イシュラヴァール放浪記

道化の桃

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第二章 娼館編

8 王都

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 夕日に染まる海を、ファーリアは初めて見た。
 港町レーから王都ララ=アルサーシャへは広い街道が整備されている。アルサーシャで消費されるものの多くが、海路を経てレーに陸揚げされ、また近郊で生産された作物や製品もレーを通過して船で国内外の各地に運ばれていく。ファーリアは舗装された道路も初めて見た。
 ファーリアを乗せた荷馬車は、ごとごとと小さく揺れながらその道を進んでいく。
 ファーリアを買ったのは三十歳くらいの男だ。身なりはいいが、ちょっとした仕草や目つきにそこはかとなく野蛮さを滲ませている。整った顔に刻まれたひとすじの傷痕のせいかもしれない。
 レーを夕刻に出発し、アルサーシャに着く頃には日が暮れていた。
 この地域の都市には特に外郭などはなく、都市の繁栄と共にその範囲も拡大していく。従って「ここからララ=アルサーシャ」という明確な標はないが、初めて訪れたファーリアにもアルサーシャに着いたことはわかった。それまで街道沿いにぽつり、ぽつりと家があるだけであとは荒野が広がっているだけだったのが、明らかに風景が一変し、道が複雑に交差して、すべての道沿いに隙間を埋め尽くすようにして家々が立ち並んでいる。更に、都市の中心部に進むに従って商店や飲食店、集合住宅のような大きな建物が増えていく。
 ファーリアは、これほど大きな街を見たのは初めてだった。
 生まれ育ったジャヤトリアの街は、ひと目で街の端から端まで見渡せてしまうほどだった。大通りは一本で、家々も離れて建っていた。高台にある辺境伯の屋敷はさすがに広大な敷地を有していたが、そこから見下ろす街はいかにも砂漠の真ん中に家々が寄せ集まっている心許こころもと無さがあった。
 何より行き交う人や馬の数が違う。アルサーシャでは、広い道も狭い道もひっきりなしに人や馬車が行き交っている。歩く速さも田舎町のそれとは全く異なり、こころなしか人々の会話も早口に聞こえる。以前ユーリと共に行った市場も人でごった返していたが、それが何倍、何十倍という規模で広がっている。
 そんな街の様子にファーリアが圧倒されていると、突然ごっとんと荷馬車が止まった。
 辺りを見回すと、道をゆく他の馬車も止まっている。喧騒に包まれていた大通りの遥か先から、さわさわと、静けさがさざ波のように伝わってくる。早口の会話の代わりに、囁き声が交わされる。
「国王だ」
 男は馬から降りて、荷車の後部を開けた。
「降りろ」
 ファーリアは逃げられないよう足枷をつけられていたので、男がファーリアを抱き下ろした。男に促されるままこうべを垂れる。男も、ファーリアの腕を掴んだまま頭を垂れた。
 道の中央をあけて、人々が皆立ち止まって頭を垂れている。中には地面に跪いている者もいるが、その身なりからどうやら奴隷身分の者たちのようだ。
 やがて道の先から、カッカッカッと小気味良い音を響かせながら金色の馬車が走ってきた。美しく飾り立てられた一頭の馬に先導され、馬車の後ろにも六頭のこれまた美しい毛艶の黒馬に跨った騎士たちが付き従っている。
 馬車にはきらびやかな装飾が施され、塗り上げられた眩い金色が内装の赤い天鵞絨と相まって、この上ない華やかさを振りまいている。馬車を牽く二頭の白馬も赤い房飾りに彩られて、誇らしげに首を反らせて駆けてゆく。
 馬車の中にいるであろう国王の姿は、俯いたファーリアからは見えなかった。
 金色に光る一陣の風が通り過ぎると、通りはあっという間に元の雑踏に戻っていた。
 やがて荷馬車は、美しい彫刻で外壁を飾り立てた屋敷の前で止まった。
 入口の脇に小さな看板がついていて、『夜の兎』と書いてある。
 中から出迎えた女もまた美しく着飾っていた。艷やかな黒髪を優雅にまとめ、まるで貴婦人のような風情だが、濃い化粧に縁取られた眼差しや口元の僅かな動きに商売女の雰囲気が漂う。どことなく世間擦れしたような、媚びるような。
「お帰り、イドリス。遅かったじゃないの。もう店が始まっちゃってるわよ」
「悪いなマリア。道が混んでたんだ」
「あら、一人だけかい?二人くらい買ってくるって話じゃなかったかしら」
「そいつに全部つぎ込んじまったから、もうひとり買う金がなかったんだよ」
「へえ」
 マリア、と呼ばれた女は眼を丸くした。荷車の上のファーリアをじろじろと眺める。
「ライラだ。十七歳……くらい。20万で買った」
「ふうん――まあ、顔はいいけどね。20万も払った価値があるのかしら」
「それはお前の仕込み次第だろ」
「ちょっと、無責任ねぇ。どうでもいいけど鎖を外しとくれ。客もいるってのに、見苦しいったら」
 マリアに言われて、イドリスはファーリアの足枷を外す。
「俺の勘は外れねぇよ。こいつは使い方次第ではかなり稼いでくれるはずだぜ」
 イドリスはファーリアを荷馬車から下ろすと、馬車から外した馬を連れて行ってしまった。
「勘ねぇ……ま、いいや。ついといで」
 屋敷は高い塀で囲まれ、広い庭には大きな葉の熱帯植物が生い茂っている。
 庭を過ぎると、ギリシャ風の柱が並んだ柱廊がある。柱廊に上がる階段や、大きくくり抜かれた飾り窓には、娼婦たちが気怠そうに腰掛けて、爪を磨いたり楽器を爪弾いたりしている。既に幾人かは、葡萄酒の入った酒盃を手に、客と語らっている。
 柱廊の先は室内に繋がり、中は入り組んだ酒場のようになっている。そこここに小さな卓と椅子が置かれ、娼婦と客が酒盃を傾けて談笑している。恐らくホールのように広い空間なのだろうが、壁や柱、垂幕などであちこち仕切られて、広く見渡せないようになっている。
「顔を知られたくないお客もいるからね。馴染みがいないおんなはここでお客と会って、話がついたら階上うえで客を取るんだよ」
 つまり、馴染客がいない娼婦は一階や庭で客を待つ。そして馴染みの娼婦がいない客は、そういう娼婦を選んで床入りするという仕組みだ。
 マリアは一階をぐるりと一周すると、二階への階段を登った。
「こっちが個室になっていてね。あんたの部屋は、ここ」
 階段を登ってすぐの部屋へ、マリアはファーリアを通した。
 部屋には大きな寝台がひとつと鏡台がひとつ置かれていた。寝台には肌触りのいい布が敷かれ、天井から透けるような薄い天蓋が下がっている。
 明かり取りの小さな窓には鉄格子が嵌まっている。この窓から逃げ出すことはできないようだ。
「やることは分かってるね?」
「……」
「あんたね、さっきから一言も喋らないけど、まさか口がきけないわけじゃないだろうね?」
 マリアは少し苛立って言った。
「喋れる。ここでやることもわかる」
 ファーリアは簡潔に答えた。よくわかっていた。ここで自分は男と寝るのだ。そのために買われたのだ。
 騙される方が悪いとはよく言ったものだ。どこまで行っても、結局何も変わらない。自由になんてなれない。
 逃げ出したはずの境遇が、どこまでも追いかけてくる。
 くらい眼をしたファーリアを見遣って、マリアは溜息をついた。
「いいかい?このあたりの娼館は100ラーナから300ラーナが相場だけどね。うちは一人最低500ラーナ取る。一晩に何人客を取ってもいい。もし客がチップをくれたら、それは自分のものにしていい。自分のために使ってもいいし、うちに借金を返してもいい。ひと晩朝までおんなを独占して3000ラーナ払う客もいる。あんたがうちに返さなきゃならない金は買取金額の20万ラーナ。これはひと月ごとに1000ラーナずつ増える。利子とあんたを養うための金だ。それさえ返したら、あんたはここを出られる」
「出られる……?」
 ファーリアは初めて、マリアの顔をまっすぐに見た。
「そうさ。今は奴隷と同等だけど、出る時は戸籍が用意される。住む場所も借りられるし、仕事も探せる。ここで貯めた金で商売を始める女もいるよ」
 出られる。
 それだけではない。奴隷ではなくなる。
「……マリア、わたしに計算を教えてくれないか?」
「……は?」
 唐突な頼みにマリアは面食らった。つい先程まで死人のように表情がなかったファーリアの顔に、小さな希望の光が宿っていた。
「わたしはお金を数えたことがない。だから教えてほしい」
「……ええ、わかったわ」
 マリアはこのぶっきらぼうな話し方をする娘に興味を持った。
「あんた、ライラだっけ?とにかく今日は休みなさい。明日から客をとってもらうから」
 マリアはそう言うと、部屋から出ていった。
(ライラ……?)
 そういえば、競り市の時からライラと呼ばれていた。
(タリムがつけたのだろうか)
 結局、タリムには本当の名前を言わずじまいだったことに、ファーリアはこの時になって気付いた。
(……ファーリアとは名乗れない……)
 どこで追手に知れるかわからない。
(……わたしの新しい名は、ライラ……)

   *****

 ララ=アルサーシャの北側の地域は古く重厚な建物が整然と連なり、市民でごった返す商業地とは趣を異にしている。
 道行く人々は通りに立ち並ぶ役所に勤める役人が大半で、身なりも似通っている。交わされる会話も堅苦しい。道には塵芥ひとつ落ちておらず、定規で線を引いたような町並みが続いている。
 その大通りを二頭立ての金の馬車が駆け抜ける。馬車はそのまま突き当たりの宮殿へと入っていく。広い門を通り抜ける時、左右に立った衛兵が槍を構えて見事な敬礼を行った。
 馬車の中では男が一人、退屈そうに書類の束を眺めていたが、ぽいとそれを放り出すと、つ、と手を挙げて合図した。
 馬車の後ろに付き従っていた黒馬の一頭が前に進み出る。
 丁度馬車の窓の横に並んだところで、中の男が言った。
「思いのほか帰りが遅くなった。妃たちとの晩餐には出ずに部屋で食事を摂ろうと思う。そのように手配しろ。妃たちには好きに楽しむよう伝えておけ」
「は」
 黒馬の騎士が答える。
「お前も付き合えよ、シハーブ」
「御意」
 騎士は馬上で一礼すると、馬車に先立って宮殿へと駆けていった。
 車中の男は星が瞬き始めた夜空に目をやった。青みがかった光沢を放つ長い銀髪はゆるく波打って、宵の風に物憂げになびいている。
 切れるように整った面差しと空色の瞳を持つこの男こそ、イシュラヴァール王国の第八代国王マルス=ミカ・ナミル・ジュディード・イシュラヴァールその人である。
 僅か十歳で即位してから既に二十五年。若い頃は優れた戦将として数々の戦果を上げ、イシュラヴァールの軍神王と呼ばれ恐れられていた。壮年期に差し掛かり国土拡大の勢いは衰えたが、周辺国との外交に注力して貿易を活発化させ、豊かで成熟した国家へと導いている。
「退屈だ」
 開口一番、王は言い放った。
 宮殿の中庭に突き出すように建てられた円形の一室。ドーム型の天井には星座がぎっしりと描きこまれている。通称、「星の間」。ひとつひとつの星は大小の宝石がはめ込まれ、贅沢に輝く星空を演出している。
 だがこの部屋の役割はただ人工の星空を眺めることではない。
 夜空と対を成すように、円い床に描かれた世界地図。歴代の王たちが、腹心の将と、あるいは信頼する賢妃と、あるいは一人で、盃を傾けながら周辺国の情勢を吟味し、戦の次の一手を思索するための場所。それが「星の間」の真髄である。
「退屈だ」
 その床を見下ろして、王は再び言った。ゆったりとした長椅子に長い脚を投げ出し、時折、傍らに控える小姓の持つ盆から料理を口に運んでいる。
「良い傾向ですな」
 床に座したシハーブが言った。真っ白いターバンと長衣が褐色の肌によく似合っている。シハーブのための料理は傍らに置かれた皿に盛られている。水差しを持った小姓が席を回って酒を注ぎに来る。
「戦将が暇なのは平和な証拠」
「僕は陛下が戦いたいとおっしゃるなら喜んでお供しますよ」
 明るい声がして、庭から金髪碧眼の青年が現れた。
「スカイ、遅かったな」
 王が小姓に合図すると、すぐに青年のための敷物と料理が用意された。
「生徒の剣技の出来が悪くて、居残りしてたんですよ」
 青年は料理をつまみあげて口に放り込むと、盃を手にして庭に続く階段に座った。
「スカイの居残りはきつそうだなぁ。マルス様、こいつ士官学校では冷血鬼と呼ばれているらしいですよ」
「私の兵が強くなるのは大歓迎だ。ぜひスカイには鬼に徹してもらおう」
 王はくすくすと笑う。
「――兵の出番をお考えですか?」
 シハーブが笑みを消して言った。
「平和か……」
 王は微笑する。視線は床を眺めたままだ。
 シハーブとスカイがその視線の先を追った。
「平和もいいが、少し飽いたな……」
「……滅多なことを」
 シハーブが低くたしなめる。王の視線の先。そこには。
「――テビウス?」
 スカイが先に口を開いた。テビウスはレーの先に広がる海に突き出した半島の先端の町で、古くから貿易の要衝として栄えてきた。テビウスを擁する半島国家リアラベルデは、小国ながらもテビウスから得られる富と税で、周辺の大国に脅かされない強固な地位を築いていた。
「いや、」
 シハーブは床の上で視線を滑らせた。それから王の顔を見て低く言った。
 リアラベルデの、更に先。
 険しい山脈が連なり、今なお噴煙を上げ続ける活火山がある。
 その山の向こうには大国のシャルナク帝国が控えている。
「……マルス様、それは俄には賛成いたしかねますな」
「お前ならそう云うと思ったよ、シハーブ」
 王はつまらなそうに溜め息をついた。

「マルス様はいずれ帝国に攻め入るおつもりだ」
「星の間」を退出したシハーブとスカイは、中庭を通って自室へと向かっていた。
「シハーブ様、反対してたじゃないですか」
「俺が反対したくらいで諦めると思うか?奴が」
「奴、って」
 スカイはくすくすと笑う。
 王の乳兄弟でもあり、腹心の部下でもあるこの男は、時折こういう物言いをする。それは決して主君を軽んじているわけではないことを、側近たちは皆知っている。
「まあ僕はせいぜいその時に備えて兵の鍛錬に勤しむことにしますよ」
「ああ、頭が痛いぜ。あいつの先に立って道をならすのは誰だと思っているんだ」
「信頼されてて羨ましいですよ」
 スカイはまだ二十歳を少し出たところだが、その能力を買われて近衛兵に抜擢された。士官学校では常に最優秀の成績を収め、卒業してからは師範を務めている。
「さて、シハーブ様はお部屋に戻られますよね?僕、ちょっと街で遊んできます」
 通用口のそばまで来ると、スカイはそう言って一礼した。
「今からか?若いなぁ」
 軽やかな足取りで門を出ていくスカイを、シハーブは呆れ顔で見送った。
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