中佐が全く小狡くその楽しみを掻っ攫ったことに口を尖らかせた。
新時代の将軍の姿としては装甲車の上部ハッチから戦場を双眼鏡で眺めるのも悪くはなかったが、通信管制車で連絡参謀と部隊の無線通信に耳を傾けながら居眠りをする贅沢を味わうことにした。
突入前の景気づけと篝火代わりの焼夷弾による支援砲撃が始まると本部の様子は一気に賑やかになった。
奇襲的な夜襲だったはずだが帝国軍の動きは早かった。
だが、鋼を鎧固めた戦車は帝国軍の抵抗を物ともしないままに壁を打ち破り崩れる壁の残骸を堀を埋める橋としてとんでもないところから蹂躙を始めていた。入り口でもなんでもないような壁に穴を開けられた防兵は建物の設計的な意図とは全く別に小さく分断され大混乱をしている様子だった。
流石はゴルデベルグ中佐、横車を押すことにかけては天下一品、等とラジコル大佐は全く野蛮かつ有能な女性参謀を内心で評していたが、ゴルデベルグ中佐は防兵の対応になにか不審を感じた様子だった。
ゴルデベルグ中佐は前衛予備隊に周辺の警戒を要請していた。
三十万だか何十万だかの帝国軍がまとめてリザール城塞にいるはずがないことは誰もがわかっていたが、三万から五万ほどの兵が常駐できるリザール城塞に数千の兵しかしないことから、突入部隊が周辺の警戒を要請してきた。
空城を釣り餌に逆包囲をするという作戦は帝国軍の戦力を考えれば考えられることだった。
集結拠点としてはわかりやすいリザール城塞だったが、既に戦域が湿地帯を睨む必要がなければ単なる平城であったから、より都合の良い場所に駐屯地を拓いているかもしれない。
そう考えなかったわけではないが、端から防戦に都合の良い土地を捨てるとも考えにくかった。
だが、現場に立ったゴルデベルグ中佐の判断は帝国軍の主力がいない。
という全くわかりやすい内容だった。
ラジコル大佐は西側に展開している部隊からの来援を受けることも考えて帝国軍に連携の取りにくい位置に本部を置いたことはさておき、リザール城塞が空であるとするなら敵に一方的にこちらの戦力の位置がバレていることに苦っていた。
本部の手元には戦車大隊と戦車歩兵大隊が一つづつで、残りの三つづつは城攻めに回している。実際に城塞の城割の内側に入りこんだのはそのうちの半数で、彼らの指揮はゴルデベルグ中佐が統括し、外側の部隊はホイペット大佐が掌握していた。
全く野蛮に洗練されたゴルデベルグ中佐は城内の抵抗の激しいところに敵将の姿を求めて装備の火力と防御力を頼りに押しこみをかけているらしい。本部要員連絡参謀の幾人かが前線の彼女の気分にあてられて奇妙に元気になっているのをみてラジコル大佐は鼻息をついたが、気分的な高揚とは全く別にゴルデベルグ中佐は現在の状況に不満と疑念を伝えていた。
正規の連絡参謀ではないが三等魔導士としての素養のあるゴルデベルグ中佐からの反応は本部の連絡参謀たちが非常に明瞭に状況を伝えていて、戦況の優勢と作戦の不調とをすなわち帝国軍司令部の粉砕という当初目的を果たせている感触がないまま戦況が推移していることを報告、というよりもブツブツと不満をこぼしていた。
それはラジコル大佐にとって作戦掌握の上で重要な示唆だった。前衛に配置する戦術的に有能な魔術師――連絡参謀の判断というものはカナリアというよりは番犬や狩猟犬のソレであって、ラジコル大佐がゴルデベルグ中佐を前衛に回した理由は単なる名代や慰労という意味ではなかったから、本部の連絡参謀が酒に酔ったようなだらしない顔をしているのはともかくゴルデベルグ中佐を監視する目を切らすわけにはゆかなかった。
魔導連接中の連絡参謀の表情豊かな報告に堅い顔で頷いてラジコル大佐はホイペット大佐に状況の確認の連絡をとった。
ホイペット大佐の方でも帝国軍の初動や感触としての練度に反して抵抗や戦力が薄いことに疑念を感じていた。突入部隊の無線連絡の内容を拾い集めるに戦力的には救援を今は必要としていないらしいことも把握していた。
状況を取りまとめて推測するに結論として帝国軍の本営はリザール城塞にはなく、帝国軍の主力は戦闘に参加していない。
練度が高く戦意がある大規模な部隊が他にいるとして救援を果たすべく行動するのは当然で、共和国軍側の戦力がリザール城塞の防御力を懸絶しているのはともかく、混交している時期に城内に押し込められてしまえば、機動力という自動車戦車の大きな武器を使えないまま、ただの城攻めしかも崩れかけの城を枕に防御側にまわることは、現在攻城側である装甲歩兵旅団にとって面白いことではない。
ラジコル大佐はリザール城塞周辺の観測部隊に低地部から引き上げて手頃な高台で全周を警戒するように命じた。またリザール城塞の戦闘に直接参加していない前衛予備隊に東側の高地を確保するように命じた。
本部からの見通しはかなり良く、土地を確保するために周辺を動き回っている装甲車からも西側自動車部隊が追い抜いた方向からの増援の様子はなかった。となれば、挟撃伏撃のための戦力は東側の帝国領側から現れるだろうという判断だった。
前衛の予備隊を動かしてしまうとリザール城塞の戦力が即座に増援を受けられなくなってしまうが、通信の状況を聞く限り、魔導連絡の状況を聞く限り、戦闘そのものは優勢のまま収束しつつありゴルデベルグ中佐は城内の検分を始めるために行動を開始した様子だった。
全く有能な狩猟犬であるゴルデベルグ中佐は高揚したまま冷静にリザール城塞内を踏み入っていた。彼女の首には本部連絡参謀の見えない魔導の引き紐が作戦の最初から伸びていた。
そういうわけでゴルデベルグ中佐が何かを発見したのは本部では殆どすぐに伝わった。
それはラジコル大佐が姿の見えなかった帝国軍本隊がどこかにいるはずという感触に動かし始めた部隊が地形上の適地を求めて移動を終える前だった。
それが起こったのは遠く離れた本部からも見えた。
というよりも他に注目するものが多くない本部では野外にいるものの多くがなんとなくリザール城塞の方角を眺めていたから、おそらく現場にいた人員よりもなにが起こったかをはっきり見ただろう。
リザール城塞の堀に水を流している川が爆発をした。
時を同じくして前衛の無線と連絡参謀がなにごとかの事態を悟って騒ぎ始めていた。
そこに割りこむようにゴルデベルグ中佐が一喝し部隊集合と車両への乗り込みを命じていた。
後衛の応援は不要、前衛は全滅と判断し爾後の行動を求む、という全く不吉な連絡をゴルデベルグ中佐がよこした。
無線ではない魔導の連絡は相互のやり取りが全く不明瞭でなにが起こったなにがあったのかは分からないが、本部からでも目に見える事態は徐々に明らかになっていた。
山津波が巨大な雪崩がリザール城塞の水源を伝ってリザール城塞に殺到していた。
ヤキモキするような四半時――時計によればそれほどに経ったわけではなかったらしい時間を経ると前衛との無線が本部に向けた報告をまとめて送ってきた。
帝国軍は山津波でリザール城塞を包囲する部隊を一掃する防御計画を持っていた、それを実施したと判断できる。
周辺の積雪を巻き込んだ事態であれば事前の計画よりも大規模であることは間違いなく、城塞城壁は戦車砲によって崩壊と云ってよい状態にある。
部隊の往来は困難が予想され、帝国軍本営は所在不明のエランゼン城塞、帝国軍主力は周辺に分散している模様。
現在前衛は戦車の性能を確かめ耐久すべく再集結中。
と、いう内容が本部に伝わったところで無線が途切れた。
無線機の性質から云って移動中に突然途切れることはあったが、定点連絡における信用という意味では魔導による通信よりも上だったから、機材の突然の損傷が予想された。
魔導士たちはかなり逼迫した現地の状態をいまも報告していたが、監視している前衛部隊の参謀は全員が生存しているらしく、戦力としてはともかく人員は生きているものが大多数であることは間違いないが、あまりに混乱しすぎていて本部に意味のある情報を伝えているものはひとつもなかった。
ゴルデベルグ中佐を監視していた連絡参謀は鼻血を抑えながら、中佐があまりに興奮していて連絡に没入できない状態になっていることを報告した。本部の主席連絡参謀ロットシュテット少佐によればゴルデベルグ中佐が落ち着いてからでないと意味のある連絡が繋げない、ということだった。
無線連絡がダメ。魔導による連絡もダメ。ということであればゴルデベルグ中佐が送ってよこしたように、前衛は全滅と判断し行動するほかはなかった。
「戦車の性能を確かめ、というのはどういうことか。自力で脱出を試みる、ということかな」
ラジコル大佐は無線が最後によこした不明瞭な言葉を誰ともなく問いただした。
「全滅を覚悟しての言葉ならおそらくはその頑丈さを頼りにすることかと。本部から目で見えるほどの山津波では戦車が自力で脱出出来る状態はあまり期待できません」
車両参謀のハリコフ少佐が推測を口にした。
「城が全部崩れたとして手持ちの機材でどれくらいで掘り出せる」
「場所がわかっていれば二日というところかと。戦車は少し骨ですが、むこうが多少とも動ける状態なら三日はかからないかと考えます」
設営参謀のスターリノ少佐が手持ちの機材の状態を確認しながら何事かを走り書きしていた。
「連絡参謀各員。掌握中の前衛に待機命令を伝えろ。救援予定は二日後。それまで体力を温存せよ。周辺状況不明なままの車両による自力脱出も試みを禁ずる。導術も一時停止せよ。本部最優先命令だ。命令連絡後、前衛部隊との連絡にあたっていた参謀は心身状態の確認を徹底の上、休養を心がけよ。作戦の本番はまだ始まっていない」
戦車乗員の全能感から山津波に巻き込まれたとして戦車兵なら自力でなんとかしようとするだろうし、それが当然でもあったが、本部で把握する限り彼らの状況は雨の日のミミズよりも無残な状況であるはずで、ともかく命令として待機させる必要があった。
遠くで響く山津波の音は今もなお本部幕舎に届いていた。
城塞を襲った山津波の被害がどれほどかはわからなかったが、低地部の農地のいくらかが遠目に色が変わるほどに、軍場にあっても雪で覆われていた城塞周辺の土地の色が白以外の色に侵されていた。
「アレは、山津波はいつ収まると思う」
「わかりませんが、一時間続くとは考えにくいところかと」
スターリノ少佐が答えた。
「良かろう。……スターリノ少佐。ただちに城塞内に突入した前衛の救出に必要な機材人員を選出せよ。十五分後に応援戦力とあわせて進発させる。君が救出部隊の指揮を執れ」
いささかムッツリとした表情でラジコル大佐は命令を下した。
飛び出したスターリノ少佐と入れ違いにモクス大尉が報告を上げてきた。
「城塞周辺に配置した観測中の部隊で事故が起こっている様子です」
「あんなものが眼前で起きれば、事故の幾つかは起きるだろうな。高台に移動して全周監視と待機を命じておけ。追って救出する。……周辺の地図は信用できるんだろうな」
地図参謀のモウルゼン大尉がギクリとしゃちほこばった姿勢になった。
「我軍のものは怪しくはありますが、帝国軍の使っていた物を渡せる範囲で渡してあります」
モウルゼン大尉のあまりに正直な言い様に幕舎の中の雰囲気がざわめいた。
「……周辺は占領されて久しい。仕方ないな。帝国の土木工事の技術を考えれば、我々よりも地図作りに力を入れていると期待しよう。本営には帝国軍の地図は用意してあるか」
ラジコル大佐の言葉にモウルゼン大尉がバタバタと幕舎を飛び出し地図を持って戻ってきた。
「山津波の被害範囲を描き入れろ。本部から見える範囲で今はいい。そののちに帝国軍の主力の位置を推測する。条件は山津波の被害が見える範囲でリザール城塞への経路が山津波の被害に横断されない位置だ。山津波の音を合図に動き出して行軍距離で半日ほど五リーグ内外。師団級の部隊が置かれるとして日々の往来が不便なところには置かれないだろう。戦闘まで時間に余裕が無いぞ。急げ」
モウルゼン大尉が地図を片手に飛び出してゆくのと入れ替わりにホイペット大佐の部隊が周辺の丘陵の幾つかで帝国軍の部隊と交戦を開始したという報告が本部に入った。
ともかく敵の所在がつかめたことで、幕舎の動きが切り替わったところに連絡参謀のアシュレイ大尉が現れた。
気の早いことにアシュレイ大尉は突撃服を着込んでいた。
腕の良い連絡参謀であるアシュレイ大尉は魔導連絡の交代を円滑に入れる才能があって、人員予備として待機していたはずだった。
「予備隊を進発させると聞きました。お加えください」
ラジコル大佐は多少迷ったが、後方に人員を多く置いているのは気に入らない状況でもあった。アシュレイ大尉も切れの良い戦術判断をする魔導士で魔力の強さと安定から云えば非常に明瞭な連絡参謀でもあった。
「進発する予備隊の任務の内容は戦闘ではない」
「突入部隊の救出と聞きました。ご存知と思いますが、自分は死にかけの兵隊を探して生者の戦列に引き戻すのは得意です」
十年前アシュレイ少尉がこの地の撤退戦で助けた兵隊の数は突入部隊の人数の数を遥かに上回っている。ラジコル大佐はこの時そんなことは失念していたが、自信があるというなら文句がある状況ではなかった。
ロットシュテット少佐は困った顔で苦笑いを浮かべていたが、彼はアシュレイ大尉が十年前におこなった偉業と無法を理解している人物の一人だった。
戦闘においては消耗品扱いである魔導師個人の戦功はしばしば逓信院の資料内で留められることが多く、華々しく語られたゴルデベルグ中佐の戦功とは異なってアシュレイ大尉の戦功が語られることは少なかったが、少女と言っても差し支えない事実上の初陣の二人の女性士官が大戦争の劈頭において果たした役割こそが共和国軍の今を支えたといってもよかった。
そのときよりも状況は遥かに明確でわざわざ彷徨っている敗残兵を探す必要が無いだけ簡単だった。
機動的統合的な魔導連絡による作戦指揮という意味で云えばアシュレイ大尉は本来第一人者と語られるべき人物である。
士官個人の才能で運用される戦術判断に技術的な意味を認めることは難しかったが、指揮官の多くが自分の脳裏を言語化出来る形で判断を下しているわけではなかったから、魔導師の突然死という宿命的な或いは事故の問題を除けば、アシュレイ大尉は確かに名将と呼ばれる種類の士官であった。
そして実のところマリールには部隊の将兵のうち二百二十五名の士官下士官がこの戦場でどこにいるのかなにをやっているのかほぼ完全にわかっている自信があった。必要であれば指揮を統括することさえ考えていた。
だがまずは土の中に押し込められた突入部隊を五十七名を鍵にして落ち着かせて助けだすことが最初だった。
「良かろう。全員助けてこい。急げよ。あれでスターリノ少佐は気の長い男ではない」
ツヤツヤと自信に溢れたアシュレイ大尉にラジコル大佐は幕舎の口を顎で示して命じた。
「いってまいります」
慌ただしく編成されたスターリノ少佐の救援部隊が出立する頃にはホイペット大佐の部隊が遭遇した帝国軍の部隊がそれぞれ千をいくらか超える程度の部隊であったことが判明した。
やがて戦闘は有利に展開し高地の制圧も終わったが、全部合わせても想定していた帝国軍の主力と云うには物足りないものであったことで、本部ではため息が漏れた。
リザール城塞の帝国側はヒダ状の丘陵がいくつも入り組んでいて湿地を見通すようなわけにはゆかない土地だったが、全体としてラジコル大佐の想定判断以外に有力な材料もなく、ともかく二日ほどはかかるであろう城塞突入部隊の救出を支えるべく布陣することをホイペット大佐は決心していた。
四つの丘陵を制圧させた部隊は砲戦車中隊と戦車歩兵中隊とをそれぞれ組み合わせただけの簡素でいい加減な連合部隊ではあったが、大隊単位で兵科を揃えているのは補給と整備の都合の問題によるものだったから、戦闘単位としては別段いつもの訓練通りのことで中隊長同士が作戦状況の理解の確認ができれば問題になることはまったくなかった。
手付かずの砲戦車大隊を手元に残し、ホイペット大佐はどこからか来るだろう帝国軍の動きを待つことにした。
ホイペット大佐が唸ったのは予想されていた敵の主力が迫っていることが知れたからだった。
雪積もる冬だというのにご苦労さんだ。と夕餉の煙らしきものが丘の向こうで起こっているらしい事に歩哨が気がついた。
それが数の見落としはあり得るにせよ、事実の見落としがありえないほどの数の煙だったことがホイペット大佐に手元の戦車大隊から威力偵察を命じなかった理由でもある。
半端にこちらの戦力の威力を見せつけて帝国軍に及び腰になってもらうよりは、全くやる気に満ち満ちたままこちら噛みつくつもりでいてくれたほうが確実に叩き潰せる。
帝国軍の将帥が図抜けた間抜けでないかぎりは、こちらの位置の凡そは推測が立っているはずで戦力の威力は分からないにせよ規模はわかっているはずだった。
問題は帝国軍が共和国の威力をどれだけ読み違えているかで互いの損害が決する。ということだった。
この場合、共和国軍側には二日間の固守以外の判断がないので読みがあろうとなかろうと全ては帝国軍の対処の判断にかかっていた。
支援部隊をラジコル大佐の本部においてきたホイペット大佐の配下は純粋な戦闘部隊であって、近傍一千リーグで最有力の戦力である自信は大佐のみならず配下の全員が持っていたが、それは手持ちの矢玉が尽きるまでというところでもあったから、冷静かつ適切な戦力配分と一方で救援活動中のリザール城塞に敵の足を向けさせない判断が必要になった。
ホイペット大佐が日没が迫る時間帯の周辺捜索を忌避した理由は想定される帝国軍の広がりそのものの他に、共和国軍の戦車に十分な夜戦能力がないということがあった。
夜目の効く亜人乗員は極めて少ない。ということがホイペット大佐が日没以降の行動を嫌った理由でもある。
戦車は自動車と同じことのあらかたが出来る乗り物だったから、夜間行軍をおこなうために前照灯をつけていたし、隊列を組むための後尾灯や車側灯或いはブレーキや方向指示などがついている。車側灯は右が緑で左が赤などと梯団行動をおこなう上では至れり尽くせりの装置もある。だが、それは戦車の視界が極めて悪いことを補うための装備だった。
友軍の準備ができていることを互いにひと目で確認するために様々な準備があったが、結局は鉄の箱の隙間から外を覗く戦車はひどく視界の限られたものであったから、その戦闘力の反面怪しげなところも多かった。
具体的には三号橋頭堡から本部が置かれた旧司令部跡地までのおよそ六十リーグの間に七十二回の交通事故があった。およそ四両に一両が二日あまりの行軍の間に交通事故を起こしていた。雪によって地形がうっすらと隠されていた敵地のことで必然とも云えたがともかく瑣末な交通事故が多発していた。
その殆どは軽微なもの軟弱な路肩に滑り落ちるだの止まれず衝突するだのというものであったが、履帯の切断や脱落というものも含まれている。
立木にぶつかるなどというものは戦車にとって交通事故ではあるが全く問題のないもので、履帯の脱落切断というものはある一定の割合で常に起こりうる事故でそれは戦闘状態であれば避けることの出来ない種類の事故でもある。
はっきり云えば戦車への信頼というものは戦闘力防御力に限って云えば無制限の信頼を与えられるものだったが、視界の狭さを含む機動力への信頼というものは、その速度性能或いは運動性能の圧倒的な能力の実証があってさえ無制限に与えられる種類のものではなかった。
特に敵地において数量に劣勢な予備のない状況でどれだけ信頼を与えるかは、戦術作戦上常に難しい話題であった。
そしてホイペット大佐は突撃服についても疑問があった。
圧倒的な防御力というものが与える精神的な余裕は個々の歩兵の戦術判断を広げる、というゴルデベルグ中佐の主張には全く疑問がない。それは戦車においても同じことでそこには疑問の余地が無い。
だが、人間が運べる装備の重量が二本の足にかかるという一点において突撃服は重大な欠陥がある。
雪原においてカンジキを履いてさえ、戦車の先導があってさえ、突撃服は歩兵の行動を縛っていた。
重すぎるのだ。
そして歩兵戦車が必要である理由、戦車の目として手として歩兵を戦場に展開させまた回収するという機能を考えれば少なくとも冬場の歩兵には別の装備が必要になる。
そういうことだった。
戦車に橇を牽かせるべきかもしれない。
砲戦車の砲塔に設けられた面倒くさい土地では乗員の兵隊が天幕を張れるような大きさの貨物用のバスケットは戦闘部隊を強力に支える輸送力の根源になっていた。全体に一回り大柄な割に砲塔の小さな歩兵戦車にはそういう張り出しの準備はなかったが、ともかく前衛部隊はそういう風に荷物や兵隊を扱うのが良いのかもしれない。
ホイペット大佐はぼんやりと考えていた。
翌日、帝国軍が大軍団、つかみで二三万の軍勢を複数で押し寄せてきたことはホイペット大佐にとっては驚くべきことではなかった。
経路も本部のラジコル大佐が予測したものとおよそ変わりはなかった。
だがその速度は予想よりも早かった。
帝国軍の兵隊たちは橇を履いていた。
帝国軍の隊伍は馬に橇を引かせていたのだが、その橇はカンジキのように兵一人ひとりが足に履いていた。
ホイペット大佐はそれこそが戦車歩兵に必要な冬季装備であると直感した。
とはいえ、ホイペット大佐も手をこまねいていたわけではない。砲戦車の貨物用のバスケットや歩兵戦車の車体上面に兵を跨乗させ機動力を落とさないまま周辺脅威に対応させていた。
戦闘部隊単独というのは全く気軽身軽ではあるのだが、戦闘指揮という意味では見えているところしか見えない苦しさがあって、本部に砲支援を幾らか頼むのが関の山という状態でホイペット大佐は周辺状況が読み切れないまま一日目の戦闘を終えた。
戦果という意味では全く圧倒的であるはずだったのだが、数十倍という兵員数の規模の違い、そして奇妙に動きの軽い橇履きの帝国軍の歩兵に、防御力を固め視野や精神に余裕のあるはずの戦車歩兵がそれぞれ手持ちのおよそ半分の弾丸をばらまくほどに幻惑されていた。
歩兵が銃弾をばらまいた結果として、それぞれの戦車は砲も機関銃も温存していたが、明日も同じ展開であれば、歩兵は手持ちをあらかた撃ち尽くすということになる。およそ二百万発を一個連隊に充たない兵隊が本日射耗していた。
機関小銃配備以降、常々指摘され全く予想されていた事態ではあったが、驚くべき激戦が繰り広げられ、最低でももう一両日おこなう必要があった。
問題なのは帝国軍が素直に攻勢開始点に戻ったはずがないということだった。
つまり二日目の帝国軍の侵攻は、一日目と違って配置が読めない。
土石流による破砕攻撃は地形を軟弱不安定にしていて、むやみにリザール城塞に近づくことも危険だった。
そして、リザール城塞での救出活動はまだ続いているということだった。
本日日中もリザール城塞の制圧は完全には終わっておらず、散発的な帝国軍の妨害を排除しつつ救出作業がおこなわれていて、城内で孤立していた数名と合流が出来たものの、土砂に埋もれた突入部隊本隊の救出は進んでいなかった。
アシュレイ大尉の魔導捜索によって掘り出しやすいところから順番に夜を徹して作業を行う予定であったが、ともかくようやく救出作業は始まったところだった。
ホイペット大佐としては全く弾薬に不安がある話だったが、あれほどの数の敵を見れば敵に素通りをさせないためにも弾を惜しめというわけにはゆかなかった。
不安はあるがしかたがないと、ホイペット大佐は夜間の敵戦力の捜索を夜目の効く亜人を車長にもつ戦車を抽出して部隊を編成することにした。
夜間の捜索は不意の遭遇戦になりやすく互いに戦場からの離脱の難しさからしばしば威力偵察と区別の付かない結果になる。
砲戦車と歩兵戦車をそれぞれ二個小隊抽出してアルジェンゲリエ中尉とアウルムゲリエ中尉に捜索任務を預けたのは手持ちの戦車乗員の中で二人がそれぞれ夜目に長けた優秀な戦車指揮官であったことは間違いないが、それ以上に多少の危険を厭いより大きな危険を招くわけにはゆかなかったからでもある。
大隊の予備の連絡参謀をつけふたつの捜索隊を送り出したのは、戦闘は希望していないが、それぞれ帝国軍の野営が十分にありえる位置の捜索をおこなわせたからでもあった。
昼間の帝国軍の動きを考えて明日のうちにリザール城塞を捉える位置まですり抜けるように進出したとして地図の上で幾つかめぼしい野営地は存在していて、そんなところに本当に大軍勢がいたとして本日と同じ規模の戦闘があれば対処は出来なかった。
果たして連隊規模の帝国軍が野営していた。
ホイペット大佐は旅団本部に野砲による砲撃準備を要請するとともに観測部隊を残置させ捜索を継続させた。
アウルム中尉の捜索中隊は完全な空振りだったが、アルジェン中尉の捜索中隊は連隊規模と大隊規模の三つの部隊を発見していた。
ホイペット大佐としてはしてやったりというところだったが、本部の焼夷弾砲撃があってもすべてを完全に粉砕することは難しそうだった。
捜索中隊で連隊本部を夜襲蹂躙するというアルジェン中尉の進言はある意味でそれしかないという種類の進言だったが、訓練優秀とはいえ初陣同然の中尉がおこなえるのかという内容でもあった。
だが、やらせるしかなかった。
本部の砲誘導をおこなわせふたつの捜索隊の合わせて十六両の戦車で三つの敵本部を蹂躙する。
結果として大戦果だった。
冬の野営中の兵隊は多少の陣備えや多少の地形の選別があっても、長距離砲の支援を受けた戦車による夜襲の敵ではなかった。砲の調整もひどく順調だった。本部の連絡参謀がアルジェンとアウルムの位置をひどく明瞭に掴んでいて、殆ど見たまま砲の誘導をおこなっていた。
敵本部を殲滅した結果、幾らかの情報もあった。例えば昼間の戦闘を避けた部隊が抜けている予定もあり、すでにリザール城塞により近い位置に同程度の帝国軍が迫っている可能性が高く、その情報をリザール城塞の救援部隊に連絡を送ったが、これ以上は土地勘もなく戦力に余裕もないホイペット大佐には対処不可だった。
翌日二日目のリザール城塞の救出作業は全く忙しい有様だった。
雪のために大型の砲を帝国軍が準備できなかったことが幸いしていたが、先行して到着した歩兵が拠点を作るのを許すわけにはゆかないと戦車が突進するのを蜘蛛の子を散らすように帝国軍が逃げまわり、戦車が許す僅かに外側に拠点を作り始めていた。
慎重にそしてそれなりの早さで動き回る複数の部隊を戦車の機動力があるとはいえ、手数に余裕のない部隊ができることは捜索偵察だけだった。
ホイペット大佐の部隊は日没で帝国軍が引き上げた時、歩兵の備弾はかろうじて一割を残していた。
リザール城塞を囲む帝国軍の背後からホイペット大佐の部隊が夜襲をかけたのは、部隊を分けて土地を守ることが不可能になったからだった。
戦車歩兵は装具の殆どを戦車に預けることが出来ることから、並の歩兵よりもよほど備弾も多いのだが、それ以上に帝国軍の数が多く実に巧妙に動いてみせることで、もちろん大勢を討ち果たしてもいるのだが、それ以上に弾丸を撃たされてもいた。
救出が進んでいる突入部隊にはある程度銃弾に余裕があって、彼らと合流しないと三日目の弾薬に不足がある。
そういう判断だった。
手数が足りない中で事実上のリザール城塞の防御指揮をとっていたアシュレイ大尉は日中存在を確認しながら撃滅を諦めた帝国軍戦力に積極的な導術指揮でホイペット大佐の部隊の誘導をおこない夜襲を成功させた。
彼女はメダルを頼りに夜襲部隊の数十名の視界を共有させ見えるはずのない敵をみせることで、夜襲にありがちな視野の狭窄を起こさせないままに戦闘を誘導した。
魔法というものの技能のあり方は逓信院の定めるところが全てではなく、連絡参謀というものは軍隊という組織の中で敢えてより単純なより初歩的な魔術技能として統合的に扱われているにすぎない。
そして救出活動初日に手隙の士官として戦闘指揮の管理を任されたアシュレイ大尉は成り行きで十年前の後退戦――救出劇の話題に触れることになり、スターリノ少佐の筆頭幕僚として最大限の努力をすることを命じられ許された。
そういうことだった。
「私は城外のことにまで気を回すことは出来ない。そっちは貴官に任せる。ついてきたからには戦闘部隊の取りまとめくらいはやってくれるのだろう。発奮してくれ」
という、ある意味でぞんざいなスターリノ少佐の命令はアシュレイ大尉にとっては軛を解く言葉でもあった。
アシュレイ大尉――マリールとしては城の瓦礫に埋もれているメダルを持った義理の姉妹たちの位置が正確に把握できていることから救援に参加すればやれることも多かろう、という意図だったのだが、兵隊の取りまとめ戦術指揮も預かり好きにおこなって良いということであれば、楽しく発奮しない理由もなかった。
連絡参謀は一般に部隊指揮の経路からは切り離されているから、素養がどうあっても階級が上がっても部隊長になることはない。
マリールの人生に二度目の部隊指揮の機会だった。
彼女は周囲の個人評価とは全く別に任務配置上はお行儀の良い軍隊生活を送っていたのだが、上官の命令とあれば発奮することになんのためらいもなかった。
二日目の夕刻、突入部隊の車両の多くは未だに掘り出されていなかったが、一部の車両は自力で這い出すことに成功し、人員の一部も合流を果たしていた。車両の戦闘力という意味では大いに怪しむべきだったがともかく自走可能なものがあるという点は作業を助け、車両に合流出来ていなかった人員はゴルデベルグ中佐の魔導による誘導とアシュレイ大尉の探索とで全員が救出された。
二日目日没後、歩兵部隊は手持ちの弾薬の殆どを使い果たしていた。砲戦車と歩兵戦車は多少備弾に余裕があるといって本気で撃ち始めれば、僅かな時間で撃ち尽くすくらいの弾数しか積んでいない。
仮に一発で歩兵が百人倒せるとしても一両の戦車が一万の兵隊を倒せるはずもない数の砲弾しか積んでいなかったし、もちろん帝国軍が衆を頼みに押し寄せていると云ってそうも安々と戦車の前に群れをなすというわけではない。
戦車の仕事はそういう迂闊な動きをさせないことで歩兵が戦いやすく敵陣を寸断することだった。
マリールはメダルや連絡参謀の状況から弾薬の枯渇した部隊を優先的にリザール城塞に収容し弾薬の再配分と戦力の再配置をおこないはじめた。
救出された幾人かは骨折などで自力では歩けない状態だったが、ともかく生存したまま合流を果たしたことは、ともかくラジコル大佐の本部の雰囲気を明るくさせた。
これまで部隊を支えていたゴルデベルグ中佐が意識不明の重態であることは本部にあって気がかりなことだったが、ともかく作戦の上で一つの成果を残した配下部隊の全員が欠けることなく合流を果たした、という驚くべき事実はラジコル大佐の本営を沸き立たせた。
問題は敵の新たな策源位置だったが、三日の防衛戦の過程で幾つかの敵本営急襲に成功したことで地図上の位置は明らかになった。
帝国軍は本隊軍勢の規模が戦前に比べておよそ十倍になったことで、リザール城塞の東西に複数の駐屯地を新たに開き、本国への経路の防御拠点と部隊指揮の拠点とを切り分けていた。
エランゼン渓谷の口に建てられた城塞の規模はわからなかったが、つまりは帝国軍の兵站の新たな樋口であり、広大な湿地という堀を失ったリザール城塞は重要ではあっても帝国を守る盾としては怪しいと、或いは農地の発展のためには手狭で邪魔であると帝国軍は諦めていた。
ラジコル大佐は本部本営に届いた伝令の地図とリザール城塞に燃え残っていた資料と幾らかの捕虜の尋問の結果とをこね合わせて、感触としての状況をおよそ現場で望める限り正確に想像してみせた。
もちろんそれは、あくまで推理想像に過ぎなかったが、敢えて控えめに曖昧に表現した範囲において誤りは含んでいなかった。
そしてそのことの意味するところは、ラジコル大佐の作戦は全く当初の予定を完遂したものの、戦略的には意図を全うできない。
ということだった。
旅団幕僚たちは当然にラジコル大佐の内心を慮ったが、ラジコル大佐自身は口を尖らかせて報告を脳裏にまとめ上げ幕僚に状況を整理させ、幾つかの確認をすると存外さっぱりした顔に戻った。
「突入部隊の救出が終わり次第、展開中の部隊を本部に引き上げさせろ。風呂と洗濯の準備をさせておけ。その後部隊を再編し、健全な聯隊を残し、一旦引き上げ後方で補充する。疑問はあるか」
「リザール城塞はどのように」
「めぼしい物を回収したら廃城の片付けなど帝国軍にやらせておけ。我々は我々の都合で動けば宜しい。戦区の管制という意味ではリザール城塞に拘る必要はない。我々の戦力の質を考えればこの地のほうが都合がよろしい」
機動力と火力に自信のある部隊にとって前方周辺の見通しが良いほうが都合が良いのは事実であって、距離的な位置的なものを考えれば後方拠点に近いほうが都合が良いのは事実でもあった。
戦術作戦上で巨大な戦果を得たものの戦略上は決定的な一撃を与えることは出来なかったが、共和国軍はラジコル大佐は赫々たる戦果を勝利と誇った。
それは必ずしも詭弁とはいえない成果でもあった。
確かに戦略的には誤った攻撃目標に注力した結果、作戦の成果は無為に終わった。
だが、自動車聯隊を束ねた旅団の威力は証明され、累々たる屍の山を帝国軍に作らせ、惜しむべき戦友の死はあったものの戦友全員が再び顔を合わせることができる。
戦略戦術という意味を超えて、軍政上の勝利として自動車聯隊の創設がなったことを意味していた。
必要であれば幾度でもどこなりと自動車部隊を投入すれば良い。という実績はつまり、部隊に欠員なくリザール城塞を粉砕した事実を以って誇れば良い。
ラジコル大佐は言葉を惜しんだが、敵中の陣地で入浴をするなどというこれまで考えられないありえないほどの贅沢を味わっているうちに作戦に参加した臨時編制である装甲歩兵旅団の全員にもなにがおこなわれているのか、なにをなしたのかの実感が確信として得られてきた。
無闇に贅沢をしている、甘やかされているのかもしれないと、多少の後ろめたさを感じていた兵隊たちもいたが、城攻めにあたって土砂に埋れその後の防戦にあたっての出来事での被害の小ささを考え、なにが起こっていたのかを想像しないわけにはゆかなかった。
死んだ者について、ツイてなかったな、と云うのは兵隊にとっていつものことではあったが、その意味は普通とは全く違う響きがあった。
敵弾に倒れた者はないままに五名の戦死者が出たことは全くラジコル大佐にとっては残念なことだったが、それは作戦戦術の上で巧緻を尽くした結果ではなかった。
土石流による地形攻撃というべき大掛かりな土木投資を戦術としても五名の犠牲で乗り切ったこと、敵からすれば戦果はたったの五名であったことを考えるなら、ラジコル大佐の示した自動車聯隊の編制の理念そしてそれを実際として強力に発展させたゴルデベルグ中佐の努力は大佐をして全く驚くべき成果を得たといえる。
戦う前に勝利を約すと云う意味で作戦的にはラジコル大佐は勝利したし、戦略的には既にそこには勝利はなかった。
ラジコル大佐は生意気なというしかないゴルデベルグ中佐の傲慢な笑顔が見られないことを今は全く残念に思っていた。
魔導の過剰な使用或いは暴走、という前線では戦車の機関故障以上に手のつけられない事態は戦場における魔導士の宿命といえるものだった。
もう一人活躍した魔導師であるアシュレイ大尉は全く健康そうであったが、ともかく二人の魔導師が部隊の無事を支えてくれた事実に内心感謝しつつ、ともかく共和国軍の冬季攻勢は大きな戦果を残して終了した。
土石流に巻き込まれ戦闘力を喪失した車両と銃弾をほとんど射耗してしまった部隊とを再編成して健全な聯隊をひとつ旧司令部跡地に残し、ラジコル大佐は一旦アタンズに凱旋することを総軍司令部に報告した。
前線の幕僚では読み切れない膨大な資料を戦利品と抱えてもいた。
手持ちの弾薬と食料の粗方を置いて第三橋頭堡を渡ることは多少の危険もあったが、短期間に二度目の強襲への帝国軍の対応はひどく緩慢なものでラジコル大佐の率いる連隊は無事欠員ないままアタンズに凱旋を果たした。
アタンズへの帰還以前にゴルデベルグ中佐の戦死が認定された。
それは元来絶望的な手間と危険を伴うものだったが、雪が降り積もり集落や拠点からの往来が困難になれば、いかに無軌道な帝国の開拓者たちも静かになる。
戦闘単位としては稚拙愚劣でありながら圧倒的に巨大な戦力の中核をなす、帝国の民兵たちは自らの命を護るために秋の訪れとともに冬越しの支度を優先した。
周期的に訪れる帝国と共和国の海の潮の波打ち際のような戦線移動とその小康状態はつまり、共和国と帝国のそれぞれの兵站の事情と充実の具合によっておこなわれていた。
既に陣地地形が入り組み、長閑な田園と云うにはあまりに危険な地域になったリザール川の西岸一帯は杜撰な畝のような奇妙な縞模様を描いて緩やかに帝国に支配されていた。
もちろん農繁期を狙った共和国軍の遠距離砲撃による度重なる恐怖爆撃によって、かつて帝国の開拓者が新天楽土と愛した土地ではなくなったが、しかし共和国にとってはまったき敵地として幾度目かの見えない壁を作っていた。
帝国の大戦略は共和国軍の想像を遥かに超えた知覚できない形で霞網のように広く戦域を覆っていたから慎重になることも当然に必要であったし、それよりも北部軍団の本営でワージン将軍を始めとする多くの幕僚が倒れたことに対する始末手当は相応の時間を必要とした。
フェルト将軍がワージン将軍の倒れた後に自分の師団を軍団に統合する形で指揮を引き継いだが、これによって秋から冬におこなう予定であった作戦は事実上流れた。
様々な調査の結果、というべきか無視しきれない実態として肺炎を伴う塹壕風邪と称される感冒が戦線全域で大きく流行っていた。帝国軍との作戦戦術と関わりなくとも将兵の衛生状態の確認は必要である。東部戦線総軍司令部はそう結論した。
そのうちの幾割が帝国軍の毒ガスによるものであるのかは、判断のしようがなかった。
だが、ともかくも兵隊をまとまった部隊単位で本部陣地まで下げて、定期的に入浴と洗濯をおこなう体制を整備することになった。後方に下げることで体調の不良が気分的な一時の精神的なものであれば、銃や大砲の音から離れるだけで落ち着くかもしれないし、更に余裕があれば、散髪や女郎屋なども足が伸ばせるかもしれない。
本部陣地の酒保に女郎屋を準備することは流石に無理だったが、戦区が落ち着いていて運よく後方との往来が信用出来るようなら、輜重警備や行嚢の受け渡しなどの名目で酒場があるくらいのどこかの街まで兵隊を下げさせ羽根を伸ばさせるのも広義に於いては兵站の重要な一部であった。
鉄道軍団の努力はこれまで共和国軍が不可能ごとと投げ捨てていた幾らかの兵站上の采配を、現場の面倒厄介の範疇でなんとかこなせる出来事に変えていた。
鉄道がアタンズまで来たことで燃料や資材についてある程度余裕が出始めたということももちろんあったが、実は相当の人馬に被害が出ているらしいことが見えてきたことが、ともかくも陣地の衛生環境改善に尽力すべし、と毒に倒れた後に意識は回復したものの未だに全身に麻痺の残るワージン将軍が呻くように述べ命じたところであった。
比較的兵隊の扱いに保守的なところの強い兵站参謀が積極的に人員のローテーションに賛意を示したのは、もちろん鉄道が延び鉄道軍団がアタンズからさらに前方に向けて拠点の設定を始めたことも大きく、後方から複数の聯隊が送られてきた効果があって部隊の配置を調整する必要もあった。
秋季攻勢を諦めた後であれば本格攻勢まで多少の時間があり、前線にある蒸気機関による陣地排水などに使っている小型の揚水機械が構造上、冬場でも季節に関係なく湯気を立てる泥混じりの湯を吐き出すことで、燃料の余裕と兵隊が浸かっても病気にならない程度の水があれば、あとは設備を作る場所の問題だけだった等という様々な理由があった。
人員の休養配置の循環も数的には劣勢であるものの一般的な状況として包囲をしているのは共和国軍であって帝国軍ではないことから可能と判断された。
往来の手間を多少かけて陣地を離れることは容易いというほどのことではないが、不可能というほどに出来無いわけではなかった。
陣地に篭っている兵隊も二日三日に一日はなにができるというわけではないが配置のない休息日があることが普通だったし、そういう時間があれば後方で風呂と洗濯とをというのは出来るならやりたいところではあった。多くの兵隊が風呂に入らないのは嫌いだからではなくて、そんな贅沢を望んでも叶えられないからでしかない。
鉄道の恩恵は全く分かりやすく前線の兵隊の待遇を改善した。
泥混じりの湯であってもともかく体を洗うのに湯の中で手足をこすれるのは、冷たい土の壁に包まれた寝床で髪の毛や背中をかきむしるのとは訳が違ったし、湯船の中の水は泥混じりでも飲んでも腹を壊さなさ気な水も湯上がりに泥を流すのに使えるとなれば、実家の風呂よりだいぶマシだ、という連中も多い。
流民や貧民上がりの連中も軍の兵隊には多かったから、兵舎での風呂が初めてという連中も多かったし、塹壕陣地で泥まみれでもまぁしょうがない、という程度に兵隊たちは考えていたが、風邪の対策に風呂で体を温め清潔にする、ということであれば、風邪で苦しんで死ぬのは嫌だな、という程度には理解もしていた。
前線にいま集まりつつある共和国軍将兵二十万あまりを入浴洗濯させるということは、兵站上猛烈な負担であることは明らかだったが、つまりはワージン将軍が倒れたことによって、その理由と対策が明らかに示されたために、各級本部の雰囲気としてなにもしないということは許されなくなっていた。
そして、これまでと違い鉄道によって兵站上に余裕が期待され、また実際に兵站を直接物資面から支配する補給運行上ある程度の余裕があったことが、陣地後方というよりも再集結用の予備陣地付近に小さくない規模の入湯設備と洗濯用の資材や被服の予備を用意する機運にもつながった。炊事をおこなう脇で風呂や洗濯という家庭でおこなう家事三大難事業が集まったということである。
農場の奴隷が必要になる理由のそしてその奴隷のために別の奴隷が必要になる理由として、炊事洗濯入浴という作業が全く手を抜けば果てしなく手を抜け、最終的に死に至るという性質を持っているわけで、兵站事業の中ではおよそ炊事のための材料調達までを兵站として扱いその他は個々の兵隊に任せていたわけだが、直接に生命ひいては部隊の機能にまで影響するとあっては残りの洗濯入浴も兵站事業に組み込むこともやむを得ない判断となった。
馬匹と行李の容量を財布の紐と同じように握っている兵站参謀が敢えて反対しないとあれば、物事の多くはスルリと流れる。
物の道理と人の力の限界を代弁する役割の兵站参謀は望んで保守的であるわけではなく、全く純粋に手持ちの人馬の力でどれだけの将兵が養えるかという、嵩と目方の見積りの責任を預かっていたから、兵の規模と担当する戦域で出来ることなぞ最初からほとんど決まっていた。
帝国軍の拠点の排除が一息には行えないことはこの夏からの威力偵察が効果を減じていることで共和国軍も把握していた。兵を惜しんで土地を譲っていても、全面攻勢は秋からであっても、戦争をおこなっている軍隊が積極的な攻撃をおこなわないというわけはない。ただ、その数を絞り全体として手控えていたというに過ぎない。
もちろん放埒といえるほどに自由気ままに戦力を振り回すことはできないが、そうであっても機関小銃と自動車で機動力と火力密度の上で圧倒している共和国軍が、その攻勢の意思を阻まれることはこの数年なかった。
戦略的な兵站面で困惑するほどの格差を見せつけられてはいたが、戦術的な作戦局面において共和国軍は帝国軍に優勢を確保しているはずだった。
一般的な意味においてそれは現状この瞬間も変化がない。共和国軍首脳はそう理解していた。
だが、それが陥穽となってワージン将軍が倒れた。
将軍が倒れるとしてそれがどれほどの衝撃であったかを想像することは実はかなり難しい。
一般的な話題として将軍であっても、理屈上の建前ではただ一人の将校であるから別段彼一人の死や体調不良が何かを損なうことなぞありえない。もちろん理屈の上のことは可能不能で云えば可能であったし、可能であればかくあることを求められてもいたが、実態として混乱が生じ、東部戦線は鉄道延伸到着後も攻勢を限定的におこなっていた。
混乱が生じた理由を意地悪く云えば、ワージン将軍が戦死ではなく存命で、その昏倒の理由が極めて早い段階で特定されたことが原因であった。
北部軍団は実際のところ鉄道線の延伸が後回しにされており、戦線全体の中にあっては三号橋頭堡の連絡の確保と定期的な恐怖砲撃をリザール川東岸域におこなうことを中心に中部軍団の助攻を主におこなっていた。
三号橋頭堡は地形的には有力な陣地であるのだが、連絡線の接続には距離があり、実を云えば継続的な補給の接続にはかなりの無理をしてもいた。
三号橋頭堡は弾薬や水食料燃料など優先的に運び込まれたリザール川を間近に望む東岸の稜線の一角、橋頭堡という近代的かつ簡素な砦或いは浅瀬を守る陣地兼物資集積所というよりは全く古典的な意味での山城で、当初は確かに簡素な丘陵陣地であったものが幾度かの帝国軍の攻勢と周辺の地理の把握が及ぶに至り、共和国軍本部からは川向う半ば永久拠点の様相を呈していた。
帝国軍も幾次かの攻勢失敗が極めて悔やまれるものの、リザール川流域の有望な渡河点を抑える土地を黙って諦めるわけにもゆかなかった。放置すれば比較的面倒の少ない渡河点を共和国軍が大挙して進撃することにも繋がる。
共和国の一個聯隊がその場に居座っていることで、帝国軍はリザール川の中でも比較的深さの安定した両軍の様々によって荒らされていない幾つかの瀬を束ねた渡河しやすい地域を五リーグほども下流方向に迂回して橋をかけることになった。
これまでの帝国軍の主街道であった一角が封じられる要衝ということで、両軍にとってはここしばらくの激戦の焦点で、攻守ところを変えて帝国軍の正規部隊が幾度となく攻めかけ、共和国軍が払いのけ、その隙に帝国軍が渡河部隊を送り込み後方の遮断を試みるのを更に共和国軍が受け抑える、という激戦が繰り広げられている土地だった。
戦理から双方が諦めるはずもない三号橋頭堡はギゼンヌから道のりで五十リーグ。戦域として安定確保されている後方地帯の集積拠点から距離で二十リーグ。道のりでおよそ三十リーグ。その三十リーグの道のりはほぼ日替わりで支配地域が入れ替わるような状態だった。
まともな輜重であれば五日六日或いは半月もかかる道のりを、軍団から抽出した自動車を集中的に編成した自動車化輜重と現地の戦闘的な補給参謀と連絡参謀の連携によってほぼ二日で連絡接続をおこない、補給をおこなっていた。更にこの先リザール城塞までは地形的に道が開けていて嘗ては幾つかの湖沼地帯があったもののわざわざに迂回するまでもない、帝国が起こした土石流によって均された干拓地が四十リーグ広がっている。
こうも広大無辺に広がってしまうと戦線をどう敷こうが遭遇戦になる。
自動車化輜重にとっては往路よりも復路のほうが危険であって、往来した車列からおよその戦力を割り出すことが出来るまでに帝国軍は対自動車戦術を洗練させてもいた。そして、縦深に余裕のある道のりを快調に飛ばす自動車部隊の速度を互いに武器とするように共和国と帝国の戦術は発展をしていた。僅かな戦力を見せ金として使い、本当の罠に誘い込むなどという手段は全くささやかな方法で、帰路全域で一気に戦力を蜂起させ圧迫をかけて、それ自体も極めて高価値の物資である自動車そのものの破壊を狙うという方法がとられることもあった。
共和国軍側も帝国軍の狙いについては把握していたから、初期のように奇襲的な戦術目標の変化にむざむざと貨物車を奪われ或いは破壊されるようなことは減っていたが、それでも路面がある程度以上に荒れると人馬のように歩いて超えることのできない自動車は追い詰められ破壊されることになった。橋頭堡の西側は沼沢地が多く、ある程度に選べる道はあるものの貨物自動車を沈めるくらいの大きな水たまりとも沼とも言えない軟弱な土地が道の外には広がっている。いっそ、底まで沈んでしまうくらいの沼地ならばともかく、腹を支えさせ車輪を虚しく空転させるような湿地であったから、一旦数を頼みに追い込まれてしまえば、わかっていても這い出すことは難しかった。
物資の補給の周期とおよその兵力規模は把握された上で尚重要な拠点である三号橋頭堡は、朝も夕も雨も晴れも関係ない激戦が大小数次が繰り返され、およそ五千の共和国将兵と僅かに五万に欠ける帝国軍の将兵の血潮をリザール川の流れに足した。
数字の上では勝ち続け、いまも橋頭堡という意味では確保し続けている共和国軍ではあったが、もともとの人員という意味でも作戦上の戦力の余地という意味でも重大な失血と拘束をされている状態で、三号橋頭堡を確保し続けるだけで北部軍団のほぼ全力が注力されていると云っても過言ではなかった。
そして、聯隊ひとつで師団を幾つか拘束できるような取引は全く綱渡り的な状態であったが、東部戦線全体を見渡した時には必ずしも悪い取引というわけではなかった。
北部軍団のワージン将軍は全く待つことの苦手な種類の将軍で、三号橋頭堡を餌にした逆包囲作戦を検討していた。
とは云え北部軍団は各地聯隊の来援補充を受けているものの、未だ数の上で十分に優勢とはいえない状態でもあったから、最終的には機動戦、或いは撃滅を企図した決戦をおこなうことになるはずだったが、ともかく戦術的な独自判断をゆるく縛るであろう包囲側の心理をついて帝国軍内の戦術行動上の温度差と共和国軍の機動的な優勢と瞬間火力を活かして各個撃破を目論んでいた。
かつてアタンズでワージン将軍がおこなったことの焼き直しで、狙いは互いに見え透いていても、帝国軍のそれぞれの陣が一斉に統一して動けない以上、対処の難しい作戦状況を作れる。
秋のうちに一旦三号橋頭堡周辺の帝国軍を蹴散らして、春先に予定していた全面反攻につなげる予定だった。
だが、ワージン将軍が倒れたことで積極案は一旦棚上げになった。
ある意味で運と判断にセンスが必要な作戦であったことから、将軍不在でおこなえるような内容ではなかった。
事前には物事の幾つかの結節までしか計画ができず、細かなところは戦術判断を作戦判断につなぎ合わせる柔軟さとその場で作戦目的をも変更する権限が必要だった。
上手くゆけば圧し無駄と見れば退く判断の剪定は、作戦全体を眺める必要があって、全体の構図を整える算段が求められる。
つまりは、後先なしの成り行き任せと積極果敢な自由運動の端境にある作戦で、完遂するには責任と権限が必要で誰でもが備えているわけではない資質に期するところの大きい作戦だった。
ワージン将軍が倒れたことで北部軍団は積極的な運動戦を指揮する機能を失った。
無責任に業績や戦果を求めれば良い部隊指揮官と、それを束ねる将帥は自ずと求める地図の風景が異なっていて、ワージン将軍はこの時代では屈指の現場判断の優れた将帥だった。
そしてワージン将軍が未だ存命であることから北部軍団は統帥権をワージン将軍に委ねたまま、積極的な活動を手控えた。
鉄道によって捕虜が掻き出された後に後方で編成されていた聯隊が送り込まれてきていたが、共和国軍の聯隊の戦力というものはそれぞれに規模や規格が整っている師団と違って、全くそれぞれ別ものと云って良い種類のものであったから、その戦力と扱いの把握と整理は地図の上にポイと置けばそれで良いという種類のものでもなかった。
それでも橋頭堡の連絡回廊を作る役割くらいは果たせるだろうと考えられていたし、とりあえず主攻勢は部隊の能力を把握してから、と考えていたが、毒ガスの衝撃とその対策が兵隊の入浴と洗濯であるという衝撃的な内容は東部戦線総軍の幕僚たちに大きな目眩を与えた。
報告を額面通り受け取るなら、帝国軍の陣地を攻略した部隊を一両日中に入浴と被服の交換をおこなわない場合、部隊拠点ごと戦闘力を喪失する可能性がある、という予測であると云え、現実としてワージン将軍とその本部要員が倒れた。
そのような事実があれば対策は必要だったが、全面的な対策を準備すれば来春季どころか来年いっぱいをかけてもそんなことは出来はしない。
陣地のすべてが水の問題を抱えているわけでもないが、兵隊が宿屋に泊まるほどに生活の全てを整えられるはずもない。行軍中も入浴や行水などという贅沢は下士官の裁量に任されていたし、およその意味で兵隊は着の身着のまま戦争に従事していた。
アタンズやペイテルなどの後方の拠点であれば入浴も洗濯も容易だが、兵力二十万になんなんと整えている前線陣地に入浴やら洗濯やらの準備ができるはずもなかった。鉄道が前線司令部の街に伸び着き、ようやく輜重の馬匹に秣を充てる目処が出来たが、替えの被服を往来させるというほどに行李をふくらませるほどの余裕があるわけではない。
被服を洗濯するということは荷物の重さが変わらないまま往復するということで、輜重にとっては文字通り重荷だった。
一方で入浴や洗濯を準備しないということは、帝国軍の使う毒に対する対策がなく、土地を奪い返せないということも意味していた。
対策はないのか、という問いに対しては部分的には対策はあった。
事件が起きた秋口のうちにローゼンヘン工業というかゲリエ卿から私物を奪い持ち出すようにしてゴルデベルグ中佐が野営装備の中に入浴洗濯の設備を組み込んでいた。
またローゼンヘン工業か、という総軍幕僚の苦る声はさておき、対策が時間の問題であることはそれとして、いつまで待つか何を待つか、土地を譲るのか兵を諦めるのか、という問題があった。
待たない。
待つまでもない、というラジコル大佐の作戦案は全く驚くべきものであったが、一方で大佐の実績とその戦力を鑑みればむしろ当然といえるようなものだった。
冬の間、往来の難しい前線拠点は春になれば当然に往来を必要とする。
拠点化してしまった集落は半農とは云えつまりは生産力としては低下しているから秋の蓄えはともかく、冬を越して春を超えて尚豊かというわけにはゆかない。
後方からの一定の往来を必要としていた。
陣地網に関しては後回しにする。
冬の間に連絡線の大本であるリザール城塞を制圧する。
その後に直径三十リーグの巨大な郭を持った攻城戦をゆるやかに戦う。
自動車聯隊の機動力であれば、川沿いの橋頭堡が確保されている限り、距離そのものは問題にならない。
もちろん聯隊の補給そのものは前線において困難であることは既に実績がありこれも明確であるが、既にふたつ目の聯隊が編成されている。そしてそれぞれの戦力は以前に倍している。
アタンズを拠点とした補給には余裕があり、戦区を長駆する交通の問題はあるにせよ、自動車聯隊に優先権を与えていただけるなら、ふたつの聯隊が単独で交互にリザール城塞を短期間制圧をつづけ連続的に占領することは可能である。装備の移動を考えれば、ひとつの聯隊が予備ということで見かけ上一つの部隊、旅団として機能することになる。
リザール城塞周辺には水源があることはほぼ確実であるから、入浴上の問題は燃料だけということになる。部隊の性質上燃料の予備は計上されていて問題はない。
素案としてはそういう流れだった。
ラジコル大佐の構想はある意味で総軍幕僚たちのいくらかも脳裏に過ぎらなかったわけではない内容だった。
だが、部隊を掌握している指揮官が語るのと、戦力の実態が額面以上に読み取れない幕僚が語るのとでは大きな違いがある。アタンズからリザール城塞までの百リーグは標準的な輜重であればおよそひとつき、精兵であっても十日では怪しい。戦闘を考えれば半月はかかる。それを何度でも通ってみせると豪語するラジコル大佐の意気込みは、破天荒と一言で云うには実績もあり、何より今の東部戦線の状況にとってあまりに頼もしくあった。
冬の雪によって帝国軍の動きは抑えられていたが、実を云えばここしばらくで帝国軍の動き全体が巧妙な連携を取り出していて十年前とは明らかに帝国軍の作戦の傾向が変わっていた。
もちろん小規模な拠点を既に前線に膨大な数抱えている、密度の高い縦深を持っているというそれだけのことであっても厄介なのだが、それぞれが統制のある連携を取り始めていた。
単純に土地を譲るということはもはや共和国軍にとっては危険な状態でもあった。
ある意味で予定通りの作戦ではあったが、元来雪が降る直前を攻勢開始の時期に予定していて、既に一面が白くなっている今冬本番の時期を選ぶことは常識的判断からすれば怪しむべきことでもあった。
それでもやるかやらないか、という判断を前にして鉄道が延び、広域兵站聯隊が間に合わせのように後方に走らなくとも物資の補給が潤沢におこなえるようになった現在、おそらく戦力機動力という意味では冬であることすら優位である今、作戦をおこなわない理由はないように感じられた。
結局ラジコル大佐がふたつの自動車聯隊と幾らかの貨物自動車による輜重を取りまとめ装甲歩兵旅団を臨時編成して指揮してリザール城塞攻略作戦をおこなうことになった。
共和国軍の装甲歩兵旅団の動きそのものは帝国軍に筒抜けだった。
もちろん隠さない隠せない動きであったのは事実だが、それを伝える術が帝国軍には既に整っていた。
ここ数年のうちに帝国軍は巨大なレンズと鏡を使った燭光通信機を開発していて、かなりの遠距離の通信を黄弾のような或いは夏の祭りで打ち上げるような大型の花火とも思えるような、信号用の特殊砲弾を組み合わせることで、昼夜関係ない通信を師団内或いは師団間の戦域でおこなっていた。およそ八色程度の閃光と煙の組み合わせというだけであるが、彼らの持つ空騎兵と組み合わせると部隊の位置を問わずにかなりの遠距離を統一した管区として扱える技術で、鉦や太鼓と基本的な運用は代わりはしないが、より徹底した形でより大きく戦場を指導できる手法だった。
雨天曇天では空中の視界が小さくなり、風が強ければまた妨害されるという、天候の悪化激化に脆い面もあったが、共和国から鹵獲した少数の通信機を骨格に空騎兵と烽火信号ならぬ砲火信号と大掛かりな燭光信号の組み合わせによって、全周防御を前提に陣地化した民兵の集落とそれを縫うような安全地帯の迷宮は、近傍の集落や帝国軍本軍との連絡をおこなうことで夏冬関係なく十分に連絡を確保し続けていた。
もちろん連絡士官や無線機電話などに比べれば言語的な融通は小さいが、複数の信号形式を組み合わせることで、その部分は対処は可能でもあった。そして、それを十分に実用可能にしたものは、全く皮肉なことに共和国軍の新兵器である双眼鏡を大量に鹵獲したことによる。
ある時期共和国軍大本営は前衛尖兵を務める猟兵に向けて双眼鏡を大量に導入し、部隊の交代を待たずに積極的に配備しようとした。複数の精密なガラスの組み合わせとは思えないほどに安い遠眼鏡が小銃よりも一桁安い金額で手に入るなどとは大本営では誰も考えていなかったし、遠眼鏡の効果や意味は軍隊にいれば嫌でも気がつく種類の物品であるはずだから、前線の誰もが喜ぶはず、と大本営では思っていた。
実態としては既に崩壊寸前だった東部戦線の補給線の混乱の中で兵站上の迷宮に嵌まり、書類上の名目のままに前線に送られたものの、明確な宛先のないまま各陣地の一般品目備品とともに物資集積所に書類とともに送り込まれ、戦線の後退に火を放たれて置き去りにされていた。
およそ十万の双眼鏡のうち、五万前後は実際に猟兵の手元に届きその活動を支えたが、小型とはいえ二パウンを僅かに出るような遠眼鏡は下士官向きの装備と云え、およそ分隊にひとつかふたつ、それと見栄を張った新しいもの好きの士官が従兵に預ける、というのがおよその現場での使い方で、水筒と遠眼鏡を秤にかけて、中身を飲めば軽くなって捨てても惜しくない水筒と如何にも高価で作りの立派な遠眼鏡のどちらが戦地で便利で捨てやすいかといえば水筒だろう、という兵隊感覚もあって、十万という十分に大量ではあるものの全将兵には配れない半端な数も足を引っ張り、兵站将校なら誰もが存在は知っているが、配備は十分徹底した形でおこなわれないまま、混乱している拠点倉庫よりは予備陣地線後方の物資集積所のほうがまだ多少は前線が必需に手を付けやすい、そう考えられ数千の被服や野営装具と同じような扱いで物資集積所に送られた。
幾らかが後方の警備にあたっている警察軍に配備された。
事実上拠点周辺の歩哨であることを期待された警察軍は義勇兵の寄せ集めで故郷にいれば愚連隊と大差無いような連中であったが、そうであるがゆえに襟を正させる必要もあり、形を整えることから優先していた。
配置にある間は襟のボタンを全て閉じろ、という訓戒を様式にした流れで無線機担当軍曹と同じように双眼鏡担当軍曹という役職が一つ増えたことを意味していた。
それは兵站全体が混乱している中では、全体としてはおよそ誰もが満足したかたちで配備が進んだということでもある。
ここしばらくの戦略的転換によっての戦線後退も、共和国軍としては十分に組織だった戦争計画ができたと自負していた。
戦線の後退は戦況によるものとはいえ、銃弾砲弾をも備蓄している物資集積所の全てには火が放たれていて運び出せる物、例えば歩兵に配置が始まっていた新型の軽野砲である噴進弾などは当然持ちだされ新たな拠点に移されていたが、銃弾砲弾という敵に渡ると危険な物品を優先した結果として、夥しい膨大な量と云える食料や被服などの備品類には十分な手当てが着かないまま、火を放つことになった。
それは全く徹底したもので戦線からの予定通りの後退をおこなえなかった幾つかの部隊が、望みの綱を物資集積所に託して冷えた倉庫の残骸を集結拠点に来援を本部に要求するという一幕が一度ならず開かれた。
拠点の遺棄は全く計画通りにおこなわれていて、後退してきた兵隊の多くは絶望的な気分になっていたが、缶詰の普及が始まっていたことから水はともかく食料が完全に火に包まれたわけではなかった。ともかく、ほとんど身一つで陣地の放棄をおこなった部隊も、似たように追い込まれてきた幾らかの部隊とともに来援を待つ間に腹ごなしが出来るくらいには缶詰は燃え残っていた。
武器はなかったが倉庫の残骸を骨組みに燃え残っていた土木工具ショベルやツルハシを道具に土を積み上げることで煤けた缶詰で腹を満たし来援を待ち逆襲しつつ後退する位の芸当はできた。
ツルハシやショベルといったモノが燃え残るのは兵站関係の参謀たちの頭から抜け落ちていた、と言えないこともなかったが、全てが燃えるとも燃えないとも誰もが期待していなかったから、ともかく友軍が大方が生きて合流出来たことのほうが重要だった。
そのためにおよそ三万を少し割る程度の双眼鏡が、戦線の移動で放棄された物資集積所で帝国軍の手に渡ったことを重要視する者は殆どいなかった。
兵隊が踏むことも殴りつけることも考慮に入れた双眼鏡は焚き火に放り込まれることも想定はされていて、石炭を燃やす炉の中ならばともかく植物が焼けるような焚き火に晒されたところで、薄いブリキの保管ケースの中に入った未使用状態の双眼鏡が受ける試練としては海風にさらされたり鉄道貨車の積み替えで外の梱包ごと投げ出されたりという出来事よりもヌルい出来事であった。陣地の芯材代わりとして銃弾砲撃に晒されたものを除けば、ほとんどの双眼鏡は機能上無傷のままで放棄され、そのうちの半数ほどが帝国軍の手に渡った。
機械としての双眼鏡は危ないところのない機械で、操作も顔に合わせて僅かに動くところのいくらかを調整すれば理解できる種類の機械だったから、帝国軍が制圧した陣地拠点を検分した際に接収した大量の揃いの金属箱、当初は金庫か書類行嚢かと考えられていたモノから出てきた遠眼鏡を帝国軍が喜ばなかったわけはない。
帝国軍の戦果としては全く未完全な追撃に終わり予定の土地の大半は得たものの完遂したとは言いがたかったが、物品としての双眼鏡が手に入ったことは烽火通信と燭光通信を組み合わせた拠点間の連絡の底を固める役に立った。
帝国においても飾り以上に性能のある遠眼鏡は高価な物品だったし、それなりの数を出征時には揃えていたが、膨大な民兵に普及出来るほどに数があるわけではない。
わずか二万ほどの遠眼鏡ではあったが、ともかくもまとまった数での敵からの鹵獲品で使えるとなれば、戦略の転換で小銃の型を揃え始めた民兵たちの長に双眼鏡を渡すことは、あまり悩む必要のない当然としておこなわれていた。
ある程度普及が進むと鹵獲品の双眼鏡は帝国軍の陣地間の連絡の背骨を担うことになった。
型示信号の殆どの問題は相手がこちらの信号を見ているか見えているかという問題に止めを刺す。
双眼鏡の普及は少なくとも、能力的に見えない、という問題を送信者の念頭から排除することに成功した。
帝国にとって燭光信号は軍人や船乗りであれば手旗信号と同じように馴染んだものであって、もちろんそれなりに民間でも普及を果たした技術であるが、農民植民者がそういう技術を持っているかということは期待できない。
手旗信号はそれなりに単純なつまりは腕の長さほどの布地が二枚、できれば向きがわかるように二色あることが望ましいわけだが、旗になるものがあれば良い。
慣れるまではそれなりに体力が必要な技能であるが、乗馬でも農作業でも慣れるまでは切れのある動きを期待することは出来ずとも、練習と場数で定型的な信号送信はやり取りできる。
問題はむしろその信号を読み取る側の問題が大きい。
相手の信号が怪しげである場合は、再送を求める必要も含めて判断を下す必要がある。
それをいかに読み落としなく読み取れるか、という問題がひとつと、苦労をして送受信をした信号の文字数は動きに応じて送られるものであるから、文字数に応じて時間は伸びその時間に応じて送受信が怪しくなるという問題がある。
千でも万でも好きな数だけ文字を送れる型示通信であるが、一般的な話題として三十を超える文字の読み取りは難しい。およそ実用上の限界は百五十というところであり、時間としては三分から五分、というところが壁になる。
もちろん手旗信号の競技会では十分を超える試技や、中には三十分を超えるもはや舞踏と変わりない模範演技もあるわけだが、そういったことをおこなえる送信者は前線の将兵にはいないし、仮に居たとしても協議会の如き場であってすら複数の受信員が読み取りを突き合わせるような状態であるから、できるかぎり短文を、可能であれば数文字で送りたいというのは帝国でも共和国でも変わりはなかった。
そういう中で飛び出した電話機や無線機というものの衝撃的な価値は当然に瞠目すべきものであったが、帝国において全く良い時期に大量と云ってよい双眼鏡が手に入ったことによって型示信号においてもひとつの展開があった。
海辺にあれば灯台の灯籠かと思うような設備は贅沢なガラス製の鏡を複数枚組み合わせたもので人の頭ほどの松明――つまりは普通の篝火を理論的にはその日のうちに連携している全域に信号として送る機構は、野戦用の地図保管棚をまるごとガラス細工にしたような大きさで鹵獲した双眼鏡などよりもよほど高価で精密な機械であったから、それを営々脈々と千を超える数を前線に送り込んできた帝国軍の兵站能力は全く底しれないものであったわけだが、そういう準備はあっても全てが万全とはいえず、特に流刑同然に土地を下賜された開拓者はまつろわぬ民草から自らを守り調伏する民兵として武器を渡されたものの、兵隊として資質が揃った者ばかりというわけはあるはずもなかった。
農民の多くはそれなりに五感は揃っているものの遠目に自信がある者が集落にそれぞれ散らばって存在するわけではない。そもそもの話として帝国軍はこれまで民兵を組織として扱ってはいなかった。
そこに数名の帝国軍士官が巨大な燭光通信機と必殺兵器とともに送り込まれ、軍事的指導者としての役割をはたすようになり始めた。
その組織的転換が帝国軍の民兵の質が変わることにつながっていた。
これまでの帝国軍の軍事行動の名目としては、開拓者の護送護衛と開拓初期における入居地の確保、ということで本国の支援を受けて兵站的に圧倒的に優勢な状況を流用して一気に攻勢をかけていた。
三百五十万からの人員を賄うだけの物量を通過させるための設備は、つまりはリザール城塞――エノクサ城を帝国でも小さいとはいえない都市として機能させるだけの往来を支える連絡線を備えたということであった。
これまで帝国軍にとってエノクサ城は単なる哨戒網の最先端拠点というだけに過ぎず、重要ではあっても注目をされていた拠点というわけではなかった。そこに年間数十万の人々を往来させる機能をもたせることは帝国であってもなかなかの事業であった。
もちろん、軍事行動としての戦闘を行っている意識は帝国軍にはあったが、あくまでも戦争ではなかった。
帝国で戦争といえば皇帝出征の宣下が轟き、玉体自らが戦陣に臨まれることはなくとも、近衛軍が少なくともそのいくらかが動くことになる。
帝国内でそのような動きがないならば、それは戦争ではない。
演習などということももちろんありえないが、少なくとも国家の一難である戦争ではなかった。
歴史的経緯から西方に滞在する叛徒共が共和国なる国家を自称する組織を作っていることは当然に帝国にとって知るところで、過去幾度かの叛徒の逃亡先追放先として手頃な土地であったことから、相応に軍事的な備えはあったが、それは未開の曠野を求めての無為な行為ではなかった。
その帝国の文明の前哨基地であるエノクサ城に蛮族の軍勢が十年ぶりで迫っていた。
陣地化された集落を横目に雪野原を急ぐ自動車の群れがひたすらに東に向かうとあれば、そして様子を確認するために冬にわざわざ仕掛けてみせたリザール川の橋頭堡を押し渡って来るとあれば、その戦闘の数時間で追い抜いた前線陣地からの報せに帝国軍は動揺し、しかし精兵である彼らは揺らいだものの戦陣を整える動きにつなげた。
共和国軍の装甲歩兵旅団の早さは帝国が苦労して編み上げた通信網を以ってしても或いは途中で本営の時を稼ぐべく奮戦した勇猛な将兵の血と汗を以ってしてもようやく丸一日の猶予を与えたのみであった。
だがそれでも帝国軍の備えを整える時を稼ぐことには成功した。
第三橋頭堡で自走に切り替えた戦車の群れはリザール城塞から十二リーグ、つまりは旧共和国軍の陣地線の後方、司令部跡に達していた。
湿地帯で側面を守られていた地形はリザール川の流れが変わった事で耕地になっていた。
小高い丘だったこの土地は直接に泥に塗れることはなかったはずだが、地形が変わり数年のうちに草木に覆われていた。
小さな連絡用の帝国軍部隊が拠点を作っていたが、抵抗も降伏をも意思を示すこともできないままに踏み潰されていた。
この位置からはかつての湿地である農地を踏み渡れば実は十二リーグよりも近くリザール城塞を射程に収められる。
戦車の砲の射程は戦車を標的に撃滅しようと考えれば一リーグを超えることはありえず、半リーグどころか事によれば千キュビットでも怪しくなるわけだが、巨大な城塞に城壁に砲弾を撃ちこむだけならばこの位置からでも出来ないわけではない。もちろん狙って当てる意味のあるところに当てる事ができるかは全く別の問題であるが、ともかく既に聯隊の戦力はリザール城塞を射程にとらえた。
作戦上ここまで足を伸ばした以上、戦車は更に推し進みリザール城塞を制圧すべく動くわけだが、北部軍団から抽出された長距離野砲をここに置き、一個聯隊で城塞を攻略しもう一個は予備とする。素案としてはそういうことだった。
連隊ふたつと応援部隊ではなくひとつの旅団として行動しているので部隊を必要に応じて切り分けることが容易になったことで幾らか計画に修正が加わったが、基本的に部隊を三つに分けることには変わりがなかった。
前線での抵抗が少なかったことからそこそこ以上に戦力を温存している可能性もあったが、砲戦車はともかく歩兵戦車とその歩兵の銃弾は合わせれば一千万発を超えていて、ひとつの旅団が戦前の共和国軍師団の四倍以上の弾薬を抱えて行動しているということでもあった。
別段、銃弾の数が部隊の戦力でないことは言うまでもないわけだが、わかりやすいやる気、という意味でリザは静かに有無を言わさない形で先鋒に加わった。
気分の上では自分が乗り込むつもりだったラジコル大佐だったが、旅団長というポストは全く臨時のものでもあったがともかく全体の監督役でもあって、その主席幕僚が前衛の統制に立つというのは云うほどに理屈にそぐわないというものでもない。
元来聯隊長であるホイペット大佐が笑って良いのか気の毒な顔を作るべきかともかく内心の嵐を引き締めた無表情で乗り切るほどにラジコル大佐は羨ましげな憤りを素直に表した。
前衛と本部との距離が十二リーグというのは、常識的な配置からすれば十倍は勘違いしているような配置だったが、無線機と自動車が充実した部隊であれば、通信連絡の距離としては隣と変わらず、戦力の連絡という意味でもおよそ二時間の距離だった。平地を疾走するのであれば戦車も重機も十リーグは一時間で駆け抜けることも容易い距離であるからそもそも常識の地平が違う。
それにこの先はかつての湿地が均された平地で地形的な障害の殆ど無い農地だった。
どういう伏撃があるにせよ、敵の動きを見てから動くことに予備戦力の意味はあって、それは拠点制圧というものにおいても同じだった。
とりあえず火砲の射程の中で見通しの宜しいこの位置で野砲による恐怖砲撃の準備をしていた。十パウンにようやく掠るような焼夷弾では実のところ城塞には直接の被害を与えることは難しいことは双方わかっていたが、そうであっても射点が見えないまま流星のように降り注ぐ砲弾と突然広がる火の手の恐ろしさは人の手を止めるに足りる。
夕刻に旧司令部跡に砲兵の陣地を築き始め本隊は大休止をとって日が変わるのと同時に先鋒は移動を開始することになった。
入浴設備は流石に使われなかったものの柔らかく汚れのない卸されたばかりの蒸しタオルは準備され、ささやかながら贅沢な気分を兵隊に味あわせた。
雪深い、というわけではないが雪から逃れることも出来ぬ丘は、重機によって簡素ながら十分な陣地に仕立てられていた。
ラジコル大佐は直接の手持ちの戦力が再び幾らかの戦闘部隊の他には空の戦車輸送用の牽引トラクターや雑多な労務向けの車両の群れになっていることになんというべきか理不尽のようなものを感じていたが、高速化する戦術判断と広域化する戦域判断と巨大化する兵站管理とは単一の人間が管理するには様々問題もあって、過渡期にある自身の立場の複雑さを考えれば戦車でリザール城塞の城門を踏み破る贅沢を味わえるわけもないことは重々承知の上でゴルデベルグ中佐が全く小狡くその楽しみを掻っ攫ったことに口を尖らかせた。
新時代の将軍の姿としては装甲車の上部ハッチから戦場を双眼鏡で眺めるのも悪くはなかったが、通信管制車で連絡参謀と部隊の無線通信に耳を傾けながら居眠りをする贅沢を味わうことにした。
突入前の景気づけと篝火代わりの焼夷弾による支援砲撃が始まると本部の様子は一気に賑やかになった。
奇襲的な夜襲だったはずだが帝国軍の動きは早かった。
だが、鋼を鎧固めた戦車は帝国軍の抵抗を物ともしないままに壁を打ち破り崩れる壁の残骸を堀を埋める橋としてとんでもないところから蹂躙を始めていた。入り口でもなんでもないような壁に穴を開けられた防兵は建物の設計的な意図とは全く別に小さく分断され大混乱をしている様子だった。
流石はゴルデベルグ中佐、横車を押すことにかけては天下一品、等とラジコル大佐は全く野蛮かつ有能な女性参謀を内心で評していたが、ゴルデベルグ中佐は防兵の対応になにか不審を感じた様子だった。
ゴルデベルグ中佐は前衛予備隊に周辺の警戒を要請していた。
三十万だか何十万だかの帝国軍がまとめてリザール城塞にいるはずがないことは誰もがわかっていたが、三万から五万ほどの兵が常駐できるリザール城塞に数千の兵しかしないことから、突入部隊が周辺の警戒を要請してきた。
空城を釣り餌に逆包囲をするという作戦は帝国軍の戦力を考えれば考えられることだった。
集結拠点としてはわかりやすいリザール城塞だったが、既に戦域が湿地帯を睨む必要がなければ単なる平城であったから、より都合の良い場所に駐屯地を拓いているかもしれない。
そう考えなかったわけではないが、端から防戦に都合の良い土地を捨てるとも考えにくかった。
だが、現場に立ったゴルデベルグ中佐の判断は帝国軍の主力がいない。
という全くわかりやすい内容だった。
ラジコル大佐は西側に展開している部隊からの来援を受けることも考えて帝国軍に連携の取りにくい位置に本部を置いたことはさておき、リザール城塞が空であるとするなら敵に一方的にこちらの戦力の位置がバレていることに苦っていた。
本部の手元には戦車大隊と戦車歩兵大隊が一つづつで、残りの三つづつは城攻めに回している。実際に城塞の城割の内側に入りこんだのはそのうちの半数で、彼らの指揮はゴルデベルグ中佐が統括し、外側の部隊はホイペット大佐が掌握していた。
全く野蛮に洗練されたゴルデベルグ中佐は城内の抵抗の激しいところに敵将の姿を求めて装備の火力と防御力を頼りに押しこみをかけているらしい。本部要員連絡参謀の幾人かが前線の彼女の気分にあてられて奇妙に元気になっているのをみてラジコル大佐は鼻息をついたが、気分的な高揚とは全く別にゴルデベルグ中佐は現在の状況に不満と疑念を伝えていた。
正規の連絡参謀ではないが三等魔導士としての素養のあるゴルデベルグ中佐からの反応は本部の連絡参謀たちが非常に明瞭に状況を伝えていて、戦況の優勢と作戦の不調とをすなわち帝国軍司令部の粉砕という当初目的を果たせている感触がないまま戦況が推移していることを報告、というよりもブツブツと不満をこぼしていた。
それはラジコル大佐にとって作戦掌握の上で重要な示唆だった。前衛に配置する戦術的に有能な魔術師――連絡参謀の判断というものはカナリアというよりは番犬や狩猟犬のソレであって、ラジコル大佐がゴルデベルグ中佐を前衛に回した理由は単なる名代や慰労という意味ではなかったから、本部の連絡参謀が酒に酔ったようなだらしない顔をしているのはともかくゴルデベルグ中佐を監視する目を切らすわけにはゆかなかった。
魔導連接中の連絡参謀の表情豊かな報告に堅い顔で頷いてラジコル大佐はホイペット大佐に状況の確認の連絡をとった。
ホイペット大佐の方でも帝国軍の初動や感触としての練度に反して抵抗や戦力が薄いことに疑念を感じていた。突入部隊の無線連絡の内容を拾い集めるに戦力的には救援を今は必要としていないらしいことも把握していた。
状況を取りまとめて推測するに結論として帝国軍の本営はリザール城塞にはなく、帝国軍の主力は戦闘に参加していない。
練度が高く戦意がある大規模な部隊が他にいるとして救援を果たすべく行動するのは当然で、共和国軍側の戦力がリザール城塞の防御力を懸絶しているのはともかく、混交している時期に城内に押し込められてしまえば、機動力という自動車戦車の大きな武器を使えないまま、ただの城攻めしかも崩れかけの城を枕に防御側にまわることは、現在攻城側である装甲歩兵旅団にとって面白いことではない。
ラジコル大佐はリザール城塞周辺の観測部隊に低地部から引き上げて手頃な高台で全周を警戒するように命じた。またリザール城塞の戦闘に直接参加していない前衛予備隊に東側の高地を確保するように命じた。
本部からの見通しはかなり良く、土地を確保するために周辺を動き回っている装甲車からも西側自動車部隊が追い抜いた方向からの増援の様子はなかった。となれば、挟撃伏撃のための戦力は東側の帝国領側から現れるだろうという判断だった。
前衛の予備隊を動かしてしまうとリザール城塞の戦力が即座に増援を受けられなくなってしまうが、通信の状況を聞く限り、魔導連絡の状況を聞く限り、戦闘そのものは優勢のまま収束しつつありゴルデベルグ中佐は城内の検分を始めるために行動を開始した様子だった。
全く有能な狩猟犬であるゴルデベルグ中佐は高揚したまま冷静にリザール城塞内を踏み入っていた。彼女の首には本部連絡参謀の見えない魔導の引き紐が作戦の最初から伸びていた。
そういうわけでゴルデベルグ中佐が何かを発見したのは本部では殆どすぐに伝わった。
それはラジコル大佐が姿の見えなかった帝国軍本隊がどこかにいるはずという感触に動かし始めた部隊が地形上の適地を求めて移動を終える前だった。
それが起こったのは遠く離れた本部からも見えた。
というよりも他に注目するものが多くない本部では野外にいるものの多くがなんとなくリザール城塞の方角を眺めていたから、おそらく現場にいた人員よりもなにが起こったかをはっきり見ただろう。
リザール城塞の堀に水を流している川が爆発をした。
時を同じくして前衛の無線と連絡参謀がなにごとかの事態を悟って騒ぎ始めていた。
そこに割りこむようにゴルデベルグ中佐が一喝し部隊集合と車両への乗り込みを命じていた。
後衛の応援は不要、前衛は全滅と判断し爾後の行動を求む、という全く不吉な連絡をゴルデベルグ中佐がよこした。
無線ではない魔導の連絡は相互のやり取りが全く不明瞭でなにが起こったなにがあったのかは分からないが、本部からでも目に見える事態は徐々に明らかになっていた。
山津波が巨大な雪崩がリザール城塞の水源を伝ってリザール城塞に殺到していた。
ヤキモキするような四半時――時計によればそれほどに経ったわけではなかったらしい時間を経ると前衛との無線が本部に向けた報告をまとめて送ってきた。
帝国軍は山津波でリザール城塞を包囲する部隊を一掃する防御計画を持っていた、それを実施したと判断できる。
周辺の積雪を巻き込んだ事態であれば事前の計画よりも大規模であることは間違いなく、城塞城壁は戦車砲によって崩壊と云ってよい状態にある。
部隊の往来は困難が予想され、帝国軍本営は所在不明のエランゼン城塞、帝国軍主力は周辺に分散している模様。
現在前衛は戦車の性能を確かめ耐久すべく再集結中。
と、いう内容が本部に伝わったところで無線が途切れた。
無線機の性質から云って移動中に突然途切れることはあったが、定点連絡における信用という意味では魔導による通信よりも上だったから、機材の突然の損傷が予想された。
魔導士たちはかなり逼迫した現地の状態をいまも報告していたが、監視している前衛部隊の参謀は全員が生存しているらしく、戦力としてはともかく人員は生きているものが大多数であることは間違いないが、あまりに混乱しすぎていて本部に意味のある情報を伝えているものはひとつもなかった。
ゴルデベルグ中佐を監視していた連絡参謀は鼻血を抑えながら、中佐があまりに興奮していて連絡に没入できない状態になっていることを報告した。本部の主席連絡参謀ロットシュテット少佐によればゴルデベルグ中佐が落ち着いてからでないと意味のある連絡が繋げない、ということだった。
無線連絡がダメ。魔導による連絡もダメ。ということであればゴルデベルグ中佐が送ってよこしたように、前衛は全滅と判断し行動するほかはなかった。
「戦車の性能を確かめ、というのはどういうことか。自力で脱出を試みる、ということかな」
ラジコル大佐は無線が最後によこした不明瞭な言葉を誰ともなく問いただした。
「全滅を覚悟しての言葉ならおそらくはその頑丈さを頼りにすることかと。本部から目で見えるほどの山津波では戦車が自力で脱出出来る状態はあまり期待できません」
車両参謀のハリコフ少佐が推測を口にした。
「城が全部崩れたとして手持ちの機材でどれくらいで掘り出せる」
「場所がわかっていれば二日というところかと。戦車は少し骨ですが、むこうが多少とも動ける状態なら三日はかからないかと考えます」
設営参謀のスターリノ少佐が手持ちの機材の状態を確認しながら何事かを走り書きしていた。
「連絡参謀各員。掌握中の前衛に待機命令を伝えろ。救援予定は二日後。それまで体力を温存せよ。周辺状況不明なままの車両による自力脱出も試みを禁ずる。導術も一時停止せよ。本部最優先命令だ。命令連絡後、前衛部隊との連絡にあたっていた参謀は心身状態の確認を徹底の上、休養を心がけよ。作戦の本番はまだ始まっていない」
戦車乗員の全能感から山津波に巻き込まれたとして戦車兵なら自力でなんとかしようとするだろうし、それが当然でもあったが、本部で把握する限り彼らの状況は雨の日のミミズよりも無残な状況であるはずで、ともかく命令として待機させる必要があった。
遠くで響く山津波の音は今もなお本部幕舎に届いていた。
城塞を襲った山津波の被害がどれほどかはわからなかったが、低地部の農地のいくらかが遠目に色が変わるほどに、軍場にあっても雪で覆われていた城塞周辺の土地の色が白以外の色に侵されていた。
「アレは、山津波はいつ収まると思う」
「わかりませんが、一時間続くとは考えにくいところかと」
スターリノ少佐が答えた。
「良かろう。……スターリノ少佐。ただちに城塞内に突入した前衛の救出に必要な機材人員を選出せよ。十五分後に応援戦力とあわせて進発させる。君が救出部隊の指揮を執れ」
いささかムッツリとした表情でラジコル大佐は命令を下した。
飛び出したスターリノ少佐と入れ違いにモクス大尉が報告を上げてきた。
「城塞周辺に配置した観測中の部隊で事故が起こっている様子です」
「あんなものが眼前で起きれば、事故の幾つかは起きるだろうな。高台に移動して全周監視と待機を命じておけ。追って救出する。……周辺の地図は信用できるんだろうな」
地図参謀のモウルゼン大尉がギクリとしゃちほこばった姿勢になった。
「我軍のものは怪しくはありますが、帝国軍の使っていた物を渡せる範囲で渡してあります」
モウルゼン大尉のあまりに正直な言い様に幕舎の中の雰囲気がざわめいた。
「……周辺は占領されて久しい。仕方ないな。帝国の土木工事の技術を考えれば、我々よりも地図作りに力を入れていると期待しよう。本営には帝国軍の地図は用意してあるか」
ラジコル大佐の言葉にモウルゼン大尉がバタバタと幕舎を飛び出し地図を持って戻ってきた。
「山津波の被害範囲を描き入れろ。本部から見える範囲で今はいい。そののちに帝国軍の主力の位置を推測する。条件は山津波の被害が見える範囲でリザール城塞への経路が山津波の被害に横断されない位置だ。山津波の音を合図に動き出して行軍距離で半日ほど五リーグ内外。師団級の部隊が置かれるとして日々の往来が不便なところには置かれないだろう。戦闘まで時間に余裕が無いぞ。急げ」
モウルゼン大尉が地図を片手に飛び出してゆくのと入れ替わりにホイペット大佐の部隊が周辺の丘陵の幾つかで帝国軍の部隊と交戦を開始したという報告が本部に入った。
ともかく敵の所在がつかめたことで、幕舎の動きが切り替わったところに連絡参謀のアシュレイ大尉が現れた。
気の早いことにアシュレイ大尉は突撃服を着込んでいた。
腕の良い連絡参謀であるアシュレイ大尉は魔導連絡の交代を円滑に入れる才能があって、人員予備として待機していたはずだった。
「予備隊を進発させると聞きました。お加えください」
ラジコル大佐は多少迷ったが、後方に人員を多く置いているのは気に入らない状況でもあった。アシュレイ大尉も切れの良い戦術判断をする魔導士で魔力の強さと安定から云えば非常に明瞭な連絡参謀でもあった。
「進発する予備隊の任務の内容は戦闘ではない」
「突入部隊の救出と聞きました。ご存知と思いますが、自分は死にかけの兵隊を探して生者の戦列に引き戻すのは得意です」
十年前アシュレイ少尉がこの地の撤退戦で助けた兵隊の数は突入部隊の人数の数を遥かに上回っている。ラジコル大佐はこの時そんなことは失念していたが、自信があるというなら文句がある状況ではなかった。
ロットシュテット少佐は困った顔で苦笑いを浮かべていたが、彼はアシュレイ大尉が十年前におこなった偉業と無法を理解している人物の一人だった。
戦闘においては消耗品扱いである魔導師個人の戦功はしばしば逓信院の資料内で留められることが多く、華々しく語られたゴルデベルグ中佐の戦功とは異なってアシュレイ大尉の戦功が語られることは少なかったが、少女と言っても差し支えない事実上の初陣の二人の女性士官が大戦争の劈頭において果たした役割こそが共和国軍の今を支えたといってもよかった。
そのときよりも状況は遥かに明確でわざわざ彷徨っている敗残兵を探す必要が無いだけ簡単だった。
機動的統合的な魔導連絡による作戦指揮という意味で云えばアシュレイ大尉は本来第一人者と語られるべき人物である。
士官個人の才能で運用される戦術判断に技術的な意味を認めることは難しかったが、指揮官の多くが自分の脳裏を言語化出来る形で判断を下しているわけではなかったから、魔導師の突然死という宿命的な或いは事故の問題を除けば、アシュレイ大尉は確かに名将と呼ばれる種類の士官であった。
そして実のところマリールには部隊の将兵のうち二百二十五名の士官下士官がこの戦場でどこにいるのかなにをやっているのかほぼ完全にわかっている自信があった。必要であれば指揮を統括することさえ考えていた。
だがまずは土の中に押し込められた突入部隊を五十七名を鍵にして落ち着かせて助けだすことが最初だった。
「良かろう。全員助けてこい。急げよ。あれでスターリノ少佐は気の長い男ではない」
ツヤツヤと自信に溢れたアシュレイ大尉にラジコル大佐は幕舎の口を顎で示して命じた。
「いってまいります」
慌ただしく編成されたスターリノ少佐の救援部隊が出立する頃にはホイペット大佐の部隊が遭遇した帝国軍の部隊がそれぞれ千をいくらか超える程度の部隊であったことが判明した。
やがて戦闘は有利に展開し高地の制圧も終わったが、全部合わせても想定していた帝国軍の主力と云うには物足りないものであったことで、本部ではため息が漏れた。
リザール城塞の帝国側はヒダ状の丘陵がいくつも入り組んでいて湿地を見通すようなわけにはゆかない土地だったが、全体としてラジコル大佐の想定判断以外に有力な材料もなく、ともかく二日ほどはかかるであろう城塞突入部隊の救出を支えるべく布陣することをホイペット大佐は決心していた。
四つの丘陵を制圧させた部隊は砲戦車中隊と戦車歩兵中隊とをそれぞれ組み合わせただけの簡素でいい加減な連合部隊ではあったが、大隊単位で兵科を揃えているのは補給と整備の都合の問題によるものだったから、戦闘単位としては別段いつもの訓練通りのことで中隊長同士が作戦状況の理解の確認ができれば問題になることはまったくなかった。
手付かずの砲戦車大隊を手元に残し、ホイペット大佐はどこからか来るだろう帝国軍の動きを待つことにした。
ホイペット大佐が唸ったのは予想されていた敵の主力が迫っていることが知れたからだった。
雪積もる冬だというのにご苦労さんだ。と夕餉の煙らしきものが丘の向こうで起こっているらしい事に歩哨が気がついた。
それが数の見落としはあり得るにせよ、事実の見落としがありえないほどの数の煙だったことがホイペット大佐に手元の戦車大隊から威力偵察を命じなかった理由でもある。
半端にこちらの戦力の威力を見せつけて帝国軍に及び腰になってもらうよりは、全くやる気に満ち満ちたままこちら噛みつくつもりでいてくれたほうが確実に叩き潰せる。
帝国軍の将帥が図抜けた間抜けでないかぎりは、こちらの位置の凡そは推測が立っているはずで戦力の威力は分からないにせよ規模はわかっているはずだった。
問題は帝国軍が共和国の威力をどれだけ読み違えているかで互いの損害が決する。ということだった。
この場合、共和国軍側には二日間の固守以外の判断がないので読みがあろうとなかろうと全ては帝国軍の対処の判断にかかっていた。
支援部隊をラジコル大佐の本部においてきたホイペット大佐の配下は純粋な戦闘部隊であって、近傍一千リーグで最有力の戦力である自信は大佐のみならず配下の全員が持っていたが、それは手持ちの矢玉が尽きるまでというところでもあったから、冷静かつ適切な戦力配分と一方で救援活動中のリザール城塞に敵の足を向けさせない判断が必要になった。
ホイペット大佐が日没が迫る時間帯の周辺捜索を忌避した理由は想定される帝国軍の広がりそのものの他に、共和国軍の戦車に十分な夜戦能力がないということがあった。
夜目の効く亜人乗員は極めて少ない。ということがホイペット大佐が日没以降の行動を嫌った理由でもある。
戦車は自動車と同じことのあらかたが出来る乗り物だったから、夜間行軍をおこなうために前照灯をつけていたし、隊列を組むための後尾灯や車側灯或いはブレーキや方向指示などがついている。車側灯は右が緑で左が赤などと梯団行動をおこなう上では至れり尽くせりの装置もある。だが、それは戦車の視界が極めて悪いことを補うための装備だった。
友軍の準備ができていることを互いにひと目で確認するために様々な準備があったが、結局は鉄の箱の隙間から外を覗く戦車はひどく視界の限られたものであったから、その戦闘力の反面怪しげなところも多かった。
具体的には三号橋頭堡から本部が置かれた旧司令部跡地までのおよそ六十リーグの間に七十二回の交通事故があった。およそ四両に一両が二日あまりの行軍の間に交通事故を起こしていた。雪によって地形がうっすらと隠されていた敵地のことで必然とも云えたがともかく瑣末な交通事故が多発していた。
その殆どは軽微なもの軟弱な路肩に滑り落ちるだの止まれず衝突するだのというものであったが、履帯の切断や脱落というものも含まれている。
立木にぶつかるなどというものは戦車にとって交通事故ではあるが全く問題のないもので、履帯の脱落切断というものはある一定の割合で常に起こりうる事故でそれは戦闘状態であれば避けることの出来ない種類の事故でもある。
はっきり云えば戦車への信頼というものは戦闘力防御力に限って云えば無制限の信頼を与えられるものだったが、視界の狭さを含む機動力への信頼というものは、その速度性能或いは運動性能の圧倒的な能力の実証があってさえ無制限に与えられる種類のものではなかった。
特に敵地において数量に劣勢な予備のない状況でどれだけ信頼を与えるかは、戦術作戦上常に難しい話題であった。
そしてホイペット大佐は突撃服についても疑問があった。
圧倒的な防御力というものが与える精神的な余裕は個々の歩兵の戦術判断を広げる、というゴルデベルグ中佐の主張には全く疑問がない。それは戦車においても同じことでそこには疑問の余地が無い。
だが、人間が運べる装備の重量が二本の足にかかるという一点において突撃服は重大な欠陥がある。
雪原においてカンジキを履いてさえ、戦車の先導があってさえ、突撃服は歩兵の行動を縛っていた。
重すぎるのだ。
そして歩兵戦車が必要である理由、戦車の目として手として歩兵を戦場に展開させまた回収するという機能を考えれば少なくとも冬場の歩兵には別の装備が必要になる。
そういうことだった。
戦車に橇を牽かせるべきかもしれない。
砲戦車の砲塔に設けられた面倒くさい土地では乗員の兵隊が天幕を張れるような大きさの貨物用のバスケットは戦闘部隊を強力に支える輸送力の根源になっていた。全体に一回り大柄な割に砲塔の小さな歩兵戦車にはそういう張り出しの準備はなかったが、ともかく前衛部隊はそういう風に荷物や兵隊を扱うのが良いのかもしれない。
ホイペット大佐はぼんやりと考えていた。
翌日、帝国軍が大軍団、つかみで二三万の軍勢を複数で押し寄せてきたことはホイペット大佐にとっては驚くべきことではなかった。
経路も本部のラジコル大佐が予測したものとおよそ変わりはなかった。
だがその速度は予想よりも早かった。
帝国軍の兵隊たちは橇を履いていた。
帝国軍の隊伍は馬に橇を引かせていたのだが、その橇はカンジキのように兵一人ひとりが足に履いていた。
ホイペット大佐はそれこそが戦車歩兵に必要な冬季装備であると直感した。
とはいえ、ホイペット大佐も手をこまねいていたわけではない。砲戦車の貨物用のバスケットや歩兵戦車の車体上面に兵を跨乗させ機動力を落とさないまま周辺脅威に対応させていた。
戦闘部隊単独というのは全く気軽身軽ではあるのだが、戦闘指揮という意味では見えているところしか見えない苦しさがあって、本部に砲支援を幾らか頼むのが関の山という状態でホイペット大佐は周辺状況が読み切れないまま一日目の戦闘を終えた。
戦果という意味では全く圧倒的であるはずだったのだが、数十倍という兵員数の規模の違い、そして奇妙に動きの軽い橇履きの帝国軍の歩兵に、防御力を固め視野や精神に余裕のあるはずの戦車歩兵がそれぞれ手持ちのおよそ半分の弾丸をばらまくほどに幻惑されていた。
歩兵が銃弾をばらまいた結果として、それぞれの戦車は砲も機関銃も温存していたが、明日も同じ展開であれば、歩兵は手持ちをあらかた撃ち尽くすということになる。およそ二百万発を一個連隊に充たない兵隊が本日射耗していた。
機関小銃配備以降、常々指摘され全く予想されていた事態ではあったが、驚くべき激戦が繰り広げられ、最低でももう一両日おこなう必要があった。
問題なのは帝国軍が素直に攻勢開始点に戻ったはずがないということだった。
つまり二日目の帝国軍の侵攻は、一日目と違って配置が読めない。
土石流による破砕攻撃は地形を軟弱不安定にしていて、むやみにリザール城塞に近づくことも危険だった。
そして、リザール城塞での救出活動はまだ続いているということだった。
本日日中もリザール城塞の制圧は完全には終わっておらず、散発的な帝国軍の妨害を排除しつつ救出作業がおこなわれていて、城内で孤立していた数名と合流が出来たものの、土砂に埋もれた突入部隊本隊の救出は進んでいなかった。
アシュレイ大尉の魔導捜索によって掘り出しやすいところから順番に夜を徹して作業を行う予定であったが、ともかくようやく救出作業は始まったところだった。
ホイペット大佐としては全く弾薬に不安がある話だったが、あれほどの数の敵を見れば敵に素通りをさせないためにも弾を惜しめというわけにはゆかなかった。
不安はあるがしかたがないと、ホイペット大佐は夜間の敵戦力の捜索を夜目の効く亜人を車長にもつ戦車を抽出して部隊を編成することにした。
夜間の捜索は不意の遭遇戦になりやすく互いに戦場からの離脱の難しさからしばしば威力偵察と区別の付かない結果になる。
砲戦車と歩兵戦車をそれぞれ二個小隊抽出してアルジェンゲリエ中尉とアウルムゲリエ中尉に捜索任務を預けたのは手持ちの戦車乗員の中で二人がそれぞれ夜目に長けた優秀な戦車指揮官であったことは間違いないが、それ以上に多少の危険を厭いより大きな危険を招くわけにはゆかなかったからでもある。
大隊の予備の連絡参謀をつけふたつの捜索隊を送り出したのは、戦闘は希望していないが、それぞれ帝国軍の野営が十分にありえる位置の捜索をおこなわせたからでもあった。
昼間の帝国軍の動きを考えて明日のうちにリザール城塞を捉える位置まですり抜けるように進出したとして地図の上で幾つかめぼしい野営地は存在していて、そんなところに本当に大軍勢がいたとして本日と同じ規模の戦闘があれば対処は出来なかった。
果たして連隊規模の帝国軍が野営していた。
ホイペット大佐は旅団本部に野砲による砲撃準備を要請するとともに観測部隊を残置させ捜索を継続させた。
アウルム中尉の捜索中隊は完全な空振りだったが、アルジェン中尉の捜索中隊は連隊規模と大隊規模の三つの部隊を発見していた。
ホイペット大佐としてはしてやったりというところだったが、本部の焼夷弾砲撃があってもすべてを完全に粉砕することは難しそうだった。
捜索中隊で連隊本部を夜襲蹂躙するというアルジェン中尉の進言はある意味でそれしかないという種類の進言だったが、訓練優秀とはいえ初陣同然の中尉がおこなえるのかという内容でもあった。
だが、やらせるしかなかった。
本部の砲誘導をおこなわせふたつの捜索隊の合わせて十六両の戦車で三つの敵本部を蹂躙する。
結果として大戦果だった。
冬の野営中の兵隊は多少の陣備えや多少の地形の選別があっても、長距離砲の支援を受けた戦車による夜襲の敵ではなかった。砲の調整もひどく順調だった。本部の連絡参謀がアルジェンとアウルムの位置をひどく明瞭に掴んでいて、殆ど見たまま砲の誘導をおこなっていた。
敵本部を殲滅した結果、幾らかの情報もあった。例えば昼間の戦闘を避けた部隊が抜けている予定もあり、すでにリザール城塞により近い位置に同程度の帝国軍が迫っている可能性が高く、その情報をリザール城塞の救援部隊に連絡を送ったが、これ以上は土地勘もなく戦力に余裕もないホイペット大佐には対処不可だった。
翌日二日目のリザール城塞の救出作業は全く忙しい有様だった。
雪のために大型の砲を帝国軍が準備できなかったことが幸いしていたが、先行して到着した歩兵が拠点を作るのを許すわけにはゆかないと戦車が突進するのを蜘蛛の子を散らすように帝国軍が逃げまわり、戦車が許す僅かに外側に拠点を作り始めていた。
慎重にそしてそれなりの早さで動き回る複数の部隊を戦車の機動力があるとはいえ、手数に余裕のない部隊ができることは捜索偵察だけだった。
ホイペット大佐の部隊は日没で帝国軍が引き上げた時、歩兵の備弾はかろうじて一割を残していた。
リザール城塞を囲む帝国軍の背後からホイペット大佐の部隊が夜襲をかけたのは、部隊を分けて土地を守ることが不可能になったからだった。
戦車歩兵は装具の殆どを戦車に預けることが出来ることから、並の歩兵よりもよほど備弾も多いのだが、それ以上に帝国軍の数が多く実に巧妙に動いてみせることで、もちろん大勢を討ち果たしてもいるのだが、それ以上に弾丸を撃たされてもいた。
救出が進んでいる突入部隊にはある程度銃弾に余裕があって、彼らと合流しないと三日目の弾薬に不足がある。
そういう判断だった。
手数が足りない中で事実上のリザール城塞の防御指揮をとっていたアシュレイ大尉は日中存在を確認しながら撃滅を諦めた帝国軍戦力に積極的な導術指揮でホイペット大佐の部隊の誘導をおこない夜襲を成功させた。
彼女はメダルを頼りに夜襲部隊の数十名の視界を共有させ見えるはずのない敵をみせることで、夜襲にありがちな視野の狭窄を起こさせないままに戦闘を誘導した。
魔法というものの技能のあり方は逓信院の定めるところが全てではなく、連絡参謀というものは軍隊という組織の中で敢えてより単純なより初歩的な魔術技能として統合的に扱われているにすぎない。
そして救出活動初日に手隙の士官として戦闘指揮の管理を任されたアシュレイ大尉は成り行きで十年前の後退戦――救出劇の話題に触れることになり、スターリノ少佐の筆頭幕僚として最大限の努力をすることを命じられ許された。
そういうことだった。
「私は城外のことにまで気を回すことは出来ない。そっちは貴官に任せる。ついてきたからには戦闘部隊の取りまとめくらいはやってくれるのだろう。発奮してくれ」
という、ある意味でぞんざいなスターリノ少佐の命令はアシュレイ大尉にとっては軛を解く言葉でもあった。
アシュレイ大尉――マリールとしては城の瓦礫に埋もれているメダルを持った義理の姉妹たちの位置が正確に把握できていることから救援に参加すればやれることも多かろう、という意図だったのだが、兵隊の取りまとめ戦術指揮も預かり好きにおこなって良いということであれば、楽しく発奮しない理由もなかった。
連絡参謀は一般に部隊指揮の経路からは切り離されているから、素養がどうあっても階級が上がっても部隊長になることはない。
マリールの人生に二度目の部隊指揮の機会だった。
彼女は周囲の個人評価とは全く別に任務配置上はお行儀の良い軍隊生活を送っていたのだが、上官の命令とあれば発奮することになんのためらいもなかった。
二日目の夕刻、突入部隊の車両の多くは未だに掘り出されていなかったが、一部の車両は自力で這い出すことに成功し、人員の一部も合流を果たしていた。車両の戦闘力という意味では大いに怪しむべきだったがともかく自走可能なものがあるという点は作業を助け、車両に合流出来ていなかった人員はゴルデベルグ中佐の魔導による誘導とアシュレイ大尉の探索とで全員が救出された。
二日目日没後、歩兵部隊は手持ちの弾薬の殆どを使い果たしていた。砲戦車と歩兵戦車は多少備弾に余裕があるといって本気で撃ち始めれば、僅かな時間で撃ち尽くすくらいの弾数しか積んでいない。
仮に一発で歩兵が百人倒せるとしても一両の戦車が一万の兵隊を倒せるはずもない数の砲弾しか積んでいなかったし、もちろん帝国軍が衆を頼みに押し寄せていると云ってそうも安々と戦車の前に群れをなすというわけではない。
戦車の仕事はそういう迂闊な動きをさせないことで歩兵が戦いやすく敵陣を寸断することだった。
マリールはメダルや連絡参謀の状況から弾薬の枯渇した部隊を優先的にリザール城塞に収容し弾薬の再配分と戦力の再配置をおこないはじめた。
救出された幾人かは骨折などで自力では歩けない状態だったが、ともかく生存したまま合流を果たしたことは、ともかくラジコル大佐の本部の雰囲気を明るくさせた。
これまで部隊を支えていたゴルデベルグ中佐が意識不明の重態であることは本部にあって気がかりなことだったが、ともかく作戦の上で一つの成果を残した配下部隊の全員が欠けることなく合流を果たした、という驚くべき事実はラジコル大佐の本営を沸き立たせた。
問題は敵の新たな策源位置だったが、三日の防衛戦の過程で幾つかの敵本営急襲に成功したことで地図上の位置は明らかになった。
帝国軍は本隊軍勢の規模が戦前に比べておよそ十倍になったことで、リザール城塞の東西に複数の駐屯地を新たに開き、本国への経路の防御拠点と部隊指揮の拠点とを切り分けていた。
エランゼン渓谷の口に建てられた城塞の規模はわからなかったが、つまりは帝国軍の兵站の新たな樋口であり、広大な湿地という堀を失ったリザール城塞は重要ではあっても帝国を守る盾としては怪しいと、或いは農地の発展のためには手狭で邪魔であると帝国軍は諦めていた。
ラジコル大佐は本部本営に届いた伝令の地図とリザール城塞に燃え残っていた資料と幾らかの捕虜の尋問の結果とをこね合わせて、感触としての状況をおよそ現場で望める限り正確に想像してみせた。
もちろんそれは、あくまで推理想像に過ぎなかったが、敢えて控えめに曖昧に表現した範囲において誤りは含んでいなかった。
そしてそのことの意味するところは、ラジコル大佐の作戦は全く当初の予定を完遂したものの、戦略的には意図を全うできない。
ということだった。
旅団幕僚たちは当然にラジコル大佐の内心を慮ったが、ラジコル大佐自身は口を尖らかせて報告を脳裏にまとめ上げ幕僚に状況を整理させ、幾つかの確認をすると存外さっぱりした顔に戻った。
「突入部隊の救出が終わり次第、展開中の部隊を本部に引き上げさせろ。風呂と洗濯の準備をさせておけ。その後部隊を再編し、健全な聯隊を残し、一旦引き上げ後方で補充する。疑問はあるか」
「リザール城塞はどのように」
「めぼしい物を回収したら廃城の片付けなど帝国軍にやらせておけ。我々は我々の都合で動けば宜しい。戦区の管制という意味ではリザール城塞に拘る必要はない。我々の戦力の質を考えればこの地のほうが都合がよろしい」
機動力と火力に自信のある部隊にとって前方周辺の見通しが良いほうが都合が良いのは事実であって、距離的な位置的なものを考えれば後方拠点に近いほうが都合が良いのは事実でもあった。
戦術作戦上で巨大な戦果を得たものの戦略上は決定的な一撃を与えることは出来なかったが、共和国軍はラジコル大佐は赫々たる戦果を勝利と誇った。
それは必ずしも詭弁とはいえない成果でもあった。
確かに戦略的には誤った攻撃目標に注力した結果、作戦の成果は無為に終わった。
だが、自動車聯隊を束ねた旅団の威力は証明され、累々たる屍の山を帝国軍に作らせ、惜しむべき戦友の死はあったものの戦友全員が再び顔を合わせることができる。
戦略戦術という意味を超えて、軍政上の勝利として自動車聯隊の創設がなったことを意味していた。
必要であれば幾度でもどこなりと自動車部隊を投入すれば良い。という実績はつまり、部隊に欠員なくリザール城塞を粉砕した事実を以って誇れば良い。
ラジコル大佐は言葉を惜しんだが、敵中の陣地で入浴をするなどというこれまで考えられないありえないほどの贅沢を味わっているうちに作戦に参加した臨時編制である装甲歩兵旅団の全員にもなにがおこなわれているのか、なにをなしたのかの実感が確信として得られてきた。
無闇に贅沢をしている、甘やかされているのかもしれないと、多少の後ろめたさを感じていた兵隊たちもいたが、城攻めにあたって土砂に埋れその後の防戦にあたっての出来事での被害の小ささを考え、なにが起こっていたのかを想像しないわけにはゆかなかった。
死んだ者について、ツイてなかったな、と云うのは兵隊にとっていつものことではあったが、その意味は普通とは全く違う響きがあった。
敵弾に倒れた者はないままに五名の戦死者が出たことは全くラジコル大佐にとっては残念なことだったが、それは作戦戦術の上で巧緻を尽くした結果ではなかった。
土石流による地形攻撃というべき大掛かりな土木投資を戦術としても五名の犠牲で乗り切ったこと、敵からすれば戦果はたったの五名であったことを考えるなら、ラジコル大佐の示した自動車聯隊の編制の理念そしてそれを実際として強力に発展させたゴルデベルグ中佐の努力は大佐をして全く驚くべき成果を得たといえる。
戦う前に勝利を約すと云う意味で作戦的にはラジコル大佐は勝利したし、戦略的には既にそこには勝利はなかった。
ラジコル大佐は生意気なというしかないゴルデベルグ中佐の傲慢な笑顔が見られないことを今は全く残念に思っていた。
魔導の過剰な使用或いは暴走、という前線では戦車の機関故障以上に手のつけられない事態は戦場における魔導士の宿命といえるものだった。
もう一人活躍した魔導師であるアシュレイ大尉は全く健康そうであったが、ともかく二人の魔導師が部隊の無事を支えてくれた事実に内心感謝しつつ、ともかく共和国軍の冬季攻勢は大きな戦果を残して終了した。
土石流に巻き込まれ戦闘力を喪失した車両と銃弾をほとんど射耗してしまった部隊とを再編成して健全な聯隊をひとつ旧司令部跡地に残し、ラジコル大佐は一旦アタンズに凱旋することを総軍司令部に報告した。
前線の幕僚では読み切れない膨大な資料を戦利品と抱えてもいた。
手持ちの弾薬と食料の粗方を置いて第三橋頭堡を渡ることは多少の危険もあったが、短期間に二度目の強襲への帝国軍の対応はひどく緩慢なものでラジコル大佐の率いる連隊は無事欠員ないままアタンズに凱旋を果たした。
アタンズへの帰還以前にゴルデベルグ中佐の戦死が認定された。
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