蝿の仲介人

文字の大きさ
10 / 12

第十話 不履行

しおりを挟む
「ここだ」

 街の外れ、森の影に隠れるように建つ小さな家。  そこが、俺が「蝿」として吸い上げた血の対価で維持してきた、最後の聖域だった。
 
 中には、妻が一人。ただ死を待つ静寂だけが横たわっている。
 二階の病室に入った瞬間、生花の柔らかな香りが鼻を突いた。病院を模して整えさせたその部屋には、彼女が好んだ季節の花が絶えることなく生けられている。

 ベッドの彼女は、頬が痩せこけ、出会った頃とは別人のようになっていた。
 ヒュー、ヒューと漏れる苦しげな呼吸音。
 
 執行の時刻は深夜。まだ夕暮れ時で、数時間ある。
 このヒューヒューという呼吸音を聴き続けることは、俺の精神を確実に削り取っていくだろう。

「……外で待つ」

 実行は深夜だ。まだ夕方で時間まである。
 俺は忠犬を伴い、逃げるように家を出た。
 

 玄関先に腰を下ろし、冷たい黄昏時の風に身を晒す。
 隣に立つ忠犬は相変わらず一言も発せず、闇に溶け込む影のように俺の傍らにいた。

 それがどことなく、こいつの優しさなんだろうと感じた。

「……俺は、間違ってるんだろうな」

 吐息のように、言葉が零れた。答など期待していない。ただ、音にして吐き出さなければ、心臓が止まりそうだった。

「妻を救うために金を稼いだ。汚れた手も、血を流すのも、全部正しいと思い込んでいた。
 だが……結局、何も救えなかった。それどころか、あいつに『安らかに逝かせて』なんて言わせてしまった」

 拳を握り締め、地面を見下ろす。

「今の俺は、あいつを救っているんじゃない。自分がこれ以上、あいつの苦しむ顔を見たくないから、お前を使って終わらせようとしているだけだ。
 ……安楽死なんて言葉で着飾った、ただの逃げだ」

 忠犬は何も答えない。
 ただ静かに、俺の独白を夜の闇と一緒に飲み込んでいた。

 

 約束の時刻が近づく。
 俺はすぐに立ち上がれなかった。
 震える足で無理やり立って、忠犬に背を向け、一歩、また一歩と家から遠ざかる。

 「……頼んだぞ」

 そう言い残し、俺は夜の林道をあてもなく歩き続けた。道なき道を行き、帰り道すらもわからなくなった。

 だが、数百メートルも行かないうちに、俺の足は止まった。
 頭の中の「仲介人」が、冷徹な理屈を並べるのをやめ、一人の「男」が悲鳴を上げたのだ。


 
 ――本当に、これでいいのか?

 俺は家へと駆け戻った。
 なぜなのかはわからなかった。ただ行かねばという衝動だけがあった。
 ひたすら走り、森の悪路を突っ切る。枝に引っ掻かれ、顔から血が流れた。
 
 息は切れ、血まみれで、なんてザマだ。
 冷徹な蝿の仲介人が聞いて呆れる。

 だが、もうそんなことはどうでもよかった。
 
 なりふり構わず玄関を開けた。
 階段を駆け上がり、病室の扉を勢いよく開ける。

 ベッドの傍らに、黒いフードの影が立っていた。
 刃はまだ、抜かれていない、ように見えた。
 俺は黒い影に懇願した。

「殺さないでくれ……!!」

 依頼を仲介した張本人が、自らその契約を棄却しようとしていた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

敵に貞操を奪われて癒しの力を失うはずだった聖女ですが、なぜか前より漲っています

藤谷 要
恋愛
サルサン国の聖女たちは、隣国に征服される際に自国の王の命で殺されそうになった。ところが、侵略軍将帥のマトルヘル侯爵に助けられた。それから聖女たちは侵略国に仕えるようになったが、一か月後に筆頭聖女だったルミネラは命の恩人の侯爵へ嫁ぐように国王から命じられる。 結婚披露宴では、陛下に側妃として嫁いだ旧サルサン国王女が出席していたが、彼女は侯爵に腕を絡めて「陛下の手がつかなかったら一年後に妻にしてほしい」と頼んでいた。しかも、侯爵はその手を振り払いもしない。 聖女は愛のない交わりで神の加護を失うとされているので、当然白い結婚だと思っていたが、初夜に侯爵のメイアスから体の関係を迫られる。彼は命の恩人だったので、ルミネラはそのまま彼を受け入れた。 侯爵がかつての恋人に似ていたとはいえ、侯爵と孤児だった彼は全く別人。愛のない交わりだったので、当然力を失うと思っていたが、なぜか以前よりも力が漲っていた。 ※全11話 2万字程度の話です。

まなの秘密日記

到冠
大衆娯楽
胸の大きな〇学生の一日を描いた物語です。

彼の言いなりになってしまう私

守 秀斗
恋愛
マンションで同棲している山野井恭子(26才)と辻村弘(26才)。でも、最近、恭子は弘がやたら過激な行為をしてくると感じているのだが……。

セクスカリバーをヌキました!

ファンタジー
とある世界の森の奥地に真の勇者だけに抜けると言い伝えられている聖剣「セクスカリバー」が岩に刺さって存在していた。 国一番の剣士の少女ステラはセクスカリバーを抜くことに成功するが、セクスカリバーはステラの膣を鞘代わりにして収まってしまう。 ステラはセクスカリバーを抜けないまま武闘会に出場して……

性別交換ノート

廣瀬純七
ファンタジー
性別を交換できるノートを手に入れた高校生の山本渚の物語

処理中です...