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《前編》
孝明の場合②──花を散らせた手
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ベッドの後、昔話をたまにした。街灯がチカチカと和也の肌を乱反射する。冬になりかけの季節は毛布だけでは寒かった。和也は体温が低いので孝明が抱きしめて温めた。孝明は幼い頃から暖かな安息の待つ帰る家を総じて経験したことがなかった。孝明の住むボロアパートは和也が居るときだけ家になった──同棲を始めた。
「母親は十歳の俺を置いて出ていった。あんなに泣きながら『置いていかないで』と言ったのに。残ったのは酒乱の親父。俺は他に身寄りがいなかった。父子家庭で酒乱の親父が死んだときはせいせいしたよ。交通事故だった。ガンにもかかってた。あっさりしたもので拍子抜けしたな」
和也はというと、幼い頃や家族の話になると口を閉ざし、曖昧に頷き淋しそうに微笑するだけだった。何も語らなかった。友達はいなかったと言っていた。孝明を見つめ、目を細めると、
「君が初めての友達。最初の恋人。最後の家族」
と甘い声で言った。孝明は壁に持たれて覚えたての煙草に火を点けた。
「そっか。嬉しいよ。和也にそう言ってもらえて……どうして、お袋は俺を連れていってくれなかったのかな。俺は親父に似てたからかな。ガキの頃、親父に殴られて。あんな奴死ねばいいって思ってた。毎日、怯えて。ガキにはガキなりのプライドがあるからな。可哀想な子にはなりたくなかった。お袋は鶏の唐揚げと寒天を殴られた次の日作ってた。庇いもしなかったくせに」
孝明は煙草を深く吸って、ため息のように吐き出した。和也は訊いた。
「『唐揚げ』と『寒天』?」
「ああ。蜜柑の缶詰めで作るんだ。酷く殴られた日は、作ってたな。唐揚げは胸肉。安いから」
孝明はいつの間にか短くなった煙草を消し、少し感傷的な気持ちになり、和也の頬をすっと撫でた。和也は瞼を軽く伏せながら、癖のある孝明の髪を撫でながら言った。
「君が穏やかに帰って休める場所を作りたいよ。安心して羽を休めることができるところをね。そこに僕がいられたら幸せだな」
孝明が帰ることを望まれる安住の『巣』じっと穏やかな瞳で見つめる和也は、何よりも美しかった。
***
普段の生活において、いつも昼のいつもの和也を見ても、夜の和也がちらつく。途切れ途切れに『孝明』と呼ぶ声。吐息の温度。肌の熱。情事の上での口づけをねだる和也は、声も所作も品があるが色っぽく、その様子を思い出すだけで、所謂美人といわれる女性もつまらなく見えた。
美しい植物のような親友は、あの日を期に、女遊びを退屈に思わせ、不在を苦しませ、隣にいても不安にさせた。他の奴と話しているだけで嫉妬で頭がどうにかしそうな時もあった。それでも、どんなに遠くからでも笑顔を浮かべ、ほんの少しだけ高めの声で『孝明』と名前を呼ばれ駆け寄られると全ての澱んだ気持ちが溶解した。好きでたまらなかった。愛してた。
和也が笑うときは一緒に笑う。悲しむときは一緒に悲しい気持ちになりながら、それ以上悲しくならないように抱き締めて、悲しみから引っ張りあげた。和也さえ居れば良かった。恋人であり、初めて出来た家族だった。はずだった。
大学時代は、和也と孝明はあのボロアパートで同棲していた。和也は家事全般が得意でつい頼りがちになってしまっていた。喧嘩したわけでもないのに、罪悪感があった。謝罪という自己満足に和也に白い薔薇を一本贈る。和也は泣きそうな顔をして孝明にしがみつく。
「僕、憧れてた。僕の好きな花。こんな……すごく嬉しい。ありがとう」
斜め後ろから、台所用の丸椅子に座り、和也の皿洗いを見てるのが好きだった。白い指先が、百均の皿を洗う度に、孝明にとってそれはもう安物の皿ではなくなる。和也に洗われた二人の皿。和也は流行りの歌のフレーズを口ずさんだりしていて、途中から解らなくなると、手をとめず、振り返らずに、
「この続き、歌って」
と言う。適当に孝明は和也の後ろ姿を見ながら、その場しのぎの歌を作って歌う。洗い終わった皿を拭くためにやっとこっちを向いた和也は、
「今日も、孝明の歌は良い歌だね」
と柔らかく微笑む。あの時和也にもし『一緒に遠くへ行こう』と言われたら孝明はきっと頷いていた。貧乏だったけれど、あの日々に戻りたい。抱き合ったあと、薄いひとつの布団で、和也の背を抱いたあの日々に。そう願うのは我儘だ。傲慢だ……そう孝明は思う。
***
お互い無事に国家資格も取り、時間が流れ一人前の医師となった頃、二人でお金をためて、孝明名義でローンを組んで良いマンションを買った。夜景が綺麗に見えて、近くに広い公園があった。地下鉄も近く、まさに理想の巣箱だった。フローリングの床。目に優しい間接照明。広いキッチン。大きなソファも買った。お互いの部屋まである。『いってらっしゃい』と『おかえり』をくれる大切な恋人もいる。挙げたら切りがない、孝明が欲しかったもの全て。幸せを具現化したような日々だった。
和也と孝明の関係を知るのは佐伯だけだった。孝明が外科部長になったことを期に和也は仕事を辞めた。和也も優秀な麻酔医だったが、孝明が無理を言った。
いつしか家事をするのは和也の義務になった。完全な主夫、いや家政夫扱いになっていく。丸椅子も、知らない歌も無くなった。夜中和也は食器を洗う。和也はバカラのグラスを見て思った。こんなものいらない、と。孝明は大規模な病院の勤務医だった。ある日酔った孝明に和也は、
「また、働きたいな」
和也は小さくそう言った。
「俺一人でも金銭的にも十分贅沢をさせてやれる。和也は主夫の方が似合ってるよ」
そう言いきった。和也は「そうだね」と小さく言った。明らかに落胆の色が見えたが、孝明は無視した。殆ど家事を和也に任せていた。自分でしなければならない小さな家事も、手術が続くと億劫で仕方なかった。主夫の和也が居なくなると孝明は都合が悪い。それに『家に帰れば誰かがいる』という憧れがあった。格好がつかないから言いたくなかったが、やはり一番の理由は和也の、毎日の『いってらっしゃい』と『おかえり』が欲しかった。孝明はずっと独りだった。引き取られた、顔も知らない親戚の家族から温かい言葉はかけられたことはなかった。
あんなに欲しがったものなのに、和也の柔らかい口調も、労わりの『おかえり』も、ただの言葉の羅列に聴こえるようになっていった。段々と、和也が手を尽くして用意した夕飯も雑に食べるようになった。食卓から言葉が消え、笑顔も消えた。和也は何も言わない。昔のように『美味しい?』とも訊かない。当たり前だ。『黙っていてくれるか?』と言って資料や本を片手に飲み食いしているのは孝明だ。和也は深夜流行りの歌のフレーズを口ずさみながら高価な皿を洗う。孝明は、もう1人で眠っている。
もう台所ののくたびれた丸椅子も途切れたフレーズに続きはない。後ろから和也を抱き締めのも、遥か昔の思い出だ。
長い長い時間が流れた。孝明は和也と恋人になる前のように、無責任な自由を求めるようになった。孝明は穏やかな羽を休めさせてくれると思っていた空間に退屈を感じるようになった。安息に幸せを感じるほど利口ではなかった。築いてきた幸せが砂場遊びの砂のように音もたてず零れ始めた。すべて和也の気遣いと努力と我慢で成り立っているとも知らずに。孝明は『飲み歩き』を覚え、そして『遊び』を覚えた。それでも、どんなに遅くにビールの臭いをさせて帰って来た時も、仕事だと言って、高級クラブの高価な女物の香水の匂いを纏わせ帰ってきた時も、それでも必ず和也は起きて待っていて、快適な部屋、きちんと温度設定された風呂、空調、手の込んだ美味しい料理を作り、悲しそうな顔を一生懸命隠しながら、いつものように和也は言う。『おかえり、孝明』と。柔らかく笑いながら。
完璧に家事をしても、孝明が気づくことはなかった。それが孝明の『当たり前』になっていたからだ。和也への感謝なんかなかった。ぞんざいに扱われ、悲しく笑う和也は、涙を流さないで泣いているように見えた。
快適な部屋、きちんと温度設定された風呂、空調、手の込んだ美味しい料理を作り、悲しそうな顔を一生懸命隠しながら、いつものように和也は言う『おかえり、孝明』と。柔らかく笑いながら。こうなったのは、いつからだ?
──孝明が、宿直だった日だ。その日オペをした子供が、夜になり急に容態が悪化し、亡くなった。完璧なオペだったはずだ。
なのに患者の子供の顔を思い出せない!襲う恐怖と共に酒量はどんどん増え、家に帰っても酒を飲むようになった。和也に抱きしめて欲しかった。でも、きっともう遅い。傷つけ過ぎた。花は枯れてしまった。違う、俺のせいで枯れた!孝明は大声をあげ、サラダの皿を投げた。あっけなく、緑が散る。
毎日和也に当たり散らすようになっていった。片づいた部屋に投げつけられた、まだ残りがあるビール缶や灰皿、ガラスのコップなど、故意に散らかされた部屋を和也は瞳を伏せ、背中を丸め、黙々と片づけるだけだった。若い頃、中々空かないスケジュールをあわせ、旅行先で選んだ思い出のグラスたち、アンティークショップで買った灰皿が、割れていく。和也は黙って壊れていく思い出たちを見て目を伏せた。その顔に表情はなかった。暫く立ち尽くしていた和也は、ぽつりと呟いた。
『孝明の記憶には、みんな、いらなくなったものなんだね』
その後、更に小さく
『僕もいらなくなっちゃうのかな』
と言った。孝明は
『そうかもな』
と、ろくに和也の言葉も聴かず生返事をしてソファでビールを飲んでいた。あの時気づけていたら。引き返せたなら。いくら後悔しても遅いのは、解っているけれど。
深夜に割れたガラスの欠片を目の前で掃除機の音を響かせながら何も言わず部屋を片づける和也が、まるで当てつけのようにそうしているようで、余計孝明を苛々させた。孝明は益々、家に帰って酒を飲む量が増えていった。そして、段々と普段にも和也を邪険に扱うようになっていった。和也の優しさが苦しかった。どうして和也はこんなに優しく、温かく接してくれるんだろう。和也の優しさが見えるほど孝明はやるせない。和也は孝明の身体を気遣う事はあっても、酒を飲んで荒れる事については何も言わなかった。
しかし、ある日、孝明はこれ以上もなく深酒し、和也に暴力を振るった。それから毎日、飲んで荒れる度、とうに死んだ父と同じく、和也に暴力を振るうようになった。幼い頃孝明は酒乱の父を、あれほど憎んでい也は孝明の深酒をとめなかった。とめても余計に不機嫌になり、荒れる性格をよく解っていたからだと思う──本当は諦めていたのかもしれない。和也は幼かった孝明とは違い、泣いて「やめてくれ」と縋りつくようなことはしなかった。何の抵抗もせず、苦しそうに悲しそうな顔をし、無言で耐えるだけだった。殴られても、蹴られても、うちひしがれた花のように、じっと孝明の暴力を受け止め続けた。痛みに顔を歪ませる和也に、孝明は丸まり身体を縮める和也を蹴りながら確かに言った。
『泣いて縋ってみろよ!言いたいことがあるなら言えよ!黙りこんでたんじゃ解んねぇだろ!』
『恨みがましい顔で見てんじゃねぇ!』
と罵声を浴びせながら和也に暴力を振るい続けた。孝明は蹴る足を休め息を荒くして、アルコールで頭が痺れるような感覚を味わいながら、ぼんやり和也を見つめた。和也は痣のできた顔で、孝明を見る。全身が粟立った気がした。恨みがましくもなく怒りもなく、泣くわけでもなく、ただ、淋しそうに孝明を見る。白い整った顔に痣をつけられ、虹彩の薄い澄んだ瞳で、
『どうして?』
それだけの疑問を投げ掛けられるように。和也の大きな澄んだ目で映し出される自分の醜さに惨めさを覚えた。そして、惨めさからくる苛立ち、怒り、嗜虐。汚い感情が渦のように胸に溜まりどんどん孝明の暴力はエスカレートしていった。孝明の酔いが深まり泥酔し動けなくなると、和也は孝明を寝室まで引きずるように連れていく。ベッドに仰向けに寝かせ、薄地の毛布をかけ、必ず和也は、
「おやすみ、孝明」
と、これ以上ない優しい声でそう言い、右手で頬を撫でる。決して『もう殴られたり蹴られたりすることはない』という安堵ではない、とうの昔に忘れてしまった穏やかな、愛情すら錯覚しそうになる声で『おやすみ』と孝明の頬を撫でる、和也の甘い花の匂いがする右手。和也はベッドに倒れ込む孝明のネクタイを緩め、襟元のボタンを外し、寝室のドアを静かに閉める。和也のスリッパの音と気配が遠ざかる。最近片足を引きずる音がする。
***
戻りたい。ただ切実に想う。物質的には変わっていなかった。環境は。過去も今も。和也は一緒に暮らす毎日で、いつも孝明のことを待っている。あの頃、口づけ合い、微笑みながら夜景を見ていた頃。幸せだった。
痛みに顔を歪め、笑う和也が悲しくて抱き締めたことはある。ただ無言で震えていた。全身での拒絶、そんな気がした。まるで『死』に怯える様だった。その瞬間、謝って許される問題ではない。変わらなければ、終わる。そう思い孝明は佐伯に秘密裏に診察を頼んだ。佐伯は精神科医だった。アルコール依存症、だった。
孝明と一緒にいるときの和也の笑顔は全て苦しみの上に作られた虚構なのだと解っていた。触れることさえ、無意識に震えさせ、怯える。もう、とっくに孝明は和也にとって甘えて、甘えさせてくれる『優しい恋人』ではなく『暴力をふるうだけの怖い支配者』になった。全て気づくのが遅すぎた。孝明は、水を欲する美しい花をむしり取り、じりじりと西日が差す窓辺に置き、枯らした。花の呟きを聴いたことがある。ある夜、いつものごとく酔って帰った日、珍しくインターホンを鳴らしても返答がなく、渋々自分で玄関のドアを開けた。ソファで背を向けて眠る和也は、小さな小さな声で
「やめて、痛いよ…痛いよ……殺して……もう、殺して、孝明」
と繰り返し。震えながら、泣きながら言っていた。和也の夢の中でさえ孝明は、和也を泣かせ、魘させている。涙が溢れ止まらなかった。昔なら、抱き締めて背中をさすってやるのに。でも、きっと今の和也はそんなことは望んでいない。魘される夢の原因が孝明自身なのだから。それに孝明は自分には触れて欲しくないだろうと思えた。そして孝明が涙を流す資格もない。自業自得だ、その言葉しか浮かばない。傷つけただけだ。どうすれば良いか解らない。正解が解らない。孝明は、触れることさえ和也が嫌悪と恐怖を覚えさせる手で、繰り返し『ごめんな、ごめんな』と言いながら、涙を零し続け、魘され続ける和也の背中を撫でた。
***
和也が作った安心して羽を休められ、二人で買った理想の巣箱。幸せが二人だけで完結していた頃、孝明は帰宅すると、和也は玄関までパタパタとスリッパの音をさせ『おかえり』と言い微笑む。孝明はまず、和也を抱きしめてから『ただいま』という。和也が作った手の込んだ美味しい料理を食べ、微笑み合いながら、一日の出来事を少しオーバーに面白く話し、楽しい食卓を囲んだ。いつも一手間も、二手間もかけた凝った美味しい料理。それから、一緒に風呂に入り、新しく買ったベッドで抱き合った。ベッドまで待てずソファでしたこともあった。
和也の肌は白かった。孝明がその事を告げると「家にばかりいさせられて家事や勉強させられたから」と苦い顔をして言っていた。和也のうなじはいつも蒼白く、頸動脈がはっきり透けて見えた。孝明は細い和也の首筋が好きだった。うなじに口づけると甘い匂いがした。香水とは違う、和也の匂い。清々しく、早春の水仙のような優しい甘い、孝明をそそらせる、匂い。最初は奪うような激しい抱き方をしたけれど、時が経ち、そんな抱き方はしなくなった。柔らかに穏やかに絡み合うような行為。昔のような抱き方をするときは和也が求めたときだけだった。滅多にないことだったが、不安そうに俺を見つめ強く抱きついた後、首に腕を絡ませ、つま先立ちをして、少しだけ高めの声で耳許で
「お願い、孝明……して」
和也はそう囁くような小さな声で言った。甘ったるく言われるのではなく、必死さを感じる言い方だった。あまりにもそんな和也が愛しくて、哀しくて、今にも枯れそうな植物が水を求めるようで、俺は我を忘れ和也を抱いた。今は、もうない。まず、もうずっと和也を抱いてないし、一緒に飯も食べていない。必ず和也は、遠慮がちに、
『ごめんね、先に食べちゃったんだ』
と苦笑する。風呂は一緒に入るどころか、浴槽に入っていない。朝にシャワーを浴びるだけだ。それでも、浴槽には適温のお湯が用意されてあって、出たすぐ横にある洗濯機の上には孝明が風呂から出た後の着る服などが風呂の前に置いてある。タオルから下着まで。全て。完璧に。
今日の朝食も完璧だった。リビングの窓から見る窓の外には、さっきよりずっと降りが強くなった小雪がちらついているのに、暑すぎないし寒すぎもしない完璧な室内の温度。
「おはよう。孝明。朝御飯、出来てるよ」
孝明の好きな明太子。ほうれん草のお浸し、厚焼き玉子、大根おろし、胡瓜の浅漬け、なめこと豆腐の味噌汁。炊きたてのご飯。
一週間前の殴った顔の痣の名残、足を引きずりながら、和也は柔らかく何事もなかったように笑う。穏やかな、柔らかな笑顔に、謝れない。ようやく話せた言葉が無言で食べた食事の後の不機嫌そうな、「ご馳走さま」それだけ。本当は言いたいことが沢山あった。
「明太子好きなの、覚えてくれてたんだな」「大粒のなめこ、旨かった」
「やっぱり和也は、料理うまいな」
「いつも、ありがとうな」
『……ごめんな。今まで、ごめんな』
付き合った当初なら、まず、和也を傷つけたりしていないだろうし、きっと感謝の言葉も、抱き寄せて和也の癖のない真っ直ぐな髪を手でくしゃくしゃっとして、素直に言っていたと思う。今はただ俯いて和也と目を合わせないようにするだけだ。怖い、ただ和也が怖い。怒らせる、悲しませる、それもあるけれど、もっと漠然とした恐怖。花が消えてしまうような、恐怖。誰かに摘まれてしまうのではないかという恐怖。そう自分が恐怖を抱くほど酷いことをしているのは、自分自身なのに。
玄関で、灰色のロングコートに腕を通す。
「今日、僕の誕生日なんだ。覚えてる?」
「あ、ああ。そうだっけ?」
本当は覚えていた。大きな白い薔薇の花束を花屋に注文してあった。やり直す、きっかけにしたかった。時間はかかるかもしれないけれど。付き合って同棲してた頃の小さな『ごめん』の気持ちの一輪の花たち。安ウイスキーの瓶が花瓶だった。
「孝明、今日は早く帰って来て。お願い。早く帰って来て」
必死な形相だった。こんなにも感情を露にする和也は久しぶりだった。捕まれた腕。右目の痣。まるで『殴らないで』と懇願されているように感じた。孝明は嫌悪にかられ、反射的に捕まれた腕を振りほどいた。
『誕生日ぐらいで騒ぐなよ、良い年した男が女みたいにみっともねえな』
孝明が、そう言葉を選んだ瞬間、和也の顔は硬直した。能面のようだった。指先が震えていた。孝明はその理由が解らなかった。ただ、琴線に触れてしまったことは蒼白になっていく和也の顔で解った。
「ぼ、僕は女の人みたい…?」
「ああ、いつもグジグジ煮えきらなくて女みてぇだな。見た目も優男だし。背も小せぇし。うん、確かに女みたいだな。小綺麗にしてスカート穿いて化粧でもすれば簡単に女に化けられんじゃねぇの?」
和也の、声が震える。もう、全身が震えている。
「本気で、言ってるの?僕が女の人みたいだって。……昔、大学の時、庇ってくれたじゃないか!僕が学部の飲み会で悪ふざけで言われたら、一番嫌な言葉なんだって泣いていたら、陰で孝明はずっと背中を撫でて、慰めてくれたじゃないか!あれは嘘だったの?君にとって取るに足らないどうでもいいことだったの?答えてよ!孝明!」
和也の苦しくて仕方がないような絞るような声。初めて声を潤ませ怒る声。
「ああ。もう、なんだよ!仕事前から!ウジウジウジウジ。そう言うところが女みたい……」
「そっか。うん。そうだね……ははっ」
和也は言葉を遮り、乾いた笑いを喉の奥から発した。初めて聞く種類の和也の笑い声。泣きながら笑うような『自嘲』の声。水をあげずに枯らせた花の乾いた笑顔。何でこんなことで朝から自分は和也にこんな笑い方をさせてるんだ?こんな顔をさせてるんだ?今日から変わるんじゃなかったのか?
「あとさ、お前、面倒くさい。重いんだよ。一日くらい家空けてくんない?毎日毎日『やってやってる』感ありありでさぁ」
孝明は続ける。違う、と思いながらもするすると口から言いたい事とは違う言葉が出てくる。
「家事やる必要ないし、どっかの良いホテルでも泊まってくりゃいい。美味い飯でも食ってこいよ。いつも思うんだけど、俺、お前見るの辛いんだよ。何で殴られて怒らねぇの?泣かねぇの?文句くらい言うのが人ってもんだろ?お前みてると無言でこれ以上もないくらいに責められてるみてぇだ」
もう訳がわからない。いつの間にか和也が悪者になっている。
「……僕はもう、この家にいらないんだね。家事をやるのは僕にとって苦痛じゃないんだよ。楽しいんだ。君とこの家さえあれば良かったんだ。ただ、それだけだったんだ。でも、もう、いらないんだね。僕にとって大切な記憶に君はいないし…ねぇ、孝明。この顔で、良いホテル、泊まれるかなぁ?」
うっすら瞳に涙を浮かべて和也は言った。段々と涙は睫毛にたまり、瞬きもすることなく軽く笑みを浮かべた和也の目から音も気配もなく落ちた。瞬きもせず和也は涙を零し続けた。あまりにも悲しい泣き方に、思わず瞳を逸らす。最後のとどめの言葉が孝明の口からついて出た。
「眼帯でもすりゃいいんじゃねぇか?痣も隠れるし。ほら、鞄貸せよ。どんくせえな。ホテル決まったら連絡しろ」
「い、行ってらっしゃい」
涙をこぼしながら
「気をつけてね」
いつも和也は一生懸命笑おうとしながら孝明に手を振る。今朝に限って、そんな和也を振りかえる勇気は孝明にはなかった。一度も振り向けなかった。北西の風が、強い。積もる雪の予感がした。どうして孝明はきちんと謝れないんだろう。素直になれないんだろう。簡単なことなはずなのに。拒絶されるのが怖い。「今更何のつもり」冷たい瞳で睨まれたら孝昭は何も言えない。終わらせたくないんだ。ちゃんとやり直すんだ。
雪がふるのか。天気予報は当たるのか、確かに、寒い。早く帰りたい。そして変わりたい。
─────【続】
「母親は十歳の俺を置いて出ていった。あんなに泣きながら『置いていかないで』と言ったのに。残ったのは酒乱の親父。俺は他に身寄りがいなかった。父子家庭で酒乱の親父が死んだときはせいせいしたよ。交通事故だった。ガンにもかかってた。あっさりしたもので拍子抜けしたな」
和也はというと、幼い頃や家族の話になると口を閉ざし、曖昧に頷き淋しそうに微笑するだけだった。何も語らなかった。友達はいなかったと言っていた。孝明を見つめ、目を細めると、
「君が初めての友達。最初の恋人。最後の家族」
と甘い声で言った。孝明は壁に持たれて覚えたての煙草に火を点けた。
「そっか。嬉しいよ。和也にそう言ってもらえて……どうして、お袋は俺を連れていってくれなかったのかな。俺は親父に似てたからかな。ガキの頃、親父に殴られて。あんな奴死ねばいいって思ってた。毎日、怯えて。ガキにはガキなりのプライドがあるからな。可哀想な子にはなりたくなかった。お袋は鶏の唐揚げと寒天を殴られた次の日作ってた。庇いもしなかったくせに」
孝明は煙草を深く吸って、ため息のように吐き出した。和也は訊いた。
「『唐揚げ』と『寒天』?」
「ああ。蜜柑の缶詰めで作るんだ。酷く殴られた日は、作ってたな。唐揚げは胸肉。安いから」
孝明はいつの間にか短くなった煙草を消し、少し感傷的な気持ちになり、和也の頬をすっと撫でた。和也は瞼を軽く伏せながら、癖のある孝明の髪を撫でながら言った。
「君が穏やかに帰って休める場所を作りたいよ。安心して羽を休めることができるところをね。そこに僕がいられたら幸せだな」
孝明が帰ることを望まれる安住の『巣』じっと穏やかな瞳で見つめる和也は、何よりも美しかった。
***
普段の生活において、いつも昼のいつもの和也を見ても、夜の和也がちらつく。途切れ途切れに『孝明』と呼ぶ声。吐息の温度。肌の熱。情事の上での口づけをねだる和也は、声も所作も品があるが色っぽく、その様子を思い出すだけで、所謂美人といわれる女性もつまらなく見えた。
美しい植物のような親友は、あの日を期に、女遊びを退屈に思わせ、不在を苦しませ、隣にいても不安にさせた。他の奴と話しているだけで嫉妬で頭がどうにかしそうな時もあった。それでも、どんなに遠くからでも笑顔を浮かべ、ほんの少しだけ高めの声で『孝明』と名前を呼ばれ駆け寄られると全ての澱んだ気持ちが溶解した。好きでたまらなかった。愛してた。
和也が笑うときは一緒に笑う。悲しむときは一緒に悲しい気持ちになりながら、それ以上悲しくならないように抱き締めて、悲しみから引っ張りあげた。和也さえ居れば良かった。恋人であり、初めて出来た家族だった。はずだった。
大学時代は、和也と孝明はあのボロアパートで同棲していた。和也は家事全般が得意でつい頼りがちになってしまっていた。喧嘩したわけでもないのに、罪悪感があった。謝罪という自己満足に和也に白い薔薇を一本贈る。和也は泣きそうな顔をして孝明にしがみつく。
「僕、憧れてた。僕の好きな花。こんな……すごく嬉しい。ありがとう」
斜め後ろから、台所用の丸椅子に座り、和也の皿洗いを見てるのが好きだった。白い指先が、百均の皿を洗う度に、孝明にとってそれはもう安物の皿ではなくなる。和也に洗われた二人の皿。和也は流行りの歌のフレーズを口ずさんだりしていて、途中から解らなくなると、手をとめず、振り返らずに、
「この続き、歌って」
と言う。適当に孝明は和也の後ろ姿を見ながら、その場しのぎの歌を作って歌う。洗い終わった皿を拭くためにやっとこっちを向いた和也は、
「今日も、孝明の歌は良い歌だね」
と柔らかく微笑む。あの時和也にもし『一緒に遠くへ行こう』と言われたら孝明はきっと頷いていた。貧乏だったけれど、あの日々に戻りたい。抱き合ったあと、薄いひとつの布団で、和也の背を抱いたあの日々に。そう願うのは我儘だ。傲慢だ……そう孝明は思う。
***
お互い無事に国家資格も取り、時間が流れ一人前の医師となった頃、二人でお金をためて、孝明名義でローンを組んで良いマンションを買った。夜景が綺麗に見えて、近くに広い公園があった。地下鉄も近く、まさに理想の巣箱だった。フローリングの床。目に優しい間接照明。広いキッチン。大きなソファも買った。お互いの部屋まである。『いってらっしゃい』と『おかえり』をくれる大切な恋人もいる。挙げたら切りがない、孝明が欲しかったもの全て。幸せを具現化したような日々だった。
和也と孝明の関係を知るのは佐伯だけだった。孝明が外科部長になったことを期に和也は仕事を辞めた。和也も優秀な麻酔医だったが、孝明が無理を言った。
いつしか家事をするのは和也の義務になった。完全な主夫、いや家政夫扱いになっていく。丸椅子も、知らない歌も無くなった。夜中和也は食器を洗う。和也はバカラのグラスを見て思った。こんなものいらない、と。孝明は大規模な病院の勤務医だった。ある日酔った孝明に和也は、
「また、働きたいな」
和也は小さくそう言った。
「俺一人でも金銭的にも十分贅沢をさせてやれる。和也は主夫の方が似合ってるよ」
そう言いきった。和也は「そうだね」と小さく言った。明らかに落胆の色が見えたが、孝明は無視した。殆ど家事を和也に任せていた。自分でしなければならない小さな家事も、手術が続くと億劫で仕方なかった。主夫の和也が居なくなると孝明は都合が悪い。それに『家に帰れば誰かがいる』という憧れがあった。格好がつかないから言いたくなかったが、やはり一番の理由は和也の、毎日の『いってらっしゃい』と『おかえり』が欲しかった。孝明はずっと独りだった。引き取られた、顔も知らない親戚の家族から温かい言葉はかけられたことはなかった。
あんなに欲しがったものなのに、和也の柔らかい口調も、労わりの『おかえり』も、ただの言葉の羅列に聴こえるようになっていった。段々と、和也が手を尽くして用意した夕飯も雑に食べるようになった。食卓から言葉が消え、笑顔も消えた。和也は何も言わない。昔のように『美味しい?』とも訊かない。当たり前だ。『黙っていてくれるか?』と言って資料や本を片手に飲み食いしているのは孝明だ。和也は深夜流行りの歌のフレーズを口ずさみながら高価な皿を洗う。孝明は、もう1人で眠っている。
もう台所ののくたびれた丸椅子も途切れたフレーズに続きはない。後ろから和也を抱き締めのも、遥か昔の思い出だ。
長い長い時間が流れた。孝明は和也と恋人になる前のように、無責任な自由を求めるようになった。孝明は穏やかな羽を休めさせてくれると思っていた空間に退屈を感じるようになった。安息に幸せを感じるほど利口ではなかった。築いてきた幸せが砂場遊びの砂のように音もたてず零れ始めた。すべて和也の気遣いと努力と我慢で成り立っているとも知らずに。孝明は『飲み歩き』を覚え、そして『遊び』を覚えた。それでも、どんなに遅くにビールの臭いをさせて帰って来た時も、仕事だと言って、高級クラブの高価な女物の香水の匂いを纏わせ帰ってきた時も、それでも必ず和也は起きて待っていて、快適な部屋、きちんと温度設定された風呂、空調、手の込んだ美味しい料理を作り、悲しそうな顔を一生懸命隠しながら、いつものように和也は言う。『おかえり、孝明』と。柔らかく笑いながら。
完璧に家事をしても、孝明が気づくことはなかった。それが孝明の『当たり前』になっていたからだ。和也への感謝なんかなかった。ぞんざいに扱われ、悲しく笑う和也は、涙を流さないで泣いているように見えた。
快適な部屋、きちんと温度設定された風呂、空調、手の込んだ美味しい料理を作り、悲しそうな顔を一生懸命隠しながら、いつものように和也は言う『おかえり、孝明』と。柔らかく笑いながら。こうなったのは、いつからだ?
──孝明が、宿直だった日だ。その日オペをした子供が、夜になり急に容態が悪化し、亡くなった。完璧なオペだったはずだ。
なのに患者の子供の顔を思い出せない!襲う恐怖と共に酒量はどんどん増え、家に帰っても酒を飲むようになった。和也に抱きしめて欲しかった。でも、きっともう遅い。傷つけ過ぎた。花は枯れてしまった。違う、俺のせいで枯れた!孝明は大声をあげ、サラダの皿を投げた。あっけなく、緑が散る。
毎日和也に当たり散らすようになっていった。片づいた部屋に投げつけられた、まだ残りがあるビール缶や灰皿、ガラスのコップなど、故意に散らかされた部屋を和也は瞳を伏せ、背中を丸め、黙々と片づけるだけだった。若い頃、中々空かないスケジュールをあわせ、旅行先で選んだ思い出のグラスたち、アンティークショップで買った灰皿が、割れていく。和也は黙って壊れていく思い出たちを見て目を伏せた。その顔に表情はなかった。暫く立ち尽くしていた和也は、ぽつりと呟いた。
『孝明の記憶には、みんな、いらなくなったものなんだね』
その後、更に小さく
『僕もいらなくなっちゃうのかな』
と言った。孝明は
『そうかもな』
と、ろくに和也の言葉も聴かず生返事をしてソファでビールを飲んでいた。あの時気づけていたら。引き返せたなら。いくら後悔しても遅いのは、解っているけれど。
深夜に割れたガラスの欠片を目の前で掃除機の音を響かせながら何も言わず部屋を片づける和也が、まるで当てつけのようにそうしているようで、余計孝明を苛々させた。孝明は益々、家に帰って酒を飲む量が増えていった。そして、段々と普段にも和也を邪険に扱うようになっていった。和也の優しさが苦しかった。どうして和也はこんなに優しく、温かく接してくれるんだろう。和也の優しさが見えるほど孝明はやるせない。和也は孝明の身体を気遣う事はあっても、酒を飲んで荒れる事については何も言わなかった。
しかし、ある日、孝明はこれ以上もなく深酒し、和也に暴力を振るった。それから毎日、飲んで荒れる度、とうに死んだ父と同じく、和也に暴力を振るうようになった。幼い頃孝明は酒乱の父を、あれほど憎んでい也は孝明の深酒をとめなかった。とめても余計に不機嫌になり、荒れる性格をよく解っていたからだと思う──本当は諦めていたのかもしれない。和也は幼かった孝明とは違い、泣いて「やめてくれ」と縋りつくようなことはしなかった。何の抵抗もせず、苦しそうに悲しそうな顔をし、無言で耐えるだけだった。殴られても、蹴られても、うちひしがれた花のように、じっと孝明の暴力を受け止め続けた。痛みに顔を歪ませる和也に、孝明は丸まり身体を縮める和也を蹴りながら確かに言った。
『泣いて縋ってみろよ!言いたいことがあるなら言えよ!黙りこんでたんじゃ解んねぇだろ!』
『恨みがましい顔で見てんじゃねぇ!』
と罵声を浴びせながら和也に暴力を振るい続けた。孝明は蹴る足を休め息を荒くして、アルコールで頭が痺れるような感覚を味わいながら、ぼんやり和也を見つめた。和也は痣のできた顔で、孝明を見る。全身が粟立った気がした。恨みがましくもなく怒りもなく、泣くわけでもなく、ただ、淋しそうに孝明を見る。白い整った顔に痣をつけられ、虹彩の薄い澄んだ瞳で、
『どうして?』
それだけの疑問を投げ掛けられるように。和也の大きな澄んだ目で映し出される自分の醜さに惨めさを覚えた。そして、惨めさからくる苛立ち、怒り、嗜虐。汚い感情が渦のように胸に溜まりどんどん孝明の暴力はエスカレートしていった。孝明の酔いが深まり泥酔し動けなくなると、和也は孝明を寝室まで引きずるように連れていく。ベッドに仰向けに寝かせ、薄地の毛布をかけ、必ず和也は、
「おやすみ、孝明」
と、これ以上ない優しい声でそう言い、右手で頬を撫でる。決して『もう殴られたり蹴られたりすることはない』という安堵ではない、とうの昔に忘れてしまった穏やかな、愛情すら錯覚しそうになる声で『おやすみ』と孝明の頬を撫でる、和也の甘い花の匂いがする右手。和也はベッドに倒れ込む孝明のネクタイを緩め、襟元のボタンを外し、寝室のドアを静かに閉める。和也のスリッパの音と気配が遠ざかる。最近片足を引きずる音がする。
***
戻りたい。ただ切実に想う。物質的には変わっていなかった。環境は。過去も今も。和也は一緒に暮らす毎日で、いつも孝明のことを待っている。あの頃、口づけ合い、微笑みながら夜景を見ていた頃。幸せだった。
痛みに顔を歪め、笑う和也が悲しくて抱き締めたことはある。ただ無言で震えていた。全身での拒絶、そんな気がした。まるで『死』に怯える様だった。その瞬間、謝って許される問題ではない。変わらなければ、終わる。そう思い孝明は佐伯に秘密裏に診察を頼んだ。佐伯は精神科医だった。アルコール依存症、だった。
孝明と一緒にいるときの和也の笑顔は全て苦しみの上に作られた虚構なのだと解っていた。触れることさえ、無意識に震えさせ、怯える。もう、とっくに孝明は和也にとって甘えて、甘えさせてくれる『優しい恋人』ではなく『暴力をふるうだけの怖い支配者』になった。全て気づくのが遅すぎた。孝明は、水を欲する美しい花をむしり取り、じりじりと西日が差す窓辺に置き、枯らした。花の呟きを聴いたことがある。ある夜、いつものごとく酔って帰った日、珍しくインターホンを鳴らしても返答がなく、渋々自分で玄関のドアを開けた。ソファで背を向けて眠る和也は、小さな小さな声で
「やめて、痛いよ…痛いよ……殺して……もう、殺して、孝明」
と繰り返し。震えながら、泣きながら言っていた。和也の夢の中でさえ孝明は、和也を泣かせ、魘させている。涙が溢れ止まらなかった。昔なら、抱き締めて背中をさすってやるのに。でも、きっと今の和也はそんなことは望んでいない。魘される夢の原因が孝明自身なのだから。それに孝明は自分には触れて欲しくないだろうと思えた。そして孝明が涙を流す資格もない。自業自得だ、その言葉しか浮かばない。傷つけただけだ。どうすれば良いか解らない。正解が解らない。孝明は、触れることさえ和也が嫌悪と恐怖を覚えさせる手で、繰り返し『ごめんな、ごめんな』と言いながら、涙を零し続け、魘され続ける和也の背中を撫でた。
***
和也が作った安心して羽を休められ、二人で買った理想の巣箱。幸せが二人だけで完結していた頃、孝明は帰宅すると、和也は玄関までパタパタとスリッパの音をさせ『おかえり』と言い微笑む。孝明はまず、和也を抱きしめてから『ただいま』という。和也が作った手の込んだ美味しい料理を食べ、微笑み合いながら、一日の出来事を少しオーバーに面白く話し、楽しい食卓を囲んだ。いつも一手間も、二手間もかけた凝った美味しい料理。それから、一緒に風呂に入り、新しく買ったベッドで抱き合った。ベッドまで待てずソファでしたこともあった。
和也の肌は白かった。孝明がその事を告げると「家にばかりいさせられて家事や勉強させられたから」と苦い顔をして言っていた。和也のうなじはいつも蒼白く、頸動脈がはっきり透けて見えた。孝明は細い和也の首筋が好きだった。うなじに口づけると甘い匂いがした。香水とは違う、和也の匂い。清々しく、早春の水仙のような優しい甘い、孝明をそそらせる、匂い。最初は奪うような激しい抱き方をしたけれど、時が経ち、そんな抱き方はしなくなった。柔らかに穏やかに絡み合うような行為。昔のような抱き方をするときは和也が求めたときだけだった。滅多にないことだったが、不安そうに俺を見つめ強く抱きついた後、首に腕を絡ませ、つま先立ちをして、少しだけ高めの声で耳許で
「お願い、孝明……して」
和也はそう囁くような小さな声で言った。甘ったるく言われるのではなく、必死さを感じる言い方だった。あまりにもそんな和也が愛しくて、哀しくて、今にも枯れそうな植物が水を求めるようで、俺は我を忘れ和也を抱いた。今は、もうない。まず、もうずっと和也を抱いてないし、一緒に飯も食べていない。必ず和也は、遠慮がちに、
『ごめんね、先に食べちゃったんだ』
と苦笑する。風呂は一緒に入るどころか、浴槽に入っていない。朝にシャワーを浴びるだけだ。それでも、浴槽には適温のお湯が用意されてあって、出たすぐ横にある洗濯機の上には孝明が風呂から出た後の着る服などが風呂の前に置いてある。タオルから下着まで。全て。完璧に。
今日の朝食も完璧だった。リビングの窓から見る窓の外には、さっきよりずっと降りが強くなった小雪がちらついているのに、暑すぎないし寒すぎもしない完璧な室内の温度。
「おはよう。孝明。朝御飯、出来てるよ」
孝明の好きな明太子。ほうれん草のお浸し、厚焼き玉子、大根おろし、胡瓜の浅漬け、なめこと豆腐の味噌汁。炊きたてのご飯。
一週間前の殴った顔の痣の名残、足を引きずりながら、和也は柔らかく何事もなかったように笑う。穏やかな、柔らかな笑顔に、謝れない。ようやく話せた言葉が無言で食べた食事の後の不機嫌そうな、「ご馳走さま」それだけ。本当は言いたいことが沢山あった。
「明太子好きなの、覚えてくれてたんだな」「大粒のなめこ、旨かった」
「やっぱり和也は、料理うまいな」
「いつも、ありがとうな」
『……ごめんな。今まで、ごめんな』
付き合った当初なら、まず、和也を傷つけたりしていないだろうし、きっと感謝の言葉も、抱き寄せて和也の癖のない真っ直ぐな髪を手でくしゃくしゃっとして、素直に言っていたと思う。今はただ俯いて和也と目を合わせないようにするだけだ。怖い、ただ和也が怖い。怒らせる、悲しませる、それもあるけれど、もっと漠然とした恐怖。花が消えてしまうような、恐怖。誰かに摘まれてしまうのではないかという恐怖。そう自分が恐怖を抱くほど酷いことをしているのは、自分自身なのに。
玄関で、灰色のロングコートに腕を通す。
「今日、僕の誕生日なんだ。覚えてる?」
「あ、ああ。そうだっけ?」
本当は覚えていた。大きな白い薔薇の花束を花屋に注文してあった。やり直す、きっかけにしたかった。時間はかかるかもしれないけれど。付き合って同棲してた頃の小さな『ごめん』の気持ちの一輪の花たち。安ウイスキーの瓶が花瓶だった。
「孝明、今日は早く帰って来て。お願い。早く帰って来て」
必死な形相だった。こんなにも感情を露にする和也は久しぶりだった。捕まれた腕。右目の痣。まるで『殴らないで』と懇願されているように感じた。孝明は嫌悪にかられ、反射的に捕まれた腕を振りほどいた。
『誕生日ぐらいで騒ぐなよ、良い年した男が女みたいにみっともねえな』
孝明が、そう言葉を選んだ瞬間、和也の顔は硬直した。能面のようだった。指先が震えていた。孝明はその理由が解らなかった。ただ、琴線に触れてしまったことは蒼白になっていく和也の顔で解った。
「ぼ、僕は女の人みたい…?」
「ああ、いつもグジグジ煮えきらなくて女みてぇだな。見た目も優男だし。背も小せぇし。うん、確かに女みたいだな。小綺麗にしてスカート穿いて化粧でもすれば簡単に女に化けられんじゃねぇの?」
和也の、声が震える。もう、全身が震えている。
「本気で、言ってるの?僕が女の人みたいだって。……昔、大学の時、庇ってくれたじゃないか!僕が学部の飲み会で悪ふざけで言われたら、一番嫌な言葉なんだって泣いていたら、陰で孝明はずっと背中を撫でて、慰めてくれたじゃないか!あれは嘘だったの?君にとって取るに足らないどうでもいいことだったの?答えてよ!孝明!」
和也の苦しくて仕方がないような絞るような声。初めて声を潤ませ怒る声。
「ああ。もう、なんだよ!仕事前から!ウジウジウジウジ。そう言うところが女みたい……」
「そっか。うん。そうだね……ははっ」
和也は言葉を遮り、乾いた笑いを喉の奥から発した。初めて聞く種類の和也の笑い声。泣きながら笑うような『自嘲』の声。水をあげずに枯らせた花の乾いた笑顔。何でこんなことで朝から自分は和也にこんな笑い方をさせてるんだ?こんな顔をさせてるんだ?今日から変わるんじゃなかったのか?
「あとさ、お前、面倒くさい。重いんだよ。一日くらい家空けてくんない?毎日毎日『やってやってる』感ありありでさぁ」
孝明は続ける。違う、と思いながらもするすると口から言いたい事とは違う言葉が出てくる。
「家事やる必要ないし、どっかの良いホテルでも泊まってくりゃいい。美味い飯でも食ってこいよ。いつも思うんだけど、俺、お前見るの辛いんだよ。何で殴られて怒らねぇの?泣かねぇの?文句くらい言うのが人ってもんだろ?お前みてると無言でこれ以上もないくらいに責められてるみてぇだ」
もう訳がわからない。いつの間にか和也が悪者になっている。
「……僕はもう、この家にいらないんだね。家事をやるのは僕にとって苦痛じゃないんだよ。楽しいんだ。君とこの家さえあれば良かったんだ。ただ、それだけだったんだ。でも、もう、いらないんだね。僕にとって大切な記憶に君はいないし…ねぇ、孝明。この顔で、良いホテル、泊まれるかなぁ?」
うっすら瞳に涙を浮かべて和也は言った。段々と涙は睫毛にたまり、瞬きもすることなく軽く笑みを浮かべた和也の目から音も気配もなく落ちた。瞬きもせず和也は涙を零し続けた。あまりにも悲しい泣き方に、思わず瞳を逸らす。最後のとどめの言葉が孝明の口からついて出た。
「眼帯でもすりゃいいんじゃねぇか?痣も隠れるし。ほら、鞄貸せよ。どんくせえな。ホテル決まったら連絡しろ」
「い、行ってらっしゃい」
涙をこぼしながら
「気をつけてね」
いつも和也は一生懸命笑おうとしながら孝明に手を振る。今朝に限って、そんな和也を振りかえる勇気は孝明にはなかった。一度も振り向けなかった。北西の風が、強い。積もる雪の予感がした。どうして孝明はきちんと謝れないんだろう。素直になれないんだろう。簡単なことなはずなのに。拒絶されるのが怖い。「今更何のつもり」冷たい瞳で睨まれたら孝昭は何も言えない。終わらせたくないんだ。ちゃんとやり直すんだ。
雪がふるのか。天気予報は当たるのか、確かに、寒い。早く帰りたい。そして変わりたい。
─────【続】
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