Arachne ~君のために垂らす蜘蛛の糸~

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Q1・ふさわしいものを選べ

歌舞伎座

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   *

 歌舞伎座の前で集合した俺たちは、その規模の大きさに驚いた。歌舞伎専用の劇場というだけあって、まるでテーマパークのようだ。地下の広場には売店や弁当屋が立ち並び、嫌でも気分が盛り上がる。

「席で食事をしてもいいんだ?」

 小学生の頃に観劇したことがあるとはいえ、俺はほとんど初心者だ。花房は本やネットで勉強したらしく、それなりの知識がある。彼にナビゲートしてもらいながら、休憩時間に食べるための弁当を選んだ。

「楽しいな。修学旅行みたいだ」

 巨大な提灯があちこちに掲げられ、和風の商品や美味しそうな食べ物が売られている。役者たちのブロマイドも並んでいるが、これを見るのは鑑賞後の方がいいだろう。初めは花房の隣を歩いていた俺も、あちこち目移りして店に吸い寄せられてしまった。はぐれないように何度も振り返りながら歩いていると、彼の方も楽しそうにしている様子が伝わってくる。誘って良かった。花房にとっては、興味はあれども入れなかった場所だ。俺が一緒にいることで安心して楽しめているのなら、これほど嬉しいことはない。

 開演時間が近付いてきたので、パンフレットを買ってから座席へと向かう。最も安価な三階席だ。貧乏学生の俺はもちろん、花房も目立つ席には座りづらい。チケットに記された番号を辿ると、中央の良い席が用意されていた。ふたりで並んで腰を下ろす。

「叔父さんの出る演目がちょうどやっていて良かったね」

 パンフレット(筋書と呼ぶらしい)を開きながら、隣の花房に話し掛けた。彼は緊張した面持ちで頷く。蜂須に引き取られたばかりの頃は、叔父とも稀に顔を合わせていたそうだ。従兄弟が亡くなり、跡継ぎの問題が発生してからは避けてばかりだった。会ってしまうと何もかも引き受けてしまいそうになるから。叔父の方も多忙らしく、もっぱら交渉に来るのは祖母ばかりだ。

 今日、久しぶりに叔父の顔を見ることになるのか。もちろん素顔ではないが――いや、仕事の顔だからこそ、花房は緊張している。彼の仕事を目の当たりにすれば、今までの考えがそっくり変わってしまうかもしれない。そんな予感は俺にもあった。方針が一気に固まって、明日にもアラクネを去ってしまうかも……。

 いかんいかん。開幕前にしんみりしてしまった。

 今日の演目は近代に作られた新歌舞伎だから、俺たちにも分かりやすいはずだ。明治時代の文豪の小説が原作だ。あらすじを先に読んでおくと分かりやすい、と聞いたので目を通す。原作には更に翻案元があって、竹取物語をモチーフにしたものらしい。月から追放され、地上に送られた姫は無実の罪だった。月の住人である実の父母が引き取りに向かったところ、彼女は既に地上の老夫婦のもとで幸せに暮らしていて……。

(迎えに行くが敵とみなされて反撃され、最後は娘の幸せを願って身を退くのか)

 あらすじに結末まで書いてあるというのも、歌舞伎特有なのかもしれない。花房は純粋に展開を楽しみたいため、今回は先に読まないと話していた。閉じられた冊子が膝の上に置かれている。その横顔を眺めながら、本当は月で生きるはずだったかぐや姫に思いを馳せた。

 月と地上。どちらが彼女にとって本来の居場所だったのか。追放が無実の罪によるものである以上、月で生きるべきだったのか。しかし、連れ戻されて老夫婦と別れていても、それは誤りだった気がする。試験の結果のようには答えの出ない問題が、物語にも現実にもたくさんあった。

 花房家は本来、長男が家業を継ぐはずだった。ならば末裔である花房藤乃は日本で跡継ぎになるべきなのか? それとも、蜂須が率いるアラクネで活躍するべきなのか? 彼にとっては、どちらが月でどちらが地球なのだろう。

(分からないな。俺には何も……)

 この観劇を終えたとき、花房自身が何か結論を出すのかもしれないが。俺は友人として眺めているだけだ。どちらの道に進んでも受け入れたい。自分に言い聞かせるように考えながら、静かに開幕を待った。

 役者の動きや衣装は属性によって特色があり、観劇初心者にも分かりやすかった。登場した瞬間から、誰がどんな役なのか分かる。特に女形は立ち姿からしてしゃなりとしており、身長は他の役者と変わらないはずなのに美しく華奢に見えた。

 花房の叔父は月からの使者の一員で、脇役だった。細々と続けてきた家が主役に食い込むのは、やはり難しいのかもしれない。見得を切る場面もなく、大向こうから屋号を呼ばれることもなかったが、俺にとっては最も印象に残った役者だった。

 友人の血縁者だから、という理由だけではない。声が特徴的なのだ。少し掠れて聞こえるのに、心に直接飛び込んでくるような魅力がある。三階席に座る俺たちのところまで、まっすぐ届いた。正直、かなり遠いので姿形ははっきり見えない。だからこそ声の要素は大きく、この血筋が途切れるのはもったいないな、という考えまで浮かんできた。
 
 昼食休憩を経て、第二幕へ。ここではかぐや姫の心の葛藤が描かれた。月からの使者が自分の実の親であると気付き、思い悩む。帰るべきか、帰らざるべきか。既に地上では帝の召集を受けて武士が待ち構えている。天に向けて弓を引いている。

 この緊張感。殺気立った空気。花房の祖母に対して誤解をしていた頃、俺もこういった空気をまとっていたのかもしれない。監視カメラの警報が鳴り、ひとりの老婦人が現れ、蜂須と対峙した。いま思えばあれは勝負などではなく、正当な交渉だ。祖母は孫の顔が見たかっただけで、その感情のあまり言葉遣いが強くなってしまった。蜂須の方も少し乗せられてしまった様子ではあったが、どちらも花房を大切に思っていることには変わりないのだ。ふたりの目指すところは同じで、争っているわけではない。

 舞台の上では、かぐや姫の決意が固まった。ここでの生活が幸せであること、老夫婦に育ての恩を返したいことを告げ、月の使者を引き下がらせる。実の両親の方も、彼女の意思を尊重して去っていく。花道は平坦であるはずなのに、そこを行く一行は空へ吸い込まれていくかのようで。この世のものではない。明確にそう感じた。拍子木の音が鳴り、幕が閉まりきるまで、俺は舞台を食い入るように見つめていた。

「なんか……すごかったな」

 歌舞伎座を出てすぐ、俺はぼんやりとしながら花房に言った。彼さえ良ければ喫茶店にでも入って感想を言い合いたかった。

「上手く言葉で説明できないけどさ、凄いものを観た。叔父さんも端役だったけど存在感があって……」

 そう語り始めたが、次の言葉が出てこない。「上手く言葉で説明できない」という言葉の通りに。こんなんじゃ駄目だ。俺は日本語ネイティブで、日本の伝統文化による芝居を観た。だからちゃんと言葉で説明できなければならないのに……。

 だが、花房は微笑を浮かべながら頷いてくれた。

「うん。言葉で説明できないほどに凄かったね」

 そこには、彼の感情が凝縮されているように思えた。英語話者としても日本語話者としても完全ではない彼は、今までも「言葉で説明できない」ことの連続だったはずだ。周囲からすれば話せているように見えても、本人が伝えたいことの何割も表現できていない。なまじ頭が回るから、別の表現で代用できてしまうだけ。「説明できない」ということは悲しいことで、もどかしいことで、申し訳ないことでもあった。でも、今の彼はずいぶんと明るい顔をしている。

「自分には無理だ。歌舞伎の繊細な表現を、自分の言葉で生み出すことはできない。だから作り手に回ることは無理だよ」
「ということは……」
「自分はアラクネの講師を続ける。歌舞伎の道には進めない」

 明言。憑き物が落ちたかのような、晴れやかな顔で。これは消極的な選択ではなく、彼なりの敬意の表明でもあるのだろうな、と思った。自分にはとうてい担えない、それほど素晴らしいものを見せてもらった。だから依頼は受け入れられないし、自分は自分の道を行く。

「じゃあ、手紙を書くというのはどうかな」

 俺はそう提案した。結論が出たということは、花房はそれを報告する必要がある。今まで避けてきた相手と対面して話さなければならない。もちろん蜂須がサポートにつくだろうし、彼だって自分の意思くらい自分で伝えられるはず。でも、伝えたい思いは本当にそれだけだろうか? 先ほどの観劇で感じたこと、考えたこと。表現されるときを待ち構えている胸のうちの衝動。対面した状態で、会話という形式で、それだけで伝えきれるものだとは思えなかった。

「歌舞伎座の売店で便箋が売ってあったはず。それを買って、喫茶店にでも入って手紙を書こう! 今の興奮が冷めないうちに」
「でも……自分の言葉で伝わるかな。こんな日本語で……」
「大丈夫。俺がついてる」

 同性の友人相手にこんなセリフを吐く日が来るとは思わなかった。しかし事実だ。俺は日本で生まれ、日本語だけを浴びて育った。まごうことなき日本語ネイティブだ。怖気づいてどうする。俺が、日本語による表現の手伝いをできなくてどうする。

 ヤバい、凄い、エモいしか言えない。そう思っていたのは、単なる逃げだった。生まれてから現在に至るまで、触れてきた語彙は無限に近い。考えれば出てくるはずだ、ぴったりな表現が。生かさなければ。まずは、目の前の大切な友人のために。

 便箋を入手した俺たちは、喫茶店に入って手紙を書き始めた。伝えたいことはいくらでも湧いてきて、書いても書いても終わらない。場所を変えながら何時間もかけ、使った便箋は十枚近くに上ったと思う。

 俺はスマホで辞書を引きつつ日本語のニュアンスを伝え、花房はそれが自分の感情と一致しているのか確かめた。合わなければ他の語彙を探す。組み合わせを探る。妥協してはいけないのだ。単なる日常会話なら大まかな意図さえ伝われば十分だが、これは違う。花房の感じたことを、考えたことを何ひとつ取りこぼしてはいけない。

 そうやって少しずつ書き進め、ようやく完成が見えてきた頃。花房がファンに見つかってしまうという出来事があった。何軒目かの喫茶店でボックス席に座っていたところ、二人組の女子高生に声を掛けられたのだ。
彼女らは騒ぐことなく丁寧に、ここへは何の用で来たのか尋ねてきた。少し迷ったが、歌舞伎を観た帰りだと正直に答える。ふたりはそれを聞いて目を丸くすると、顔を見合わせて「私たちも観に行ってみたい」と話していた。

 なるほど、こういった広め方もあるのか。女の子たちが去った後、俺は花房を見た。彼もこちらを見ている。言いたいことは伝わったようだ。

「梨園との関係を公表してもいいか、叔父さんや瑠璃子さんに確かめてみる」

 跡継ぎになることは断るが、縁を切りたいわけではない。本当は叔父や後継者たちの芝居をもっと見ていたかったはずだ。よそから養子を迎えるつもりがない以上、今の代で途絶えてしまうことは避けられないが、それでも決して無かったことにはさせない。絶対に忘れない。このさき何百年だって広め続けてやる。

 そんな静かな執念を、瞳の奥に感じた気がした。
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