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《前編》

孝明の場合⑨──触れられる甘美な幻

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 孝明は額に右手を置き、軽く俯く。孝明が流す涙を、和也はハンカチで丁寧に拭き、最後は両手で頬を包み親指で拭う。
「泣かないで。孝明。泣かないでいいから」
 目が凍っちゃうよ?そう言い和也は孝明を抱きしめ言った「……孝明の家、見たい」
   ***
「随分綺麗にしてあるんだね」
 和也は埃のないシンプルな部屋に驚いていた。
「お前にもう一度会った時、恥ずかしい自分でいたくなかった。お前が消えた日から酒は一滴も飲んでない。アルコール依存のケアで佐伯には世話になったよ。依存に効く薬も飲んでる。珈琲は朝だけ。凝ってるのはお茶かなぁ。堅苦しいやつじゃなくてフレーバーティーを試すくらいだな。マイボトルにいれて冷たいミントティー作って持っていってる。手術前に飲むんだ。スッキリする感じが好きで。後で作ってやるよ。あ、リビングはいじったけどお前の部屋は手をつけてないよ。掃除機はかけてる。日曜日とか、非番の日にまとめて掃除と洗濯するんだ」
 和也が元気をなくしていく。そんな和也にタオルを渡す。ふわふわのブルーの今治タオル。孝明は、和也を見つめ、孝明は和也に話しかけながら泣いた。
「お前が今、よぼよぼの家事なんて到底できないおじいさんになっても、俺はお前に居て欲しい。介護のプロの助けを必要としてもここに居て欲しい。しゃがれた声でも『孝明』って、お前の口から聞きたい。お前からもらったレシピノート、ほぼ全部作れるようになったけど、シチューだけがなんか、うまくいかないんだ。まあ旨いけど。お前の味にならない」
 涙の余韻を残し笑う孝明に、和也はタオルを返す。和也お気に入りの青いタオル。和也は「コーンの缶の汁捨ててる?僕は飲んでたけど」と小さく言った。
「……いや、入れてる。あーそうか。缶の汁か。あ、そうなのか……遅くなったけど、誕生日おめでとう。これ、ケーキの代わり。ごめん。プレゼントないし、しょぼくて」
 孝明はスイーツ店の袋からチョコレートシュークリームを取り出す。それと柚子。
「僕が居ないのに……独りでお祝いしてたの?チョコシュー、二つ……これは柚子湯用?」
「ああ。シュークリームは必ずお前の誕生日には買ってきてた。旨いけど二個はきついな。柚子はたまたま。今日冬至だから。何か暖かいの飲むか?ごめんな。寒いのに気が利かなくて」
 暖房の利きを気にしながら孝明は、記憶に、五感に刻み付けるように和也を見つめる。
「しょんぼりしないで。ミルクティー、孝明の作ったミルクティーが飲みたいな」
「俺はストレートの紅茶にしようかな。ちょっと待ってて。和也は甘くする?」
 うん、お願い。和也の声を背中で聴く。暫くして、いい香りがリビングに広がる。和也は借りてきた猫みたいにじっとしてキョロキョロしている。
「はい、ミルクティー。」
 孝明はウェッジウッドの来客用のティーカップを差し出す。昔、二人で選んだ器。
「……僕はお客様なんだね。ここに受け入れてもらえないんだ」
 皮肉っぽく言う和也に孝明は苦しくなる。つい言葉が先走る。
「『客』じゃなくて、帰らないでくれといえば帰らないのか?ここに住んでくれ、一緒にいてくれ、やり直したいと言ったらやり直してくれるのか?無理なんだろ?『僕にとってはずっと君だけ』三年間その夢が幻が支えだった。もう一度会いたい。名前を呼んで欲しい。微笑んで欲しい。夢は叶った。だから、そんな風に言わないでくれ。中途半端な夢は残酷だよ、和也……。なんてな。早く、シュークリーム食べよう。紅茶が冷める」
 和也は痛みをこらえるような顔をして孝明から視線をそらす。シュークリームをかじる。甘い。いつも以上に。窓に目をやるとものすごい雪だった。帰したくない。もっと降ればいい。ただ、そう思った。
「ミルクティー美味しい。僕の一番だよ。お店のよりずっと美味しい」
 柔らかく、さっきのことなんて聴こえなかったように和也は微笑む。
「そうか。良かった」
「孝明は僕が帰ったら寂しくないの?」
「寂しい。ちぎれるほど寂しい。帰したくない。でも、引き留める資格がない。俺にはない」
「どうして?」
「お前を………殺した。病院で、一回心停止した。お前がくれる愛情に甘えて、蔑ろにして、終わりに手を伸ばさせた。許されない」
 和也が軽く息を吐く
「……僕も、許してないよ」
 和也は遠い目をして言った。
「あの頃は酷かったね。思い出したくもない。思い出せない部分もある。つらすぎる記憶は蓋をするらしいよ。昔、佐伯くんが言ってた。ほら、紅茶が冷めるよ。孝明。全然口つけてない」
 紅茶を口に含む。味がしない。苦い。気持ち悪い。淡々と和也が語る。
「ここに僕が住んだら、毎日鳥の唐揚げと蜜柑の寒天を作ってあげるよ。箸はないよ。君は手掴みでたべるんだ。全部食べ終わるまで見ていてあげる。君は、泣きながら食べる僕を見て見ぬふりをしたけどね。胃が痛くなったらタクシーを呼んで夜間救急に連れていってあげるよ。『死にはしない、大丈夫』って優しく声をかけてあげるから」
 微笑みを浮かべる和也は美しかった。傷つきはしなかった。孝明のカップの水面が揺れる。
「あ、副センター長になったんだって?おめでとう。見ている周りが気の毒なほど働いたんでしょ。なんだか惨めだね」
 もう、和也の口から甘い言葉や、弱った言葉が出ることはなかった。
「あと、探偵まで雇ってれたんだね。全部父に買収されたから居場所は解らないはずだよね」
 孝明は、ただ呆然と和也を見た。それから、孝明は俯いて嗤った。
「そうか、探偵まで雇ってたの、ばれてたか。自分じゃ探しきれなくてな。休暇をもらった時とか、見晴らしのいいカフェでお前を探したんだけどな。俺って間抜けだな」
 零れるのは乾いた笑い声だけだった。
「君のことは何でも知ってる。僕も探偵を雇ったから。写真をたくさん撮って貰った。大切に……しまってある。でも、休暇って……身体悪くしたの?」
 孝明には和也が解らない。優しいのか。残酷なのか。本当に心配そうな顔をする。昔、中々寝つけなかった孝明の髪を撫でてくれた時のような優しさを奥にしまったような顔。
「家に帰りたくなくって三ヶ月以上夜間救急に出て、働いて、胃潰瘍。午前の診療の後、血を吐いてな。黒い血だった。汚い色してた。それから倒れて緊急手術したんだよ。くしくも執刀医が院長でさ、休めって。これが本当のドクターストップだよ。笑えるだろ」
 あと……孝明は言葉を繋げる。
「俺、胃が悪いんだ。まあ多分見た感じ、また胃潰瘍だな。これでいいか、和也。これでお前は楽になるか?ちゃんと、ずっと苦しむからさ。後、お願いがあるんだ……明日また家に来てくれないか?唐揚げと寒天食うから。ちゃんとシンクの横の台で手掴みで食うよ。約束する。ちゃんと『罰』を味わってから死ぬよ……それと、お願いがあるんだ」
「何でもきくよ」
 和也は右手で目を覆って頷く。細い指の間から涙が零れていた。
「少しの間『恋人のふり』をして欲しい。好きな奴、いるんだろ?  目が誰かを想ってる目だ。俺にも、解るよ。そいつには悪いけど、少しの間でいいから。甘えさせてくれ。幸せな思い出が欲しい、昔みたいな」
「少しの間じゃ嫌だよ。ずっと一緒にいる。ずっと一緒にいようって約束したじゃないか!指輪をくれた時に孝明は言ったよ!『ずっと一緒にいようって』」
「ずっといてくれるのか。嬉しいなあ」
 心から笑ったのは久し振りだった。何故か和也のティーカップを持つ指が震えてた。カチャカチャと音がない部屋に響く。和也の顔色は蒼白だった。ああ、和也は冷え症だったな。寒いんだと思い出し、エアコンの温度をあげる。
「和也、どうした寒いんだろ。エアコンの温度あげたから」
 和也はじっと孝明を見ていた。表情を凍らせている。孝明は疑問だった。喜ぶと思ったのに。『恋人のふり』というのがいけなかったのかもしれない。ぼんやり二十九度設定の部屋で孝明は考えていた。窓の外は雪が斜めに降っている。あの頃ガラスの灰皿を投げつけてテレビを壊してから家にテレビはないがタブレット端末はある。PCとDVDも。あとベッドルームにオーディオセット。和也はスマートフォンで誰かにメールを誰かに打っていた。尋ねると「弁護士さん」とだけ言った。孝明の窓の外を見やることに気づいたのか、和也もつられて窓の外を見る。
「雪、ひどいね。泊まっていって良い?あと………」
「あと、何だ?」
「……ここに住んでいい?」
「嫌じゃないのか?ここテレビ無いし。それに……急に病院の時みたいに消えてしまうんじゃないか?それが怖い。あれから、必死だった。やっと見つけた」
「あの家とは法的にも縁を切った。あと、近くに、本屋もあるし、僕も麻酔医に復帰しようかな。勉強しなきゃ。親を殺した医者なんて医者じゃないけど」
「………ごめん」
「何が?」
「早く、お前を見つけていればな」
「気にしないで。決めたのは僕なんだから。それにあのひとが死ななきゃ、終わらなかった」
 綺麗な花だ。でも、花の香りに毒を感じる。自衛の為に花は毒を持った。生きるために。
「お前に優しくされると……つらい…カップ洗ってくる。風呂は沸いてる。柚子、切れ目いれるから、貸してくれ」
 キッチンにたつ。和也はテーブルの上の柚子を孝明に手渡し、手元を覗き込む。
「包丁上手いね」
「一応切るのは本業だからな。裁縫も得意なんだ。まぁそっちも本業だけどな。うん、上出来。良い匂いだな。パジャマとか、俺ので我慢してくれ。下着類は明日買ってこよう」
「ねぇ、孝明」
「何だ?」
「一緒にお風呂入らない?」
 昔の記憶が甦る。良く風呂に一緒に入ってじゃれあった。口づけあって触れ合った。お互いに声を殺して抱き合ったりした時もあった。和也の洩れる吐息に、より興奮を覚えた。思い出すだけで体が熱くなりそうだった。
「遠慮する。疲れてるんだ」
「来年の冬至なんて解らないじゃない。だめ?」
 滅多に和也は『だめ?』と訊かない。訊くときはどうしても、願いをきいて欲しいとき。今の和也は、それを知っていて言っている。少し寂しそうな上目使いに断れない。「カップを拭いたら行く」と言い、孝明は和也から目を逸らした 
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