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《前編》

孝明の場合⑤──眠れる森の王子さま

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 指の主は答えない。温かい。こんな温かい夢なんて、ない。
「和也…目が覚めたのか?ナースコール押そう?」
「……やめて……お願い。しばらく二人で居たい。もう、『こうなったら』最後だから。伏せていて。君は今眠っているんだ」
 細い声で和也は言った。
「どうして……どうして……」
「どうしても」
 聞き分けの無い子供をたしなめるように、和也は言葉を遮る。声には厳しさがあった。淡い茶色い虹彩、白い頬。黒の前髪、全て刻み込みたいのに。
「俺のこと憎んでるから?毎日飲んで荒れて……顔も見たくないのか?」
「そういう言い方は、狡いと思うよ。孝明」
 冷たい、声。きっと、今顔をあげたら孝明が一番みたくない、和也の侮蔑の瞳にぶつかる。和也の手が震える。怒りで震えていることに感づくのは、和也の次の声を聞いてからだった。
「……僕は君を許さないよ。絶対に、許さない。ねぇ、どうしてあんなことしたの……?どうして?ねえ、どうして?僕は人間なんだよ?痛みも感じれば、感情もあるんだ。君は僕に飽きたの?要らなくなったからなんでもしていいって思ったの?僕は君にとって何だったんだろうね。家政夫?情夫?僕は、君に昔みたいに愛されたかった。もう、殴られたり、蹴られたり、物を投げられたりされたくなかった。君が帰ってくるのが怖かった。君と話すことが怖かった。機嫌を損ねたらいけない。毎日君に怯えながら、御機嫌伺いしながら怯えた動物みたいに小さくなってた……僕はそんなに君に悪いことをした?何かを、望んだ?君を、裏切ったことがあった?君の手が目線より上になると、身体が震えるようになったよ。『殴られる』って。怖くて。段々何もする気が起きなくて、眠れなくなって。それでも僕は毎日完璧に家事をした。疎かになんかしたら今度は何をされるか解らないからね。僕は君を許さないよ。絶対に許さない。思い出も、記念日も、誕生日も、僕も忘れて…僕を、忘れて……」
 和也は冷たく言葉を繋いでいたけれど、語尾の声が震えていた。反射的に顔をあげると和也は大きな瞳いっぱいに涙をためていた。
「僕はただの家事をするロボットじゃないんだ。そうならどんなに楽だったろうね。君がいつか、昔みたいに戻ってくれるって信じて、期待して。ただそれだけが、ただ……それだけが、あの頃の君が、僕の唯一の希望だった。でも、人は変わるんだってあの日解った。僕のことを女の人みたいだって……僕が言われて一番傷つく言葉を君は言った。ねえ、あれはわざと?ただ口が滑っただけ?スカート穿いて、化粧を……」
 和也を見る。瞳いっぱいにたまった涙が一粒落ちた。次々に大粒の涙が落ちる。
「何も言うな!」
 孝明は反射的に和也の言葉を遮り、和也を抱き締めた。しばらく『離して!触らないで!孝明なんて大嫌いだ!』と抵抗していたけれど、左手で無理やり後頭部を押さえ顔を胸に埋めさせ、背中を撫でた。 
 昔、和也が夢に魘された時にしていたみたいに。和也は孝明にしがみついた。
「それ以上、言うな。俺のことは何を言っても構わないから」
 孝明は自分の言った不用意な言葉で和也を泣かせたくなかった。しばらくぶりに和也を抱き締めた。何ヶ月ぶりだろう。ああ、和也の匂いだ。優しい花の匂い。自分は不謹慎な奴なんだと思う。猛烈に和也の口唇が欲しくなっている自分がいる。
「許……さないよ…。許さない……。僕は君を許さないよ。一生恨んでやる。憎んでやる。今更優しくしないでよ!全部、全部遅いんだ!もう、遅いんだよ……!」
 和也の病的に細くなってしまった非力な腕が胸で暴れる。抱き締める強さを強めて和也の動きを封じた。和也は『一生恨む。憎む』と言った。孝明はそれも良いなと思った。ああ、だったら自分は、一生、和也の心の中に俺は住んでいられる。忘れられることはない。孝明はそんなことを考えた。
「今だけでいいから、このまま。お前の匂いを嗅いでたいんだ」
「動物みたい」
 ふふっと和也が可笑しそうに笑う。懐かしい笑い方に、酸っぱいものを飲み込んだような、胸の苦しさを覚えた。
「お前は嫌だろうけれど、三ヶ月待った夢を見させてくれ。頼む……誕生日は、覚えていたよ。あの日、四十本の白いバラの花を注文してた。あと、チョコレートの詰め合わせ。大きな凝った箱の。年末までには食べちゃうんだろうなって考えながら、カードもつけて。……変わりたいとは、思っていたんだ。ただ思っても変わらない毎日を繰り返した。何もしないのと、同じなんだよな。だからお前の誕生日の節目に『やりなおす』って決めてたんだ。……朝、俺があんなこと言わないでいればな。お前を、こんな目に……会わせずに、済んだのかもしれないな。俺は馬鹿だな。よりによって、あの日に最後の引き金を……ひいたんだな」
 孝明の目から音もなく涙が流れる。和也に気づかれないようスーツの袖で拭く。
「なあ、和也。何であんな本、遺書みたいな書き残したんだ?憎くてたまらなかったんだろ?」
 人間は、悲しさが極まっても微笑みを浮かべるらしい。現に孝明は笑っている。和也も。
「過去の、君へ。僕が愛していた頃の君へ。優しくて、不器用で、臆病だった君へ」
 あの頃は幸せだったね、感慨深く和也は遠くを見るような口調で言う。
「さよならしよう?孝明。今度こそ」
 孝明は、左手の力を込める。「苦しいよ」と何故か和也は笑う。眠れる森の王子がやっと目覚めてくれた。孝明は自分でも聴いたことがない声で和也に縋った。
「もうあんなことしない!約束する!だから置いていかないでくれ。もう置いていかれるのは嫌だ!嫌だ!嫌なんだよ!何でもするから。悪いところは直すから。全部直すから!勿論酒は飲まない。急患が入った時以外は定時で帰る。すぐ帰る。すぐ帰る。か、家事も手伝う!だから、だから、…別れるなんて……言わないでくれ……」
 孝明が聞いたことのない静かな声、冷えた温度で和也は言った。
「縋れば僕が許すと思うの?僕の絶対に触れてほしくないことに触れたくせに。それに人間は簡単に変われない。昔みたいに?笑わせないで。一時的なものだよ。すぐまた僕のことを忘れて、お酒飲んで帰ってきて、また家でお酒飲んで、暴れて、殴って、蹴って、髪を掴んで引きずり回して。ああ、僕の左足、後遺症が残るって。軽く引きずるようになるらしいよ。良かったね。街で見かけたら見つけやすいでしょ。大丈夫、訴えたりしないから。餞別の代わり」
 孝明は淡々と言い放つ和也の声に、呆然としながら、ただ孝明は涙を流し続けた。
「ごめん。ごめんな。何をすれば許してくれる?一緒に居てくれる?俺、解んないよ。馬鹿だからわかんねぇよ。でも、本当に、悪いところは直すから。置いて……置いていかないで……置いていかないで……違う。置いていくんじゃない。みんな俺を捨てる。捨てる。捨てるんだ。要らないって。俺を捨てないで。和也、捨てないで。捨て…ないで……」
 消え行く声で孝明は言う。孝明はあのとき、十歳の子供に戻っていた。泣きながら、和也の襟元の下を掴み、和也が話しかけようと『孝明』と穏やかに名前を呼ぶ度に、聴きたくないと言う風に『嫌だ!』と首を振り言葉を遮ることを繰り返す。全てをかなぐり捨てて不様に涙か鼻水か解らないほど顔をグシャグシャにしながら和也にしがみつく孝明を優しい母親のように、和也は髪を撫でて言った。
「……僕たち、随分一緒にいたんだね。二十年か……でもね、きっとすぐ忘れるよ。僕はつまらない人間だし。男だしね。君は僕と違って女性にもてるし、指輪を外したら注目の的だよ」
「和也、本気で言ってるのか?お前以上の奴なんて何処にも居ないよ」
「ここまで飼い主に従順な犬も少ないだろうからね……」
 何も言えなかった。和也は自分を犬だと言った。従うしか能がないただの犬だと。その扱いをしていたのは紛れもない孝明自身なのだと。
「……ねぇ、お願いがあるんだ。キスして欲しい。最後の。もう『守屋和也』と二度と会うことはないと思うから」
「どうして?」
 孝明はぐしょぐしょの顔のまま和也を見る。
「どうしても。ねえ、孝明。して?」
 和也は有無を言わせない。水が欲しいと、花がねだる。和也が病人じゃなかったら押し倒してる。最後になんかしない。そう思いながら、孝明はそっと和也にキスをした。優しく、優しく絡ませた。キスをされながら和也は大粒の涙をこぼし続けた。花が、泣いてる。そう思った。
「ありがとう。最後の思い出だよ。これだけで僕は生きていける。今日はもう帰って。面会時間二十分も過ぎてる」
 俺は力無く頷いた。
「孝明」
 切ない声に振り向く。大学時代と同じ表情の和也がいた。オレンジの光に怯える和也。
「僕は夕陽に捕まってしまったよ。本当に会いたいなら、やり直したいなら、探して。追いかけて。見つけて。どんな僕でもいいなら」
 和也が笑っていた。もう涙はなかった。ただ、あまりにも悲しい笑顔で、痛々しくて和也が『最後』だと言うのに孝明は和也を見れなかった。のろのろと立ち上がり、ドアの取手を掴む。
「あと……」
 最後に和也に見られる顔が涙か鼻水か解らないみっともない泣き顔になるのが嫌で振り向けなかった。これ以上無い優しい声で和也は言う。背中で聴く。
「薔薇、ありがとう。昔話も。シュークリームも。覚えていてくれたんだね。いい香りで目が覚めたよ。毎日毎日バラが増えていって、嬉しかった。嬉しかったんだよ、孝明」
「起きて、たのか?」
 責める気持ちにはならなかった。仮眠をとる度に髪を撫でられる感覚がやはり、和也のものだったんだと言う不思議な安心感があった。ふわりと後ろから抱き締められた感覚を感じる。
「お伽噺なら『さらって逃げて』っていえるけど、現実は違うね。孝明……僕にとってはずっと君だけ。初恋、だった。馬鹿みたいだね、僕。毎日がつらくて、苦しくて、悲しかったのに。あんなに恨んだのに、憎んだのに、死んでほしいとまで思っていたのに何処か君に執着しているんだ。三ヶ月、君が眠る僕にしてくれた幸せな昔話のせいかな。今度こそ、最後だね。面会時間がもう押してる。さよなら、孝明。僕は君に出会えて、幸せだったよ。愛していたよ」
 抱き締められる腕の力が抜けていくのが解る。振り向いて、抱き締める。
「さらって、逃げる。家へ帰ろう?一緒に帰ろう?和也………返事しろよ、和也!」
 孝明は和也ともう二度と会えない気がして、名前を呼び無理やり上を向かせ、口づけた。和也は唇を薄く開いて孝明を受け入れた。何回も、昔のように名前を呼びながら口づける。段々熱く口づけの濃度が増す。和也が苦しげな熱の入った吐息をもらす。口づけの場所は移動して白い首に口づける。和也は笑った。
「孝明の癖は変わらないんだね」
 うなじの匂い。きっと何処かで最後かもしれないと思っている自分がいる。甘い花に赤い印をつけた。きっと、すぐ消える。ずっと残ればいいのに。そうしたら赤い目印がついた花に吸い寄せられる蜂のようにすぐ飛んでいけるのに。透ける頸動脈。背中に回した腕が以前より余り、すっぽりと胸に収まるかなり痩せてしまった和也にどうしようもなく、また泣けてくる。
「もう一度言う。家へ、帰ってきてくれないか?」
 和也は微笑した。
「無理だよ。それは無理だ。追いかけてくるんだ。夕陽みたいに」
「何が?」
「お願い、もうこれ以上訊かないで。きっと軽蔑するよ。……汚ないってね。あと………今の君なら、やり直せるかもしれない。そう思う。もう一度、幸せな生活を送りたい。僕が睡眠障害になった話は多分佐伯くんから聞いたと思う」
「ああ………」
「責めてるんじゃない。君の後悔も知ってる。君が君が出勤した後、僕はいつも君の匂いの染みついた毛布にくるまって寝ていたよ。君に傷つけられることは痛くて、苦しかった。悲しくて、悔しくて。死ぬことばかり考えるようになった。君の死も願った。幸せだった頃を思い出しながら仮眠をとってた。……君を憎んでいたよ。これ以上もなくね。でも同じぐらい愛していたよ。馬鹿みたいだよね。でもだから、あの日まで耐えてこれた。最後に言っておくね、死のうと思ったのは、全てが君のせいという訳じゃないんだ。本当だよ。君は君の幸せを掴んで。さよなら。孝明。愛していたよ」
 次の日、病室は空だった。薔薇も花瓶も全て片付けられていた。昨日のことが、全て夢だったみたいに。覚悟はしていた。それでも、耐えきれず膝から崩れ落ちる。右手には白の薔薇の花束。左手にはチョコレートのシュークリームが入ったスイーツ店のお洒落な紙袋。もしここに和也がいたらどんな顔をするんだろう。
『孝明は無駄遣いのしすぎだよ』
 と少し注意したあと、少し照れ臭そうに、ちょっとだけ嬉しそうに『ありがとう』と言うんだろうな、と思った。和也は自分を置いていったんじゃない。捨てたんじゃない。だって『探して、追いかけて、見つけて』と言っていた。そう思っても苦しくて悲しくて孝明は人目も憚らず、空の病室を前にして泣き続けた。 
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