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問四・このときの感情を答えよ
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大学において、講義が入っていないコマは全て自分の自由時間となる。アルバイトを入れてもいいし、早めに昼食をとってもいい。空き教室で絵を描いていても、誰も咎めはしない。俺は机上に水彩色鉛筆を広げ、スケッチブックに乗せた色を溶かしているところだった。
「……モルフォ蝶って、そんな緑色だっけ?」
この大学の人間は、他者へ声を掛けることに対するハードルが低い。後ろを通りがかった見ず知らずの誰かが話しかけてきた。ここにはもう、俺にとって上級生にあたる学生はいない。年齢は分からないが。向こうがタメ口ということは、こちらも同じように返していいのだろう。
筆を置き、ゆっくりと振り返って応えた。
「俺にとってはこれが正解なんだ」
「ふうん」
相手は真面目そうな青年だった。髪は短く艶々とした漆黒で、眼鏡をかけている。そういえばここは建築学科の棟だったな、と思い出す。肩に提げた大きなバッグには図面やパソコンが入っているのだろう。これからどこかで作業をするのか、あるいは既に終えたのか。
「珍しいね。モルフォといえば青だろうに」
そう言い残して彼は立ち去った。
確かに、モルフォ蝶といえば目の覚めるようなブルーが特徴的だ。あれは構造色なので角度によって変わるが、それでも緑色にはならない。薬品でも使わない限り、紺や紫色に見えるはずだ。エメラルドグリーンの蝶というのは架空の存在で、だからこそ絵として残さなければ拝めないものだった。
(さっきの人、ちょっと蝶野さんに似ていたな)
背は蝶野より高いし、髪は短くて精悍だ。全体的な印象としては異なるものの、黒髪と丸眼鏡、少しぼんやりとした視線が似通っていた。だからといって何が繋がるわけでもないのだが。同じキャンパスにいるのだから、また会うことがあるかもしれない。会ったとしても相手は覚えていないだろう。
紙面が乾いたので、画材を片付けて立ち上がった。水筆は簡単に携帯できるから便利だ。今回は水彩色鉛筆を使ったが、蓋つきのパレットで固形絵具を持ち歩くのもいいだろう。筆に内包された水で溶かせば、どこでも着彩画が描ける。
(もうこんな時間か……)
窓に近寄って外を眺めた。最後の講義が終わる時間帯。陽が沈み、周囲の景色もおぼろげになってくる。ここは教室棟の四階で、すぐ隣には体育館が建っている。屋根はドーム状ではなく平らで、人が立ち入れるようになっていた。その殺風景な空間がここから一望できる。
(本当に何もないな、あそこは)
ベンチのひとつでも置けば、良い穴場スポットになりそうなものだが。とはいえ、そもそも人が集うことを想定していないのだろう。出入口を仕切る扉には南京錠が引っ掛かっている。開錠されてはいるものの、自然と外れた、と呼んだ方が正しい状態だった。何度か入ったことがあるから知っている。そのうち本格的に閉鎖されるのかもしれないが、少なくとも今は何の規制もない。
(今日も誰も来なかったな)
教室を出る直前、佇んだまま鞄からタブレットを取り出す。アイコンをタップしてチャットルームを開き、新着メッセージが届いていないか確かめた。最後に俺が見たときから変化はない。二問目の作品には参考書どおりの講評を返していた。画用紙に描かれた、太陽系の惑星の模型。決定的に不自然な部分を見つけてしまったものの、そこには言及しないままでいる。
そして、三問目の作品にはまだ何も返せていない。
アクリルガッシュで描かれたモルフォ蝶は、青ではなく緑の輝きを放っている。もちろんラメや蓄光顔料を使っているわけではなく、色の重なりによって表現されているのだが。ミズキがイメージのままに描いたという、架空の蝶だ。
この作品に、俺はどのような言葉を返せばいいのだろう。
鑑賞者として素直に述べれば、独特の引力を感じる魅力的な絵だ。青や紫で塗れば図鑑と大差ない絵面になっていたところを、宝石のようなグリーンを重ねることによって個性を出している。
でも俺は、この絵がそれだけで終わるものではないと知っている。
花房と一緒に、チャットルームに届いたこれを見たとき。明確によみがえる記憶があった。俺はこの絵を知っている。ただし、そのことを話せる相手は、まだ現れていない。
(仕事、行こう)
体育館の屋上を横目で眺めつつ、教室を後にする。会いたい人は現れなかった。会うべき相手に会えなかった。きっと、今はそのときではないのだ。
オフィスに着くと、見知った自転車が駐輪場に停められていた。花房が来ているのだ。このところ出社時刻が彼と重なっており、どちらが先に着くかは半々くらいの確率だった。もちろん、彼の方は何も変わらない。以前からこのくらいの時刻に出社している。
「……最近、来るのが遅いけど何かあったの」
顔を見るなり、デスクに向かっていた花房が尋ねてきた。まだ仕事道具を広げている途中のようなので、着いたばかりなのだろう。この時間帯は彼だけの空間のはずだった。フレックス制とはいえ、完全に昼夜が逆転している社員は珍しい。そんな花房の毎日に、俺が割り込むようになったのが一週間前のこと。
そろそろ不審に思われる頃だと予想していた。
「大学、行っていたから」
用意していた答えを告げる。
「まだ学生だし。やることは色々とある」
「そう」
会話はそこで途切れたが、何か言いたげな視線が漂っている。心配されているんだな、と思った。一週間前、俺が意味深なことを口走ってしまったものだから。
――俺、ミズキさんの正体が分かったよ。
花房は、俺がミズキに会いに行くのではないかと案じているのだろう。急に出社が遅くなったのも、居場所の特定に時間を割いているのだとすれば説明がつく。その推測を的外れだと一蹴することはできないが、少なくともアラクネの規則に反することをするつもりはない。
「クリスマスケーキ、何を頼んだ?」
意図的に明るい声を出して話した。心配するなと主張したところで、根拠を提示できないうちは意味がない。俺にできるのは話題を変えることくらいだ。花房は虚を衝かれた顔をしたが、やがて以前のような笑顔に戻った。慣れ親しんだ者でないと、真顔に見えてしまうくらいに繊細な微笑。
「……ブッシュ・ド・ノエル。一人前のがあったから」
「お、いいじゃん。俺は――」
言いかけてから気付いた。俺、結局なにを頼んだんだっけ? 色々と目移りし、蝶野に「全部頼めばいい」なんて雑なアドバイスをされ、ひとまず候補をあげてから後で絞ろうとして……。
「たぶん、三つくらい選んだまま提出しちゃったな……」
軽く血の気がひく。お金のことはこの際、いい。確かにホールケーキ三つ分は痛いけれど、夢を買ったようなものだから。問題は、クリスマスイブに約六人前のケーキが届くことだ。
俺の動揺は花房にも伝わったようだ。途端に一緒になって慌ててくれた。
「クリスマスを一緒に過ごす人は……?」
今さらなことを尋ねられたが、即座に首を振る。いるわけない。恋人はもちろん、家族だって。
「花房はいいよな。家に蜂須さんがいるし」
「いるのと、食べてくれるのとはまた別の話だよ」
「ああ……あんまり食べないって言ってたっけ」
「ソラはさ、冬期休暇とか……」
花房が言い淀む。言葉は途切れたが、何を言おうとしているのかは伝わった。クリスマスといえばもう年末の域だ。大学はちょうど冬休みが始まるし、ほとんどの学生は帰省をするだろう。
でも、俺には関係のないことだった。
「帰らないよ、実家には」
「そうなんだ」
「あーあ、今年もひとりぼっちのクリスマスだなぁ」
苦笑交じりに、冗談めかして話す。帰省しない理由について、花房が追及してこない確信はあった。彼はそういう詮索をしない人だ。でも、同情してくれている空気は感じる。俺のことなんて気にせず、好きなように過ごせばいいのに。
もしかして、俺が知らないだけで恋人がいるのかもしれないし。
「あっ、そういえば誕生日じゃん」
不意に思い出したことがあったので、そのまま口に出した。たしか、蝶野が言っていたはず。花房はクリスマス生まれだって。
「花房、クリスマスが誕生日だよね。もうすぐだ」
「え? うん、そうだけど……」
「だったらなおさら、俺なんかと過ごすわけにいかないよな。ケーキは自分でどうにかするよ」
そう言ったとき。花房のまとう空気がカチリと変わった気がした。相変わらず表情は固いが、スイッチでも押したかのように何かが変化している。それが何なのかは分からないが、確実に。
「ソラ、クリスマス当日はケーキを持ってオフィスに来て」
いつになく早口で彼は言った。咄嗟に断ることもできないほどに。クリスマスに俺なんか呼びつけて、何をすると言うんだ。みんな早く帰って大切な人と過ごしたいだろうに――そんな反論が全て、押し流されていく。
「これは命令。ひとりで過ごしちゃ駄目。みんなにも声をかけるから。特に予定のない人たちでパーティしよう」
「クリスマスだろ? 誰も集まらないって。せっかくの誕生日でもあるんだから、俺のヘマに付き合う必要はないさ」
やっと紡ぎ出せた言葉は、花房の視線によって跳ねのけられた――ように感じた。まさに蛇のひと睨み。こんな表情もできたんだ。
「絶対に集まる。ひとりぼっちになるくらいなら、一緒にいてよ」
その勢いに圧されて頷くと、彼は表情を緩めた。真顔に戻っただけとはいえ、俺にはちゃんと穏やかな顔に見える。とりあえず安心した。どうしてこんな事態になったのか、いまだに分かっていないが。
でも、まあ、いっか。
花房がそれでいいと言うのなら。
「……ふたりきりになっちゃっても責任はとらないからな」
俺が承諾を示したとき、それを見計らったかのようなタイミングでチャイムが鳴った。これは時計のものではなく、インターホンでもなく、誰かがエントランスを通り抜けた際に自動で鳴るものだ。昼間は無音なのだが、こういう深夜帯だけは機能するようになっているらしい。シンプルな防犯策だ。
やがて階段を上ってくる足音が聞こえた。パンプスを穿いた女性のようだ。何となく無言を保ったまま待っていると、彼女の姿が現れた。
「蜂須さん」
「あら、お疲れさま」
アラクネの社長、蜂須瑠璃子の登場だった。出社と呼ぶべきか帰社と呼ぶべきか。相変わらず講義参観のようなスーツに身を包んでいる。ゆっくりと俺たちの方へ歩み寄ってきた。
「最近、鳥辺野くんも遅いわね」
よく覚えてくれている。自分も多忙なのに、スタッフひとりひとりの出社時間を把握しているなんて。
「まあ色々あって。ご心配いただくようなことじゃないんですけど」
「そう。あまり無理はしないでね」
ねぎらいの言葉を告げ、蜂須は立ち去ろうとした。だが部屋の端まで進んだところで立ち止まり、俺の方を振り返る。隣には花房がいるのだから、正確には「俺たち」の方を振り返ったのだろうが――用があるのは俺の方だ、と読み取ることのできる視線だった。
手招きされるのと同時に立ち上がり、彼女のそばへ向かう。花房の位置から姿は見えるが声は届かない、そんな状態で密談が始まった。
「鳥辺野くん。ミズキさんの相談の件なのだけど……」
「ああ、四問目の課題を伝えたところです。背景付きの人物デッサン、というお題ですから、少し時間が掛かりそうですね。今までと違い、付き合ってくれるモデルを探す必要があるので」
咄嗟に返答してから気付く。チャットルームは蜂須も覗けるのだから、進捗を説明しても意味がない。彼女が尋ねたかったのは、画面からは読み取れない俺自身の考えについてだろう。
「……アドバイスについては、どちらに転んでもおかしくない状況です。全ての条件が拮抗しています。堅実にメイカ大やハンノ大を目指すか、親御さんの反対を押し切ってでも美大を目指すか。能力としては、両方可能だと思うんですよね。でも、身体はひとつしかありませんから」
「そうね。いつか選択は必要ね」
蜂須は深く頷いてから、俺の取り組みを褒めてくれた。気乗りしない状態から強引に巻き込んだにもかかわらず、よくやってくれている。背景を聞き出し、価値観を確かめ合い、親身に寄り添っている。ミズキもさぞかし安心しているだろう――それらの言葉は嬉しかったが、具体的な助言は一切告げられなかった。
彼女自身も分からないのだ。正解なんて、何も。
「最終的に決断するのは本人なのだから、気負わなくていいのよ」
毒にも薬にもならないことを言われる。そして彼女は、何かを思い出すようなそぶりをした。顎に指先を添え、軽く首を傾げ、俺に問い掛ける。
「ユカリノ美術大学の入試では〈人物デッサン〉が毎年出題されているのだけど、ミズキさんには〈背景込みの人物画〉を指定したのは何故? それも、実際にその場所を撮影した写真を添えろ、だなんて……」
「ああ……」
もっともな疑問だった。数年分の過去問を見る限り、ずっと同じ内容の出題が続いている。あえて変化をつける必要はない。美大の試験なのだから、それでも答えは千差万別になる。
「どのくらい描けるのか確かめておきたかっただけですよ。三問目の『自由なイメージで描く』という課題でも、彼は背景のない絵を提出したじゃないですか。だから、もしかすると背景を描くのが苦手なんじゃないかと思って」
「そうだったのね」
「まずかったですかね? ミズキさんの特定に繋がってしまうでしょうか」
苦言を呈される可能性は考えていた。今まで彼の本名や所在を探らないようにしてきたのに、絵の背景から特定できてしまうかもしれない。もちろん、彼自身が警戒をして、ありきたりな場所を選ぶことはできる。あえて遠方に出かけて描いてくるかもしれない。
でも、俺には彼の描く絵が予想できたし、その背景に見覚えがあることも知っていた。だから今さらな話なのだ。
「駄目……というわけではないわ。彼の方も、あまりに分かりやすい背景は選ばないでしょうし」
歯切れは悪かったが、蜂須に止められることはなかった。言いたいことは言い終えたのか、彼女は踵を返して事務所の奥へと消えていく。執務室で仕事をするつもりだろう。俺は咄嗟にその後を追いかけた。
機会があれば確かめておきたいことがあったのだ。
「ちょっとだけ、いいですか!」
やや声を張って呼び止めると、廊下の中ほどで振り返ってくれた。
「相談用のチャットルームのことなんですが……」
「システム回りの話かしら」
「そうです。あれって、昔に使っていたものと全く同じなんですよね?」
たかだか三、四年前のことを昔と呼ぶのは間違いかもしれないが、特に指摘は受けなかった。蜂須は何かを思い出すように虚空を見詰め、やがて頷く。
「そうね。専属のプログラマさんが作ってくださった独自のものよ」
かつては非正規のスタッフとして、初期から関わっていた彼のことか。ならば細かな操作手順まで一致しているのだろう。俺は納得し、次の質問に移る。
「一対一で相談に乗っていた頃って、チャットルームはどこまで公開されていたんですか? 今回みたいに、幹部メンバー全員で確認していました?」
「いえ、そこまで厳重な体制では」
蜂須の言葉は途中で止まった。この答え方では「どうして今は厳重なのか」という疑問を生んでしまうと思ったのか。しかし今さら撤回はできず、俺の方も特に言及はしなかった。今の俺は、相手のボロを狙っているわけではない。
「……相談の担当者本人と、私。基本はこのふたりだけが閲覧できる状態だったわ。アラクネ側の人間は」
納得のできる答えだった。現在ならともかく、業務の一環として相談を受け付けていた頃では、逐一全員で見届けることは不可能だろう。それならば最初から閲覧権を与えない方が安全だ。
ただ、組織のトップである蜂須だけは全てを把握する必要がある。
「じゃあ、蜂須さんはちゃんと見張っていたんですね」
わずかな動きで首肯されたのを確かめてから、話を続けた。
「相談者と担当者だけの空間で、良くないことが起きてしまわないように」
「ええ。でも、何が正しいのかなんて、私にも分からないことなのよ。基本的には担当者の判断に任せていたわ」
「割り込んで何かを制したこと、あります?」
ここで動揺が見えたなら答えたも同然なのだが。そんなことは起きず、ただ冷静な言葉が返ってきただけだった。
「それは……あなたには教えられない範囲の内容だわ」
「すみません」
素直に謝る。確かにこれはライン越えだ。幹部メンバーですら覗けなかったやり取りを、ただのアルバイトに教えろと言うようなものだった。過去の出来事については質問できない。俺にはその権利がない。
でも、今回の話なら。ミズキのことだったら。
「蜂須さん、俺がミズキさんと初めてやり取りしたとき、隣で見ていてくださったじゃないですか。あのとき、描き溜めたスケッチブックが五冊もあると知って、妙なことを言っていましたよね」
課題を出す前に現時点での成果を見ろ、とアドバイスしてくれたのは他ならぬ蜂須だ。俺はそれをミズキに伝え、五冊分のデッサンがあることが判明した。そのとき彼女はこう言ったのだ。
「やっぱり、って」
ミズキは現役の高校生。匿名でメッセージを送っているので、人となりを知る方法なんてなかった。俺も、幹部メンバーも、蜂須であっても。美大を目指していると言いつつ、一枚も描かない人がいる――ミズキがそのタイプである可能性は十分にあり得たのだ。
だから、彼女が「やっぱり」なんて言えるはずがなくて。
「あれってどういう意味だったんですか?」
沈黙が漂う。一秒、二秒と心の中で数えるうちに、思考が絡まって分からなくなった。過ぎたのは五秒だったのかもしれないし、三十秒くらいあったのかもしれない。カツン、というパンプスの音が響くまで、俺は身じろぎすらできなかった。
「……言ったかしら? そんなこと」
あからさまな嘘を言い残し、今度こそ彼女は立ち去った。
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