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春の夕暮れはどこか落ち着かない。

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春の夕暮れはどこか落ち着かない。
それは会社を出ていって、なかなか帰ってこない神坂さんと太宰の事が心配だからか。



給湯室に榊さんが駆け込んできたあと、太宰に呼び出された神坂さんに着いていく形でプロジェクトルームへ戻った。
そこに待っていたのは、一言で言えば絶望的な状況だった。

「か、神坂君に頼まれていた仕事を済ませたら、先方からクレームが来てね」

青い顔をしながら、しどろもどろでいう太宰。一応課長。

「その案件は、情報公開の時間指定がありましたので。3日も早く公開してしまうのは規約違反になります」

こちらも表情がすぐれない神坂さん。れっきとした主任。

「し、知らんよ、そんなことまで。メールに書いてたかね!?」

「はい、末に指定時間を…」

「こんなに小さく書かれちゃ、わからんよ!」

プロジェクトメンバー全体に送られたメールは覚えている。
神坂さんらしく、分かりやすい手順と時間指定も書かれていたと思う。
というか、そもそも自分の部署のプロジェクトの納期を覚えてないなんて。
掛け持ちの神坂さんに怒りをぶつけるとは、どれだけ駄目な人なんだ、このおっさんは。

「そもそも、これは僕が期日にやる仕事だったはずです。何故課長が…」

それがなんでこんなことに。
わけのわからない状況で、何とか確認をしようと僕が尋ねると

「あ、秋田!?い、今は関係ないから黙っていろ!」

太宰は関係ないだろうと切り捨てる。
正直腹立たしいが、今はそれどころではない。

「今は急いで先方に謝罪をしないと。どんな状況なんですか?」


神坂さんは僕に怒りの矛先が向いたことで持ち直したのか、この後の事について検討しはじめる。

「謝罪のメールはしたぞ」

太宰が言う。
でも、この場合はもう、直接謝罪をしないといけないレベルだ。
神坂さんは、さっと回りに目配せをすると、一様に皆が頷く。

「太宰課長。今から私が先方にアポイントを取りますので、その後一緒に相手方のところまで同行していただけますか?」

「私もかね!?」

当たり前だろ!
と恐らくプロジェクトルームの全員が思ったことだろう。
神坂さんはそんな気持ちはおくびにもださず

「私だけでは肩書きが不十分です。本来なら、社長や部長に来て頂く案件ですが、お二人とも出張でいらっしゃらないので」

「そ、そんなに大事にしなくてもいいだろう」

事の重大さをまだ理解しきれていない太宰が何とか言いつのるが

「確かに、現場では判断しきれない事だと思います。部長に連絡して、確認してもいいですか?」

「そ、それなら私がする。君たちは確認が取れるまで待機だ」

「お願いします。私は他のプロジェクトの調整をして、すぐ戻りますので」

方針をひるがえし、部長に自分で取ると言う太宰。
神坂さんも言質を取った後、すぐに別のプロジェクトルームへ駆け出した。

「何とかなりそう、か?」

太宰が主導権を握っていては埒が明かない。
神坂さんが指揮することになりそうでようやく少し光が見えてきた。

が、
ほっと胸をなでおろしたのもつかの間、太宰はパソコンでメールを打ち出した。

時間勝負の状況で、メールで連絡するのは駄目だろ。

「課長、メールじゃなくて電話の方が」

「商談中かもしれんだろ!
全くお前は。少し考えれば分かりそうなものを。
いいから任せておけ!」

それ以上言えるメンバーはこの場にはいなかった。

結局、戻ってきた神坂さんが、太宰を何とか宥めて部長に電話で連絡を取った。
すぐに社長直々に指示があり、至急先方に謝罪に行くことでまとまった。



「あれからもう、三時間か」

進めていたプロジェクトが台無しにるかもしれない瀬戸際だ。
目の前の仕事にも集中できず、懊悩おうのうしていると

「はじめ、今ちょっと大丈夫かい?」

いつの間にか冴木が横に立っていた。
こいつが僕を下の名前で呼ぶ時は、プライベートに限っている。
会社でそう呼ばれるのは違和感があったが、

「神坂さんと課長の件か?」

業務時間にわざわざ別のプロジェクトルームまで来るのは、他に考えられない。

「話が早い。給湯室に行けるかな?」

「どうせ仕事には集中できないしな」

他のメンバーのお茶を入れるという名目で席を立つ。

「榊さんがさっきからずっと給湯室で泣いててね。困ってるんだ」

「榊さんが?」

太宰のやらかしといったい何の関係が?
疑問に思いながら給湯室に着くと

「あ、秋田先輩。神坂先輩と太宰課長は?」

目を真っ赤にした榊さんがいた。

「まだ帰ってこないよ」

「そうですか…」

「はじめ、一体何があったのかな?」

状況が全く掴めていないらしい冴木が聞いてくる。
顔はいつもの通りだが、態度からは困惑しているのが分かる。

「よそのプロジェクトにも神坂さんが抜けて影響が出てる」

「それで確かめてこいって言われたのか」

「そういうこと」

「榊さんは?」

「関係があるんじゃないかなって。これは僕の勘だけど」

こいつの勘は妙に鋭くて侮れない。
榊さんは押し黙って話しそうにないし、冴木に簡単に状況を伝えるか。

「今の案件で太宰がやらかした。
 規約違反になるレベルだ。
 最悪契約が切られる」

笑顔のまま固まる冴木。
普通、そういう反応だよな。

「会社で一番大きなプロジェクトだったからな」

「今年のボーナスは無しだね」

何とか持ち直したのか冴木はおどけてくる。
が、その冗談は笑えない。

「期日前に情報公開したってことかな?でもおかしいな。
確か、神坂さんは信頼できる人に最後のプロセスを任せるはずだけど」

信頼できる人に、と言うところで自分が選ばれていたことに、密かな喜びを覚えた。
が、今はそれより

「なんで、太宰がそれをやってしまったか」

「そう」

謎だ。
いつも仕事にやる気がなくて、縁故だけで採用されたと噂されている太宰が何故今回だけ。

「わ、私がいけないんです!」

その答えは思わぬ所からやってきた。

「榊さん、それはどういう?」

「私がお茶をお渡しした時に、いつも私が頑張っているから、何かご褒美をあげないとって太宰課長から言われて」

太宰は榊さんには甘い。
まだプロジェクトを持てない榊さんを特に気にかけているのは、太宰と神坂さんだ。

「なるほどね、大体見えたよ」

冴木は頷いているが、こっちはさっぱり分からない。

「それがどうしてこんなことに?」

「私、嬉しくなって、太宰課長にお仕事を覚えたいから、普段の仕事を見てみたいとお願いしたんです。それで…」

なるほど。
普段ほとんど仕事をしない太宰でもできるような、分かりやすい手順でまとめられた作業があったと。
神坂さんのできる仕事ぶりが仇になったんだな。

「期日についても私、見えてました。でも見間違いかなって思って太宰課長を止められなくて…」

また泣き出しそうな榊さん

「私があの時止めていれば。
もっと違うっていう勇気があれば。気にかけてくれてる太宰課長や神坂先輩を、苦しめる事には…」

榊さんは唇を噛み締める。
その気持ちはいたいほどよく分かる。
でも、

「起きてしまった事は仕方ないよ」

自然と口をついて出たのは、以前僕が神坂さんにいわれたこと。

「過去はかえられない。
変えられるのはこれから、どうするか。未来の話だけだ」

ミスをして落ち込んでいた僕に、神坂さんが言ってくれたことをそのまま榊さんに伝える。

「榊さんは十分に後悔してるし、反省している。なら後は次につなげるだけだ」

「秋田先輩…」

「それにあの神坂さんがついてるんだ。絶対、何とかしてくれるって。
おまけに太宰もいるし」

「おまけは酷いですよ」

榊さんは少し気が晴れたのか、最後の冗談に笑ってくれた。

「今の私にできること。とりあえず皆さんにお茶を配ってきます!」

空元気でもいい、それを振り絞って僕たちは毎日を生きていくんだ。
できることをしながら。

「行ってらっしゃい」

「榊さん、まだこの話は他では言わないように」

「わかりました」

冴木は去り際の榊さんに釘を刺す。
こういうところのフォローは本当に抜け目ないよな。

「はじめ、助かったよ。
僕だけでは元気付けられなかったから」

「そうか?特に何もしてないけどな」

冴木に返すと、やつはいつもの調子で肩をすくめる

「ま、本人には分からないものだね」

「なんの話だ?」

「いや、何でもない。それと、はじめ」

絶対なんて言葉は使わない方がいい。
世の中に絶対なんて無いんだから。

冴木は今まで見たことの無いような真剣な顔でそう言って、去っていった。

「何なんだ?」

やけに深刻そうな冴木の言葉。
だが一時間後、その言葉の意味を思い知ることになる。

春雨に打たれて帰ってきた太宰と神坂さんから伝えられたのは、先方との契約打ちきり。

そしてその日を境に、神坂さんは綺麗な桜色のコートを着てこなくなった。
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