シグナルグリーンの天使たち

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十二月・人間万事サイダーが美味い

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   *

見事な満月の夜、自分の足音だけが響いている。
マドレーヌがふたつ。平たい人形をかたどったジンジャークッキー。あとはキャンディが数粒あるだけの小さな袋を手にして歩いた。教会に集まった子供たちに配ったところ、なぜかひとつだけ余ってしまったのだ。欠席者の話は聞いていないが、些末な問題なので厳密に確認したわけでもない。浅間が間違えて用意した可能性が高かった。
カフェ・ラドガの近くには池があり、遊歩道がぐるりと一周している。店からちょうど半周のところには教会が。そこで催されるクリスマスのイベントに参加した帰りだった。教会の中で行われる余興は終わり、あとは子供たちが町を一周するのを見守るだけだ。明かりの灯ったキャンドルを持ち、賛美歌をうたいながら池の周りを歩く。そのキャンドルに本物の炎は無く、代わりに電球の光が細かに揺れていた。
途中で消えてしまうこともない。おそらく、休憩が必要な道のりでもないだろう。なので先に抜けさせてもらい、浅間は店に戻ってきた。店番を任せた相手がいる。言葉にすればそうなるが、少し実情と異なる。浅間が教会に赴いていた四時間のあいだ、カフェの中ではふたつの世界線が同時に進行していた。そのはずだ。
如月サツキと、雨屋りりすが店番をして待っている。
それは事実であるが、現実ではない。
彼と彼女の時間を作るため、浅間がそういうことにした。先月――とはいえ日数としてはふた月ほど前のことを思い返す。雨屋りりすはクリスマスが好きか、とツツジは尋ねた。これは額面どおりの意味ではなく、彼女を葬るための事件をいつ起こそうかという覚悟のこもった言葉で。
いま、サツキとりりすがふたりきりでカフェにいる。
という設定を踏まえた〝小説〟を、ツツジとサツキが書いている。
月が替わったばかりの十一月のはじめから、彼らは交互にブログを更新し続けていた。雨屋りりすは現実にはいない。だから、ブログに記された架空の日記が彼女にとっての事実となる。その主導権を担うため、いずれ来る最後の日に自分の望む結末を迎えるため、彼らは伏線を張り、展開を綴り、日々を噛みしめてきたはずだ。浅間に詳しいことは分からないが、雨屋りりすを殺すつもりだと話していたツツジが、何の構成もなくただ彼女を死なせて終わりにはしないだろう。ツツジは彼女を消し去ることを目的にしている。そして割り込むように日記の更新を再開したサツキは、彼女の死や失踪を望んでいない。その対立が浅間にも伝わるほどの筆力で、りりすの日常はキャンドルの炎のように揺れ続けていた。彼女の友人である式見カオルはいまだ消息が掴めない。サツキがそうしたようにりりすもまた、後を追って消えてしまっても不思議ではない空気をまとっていた。
動機はある。このまま、ツツジの狙い通りに消えてしまうかもしれない。だが、サツキはそんな結末を許さないだろう、という確信もあった。たったひとりで、天涯孤独のまま消えてしまった小説家のために、彼は彼女に「友人」という肩書を与えたのだから。式見カオルは孤独ではない。今は消息が掴めなくとも、いつか友人が「久しぶりに会ったよ」などと話してくれる日が来ると信じて。
つらつらと考えているうちに、浅間は店の前まで戻ってきた。見慣れたガラスの壁が光を振りまいている。隣の焼鳥屋からは賑やかな声が漏れ聞こえるが、カフェは営業時間をとうに過ぎていた。門の前の看板も準備中を示している。だが、まるで嘘のように、煌々とした灯りが店内をくっきりと照らしていた。
扉を開ける。ドアベルの音に、教会で聞いた子供たちの演奏を連想した。
「ただいま」
温かい空気。ただのエアコンによるもので暖炉などありもしないが、店内の人影は何かを囲むかのように揃って背を向けていた。音と声に気付いて立ち上がる。こちらを向く。全く同じ顔のふたりの青年が、同時に口を開いた。
しかし、声を発したのは片方だけだと思う。おそらく……左側の彼。声までそっくりなので自信はないが。
「店長さん」
正直に述べれば、全く区別がつかない。彼らの個を尊重したい気持ちはあるので、申し訳ないと感じる。だが、本当に見分けがつかなかった。彼らを一度に視界に入れるのは初めてのことだ。いくら似ているとはいえ、隣に並べば分かるものだと思っていたが。
「店長さん。俺、何とお詫びすれば良いか……」
その言葉で分かった。左側に立つ、グレーのパーカを着た彼がサツキだ。白いシャツに紺色のセーターを重ねている方がツツジ。サツキはおどおどと視線を揺らしながらも、長らく失踪していたことについて謝罪を告げようとした。謝ることなんて何もないのに。この四ヶ月の間、こちらの生活は何も変わらなかった。他ならぬ彼ら兄弟が、そうあるように努めてくれたから。
「御心配をおかけしました。こんな形で、ずっと騙し続けてしまって。ツツジが俺の代わりになっていることにも気付いていた。でも、俺は……」
「如月サツキ」
サツキの声に、同じ響きの声が割って入る。隣に立つツツジが表情も変えず、台本を読み上げるかのような抑揚で兄弟の名前を告げた。
「クリスマスの夜、店番を任されているのは雨屋りりすと如月サツキです。営業時間を過ぎ、既に店仕舞いしている。お客さんは来ない。店長さんはイベントを手伝うために教会へ向かった。ここにはふたりしかいません」
冒頭だけ読み進めた小説を、サッと説明するかのように。
「だから俺は、如月サツキです。筒路仲春はここにいない」
彼はそう宣言した。
「筒路仲春はここにいない……」
思わず反芻する。十一月のはじめ、ツツジと対峙した浅間は何度もある言葉を突き付けられた。〝雨屋りりすはここにいない〟。彼女はあくまで日記の中だけの存在であり、その日記が架空のものである以上どこにもいないのだ、と。ツツジはサツキがいつまでも幻影に縋っていることを恐れ、彼が彼自身を取り戻すために彼女を殺すことを考えた。それが今回の経緯のはずだ。
その世界を今、ツツジは逆転させている。
雨屋りりすはここにいない。現実の世界では。なら、小説の世界では?
そこでは逆にツツジの存在が無いのだ。サツキは兄弟がいることを何度か明かしているものの、ただそれだけだ。具体的に話題に上げることもなければ、名前すら出ない。りりすはツツジのことを知らない。りりすとツツジは、同時に存在し得ない。
「俺は如月サツキです。代わりじゃない、本人だ」
ここにいるのはサツキであって、ツツジではない。だからりりすが存在できる。彼女を消そうと試みた彼が、最後の最後に自ら彼女を呼び出した。姿は見えないがここにいる。温かく保たれた店内で、飾り付けられたツリーのオーナメントに映り込んでいる。
雨屋りりすはここにいる。浅間が最後の日記を読み終えるまでは、確実に。
ふと気づくと一冊の紙束が差し出されていた。印刷したばかりのコピー用紙に見えるが、丁寧に穴を開けて紐で綴じられている。手にしているのはパーカを着た青年だが、これは彼らふたりからの提出だと見做しても良いだろう。否、今の彼らは両方ともが如月サツキなのだ。サツキが書き、印刷をして綴じたものを浅間に差し出している。親しい常連客から渡されたそれを受け取るかどうか、浅間のすべき選択はそれだけだ。
紙束の最初の一枚。つまり表紙には見慣れた字列があった。
――シグナルグリーンの天使。
手を伸ばす。ずっしりとした紙の束を受け取る。一月からずっと書き連ねてきた日記の全てが、ここにあるのだと感じた。とはいえ、新しく目にするのは今日書かれたばかりの部分だけだろう。昨日の分は読んだ。その前も読んだ。二次元コードでアドレスを教えられてからずっと、こまめにブログを確認している。浅間が教会に出向いていた間に書かれた部分だけ、まだ何も知らない。
それでも最初から全てを追っていこうと思った。
「ありがとう。読ませてもらうよ」
彼も待っていてくれるだろう。彼の中では結論が出ている状態だが、浅間が追い付くのを待ってくれるはずだ。昨日の日記までは、雨屋りりすは確かに存在していた。差し迫ったクリスマスの空気に浮かれながら、ツリーに綺麗な飾り付けをしてくれた。最後の一日で彼女は消えてしまうのか、それとも何事もなく生き続けるのか。知っているのはこの世でたった〝ひとり〟の書き手だけ。
「僕は上で読んでくるから、楽にして待っていてね」
螺旋階段に足を乗せる。視界の端に、ふたつの人影が窓際のソファに腰掛けるのが認められた。列車の座席のようだな、と思う。夜に塗りつぶされた窓に横顔を映し、向かい合うシートに座ってぼんやり視線を交わしている。しっかりと見つめ合うでもなく、そっぽを向くでもなく。ただ列車で相席になっただけ、と表現するのが正しいような距離感で。
何度も往復した鉄階段の響きは、彼女の足音として記憶されている。
二階に着き、温室の奥まで見える通路の向こうに、見知った顔がある気がする。
本当は全部自分ひとりでやっていることで、そこに気配すらあるはずもないのに。浅間は歩き続けた。いちばん向こう側に、月の架かる窓。観葉植物の鉢が中央を空けて並べられており、教会で見たばかりの景色に似ていた。バージンロードという呼び方しか知らないその道を進む。無垢の木のデスクに置かれたミニチュアのクリスマスツリー。浅間自身に飾った覚えはない。誰がやったのか、心当たりはあるが。
そういえばミニチュアの雑貨をきっかけに親しくなったんだっけか。そんなことを思い返しながら、椅子を引いて腰掛けた。頭の上、落ちてきそうな位置に月がある。紙の束を両手で支え、トンと揃えてから表紙に指をかけた。

   *

普段からBGMの流れるような店ではないが、今日は特に静かに感じる。
閉店後の時刻だ。夕刻までは客がいたカフェも、今はふたりきり。私、雨屋りりすともうひとり――如月サツキが座っているだけだ。彼は本を読んでいる。いつもパソコンかタブレットを触っていることが多い彼にしては珍しく、店内の本棚から一冊抜き取って読み進めていた。だからここには音楽の代わりに紙の擦れる音が流れている。
「ねえ、サツキ」
カウンタの中から私は問い掛ける。普段は店長しか入らない場所。グラスは上から吊り下げられていて、食器は天板の下の棚にある。他に収納も置けないほど手狭な、ひとり立つだけで満員になってしまう空間。
「サツキ、暇でしょ」
先ほどから目が滑っている。最後のページまで繰ったはずの本を、でたらめに読み返して視線をうろうろさせて。何か目的があってそうしているようには思えない。
「店長、なかなか帰ってこないわね。教会のイベント、私も行けば良かったかな」
「それは無理だよ」
サツキが顔を上げる。次の言葉まで少しの間があった。
「りりすちゃん、留守番を任されているんだから」
確かにその通りだ。今日はクリスマスで、近くの教会では催し物がある。その手伝いに向かった店長の代わりに私たちは店を守っている。だから私たちは外に出られない。
「暇ならさ、私の原稿を読んでくれない?」
カウンタの外側に回り、サツキに近寄りながら問い掛ける。手には一冊の紙束を持って。私は彼のようにパソコンを使いこなせないので、全部手書きしたものだ。サツキは本を閉じ、テーブルに置くと、立ち上がってそれを受け取ってくれた。
「小面さんに頼まれた脚本?」
その言葉に頷く。五月。このカフェでミステリのイベントを開いた彼女は、次の企画を進めていた。たしか夏頃、怪談系のものをしたいと話していたが。それとは別に私へ直接依頼してきたことがある。
「まさか私に脚本と出演を頼むなんてね。驚いたわ」
ただの給仕役としてイベントに参加した女性。セリフも無く、片隅で立っていただけなのに、今度は脚本担当だなんて。小面が計画していた怪談モチーフのイベントは、来年の夏頃に開催されるだろう。今回私が頼まれたのは別件だ。来年のいつでもいい。企画は原稿が完成したタイミングに合わせるから、何かひとつ書いてほしい。そしてできればあなた自身も演じて欲しい、と。
「粗削りだけど、ひと通り流れはできた。今日はもうお客さんは来ないし、ふたりきりで店を自由に使えるし、読み合わせしてくれないかな」
「別に自由にしていいわけじゃないと思うけど……。まあ、構わないよ。でもふたりしかいないから配役は……」
「大丈夫。足りるから」
紙束を開くよう視線で指示する。パラパラと目を通したサツキは、納得したことを示すように頷いた。
「君の方の台本は」
「私は頭に入っている。自分が演じることになる役だし。じゃあ、始めるわね」
五月のイベントの時のように、テーブルを動かして配置を変える必要はない。なぜならこのお芝居は、このカフェとほとんど同じ空間を舞台にしているから。決して広くはない。多くのものは置かれていない。ただ、人と人との距離が近くて、自然と会話が生まれてくるような場所。
サツキが鞄を掴んで店の外に出る。ドアベルがカランと鳴って、冷たい空気が少しだけ吹き込んできた。どうやら役として店に入るところから始めてくれるようだ。カウンタの向こう、いつも店長の背後にある窓には大きな月。雪の降る気配はない。ほんのちょっとだけ期待したのだけどな、と息をついた。

   *

舞台は喫茶店風の空間。店内には二台の本棚があるが、決して大きいものではない。中に収められている本もまばらである。観客から見えやすい場所にテーブルと二脚の椅子があり、ここを中心として演技を展開する。
外の天気は荒れている(吹雪・嵐など)。落ち着いて休憩できる場所を求めて、男が店に入ってくる。
「こんにちは。この店、開いているよね? いつの間にか道に迷ってしまったようだ。入れる場所があって助かったよ」
店の奥から女が出てくる。赤い帯を締めた振袖の着物姿。
「どうぞ、お好きなところに掛けてちょうだい」
「ありがとう。ゆっくりさせてもらうよ」
男は席につくが、女はそれ以上何もしない。男はあたりを見渡し、不思議そうに話す。
「ところでここは何の店なんだい。最初は喫茶店かと思って入ったが、メニュー表すら無いね。君も注文をとりに来ないし」
「なんだ。そんなことも知らないでここに来たのね」
「そんなことも知らないのか、って、僕は迷い込んだだけなんだ。さっきまで何をやっていたのか、何のためにこの辺りをうろついていたのかもよく思い出せない。この店のことなんて分からなくても無理ないよ」
「じゃあ、ご自身が何者かも分からない?」
「俺? 俺は――ただの勤め人だよ。別に面白い仕事もしていない」
女は振り返り、厨房の方へ歩く。サイダー(演技中に飲むので実際は水など)の瓶とグラスを盆に載せて運んで来ようとしたところで、男が駆け寄ってその盆を受け取る。
「飲み物は出してくれるんだね。注文していないけれど」
「それはサービスよ」
「いいよいいよ、自分で運ぶから。そんな振袖の着物姿で、汚したらどうするんだ」
男はサイダーをテーブルに置き、再び席につく。興味深そうに辺りを見渡す。
「他にもお客さんがいる。やっぱり喫茶店なんじゃないか?」
観客のひとりに手を振ってみたり。
「その人たちも、ただ食事に来たわけじゃないわよ」
「まあ確かに、飲食以外の別な目的があるようにも見えるけど……」
サイダーを飲んでひと息つく。
「俺はこの吹雪をやり過ごせればそれでいいよ」
「このままじっと待っていても過ぎ去るものかしらね」
「縁起でもないことを言うなよ。僕は待つことしかできないんだから。待っていたらきっとまた外に出れる。そう信じるしかないだろ」
女は男の正面の椅子を引き、腰掛ける。テーブルを挟んで向かい合う。
「ねえ、あなたにはやるべきことがあるの。あなたは単なる迷い人じゃない。みんな、あなたを見るためにここに来ているのよ」
「……みんな俺を見るためにここに来ている、だって? なんだいそれは。何か役者にでもなったみたいだな」
「あなたは主役なの。あなたが動き出さないと話が進まないわ」
「分かった。それじゃあ、俺は何をすれば良いんだ?」
男が立ち上がり、キャスタ付きのホワイトボードを運んでくる。以降、推理に必要な情報はここに書き記していく。
「あなたの役目は、私の正体を言い当てることよ。そうすれば、嵐が去ってここから出た後も迷わずに済むでしょう」
「なるほど、君の正体を当てたら良いんだな」
ボードに〈この女性の正体は?〉と書く。
「俺はそろそろ分かってきたぞ。いや、君のことではなくてこの世界のことが、ね。おそらくここは夢の中で、俺は眠っているだけなんだ。夢の中だから不思議なことも起きる。君の正体は人間ではなくて、俺の潜在的な悩みみたいなものなんじゃないか? あいにく全く思い出せないが……。だとすれば、君の正体を当てれば夢から覚めて元の世界に戻れるというのも納得できるな」
「話が早いわね」
「でも分からないな。俺に悩みなんてあったのか? 確かに仕事は面白くないが、この歳になって冒険なんてできないのだから仕方ないだろう。堅実に、夢を捨てて生きていけば面白くない仕事に行き着く。人はそういうものだろう」
女がじっと黙っているのに気づき、男は慌てて話を進める。ボードの前に立ち、ペンを構えて質問をする。
「よし、じゃあ質問しよう。君の年齢は?」
「十五歳」
男は頷き、ボードに〈年齢は? ― 十五歳〉と書く。
「若いね。子供じゃないか。俺はいま三十五だから、二十歳の頃に生まれたわけか」
そう言ってから観客の方を向き、慌てて首を振る。
「違う、俺の子供って意味じゃない」
「はたしてそうかしら……?」
「実の子供ならさすがに覚えているだろ。完全な記憶喪失ってわけじゃないんだから。今やっている仕事の記憶はあるし、家族のことも忘れていない。親と兄弟はいるが妻子はいないよ――そうだ、兄弟といえば」
男は女に対して次の質問をする。
「君、兄弟はいるかい?」
「私にはいない。ひとりも。でも私の仲間には、同じ親から生まれた兄弟が三十もいる子がいたわね」
「なるほど、君に兄弟はいない……しかし三十人の兄弟を持つ仲間もいる、か」
口にしながらその内容もボードに書く。
「随分と子だくさんだ。とはいえ、君や君の仲間は人間ではない可能性が高いのだからあり得る話か。同じ親が一生のうちに何十と生み出す――そんなことができる存在とは何だろうな」
呟きながら男はうろうろと歩く。ボードのまわりを一周して戻ってきた頃、女の全身を眺める仕草をして次の質問を繰り出す。
「ところで君は立派な着物を着ているけれど、それはどうやって手に入れたんだい」
「素敵でしょ」
女は立ち上がってくるりと回る。
「お父様がたくさん考えて、あちこち掛け合ってデザインしてくれたのよ。お父様が選んだ布。選んだ色。それを仕立て屋さんが丁寧に貼り付けて、この着物になったの。金箔の模様が綺麗でしょ」
「君のお父上のこだわりが詰まった着物なのか。確かに、派手ではないが美しいデザインだ。金の箔押しの模様も確かに綺麗だな。でも――」
男が店の奥を見る。三つ向こうのテーブルあたり。
「ジャケットを着ると隠れてしまうね。だからあそこに脱いであるのか」
「外を動き回るときには着物を汚さないためにも必要だけど、お家に着いたら脱いだって良いのではないかしら? どちらの姿も私は好きだけれど」
「ジャケットは脱いでも帯は外さないんだな」
「これはね、見た目とか抜きにして大切なものなのよ」
「よく見ると、着物だけじゃなく全体的にお洒落さんだな。君のお父上はよほど外見にこだわる人だったのか……」
「ちゃんと中身も丁寧に作ってもらったわよ」
「その髪型も個性的だな。何というカットだったか……くそ、知っている気がするのに思い出せない」
「天アンカットね」
「え? 天丼カットだって?」
男は自分の聞き間違いにしばらく笑い転げる。女も苦笑しながらそれを見ているが、訂正はしない。やっと笑いが収まった男はボードの端に〈天丼カット〉と書く。
「もう、そんなの書かなくて良いわよ」
「案外とこういうこともヒントになるかもしれないしな。俺だけじゃなくて、ここにいるみんなも君の正体を推理しているんだろ。情報は全部出さないと」
ふたりはボードから少し離れて全体を見る。
「歳は十五、兄弟はいない、着物はお父上のこだわり……。これだけじゃまだ分からないな。質問してばかりも何だから、自分で観察して情報を得るとしようか」
男は席につく。立ったままの女の姿を見上げながら彼は話す。
「君は姿勢が良いな。背がしゃんとしている」
「生まれたときからこうよ。背の曲がった子なんて、私の仲間にはいないんじゃないかしら。よっぽど生まれ方が違ったら姿も変わるかもしれないけれど」
「のども白くて綺麗だ」
「そうよ、ここには何もないのが当たり前なの」
「おそらく君は人間じゃない」
そう告げた男の目つきは、まるで〝物〟を観賞するようなものに変わっている。
「人間じゃないから、素直に言うよ。君は綺麗だ。誰かが君を丁寧に、寸分の狂いもないように作ったのだということは分かる。君に兄弟がいないのもそういうことだろう。君のお父上は、君を作ったことで全てを出しきったんだ。もう他には要らない。これで満足している。ここで死んだって構わない――」
「違う!」
女は叫ぶ。男に駆け寄ってテーブルに手をつき、顔を寄せる。しかし彼は彼女をすり抜けるような視線のまま、ぼんやりと言葉を続ける。
「俺は、今の仕事を面白くないと言ったね。でも元来俺は、面白くないことを続けられるような人間ではないはずなんだ。うまく思い出せないが、若い頃の俺はもっと野心家で、冒険好きで、やりたいことをやってみないと先に進めなかったはず。だから今の俺がこうやって〝普通〟でいられるのは、ひとつでも何かを生み出してすっかり満足したからなんじゃないか、って」
「けれどもあなたはここにいる! まだ迷っているから、私に会えている!」
女は叫び続けるが、男の反応は薄い。それでもゆっくりと視線が交わり、男は女の目を見て問い掛ける。
「教えてくれ。俺はいったい何に満足した?」

   *

「ここで終わっているのだけど」
台本から視線を逸らしてサツキが告げる。テーブルに手をついて彼の顔を覗き込んでいた私は、立ち上がって軽く伸びをした。
「そりゃあそうよ。そこから先は解決編だもの」
「つまり、本番と同じように俺も解いてみないと先に進めないんだね」
「といっても、サツキならもう答えが分かっているかと思うけど」
出題編は二十分ほどを想定した短い劇だが、今回は台本を読み上げるだけなので半分ほどの時間で終わってしまった。私もサツキもプロではない。いくらト書きに演出を書いていても、その通りに演じきることは難しかった。
「まあ……確かに、ヒントが多いね。特に女性のセリフの中に多く含まれていて、ほとんど自分で正体を明かしているようなものだ」
そこまで話してから、ふと首を傾げ
「これ、出題としては〈女の正体は何か?〉でいいんだよね?」
と尋ねる。私は頷いた。
「そうだよ。最初に解答用紙を配るし、そこにはしっかり書くつもりだけど」
「了解。いや、もしかして〈男が何に満足したのか〉についても答えなきゃならないのかと思って」
「ああ、なるほどね」
原稿はまだ完成していない。現在は男の問い掛けで終わっているが、推敲を重ねてあと少し書き足すつもりだ。それに本番は、司会の小面がうまく回してくれることだろう。
「それじゃ、推理を聞こうかしら」
私の言葉を受け、サツキはホワイトボードの前に立った。〈男〉の役として彼自身の手で書き連ねた文字を消し、まっさらな状態に戻す。
「まず、年齢についての情報だね。十五歳。ごく最近というほどでもないが、すごく古いというわけではない。昔からある建築物だとか、何かの概念だとか、その類ではなさそうだ。そして男が二十歳の頃に生まれている。自分の子供じゃない、という言葉に女が意味ありげな反応をするのは、逆に『彼が生みの親だ』と証言しているようなものだ。つまりそんな若さの人間が生み出すことのできるもの、ということになるね」
ボードに〈男は二十歳のときに女を生み出した〉という文章が書かれる。
「次。自分には兄弟がいないが、三十も兄弟を持つ仲間がいる、という話。仮に彼女が動物の場合、寿命が十五年以上あり、かつ兄弟が何十と生まれる種、ということになる。または動物ではなく人工物であると考えた場合、人によって生み出す数にかなり差があることになる。推理ゲームで専門的な生物知識なんて求めないだろうから……そうだね、芸術作品あたりかな、と俺は考えた」
人工物に対して「兄弟」という表現を使うとき、そこにはふた通りの意味が発生する。
ひとつは、最初から設定として「兄弟」という概念が存在している場合。これは姉妹と呼ばれるパターンが多いが、都市だとか学校だとか、はたまた船だとか。たとえ作った人間が全く異なっていても、設定として決めた以上は紛れもない兄弟姉妹だ。
もうひとつは、ひとりの人間が複数の作品を生み出す場合。表立って「兄弟」という表現が使われることは無いだろうが、兄弟はいるかという質問に答えるならあのような形になるだろう。自分に「兄弟」はいない。だが、仲間には何十といる。
「例えばマスコットキャラクタで、設定上は数えきれないくらい兄弟がいる子も見かけるけれど、こんなイベントで固有名詞なんで出さないだろうし。シンプルに『同じ人間に作られた』という意味だと解釈した。その後も〈お父様〉という言葉が頻繁に出てくるから作ったのは個人だろうね。ひとりの人間が生涯において何十も作るが、一方でひとつしか作らない場合もある――そうなると、やっぱり芸術作品の類かと」
女は振袖を着ている。赤い帯を巻いている。洒落たカットをしている。男が代わりにサイダーを運ぶほどの、汚しがたい存在。絵画か? 陶器か? いや、彼女はジャケットの脱ぎ着ができるし、それでも帯は外さないし、まっすぐな背と白いのどを持っている。
「結論から述べると、本だよね。一冊の書籍」
サツキは視線を上げ、片隅にある本棚を指さした。台本の冒頭にも登場した、最初からここに置かれている小ぶりな本棚。図書館のように立派なものではないけれど、小さな店の小さなお芝居にはこれで十分。
「布張り、箔押し、ジャケット・帯つき。なかなか豪華な本だ。こだわりのある装丁だからジャケットは外して別に保管しているけれど、帯には大切な人からのコメントが載っているから取りたくない。背表紙という言葉がある通り、本のこの部分は〈背〉と呼ばれているし、開いたページの合わせ目部分は〈のど〉と呼ぶ。のどには何も書かれていないのが当たり前だ。読みづらくなっちゃうからね」
マーカーがボードを擦る音が響く。サツキは開いた本の絵を描き、そこに部位の名称を書き込んだ。のど。扉。背。見返し。人体と似た呼び方もあるのが面白い。だから私は、この脚本に取り込んだのだ。
ひと通り書き終えると、今度は閉じた状態の本を隣に描いた。
「閉じた本の三方にもそれぞれ名前がある。指の当たる部分、側面が小口。下が地。そして上部が、天」
ページの重なりを表すように線を描き足す。
「これはほとんど答えと言ってもいい。天アンカット。ページの上部をあえて切り揃えずガタガタの状態にしておくデザインだね。これはこれでコストがかかるし、手抜きではなく、本にとっての〈おしゃれ〉の一部だ。人間の髪型の話ではなく、完全に書籍に関する用語だから決定的だ」
男はすぐに「天丼カット」と茶化したが、女のセリフには確かにその単語がある。知っている者ならそのひと言だけで一気に彼女の正体を知れてしまうのだ。私は彼が次に告げる言葉を予測していた。
「このヒントは大きすぎるから、本番では無くした方が良いと思う」
「そうだね」
彼ならそう言うと思った。思っていたのになぜこうしたのかは、まだ秘密だが。サツキは妙に素直な反応に怪訝な顔をしつつ、話を続ける。
「だからこの問題の答えは、本。彼女の正体は一冊の本だったということ。彼は二十歳のとき一冊の本を書き上げ、世に出したが、それ以降そういった仕事は全くしていない。だから彼女には兄弟がいないが、彼女の仲間――つまり他の作家の本は、三十冊も刊行され続けている」
「唯一世に出した、たった一冊の本。それが男の満足したこと?」
「いや、俺に訊かないでよ。君が作っている脚本なんだから」
サツキは苦笑する。片手でクリーナーを持ち、ボードに描いた絵を消し始めていた。出題者の私に対して図解までする必要はないので、これは彼の癖だろう。何かを説明するとき口だけでなく手も使う方がしっくり来るようだ。
「でも……まあ、そうだよね。彼は本を一冊だけ出して、それで満足した。冒険することはやめて、以降は面白くない仕事を続けている。この〈仲間〉っていうのも、男と全く無関係な本だとは思えないんだよな。数が具体的だから。例えば、一緒に作家を目指した友人はまだ書き続けていて、十五年かけて三十冊も本が生まれて」
「面白くない仕事も大事だけどね」
「それはそうだけど。でも、彼女も言っていたじゃないか」
彼はまだ迷っている。迷っているから自分に会えている。もう書かなくなってしまった作家を、本人以外がどうかすることはできない。どんなに望んでいても、彼の書いた他の本も読みたいと願っても、彼自身が諦めているなら決して。
「夢、まだ諦めていなかったから彼女に会えたんだよね」
ボードを消し終え、再び座ったサツキがぽつりと呟く。私はその正面に座っていて、お芝居の続きをしているような不思議な気分になった。五月。小面の企画するイベントを実際に体験し、色々なことを学んだ。こういった小規模な劇では、脚本に多くを詰め込むことはできない。あくまで簡潔に、推理をメインに、必要なヒントは分かりやすく。だから男はいきなり見知らぬ空間にいるし、記憶にない女に持ち掛けられた推理ゲームにも付き合う。全てを説明することはできないが、推理と無関係な部分にただひとつ、それでも伝えたいことを潜めていた。
もう満足したと話していても、諦めきれていないことは誰にでもある。
「だったら書き続けた方が良いと思う?」
私の問い掛けには答えず、彼は質問で返す。
「りりすちゃんの夢って何だっけ」
「移動図書館を作って、全国に読書の体験を届けること」
何度訊かれてもすらすらと答えることができる。六月、難波教授やハジメ、七珠と話した際もこのように答えたはずだ。きっとサツキは忘れていない。忘れていないが、噛み締めるように何度も聞こうとしている。
誰かさんと違って、私は全く諦めていないから。
「宝くじが当たったら、車を買って移動図書館にするって言っていたね」
「そうね」
「そうしたら、ここからいなくなる?」
その質問には言葉で答えず、テーブルに置かれた台本を手にして軽く掲げて見せた。

   *

そこまで読み進めたところで、浅間は顔を上げた。
窓の外から歌声が聞こえてきたのだ。子供たちのコーラス。賛美歌をうたいながら町を回るとは聞いていたが、歩くのは少し離れた遊歩道のはず。それにしては声が近いことを訝しみ、立ち上がってガラスの向こう側を見た。
温室の真下、国道沿いの歩道にキャンドルの灯りが見える。大人の引率のもと、列を成した子供たちがこちらを見上げて手を振っていた。細かく揺れる光は電球のもので、途中で消えることもない。ここに立ち寄る必要はないが、わざわざ少し遠回りして来てくれたらしい。途中で抜けた浅間を想い、子供たちの誰かが大人に提案したのだろうか。驚いたもののすぐに手を振り返し、かわいらしい聖歌隊が歩き出すまで見守る。彼らは一夜限りの集まりではなく、日頃から練習を積んでいる合唱団の子供たちだ。音楽の道に進むことを夢見る子もいるのだろうな、と考えた。
綺麗な歌声が少しずつ遠ざかっていく様は、まるで夢の中にいるかのようだった。だが、光のあふれる温室の中にいる浅間の姿こそ、彼らの視点では幻想的に映っていたかもしれない。電灯は間引いて点けているが、真っ暗な夜道からは煌々と輝いて見える。
デスクに戻ってもすぐに続きを読み始めることはできなかった。この先を知るのが怖いという思いがどうしても湧いてくる。サツキに渡された日記を読み進め、ついに最終章。このカフェで、現在起きているはずの出来事が綴られている。サツキに脚本を頼んでみたいと小面が話すのを聞いたことはあるが、りりすがそういった依頼を受けるはずがない。小面にとって彼女は存在しないのだから当然だ。日記の中で彼らが読んでいる台本も実在しないし、来るべき本番もない。
だが、この世界では「ある」のだから。
最後に読んだ部分。ここからいなくなるのかと尋ねられた彼女は、台本を掲げることで返答している。それはつまり「本番を放ってどこかに行くはずがない」という意味だろう。来年のいつになるか分からないが、少なくとも今日いなくなるわけではない。あれほど覚悟を決めていたツツジは、彼女を消すことを諦めた――そういうことなのだろうか。
いや、どうにもそれだけで終わらない気がする。
この先に残されたページは、さほど多くない。このまま一気に読んでしまえば三十分もかからないはずだ。彼らは書き終えた。もう結末は変わらない。彼女の夢も、未来も、存在も、全てこの手の中にある。
(考えよう。僕が納得できるように、伏線は張られているはずだ)
脚本を担当するだけでなく、自分でも演じると明言している。つまりこの脚本の「女」の役は、他人に演じられることを想定していないのだ。脚本だけを託し、別の役者を割り当て、自分は消えてしまおうと考えているわけではない。
しかしそれでは、ツツジの覚悟は何も実を結ばないことになってしまう。
浅間が出掛けている間に彼らが執筆していた最終章は、どちらがどの部分を書いたのか分からないほど滑らかに繋がっていた。顔を合わせない状態で同じブログを更新し合っていた頃と異なり、今回は対面して交互に書いている。双方同じ程度の量を担当しているはずなのだが、どこで切り替わったのか読み取ることはできなかった。
(他に役者はあてがわない。人数はこれで足りている。そうなると、このイベントの日に雨屋くんは必ず存在していなければならないし、練習にも参加する必要がある)
それはツツジの決意した「彼女を殺す」こととは程遠い状態だ。
(粗削りとはいえ、台本自体にも不自然な部分がある。天アンカットという単語はヒントとしてあからさま過ぎると如月くんも指摘しているが、雨屋くんはその指摘を最初から予測していたという……)
〝天丼カット〟程度のもじった言葉なら、ヒントとして適しているかもしれないが。男がボードに書いたのもそちらの方だ。正しい言葉は女の口からしか出ていない。指摘されると分かっていたなら、女のセリフをうんと小声にして、聞き間違えた男の言葉だけが観客に聞こえるようにすれば良いものを。
(この部分、どう考えても女性のセリフが余計だ。天丼カットという言葉を引き出すためには、元となる単語を誰かに言わせなきゃならないのは分かるけれど)
とはいえ彼女の重要なセリフはたいてい男が復唱しているのだ。まるで女の声が非常に小さくて、彼にしか聞こえていないかのように。
――なるほど、君の正体を当てたら良いんだな。
――なるほど、君に兄弟はいない……しかし三十人の兄弟を持つ仲間もいる、か。
――君のお父上のこだわりが詰まった着物なのか。
(これって……)
慌てて数ページ遡る。彼女らの演技のシーンを何度も読み返す。作中時間にして十分程度の短い流れ。男と女が登場するだけのシンプルな劇。男が女の言葉を復唱するのは、それが観客に伝えるべき重要な情報だから。そう考えるのが自然だが、もし他にも理由があったとしたら? 男はサイダーを運んだりボードに文字を書いたり色々と動いているが、女は具体的に何をした?
(全部、繋がったかもしれない)
続きを読む決心がついた。デスクライトの元に紙束を置き、視線を落とす。そこでは留守番中のふたりが雑談を終え、解決編の台本を読み始めようとしていた。

   *

「君の正体が分かったよ」
男と女は、再びテーブルを挟んで向かい合っている。ふたりの中央にサイダーの瓶とグラスがある。瓶はひとつだがグラスはふたつに増えていた。
「君には兄弟がいない。俺が生み出さなかったからだ。君の仲間には三十も兄弟を持つ者もいる。こっちは……あいつのことだな。相変わらず筆が速いから」
苦笑する。どこか悔しそうな声。
「君は十五年前、俺が二十歳の頃に生まれた。あの頃は学業も落ち着いて、俺にも少し余裕があったから。あの時もっと頑張っていれば、君に兄弟のひとりでも作ってやれたんだろうか」
女は黙って聞いている。まるで静物になってしまったかのように、動くことなく。
「君の肌は麻の布張りだ。こだわって作ってもらったんだよ。綺麗な紙のジャケットもついているが、外して別に保管している。でも帯は取りたくなかったんだ。俺の尊敬する先生がコメントを寄せてくれたから」
男は手を伸ばす。テーブル越し、女の頭に軽く触れた。
「天アンカット! どうして忘れていたんだか。天丼じゃないさ、ちゃんと知っている。俺がそうしてくれって頼んだんだ。レトロで洒落ていてるだろ」
そう言いながら立ち上がり、舞台上手側に置かれた本棚へ近寄る。そこから一冊の本を手に取り、観客に向かって天アンカットの説明をする。
「こう、上の部分だけがギザギザになっている本を見たことがないか? あれは裁断をミスしたわけじゃなくて、そういうデザインなんだよ。今ではあまり見かけなくなったし、コストもけっこう掛かっちまうが、俺はどうしても天アンカットにしたかったんだ」
本を本棚に戻し、再びテーブルに戻って席につく。
「君は俺が二十歳の頃に書いた小説であり、その本だ。こんな綺麗なお嬢さんになって現れてくれたんだな。子供の頃から作家を夢見ていて、大学で知り合った仲間と切磋琢磨しながら書き上げて、そうして出版社に送り付けた処女作でふたりともデビューした。夢みたいな話だが、俺の現実だ」
「私ほんとうに、綺麗に作ってもらったわ」
ようやく女が口を開く。
「あなたもこれが最初で最後になると覚悟していたのね」
「そうそう、新人作家で期待されていたとはいえ、頼める装丁には限度があるしな。でも俺は必死だったんだよ。俺はいつも最初の一作は渾身のものができるが、そこで全部出しきってしまう。後が続かないんだ。だから生涯でこの一冊しか出せないだろうと、あの時から覚悟していたんだよなあ……」
懐かしむように呟く男を女がじっと見ている。しばらく沈黙が続いた後、彼女は椅子から腰を浮かせて立ち上がろうとした。
「あなたに渡したいものがあるの」
「いい。俺が取ってくる。君は座ってな」
代わりに男が席を立ち、舞台下手側に向かう。女の指示を聞く仕草をしながら、カウンタの内側にある本棚から一冊の本を抜き取って戻ってくる。差し出された本を女は受け取らず、ただ表紙を撫でてから軽く押し返した。
「この本を持って帰ってちょうだい」
「これを持って帰れって?」
手にした本の表紙をまじまじと見る。
「俺、書くのはやめたが読書家ではあるぞ。だがこんな本は知らない」
「知らないのも無理ないわ。それは、あなたがこれから書く小説。書くはずの物語」
「俺が未来に出す本ってわけか。ホントかなぁ? 俺、もう出版社とは縁が切れているから、全部振り出しに戻っているぞ」
男は本を開こうとする素振りを見せるが、実際に開きはしない。まるでお守り袋を手にしているかのように。開けようと思えば簡単に開くだろう。でも、あえてそれを開けようとは思わない。そんな大切なものを手にしている。
「信じないならご自由にどうぞ。でも私、待ってるから」
「うん、ありがたく貰っていくよ」
男は本を傍らに置く。それから、ふたつのグラスにサイダーを注ぐ。片方を手に、もう片方を女の前に寄せて。
「君の正体を当てたから、俺はもうすぐ元の世界に戻る――ってことでいいんだよな。君の願いを叶えるためには、いつまでもここにいるわけにはいかないし」
満杯に注がれたグラスを目の前にしても、女はそれを取ろうとしない。両手を膝の上に乗せたままだ。
「最後に乾杯しよう」
中身はサイダーのグラスを、まるで酒杯のように掲げて。
「ありがとう。君に会えて良かった」
そう言って、置かれたグラスに軽くぶつけた。

   *

テーブルに置かれたサイダーの瓶と、ふたつのグラス。台本の中では確かにサイダーで、しかし本番の劇では水に替えておく必要があって、とはいえ今は空き瓶が用意できなかった為に本物のサイダーを注いでいる。何ともあべこべな状況だ。
「ありがとう。君に会えて良かった」
サツキがそう言ってグラスをぶつける。私の両手は膝の上。だから、置かれたままのグラスに彼が手にするグラスの底を当てる形になる。
「これで……終わりだよね?」
紙束の最後の一枚をひらひらと捲りながら、サツキが言った。私はポンと手を叩く。
「そうよ、これで解決編もおしまい」
グラスを手に取りサイダーを飲む。口の中で泡がはじけるのを感じた。
「どうだった?」
「そうだね……」
台本がこちらに戻される。内容はもう彼の頭に入っているようだった。
「細かい部分はこれから詰めていくとして、形にはなっているんじゃないかな。怪盗も登場せず、誘拐や殺人事件が起こるわけでもなく、夢の中の世界で少女の正体を当てるという展開は、ミステリのイベントとしては珍しいかもしれない。小面さんも喜んでくれると思うよ」
「でも問題点もある、でしょ?」
先回りして私は告げる。彼が言ったことを思い返しながら。
「まあ、確かにね……」
歯切れ悪く彼は返す。今さら指摘しづらい関係でもないだろうに。
「出題編の後にも言ったけど、いかんせんヒントが多すぎる。天アンカットのことはもちろん、外ではジャケットを着ているが家では脱いでいるだとか……。でもそれは、君の好きにすれば良いと思うんだ。難易度を決めるのは小面さんだし、それに合わせて調整すればいい。ただ、別のところが引っ掛かって……」
長い沈黙があった。考え込んでいる、ということが明らかに伝わる時間。彼は今まで様々な事件の推理をしてきた。友人の仕掛けた謎を明かしたり、憬れの小説家の思惑を言い当てたり。だから思考に沈む姿は何度も目にしてきたが、今はそのどれとも種類の異なる沈黙のように思えた。
「りりすちゃん、何か隠していること、ない?」
ついに彼は、そんな率直な訊き方をして。
「りりすちゃんが仕掛ける側に回ったってこと、ないかな」
イベントの企画側になった、なんて単純な意味ではないことくらい分かる。つまり〝君は犯人だ〟と言われているのだ。イベントではなく現実の世界で、君は何かを企んでいる。それを相手に隠している。だから立場としては犯人だ、と。
私は口角を上げて微笑んだ。
「そう思うのなら、私に訊くのは違うでしょ?」
六月。友人とその先輩の見せたマジックを見破ったとき、サツキは彼らのことを犯人だと言った。もちろん凶悪な事件を起こしたわけではない。ただ見破られたくない真実を抱えていて、それをトリックで隠したのなら、探偵が対峙するべき〝犯人〟になり得る。犯人になったからには、探偵と向き合わなければならない。
「解いてみてよ、サツキ。私たち今まで隣り合っていたけどさ、ようやく正面に立つことができたんだから」
この一年間、サツキは探偵だった。小さなカフェで起きた世界には影響しない事件を、あるべき形に収める役目を担っていた。店長もまた、謎を解くことがあった。あるいは五月の事件などは、私が最初に真相へ至った。つまりこのカフェに集う三人は、交代で探偵を務めてきたのだ。
「こんなの初めてでしょ?」
私が見ていない時のことは知らない。もしかすると、店長とは謎を出し合ったことがあるのかもしれない。でも私は初めてだ。私が彼に疑われるのは初めて。
「……分かった」
私のグラスはひと口分だけ減っているが、サツキの方は注ぎ直したので満杯だ。テーブルの中央にある瓶にも中身が残っており、パチパチという音が三重奏を奏でている。普段なら気にも留めないような音がやけに大きく聞こえた。
「俺は今から、君の秘密を暴くよ」
サイダーのはじける泡の向こう、私の探偵がそこにいた。

   *

「天アンカットという言葉がヒントとしては強すぎる、という話なのだけど」
サツキの手元には一冊の本がある。用語を説明するために本棚から取り出し、すぐに戻した本を再び本棚から抜き取っていた。そのギザギザの天をするりと撫ぜる。
「俺がその指摘をしたとき、君はやけに素直だった。まるで最初から、そう指摘されることが分かっていたかのように」
「まだ完成していない脚本だからね。指摘は大歓迎だよ」
「確かに、さほど不思議ではない」
本から離した手をテーブルの上に置く。指を何度も組み直す。明らかに落ち着きのない様子であるのに、グラスのサイダーを飲もうとはしない。
「だからこれ自体は根拠ではないのだけど、これをきっかけに考えてみたことがあった。もしこの脚本から女性のセリフが無くなったら、って」
「女性のセリフがない?」
「これは劇だ。お芝居だ。そこに無いものをあるように見せるのが、演技というものだろう?」
ドラマや映画とは違うんだから、と彼は説明を続ける。たとえばここに本物のサイダーを置いているが、本番ではただの水を使う。いや、場合によっては瓶とグラスすら置かなくてもいい。プロの役者ならパントマイムで表現できるだろう。
「とはいえサイダーの瓶とグラスなんて簡単に用意できるから、わざわざパントマイムをする必要もないけれど。でも、無いものをあるように見せる技術が対象とするのは小道具だけじゃなくて」
「女性のセリフも実際には無いって?」
「セリフというか……存在そのものだよね」
サツキに返された台本を開く。彼はそれに視線も向けないまま、作者の私だけが手書きの文字を目で追った。彼も私も、内容はすっかり覚えている。今はただ推理を確かめるために必要なだけだ。
「思えばこの脚本、女性のセリフや動きを全部消してみても成立するんだ。実際に女性が出てきて『お好きなところに掛けて』と言わなくても、男性が何かを聞く素振りをしてから『ありがとう』と言って座れば、そう言われたんだと観客には伝わる」
続いて男は「ここは何の店なんだい。最初は喫茶店かと思った」と話す。そのセリフを聞いて初めて、観客はここが喫茶店風の空間であることを知る。演劇とはそういうものだ。実際に喫茶店にいるから劇中でも喫茶店にいる、というわけではない。セリフひとつでここは学校にも屋外にも走る列車の中にもなり得るのだ。
「その後も女性は〈無くても成立するセリフ〉ばかりをあてがわれ続けている」
指折り数えながらサツキが挙げていく。私は台本を読みながら追いかける。彼女が「そんなことも知らないのね」と言えば男は「そんなことも知らないのか、って」と復唱する。「ご自身が何者かも分からない?」と尋ねれば「俺? 俺は――」と彼が応える。女の声が何ひとつ観客に届いていないとしても、男の言葉から全て推測できるように。
「とはいえ、これだけで女性の存在を無いことにするのは早計だ。彼女を演じる君は素人だからね。本番でのリスクを分散するために、重要な部分は男のセリフで復唱するようにした――だとか、可能性はあるけれど」
言葉を止め、サツキは後ろを振り返る。厨房の方向。店長がいつも作業をしている場所。劇中でも男がそこからサイダーを運んでくる描写がある。
「彼女は何も運ばない。全部男性が代わりに運ぶんだよね」
こちらに向き直り、彼は言った。
「喫茶店風でありながら喫茶店ではない場所のようだけど、それでも飲み物を運ぶのは彼女の役目だろう。わざわざ客人が立ち上がって運ぶより、給仕が運んできた方が流れとしては自然だ」
「彼女は給仕じゃないし、立派な振袖を汚さないようにという理由があるわ」
「振袖……振袖、ね」
――そんな振袖の着物姿で、汚したらどうするんだ。
男性はそう言いながら盆を運ぶ。女性の存在が脚本内だけの存在だというのなら、観客はこのときに彼女の服装を知ることになる。
「本の豪華な装丁を振袖という形で表現したんだね。それだけじゃなく、男が代わりに動いて世話を焼いても不自然じゃないように一役買っている」
「それは推理じゃなくて推測だわ」
「男が立ち上がって代わりに動く、それが一度きりならね」
サツキの視線が私を飛び越え、その後ろへと向かう。今度は私が振り返る番だ。彼が見ているのは窓際にあるカウンタだった。いつもは店長がひとりで立っていて、それで満員になってしまうような狭い場所。
「劇中ではあそこに本棚があることになっている。あなたに渡したいものがある、と言って女性が立ち上がったとき、彼はそれを制してまで代わりに本を取ってきた。既に盆に載せられているサイダーならともかく、形も分からず、どこにあるのかも分からない物を指示を仰ぎながら探して……」
それは明らかに不自然ではないか。現実ならともかく、些細なノイズも排除しなければならない推理劇において、一線を越えている。
「これでも根拠としては薄い?」
確信しているはずなのに、自信の無さそうな声で彼が尋ねる。大丈夫、と私は返した。そうしないと彼は引き下がってしまいそうだから。正解なのに。彼はちゃんと、私の抱える真相に辿りついたのに。
「出題編・解決編を通じて、女性のセリフや動きが必須となる場面は一度も無いんだ。全て男性がカバーしている。時にはわざとらしくなりながらも、ひとつひとつ言葉を復唱して。代わりに動いて。単なる演出やリスクの分散としては、徹底しすぎている」
振り袖姿の女性は存在しない。
だから、サイダーであろうと本であろうと、物を運ぶことは一切できない。
劇中には確かにいる。男が空想に呑まれてひとりで喋っているわけではない。だが、役者としては存在しないのだ。ひとり芝居。演劇にはそういうジャンルがある。ここはカフェだからテーブルも椅子もサイダーもグラスもあるが、ひとつだけどうしても用意できないものがある。それでも身ひとつで全てを演じられる役者がいると、私は知っている。小面さんなら、きっとそういう人を連れて来てくれると信じているから。
「りりすちゃん、消えるつもりなんだね」
脚本を提出して。これから始まるはずの練習に参加して。本番の日をここで迎えるつもりなら、こんな演出は必要ない。
「小面さんの依頼を受けたときには、そんなつもりも無かったのかもしれない。でも、何かが起きて事情が変わった。本番を迎える頃、君はここにはいない」
小面を騙すつもりはない。ふたりで演じるはずだった脚本をひとり芝居に書き換えて、それで済む話だとは到底考えていない。彼女には事情を明かし、女性のセリフを消し去った脚本を提出して、その上で採用するかどうか委ねることになる。ただ、書き直しているときに思いついてしまったのだ。そこにいるはずなのに実際には存在しない、そんな自分のことに、彼なら気付いてくれるかもしれないと。
「気付いてくれたら、私から打ち明けなくても済むから」
雨屋りりすはここにいる。ここの他に居場所はない。
――そのはずだった。そう思い込んでいた。
「カオル、いなくなっちゃったでしょ。私に本だけ残して消えちゃった」
壁際に置かれた本棚に視線を向ける。普段からここにあって、客が待ち時間に読むための本を並べてある場所。劇中でもセットの一部として使わせてもらうつもりだ。そこに収められた一冊の植物図鑑は、別れ際に友人が渡してきたもので。
「それっきり戻ってこないの。本当に、どこをほっつき歩いてんだか」
具体的な報せがあったわけではない。何もない。彼女がいないままにも世界は動き、ともすればその穴さえ忘れ去られそうになってしまう。
「だから私も、そろそろ追いかけなきゃな、って」
心残りはあった。せっかく、小面が期待を寄せてくれたのに。店長はひとりで大丈夫かしら。小龍の人懐こい笑顔を見れないのは寂しいな。元気になったハジメの、成長する姿を見ていたかった。もしかすると……本当のほんとに万が一にだけど、ここに居続けていたらカオルがひょっこり戻ってくるかもしれない。
でも、なぜだか急に、全てが「大丈夫だろう」と感じられて。
「ねえ、サツキ。私はもういなくなっても大丈夫だよね。私さ、このままここにいちゃいけないような気がするんだ」
「それは……式見さんを追いかける、っていう意味……」
「だからさっきからそう言ってるじゃん」
ガタン、と音がする。サツキが椅子を倒す勢いで立ち上がったのだ。テーブルに手をついて傾いた分だけグラスの泡が流れていく。彼は睨みつけるように私の顔を見た後、踵を返して扉の方へ向かった。
コートも羽織らず、店の外へ続く扉を開ける。
私も立ち上がって彼の後を追った。勢いのついた扉が閉まり切る前に身体を滑り込ませ、冷えた空気の中へ飛び込む。温室の下。敷地のほとんどを占めるピロティ。駐車場として使っているその部分のせいで、肝心のカフェはこじんまりしている。
「ああ……」
溜め息のような彼の声が漏れ聞こえる。あまりにも茫とした声色だったので、何を言い出すのかと思いきや。
「今日、クリスマスだったか……」
そんな今さらなことを呟くので、私は噴き出してしまった。おおかた、外に並んだツリーやイルミネーションが目に入ったからだと思うが。
「何言ってんのよ。クリスマスのイベントで店長が外出しているから、私たちが留守番を任されているんでしょ」
「そうだった」
彼は振り返る。白く細かな光がその姿を縁取っていた。
「りりすちゃん」
「はぁい」
もう険しい顔はしていない、と思う。輪郭ばかりが明るくて、彼の表情はちっとも読み取れないけれど。
「宝くじ、当たったんだね」
「それはご想像にお任せします」
「でも、あるじゃん」
子供のように彼は指さす。駐車場の片隅、いちばん奥に、まるで最初からあったかのような佇まいで停められている大きな車を。
フォルクスワーゲン。いくらでも本が積めそうなマイクロバス。
私がずっと憬れていた、目の覚めるようなシグナルグリーン。
「あるじゃん、車! 移動図書館!」
「本を積むのはこれからだけどね」
車に歩み寄って窓を開ける。既に改造は施されており、窓の外から本棚に手が届くようになっていた。たとえば病室の隣に停めることができれば、ベッドから起き上がれない子供たちも窓越しに本を選べるだろう。今はまだ空の本棚が見えるだけだが、いずれはここに本を詰め込み、日本中を巡る旅に出る。
それが私の夢だし、いなくなったカオルを探し回ることにもなると思うから。
「ずっと前から言ってたもんね。移動図書館で旅に出るのが夢だ、って」
「そうね。店長には申し訳ないけれど、これからはひとりで頑張ってもらわないと」
すごい、格好いい、と繰り返しながら彼は車の周りをうろついている。これほど無邪気に喜んでもらえるとは思わなかった。反対されるかもしれない、なんて杞憂だったのかもしれない。自分から伝える勇気がなくて、彼の方から気付いてもらいたくて、こんな回りくどいことをしてしまったが。
改めて考えてみれば、彼が他人の夢を否定することなどあり得ないのだ。
「君は天使だと思う」
寒いからそろそろ戻ろう、と声を掛けようとしたとき。サツキは唐突にこちらを見てそう言った。ここには私たちふたりしかおらず、私に向けられた言葉であることは明らかであるのに、咄嗟に受け止めることができなかった。君、というのは誰だろう。私だったらいいな。そんな愚鈍な考えがぐるりと頭を巡って、ようやくすとんと落ちる。
ここには私しかいない。
サツキが私のことを、天使だと言ってくれている。
「どこかに行くことが難しい環境で生きている人たちに、君の方から巡り合って読書の機会をプレゼントする。読みたい本を渡せば、どこへでも連れていくことができる。だから君は、翼を持った天使みたいだなって」
まだ空っぽの本棚の前で彼は立っている。少年のような輝きをたたえて車を眺めていた瞳は、いつの間にか私をしっかりと見据えている。逃げられない、と感じた。探偵と犯人の関係はもう解消されているはずだが、私は彼の言葉をはぐらかすことができない。
「じゃあさ」
乾いた空気に声が転がっていくのを感じる。消えてしまう前に、次の言葉を。
「私が連れていくことのできる世界、ひとつでも多く増やしてよ」
クリスマス。ふたりの人物が向き合っていて、傍らには車がある。旅に出るという話をしている。でもここに乗り込むのはひとりだけで、これからは異なる道を進むことになる。私たちの人生は一度交わった。おそらくもう何度も交わることはない。同じ夢を見ているわけでもない限り、人と人とはそう簡単に日々を共にすることはできないから。
それでも、本という小箱に人生の欠片を詰め込んで、大事に預かることができたなら。
「私も行ってみたいから……」
これは、告白になるだろうか。私にとって人生で初めての、好きな人に対して好きと告げる行為になるだろうか。好きにも様々な種類があって。それは簡単に名前を付けられるものではなくて。でも私が彼に向けている感情は「あなたの作る世界を携えて生きていきたい」という意味の〝好き〟なのだと思う。
「もちろん、サツキの決めることだからさ……」
書いてほしいと言って簡単に書けるものではない。書いたところで本の形になるとは限らない。サツキがやりたくないことは無理強いしたくない。かつて彼が自らの夢を過去形で話したことを、決して忘れてはいない。それでも、もし可能性があるのなら。
祈るような気持ちで彼の顔を見る。
蝋燭の炎を吹き消すような息遣いで、小さく笑う声を聞いた。
「もしその時が来たら」
そう言った彼の顔は、驚くほど優しい表情をしていて。
「本棚の中で、君がいちばん素敵だと思う場所に置いてね」
正面の真ん中だとか、目立つ場所だとか。そんなつもりで言ったわけではないことくらい伝わる。ただ私が、雨屋りりすが素敵だと思う場所でいい。彼から直接託されることもないだろう。いつか風の便りで「その時が来た」ことを知ったなら、私がそれを自分で入手して、彼には知らせないままそっと本棚に収める。
私たちにはそんな関係が似合っている。
「じゃあ、戻ろう。風邪ひいちゃうよ」
自分の方がよっぽど薄着のくせに、棚に上げて彼は言った。扉の方へ私を促す際、その掌が軽く背中に当たる。私の、羽なんて生えていない平らな背中に。
私って、天使なのかな。本当に? 彼がそう思ったのならそうなのかな。
でも、私からすればサツキの方がよっぽど――
ドアベルの音に思考を遮られる。温かい空気が身体を包む。これからもこの小さな店では様々なことが起きるだろう。彼はそれを解決するかもしれないし、しないかもしれない。新聞やラジオの報道に載るようなことではないだろうから、ここを離れた私に知る由もない。それだけが少し名残惜しいな、と感じた。
「あ、ほら」
席に戻るかと思いきや、サツキはそこを素通りして螺旋階段の方へ向かう。その指は二階の温室を指していた。
「歌声が聞こえる。聖歌隊が近くまで来ているんだ。温室からだとキャンドルの灯りが綺麗に見えるかも」
「え? 本当に聞こえる?」
「かすかにだけど子供たちの声がする。店長も一緒にいるかもね」
「行こう!」
ふたつの足音が響く。頭上に浮かぶ満月を目指して、鮮やかなグリーンの階段を私たちは駆け上った。

   *

浅間は紙束をデスクに置いた。
最後の一枚を捲ったということは、すっかり読み終えたということ。そんな当たり前のことを反芻してしまうほど、すぐには思考が動き出さなかった。
雨屋りりすは消えた。しかし、亡くなったわけではない。
宝くじでも当たればすぐに買うと言っていた車を手に入れ、夢に向かって歩みを進めた。だからもうここには帰ってこない。脚本と出演を任されたイベントも、事実上辞退している。あと一年でもここにいれば丸く収まるだろうに、彼女はそうしなかった。
それもそうだ。本来の計画では、彼女は殺されるはずだった。
ツツジはそう宣言していた。彼の目的はりりすの存在とサツキを引き剥がすことで、そのためには「二度と戻らない」状況を作る必要があったからだ。天使のように蘇ったとしても、死者は死者。あるべき姿に還さなければ。かつては雨屋りりすを架空の存在だと思っていた彼も、今となっては彼女が故人であることを知っている。いくら浅間が許していても、サツキが拠り所としていても、これはあまりに歪な状況だ。正さなければ誰も前には進めない、と。
しかし彼は彼女を殺さなかった。
妥協と呼ぶのは違う気がする。きっとふたりは納得の上でこの結末にたどり着いた。彼女は死なない。死者には戻らない。だが、サツキの書いた本をその手で受け取りはしないほどに強固な別離が予感されていた。彼女が「書いてほしい」と願った場面は、どちらの筆によるものだろう。彼が「もしその時が来たら」と返したのは、どちらの意図だろう。少し考えを巡らせてからやめた。それは野暮というものだ。
「もう、いなくなってしまうのか……」
思わず声が漏れた。安堵、と言えばそうなのかもしれない。死ぬだろうなと思っていた相手が死なずに済んだ。誰もが納得できる形で結末を迎えた。それは聖夜の贈り物だと受け取っても良いほどに喜ばしいことだと思う、が……。
あまりに喪失感が重い。
よろよろと立ち上がる。日記の最後でふたりが駆け上がってきた階段を、逆方向に進む。一階のカフェでは、現実の世界では、サツキとツツジが待っているはずだ。しかし誰もいないと思うほどの静寂が漂っており、浅間は無意識に足音を潜めた。最後に見たときと同じく、窓際の席で向かい合う人影。近づくにつれて静かな理由が分かった。彼らはゆらりと首を垂れて、鏡写しのような姿勢で眠っている。
起こしてまで声を掛けるつもりはない。その傍らを通り過ぎ、カウンタの中へ立った。やはりここにいるのが最も落ち着く。日記の中では何度も狭いと描写されていたが、その言葉に嘘はない。グラスは頭上に吊るされ、食器は天板の下。棚のひとつも置けないくらいに手狭な空間。
(……あれ?)
何か違和感を覚えた。彼らは実際にこのカフェで日記を書いたのだから、描写に間違いはないはずなのに。
(背後には窓。ピロティとは逆の方角だから、上は開けていて月も見える)
そういう描写もあったはずだ。妙な心地になりながらその場でひと回りする。椅子を置くだけで窮屈になってしまうので、折り畳み式のものを片隅に。相変わらずよく晴れていて雪の降る気配もない。作中でも、現実でも。
りりすたちのいた空間と、この場所に大きな相違は見られない。
では、お芝居の中となら?
手にした紙束を捲り、台本の読み合わせをしているシーンを辿る。喫茶店風の舞台。だから家具の配置を変える必要はほとんどない。中央に置かれたテーブルと椅子を中心に芝居が進行し、片隅に置かれた本棚もそのまま使っている。天アンカットの説明をするため、男が本を抜き取ってくる。本が登場するシーンはもうひとつあって、そこでも本棚は重要な役目を務めている。作家業を続けられなかった男が、いつか書くというお守りのような本を収めているのだから――
いや、違う。
(先に登場する本棚と、二番目に使う本棚は別物だ!)
天アンカットの本が収められているのは上手側。男が未来に書くという本が収められているのは下手側だ。はっきりとそう記されている。浅間は足元を見た。女の指示を受けて男が本を取り出したのは、カウンタの中の本棚。つまり天板の下あたりか、反対側の窓辺にあるということになる。こんな、ひとり立つだけでやっとの空間に。
(小面さんの企画するイベントは、観客が食事をしながら観劇する形式だ。五月のときもそうだったし、この脚本でも客が食事をしているような描写がある)
だから、本番でもこのカウンタは使うはずなのだ。料理は厨房で作っているが、飲み物の用意や提供はここで行う。グラスが吊り下げられているし、食器も天板の下にある。一台の本棚を置くためにわざわざ空けることはできない。
(まさか……)
浅間は窓の外を見た。
もう、そこしかなかったからだ。
(車に積まれた本棚なら、窓越しに本を取ることができる!)
窓を開ける。首を突き出して外を見る。駐車場とは反対側だが、ここにも車を停めるくらいの空間はある。窓を大きく開き、本棚をこちらに向け、堂々と停まっているマイクロバスの姿がそこに――
あるわけも、ないのだが。
式見カオルが植物図鑑を残していったのは事実だ。ただしりりすではなくサツキに譲っていた。それはいまだカフェの本棚に収められており、誰かに開かれているところを見たことがない。サツキは意図的に避けているのだろうが、他の客が手を出さないのは単なる偶然だろう。だから宝くじは挟まったままだ。当選発表も、引き換え期間もとうに過ぎており、今やただの栞となっている。
確認していないのだから、当たったことにしても良いだろう。
いつの間にか、窓辺には一枚の額縁が立て掛けられていた。昨日までは壁に飾られていたはずのものだ。フォルクスワーゲン。緑のマイクロバス。浅間の愛車などではなく、調度に合う洒落た写真を選んだだけ。それほど深い意味はなかった。しかし彼女がこの車を夢見た日から、明確に特別な存在となって。
彼女の移動図書館は、イベント当日、ここへ戻って来る。
たとえ、脚本だけ託して本人は旅立っても。練習を見に来ることすらできなくても。男性の役者ひとりで劇は進行し、彼女の存在は必要なかったとしても。カウンタの中に本棚があると描写されている限り、雨屋りりすはここに戻ってくる。本を満載した移動図書館を運転し、窓の外にぴったりと停め、懐かしい仲間たちに会いに来る。
来年のどこかで一度だけ。もう次はないだろうけれど、確実に。
そうやって彼女を繋ぎ留めたのはサツキだろう。そんな気がした。
ツツジは気付いているだろうか。劇に登場する二台目の本棚が、りりすとの再会を証明していることに。浅間のように実際にカウンタで立ってみなければ、違和感を覚えることも難しい。彼女を消し去ることを考えていたツツジは、彼らの再会を許せる立場にいない。もしこの描写に気付いていたなら、自分の番で修正していたことだろう。
(いや……聡い彼のことだから、きっと)
気付かないふり。そうだったのかもしれない。
消そうと思えばその指ひとつでいつでも消せる、木漏れ日のように儚いひとりの女性。自己表現に悩んだ兄弟が生み出し、拠り所とした存在。失踪する友人を止められず、失意を抱えながら、それでもクリスマスまで生き延びた人。
気付かないでいることが、彼なりのプレゼントだったのか。
折り畳んでいた椅子を取り出す。広げて腰を下ろし、改めて店内を見渡した。
上から下まで、ひとりでも切り盛りできる広さだと思っていた。
けれども今は、少しだけ人手が足りないと感じる。
身体を傾げて青年たちの姿を伺い見る。最後の執筆に全てを出しきったのか、深い眠りに落ちているようだった。ずっと手にしていた紙束――否、紐で綴じられた立派な本を天板に置く。白い表紙に一行の文字列がある。もう何度も目にした、それでも決して飽きはしない言葉。シグナルグリーンの天使。
静かに視線で読み上げた後、傍らのペン立てから万年筆を取り出した。
天から降りてきた者が天使ならば、それを連れてきてくれた者もまた、天使だろう。
どんなに願っていても、浅間には成し得なかったことだ。
一階は喫茶店。二階は温室。隣には一棟のアパート。この空間にいた天使はひとりきりではない。少なくとも浅間にとっては、彼も天使だった。
インクを走らせる。表紙の題字に、たった二文字を書き足した。

〈十二月・人間万事サイダーが美味い 終〉
〈シグナルグリーンの天使たち 完〉
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