54 / 71
53・名前。
しおりを挟む
オフィリアが出産して1週間がたったところで、院長先生に呼び出されたからお願いできる? と、少しだけ大きくなったベビーを養育室に預け、院長室に行ってしまったオフィリアを見送った私は、コップに入ったミルクをひっくり返してしまったアニーを着替えさせてながら、一緒に養育室で働いているハンナの方を見た。
「どうしたんでしょうか、呼び出し、なんて。」
「本当、どうしたのかしらねぇ。 ねぇ、ベビーちゃん。 お母さんと離れたら不安になるよねぇ。」
首を傾げたハンナは、その腕の中に抱かれて眠る、小さな小さなオフィリアの赤ちゃんをゆらゆらと揺らしながら言った。
(もしかしたら、マーガレッタ様の時のように……辛い話をしているのではないかしら……。)
ふと、産んだ子供との別離を示す書類を突き付けられたマーガレッタ様の顔が脳裏を浮かぶ。
「心配することないよ。 ミーシャ。」
「……え?」
アニーに抱っこをせがまれて慌てて顔を上げた私にハンナは笑った。
「まだ生まれて1週間だ。 ローリエの時みたいにって心配になったんだろうけど、オフィリアはここに来るお嬢様達とはちょっと事情が違うからねぇ。 親子が離されたりすることは今はまだないよ。」
顔に出ていたのだろうかと一瞬焦った私に、あははと笑う。
「わかるさ。 この愛児院も、昔からまぁ、色々あったからね。 今だってそうだ。 ここは愛児院。 2歳になったら幼児院へ子供は住む場所を移すって約束があるだろ? なのにねぇ、2歳を超えたアニーもシンシアも、まだここにいるだろう?」
「……はい。」
そう。 私が来て2年が過ぎた。
しかし2人には今だ引き取りたいと言う家族が現れない。 ここは愛児院。 規定によって近いうちに幼児院へ移されるのだろう。 それは何時言われるだろうか……と思っていた。 しかし院長先生からそれを言い渡される気配はないまま2人は2歳のお誕生日を迎えてなお、ここにいて、私たちがお世話をしている。
「……こういう事は多いんですか?」
「いや、今まではなかったね。 ……まぁ、今の世の情勢じゃ仕方がないかもしれないねぇ。」
「え? 何かあるんですか?」
その話に首をかしげる。
「う~ん。 ちょっと聞いた話なんだけどね。 今、王都の幼児院や孤児院はどこもいっぱいで、2歳を超えても愛児院を出れない子が多いそうなんだよ。 愛児院だって、2歳超えた子を出せないまま、新しい孤児を受け入れてる場所もある。 うちみたいに教会じゃなく、国が独自に運営してる孤児院では、年若の子を受け入れるために、退所年齢に達していない年長の子を追い出してるところもある。 昔はそんなことなかったんだけどね。 きな臭い噂もあるくらいだし、なにかあるのかねぇ。 最近は、王都を歩いていても、どこもかしこもギスギスして嫌な空気だよ。」
「……そう、なのですか?」
噂通りとは何だろうと思いながら、難しい顔をしたハンナに尋ねる。
「あんたは外に出ることがないからわからないだろうけどね、王都の治安は悪くなっているよ。 孤児は増えているし、職を失う者も多い。 なのに税金は上がる一方。 大通りを一本入れば、あちらこちらで騒ぎが起きてる。 もうずいぶん前から、女は夜は出歩いては駄目だと言われているよ。」
「そんなにですか……?」
「あぁ。 ここ1、2年で急激に悪くなった感じだね。 それなのに建国記念で他の国からお客様が来るとか来ないとかって貴族街は大騒ぎ。 不敬罪になるから口には出せないけどね、上は何をやってるんだって、誰だって思っているよ。」
ため息交じりの言葉は重いく、そんな言葉に私はただ驚くばかりだ。
私がまだ公爵令嬢であり、王太子の婚約者をやっていた時には、王都は夜間は警備兵が巡回し、貧民街以外の場所は、夜間に女性が出歩いても大丈夫であったと記憶しているし、もし何かあってもすぐに警備兵や騎士たちが対応できる状況だったと記憶がある。
孤児問題は確かにあった。 しかし国営の孤児院には国庫から定期的にしっかりした支援もあり、退所年齢未満の子供が追い出されると言うようなこともなかったはずだ。
(お母様とアイザックは帝国へ行ってしまったし、お父様は領地に戻っていらっしゃったから、王都の様子を知る事がなかったけれど、あれ以降、治安も経済もかなり悪化していたのだわ。 外交はエルフィナ殿下が頑張っていらっしゃるようだけど、市井に支援が届いていないのは明らかに国王陛下と王妃殿下の職務……このままでは不満がたまり、王家に対して不満だけが募るわ。 何も起きなければいいけれど……)
そんなことを考えながら仕事をしていると、オフィリアはやや疲れたような顔をして帰ってきた。
「おかえりなさい、オフィリア。 院長先生のお話は終わりましたか?」
「……うん。」
「?」
やや浮かない顔が気になったため、私は時計をちらりと見、笑った。
「オフィリア。 そろそろ3時のお菓子の時間なんですが、久しぶりにこっちに来たのでここで食べていきませんか?」
そういうと、オフィリアの顔に笑顔が戻った。
「いいの?」
「せっかくこちらに来たのですし、気分転換にいいのではないですか? どう思います? ハンナ。」
「あぁ、いいんじゃないかい? オフィリアの可愛いベビーは私が抱っこしててやるから、ゆっくり食べな。」
パチン、とウインクして言うハンナに、オフィリアが声を上げる。
「嬉しい!」
「じゃあ、皆と座って待っててください。 すぐに用意してきますね。」
嬉しそうに頷いたオフィリアを確認した私は、抱っこしていたアニーをベビーゲートに入れると、おやつを取りに行くために養育棟を出た。
「……名前、ですか。」
「うん。」
今日のおやつである野菜ドーナツとホットミルクを子供たちと一緒に食べ終えたオフィリアは、体も温まってほっとしたのか、養育室の中を『懐かしい』と言いながらきょろきょろと見まわしていた。 そんなところに同じく、お腹いっぱいで満足したのか、椅子をはい出したシンシアが、すごい勢いでオフィリアに突進した。
「わぁ。」
どーんとぶつかって、よろめくオフィリア。 床に座っていたため何とかシンシアを抱きとめていたが、立っていたら危なかったかもしれない。
「シンシアもオフィリアも大丈夫ですか?」
「あい!」
「うん、大丈夫。 シンシアちゃん、おっきくなったねぇ。 かわいいね。」
膝の上に抱きかかえてぎゅっとシンシアを抱き締めたオフィリアに、ハンナが笑う。
「懐かしい、おっきくなったって、ここに来れなかったのはまだたった1週間じゃないか?」
それにはオフィリアは首を振る。
「そうなんだけど、もうずっとこっちに来たかったの。 みんな会いには来てくれるけど、あの部屋の中にずっといると、気がめいっちゃうの。 だから今日は、久しぶりにここに来れて嬉しい。 まだ部屋で安静にしてなきゃダメかな? 明日からはお昼の間、ここにいたらダメかな?」
それにはハンナがう~ん、と考えるようなしぐさをする。
「お産から1週間たった頃だし、少しだけここに来てるくらいならいいかもしれないけれどねぇ。 念のためにノーマに聞いてからにした方がいいね。 それから、来てもいいって言われても、仕事してもいいってわけじゃないんだから、手伝いとかはするんじゃないよ? 基本的にお産の後のひと月は何もせずに体を休めるっていうのが大前提だからね。」
そう言われて、オフィリアは嬉しそうに頷いた。
「うん。 じゃあ、後でノーマとシスター・サリアに相談してみる。」
「いいよって言われるといいですね。」
「うん。」
うふふと笑いながら、膝の上で遊んでいるシンシアを見ていたオフィリアに、ハンナがそういえば、と問いかける。
「それで、オフィリア。 名前ってベビーの事かい?」
「そう。 赤ちゃんの名前をね、どうするか聞かれたの。 ここで赤ちゃんを産んだらアリア修道院から国に届け出るの? それでね届け出をするのに名前が必要みたいで……どうしたいかって院長先生に聞かれたの。」
なるほど、と、私はおやつの食器を片付けながら答えた。
「あぁ、そうでしたね。 この国では生まれて1ヵ月の間に貴族であれば貴族籍、庶民であれば国民籍に登録するために登録する義務がありますね。」
「うん、それは向こうでもあったからわかるんだけど、でもそれって、両親の名前とかも一緒に届け出るんでしょ?」
そう言ったオフィリアは、ハンナに抱っこされて眠る自分の子供を見て鳶色の瞳を揺らした。
「……この子の、お父さん……。」
「あ~、それなら大丈夫だよ、オフィリア。」
「……え?」
泣き出しそうな声になっていたオフィリアに、ベビーを抱っこしハンナが笑う。
「修道院で生まれた子なんだから、親も子もない。 子供の名前だけが登録される。 あんたの名前はもちろん、相手の名前だって必要ないさ。」
「……そっか、良かった……。 相手の名前もだけど、私の名前も出したらよくないもんね……。」
ふっと強張った顔を緩ませたオフィリアは、目元を拭ってから、うん、と大きく頷いて笑う。
「それで、名前なんだけどね? 如何したらいいかなって思って。」
「1週間もあったんだ、考えてた名前はないのかい?」
不思議そうに答えたハンナに私も頷くと、難し気に顔を顰めるオフィリア。
「それが、あるにはあったんだけど、それを院長先生にいったら、この世界ではとても珍しい名前になるし、書類に文字が綴りにしにくい? から、難しいわって言われちゃって。 で、こっちでもおかしくない名前の方がいいんじゃないかってって言われて……考え直し中?」
「そうなんですか? 難しいですね。」
たしかに向こうで使っている名前はこちらでは使いにくいかもしれない。 現に今、前世の名前を言えと言われたら、凄く発音に悩む自信がある。
「うん。 だからね、どうしたらいいかなぁって。 ハンナさんは子供の名前、どうやって決めたんですか?」
「うちの娘の名前かい? うちの子供の名前は2人とも旦那がつけたんだよ。 上の子の名前は北の国の宝石みたいな花の名前、下の子の名前は幸せを運んでくる鳥の名前だって言ってたね。」
少し照れながら答えたハンナに、オフィリアは目を輝かせる。
「ハンナさんの旦那さん、凄くロマンチックな人なんだね! 宝石みたいな花の名前に、幸せの鳥の名前かぁ……素敵! ミーシャは? 名前の由来あるの?」
「私ですか?」
話を振られて、私はよどみなく答える。
「私の名前は曾祖母の名前です。」
「曾祖母って……あぁ、ひいおばあちゃんだ。 え? ミーシャの名前はひいおばあちゃんの名前を貰ったの?」
「えぇ。 貴族階級ではよくあるのですよ。 曾祖母は帝国の侯爵家の長女で、当時、社交界では淑女の鏡と言われる方だったそうです。 そのように育ってほしい、という意味と、その家の伝統を引き継ぐと言う事もあるのだそうです。 ちなみにですが、弟のアイザックの名前は母方の祖父の名前です。」
「ふぅ~ん、おばあちゃんの名前、かぁ……。」
シンシアを抱っこしたまま、なるほどなぁと考え始めたオフィリアは、そうだ、と声を出した。
「ハンナさん、ミーシャ。 『エリ』……って名前、呼びにくい?」
「エリ、ですか? こちらではエリーと語尾を伸ばしたりしますが、こちらでも聞く名前ですし、響きも綴りも綺麗な、とても素敵な名前だと思います。」
そう答えた私に、ハンナも相槌を打つ。
「うん、いい名前だよね。 そんな名前のついた花もあったような気がするし、いいんじゃないかい?」
私とハンナの答えに嬉しそうに笑ったオフィリア。
「ほんとに!? そっか、じゃあ、エリ、にしよう。」
ふふっと笑って、エリ、エリ……と何度も口の中で繰り返すオフィリアに、私は聞いた。
「それは、お祖母様のお名前ですか?」
私の話を聞いて思いついたのならそうかと思って聞いたのだが、それには、少しだけ泣きそうな顔をして、オフィリアは笑った。
「ううん。 『衣里』はね、ママの名前。」
その言葉に、ズキン、と胸が痛んだ。
「……お母さまの……。 そうだったのですね。」
聞いてはいけなかった。 後悔して、唇を噛む。
そんな空気を吹き飛ばすように、ハンナは嬉しそうに笑った。
「素敵な名前じゃないか。 ベビーちゃん、貴女の名前は今日からエリだそうよ。 可愛らしいお花のような、眩しい光のような、ベビーちゃんにピッタリの素敵な名前じゃないか。 よかったねぇ。」
つんつん、と頬をつつかれたエリと名をつけられたベビーはむずがゆそうに顔を歪め、産まれた時より青みの増した瞳を開け、ふにゃっと笑った。
「どうしたんでしょうか、呼び出し、なんて。」
「本当、どうしたのかしらねぇ。 ねぇ、ベビーちゃん。 お母さんと離れたら不安になるよねぇ。」
首を傾げたハンナは、その腕の中に抱かれて眠る、小さな小さなオフィリアの赤ちゃんをゆらゆらと揺らしながら言った。
(もしかしたら、マーガレッタ様の時のように……辛い話をしているのではないかしら……。)
ふと、産んだ子供との別離を示す書類を突き付けられたマーガレッタ様の顔が脳裏を浮かぶ。
「心配することないよ。 ミーシャ。」
「……え?」
アニーに抱っこをせがまれて慌てて顔を上げた私にハンナは笑った。
「まだ生まれて1週間だ。 ローリエの時みたいにって心配になったんだろうけど、オフィリアはここに来るお嬢様達とはちょっと事情が違うからねぇ。 親子が離されたりすることは今はまだないよ。」
顔に出ていたのだろうかと一瞬焦った私に、あははと笑う。
「わかるさ。 この愛児院も、昔からまぁ、色々あったからね。 今だってそうだ。 ここは愛児院。 2歳になったら幼児院へ子供は住む場所を移すって約束があるだろ? なのにねぇ、2歳を超えたアニーもシンシアも、まだここにいるだろう?」
「……はい。」
そう。 私が来て2年が過ぎた。
しかし2人には今だ引き取りたいと言う家族が現れない。 ここは愛児院。 規定によって近いうちに幼児院へ移されるのだろう。 それは何時言われるだろうか……と思っていた。 しかし院長先生からそれを言い渡される気配はないまま2人は2歳のお誕生日を迎えてなお、ここにいて、私たちがお世話をしている。
「……こういう事は多いんですか?」
「いや、今まではなかったね。 ……まぁ、今の世の情勢じゃ仕方がないかもしれないねぇ。」
「え? 何かあるんですか?」
その話に首をかしげる。
「う~ん。 ちょっと聞いた話なんだけどね。 今、王都の幼児院や孤児院はどこもいっぱいで、2歳を超えても愛児院を出れない子が多いそうなんだよ。 愛児院だって、2歳超えた子を出せないまま、新しい孤児を受け入れてる場所もある。 うちみたいに教会じゃなく、国が独自に運営してる孤児院では、年若の子を受け入れるために、退所年齢に達していない年長の子を追い出してるところもある。 昔はそんなことなかったんだけどね。 きな臭い噂もあるくらいだし、なにかあるのかねぇ。 最近は、王都を歩いていても、どこもかしこもギスギスして嫌な空気だよ。」
「……そう、なのですか?」
噂通りとは何だろうと思いながら、難しい顔をしたハンナに尋ねる。
「あんたは外に出ることがないからわからないだろうけどね、王都の治安は悪くなっているよ。 孤児は増えているし、職を失う者も多い。 なのに税金は上がる一方。 大通りを一本入れば、あちらこちらで騒ぎが起きてる。 もうずいぶん前から、女は夜は出歩いては駄目だと言われているよ。」
「そんなにですか……?」
「あぁ。 ここ1、2年で急激に悪くなった感じだね。 それなのに建国記念で他の国からお客様が来るとか来ないとかって貴族街は大騒ぎ。 不敬罪になるから口には出せないけどね、上は何をやってるんだって、誰だって思っているよ。」
ため息交じりの言葉は重いく、そんな言葉に私はただ驚くばかりだ。
私がまだ公爵令嬢であり、王太子の婚約者をやっていた時には、王都は夜間は警備兵が巡回し、貧民街以外の場所は、夜間に女性が出歩いても大丈夫であったと記憶しているし、もし何かあってもすぐに警備兵や騎士たちが対応できる状況だったと記憶がある。
孤児問題は確かにあった。 しかし国営の孤児院には国庫から定期的にしっかりした支援もあり、退所年齢未満の子供が追い出されると言うようなこともなかったはずだ。
(お母様とアイザックは帝国へ行ってしまったし、お父様は領地に戻っていらっしゃったから、王都の様子を知る事がなかったけれど、あれ以降、治安も経済もかなり悪化していたのだわ。 外交はエルフィナ殿下が頑張っていらっしゃるようだけど、市井に支援が届いていないのは明らかに国王陛下と王妃殿下の職務……このままでは不満がたまり、王家に対して不満だけが募るわ。 何も起きなければいいけれど……)
そんなことを考えながら仕事をしていると、オフィリアはやや疲れたような顔をして帰ってきた。
「おかえりなさい、オフィリア。 院長先生のお話は終わりましたか?」
「……うん。」
「?」
やや浮かない顔が気になったため、私は時計をちらりと見、笑った。
「オフィリア。 そろそろ3時のお菓子の時間なんですが、久しぶりにこっちに来たのでここで食べていきませんか?」
そういうと、オフィリアの顔に笑顔が戻った。
「いいの?」
「せっかくこちらに来たのですし、気分転換にいいのではないですか? どう思います? ハンナ。」
「あぁ、いいんじゃないかい? オフィリアの可愛いベビーは私が抱っこしててやるから、ゆっくり食べな。」
パチン、とウインクして言うハンナに、オフィリアが声を上げる。
「嬉しい!」
「じゃあ、皆と座って待っててください。 すぐに用意してきますね。」
嬉しそうに頷いたオフィリアを確認した私は、抱っこしていたアニーをベビーゲートに入れると、おやつを取りに行くために養育棟を出た。
「……名前、ですか。」
「うん。」
今日のおやつである野菜ドーナツとホットミルクを子供たちと一緒に食べ終えたオフィリアは、体も温まってほっとしたのか、養育室の中を『懐かしい』と言いながらきょろきょろと見まわしていた。 そんなところに同じく、お腹いっぱいで満足したのか、椅子をはい出したシンシアが、すごい勢いでオフィリアに突進した。
「わぁ。」
どーんとぶつかって、よろめくオフィリア。 床に座っていたため何とかシンシアを抱きとめていたが、立っていたら危なかったかもしれない。
「シンシアもオフィリアも大丈夫ですか?」
「あい!」
「うん、大丈夫。 シンシアちゃん、おっきくなったねぇ。 かわいいね。」
膝の上に抱きかかえてぎゅっとシンシアを抱き締めたオフィリアに、ハンナが笑う。
「懐かしい、おっきくなったって、ここに来れなかったのはまだたった1週間じゃないか?」
それにはオフィリアは首を振る。
「そうなんだけど、もうずっとこっちに来たかったの。 みんな会いには来てくれるけど、あの部屋の中にずっといると、気がめいっちゃうの。 だから今日は、久しぶりにここに来れて嬉しい。 まだ部屋で安静にしてなきゃダメかな? 明日からはお昼の間、ここにいたらダメかな?」
それにはハンナがう~ん、と考えるようなしぐさをする。
「お産から1週間たった頃だし、少しだけここに来てるくらいならいいかもしれないけれどねぇ。 念のためにノーマに聞いてからにした方がいいね。 それから、来てもいいって言われても、仕事してもいいってわけじゃないんだから、手伝いとかはするんじゃないよ? 基本的にお産の後のひと月は何もせずに体を休めるっていうのが大前提だからね。」
そう言われて、オフィリアは嬉しそうに頷いた。
「うん。 じゃあ、後でノーマとシスター・サリアに相談してみる。」
「いいよって言われるといいですね。」
「うん。」
うふふと笑いながら、膝の上で遊んでいるシンシアを見ていたオフィリアに、ハンナがそういえば、と問いかける。
「それで、オフィリア。 名前ってベビーの事かい?」
「そう。 赤ちゃんの名前をね、どうするか聞かれたの。 ここで赤ちゃんを産んだらアリア修道院から国に届け出るの? それでね届け出をするのに名前が必要みたいで……どうしたいかって院長先生に聞かれたの。」
なるほど、と、私はおやつの食器を片付けながら答えた。
「あぁ、そうでしたね。 この国では生まれて1ヵ月の間に貴族であれば貴族籍、庶民であれば国民籍に登録するために登録する義務がありますね。」
「うん、それは向こうでもあったからわかるんだけど、でもそれって、両親の名前とかも一緒に届け出るんでしょ?」
そう言ったオフィリアは、ハンナに抱っこされて眠る自分の子供を見て鳶色の瞳を揺らした。
「……この子の、お父さん……。」
「あ~、それなら大丈夫だよ、オフィリア。」
「……え?」
泣き出しそうな声になっていたオフィリアに、ベビーを抱っこしハンナが笑う。
「修道院で生まれた子なんだから、親も子もない。 子供の名前だけが登録される。 あんたの名前はもちろん、相手の名前だって必要ないさ。」
「……そっか、良かった……。 相手の名前もだけど、私の名前も出したらよくないもんね……。」
ふっと強張った顔を緩ませたオフィリアは、目元を拭ってから、うん、と大きく頷いて笑う。
「それで、名前なんだけどね? 如何したらいいかなって思って。」
「1週間もあったんだ、考えてた名前はないのかい?」
不思議そうに答えたハンナに私も頷くと、難し気に顔を顰めるオフィリア。
「それが、あるにはあったんだけど、それを院長先生にいったら、この世界ではとても珍しい名前になるし、書類に文字が綴りにしにくい? から、難しいわって言われちゃって。 で、こっちでもおかしくない名前の方がいいんじゃないかってって言われて……考え直し中?」
「そうなんですか? 難しいですね。」
たしかに向こうで使っている名前はこちらでは使いにくいかもしれない。 現に今、前世の名前を言えと言われたら、凄く発音に悩む自信がある。
「うん。 だからね、どうしたらいいかなぁって。 ハンナさんは子供の名前、どうやって決めたんですか?」
「うちの娘の名前かい? うちの子供の名前は2人とも旦那がつけたんだよ。 上の子の名前は北の国の宝石みたいな花の名前、下の子の名前は幸せを運んでくる鳥の名前だって言ってたね。」
少し照れながら答えたハンナに、オフィリアは目を輝かせる。
「ハンナさんの旦那さん、凄くロマンチックな人なんだね! 宝石みたいな花の名前に、幸せの鳥の名前かぁ……素敵! ミーシャは? 名前の由来あるの?」
「私ですか?」
話を振られて、私はよどみなく答える。
「私の名前は曾祖母の名前です。」
「曾祖母って……あぁ、ひいおばあちゃんだ。 え? ミーシャの名前はひいおばあちゃんの名前を貰ったの?」
「えぇ。 貴族階級ではよくあるのですよ。 曾祖母は帝国の侯爵家の長女で、当時、社交界では淑女の鏡と言われる方だったそうです。 そのように育ってほしい、という意味と、その家の伝統を引き継ぐと言う事もあるのだそうです。 ちなみにですが、弟のアイザックの名前は母方の祖父の名前です。」
「ふぅ~ん、おばあちゃんの名前、かぁ……。」
シンシアを抱っこしたまま、なるほどなぁと考え始めたオフィリアは、そうだ、と声を出した。
「ハンナさん、ミーシャ。 『エリ』……って名前、呼びにくい?」
「エリ、ですか? こちらではエリーと語尾を伸ばしたりしますが、こちらでも聞く名前ですし、響きも綴りも綺麗な、とても素敵な名前だと思います。」
そう答えた私に、ハンナも相槌を打つ。
「うん、いい名前だよね。 そんな名前のついた花もあったような気がするし、いいんじゃないかい?」
私とハンナの答えに嬉しそうに笑ったオフィリア。
「ほんとに!? そっか、じゃあ、エリ、にしよう。」
ふふっと笑って、エリ、エリ……と何度も口の中で繰り返すオフィリアに、私は聞いた。
「それは、お祖母様のお名前ですか?」
私の話を聞いて思いついたのならそうかと思って聞いたのだが、それには、少しだけ泣きそうな顔をして、オフィリアは笑った。
「ううん。 『衣里』はね、ママの名前。」
その言葉に、ズキン、と胸が痛んだ。
「……お母さまの……。 そうだったのですね。」
聞いてはいけなかった。 後悔して、唇を噛む。
そんな空気を吹き飛ばすように、ハンナは嬉しそうに笑った。
「素敵な名前じゃないか。 ベビーちゃん、貴女の名前は今日からエリだそうよ。 可愛らしいお花のような、眩しい光のような、ベビーちゃんにピッタリの素敵な名前じゃないか。 よかったねぇ。」
つんつん、と頬をつつかれたエリと名をつけられたベビーはむずがゆそうに顔を歪め、産まれた時より青みの増した瞳を開け、ふにゃっと笑った。
35
あなたにおすすめの小説
【完結】婚約を解消して進路変更を希望いたします
宇水涼麻
ファンタジー
三ヶ月後に卒業を迎える学園の食堂では卒業後の進路についての話題がそここで繰り広げられている。
しかし、一つのテーブルそんなものは関係ないとばかりに四人の生徒が戯れていた。
そこへ美しく気品ある三人の女子生徒が近付いた。
彼女たちの卒業後の進路はどうなるのだろうか?
中世ヨーロッパ風のお話です。
HOTにランクインしました。ありがとうございます!
ファンタジーの週間人気部門で1位になりました。みなさまのおかげです!
ありがとうございます!
【完結】捨て去られた王妃は王宮で働く
ここ
ファンタジー
たしかに私は王妃になった。
5歳の頃に婚約が決まり、逃げようがなかった。完全なる政略結婚。
夫である国王陛下は、ハーレムで浮かれている。政務は王妃が行っていいらしい。私は仕事は得意だ。家臣たちが追いつけないほど、理解が早く、正確らしい。家臣たちは、王妃がいないと困るようになった。何とかしなければ…
(完結)醜くなった花嫁の末路「どうぞ、お笑いください。元旦那様」
音爽(ネソウ)
ファンタジー
容姿が気に入らないと白い結婚を強いられた妻。
本邸から追い出されはしなかったが、夫は離れに愛人を囲い顔さえ見せない。
しかし、3年と待たず離縁が決定する事態に。そして元夫の家は……。
*6月18日HOTランキング入りしました、ありがとうございます。
【完結】以上をもちまして、終了とさせていただきます
楽歩
恋愛
異世界から王宮に現れたという“女神の使徒”サラ。公爵令嬢のルシアーナの婚約者である王太子は、簡単に心奪われた。
伝承に語られる“女神の使徒”は時代ごとに現れ、国に奇跡をもたらす存在と言われている。婚約解消を告げる王、口々にルシアーナの処遇を言い合う重臣。
そんな混乱の中、ルシアーナは冷静に状況を見据えていた。
「王妃教育には、国の内部機密が含まれている。君がそれを知ったまま他家に嫁ぐことは……困難だ。女神アウレリア様を祀る神殿にて、王家の監視のもと、一生を女神に仕えて過ごすことになる」
神殿に閉じ込められて一生を過ごす? 冗談じゃないわ。
「お話はもうよろしいかしら?」
王族や重臣たち、誰もが自分の思惑通りに動くと考えている中で、ルシアーナは静かに、己の存在感を突きつける。
※39話、約9万字で完結予定です。最後までお付き合いいただけると嬉しいですm(__)m
【完結】英雄様、婚約破棄なさるなら我々もこれにて失礼いたします。
紺
ファンタジー
「婚約者であるニーナと誓いの破棄を望みます。あの女は何もせずのうのうと暮らしていた役立たずだ」
実力主義者のホリックは魔王討伐戦を終結させた褒美として国王に直談判する。どうやら戦争中も優雅に暮らしていたニーナを嫌っており、しかも戦地で出会った聖女との結婚を望んでいた。英雄となった自分に酔いしれる彼の元に、それまで苦楽を共にした仲間たちが寄ってきて……
「「「ならば我々も失礼させてもらいましょう」」」
信頼していた部下たちは唐突にホリックの元を去っていった。
微ざまぁあり。
リリゼットの学園生活 〜 聖魔法?我が家では誰でも使えますよ?
あくの
ファンタジー
15になって領地の修道院から王立ディアーヌ学園、通称『学園』に通うことになったリリゼット。
加護細工の家系のドルバック伯爵家の娘として他家の令嬢達と交流開始するも世間知らずのリリゼットは令嬢との会話についていけない。
また姉と婚約者の破天荒な行動からリリゼットも同じなのかと学園の男子生徒が近寄ってくる。
長女気質のダンテス公爵家の長女リーゼはそんなリリゼットの危うさを危惧しており…。
リリゼットは楽しい学園生活を全うできるのか?!
【完結】もう…我慢しなくても良いですよね?
アノマロカリス
ファンタジー
マーテルリア・フローレンス公爵令嬢は、幼い頃から自国の第一王子との婚約が決まっていて幼少の頃から厳しい教育を施されていた。
泣き言は許されず、笑みを浮かべる事も許されず、お茶会にすら参加させて貰えずに常に完璧な淑女を求められて教育をされて来た。
16歳の成人の義を過ぎてから王子との婚約発表の場で、事あろうことか王子は聖女に選ばれたという男爵令嬢を連れて来て私との婚約を破棄して、男爵令嬢と婚約する事を選んだ。
マーテルリアの幼少からの血の滲むような努力は、一瞬で崩壊してしまった。
あぁ、今迄の苦労は一体なんの為に…
もう…我慢しなくても良いですよね?
この物語は、「虐げられる生活を曽祖母の秘術でざまぁして差し上げますわ!」の続編です。
前作の登場人物達も多数登場する予定です。
マーテルリアのイラストを変更致しました。
【完結】離縁王妃アデリアは故郷で聖姫と崇められています ~冤罪で捨てられた王妃、地元に戻ったら領民に愛され「聖姫」と呼ばれていました~
猫燕
恋愛
「――そなたとの婚姻を破棄する。即刻、王宮を去れ」
王妃としての5年間、私はただ国を支えていただけだった。
王妃アデリアは、側妃ラウラの嘘と王の独断により、「毒を盛った」という冤罪で突然の離縁を言い渡された。「ただちに城を去れ」と宣告されたアデリアは静かに王宮を去り、生まれ故郷・ターヴァへと向かう。
しかし、領地の国境を越えた彼女を待っていたのは、驚くべき光景だった。
迎えに来たのは何百もの領民、兄、彼女の帰還に歓喜する侍女たち。
かつて王宮で軽んじられ続けたアデリアの政策は、故郷では“奇跡”として受け継がれ、領地を繁栄へ導いていたのだ。実際は薬学・医療・農政・内政の天才で、治癒魔法まで操る超有能王妃だった。
故郷の温かさに癒やされ、彼女の有能さが改めて証明されると、その評判は瞬く間に近隣諸国へ広がり──
“冷徹の皇帝”と恐れられる隣国の若き皇帝・カリオンが現れる。
皇帝は彼女の才覚と優しさに心を奪われ、「私はあなたを守りたい」と静かに誓う。
冷徹と恐れられる彼が、なぜかターヴァ領に何度も通うようになり――「君の価値を、誰よりも私が知っている」「アデリア・ターヴァ。君の全てを、私のものにしたい」
一方その頃――アデリアを失った王国は急速に荒れ、疫病、飢饉、魔物被害が連鎖し、内政は崩壊。国王はようやく“失ったものの価値”を理解し始めるが、もう遅い。
追放された王妃は、故郷で神と崇められ、最強の溺愛皇帝に娶られる!「あなたが望むなら、帝国も全部君のものだ」――これは、誰からも理解されなかった“本物の聖女”が、
ようやく正当に愛され、報われる物語。
※「小説家になろう」にも投稿しています
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる