Arachne ~君のために垂らす蜘蛛の糸~

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Q2・差異の要因を説明せよ

業務風景

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「お疲れさまです!」

 事務所へ続く扉を開けて元気に挨拶をする。出社していた十数名のスタッフが口々に返事をしてくれた。俺は両腕と背中にある荷物をガチャガチャと揺らしながら、自分のデスクへと向かう。

「すごい荷物ね」
「ああ、マリアさん。学校帰りなんですよ」

 社会科担当の講師・マリアはいつ出社してもオフィスにいる気がする。だから必然的に話し掛けられる頻度も高い。最初のうちはその美貌やオーラに緊張していたものの、季節がひとつ過ぎた今、ようやく気軽に話せるようになった。

 そう、今は八月。世間は夏休み真っ盛りだ。

「あなたが長く続いてくれて良かったわ。でも、大学は忙しくないの? こんな夏休みの間も行かなくちゃならないなんて」

 映像編集のアルバイトとして雇われた俺は、なんやかんやで四月からずっと仕事を貰えている。フレックス制で好きな時間に出社できるので、辞める理由もなかった。卒業が見えてきた大学生活は、最後の課題を提出するべく何かと忙しい。だが、今までの怠惰のツケが回ってきたのだと考えれば安いものだ。

「学校で進めなきゃならない作業があるんで、ちょくちょく顔を出してるんです。でもそれほど忙しくはないですよ。こっちの仕事には影響しませんからご安心を」
「ふふ、無理はしないでね。何かあったら社長に相談すればいいわ」

 そう言い残して彼女は立ち去る。自分も多忙だろうに、アルバイトにねぎらいの言葉を掛けてくれるんだもんなあ。見た目はまさしく高嶺の花で、もっとツンツンした人かと思っていた。実際、仕事に対する姿勢はストイックで、心配になってしまうこともあるが。

 ノートパソコンが一台あれば作業できるので、デスクはただの荷物置き場になりつつあった。むしろ席を離れた方が集中できる。フロアには同じような目的のスタッフが散らばっており、各々の落ち着く場所でキーボードを叩いていた。風通しの良い職場を目指しているらしく、簡単に仕切られただけの共有デスクや会議スペースが用意されている。もちろん奥には個室もあって、そのうちのいくつかは撮影部屋になっていた。

 俺は壁際の椅子に腰を下ろした。会議スペースのすぐ隣だ。もうすぐここに人が集まるはずだが、話し声の聞こえる方が集中できるタイプなので問題ない。月曜日の午後一時。朝から出社している人と、昼からの出社を選んだ人とが挨拶を交わすタイミング。会議の予定を入れるなら、この時間帯がちょうどいい。

「お昼休憩、終わったよー」

 間延びした声と共に蝶野翡翠が現れ、こちらへと向かってくる。スタッフひとりひとりの席を巡って挨拶をするものだから、その道のりは長かった。律儀というより交流が好きなのだ。急に距離を詰められて驚くこともあったが、今はもう慣れた。人懐こい彼の笑顔を見ないと物足りなく感じるほどだ。

「ソラくん、来てたんだ」

 会議室に置かれた円卓。その席のうち、最も俺から近いものを引いて腰掛ける。ほとんど仕切られていないスペースだが、出入口から近い場所を下座とするなら、そこが蝶野の定位置だった。メンバーの中で序列が決まっているわけではなく、人の気配を感じたいだけだろう。会議の直前まで他のスタッフと話し、会議中でも確認したいことがあれば気軽に声を飛ばしてくる。

「会議のある日はいつもそこにいるね」

 俺の座る場所を眺めながら、蝶野は言った。よく覚えてくれている。幹部会議は毎週月曜日に行われているが、そのとき俺はここに座るようにしているのだ。

「幹部の方たちの話を聞いていると、俺もアラクネの一員になったんだと実感するんです」

 映像編集のアルバイト。メインの業務には関わらない立場だが、アラクネが抱えている仕事の内容を知っておきたかった。一週間の撮影予定。外部とのコラボや企業案件。学生から寄せられた質問への対応。ただ聞き流すだけでも効率よく把握することができる。社長である蜂須もそれを見越して、オープンな空間で会議をしているのだろう。

「もう四ヶ月も経ったもんね。ソラくんもアラクネの仲間だよ。まあ、僕は初日からそう思っていたけれど」

 そりゃあ、あなたはそうでしょうに。初出勤から毎日三回ずつは話し掛けられている。新作の菓子のこと、マリアに叱られたこと、街角で見た猫の話。不思議と俺の仕事については尋ねてこない。こちらから質問すれば何でも答えてくれるが、踏み込んでいい範囲の線引きはしっかりと決めているようだ。
節操がないように見えて、底知れない思慮深さも感じる。俺に対するボディタッチが多いのも、きちんと許可を求められた結果だ。男女問わず、触れても構わないと言われた相手にだけ距離を詰めている。おそらくマリアには拒否されており、近付きはしても一切触らない。

 そうやって心を許すと、どこまでも付きまとわれる――なんて、彼女は話していたっけ。本人の前で軽口を叩けるくらいなのだから、本気で嫌っているわけではないのだろう。言動は奇抜だが、一線は超えない。具体的な欠点が見当たらない。そんな蝶野と雑談をしていると、次第に他のメンバーも集まってきた。

 廊下の奥から蜂須が姿を見せる。手元には薄いタブレットが一枚。そういえば、彼女が紙にメモをとる姿を見たことがないな、と思い返した。続いて、マリアが事務所に戻ってくる。風見と花房が連れ立って現れる。夜型の花房は夕刻から出勤することが多いが、会議のある日は早めに来ている。せっかくなので風見の撮影を手伝っていたのだろう。役者みたいにスマートな男と金髪の青年が並ぶ姿は、そこだけ世界観が異なって見えた。

「今から会議を始めますけど、よろしいかしら?」

 毎度のことだが、蜂須が丁寧に確認してくれた。彼女らの会議を邪魔に感じたことはないので、まったく問題ない。同じやり取りを繰り返してから、俺は椅子ごと移動して蝶野から離れた。彼の方も円卓へと戻っていく。

 アラクネの幹部メンバーは五名。なので五角形を描くような位置で席につく。最も近い位置に蝶野。その両隣はマリアと花房。遠い二席には蜂須と風見。社長が上座だとか、年齢順だとかという決まりはなく、日によって順番は変わっていた。そんなことに気を遣うのは時間の無駄、という考えなのだろう。まあ、蝶野の場所だけは暗黙の指定席になっているのだが。

「まずは、今週の撮影予定について教えてもらえるかしら」

 蜂須の言葉を受け、講師陣はそれぞれの予定を話し始めた。YouTubeに投稿している各教科の講義について。どこまで進み、今週は何を撮るつもりなのか。そんな話が人数分続く。学校と同じように教科書の解説を進めていくこともあれば、フィールドワークや実験など、ためになる動画を作ることもある。

「私は日本史の講義をする予定です。文化・文政時代まで到達しましたから、このあたりを三回に分けて深堀りしようかと。幕藩体制の文化の特色をまとめ、それらが天保の改革とどのように関係しているのか――しっかり把握できていると試験でも有利ですからね。夏休み明けに定期考査のある学校も多いです。気は抜けません」

 マリアはがっつり講義を進めていくようだ。夏休みまで勉強に励む学生たちには頭が上がらない。俺自身はもう、自分がどうやって定期試験の対策を進めていたのか、すっかり忘れてしまった。年に三回も四回も試験があるなんて、そこらの社会人より大変だよなぁ。

 次に手をあげたのは風見だった。

「俺は案件が入っている。火曜日は宇宙探検科学館への出張撮影だ。西日本最大級のプラネタリウムが売りだから、その魅力を伝えたいな。他は科学実験が一回と、物理の講義が一回だな」
「分かりました。出張、遠方になりますがよろしくお願いしますね」

 蜂須は頷き、次は花房へ視線を向ける。彼はノートパソコンに視線を向けつつ、少し掠れているが落ち着いた声で予定を読み上げた。

「英作文について質問があったから、その解説を水曜日に撮る。あとは、歌舞伎の演目を紹介する動画を手の空いたタイミングで」
「あなたが鳥辺野くんと企画して始めたシリーズも、ついに十回目の投稿に到達したわね。おめでとう」

 蜂須がそう言ってくれたので、メンバーから小さな拍手があがる。俺も顔を上げて会釈をした。四月、花房の身に様々なことが起きた頃。歌舞伎の魅力を発信したいと決意した俺たちは、関係者の協力を仰ぎながら新しい企画を立てたのだ。カメラを回し、取材に赴き、解説を語り、編集をする。ほとんどふたりだけで進めているので、月に二回ほどしか投稿できない。それでも続けてきて良かったと思う。

 その場で小躍りしたいほどに嬉しい気持ちではあったが、あくまで平静を装った。会議を続けてください、とクールに返す。時間をとらせるわけにはいかない。

「じゃあ、次は僕だね」

 手帳も開かずに蝶野が話し始める。全てを把握しているのか、それともいま考えているだけなのか。どちらとも判断のつかない、捉えどころのない態度だ。

「夏休みだし、読書感想文の書き方講座を開こうかな。ちゃんと教えてくれる学校って少ないんだよね。あとは、そろそろ近代文学の読解問題について解説しないと。前回は神保町の美味しいカレー屋さんの話で終わっちゃったし……」
「ええ。今度こそ雑談だけで終わらないようにね」

 困り顔で釘を刺す蜂須の傍ら、マリアが大きなため息をついた。確かに、蝶野の講義は脱線することが多い。とはいえ仕事を放棄しているわけではなく、サイトではその日のうちに完璧なレジュメが配布されていたりする。

 それが非常に分かりやすく、とうに高校生活を終えた俺ですら、目を通すだけで国語の問題が解けるようになる気がした。まるで対面しているかのように、学生の抱える疑問や不安を的確に解消してくれる。
こんな能力があるというのに、なぜ講義になるとああなのか。楽しげな雑談で興味を引いた後、本当に覚えてほしいことは簡潔に伝える――そういう作戦なのかとすら考えてしまう。だから蜂須も強くは叱れないのだろう。

「私の担当する数学は、微分積分の総ざらいを行う予定です。夏休みの間にマスターしておきたい、という要望が多かったので……」

 最後に蜂須が自身の予定を報告し、この話題はひと段落ついた。もちろんこれで終わりではなく、次の議題へと移っていく。頭の良い人達が、理性的に会議を進めていく声は心地よい。だから俺はこの席を選ぶのだ。

 自分にも関わりのある情報。少しだけ関係ある情報。知らなくてもいい情報。頭の中でざっくりと分類しながら、手元の作業を進めていく。動画編集はドラッグ&ドロップの単純な動きが多い。ともすれば睡魔が訪れそうな状況で、ほどよく話し声が聞こえるという環境は密かにありがたかった。
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