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《後編》

佐伯の場合④──やさしくて残酷なひと

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……「はい、先輩はいつもの」
 とバッグからタオルに包まれたオレンジジュースを手渡した。凍ってシャーベットになっていた。佐伯が暑さが苦手なのを覚えていた。相模の細やかな気遣いが堪らない。相模は麦茶を飲んでいた。……あの時だ。暫くして鼻を啜るような小さな音と、背中を丸める影を遠くに見つける。
「相模!どうした!」
「先輩ごめんなさい。シロクマ、折角買って貰ったのに………。ボロボロにしちゃっ…………」
 相模はボロボロのシロクマを抱きしめながら、歩み寄りグラリと足元に蹲った。声を殺して泣いていた。佐伯もしゃがみこみ相模を抱きしめた。良く見ると足跡のようなものがついている。
「相模、こっちを向け」
 相模は黙って下を向いたまま首を振る。
「明彦!」
 強い口調で相模の名前を呼ぶと、ビクッと震えながら涙とはな水でぐしょぐしょになった顔をあげる。それに痣。髪に砂がついていた。相模はいじめのトラウマで大声に過剰に反応して怯えてしまう。
「明彦ごめん。大きな声を出して。まだ、相手はそこら辺をうろうろしているのか?」
 怒りは『赤』ではないことを知る『青』だ。初めてそう思った。相模には普段と温度差がある冷えた声を出す佐伯の声を初めて聴かせ、怯えさせている事実は痛いが、止まらない。
「せ、先輩、喧嘩はだめです。僕、大丈夫ですし。なれてますから、こんなの。帰りましょう?」
 佐伯は痣のできた顔で涙目になりながら縋る相模がしがみつく腕を優しく解き、相模の紅くなった頬を出来る限り、痛くないようそっと撫でる。
「大丈夫だよ。ひどいことはしない」
 佐伯は穏やかに笑う。相模は眼鏡の奥の静かな怒りが怖かった。自分が我慢すればすむことだ、染み付いた、先輩とデート……中年のゲイのカップルにみえるだろうけど……した。充分お釣りがくる。
「相模はここでまっていろ。早めに戻るから」
 数分後、相模は近くの闇の中から呻き声を聴いた。相模を足蹴にしてた男達が、地面に転がっていた。佐伯は穏やかに言った。
「どうして『ごめんなさい』が言えない?悪いことをしたら謝るのが当然だろう?俺の大切な人を傷つけたんだ。これじゃまだまだ足りないくらいなのに。早くして欲しいな。ほら、言えよ。皿割られたいか?肋折られたいか?ああ、鎖骨にしようか。あそこは治りづらいからなあ」
 そう言い佐伯は転がるリーダー格の若い男を思いっきり蹴った。
「警察つきだしたいんならそうしろよ!あいつ、ガキくせえボロぐるみ必死に『返して』て言ってたな。土下座したら返してやるよって言ったらあいつ泣きながらホントにしやがった。ざまあみ……」
 そう言い終わるか終わらないかの瞬間、佐伯はその男の腹を蹴り飛ばす。男は人形のようにふっ飛んだ。歩み寄り、佐伯は男の喉元を思い切り踏みしめる。「グッ」っと男の発する声の元にグリグリと靴の裏をねじ込みながら言う。
「痛いかい?ここは骨が脆弱だし、痛点も多い。もう少し力を入れたら骨が砕けてしまうね。どうしようか。怖いかい?でも、もっと彼は怖かった………今日は彼が怯えてるからこの辺にしておくけど、次はないよ。あと、今はかなり痛いと思うけれど傷は打撲傷程度にしておいた。湿布でも買って貼ればすぐ痛みは引くと思うよ。お大事に」
 じっと見つめるリーダー格の男を一瞥し、電柱に隠れていた相模の所へ真っ直ぐ佐伯は向かう。無言でただ佐伯は相模を抱き締める。
「ごめんな。相模。走れたら、走ってたら相模をこんな目に遭わせなかったのに。ごめん。痛くないか?血は出てないか?」
「平気です。先輩の身体は大丈夫なんですか」
「ああ……ここから近いから俺の家に寄っていかないか?もう相模の家の方の電車ないだろ」
「………はい」
 誰もいない電車に揺られる。佐伯はグレーの上着を相模に貸した。相模はボロボロのシロクマをずっとぎゅっと抱いている。佐伯は、縋りついてくれるのが自分なら、そう思った。相模は、佐伯を心配するばかりで弱音を吐いてくれない。心配してくれる事は確かに嬉しい。だが、態度でも、口調でも、あと一線を越えてくれない。きっと昔のことも思い出して怖かったはずだ。けれど、胸の奥のもう一人の自分が言う。『自業自得だ』そう耳元で囁く『ばれていないとでも思っているのか』と『今日一日中、誰を見ていた?』と『誰を重ねていた』と。
「ごめんな。今日は」
「水族館も楽しかったし、アプリで調べて行ったお寿司やさんもとっても美味しかった。最後は、運が悪かっただけです。でも先輩にケガがなくて本当に良かった。もう、あんな危ないことしないで下さいね」
「……相模。本当は、俺に言いたいことがあるんじゃないか?」
 相模は苦笑して言った。
「それは先輩が俺に言わせて楽になりたいだけでしょう?やめましょうよ。初めて一緒に出かけたのに」
 穏やかな相模の言葉が胸に刺さる。言葉がそれ以上でてこない。相模は、解っていた。佐伯が今日何を見ていたか。そして相模がシロクマを大事にする理由。これだけは過去にはなかったと、相模はすぐ気づいたのだ。自分だけの思い出だと解っていたからシロクマを大事にしていた。そして、いつからか『デート』というワードを使わなくなった。佐伯は窓の外の暗闇をただ見つめる相模を見る。そうだ、喫煙所からだ。『年甲斐もなくはしゃぐ中年のゲイのカップル』と何の感慨もなく言ったから。もし昔の孝明と一緒ならそうは言わない。
「ごめんな。相模。」
「何がです?」
「いや……なんでもない」
 最後の『なんでもない』がアナウンスとブレーキ音にかきけされる。じっと相模の見つめる先を見つめた。暗闇に反射する窓に映る佐伯だと気づくまで、あまりにも時間がかかった。
   
 駅から5分ほど、高層マンションの二十三階。綺麗な外観。
「家に誰かを呼ぶのは初めてだ」
「綺麗なマンションですね。先輩はお金持ちなんですか?」
「まあ、そこそこだな」
 さらりと言いたいこととは別な話にすり替えられる。相模はきっと信じていない。孝明も和也も場所すら知らないのに。珍しいものを見る面持ちで、相模とエレベーターにのる。ぼんやりとした照明に相模の顔が浮かぶ。目の上に痣ができている。頬には擦り傷。
「段々熱を持ってきたんじゃないか?」
 頬に触れようとした時に、さっと顔を反らして相模は佐伯の手を避けた。
「相模……?」
「すみません。昔のこと思い出しちゃって。ごめんなさい」
「………いや、ごめん。早く手当てをしようか」
 佐伯の部屋はまるで他人を拒絶するかのように、清潔で整理整頓されている。取り繕うように観葉植物や、照明に至るまで温かさを演出してあるのに生活感がない部屋。
 相模が歩く度にフローリングに土がつく。そんなことはどうでもいいが、それを振り返り見て俯いた相模を見るのがつらかった。
「カモミールティー。ハーブティーが平気なら口をつけてみてくれ。落ち着くし、鎮痛効果もあるから」
 佐伯が、ティーカップを相模の前に置く。綺麗に磨かれたガラスのローテーブル。ふわふわの雲のソファ。下に軽い収納もついている。派手ではなく気に入っている家具だ。ハーブティーは電気ケトルで急いでお湯を沸かして作った。
「隣、いいかな」
 佐伯は、自分用に淹れた珈琲を飲みながら相模を見る。相模はじっと夜景を見つめている。
「片付いてるんですね、部屋。怖いくらい。僕の家は本でぐちゃぐちゃです」
 窓ごしに目が合う。相模は夜景を見ているのではなかった。
「俺は休暇中だから。それに掃除は好きだし。診察は相模に皺寄せが行っているね。すまない」
「いえ。すこし雨、降ってきましたね。今日は降らないって天気予報で言っていたのに」
「泊まっていくか?そのケガじゃ……ごめん。手当てをしようか」
 さくさくと、相模の手当てをして行く。
「さっき、何を言いかけたんですか?」
「………守れなかった。ケガをさせた。明日診察に出るの無理じゃないか…?」
「いいんですよ。そんなこと……」
 そう言い、相模はまた俯く。長いびっしりと生え揃ったした睫毛にびっしり涙が凝っている。
「相模?」
「何でもないんです。ちょっと情緒不安定になってるだけです。ほら、雨ですし」
 佐伯は相模の左手を握った。
「ここに来たのは、相模が初めてだよ」
「本当に来て欲しかった人は来なかったんですか。すみません。僕なんかが最初で……」
「どうして、そうなる!確かに今日は本当に悪かったと思ってる!」
 相模の顔が歪む。佐伯に握られた左手を振り払い、顔を覆いながら笑う。笑い声が胸を抉ると同時に佐伯は気づいた。今、一番相模に言ってはいけない言葉を言った。相模はすぐに気がついたと思う。その言葉が何を意味するのか。相模の涙が手の隙間から伝う。泣きながら笑う声が苦しかった。
 何を言えば良い?何を言えば相模の涙はとまる?ただ遊んでいたばかりで、こういうことが解らない。本当に大切な守りたい人の癒し方が解らない。佐伯はただ、相模を見つめることしか出来なかった。少しのお互いの沈黙を破ったのは相模だった。相模は呟くように言った。
「言わないで欲しかった。解ってたけれど、やっぱりつらいです……僕、バカみたい。一人で舞い上がってました。この日のために服を買いに行って、初めてヘアサロンなんか行って。先輩に喜んでほしくてオレンジジュースも、どのメーカーが好きか、迷って……。でも、先輩は気づかない。いつもは気づいてくれるのに。入院してるときはシャンプーを変えただけで気づいてくれたのに。今日、隣にいるのは僕じゃなくても良かったんですね。気づいてないって思ってましたか?先輩は、ずっと……先輩は、僕じゃなくて早川さんの影を見てた。水族館にいるときも、お寿司やさんにいるときも。ずっと………」
 相模はガラステーブルに置かれた両手を握りしめた。手を添えようと右手に触れようとした瞬間、振り払われた。涙に濡れた瞳で、佐伯を睨む相模はぞっとするほど綺麗だった。腕を引き寄せて口づけた瞬間、おもいっきり頬を張られた。相模は、
「馬鹿に………馬鹿にしないで下さい!」
 悲痛さの混じる怒鳴り声を佐伯に浴びせた。言葉を繋げようとしながら大粒の涙を流す相模を、佐伯はただ見つめることしかできない。
「先輩は……先輩は…僕にはあんな優しい目をして見つめてくれたりしない!喧嘩したときだって、早川さんだったらきっと頭に血が上って何をしたか解らないはずです!それに、先輩は僕が全部解ってることを知ってましたよね?僕は、早川さんじゃない!相模明彦です!それと……先輩は『相模だけは優しくしたい。守りたい』って病院で言ってくれました。嬉しかった。でも本当に優しくしたかったら感情も飲み込むんです。正直に話せば僕が納得すると思ってました?先輩は優しくなんかない。残酷です。先輩には上手に嘘をついて欲しかった。僕の初恋は今日で終わりにします。かえってスッキリしました。帰ります。お茶、ご馳走様でした。とても美味しかったです。でも僕、カモミールティーは二度と飲まない。先輩を思い出すから!」
 相模の玄関のドアを閉める音が響く。部屋の温度が急に下がった気がする。終わり、なのか、全部?佐伯はただ呆然とする。さっきまで確かにここにいた。羽織らせた上着を掴む。暖かい。
 ボロボロのシロクマがじっとこっちを見ている。さっきまでの悲しい目をして涙をこらえて唇を噛んだ相模に似ている。
 窓ガラスに映った相模は、ずっと泣いてた。一生懸命、笑いながら。いつも相模は俺を気遣う。雨がひどい。はっと現実に返る。この辺の地理は住宅街で入り組んでいる。タクシーはひろえない。コンビニもない。雨の音だけが佐伯の鼓膜を震わせる。同時に両手も震えだす。
「今言った言葉を伝えれば良いよ」
 と目があったシロクマに言われたように感じた。マンションを出たすぐの所で相模を見つけた。蹲り泣いている。頭から足の先まで雨粒に濡れていた。
「相模」
 優しく名前を呼ぶ。返事がない。
「相模」
 もう一度優しく名前を呼ぶと暫くしてゆっくりと相模は顔を上げた。涙とはな水でぐしょぐしょになって、咽び泣いて呼吸すら苦しい様子だった。
「先ぱ……い?どうして?」
「迎えに来た。家に来て欲しい。」
 相模は黙って首を横に振る。このまま終わらせたくない。まだ悲しい顔しかさせてない。
「お茶を淹れる。話したいことと、渡したいものがあるから、家へ来て欲しい」
「話したいことは、ないです。出来れば、持ってきて欲しいんです。シロクマ……。先輩の家は綺麗なのに、僕、こんなだし。泥だらけで……間抜けですね………格闘技くらい習っておけば良かった。そうすれば、先輩の手を煩わせることもなかったし。格好ついたのになあ」
 懸命に笑うことを相模はやめない。マンションの灯りが相模を照らす。ここまでひどいとは気づかなかった。気づけなかった。『この日のために買った』新しい服。土のついた足跡だらけの淡いブルーのシャツ。黒いジーンズには泥の水溜まりに土下座をさせられたのだろうか、膝から下が泥だらけだった。黒地に土色だから余計に目立つ。雨に濡れてシャツに土が滲んでシミが沢山出来ている。相模は笑う。懸命に笑う。佐伯が罪悪感を抱かないように、綺麗に終わらそうとしていることが見てとれた。佐伯は相模の濡れた前髪を指先でそっとかき揚げる。
「相模、話を聞いてくれ。相模だけだ。もう、ずっと。決めたから」
 相模の大きな泣き腫らした瞳が佐伯を見つめる。相模は首を横に振り、間髪いれず、
「今、早川さんから『頼むから今、家に来てくれ』って電話が来たらどうしますか?」
 相模の拙い反抗が切ないほどいじらしくて、いとおしいと思った。みずたまりに膝をつく。
抱きしめる。普段の体温が熱いから余計に、芯まで冷えた相模の身体が悲しい。
「や、やめてください!膝が汚れ……」
「孝明のところには行かない。俺には相模だけだ」
 笑顔が欲しいのも、優しい声が欲しいのも、相模だけだ。佐伯がこんなに苦しくなるのは、相模だけだということを、解って欲しい。佐伯の上着を羽織らせる。段々雨足が強くなる。段々と抱きしめた相模の体温が佐伯に移っていく。こんなときなのに佐伯は幸せだと思った。
「暖かいか?少しは」 
 佐伯の胸の中で、コクりと力なく相模は頷く。
「あいつはもう、いい。………いいんだよ。自分の中で、決着をけた。百点のワッフルもこの前奢って貰った。今は、二百点のクレープが食べたいんだ。頼むから一緒に来てくれ。こんなに、冷えて……すまなかった………頼むから。相模。頼むから」
「……僕、あの部屋に『お前じゃない』って言われてる気がします。すごく場違いな気がしてつらい。泥水のみずたまりに土下座したときよりずっとつらい。先輩、駄目です。僕、不相応ですよ。先輩と僕なんて釣り合わないです。昔と同じです。手を、離してください。僕、つらいです……これ以上惨めにさせないで………」
 顔をあげた相模が俯く。目の前から消えてしまう。あの日のニッコウキスゲが、『先輩』と白い歯を見せて笑う相模が、消えてしまう。ようやく思い出す。あの時も、相模は白い歯を見せて笑いながら、泣いていた。
「俺は相模が好きなんだよ。でも、何を言えばいいか、どうしたら良いかわからないんだ。でも、……どうしてもお前には俺は嘘がつけない。つきたくない。終わりになんてしたくないんだ。頼む。頼むから」
 家で待っている泣きそうなシロクマ。相模は俯いて佐伯の言葉を聞く。
「泣き顔なんて、もう見たくなかった。ケガも、何もかも全部俺のせいだ。窓ガラスに映った相模は、泣いてた。一生懸命涙を堪えて笑いながら、手を握りしめて。いつも俺を気遣って。なのに……ごめん。相模。もう二度と誰も見ないから。相模……」
 プライドなんて必要ない。雨に濡れながら、佐伯は声を絞りだし、縋る。
「先輩は、狡いですね……。先輩にそう言われたら、僕は頷くしか出来ないじゃないですか」
「一緒に来てくれ。風邪を引く。お茶を淹れるから。ゆっくり話をしたい」
「………はい」
 小さく発した相模の声は、泣き疲れて掠れていた。
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