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第一章「蜘蛛の糸」
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「これからどうしようかしら」
修道院、友人の家、分家の邸宅。受け入れてくれるかどうかは分からないが行ってみるべきだろう。野宿にはいささか寒い季節だ。せめて屋根のあるところが見つけられればいいのだが。
重い腰をあげた時、脳裏に声が響いた。重く、暗く
『お前はそうやってされるがままでいればいい』
そう言いながらレオナルドは自分に覆いかぶさり欲を吐きだした。娼婦のような扱いに憤りを感じたが、将来結婚するのであればいつかこれが義務になるのだと言い聞かせて。
結局のところ婚約は破棄され、家からも捨てられ、残ったのは名誉も心もボロボロになった自分が一つ。
「そうね」
不思議と涙は出なかった。
「もう、どうでもいい」
スカーレットの足はアズロト地区へと向かっていた。
王都に光り輝く王城があるとするなら、その対極に位置する腐敗と混沌の掃き溜め。賭博、売春、麻薬この世の毒の全てが集まっているのがアズロト地区だ。
令嬢としてのプライドも地位も傷だらけなのに体だけ綺麗なのは不自然だ。全部、全部貶められて打ち捨てられるのがスカーレット・レグルスの人生なのだ。
ふと靴音に導かれて顔を上げる。目の前の影から黒いマントにフードを目深に被った人物が歩いてきた。
絵本の中の魔女のようだなとぼんやり見つめる。
「こんばんは、いい夜だね」
軽やかに挨拶をした声は男の声だった。よくよく見れば身長も体格も男性のそれだ。
「こんな夜更けにどこいくの?」
僅かに見える口元は緩くつり上がっている。あまりの胡散臭さに答える気にはならなくてスカーレットは歩みを早めて彼の横を通り抜けた。
だが、男はスカーレットの後を追いかけてくる。
「君、見るからにいい所のご令嬢でしょ?」
ちらりと横目で見た男の顔は相変わらず見えない。
「そんな子がこの先に進んだらどんな目にあうか」
「理解しております」
速度を上げるが所詮は女の脚力なのだろう。スカーレットは息が上がってきたと言うのに隣でのほほんとした空気を纏う男は余裕そうに着いてくる。
「行く宛がないならうちにおいでよ」
「結構です」
しつこい男に痺れを切らしたスカーレットの足が止まる。真っ向から男を睨みつけると声を張り上げた。
「放っておいてくださいませ」
その気迫に驚いたのか男が押し黙る。これ幸いとばかりにスカーレットは身を翻して歩き始めた。
人の気も知らないで構ってくる人間はこれだから嫌いだ。特に今は優しくされたくないのに。手を伸ばされたらきっと握ってしまう。握って、泣いて立てなくなってしまう。そんな弱く惨めな姿を晒したくない。
「そんなに男漁りがしたいなら」
すぐ後ろで聞こえた声にスカーレットの肩が跳ねる。振り向くより先に腕を掴まれて男の胸に背中からぶつかった。抗議の為に顔を上げてようやく男の容貌があらわになる。
「僕にしときなよ」
フードの中にぽっかりと月が二つ浮かんでいるようだった。隙間から覗く黒はおそらく髪の色なのだろう。それまでの昼行灯とした空気は一変しており、有無を言わさぬ真顔はぞくりとするほど恐ろしく、美しかった。
一呼吸ほどの沈黙の後、すんなりと開放される。
「僕はオズ」
先程までの鋭利な空気が嘘のように男、オズは胡散臭い笑みを浮かべる。
出鼻をくじかれたスカーレットは逡巡の後に名乗ることを決めた。
「スカーレット、ですわ」
「じゃあ愛称はレティだね」
出会って数秒で愛称とはいい度胸ではないか。そう眉根を寄せるスカーレットを気にもとめずオズは胸元に手を伸ばした。何をするのかと見守っているとおもむろにマントを脱ぎスカーレットに被せる。外気が遮断され冷えきった体に温もりが染みた。
「おいで」
ぐい、と手を引かれて路地を進む。振り払おうと思えば振り払える力加減だ。雰囲気だって胡散臭いし、言葉は丁寧に見えてどこか横暴で出会ったばかりの女性をいきなり愛称で呼ぶ軽薄さもある。それでも逃げないのはマントの恩と投げかけられた優しさに絆されたせいだ。
しばらく進むとオズのものと思しき馬車にたどりついた。
「お手をどうぞ?」
どこへ向かうか分からない。何をされるのかも分からない。上辺だけの優しさを何度も見てきた。不意に戻ってきた恐怖心がスカーレットを躊躇わせる。
オズの表情を伺うと相変わらず底の見えない笑みがあった。慈悲深い天使にも、人を惑わす悪魔にも見える微笑。
たっぷり迷って震える手を重ねると怖いくらいに優しく馬車の中に誘われた。
修道院、友人の家、分家の邸宅。受け入れてくれるかどうかは分からないが行ってみるべきだろう。野宿にはいささか寒い季節だ。せめて屋根のあるところが見つけられればいいのだが。
重い腰をあげた時、脳裏に声が響いた。重く、暗く
『お前はそうやってされるがままでいればいい』
そう言いながらレオナルドは自分に覆いかぶさり欲を吐きだした。娼婦のような扱いに憤りを感じたが、将来結婚するのであればいつかこれが義務になるのだと言い聞かせて。
結局のところ婚約は破棄され、家からも捨てられ、残ったのは名誉も心もボロボロになった自分が一つ。
「そうね」
不思議と涙は出なかった。
「もう、どうでもいい」
スカーレットの足はアズロト地区へと向かっていた。
王都に光り輝く王城があるとするなら、その対極に位置する腐敗と混沌の掃き溜め。賭博、売春、麻薬この世の毒の全てが集まっているのがアズロト地区だ。
令嬢としてのプライドも地位も傷だらけなのに体だけ綺麗なのは不自然だ。全部、全部貶められて打ち捨てられるのがスカーレット・レグルスの人生なのだ。
ふと靴音に導かれて顔を上げる。目の前の影から黒いマントにフードを目深に被った人物が歩いてきた。
絵本の中の魔女のようだなとぼんやり見つめる。
「こんばんは、いい夜だね」
軽やかに挨拶をした声は男の声だった。よくよく見れば身長も体格も男性のそれだ。
「こんな夜更けにどこいくの?」
僅かに見える口元は緩くつり上がっている。あまりの胡散臭さに答える気にはならなくてスカーレットは歩みを早めて彼の横を通り抜けた。
だが、男はスカーレットの後を追いかけてくる。
「君、見るからにいい所のご令嬢でしょ?」
ちらりと横目で見た男の顔は相変わらず見えない。
「そんな子がこの先に進んだらどんな目にあうか」
「理解しております」
速度を上げるが所詮は女の脚力なのだろう。スカーレットは息が上がってきたと言うのに隣でのほほんとした空気を纏う男は余裕そうに着いてくる。
「行く宛がないならうちにおいでよ」
「結構です」
しつこい男に痺れを切らしたスカーレットの足が止まる。真っ向から男を睨みつけると声を張り上げた。
「放っておいてくださいませ」
その気迫に驚いたのか男が押し黙る。これ幸いとばかりにスカーレットは身を翻して歩き始めた。
人の気も知らないで構ってくる人間はこれだから嫌いだ。特に今は優しくされたくないのに。手を伸ばされたらきっと握ってしまう。握って、泣いて立てなくなってしまう。そんな弱く惨めな姿を晒したくない。
「そんなに男漁りがしたいなら」
すぐ後ろで聞こえた声にスカーレットの肩が跳ねる。振り向くより先に腕を掴まれて男の胸に背中からぶつかった。抗議の為に顔を上げてようやく男の容貌があらわになる。
「僕にしときなよ」
フードの中にぽっかりと月が二つ浮かんでいるようだった。隙間から覗く黒はおそらく髪の色なのだろう。それまでの昼行灯とした空気は一変しており、有無を言わさぬ真顔はぞくりとするほど恐ろしく、美しかった。
一呼吸ほどの沈黙の後、すんなりと開放される。
「僕はオズ」
先程までの鋭利な空気が嘘のように男、オズは胡散臭い笑みを浮かべる。
出鼻をくじかれたスカーレットは逡巡の後に名乗ることを決めた。
「スカーレット、ですわ」
「じゃあ愛称はレティだね」
出会って数秒で愛称とはいい度胸ではないか。そう眉根を寄せるスカーレットを気にもとめずオズは胸元に手を伸ばした。何をするのかと見守っているとおもむろにマントを脱ぎスカーレットに被せる。外気が遮断され冷えきった体に温もりが染みた。
「おいで」
ぐい、と手を引かれて路地を進む。振り払おうと思えば振り払える力加減だ。雰囲気だって胡散臭いし、言葉は丁寧に見えてどこか横暴で出会ったばかりの女性をいきなり愛称で呼ぶ軽薄さもある。それでも逃げないのはマントの恩と投げかけられた優しさに絆されたせいだ。
しばらく進むとオズのものと思しき馬車にたどりついた。
「お手をどうぞ?」
どこへ向かうか分からない。何をされるのかも分からない。上辺だけの優しさを何度も見てきた。不意に戻ってきた恐怖心がスカーレットを躊躇わせる。
オズの表情を伺うと相変わらず底の見えない笑みがあった。慈悲深い天使にも、人を惑わす悪魔にも見える微笑。
たっぷり迷って震える手を重ねると怖いくらいに優しく馬車の中に誘われた。
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