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問四・このときの感情を答えよ
深夜会議
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「ミズキさんの作品、すごいね」
そんな言葉に顔を上げる。いつの間にか花房がデスクの向こう側におり、椅子を引いて座ろうとしているところだった。今日は……木曜日か。珍しい。こんな時間に彼がオフィスにいるなんて。何か用でもあるのか?
「自分が早く来たわけじゃなくて、ソラが遅くまで残っているんだよ」
胸中の疑問を汲み取ったのか、花房は壁掛け時計を視線で示した。操られるように俺もそちらを確かめる。ああ、もうすっかり夜じゃないか。そりゃあ花房も出勤してくるわけだ。
「ぼんやりしてたな。とりあえずタイムカードを切るよ」
「そしたら帰る?」
「いや、個人的な考え事だから。もう少しここにいる」
立ち上がり、カードリーダーを操作してから戻ってくる。元の席に腰を下ろすと、デスクを挟んで花房と向かい合う形になった。こうやってじっくり話すのも久しぶりだ。十二月に入ってからというもの、休日の行動もすれ違ってばかりだった。
「個人的なことじゃない。ミズキさんのことでしょ」
見透かした表情で花房は告げる。俺は苦笑した。
「ミズキさんのことについて、個人的に考えているんだ」
「それは屁理屈って言う。ミズキさんとのやり取りはみんな見ているし、ソラだけが抱えることじゃない」
みんなと言うが、実際には幹部メンバーだけだ。他のスタッフはチャットルームが復活していることすら知らない。六人だけで秘密を抱え、ひとりの少年を取り囲んでいる。いざとなればバトンタッチも可能なのかな、という考えが浮かんだ。
やり取りを覗かれていることはミズキも了承済みなので、別のメンバーが現れても驚きはしないはずだ。むしろ見知った相手の方が喜ばれるかもしれない。たとえば、優しく真摯な性格が視聴者の間でも人気な花房だとか――
「またいけないこと考えてる」
我が身のことのように真剣な表情で、花房は心配してくれた。そういうところが優しいんだよな。俺なんて、難しそうな案件が他人に渡れば安堵してしまうのに。少なくとも俺がやるより上手くいく。そんな確信のもと、心から「良かった」と考えてしまう。だからこそ、自分が主体となった途端に不安がつきまとうのだ。
「ソラは、美大を目指す意味って何だと思う?」
空調の音だけをBGMに、彼の声が紡がれる。夜のオフィスにふたりきりだった。普段からこんな感じなのだろうか。フレックス制の会社なのだし、もう少し人影があってもいいと思うのだが。
とはいえ、今は都合がいい。個室に移らずともミズキの話ができる。
「正直なところ、そこで学べる内容については重視しなくてもいいと思っている」
ずっと考え続けてきたことを織り交ぜながら、花房の質問に答えた。美大を目指す意味は何か。芸術を志す者にとっては永遠のテーマだろう。ミズキの両親も、最初はそのように問い詰めたはずだ。
「今は指南書も多く出ているし。普通の大学出身の画家やイラストレーターも珍しくない。たしか『クエスチョン5』で蜂須さんと共演していた人が、そのタイプだったんじゃない? 一方で、浪人してまで美大に進んだのに、だんだん出席しなくなる学生も……よくある話だよね」
「じゃあ、家族の反対を押し切ってまで頑張らなくてもいいのかな」
「考え方次第なんだよ。技術は別の形でも学べる。でも、環境は自分で用意することが難しいから……」
――きちんと技術を学びたいし、同じくらい熱中している人たちに囲まれて作品を作りたい。
技術と環境。ミズキ自身は、その両方を理由にあげていた。勝手に決めつけるのは良くないが、どちらかといえば後半の方が切実な望みだったのではないか。彼の周囲には、もう無邪気に絵を褒めてくれる人なんていない。その才能を目の当たりにしたとき、どうしても「これで食っていくことはできるのか」という軸の評価が発生してしまう。
「美大を目指す目的。それは、芸術に触れることをちゃんと『勉強』として扱ってくれる環境を得るためだと思っている」
趣味だとか、息抜きだとかではなく。大学という学び舎で授かる学問のひとつとして、正当な評価が欲しい。
「俺たちはさ、ノートにちょっと落描きしただけでも叱られるんだよ。英単語を覚えるためだったり、歴史を系統立てて整理するためだったりしても。絵を描いている暇があるなら過去問のひとつでも解けるだろ、って。丁寧に色分けされて、図やイラストが細かく描かれているノート、褒めてもらえるのは中学校までなんだよね」
花房には伝わらない話かもしれないと思いつつ、言葉が止まらなかった。ケイト大に合格するような高校生が、どんなノートをとっていたのか想像もつかない。高校生活の「あるある」なんて通じないだろうな。それでも、俺にとっては紛れもない現実だったのだ。
「お絵描きもほどほどに、って何度言われたことか。自分の『やりたいこと』が『やってはいけないこと』になった瞬間、いまだに覚えているなぁ。幼いうちは、あの手この手で勉強を面白いものだと思わせようとして。いざ本格的に受験勉強が始まったら、机に向かって手を動かすことしか認められなくて。美術の講義なんて、二週間に一度しか受けられなくて」
花房は頷きながら聞いてくれているが、否定も肯定も返さない。同調できる部分が少ないからだと思う。講義の内容や方針は、高校によって大きく異なる。所属している生徒も様々なのだから、俺の不満が他でも通じるとは限らない。分かっているつもりなのに、つい同窓生のような口ぶりでまくし立ててしまった。
「ごめん。俺ばっかり話して」
「問題ないよ。自分も、ソラの考えが聞けて良かった」
ふと、彼の視線が俺のノートパソコンへと向かう。その位置からは画面なんて見えないはずだが。表示されているのは相談用のチャットルームだ。ミズキとのやり取りが全て詰まっている。
「何か気になる?」
俺はパソコンを回転させ、花房の方へと向けた。それでも視線は動かない。文字を読むような動きがない。いったい何を見ているというのだろう。
次に花房が声を発するまで、たっぷり一分近くが過ぎた。
「ソラが、ミズキさんの担当になって良かったと思うよ」
「どうだろう……」
俺は慌てて返事をする。ここで対話に持ち込んでおかないと、また無言に戻ってしまうような気がした。
「彼の方は不満があるんじゃないかな。アラクネの講師陣に相談を寄せたのに、こんな見知らぬ男がしゃしゃり出てきて……」
「だって、他の人には分からないことだもの。たとえば自分は、進路について悩んだことがない。日本に来て、瑠璃子さんに勧められるままにあれこれやっていたら、いつの間にかケイト大にいた」
「おお……」
いつの間にかケイト大にいた。言葉にすれば自慢にも聞こえるが、花房にとってはただの事実だ。日本に来てから住む場所も、通う高校も、目指す大学も、全て蜂須が決めてくれたのだろう。彼の置かれた立場を考えれば当然のことだ。レールに乗ることが大正解、という人生もある。
「葛志さんやマリアさんも、正しいアドバイスはできないと思う。あの人たちは勉強のことだけを考えて生きてきた。他に選択肢が無かったのだから、それを選ぶ基準も分かりっこない。本人が望むならそうしたらいい、くらいしか言えないはず」
花房の言葉に俺は頷く。風見はミズキの肩を持とうとした。しかしそれが無責任な応援であると気付き、すぐに撤回したのだ。
「蜂須さんはどうだろう。あの人なら寄り添えるかな?」
「瑠璃子さんは……受験勉強にコンプレックスがあったみたいだから。模試で好成績を出しているミズキさんのことは、やっぱり理解できないかもしれない。メイカ大やハンノ大のA判定を貰うことが、瑠璃子さんにとっては目標だった。でもミズキさんは既にほとんどクリアしているから、その先のことを考えなくちゃならない」
自分が掲げていた、そして失敗した目標よりも先を目指している高校生。確かに相談には乗りづらいだろうな。もちろん、誰が担当しても親身に対応するはずだ。資料を集め、想像力を働かせ、最大限の尽力はする。ただ、経験不足というハンデを後付けの学習で乗り越えることは難しい。
「……蝶野さんは?」
残ったひとりの名を、俺は告げた。ほとんどひとり言のような声量だった。彼のことがいまだによく分からない。小論文形式の試験を受けたので、真面目に勉強した記憶がない――本人はそう話していたが、だとすれば受験生時代には何をしていたのだろう。
外見が派手ならば「遊び回っていたのだな」と納得できるのだが。切りっぱなしの黒髪。厚いレンズの丸眼鏡。どこをとっても平均的な体格と運動神経。いかにも勉強に励んでいました、といった印象だ。
「蝶野さんはどんな高校生だったんだろう。トウキ大に合格したとはいえ、ほとんど勉強はしてなかったらしいし。じゃあ何をやってたんだ?」
我ながら失礼なもの言いだが、今まで彼にもたらされた困惑を振り返れば、このくらいの暴言は許されてほしい。花房も俺の意図を汲み取ったのか、咎めることなく疑問に答えてくれた。
「翡翠さん、小説家を目指していたことがあるんだって」
唐突な新事実に、ぽかんと口を開ける。しかし納得できる内容ではあった。遊び回っていたわけではないが、勉強もしていない。そんな空白期間にすんなりと収まるような経歴だ。
「読ませてもらったことはないし、そういう話を聞いたのも一度きりだけど。専門学校に進もうと考えていたときもあったらしいよ」
「専門学校、か」
小説の書き方を教える学校があるのは知っている。本気で小説家を目指すなら、それも選択肢のひとつだろう。花房と同じく、俺も作品を見たことはない。ただ、彼の担当した記事やコラムを読んで、小説も書けそうだと思ったことはあった。まさか実際に書いていたとは。そして、進路に悩むほど本格的に目指していたとは。
だったら、蝶野の方が適任なんじゃないか?
どうして俺は、そんな蝶野から直々に指名を受けたんだ?
疑問を顔に浮かべて花房の方を見れば、ふいと視線を逸らされた。何か隠していることがあるのか、はたまた偶然か。
「相談、別の人に託そうと思ってる?」
おずおずと視線がこちらに戻り、質問が投げかけられた。俺は目を丸くする。確かにそんなことは考えていたが、花房に言われるとは思っていなかった言葉だ。
「それは……」
咄嗟に答えが出ない。他のメンバーにバトンタッチすることは、今なら可能だ。可能ではあるが、ひとりずつをあげて分析してみれば、相談相手として向いていないということも分かった。花房も、風見も、マリアも、蜂須も。置かれていた環境が違いすぎる。花房が振ってきたのは、そんな話だったはずだ。
でも、蝶野だったら――
「駄目だよ、翡翠さんは」
彼にしては珍しく強い語気で、ぴしゃりと否定された。どうして。美大と小説の専門学校。ジャンルこそ違えど、同じようなことで悩んだ経験がある。人生の先輩だ。だが俺を指名したのは他ならぬ蝶野であり、彼自身が関われない事情があるのだということは察しがついた。
蝶野には任せるな。選択肢から外せ。幹部メンバーだけが知っている「年表には載せられないこと」によって、彼は強固に守られている。
「ごめんね。実は、この話がしたかっただけ」
花房はわずかに口角を上げた。反対に眉尻は下がっており、総合的に見れば悲しそうな表情をしている。
「ソラひとりに任せきりにして、申し訳ないと思っている。たくさん悩んでいるはずだし、自分たちも手伝いたい。でも翡翠さんは駄目。絶対に。それを伝えるために話しかけた」
「過去にあったことが原因?」
意を決して切り込んでみた。驚かせてしまうかと思ったが、特に大きな反応は見られなかった。じわじわと俺が何かに気付きつつあることなんて、とっくにお見通しなのだろう。それでも完全に明かされることはない。共犯者にはしてもらえない。
でも、これで「時期」と「関わった人物」の情報が俺の元に揃った。
アラクネが二周年を迎えた頃、蝶野の身に何かが起きたのだ。
「……そりゃあ、過去には色々あるよ」
短く息をつき、花房は携えていたポーチを探り始めた。
「アラクネだって、最初は小さな会社だったもの。どうしたら上手くいくのか分からないまま、がむしゃらに進んでいた頃があった。失敗だってあるよ」
ポーチを探りながら不穏な話を続けるので、何を取り出すつもりなのかとはらはらしてしまう。やがて現れたのは、約五センチ四方のパッケージだった。どこにでもあるような個包装のクッキー。表面には土産物であることを示すイラストが印刷されている。
「メイちゃんリストラ記念クッキーだ……」
「貰ったのは夏頃だけど、賞味期限は切れていないから安心して」
俺に向かって差し出すので、ありがたく頂戴した。以前、風見が取材した科学館の土産物だな、と思い出す。縁起でもない文字がホログラムによって輝いているが、他意はないはずだ。
「葛志さん、余った分を全部自分にくれたから。たくさん持ってる」
「そうなんだ」
口に合わないから押し付けたわけではない、という補足。律儀だなと思いつつパッケージを眺める。中身は変哲のないクッキーだし、可もなく不可もない味であることも知っているが、今は食べる気にならなかった。礼を伝えてからポケットに仕舞おうとする。
だが、その行動は花房に止められた。
「……待って」
俺の手元にあるクッキーを取り上げる。まさか「惜しくなったから返せ」という意図ではあるまい。彼はそれをデスクに置き、表面のイラストを指し示した。
次いで、指先がパソコンの画面を向く。
「ミズキさんの最新の絵、見せて。太陽系の惑星のやつ」
「え? ああ……」
またパソコンを半回転させ、ふたりともが覗けるような向きにした。花房の指示通り、ダウンロード済みの画像を表示する。第二問。着彩デッサンの課題。何度見ても素晴らしい出来だ。
どこかの科学館でデッサンしたであろう、鮮やかで壮大な惑星たちの模型。紙面の左端、見切れる形で太陽のフレアが描かれ、そこから九つの星が連なっていた。アクリル板の反射に至るまで、全てが丁寧に表現されている。
「これがどうかしたのか?」
尋ねてみると、花房は画面の端を指した。太陽から最も遠い位置。もはや米粒ほどの大きさの模型が、ピアノ線で支えられている。
「なんで、冥王星があるの?」
その言葉に、ハッと息をのんだ。ミズキに課題を出したのは五日ほど前だ。一方、冥王星が太陽系の惑星から外されたのは二十年近く前のこと。本来なら、模型はとうに撤去されているはず。
「ほんとだ。惑星の数がおかしい。というかこれって、宇宙探検科学館に置かれている模型じゃない?」
思いついたことを口にすれば、花房もこくりと頷く。宇宙探検科学館――風見が取材で訪れた場所であり、このクッキーの出どころであり、メイちゃんがリストラされた施設だ。
「どっかで見たような気はしていたんだよな……」
あのとき思い出せなかった悔しさから、唸るような声を出してしまう。まさかアラクネの動画の中だったとは。宇宙探検科学館は西日本最大級のプラネタリウムが売りらしく、星に関する展示も充実している。
花房が自身のスマホを取り出して検索をかける。
「……これのことだよね」
ちょうど撮影があった頃に記されたコラムが見つかった。学芸員が日々の出来事を綴る、他愛もない内容だ。その中のひとつに、冥王星の模型とメイちゃんについて説明したものがある。
「冥王星が準惑星になったのは二〇〇六年のこと。小さな模型なので撤去するのは簡単だが、メイちゃんが看板キャラクターとして活動しているため、そのまま展示していた……」
ぼそぼそと読み上げる俺の声を、花房が真剣な表情で聞いている。
「しかしついに、そろそろ外した方がいいと結論が出た。今の子供たちにとって、冥王星が太陽系の惑星ではないことは当たり前。科学館として、誤解を招くような表現は避けたいと考えた……」
「それで、模型もメイちゃんも役目を終えたんだ」
ふたりでパッケージのキャラクターを見る。ベージュの円形から手足が生えただけの、シンプルなデザイン。最も小さな天体――つまり末っ子のイメージなのか、表情はあどけなく溌剌としていた。「ありがとう!」というセリフが吹き出しで添えられている。
リストラという表現は聞こえが悪いが、むしろ今年まで残っていたことが奇跡だ。よほどスタッフや来館者に愛されていたのだろう。だが今年の八月、ついに模型が消えた。メイちゃんは記念グッズを残して科学館を去った。
じゃあ、ミズキはどうやって冥王星を描いたんだ?
既に撤去されているのだから、現場に出向いてもあの絵を描くことはできない。何らかの記録媒体に残った模型を模写したということになる。
写真を模写するのでは意味がない、という趣旨は最初の課題のときから伝えてあった。俺の指示通り、ミズキはティッシュ箱やボールを自分で用意して描いた。それなのに急にルールを破るなんて。
いや、まだ事態の全容は見えていない。何か事情があったのかもしれない。写真を見ながら描いた? 過去に描いたものを使い回した? それならそうと、正直に話してくれるタイプだと思っていたのだが。
「次の課題、もう伝えていたよね?」
花房の問いかけに俺は頷く。ミズキにせっつかれ、慌てて伝えたのが昨日の夜のこと。自由な画材でイメージに任せて描く、というものだ。過去問題集に載っているとおりなので、予想のつく内容ではあるが。
「次に提出されるものを気にかけておいた方がいいかもしれない。もしもまた、妙な部分があったら――」
花房の声が、頭の中をぐるりと回って反響する。もし、妙な部分があったら。最悪のパターンは盗作だろうか。そうだったら放置しておくわけにはいかない。でも俺にその判断ができるのか? そして、仮に違和感を覚えたとしても、ミズキを問い詰める覚悟が持てるのか?
俺はただただ困惑した。
「妙な部分と言われても……」
そう呟いたとき、手元のスマホから通知音が聞こえた。
反射的にそちらを見たが、確認するべきはパソコンの方であると知っている。単なるニュースやメッセージアプリの通知ではない。これは、チャットルームの音だ。ミズキからの言葉を伝える、特徴的な電子音。
まだ呆然としている俺の代わりに、花房が内容を教えてくれた。
「ねえ。課題が完成したって」
噂をすれば、というやつだ。今回はかなり早い。課題を出してから一日しか経っていない。妙といえば妙だが、中身を見ずに判断を下すわけにもいくまい。
パソコンの画面。広々としたチャットルームにダウンロードボタンが現れる。高解像度のスキャナで取り入れた画像は、いつもそこそこのデータ量がある。クリックをした後、祈るような気持ちで待った。
大丈夫。今回はイメージを元にした絵だから。滅多なことでは疑惑なんて発生しないはず。今までに比べて所要時間が短いことはどうとでも説明がつく。たまたま学校が休みだったのかもしれないし。
まずはまっさらな気持ちで鑑賞しよう。そう考えながら、受け取ったばかりのファイルを開いた。
「蝶だ……」
その呟きは、いったいどちらのものだったのか。俺が無意識に声を出したのかもしれないし、花房の言葉を捉えたのかもしれない。真っ白な画面の中央、エメラルドグリーンに輝く蝶が収まっている。羽ばたきの表現もなく、ただ標本のように平たく、静謐に。
「どうして急に、蝶なんだろう」
花房の疑問も無理はない。二問目の作品とは反対の意外性だった。イメージのまま自由に描くという課題なら、もっと複雑な構成になりがちなのに。画用紙そのままの白い背景に蝶が一頭だけ。ひとりの人間が抱えるイメージの具現化としては、あまりにシンプルだが――
俺はただひとり、深く納得していた。
この絵を知っている。それどころか、次に送られてくるはずの作品も予想がつく。脳内に浮かんだスケッチブックが、勝手にぱらぱらと捲られていった。
「俺、ミズキさんの正体が分かったよ」
その言葉を聞き、花房は即座に驚愕の表情を浮かべた……のだと思う。しかし俺にとってはスローモーションのように感じ、声を聞き取ることもできなかった。花房はきっと、大切なことを俺に訴えかけていたはずだ。ミズキの正体なんて詮索するものじゃない、それを知ってしまったらアラクネにいられなくなるよ――という内容のことを、忠告してくれたのだと思う。
「いいんだ。これは、俺の……俺たちの問題だから」
花房の声はまだ戻ってこない。口だけがぱくぱくと動き、聞き取れない音が俺を通り過ぎていった。
「詮索するわけじゃない。俺は、最初から知っていたんだ」
美大を志した頃から描き溜めてきたデッサンの数々。アラクネに相談を寄せ、担当者の指示に従って描いた作品。ティッシュ箱とテニスボール。かつて存在していた冥王星の模型。そして、青ではなくエメラルドグリーンに輝くモルフォ蝶。
それら全てが紙吹雪のように舞うと、やがて一冊に綴じられる。脳内の何もない空間にこつんと落ちた。その音をきっかけにして、俺の周囲の情報も戻ってくる。花房の話していることが聞き取れるようになる。
「最初から知っていた、って何……? ミズキさんとどういう関係なの?」
「彼は、俺自身なんだってこと」
画用紙の中の蝶は、磔になっているわけではない。ピンは刺さっていないし、標本にする際に取り去るはずの胴体も残っている。
飛ぼうと思えばいつでも飛べるのだ。
その羽ばたきを想像しながら、次にとるべき行動に思いを馳せた。
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