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第十話 不履行
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「ここだ」
街の外れ、森の影に隠れるように建つ小さな家。 そこが、俺が「蝿」として吸い上げた血の対価で維持してきた、最後の聖域だった。
中には、妻が一人。ただ死を待つ静寂だけが横たわっている。
二階の病室に入った瞬間、生花の柔らかな香りが鼻を突いた。病院を模して整えさせたその部屋には、彼女が好んだ季節の花が絶えることなく生けられている。
ベッドの彼女は、頬が痩せこけ、出会った頃とは別人のようになっていた。
ヒュー、ヒューと漏れる苦しげな呼吸音。
執行の時刻は深夜。まだ夕暮れ時で、数時間ある。
このヒューヒューという呼吸音を聴き続けることは、俺の精神を確実に削り取っていくだろう。
「……外で待つ」
実行は深夜だ。まだ夕方で時間まである。
俺は忠犬を伴い、逃げるように家を出た。
玄関先に腰を下ろし、冷たい黄昏時の風に身を晒す。
隣に立つ忠犬は相変わらず一言も発せず、闇に溶け込む影のように俺の傍らにいた。
それがどことなく、こいつの優しさなんだろうと感じた。
「……俺は、間違ってるんだろうな」
吐息のように、言葉が零れた。答など期待していない。ただ、音にして吐き出さなければ、心臓が止まりそうだった。
「妻を救うために金を稼いだ。汚れた手も、血を流すのも、全部正しいと思い込んでいた。
だが……結局、何も救えなかった。それどころか、あいつに『安らかに逝かせて』なんて言わせてしまった」
拳を握り締め、地面を見下ろす。
「今の俺は、あいつを救っているんじゃない。自分がこれ以上、あいつの苦しむ顔を見たくないから、お前を使って終わらせようとしているだけだ。
……安楽死なんて言葉で着飾った、ただの逃げだ」
忠犬は何も答えない。
ただ静かに、俺の独白を夜の闇と一緒に飲み込んでいた。
約束の時刻が近づく。
俺はすぐに立ち上がれなかった。
震える足で無理やり立って、忠犬に背を向け、一歩、また一歩と家から遠ざかる。
「……頼んだぞ」
そう言い残し、俺は夜の林道をあてもなく歩き続けた。道なき道を行き、帰り道すらもわからなくなった。
だが、数百メートルも行かないうちに、俺の足は止まった。
頭の中の「仲介人」が、冷徹な理屈を並べるのをやめ、一人の「男」が悲鳴を上げたのだ。
――本当に、これでいいのか?
俺は家へと駆け戻った。
なぜなのかはわからなかった。ただ行かねばという衝動だけがあった。
ひたすら走り、森の悪路を突っ切る。枝に引っ掻かれ、顔から血が流れた。
息は切れ、血まみれで、なんてザマだ。
冷徹な蝿の仲介人が聞いて呆れる。
だが、もうそんなことはどうでもよかった。
なりふり構わず玄関を開けた。
階段を駆け上がり、病室の扉を勢いよく開ける。
ベッドの傍らに、黒いフードの影が立っていた。
刃はまだ、抜かれていない、ように見えた。
俺は黒い影に懇願した。
「殺さないでくれ……!!」
依頼を仲介した張本人が、自らその契約を棄却しようとしていた。
街の外れ、森の影に隠れるように建つ小さな家。 そこが、俺が「蝿」として吸い上げた血の対価で維持してきた、最後の聖域だった。
中には、妻が一人。ただ死を待つ静寂だけが横たわっている。
二階の病室に入った瞬間、生花の柔らかな香りが鼻を突いた。病院を模して整えさせたその部屋には、彼女が好んだ季節の花が絶えることなく生けられている。
ベッドの彼女は、頬が痩せこけ、出会った頃とは別人のようになっていた。
ヒュー、ヒューと漏れる苦しげな呼吸音。
執行の時刻は深夜。まだ夕暮れ時で、数時間ある。
このヒューヒューという呼吸音を聴き続けることは、俺の精神を確実に削り取っていくだろう。
「……外で待つ」
実行は深夜だ。まだ夕方で時間まである。
俺は忠犬を伴い、逃げるように家を出た。
玄関先に腰を下ろし、冷たい黄昏時の風に身を晒す。
隣に立つ忠犬は相変わらず一言も発せず、闇に溶け込む影のように俺の傍らにいた。
それがどことなく、こいつの優しさなんだろうと感じた。
「……俺は、間違ってるんだろうな」
吐息のように、言葉が零れた。答など期待していない。ただ、音にして吐き出さなければ、心臓が止まりそうだった。
「妻を救うために金を稼いだ。汚れた手も、血を流すのも、全部正しいと思い込んでいた。
だが……結局、何も救えなかった。それどころか、あいつに『安らかに逝かせて』なんて言わせてしまった」
拳を握り締め、地面を見下ろす。
「今の俺は、あいつを救っているんじゃない。自分がこれ以上、あいつの苦しむ顔を見たくないから、お前を使って終わらせようとしているだけだ。
……安楽死なんて言葉で着飾った、ただの逃げだ」
忠犬は何も答えない。
ただ静かに、俺の独白を夜の闇と一緒に飲み込んでいた。
約束の時刻が近づく。
俺はすぐに立ち上がれなかった。
震える足で無理やり立って、忠犬に背を向け、一歩、また一歩と家から遠ざかる。
「……頼んだぞ」
そう言い残し、俺は夜の林道をあてもなく歩き続けた。道なき道を行き、帰り道すらもわからなくなった。
だが、数百メートルも行かないうちに、俺の足は止まった。
頭の中の「仲介人」が、冷徹な理屈を並べるのをやめ、一人の「男」が悲鳴を上げたのだ。
――本当に、これでいいのか?
俺は家へと駆け戻った。
なぜなのかはわからなかった。ただ行かねばという衝動だけがあった。
ひたすら走り、森の悪路を突っ切る。枝に引っ掻かれ、顔から血が流れた。
息は切れ、血まみれで、なんてザマだ。
冷徹な蝿の仲介人が聞いて呆れる。
だが、もうそんなことはどうでもよかった。
なりふり構わず玄関を開けた。
階段を駆け上がり、病室の扉を勢いよく開ける。
ベッドの傍らに、黒いフードの影が立っていた。
刃はまだ、抜かれていない、ように見えた。
俺は黒い影に懇願した。
「殺さないでくれ……!!」
依頼を仲介した張本人が、自らその契約を棄却しようとしていた。
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