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《序章》
プロローグ──眩しい過去
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白い入道雲が出ていた。シュークリームのように膨らんでいた。遠い湖面は入るのを躊躇わせるくらいキラキラ水面を網のような光を反射していて、少しだけ綺麗だけれど怖い。蜘蛛の巣のように取り込まれてしまいそうだと、孝明は思った。ふと、佐伯に目をやる。佐伯は湖には入らず木陰の深い緑の中にある、古びた赤いペンキが剥げた木の椅子とテーブルで、オレンジジュースを飲み、優雅に煙草を吸いながら本を読んでいた。男の孝明ですらぼんやり見とれてしまう。蝉の鳴き声が高原だからだろうか、鳴き声が全く違い、空気をより爽やかにさせる。
「荷物番してるから二人で行ってこい。俺、日焼けすると赤くなってひどいんだ。気にしないでいいから」
最初にそう言い、おもむろに鞄から本を取り出した佐伯を見て、孝明と和也は、それぞれ湖にある公衆トイレで水着に着替えた。
佐伯は始終何処でも女子に声をかけられる。人当たりが柔らかいからだけじゃない。文武両道、眉目秀麗。大学でも色々な学部の女子達に告白されていた。
「俺なんかより君にはふさわしい人がいるよ。ごめんね」
いつもそう言い困ったような顔をするという。佐伯はもてる。背もすらりと高く、所作も綺麗で、尚且つ端正な顔をしている。服のセンスもいい。言葉遣いも丁寧でユーモアがあるし、何しろ品がある。しかも頭もいい。これで恋人がいなかったら詐欺だとばかりに女子は佐伯を問い詰めた。片想いしている人がいるところまで聞き出した女子は、それ以来、佐伯の好きな女子学生探しに躍起になっていた。孝明はやれやれと思って見ていた。昔、和也と知り合う前、二人で家飲みをしているとき訊いたことがあった。
「本気じゃない相手と無理に付き合っても上手くいかない。だから、片想いでいい」
と言い、ビールを白い指先で開け、一口だけ小さく喉を鳴らして飲んだ。
大学に入り最初に仲良くなったのは佐伯だった。テレビから抜け出てきたような容姿の佐伯に話しかけるのは最初躊躇ったが、いざ話しかけてみると、佐伯は物腰がソフトで、とても話しやすく、
「早川、くんだっけ?ノンアルのカクテル作るの上手いって本当?俺飲めないんだ」
と言い、見惚れるほど向けられた困ったような笑顔が綺麗だった。『これで恋人がいなかったら詐欺だ』か、確かになあ、と孝明は独りで納得した。孝明も、もてたが佐伯ほどではなかった。たくさん話をして、一緒に勉強した。佐伯は話上手で、聞き上手でもあった。一緒に居て楽しかった。いつも一緒にいた…和也に出会うまでは。
大学二年。夏だった。孝明は知り合って間もなく恋に落ちた和也に夢中だった。悩んだ末、佐伯を家飲みに誘った。久しぶりだった。
***
いつも佐伯と一緒にいたが和也と関係をもったあとは、頭の中が四六時中、和也でいっぱいだった。孝明は、佐伯におずおずと、カミングアウトした。親友だから、解ってくれる。孝明はそう思っていた。だから佐伯の悩む顔や、多少の困惑を想像したが、あっさりと、
「良かったな」
と言っただけで終わってしまった。
「え、お前嫌じゃないのかよ。気持ち悪いとか思わない?」
「別に。個人の自由だろ?誰かに迷惑かけているわけでもないんだし」
嬉しいはずなのに孝明は残念だった。佐伯は確かに喜んでくれている。肯定してくれているのに。孝明の望んだ『好奇心』が佐伯には無かった。『本当か?』とか『詳しく訊かせろ』とか。孝明はそう言う答えを期待した。否定されないだけ贅沢なのに。
「そっか。そうだよな。ありがとな。でも、何でだろうな。お前のことは好きだけど、和也への好きとは違うんだ。友情が恋に変わるって不思議だな。お前とも友達なのにな」
「……そろそろやめにしないか、俺には片想いの相手がいるんだって前から話してあるよな。そういう話…つらいんだよ」
目を伏せ、佐伯の握り締めた手が震えていた。佐伯のこんな顔を見るのは初めてだった。覗いた眼鏡の奥の瞳はじんわり潤み、涙の膜がうっすら張っていた。
孝明は、話題を変えた。それでも、佐伯は曖昧な相槌しかうたなくなった。孝明は自分用のビールを冷蔵庫に取りに行って、ついでに簡単なツマミも作った。孝明が茶の間に帰ってきたら佐伯は寝ていた。……ビールは空になっていた。いつもは半分以上残してしまうのに。佐伯は飲めないのだ。だから、『勿体無いからよこせ』と言い必ず残りは孝明が飲む。眠る佐伯は、無防備な白い大型犬のようだった。貧乏臭い卓袱台のような丸テーブルに置かれた佐伯の少し丸みを帯びた高そうな眼鏡。いつもさらさらの前髪が、乱れいつもの佐伯らしくない。佐伯は悲しい夢を見ているのか、眉間に皺を寄せていた。孝明が、
「佐伯」
と呼ぶと左目から一筋涙を流した。その様子があまりにも切なくて、涙をティッシュで拭いてやると、堰を切ったように閉じられた瞳から涙が溢れた。触れていいか迷いながら手を伸ばし佐伯の髪を撫でた。
「つらい片想いをしているんだよな。俺の話なんかしなければ良かったよ。悪かった。ごめんな」
孝明が優しく髪を撫でると、眉間の皺がなくなる。それでも涙は止まらなかった。ずっと、ただ無表情で涙を流す夢の中の佐伯が、あまりにつらそうなので、起こした。揺する両腕を掴まれた。振りほどかなかった。縋るようにその濡れた瞳でじっと見つめられる。今、佐伯が朦朧とした意識と、ぼやけた視界で見ているのはどんなひとなんだろう。孝明は漠然と思う。佐伯には幸せになって欲しい。孝明にとっては初めて出来た親友だったからだ。佐伯は、「悪い」と一言いい、手を離した。テーブルの上の眼鏡をかけて、笑う。いつも通りの佐伯だった。ただ、佐伯は小さな声で一言、
「起こさなくて……良かったのに」
と呟いた。気のせいだったかもしれない。それから少し経ち、佐伯が孝明のぼろアパートを訪れることは殆どなくなった。
「お邪魔虫になりたくないからね」
と、言っていた。和也と仲が悪いわけではないらしかった。良く、植物の話をよくしていた。
***
「孝明、疲れた?佐伯くんが『湖水の方がベタベタしないから』って言っていたけど本当だね」
和也の声ではっとする。湖面に仰向けに浮き、大学時代の白昼夢を見ていたようだった。今となれば昔の事だ。和也は久しぶりの湖にはしゃいでいた。波が無い凪いだ水と仲良く戯れる和也の声が、楽しそうで嬉しかった。大切な恋人。じゃれあいながら、孝明は、和也にキスをした。佐伯が不意に本から目をあげ此方を見た。佐伯は、ばつの悪そうな顔をして笑っていた。
「孝明。佐伯くんと何かあった?」
「いや、思いっきり見られた」
「恥ずかしいね。僕たち大人気ないかな?」
「たまにはいいだろ」
柔らかく笑う和也に孝明は唇を重ねた。まるで人工呼吸。暫くして佐伯が遠くから孝明と和也に声をかけた。
「風が変わった。多分もう少ししたら降る。二人ともそろそろ戻ってこい」
急いで着替えて三人で佐伯の車に荷物を運ぶ。佐伯は、女子達の誘いの言葉に、
「ごめんね。これから俺達、それぞれの彼女と合流なんだ。今から車で迎えにいくところ」
とか、相手を傷つけないように言葉を選び、ご遠慮願う社交辞令はお手のものだった。
「佐伯、お前もしかしてタラシ?」
孝明が冗談めかして訊くと、
「さあね」
雨が降る。佐伯のハンドルを持つ手が軽く震えるのを見た。佐伯は近くのコンビニに車を止め、孝明に、
「運転、変わってくれないか。眩暈がする。和也に助手席に座ってもらってくれ。俺は後ろで少し寝る。すまないな」
と言い、外の喫煙所でオレンジジュースを飲みながら早いペースで煙草を吸っている。佐伯なりのリセットなんだろうと思った。孝明は取り敢えず喉が乾いて仕方なかったので、お茶を買った。和也が喫煙所にいる佐伯にチョコレートを手渡すのが見えた。
「チョコレート。疲れとれるし、いいよ。食べてみて。去年も佐伯くんの運転で海に連れていって貰ったけど、今年も僕は湖も久しぶりで、嬉しかったよ。ありがとう。それに去年は佐伯くんが元気無かったから気になって……」
和也は佐伯に訊いた。佐伯は、
「ちょっとね。でも、水族館楽しかったな」
「うん。本当にありがとう。運転疲れるよね。いつもありがとう。あ、孝明が来た。先、車に戻ってるね」
「どうして、此処にいればいい」
佐伯がそう言うと、和也は苦笑いしながら
「少し妬ける。孝明は佐伯くんに絶対の信頼をおいてる……解るんだよ。僕たち付き合ってるけど、佐伯くんと孝明には立ち入りづらいものがあるよ」
じゃあ先に行ってるよ、と言い雨のなかを和也は駆けていく。
「和也!」
佐伯は和也に声をかける。振り返った和也は雨を避けるように手をかざし、
「どうしたの?」
と不思議そうに言った。
「ないよ。そんなの。それに、俺はそんなもの、要らない……」
「そう……」
言葉を残し、和也は段々と雨足が強くなる中、車に向かって駆けていく。丁度、店から出た孝明は、穏やかと言うより気力がない佐伯が気になった。そして、悲しそうな顔をして駆けていく和也が。
「和也と、喧嘩した?」
気遣いの言葉をかけるために、佐伯と少し話そうと思ったのに、孝明は佐伯を責めるような口調で話始めたことを後悔した。
「いや。『海が嫌いか』って訊かれただけだ。あと、運転疲れるからってチョコレート貰った。羨ましいだろ。お前には一粒もやらない」
愉しそうに笑いながら佐伯はチョコを一粒食べる。佐伯はどこか寂しそうに見えた。
「何か『そんなもの要らない』って言ってたみたいだけど……何だ?」
「彼女だよ。本命……まあ片思いのひとがいるのに適当に付き合っても上手くいかないって話だ。俺は先に戻るよ。ごめんな、孝明」
「俺も、すぐ行く」
点けたばかりの煙草をねじ消して、後を追う。佐伯はゆっくり、雨に打たれるのも気にせず、悠々と歩く。
「佐伯、走れよ」
「別に。車にいれば自然と乾く」
軽く佐伯は笑う。
「風邪引くだろ馬鹿!」
手をひき車内に佐伯を押し込む。段々雨足が強くなる。色白の佐伯の顔色がみるみる蒼白くなっていく。佐伯は助手席の和也に、
「和也、ダッシュボードにある俺のバッグの中のピルケースをとって貰えないか?水も頼む」
横になり、呼吸が苦しそうだった。こんな頼りない佐伯を見るのは初めてだった。バックミラーで孝明は後ろを見る。白い楕円形の薬を佐伯は飲んでいた。
「もっと水飲んだ方がいいよ。大丈夫?」
優しい母親のように、和也は佐伯に話しかけた。頷き水のペットボトルを佐伯はもう一度受け取る。ぐったり横なった佐伯は、息づかいも苦しそうだったが暫く経つと薬が効いてきたのか呼吸が楽になり始めていた。三十分位で穏やかな微かな寝息が車の振動の音と、雨の音の間に響く。和也は切な気に言った。
「良かった、少し楽そう。あの薬、安定剤かな。車に乗ってて雨が降ると必ず飲んでるね、佐伯くん……。大丈夫かな」
「あいつ、雨の日に両親亡くしてるんだよ。車の事故で。大学二年の時にな。かなり、落ち込んでて、立ち直るまで随分かかったな……あいつ身寄りいないんだよ。おかげで保険金の有効活用目当ての知り合いはが増えたよって嘲笑ってたけどな……」
***
寂しげな和也の瞳と目があったところで目が覚めた。和也は今、此処にはいない。家で投薬治療で均衡を保つことが精一杯だ。孝明を見るとしがみついてようやく安心した顔をする。
ただ、夢と同じぐったりした佐伯には会える。孝明が執刀医で手術した。成功したが意識はない。CTも何もかも異常はなかった。孝明はただひたすら祈るような思いでパイプ椅子に座って貧乏ゆすりをしながら佐伯の意識が戻るのを待っていた。
「俺のせいだ」
静かな真っ白い部屋。様々な医療器具。機械音の間に、ぽつりと呟いた孝明の声が響く。
「ごめんな、佐伯。ごめん。俺に会いたくないんだろ。だから目を覚まさないんだろ」
『ごめん』をひたすら繰り返す。繰り返してもきりがない。窓の外は夜明けが近い。目覚めた時、雨が降っていないといい。丁度その時、佐伯の左手の人差し指が微かに動いたことに孝明は気づかなかった。
─────【続】
「荷物番してるから二人で行ってこい。俺、日焼けすると赤くなってひどいんだ。気にしないでいいから」
最初にそう言い、おもむろに鞄から本を取り出した佐伯を見て、孝明と和也は、それぞれ湖にある公衆トイレで水着に着替えた。
佐伯は始終何処でも女子に声をかけられる。人当たりが柔らかいからだけじゃない。文武両道、眉目秀麗。大学でも色々な学部の女子達に告白されていた。
「俺なんかより君にはふさわしい人がいるよ。ごめんね」
いつもそう言い困ったような顔をするという。佐伯はもてる。背もすらりと高く、所作も綺麗で、尚且つ端正な顔をしている。服のセンスもいい。言葉遣いも丁寧でユーモアがあるし、何しろ品がある。しかも頭もいい。これで恋人がいなかったら詐欺だとばかりに女子は佐伯を問い詰めた。片想いしている人がいるところまで聞き出した女子は、それ以来、佐伯の好きな女子学生探しに躍起になっていた。孝明はやれやれと思って見ていた。昔、和也と知り合う前、二人で家飲みをしているとき訊いたことがあった。
「本気じゃない相手と無理に付き合っても上手くいかない。だから、片想いでいい」
と言い、ビールを白い指先で開け、一口だけ小さく喉を鳴らして飲んだ。
大学に入り最初に仲良くなったのは佐伯だった。テレビから抜け出てきたような容姿の佐伯に話しかけるのは最初躊躇ったが、いざ話しかけてみると、佐伯は物腰がソフトで、とても話しやすく、
「早川、くんだっけ?ノンアルのカクテル作るの上手いって本当?俺飲めないんだ」
と言い、見惚れるほど向けられた困ったような笑顔が綺麗だった。『これで恋人がいなかったら詐欺だ』か、確かになあ、と孝明は独りで納得した。孝明も、もてたが佐伯ほどではなかった。たくさん話をして、一緒に勉強した。佐伯は話上手で、聞き上手でもあった。一緒に居て楽しかった。いつも一緒にいた…和也に出会うまでは。
大学二年。夏だった。孝明は知り合って間もなく恋に落ちた和也に夢中だった。悩んだ末、佐伯を家飲みに誘った。久しぶりだった。
***
いつも佐伯と一緒にいたが和也と関係をもったあとは、頭の中が四六時中、和也でいっぱいだった。孝明は、佐伯におずおずと、カミングアウトした。親友だから、解ってくれる。孝明はそう思っていた。だから佐伯の悩む顔や、多少の困惑を想像したが、あっさりと、
「良かったな」
と言っただけで終わってしまった。
「え、お前嫌じゃないのかよ。気持ち悪いとか思わない?」
「別に。個人の自由だろ?誰かに迷惑かけているわけでもないんだし」
嬉しいはずなのに孝明は残念だった。佐伯は確かに喜んでくれている。肯定してくれているのに。孝明の望んだ『好奇心』が佐伯には無かった。『本当か?』とか『詳しく訊かせろ』とか。孝明はそう言う答えを期待した。否定されないだけ贅沢なのに。
「そっか。そうだよな。ありがとな。でも、何でだろうな。お前のことは好きだけど、和也への好きとは違うんだ。友情が恋に変わるって不思議だな。お前とも友達なのにな」
「……そろそろやめにしないか、俺には片想いの相手がいるんだって前から話してあるよな。そういう話…つらいんだよ」
目を伏せ、佐伯の握り締めた手が震えていた。佐伯のこんな顔を見るのは初めてだった。覗いた眼鏡の奥の瞳はじんわり潤み、涙の膜がうっすら張っていた。
孝明は、話題を変えた。それでも、佐伯は曖昧な相槌しかうたなくなった。孝明は自分用のビールを冷蔵庫に取りに行って、ついでに簡単なツマミも作った。孝明が茶の間に帰ってきたら佐伯は寝ていた。……ビールは空になっていた。いつもは半分以上残してしまうのに。佐伯は飲めないのだ。だから、『勿体無いからよこせ』と言い必ず残りは孝明が飲む。眠る佐伯は、無防備な白い大型犬のようだった。貧乏臭い卓袱台のような丸テーブルに置かれた佐伯の少し丸みを帯びた高そうな眼鏡。いつもさらさらの前髪が、乱れいつもの佐伯らしくない。佐伯は悲しい夢を見ているのか、眉間に皺を寄せていた。孝明が、
「佐伯」
と呼ぶと左目から一筋涙を流した。その様子があまりにも切なくて、涙をティッシュで拭いてやると、堰を切ったように閉じられた瞳から涙が溢れた。触れていいか迷いながら手を伸ばし佐伯の髪を撫でた。
「つらい片想いをしているんだよな。俺の話なんかしなければ良かったよ。悪かった。ごめんな」
孝明が優しく髪を撫でると、眉間の皺がなくなる。それでも涙は止まらなかった。ずっと、ただ無表情で涙を流す夢の中の佐伯が、あまりにつらそうなので、起こした。揺する両腕を掴まれた。振りほどかなかった。縋るようにその濡れた瞳でじっと見つめられる。今、佐伯が朦朧とした意識と、ぼやけた視界で見ているのはどんなひとなんだろう。孝明は漠然と思う。佐伯には幸せになって欲しい。孝明にとっては初めて出来た親友だったからだ。佐伯は、「悪い」と一言いい、手を離した。テーブルの上の眼鏡をかけて、笑う。いつも通りの佐伯だった。ただ、佐伯は小さな声で一言、
「起こさなくて……良かったのに」
と呟いた。気のせいだったかもしれない。それから少し経ち、佐伯が孝明のぼろアパートを訪れることは殆どなくなった。
「お邪魔虫になりたくないからね」
と、言っていた。和也と仲が悪いわけではないらしかった。良く、植物の話をよくしていた。
***
「孝明、疲れた?佐伯くんが『湖水の方がベタベタしないから』って言っていたけど本当だね」
和也の声ではっとする。湖面に仰向けに浮き、大学時代の白昼夢を見ていたようだった。今となれば昔の事だ。和也は久しぶりの湖にはしゃいでいた。波が無い凪いだ水と仲良く戯れる和也の声が、楽しそうで嬉しかった。大切な恋人。じゃれあいながら、孝明は、和也にキスをした。佐伯が不意に本から目をあげ此方を見た。佐伯は、ばつの悪そうな顔をして笑っていた。
「孝明。佐伯くんと何かあった?」
「いや、思いっきり見られた」
「恥ずかしいね。僕たち大人気ないかな?」
「たまにはいいだろ」
柔らかく笑う和也に孝明は唇を重ねた。まるで人工呼吸。暫くして佐伯が遠くから孝明と和也に声をかけた。
「風が変わった。多分もう少ししたら降る。二人ともそろそろ戻ってこい」
急いで着替えて三人で佐伯の車に荷物を運ぶ。佐伯は、女子達の誘いの言葉に、
「ごめんね。これから俺達、それぞれの彼女と合流なんだ。今から車で迎えにいくところ」
とか、相手を傷つけないように言葉を選び、ご遠慮願う社交辞令はお手のものだった。
「佐伯、お前もしかしてタラシ?」
孝明が冗談めかして訊くと、
「さあね」
雨が降る。佐伯のハンドルを持つ手が軽く震えるのを見た。佐伯は近くのコンビニに車を止め、孝明に、
「運転、変わってくれないか。眩暈がする。和也に助手席に座ってもらってくれ。俺は後ろで少し寝る。すまないな」
と言い、外の喫煙所でオレンジジュースを飲みながら早いペースで煙草を吸っている。佐伯なりのリセットなんだろうと思った。孝明は取り敢えず喉が乾いて仕方なかったので、お茶を買った。和也が喫煙所にいる佐伯にチョコレートを手渡すのが見えた。
「チョコレート。疲れとれるし、いいよ。食べてみて。去年も佐伯くんの運転で海に連れていって貰ったけど、今年も僕は湖も久しぶりで、嬉しかったよ。ありがとう。それに去年は佐伯くんが元気無かったから気になって……」
和也は佐伯に訊いた。佐伯は、
「ちょっとね。でも、水族館楽しかったな」
「うん。本当にありがとう。運転疲れるよね。いつもありがとう。あ、孝明が来た。先、車に戻ってるね」
「どうして、此処にいればいい」
佐伯がそう言うと、和也は苦笑いしながら
「少し妬ける。孝明は佐伯くんに絶対の信頼をおいてる……解るんだよ。僕たち付き合ってるけど、佐伯くんと孝明には立ち入りづらいものがあるよ」
じゃあ先に行ってるよ、と言い雨のなかを和也は駆けていく。
「和也!」
佐伯は和也に声をかける。振り返った和也は雨を避けるように手をかざし、
「どうしたの?」
と不思議そうに言った。
「ないよ。そんなの。それに、俺はそんなもの、要らない……」
「そう……」
言葉を残し、和也は段々と雨足が強くなる中、車に向かって駆けていく。丁度、店から出た孝明は、穏やかと言うより気力がない佐伯が気になった。そして、悲しそうな顔をして駆けていく和也が。
「和也と、喧嘩した?」
気遣いの言葉をかけるために、佐伯と少し話そうと思ったのに、孝明は佐伯を責めるような口調で話始めたことを後悔した。
「いや。『海が嫌いか』って訊かれただけだ。あと、運転疲れるからってチョコレート貰った。羨ましいだろ。お前には一粒もやらない」
愉しそうに笑いながら佐伯はチョコを一粒食べる。佐伯はどこか寂しそうに見えた。
「何か『そんなもの要らない』って言ってたみたいだけど……何だ?」
「彼女だよ。本命……まあ片思いのひとがいるのに適当に付き合っても上手くいかないって話だ。俺は先に戻るよ。ごめんな、孝明」
「俺も、すぐ行く」
点けたばかりの煙草をねじ消して、後を追う。佐伯はゆっくり、雨に打たれるのも気にせず、悠々と歩く。
「佐伯、走れよ」
「別に。車にいれば自然と乾く」
軽く佐伯は笑う。
「風邪引くだろ馬鹿!」
手をひき車内に佐伯を押し込む。段々雨足が強くなる。色白の佐伯の顔色がみるみる蒼白くなっていく。佐伯は助手席の和也に、
「和也、ダッシュボードにある俺のバッグの中のピルケースをとって貰えないか?水も頼む」
横になり、呼吸が苦しそうだった。こんな頼りない佐伯を見るのは初めてだった。バックミラーで孝明は後ろを見る。白い楕円形の薬を佐伯は飲んでいた。
「もっと水飲んだ方がいいよ。大丈夫?」
優しい母親のように、和也は佐伯に話しかけた。頷き水のペットボトルを佐伯はもう一度受け取る。ぐったり横なった佐伯は、息づかいも苦しそうだったが暫く経つと薬が効いてきたのか呼吸が楽になり始めていた。三十分位で穏やかな微かな寝息が車の振動の音と、雨の音の間に響く。和也は切な気に言った。
「良かった、少し楽そう。あの薬、安定剤かな。車に乗ってて雨が降ると必ず飲んでるね、佐伯くん……。大丈夫かな」
「あいつ、雨の日に両親亡くしてるんだよ。車の事故で。大学二年の時にな。かなり、落ち込んでて、立ち直るまで随分かかったな……あいつ身寄りいないんだよ。おかげで保険金の有効活用目当ての知り合いはが増えたよって嘲笑ってたけどな……」
***
寂しげな和也の瞳と目があったところで目が覚めた。和也は今、此処にはいない。家で投薬治療で均衡を保つことが精一杯だ。孝明を見るとしがみついてようやく安心した顔をする。
ただ、夢と同じぐったりした佐伯には会える。孝明が執刀医で手術した。成功したが意識はない。CTも何もかも異常はなかった。孝明はただひたすら祈るような思いでパイプ椅子に座って貧乏ゆすりをしながら佐伯の意識が戻るのを待っていた。
「俺のせいだ」
静かな真っ白い部屋。様々な医療器具。機械音の間に、ぽつりと呟いた孝明の声が響く。
「ごめんな、佐伯。ごめん。俺に会いたくないんだろ。だから目を覚まさないんだろ」
『ごめん』をひたすら繰り返す。繰り返してもきりがない。窓の外は夜明けが近い。目覚めた時、雨が降っていないといい。丁度その時、佐伯の左手の人差し指が微かに動いたことに孝明は気づかなかった。
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