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《前編》

孝明の場合⑩──和也が怯える理由

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 和也は孝明の身体の上で乳白色のバスに浸かりながらずっと柚子の匂いをかいでいた。
「良い匂い。それに久しぶりだ、孝明の匂い。シトラスみたいな爽やかな香り。柚子に似てる」
 『恋人のふり』のお情けだ。抱くわけにも、名前も知らない恋人に嫉妬するわけにもいかない。逢えた。十分だ。高望みするなと自分に言い聞かせる。もう切れた糸だ。しかも、切ったのは孝明自身だ。
「のぼせそうだ。先あがるぞ」
「わかった。ああ、もう孝明、背中全然拭けてない。ほら、タオル貸して」
背中を拭かれる感触が懐かしい。
「完了!」
 にっこりと、和也が笑う声を後ろに聴く。触れたい気持ちを抑え、
「ありがとな」
 とだけ言った。その夜一緒のベッドで寝た。けれど音を立てず、夜中抜け出しリビングのソファで眠った。声を殺して孝明は泣いた。幸せになりたい。和也と二人で仲良く年をとりたい。まだ、二人でやり残したことが、山ほど……。でも、次の日、笑顔で孝明を見送る和也を見れなかった。帰ったら、唐揚げと寒天が待っている。報いは報いだ。返ってくる。和也にしたことは紛れもないただの暴力だ。許されない。許してはいけない。なのに、和也とやり直したい自分がいる。愛しているんだよ。探していたんだよ。謝りたかったよ。
ソファに移る前、そっと和也の指に触れた。柔らかくて温かかった。花の、匂いがした。
   ***
 地下鉄に揺られて帰る。スリッパの音を響かせ「おかえり」と笑う和也の顔。唐揚げと寒天……手先がすうっと冷えていく。カタカタと震えがくる。気持ちが悪い。胃が痛い。
「食べてみて」
 きれいな器に盛られた唐揚げが三個。硝子の綺麗な皿に型抜きされた寒天が、一つ。ちゃんと食べるはずだったのに記憶がフラッシュバックする。

──裸足で追いかけた、何処へ行ったかも解らない母。顔も思い出せない母。砂利道の硝子が刺さった踵。泣きながら叫ぶ自分の声。『痛いよぅ、お母さん。俺を置いていかないで。捨てないで』ボロボロの雨漏りをさせていたアパート。下水臭いアパート。待ってるのは酒をのみ、暴力を振るう父──

「嫌だ、嫌だ、嫌だ、和也。それだけは食べられない!」
 孝明はテーブルを見て後退る。和也はきっと冷たい声で『食べて』と言うんだと思っていた。けれど、半泣きで、
「お願いだよ。一口でいいから食べてみて」
 と言う。ちゃんと箸とスプーンもあった。俺は涙で瞳を潤ませながら唐揚げを一口食べる。さっぱりして美味しかった。全然油っぽくない。レモンもかかっていないのに。
「生姜ベースの竜田揚げ……?」
「あたり!これなら食べられるかなって色々試したんだ。あっさりしてるのは胸肉より脂が少ない『ささ身』だから」
 美味しい。初めて唐揚げを美味しいと認識できた。きっとやさしく和也が手をかけ作ってくれて、あの頃のように笑うから。なのにキリキリ胃が痛む。孝明は胃が痛むのを悟られないよう、寒天に手を伸ばす。昔自分が食べてきたものとは全く違う、溶けるようなとても美味しいものだった。
「缶詰の中身はそのまま。ゼリー寄せにしたんだ。美味しい?唐揚げと寒天が『美味しい』ものだって、思って欲しい。悲しい記憶は消せない。でも、『僕』のなら、食べれるでしょ?」
「ああ……あと何個食べればいいんだ?」
「ん?終わり。」
「そっか。……話の途中で悪い。トイレ」
 それからすぐ、胃に猛烈な痛みが走った。トイレで全部吐いた。血が少し混じってた。やっぱり胃潰瘍か。治ったと思っていたのに。孝明はトイレで吐きながら意識を失った。遠くで『嫌だ。嫌だよ、孝明、孝明!』と和也の泣き叫ぶ声が聴こえた。
   ***
 白い病室で、和也がベッドに突っ伏して泣いている。広い病室。もう一人静かに和也を前にして怒りで震えてるのは佐伯だった。和也は咄嗟に孝明のスマートフォンで『佐伯光宏』に電話をかけた。そして、今。検査も終わり、結果も出た。
「……昨日は意地悪を言ってみただけなんだ。それに『僕の作る』唐揚げと寒天は美味しいって、思って欲しかっただけなんだ。そんなに仕事が続いていて、昨日も心臓の手術で疲れてて、最近ご飯もろくに食べてないなんて知らなかったんだ」
 半泣きになりながら和也は言った。
「解ってる。記憶のアップデートをしたかったんだろ?けどな、こいつの唐揚げ嫌いはPTSDに近いものがある、難しいものなんだ。俺が腹を立てているのは、胃カメラの写真だよ。胃潰瘍、あまり良くない……下手したら腹膜炎になる。消化器内科の部長から訊いた。いつも、いつもこの距離だ。いくら手を伸ばしても届かない。まあ、こいつは俺の手はとらない。まずこの前の再検査の検査結果が胃潰瘍だってことも、話してもくれなかった!こいつは俺の事を『友達だ』っていうけど、本当はただの『便利屋』として自分が必要な時頼るだけ。所詮俺はお前の『おまけ』か、お前がいない寂しさを埋める『代わり』でしかない!……まあ、いい。ずっとお前を探してここまできた。お前の傷は深すぎるほどだと思う。でも、こいつも誠実さで答えようとした努力を認めてやって欲しい」
 佐伯が右手を爪が食い込むほど握りしめたのが見えた。
「で、いつ手術だ。」
「……手術はしないって。ちゃんと苦しむって……」
「罪滅ぼしのつもりか孝明。………和也、お前はそれを望んでいるのか?」
「望んでなんかない!幸せになりたい!」
 佐伯は孝明のベッドを乱暴に蹴り、言い放った。冷えた怒りがゆらゆら揺れる。
「贖罪のつもりか。孝明。和也への。どうしようもないバカだな。和也、このクソバカに言っとけ。自分ではどうしようもないことを……もう謝ることも出来ない相手から一生許してもらえないことを後悔しながら、生きることが一番辛いってな。簡単に死ぬな。自殺しようなんて考えるな。死ぬときは絶望の底の底を見てから死ねってな」
「佐伯くん……辛いことがあったの?」
 それには答えず佐伯は吐き捨てるように言った。一つ大きなため息をつき、孝明に言った。
「目を覚ませ。孝明。お前が目を覚ますのを、待ってる人がいるんだ」
 手術し、切った胃も再形成し、挙げ句「君が居ないのは痛いが──」と休暇までもらうことになった。
 毎日起きると朝食の匂い。白米が炊ける甘い優しい匂い。どうして、当たり前と思うようになったんだろう。かけがえのない、幸せだったのに。
「おはよ」
「孝明。起こしちゃった?ゆっくりしてていいんだよ?孝明には朝御飯に韮と玉子の雑炊作ってあげるね。ねぇ、今日は何する?」
 孝明はしゃもじで鍋をかき混ぜる和也を昔みたいに後ろから抱き締めた。
「あぶないから、ほら。孝明どうしたの」
「新婚さんみたいだなって。幸せなんだ。今お前がここにいてくれることが、嬉しいんだ」
『今日は何する?』
 それが毎日の決まり文句。休暇は残すところは後二週間しかない。その日、昼は買い物。それから流行りの映画を見て、帰ってきた。
「楽しかったか?」
「うん。今日の夕飯、あったかいとろろ蕎麦でいい?良く噛んでたべて。まだ本調子じゃないんだから。デザートは林檎、孝明のはウサギにしてあげるね」
「俺、つくろうか?」
 もう、極端に難易度が高いもの以外は大抵作れるようになっていた。
「僕の楽しみをとらないで」
 そう言い、和也は孝明の頬に口づける。上機嫌で夕飯の支度をする和也が愛しい。毎日の美味しい夕飯。愉しい時間。和也が風呂に入っている間、食器を洗っていた。終わったら水回りの軽い掃除。暫くすると湯上がりでホカホカと湯気をたてた和也がキッチンへやってきた。
「お風呂上がったよ。気持ちよかった」
「そうか。俺も入ってくる」
 風呂に入りまだ暖かいまま同じベッドに潜る。後ろを向いた和也が小さい声で話しかける。
「あのさ、言いづらいこと、言わせて」
 一瞬身構える孝明の懐にコロンと寝返りをうって収まり、和也は孝明を大きな瞳で見つめる。
「ねぇ、どうして、僕に触れてくれないの?」
「……散々お前に暴力をふるって…殴って…蹴って……きっと嫌なことばかり思い出すよ。だからやめておきたい」
「僕は、僕は触れてほしいよ。昔みたいに君の胸の中で安心して眠りたい。孝明、僕を抱いてよ。お願い」
 じっと孝明を見つめる真剣な大きな瞳。この瞳に拒否権はない。孝明は頷くしかなかった。
その夜、孝明は和也を抱いた。優しく傷つけないように。足には触れないように。白い肌、華奢な骨格。時間を止めたように和也の身体は若い。情事特有のため息。酸素があるのに溺れているように見える。人工呼吸のように、交わす口づけ。薄暗がりに浮かぶ赤い唇。与える快楽に喘ぐ声。 
「和也。好きだ」
「もう一回、言って」
「和也、和也、好きだ。ずっと探してた。忘れた日は、なかった。和也──」
 口づけを交わす。うっとりと薄目を開ける和也は触れたら壊れてしまいそうだった。それから孝明は仕事に復帰するまでの殆どの時間をベッドの中で過ごした。会いたかった、会えなかった年月を埋めるように。
 仕事に復帰しても変わらない。パタパタとスリッパの音をさせ和也は笑い、夜の献立を言う。
「おかえり。寒かったでしょ。もうすぐお夕飯できるよ。手洗い忘れないで。ズッキーニとベーコンのペペロンチーノ。辛味はほんの少しだよ」
 胃の事を気づかってくれているのがわかる。食器は孝明が洗い、和也が拭いて食器戸棚にしまう。それから一緒に風呂に入り、じゃれあい、キスをし、ベッドで毎晩、和也を抱いた。異変は二人で暮らした丁度和也が現れて三ヶ月目。いつものようにインターホンをならしても、応答がない。嫌な予感がして、鍵を開けると真っ暗だった。甦るのは三年前。孝明は大声をだして和也の名前を呼びながら一心不乱に家中の電気をつけ、和也を探した。また、消えてしまった。どうして?答えは一つ。本当は嫌いだったから。全て演技だった。それでも幸せだったんだと孝明は暗闇の中蹲り泣き叫ぶ。お前が何より好きだった。そうお前も幸せだって言っていたじゃないか。さらわれた?オートロックの七階。無理だ。自分で出ていった。どうして。
「和也、和也、和也!どうして、どうして、どうして」
 和也の名前を叫び。喉が痛い。心臓の辺りが引きちぎられるように痛い。また探すのか。そんな折、佐伯から電話が来た。和也から電話があった、ということだった。今、一緒だという。
迎えに行くと佐伯の車の後部座席で怯えた顔の和也と医者の顔の佐伯がいた。和也は、孝明を見て泣きながら叫んだ。
「僕を、そんな目で見ないで!人殺しなんて言わないで──!」
 行き交う人々を一瞥し孝明は和也を自分の車にのせる。佐伯からは少ししてメールで「薬が切れて随分たったって電話が来た。と言っても簡単に渡せるものではないから病院で診察をして薬を出した。あくまでも応急処置だ。お薬手帳もない。前の病院のカルテも欲しい」孝明は「解った」と言った。ただ、守りたい。もう間違わないように。引き金を引いたのは、孝明自身だ。和也が再び姿を表して、三ヶ月経った。いつも何かに怯えながら、怖いと言い和也は泣く。
 孝明は当直室で、貧乏ゆすりをしながらこの全ての三ヶ月のことを考えていた。幸せな時間もあった。まだ寒い海も見に行った。砂浜に足をとられ転びそうになった和也を庇い、孝明が足をとられて転んだこともあった。仰向けになった孝明は、髪を砂だらけにしながら和也を抱き締めた。波の音に溶けるくらいの幸せを味わった。なあ、和也。俺ではお前の苦しみは癒せないのか?これが俺の罰なのか?孝明に無力感が襲う。
 今は和也は佐伯に診てもらっている。孝明は自分のあまりに役に立たなさが悔しかった。佐伯に薬の管理の仕方などを教わる。
「あまり薬は増やしたくないが陽性症状が強い。幻聴、幻覚は余りにつらいから向精神薬と抗不安薬と薬の副作用を抑える薬だ。少しだけ多くなった」
 薬が効いているせいか表情がぼんやりして、呂律があまり回らないが、何もない影に怯えることや、いきなり泣き叫ぶことは少なくなった。だるそうだが、料理を作ることは好きで、孝明をいつも柔らかい表情で出迎える。いつ壊れてしまいそうかわからない、砂の城。佐伯は、
「この病気は必ず好転する。職場に戻る人もいる。焦るな。今の和也を許容しろ。病気なんだよ。和也のせいでも、お前のせいでもない。何らかの強いストレスだな。和也は俺に症状の話しかしないからな。まあ、俺は医者だから、正しい状態、それがわかればいい。お前たちのプライベートには踏み込まない。これがお前の望みだろ、孝明」
と、言い孝明から目を背け、オレンジジュースを飲んだ。
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