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《後編》
佐伯の場合②──明かりを灯すひと
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暫くして、夕食も取り、八時だった。ノックの音がした。佐伯は些か不機嫌に
「入れよ。まだ起きてる」
と言う。ノックの音で解る。足音で解る。そんな自分が嫌だった。
飛び降りた本当の理由を知るのは目の前の男だけ。もうあの時はどうでも良かったはずなのに。今更気にする自分自身に呆れる。
「なあ、孝明。何で手術なんてしたんだ?俺は消えてしまいたかった。これで解放されるっていう喜びさえ感じたよ。俺はいっそ全部忘れたかったね、全部!自分自身も、もちろんお前も!何もかも必要ないんだ。みんな要らないんだよ!」
子供じみている。十分解っていた。ただ、どうしても欲しかった。一度だけでいい、孝明の特別になりたかった。それだけだ。孝明は、俯いて立ち尽くすだけだった。
「………俺はただの『便利屋』だった。和也がいなくなった間のな」
こいつは優しい。こいつは人の寂しさを嗅ぎ分ける。大学二年の時、両親が事故で死んで、独りが本当につらいとき、ずっと隣にいたのは孝明だけだった。全てを投げ打って記憶に残ろうとした憐れな男に困惑と同情いう大きな二文字を浮かべ、ただ純粋に心配する。何故なら佐伯が孝明の『特別』ではないから。飛び降りたのが和也だったら半狂乱になって半分おかしくなっているはずだ。沈黙に耐えかねたのか、孝明は佐伯に声をかける。
「佐伯……」
「お前のその目、大嫌いだ。『可哀想に可哀想に』って口だけの奴と同じだ。とっとと出てけよ。身体が戻ったらきちんと仕事はこなす」
「院長が、休みをとれって。お前働きすぎだって」
「仕事は仕事だ。休みはいらない。同情ならごめんだね。なあ孝明。俺の気持ちに気づいていても『親友』って中々の残酷さだな。俺だって諦めたかった。けれど、その度にお前は俺に甘える!知りながらとは悪趣味としか言いようがないな。知ってたならとっとと振れよ。お前に和也は捨てられないだろ。泣きそうな顔して震えるなら悪いと思うなら謝れよ!俺は一生お前を許さないけどな!」
「さ、佐伯…ごめん。そんなつもりじゃ……なかっ………」
好きになる相手を間違えた。引き返すところを間違えた。友達になる相手を間違えた。
触れたいと想う相手を間違えた。早く自分で気持ちのピリオドをうつべきだった。『親友』でいたい『恋人』のように優しくされたい……一番狡いのは、自分だ。
やるせなくて、手元にあるものを片っ端から思い切り孝明めがけて投げつける。最後に手元に残ったのは、投げつけられなかったものは、孝明から貰ったがま口の煙草ケース。自分の血のシミが汚い。大切にしてきた。和也は煙草を吸わないから、佐伯と孝明だけしか持っていない。そんな小さなことが嬉しかった。
『「無事帰る」にかけた。お前運転するし。色違いで俺も買った』
帰ってきたくなんてなかった。手術なんて望んでいない。あのまま死にたかった。こんなの、惨めすぎる。煙草ケースを握りしめる。涙が込み上げてきた。
「でてけよ!孝明!お前の顔なんて見たくもない!出ていけ!出ていけ!出ていけ!!」
切なそうな顔をして孝明が部屋を去る。一言、小さく、振り返る。
「ごめんな。お前を選べなくて。でも本当に俺はお前のこと大切に………」
「もう、いい。もう、いいよ………」
ただ、虚しい。涙が止まらない。自分でも、もて余してしまう自分を、抱きしめて欲しかった。
ただ、見つめるだけの想いだった。孝明は陽気だけど、何処かいつも寂しそうだった。見せてくれた色々な表情に、焦がれた。身体の力が抜けていく。ただ、疲れたんだと思った。全て。想うことも。叶わないのに、叶わないからと駄々をこねる子供のような自分にも。佐伯は小さく、
「何年無駄にしたのかなあ」
と言い乾いた笑い声をあげた。心に穴が開いて、何も残ってなかった。
「そうだ、煙草を吸いにいこうと思ったんだ」
可愛い汚れたがま口に似合わないピースが二本。ライターはある。車イスは不便だな、と思った。走馬灯のようによぎったものはニッコウキスゲだった。『先輩』と笑う顔を思い出す前に、エレベーターの開く電子音がした。どんどん上昇し、点灯する『R』
今夜は気持ちがいい。肌寒いが、晴れやかだ。風もない。先客がいる、目を凝らすと相模だった。眼鏡を忘れた。どうでもいいことだ。相模は俯き煙草を吸っていた。佐伯を見るなり、煙草を消して、しがみついて、わっと泣き出した。
「先輩、ごめんなさい!僕、見ちゃったんです。全部、全部見ちゃったんです。わざとじゃないんです。本当にごめんなさい!」
何かは、すぐ解る。俺は微笑む。
「泣かなくていい。もういいから、ゆっくり煙草を吸わせてくれるか、相模」
佐伯は本当に美味しそうに煙草を吸う。
「一人で夜景が見たいんだ。独りにしてくれるか?」
「しません!やっと会えたのに。僕、すごく嬉しかったんですよ?なのに、独りになんてしたらきっと先輩、飛び降りるんでしょう?今度こそ。やっと、やっと目を見て、話をして、触れることが出来るようになったのに!それに医師の立場から言わせてもらえれば今の先輩は物凄く不安定です。あと、伝言です」
そう言い、涙目の相模は佐伯をみつめた。ポケットからスマートフォン。
『生きていてくれてありがとう。俺を覚えていてくれてありがとう。俺はお前の笑った顔が好きだった。こんな言葉、お前は要らないと言うかもしれないけれど。肩を貸してくれてありがとう。でも、俺はお前以外誰にも肩を借りたことはない。お前だけだ。和也にもない。今度家に遊びに来てくれ。相模くんも一緒に。手料理を振る舞わせてほしい。最後に、お前を苦しめてすまなかった』
伝言を聞き佐伯は俯いた。それから目を擦ったあと佐伯に相模は頭を下げた。
「覗いてしまって、やり取りを……見てしまったあと副センター長と、ドアの所で鉢合わせして『早く屋上へ行ってくれ。あいつ空っぽだ。俺じゃあいつを救えない。傷つけることしか出来ない。相模くん、君がひき止めてくれ。頼む』そう言い副センター長は僕に頭を下げました。そして、音声メモを取りました」
「そうか…………」
佐伯は静かに目を閉じる。あいつとの思い出。どれだけ飲んだだろうな、オレンジジュース。あいつの話を聴きながら。溶けるのと競争のアイスクリーム。唇の端についたクリームに口づけたいと思った。七十五点のワッフル。精神科の部長になったとき半分にしてくれた。自分を見ることはないと、つらかった冷凍蜜柑。食べ物ばっかりのあいつとの思い出。良いことも、嫌なこともあったはずなのに、今は『佐伯』と名前を呼びながら笑う顔しか浮かばない。涙が出る。夜景が滲む。きらきら綺麗だと思った。あの時には解らなかった。あの時も泣いていたはずなのに。
「百点のワッフルを奢ってもらわなきゃなぁ」
つぐんた糸が少しづつほどけていく。ああ、やっと終わった………。
前屈みの背中をさすり続けてくれる相模の手が優しい。煙をゆっくり吸って吐く。煙草を消す。吐いた煙の余韻が残る。夜の空気が季節外れに凍みるように寒い。くしゃみをすると、相模は手早く白衣を脱いで佐伯の肩にかけた。寒くないはずはないのに。
「ありがとう。でもいいよ。」
孝明に貸したからわかる。あの日は凍える寒さだったな。佐伯は柔らかく微笑って首を振る。
相模は綺麗に佐伯に白衣をかけ直す。
「いいんです。暖かいですか?僕、体温高いから寒くないですから着ていてください。沢山泣いて下さい。副センター長と百点のワッフル食べたら、あの、僕と、二百点のクレープ食べに行きませんか?」
後ろから慰めるように相模が腕を回す。真剣さを隠して笑う相模が可愛らしいと思った。
「ありがとう」
「僕にですか?副センター長にですか?」
「全部、全部だ」
佐伯は下を向く。目元に自然と手が行く。
「帰りますか。寒くないですか?」
首を縦に振るだけで、精一杯だった
***
四階の窓にストッパーがある個室に戻る。相模が車イスを押してくれた。戻ることは考えてなかった白い部屋。
「先輩。おやすみなさい」
相模は、佐伯をベッドに横たえて言った。介護の資格も持ってるとエレベーターの中で自慢気に言っていた。孝明に投げつけたものが、綺麗に戻してあった。孝明、だ。もう、考えないと決めたのに………。佐伯は静かに相模に話しかけた。
「………少し、ここにいてくれないか。寝つくまで。頼む」
「追い出されるかと、思ってました」
「そんなことしないよ」
段々と元の自分にリカバリーされていくのが解る。相模には、優しく接したかった。変わらない相模。素直な相模。そう思ううちに、誰彼構わず傷つけたいと言う『嗜虐』や誰も信じない、信じられないという『不信』が、消えていくのが解る。
ベッドサイドの間接照明だけが二人を照らし、相模は暖かい指先で佐伯の髪を撫でる。
「すまない。なかなか寝付けなくて。もう、看護ステーションへ行け。暇じゃないだろう?」
「でも………」
「じゃあ、おやすみのキスをくれ。なんて……」
額に触れる柔らかな髪の毛。降りてきた、やさしいくすぐったいキス。きっと相模は与えられるキスばかり経験してきたのだろう。
「可愛いキスだな。相模」
佐伯は軽くからかうつもりでそう言ったのに、相模は真っ赤な顔をして、涙目になった。
「すまない、相模。ただお前が何だか……可愛くて……すまない。あと、俺なんかよしておけ。こんな、奴より……もっといい相手がいるだろう」
「俺は先輩が好きなんです。先輩とキスがしたい。教えて下さい。上手になったら………デートして下さい」
「相模、目を瞑れ」
佐伯は身体を起こし、相模に口づけた。薄く開いた相模のやわらかな唇を食むように合わせて優しく絡ませると、腕が弛緩して首に回された相模の腕の力が抜ける。相模は体温が高いせいか口の中の温度も高かった。甘い喘ぎのような息継ぎをする相模に佐伯はリードして感覚を教えるつもりが、いつの間にか瞑られた瞳にびっしりと生え揃う長い睫毛に見とれる自分がいた。ただ欲のまま、相模の唇を犯すように夢中になって口づけた。スッキリとした匂いのシャンプーと相模の淡く甘いシトラスを思わせる匂い。交じる二つの匂いに軽い興奮を覚えた。唇を離すと、幸せな夢から醒めたような悲しい顔をした相模がいた。髪も昔のまま。天使の髪。
「何年かかっても無理そうですね。先輩……僕は、僕では駄目ですか?」
「駄目なはずがないよ。今日は、ありがとう。髪、ふわふわだな。天使の巻き髪だ」
キスくらいで正気を失ったのは、久しぶりだ……小さく言った。聴こえないように。
「相模。怪我がなおったら、デートに行こう。水族館辺りはどうだ?月並みでいいだろ?」
「先輩!僕、お寿司好きなんです!夕飯はお寿司食べに行きませんか?先輩は、好きですか?」
明るく嬉しそうに相模は涙を滲ませながら言った。
「どうして、泣くんだ?」
「嬉しくて。嬉しいんですよ。やっぱりいつもの先輩がいい……」
「………さっきまでの俺は、やっぱり嫌だよな」
「い、嫌ではないです。先輩は先輩。全部先輩だから。でも、さっきは先輩自身がつらそうだったし、驚いて………ちょっとだけ悲しかった、だけです」
「お前が好きだよ。相模…………お前は変わらないな……全然変わらないな」
佐伯は相模を見つめ静かに、少しだけ淋しく微笑んだ。
「入れよ。まだ起きてる」
と言う。ノックの音で解る。足音で解る。そんな自分が嫌だった。
飛び降りた本当の理由を知るのは目の前の男だけ。もうあの時はどうでも良かったはずなのに。今更気にする自分自身に呆れる。
「なあ、孝明。何で手術なんてしたんだ?俺は消えてしまいたかった。これで解放されるっていう喜びさえ感じたよ。俺はいっそ全部忘れたかったね、全部!自分自身も、もちろんお前も!何もかも必要ないんだ。みんな要らないんだよ!」
子供じみている。十分解っていた。ただ、どうしても欲しかった。一度だけでいい、孝明の特別になりたかった。それだけだ。孝明は、俯いて立ち尽くすだけだった。
「………俺はただの『便利屋』だった。和也がいなくなった間のな」
こいつは優しい。こいつは人の寂しさを嗅ぎ分ける。大学二年の時、両親が事故で死んで、独りが本当につらいとき、ずっと隣にいたのは孝明だけだった。全てを投げ打って記憶に残ろうとした憐れな男に困惑と同情いう大きな二文字を浮かべ、ただ純粋に心配する。何故なら佐伯が孝明の『特別』ではないから。飛び降りたのが和也だったら半狂乱になって半分おかしくなっているはずだ。沈黙に耐えかねたのか、孝明は佐伯に声をかける。
「佐伯……」
「お前のその目、大嫌いだ。『可哀想に可哀想に』って口だけの奴と同じだ。とっとと出てけよ。身体が戻ったらきちんと仕事はこなす」
「院長が、休みをとれって。お前働きすぎだって」
「仕事は仕事だ。休みはいらない。同情ならごめんだね。なあ孝明。俺の気持ちに気づいていても『親友』って中々の残酷さだな。俺だって諦めたかった。けれど、その度にお前は俺に甘える!知りながらとは悪趣味としか言いようがないな。知ってたならとっとと振れよ。お前に和也は捨てられないだろ。泣きそうな顔して震えるなら悪いと思うなら謝れよ!俺は一生お前を許さないけどな!」
「さ、佐伯…ごめん。そんなつもりじゃ……なかっ………」
好きになる相手を間違えた。引き返すところを間違えた。友達になる相手を間違えた。
触れたいと想う相手を間違えた。早く自分で気持ちのピリオドをうつべきだった。『親友』でいたい『恋人』のように優しくされたい……一番狡いのは、自分だ。
やるせなくて、手元にあるものを片っ端から思い切り孝明めがけて投げつける。最後に手元に残ったのは、投げつけられなかったものは、孝明から貰ったがま口の煙草ケース。自分の血のシミが汚い。大切にしてきた。和也は煙草を吸わないから、佐伯と孝明だけしか持っていない。そんな小さなことが嬉しかった。
『「無事帰る」にかけた。お前運転するし。色違いで俺も買った』
帰ってきたくなんてなかった。手術なんて望んでいない。あのまま死にたかった。こんなの、惨めすぎる。煙草ケースを握りしめる。涙が込み上げてきた。
「でてけよ!孝明!お前の顔なんて見たくもない!出ていけ!出ていけ!出ていけ!!」
切なそうな顔をして孝明が部屋を去る。一言、小さく、振り返る。
「ごめんな。お前を選べなくて。でも本当に俺はお前のこと大切に………」
「もう、いい。もう、いいよ………」
ただ、虚しい。涙が止まらない。自分でも、もて余してしまう自分を、抱きしめて欲しかった。
ただ、見つめるだけの想いだった。孝明は陽気だけど、何処かいつも寂しそうだった。見せてくれた色々な表情に、焦がれた。身体の力が抜けていく。ただ、疲れたんだと思った。全て。想うことも。叶わないのに、叶わないからと駄々をこねる子供のような自分にも。佐伯は小さく、
「何年無駄にしたのかなあ」
と言い乾いた笑い声をあげた。心に穴が開いて、何も残ってなかった。
「そうだ、煙草を吸いにいこうと思ったんだ」
可愛い汚れたがま口に似合わないピースが二本。ライターはある。車イスは不便だな、と思った。走馬灯のようによぎったものはニッコウキスゲだった。『先輩』と笑う顔を思い出す前に、エレベーターの開く電子音がした。どんどん上昇し、点灯する『R』
今夜は気持ちがいい。肌寒いが、晴れやかだ。風もない。先客がいる、目を凝らすと相模だった。眼鏡を忘れた。どうでもいいことだ。相模は俯き煙草を吸っていた。佐伯を見るなり、煙草を消して、しがみついて、わっと泣き出した。
「先輩、ごめんなさい!僕、見ちゃったんです。全部、全部見ちゃったんです。わざとじゃないんです。本当にごめんなさい!」
何かは、すぐ解る。俺は微笑む。
「泣かなくていい。もういいから、ゆっくり煙草を吸わせてくれるか、相模」
佐伯は本当に美味しそうに煙草を吸う。
「一人で夜景が見たいんだ。独りにしてくれるか?」
「しません!やっと会えたのに。僕、すごく嬉しかったんですよ?なのに、独りになんてしたらきっと先輩、飛び降りるんでしょう?今度こそ。やっと、やっと目を見て、話をして、触れることが出来るようになったのに!それに医師の立場から言わせてもらえれば今の先輩は物凄く不安定です。あと、伝言です」
そう言い、涙目の相模は佐伯をみつめた。ポケットからスマートフォン。
『生きていてくれてありがとう。俺を覚えていてくれてありがとう。俺はお前の笑った顔が好きだった。こんな言葉、お前は要らないと言うかもしれないけれど。肩を貸してくれてありがとう。でも、俺はお前以外誰にも肩を借りたことはない。お前だけだ。和也にもない。今度家に遊びに来てくれ。相模くんも一緒に。手料理を振る舞わせてほしい。最後に、お前を苦しめてすまなかった』
伝言を聞き佐伯は俯いた。それから目を擦ったあと佐伯に相模は頭を下げた。
「覗いてしまって、やり取りを……見てしまったあと副センター長と、ドアの所で鉢合わせして『早く屋上へ行ってくれ。あいつ空っぽだ。俺じゃあいつを救えない。傷つけることしか出来ない。相模くん、君がひき止めてくれ。頼む』そう言い副センター長は僕に頭を下げました。そして、音声メモを取りました」
「そうか…………」
佐伯は静かに目を閉じる。あいつとの思い出。どれだけ飲んだだろうな、オレンジジュース。あいつの話を聴きながら。溶けるのと競争のアイスクリーム。唇の端についたクリームに口づけたいと思った。七十五点のワッフル。精神科の部長になったとき半分にしてくれた。自分を見ることはないと、つらかった冷凍蜜柑。食べ物ばっかりのあいつとの思い出。良いことも、嫌なこともあったはずなのに、今は『佐伯』と名前を呼びながら笑う顔しか浮かばない。涙が出る。夜景が滲む。きらきら綺麗だと思った。あの時には解らなかった。あの時も泣いていたはずなのに。
「百点のワッフルを奢ってもらわなきゃなぁ」
つぐんた糸が少しづつほどけていく。ああ、やっと終わった………。
前屈みの背中をさすり続けてくれる相模の手が優しい。煙をゆっくり吸って吐く。煙草を消す。吐いた煙の余韻が残る。夜の空気が季節外れに凍みるように寒い。くしゃみをすると、相模は手早く白衣を脱いで佐伯の肩にかけた。寒くないはずはないのに。
「ありがとう。でもいいよ。」
孝明に貸したからわかる。あの日は凍える寒さだったな。佐伯は柔らかく微笑って首を振る。
相模は綺麗に佐伯に白衣をかけ直す。
「いいんです。暖かいですか?僕、体温高いから寒くないですから着ていてください。沢山泣いて下さい。副センター長と百点のワッフル食べたら、あの、僕と、二百点のクレープ食べに行きませんか?」
後ろから慰めるように相模が腕を回す。真剣さを隠して笑う相模が可愛らしいと思った。
「ありがとう」
「僕にですか?副センター長にですか?」
「全部、全部だ」
佐伯は下を向く。目元に自然と手が行く。
「帰りますか。寒くないですか?」
首を縦に振るだけで、精一杯だった
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四階の窓にストッパーがある個室に戻る。相模が車イスを押してくれた。戻ることは考えてなかった白い部屋。
「先輩。おやすみなさい」
相模は、佐伯をベッドに横たえて言った。介護の資格も持ってるとエレベーターの中で自慢気に言っていた。孝明に投げつけたものが、綺麗に戻してあった。孝明、だ。もう、考えないと決めたのに………。佐伯は静かに相模に話しかけた。
「………少し、ここにいてくれないか。寝つくまで。頼む」
「追い出されるかと、思ってました」
「そんなことしないよ」
段々と元の自分にリカバリーされていくのが解る。相模には、優しく接したかった。変わらない相模。素直な相模。そう思ううちに、誰彼構わず傷つけたいと言う『嗜虐』や誰も信じない、信じられないという『不信』が、消えていくのが解る。
ベッドサイドの間接照明だけが二人を照らし、相模は暖かい指先で佐伯の髪を撫でる。
「すまない。なかなか寝付けなくて。もう、看護ステーションへ行け。暇じゃないだろう?」
「でも………」
「じゃあ、おやすみのキスをくれ。なんて……」
額に触れる柔らかな髪の毛。降りてきた、やさしいくすぐったいキス。きっと相模は与えられるキスばかり経験してきたのだろう。
「可愛いキスだな。相模」
佐伯は軽くからかうつもりでそう言ったのに、相模は真っ赤な顔をして、涙目になった。
「すまない、相模。ただお前が何だか……可愛くて……すまない。あと、俺なんかよしておけ。こんな、奴より……もっといい相手がいるだろう」
「俺は先輩が好きなんです。先輩とキスがしたい。教えて下さい。上手になったら………デートして下さい」
「相模、目を瞑れ」
佐伯は身体を起こし、相模に口づけた。薄く開いた相模のやわらかな唇を食むように合わせて優しく絡ませると、腕が弛緩して首に回された相模の腕の力が抜ける。相模は体温が高いせいか口の中の温度も高かった。甘い喘ぎのような息継ぎをする相模に佐伯はリードして感覚を教えるつもりが、いつの間にか瞑られた瞳にびっしりと生え揃う長い睫毛に見とれる自分がいた。ただ欲のまま、相模の唇を犯すように夢中になって口づけた。スッキリとした匂いのシャンプーと相模の淡く甘いシトラスを思わせる匂い。交じる二つの匂いに軽い興奮を覚えた。唇を離すと、幸せな夢から醒めたような悲しい顔をした相模がいた。髪も昔のまま。天使の髪。
「何年かかっても無理そうですね。先輩……僕は、僕では駄目ですか?」
「駄目なはずがないよ。今日は、ありがとう。髪、ふわふわだな。天使の巻き髪だ」
キスくらいで正気を失ったのは、久しぶりだ……小さく言った。聴こえないように。
「相模。怪我がなおったら、デートに行こう。水族館辺りはどうだ?月並みでいいだろ?」
「先輩!僕、お寿司好きなんです!夕飯はお寿司食べに行きませんか?先輩は、好きですか?」
明るく嬉しそうに相模は涙を滲ませながら言った。
「どうして、泣くんだ?」
「嬉しくて。嬉しいんですよ。やっぱりいつもの先輩がいい……」
「………さっきまでの俺は、やっぱり嫌だよな」
「い、嫌ではないです。先輩は先輩。全部先輩だから。でも、さっきは先輩自身がつらそうだったし、驚いて………ちょっとだけ悲しかった、だけです」
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